サラリーマンのちょっと一言
 
社員食堂で思うこと
 
 
 
 
 
 今勤めている会社は、製造業を営む中堅企業で、勤務先の本社事業所には500名前後の従業員が通ってきている。昼食は弁当を持参する者もいるが、近くにレストランなどの店がないことから、大抵は会社内にある社員食堂を利用する。安っぽいパイプ式のテーブルと椅子がずらりと並んだ大きな食堂に、昼時ともなると作業服を着た社員が次々と押しかける。そしていつもと変り映えのしない食事を淡々と口に運ぶ。食堂内は人の話し声や立ち歩く靴音、椅子を動かす音、食器がぶつかる音などで溢れ返り、騒然とした雰囲気だ。少なくとも静かにゆったりと食事を堪能するという状況ではない。誰もがさっさと食事を済ませると、直ぐに自分の職場に引上げて行く。  
 
   こんな昼時の風景は日本のどこでも見られることだろう。何度か転職を経験し、また仕事でいろいろな会社に出掛ける機会があり、いろいろな職場の食堂を見てきた。そのたびにどこも同じ様なものだと思った。中には大都会のオフィスなどで時折見られるように、リッチな食事を優雅に楽しんでいる職場もあるが、それはそれなりにお金が掛かっている。食事に贅沢をする気はないので、大きな規模で流れ作業的に処理される味気ない社員食堂でも、毎日きちっと食べられるだけで十分だと思っている。
 
 ところで、考えてみれば不思議な感じがする。現在勤めている会社は、工業機械を製造・販売していて、自分の職務もそうした機械の研究・開発である。それによって給料をもらい、社員食堂の支払いもそれでまかなっている。会社は直接食料を生産している訳ではなのに、社会の仕組みが巡り巡って、こうして食べるという動物の生存に最も重要な行為にもつながっている。
 
 自分もその想像もできない巨大で複雑なシステムの中に組み入れられているのだと思う。その歯車がちょっと狂っただけで、大変なことになる。現実問題、ご同業のサラリーマン諸兄の中には倒産やリストラの憂き目に遭って、困窮している人もいる。自分の目の前にある具体的な仕事ならいくらでも頑張りようがあるのだが、社会全体の仕組みとなると、どうにも手が出ない。政治がある程度コントロールしているのだろうが、自由経済が隆盛の現代、全てをうまく制御できる訳がない。大きな破綻ではなくとも、部分的な歪はいくらでも出て来ることだろう。特に現代の経済活動は世界規模となっている。どこか見知らぬ国の事情が日本の片隅にも及ぶ時代である。
 
 
   そんなことを会社の食堂でふと思う。この十年以上も続けていて、当たり前となっている社員食堂での昼食。目の前の食べなれた定食から顔を上げて見渡せば、いつもと変わらぬ有り触れた昼食の風景だ。一見、平穏無事に見えていて、実は何だか危ういことのような気がしてくる。一歩間違えれば、あの粉っぽいラーメン250円や辛いだけのカレー300円も口に入れられなくなるかもしれない。下膳のお盆と食券を持って、支払の列に並んでいると、世間の流れ、時代の流れに、ただただしがみついているだけのちっぽけな存在に、自分が思えてくる。
 
<2006. 6.17>
 
 
 
 
 
サラリーマンのちょっと一言