サラリーマン野宿旅
サラリーマンのちょっと一言
 
 
小学校の同級生が死んだ
 
 
 
 
 
 我々の様に40歳代半ばにもなると、幼い頃の同級生の全員が全員、無事に生き延びているとは限らない。日本人の平均寿命をまだ30年も残し、不幸にして事故や病気などで亡くなる者も居る。
 
 しかし、彼の場合は普通ではなかった。死の床にそのまま6ヶ月もの間、横たえていたのだ。近所の者から悪臭がするとの訴えで、警察が動いて発見された。
 同じ家には年老いて病身の親も暮らしていた。別居していたが、彼には2人の兄も居たはずだ。一体、彼の家庭にどんなことが起こっていたのか、いろいろな憶測が流れた。いわく、食事にも困るほど生活が逼迫していた。死んでも葬儀を出す金もなかった。口減らしされた。しかし、噂話からでは真相は分からずじまいだった。
 
 
   彼とは小学校で同じクラスだった。互いの家も学年の中で一番近かった。特別仲が良かった訳ではないが、お互い遊びたい盛りの子供である。近所の年少の子供たち共々、彼とはよく遊んだ。その頃はまだ家の周囲には畑や田んぼ、川や池、草の生い茂った空き地などが多く、外での遊び場所には事欠かなかった。泥だらけになってあちこち走り回った。
 彼は背が低いが肩幅の広いがっちりした体格をして、子供ながら腕力も凄かった。ひょろひょろと痩せこけた私は、外の遊びで彼に勝てることはなかった。
 学校では、勉強の方は芳しくなかったが、陸上競技は彼の独壇場だった。代わって水泳はおかしなくらいダメで、完全なカナヅチであった。普段スポーツ万能な彼が、プールでは溺れるようにしていた姿が目に浮かぶ。
 怒ると顔が真っ赤になった。それを皆に「赤ザル」などとからかわれ、尚更顔を真っ赤にしていた。でも、人に手を挙げたことは見たことがない。
 
 ある時、いつもの近所の遊び仲間と、ドッジボールをしていた。その最中、私は涙を流して家に走って帰った。当時まだ珍しかったコンタクトレンズをはめていて、土埃が目に入ったと言い訳した。コンタクトレンズのことを知っていた彼は、私をかばうように皆に向かって「大変なんだぞ」と言ってくれた。実は私はボールを当てられて、悔しくて泣いてしまい、その言い訳にコンタクトレンズのことを持ち出したのだった。
 またある体育の時間に、私は病気を理由に見学にまわった。それ程体調は悪くなかったが、運動の苦手な私は体育が嫌いだったのだ。運動する皆とはやや離れて、校庭の隅に立っていた。でも、あまり暇なので、片足ケンケンなど始めてしまった。それを彼に見付けられ、そんなことができるなら、体育をやれと怒鳴られた。
 彼は「鈍」だが正義感が強い、真っ直ぐな奴だった。代わって私は姑息な小利口であった。
 
 
 
 
 彼とは中学も同じ学校へと進んだが、クラスが分かれた。それに、いつまでも無邪気に外で遊んでいるような子供ではいられない。それぞれの趣味や志向が異なれば、付き合う仲間もまた違ってくる。それぞれ別々の友人の輪の中へと入って行った。それ以来、彼とは疎遠になった。
 
 中学を出てからの彼については、直接に知ることは何もない。ただ人づてに、ずっと働いていないこと聞いていた。部屋に閉じこもり、滅多に家を出なかった。いわゆる「引きこもり」と言っていいのかもしれない。たまに、頭髪やひげを伸び放題に伸ばした姿が、町中で見掛けられたそうだ。その様相はぞっとしなかったらしい。

 学校を卒業した後の彼に、どんな世間が待っていたのかは、想像するより他はない。何か辛いことがあったのだろうか。3人兄弟の末っ子で甘やかされて育ったこともあるのかもしれない。それにしても、もう少しまともな暮らしはできなかったのか。あれだけ丈夫な体をしていたのだから、失礼な話し、道路工夫をやってでも幾ばくかの収入は得られた筈なのに。

 
 
 
 
 しかし、人のことなどとやかく言う資格は私にはなかった。たまたま、立派に暮らしを立てる両親の元に生まれ、何不自由のない家庭に育った。彼より運が少し良かっただけのことだ。現在も一見まともに会社勤めをしている様に見えるが、いまだ独身で、やはり世間から逃避しているところがある。学生時代の知り合いで、現在も交際がある者は誰もいない。親類との付き合いも苦手である。
 彼より私の方がずっと弱い人間かもしれないのだ。私が彼の状況に置かれたら、それこそどうなっていたか分からない。彼にはあのような人生を歩むしかなかった。あのような最後を選ぶ以外に方法はなかったのだとしか、私には言えない。
 
 人として生まれてきて、彼には楽しいことがあったのだろうかと悔やまれる。それに、魂が行った後、尚も6ヶ月という長い間、肉体が朽ち果てて行くのを待たなければならなかったとは、哀れで仕方がない。
 町で大人になった彼の姿を見掛けたことがなく、その点今回の事件に関して、生々しさがあまりないのはよかった。私には小学校時代に遊んだ屈託のない彼の姿だけが記憶に残った。今はただ、冥福を祈るのみだ。
 
 
 
 
 中学3年の時だったか、もう疎遠になった彼とまた話しをする機会があった。小学校の同窓会の幹事役が回ってきて、彼も同じ幹事の1人だった。小学校時代の担任の教師に、同窓会の相談をしに行くことになったが、彼は遅れて行くと言う。当時人気のお笑い番組であった「笑点」を見なければならないというのがその理由である。彼は毎週欠かさず見ているのだからと強調した。中学生にもなって、おかしな奴だとみんなで笑った。
 
 「笑点」の目玉である「大切り」は司会者が代わったが、今でも長寿番組として続いている。大人になった彼は、自分の部屋に閉じこもりながらも、「笑点」を見続けていたのであろうか。すさんだ彼の気持ちが一時でも和むことがあったのなら、それは幸いであった。
<掲載 2002. 1.21>
 
 
 
 
 
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