サラリーマンのちょっと一言
 
父の病
 
 
 
 
 
 会社から帰り、夕食の膳につくと、テーブルの反対側に座る父の喋る舌がもつれた。いつもの様に母が作った夕食に不平を言おうとしているようなのだが、ろれつが回らない。自分でも嫌気が差したのか、それきり父は黙り込み、ただ食事を黙々と口に運んだ。父の顔は苦痛にゆがんでいた。
 
 父はこのところ風邪をひいて、たんが詰まったり、ひどく咳き込んだりしたりしていたが、明らかに事態は急変をきたしたようだ。翌日父は入院した。脳梗塞と診断された。幸い言葉がうまく話せないこと以外は、手足の痺れなどなく、CTスキャンの検査でも脳に僅かな影が認められるだけだった。私は会社があるので、入院は母が付き添った。
 
 私が病室の父を最初に見舞うことになったのは、入院から2日後の土曜日となった。母と一緒にいろいろな荷物を詰め込んだ紙袋を両手に下げ、大きな病院の中を父の病室に向かう足取りは重たかった。父がどれほどのショックを受けているか、心配だったからである。
 
 
   私は40歳代半ばで、怒ったときは大きく思考が乱れるが、それ以外は極めて正常な判断ができていると思っている。物事を正しく見て、聞いて、考えられる。それが父の様に70歳代半ばになったら、一体どうなるのだろうか。老人の思考能力がどんなものなのか分からない。父は日頃からもう余命は少ないというようなことを冗談半分に言っている。人は歳を重なると、悟りのようなものが会得できるのだろうか。その悟りが自分に起った不幸も、甘受できるようにしてくれるのだろうか。それとも、ある程度の頭の「ボケ」が、いい意味で物事を深刻に受け止めずに済むようにしてくれるのだろうか。
 
 しかし、それまで普通に喋れていたのが、ある時急に自分の舌が自由に動かなくなれば、これは老人だろうが誰だろうが、相当な衝撃には違いない筈だ。そんな父にどう向き合ったらいいか見当がつかない。
 
 母の案内で父がベッドに横たわる部屋に入る。病室という普段の生活とは別世界の空間に、いつもと変わらぬ父が居た。元々耳が遠く、人の話しがほとんど聞こえない父は、相手かまわず自分の喋りたいことだけをずけずけと話す。舌は相変わらずもつれるが、そんなこともお構いなしである。折角持ってきた飲み物や母が用意した食事のおかずも、嫌いなものはその場で持って帰れと言う。丁度、昼食時間が近く、やたらと食事の文句が多い。濃い味が好きな父は、薄味の病院食が苦手なのだ。
 
 すると、小さなメモを渡してきた。それによると、今度来るときには鰹節と味のりを持参しなければいけないようだ。また、数冊の雑誌の名前と発売日、おまけにその雑誌が必ず売っている書店の名前も書いてある。父は普段から言うことすることがはっきりしている。曖昧な点がない。それは全く変わっていなかった。
 
 
 
 
 母が父からああだこうだとうるさく指図されながら、ベッドの横の戸棚を片付けていると、ハンカチで隠された海苔の佃煮が出てきた。病院の売店で買ったようだ。脳梗塞の患者にとって塩分は毒である。これは看護婦に見つかると怒られるから、こうして隠しておけと先生に言われたと、どこまで本気でどこから冗談なのか分からないことを真顔で言う。昼食時間になったことがアナウンスされると、食堂は婆あばかりで詰まらない、部屋で食べるから食事を持って来いと言う。自分も同じ歳のくせにと笑いながら母が食事を取りに行く。
 
 母と私も買ってきた弁当を父と一緒に病室で食べることにした。父は文句をいいながら相変わらずせわしない食事である。こちらがまだ終わらない内に自分だけ食事を済ませ、ベッドから立ち上がると、目の前の洗面所で歯を磨きだした。おしまいに入れ歯を外すと、私がさっきまでジュースを飲んでいたコップに入れて、それに水を注ぎ、うがいを始めた。こちらはもう食事などする気がなくなった。  
 
 
 
 帰り際に母が荷物の整理をする間、外来患者の受け付けを終えてひと気が少なくなった一階の大きなロビーのソファーで、父と二人で暫く居る時間があった。父は私の方をしっかり向いて、いろいろと話す。いま話題の人、藤井総裁の退職金が2千数百万円で、首になればそれがもらえないんだとか、官僚がいかに儲かるかとか、父の所有する古くなった貸家の解体費用の相場がいくらだとか、解体費用を値切るとヤクザの業者に仕事が流れ、不法投棄されると依頼者の責任になるんだとか、近くに住み着く土建業者はヤクザで、騒音ばかり出してるが、昔から居るので、後から来た周辺住民は文句を言えないんだとか、貸家の解体で出たコンクリートはこれくらい細かく砕いて道路の舗装に使えるが、プラスチックや鉄のパイプは処分に困るんだとか、ダイオキシンが発生しない廃材の焼却温度は太陽の表面温度にほぼ等しいとか、脈絡のない話しが止めどなく続く。時折、父は片手を口の辺りに持っていき、内緒話をしているそぶりを見せるのだが、父のろれつの回らない話しは、広いロビーに響き渡っていた。近くに座る中年女性は、あきれた顔でこちらを見ている。父の話しに返事をするには、その内緒話より更に大きな声を出さなければならないので、私はただただうなづくばかりだった。
 
 父は人の話しが聞こえないくせに、誰かれかまわず話し掛ける。母の話しでは、今は看護婦がその標的になっているらしい。しかし、リハビリには好都合である。こうして、父の話し相手になるのも親孝行かと思った。しかし、さすがにウンザリしてくる。時計が気になりだした頃、やっと母が帰り支度を終えて病室から降りて来た。別れ際、母が貸家の解体作業が始まったらしいと話していたことを思い出し、帰りに様子を見て行け、3時に電話すると言う。  
 
 
 
 父の話しは、切り口がかなり独断的で、やたらに実利的な面に偏っているふしがあるが、論理的な間違いはない。かえって話しの内容は私より豊富なくらいである。それに、記憶も確かで実生活上の対応も十分だ。70歳半ばの頭も捨てたものではなかった。
 
 しかし、老人ボケしたところがない一方、自分の身に起きた異変をさほどのショックもなく受け入れることができるような悟りらしいものも、父には全く感じられない。今回の突然の不幸を跳ね返したのは、父が持つ自前の性格によるらしかった。父があの夕食時に見せた苦痛の表情は、自分の舌に起った異変を気に病んだのではなかった。ただ単に、母が作った食事が気に食わなかっただけのようだ。そんな父には、もう少し長生きして欲しいと思う。
 
<2003.10.22>
 
 
 
 
 
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