サラリーマンのちょっと一言
 
山が邪魔
 
 
 

 
 
 ホ−ムページ「峠と 旅」のある項で、富士を眺めるのにある山が「邪魔をする」と書いた。すると、「山が邪魔だとはいい加減にしろ、山は歩く所だ」と抗議する者が居た。
 
 私は不意なことで驚いた。地形的な位置関係でその山が視界をさえぎるという意味で「邪魔をする」という表現を使ったのであり、本当にその山が邪魔な存在 であるという積もりは微塵もなかった。同時に、「山は歩く所」などいう軽薄な考えも持ち合わせてはいない。
 
 
   「山」と私との関係 は、私が0歳の時に始まる。当然、私自身には記憶がなく、物心が付いた後に人から聞いた話だ。
 
 まだ二十歳代だった父は、赤ん坊の私を抱いて薪山に行った。「薪山」(まきやま)とは固有名詞ではなく、主に薪を採る為に用いる山のことである。父の実 家の裏に続く山が、その家系が代々維持してきた薪山になっていた。そして、「薪山に行く」とは、山に入って薪にする木を切り出す作業をすることを意味す る。
 
 山に入って一人でする山仕事は孤独で寂しい。父は、私の子守半分、自分の慰め半分に、父が切り倒した木の切り株に、生まれて間もない私をちょこんと乗 せ、その横で日がな一日、鋸を挽いた。
 
 私が幼い頃、父の実 家にはまだ囲炉裏があり、土間の片隅には煮炊きするかまどがあり、土間に続く小さな小屋には石造りの五右衛門風呂があった。それらに使う薪は全て自分達の 手により裏山から調達していた。私が5歳くらいになる頃には、冬の暖を取る囲炉裏は石油ストーブに変わり、かまどはガスレンジに変わったが、風呂は相変わ らず薪に頼っていた。
 
 実家から分家した父が最初に建てた家も、風呂は薪で焚いた。風呂を沸かすのは子供の仕事であった。薪が湿っていた時などは、焚き付けには苦労した。その 時使った薪も、相変わらず父が会社勤めの側、暇を見付けて薪山に行って用意してくれていた物だ。子供の私も、手に余るほど大きな鋸を挽き、持ち上げるだけ でも重い斧を振り下ろして、薪造りを手伝った経験がある。
 
 
   私にとって、「山」 はもっと実生活に密着した存在だった。実家の裏山では竹の子も採れたし、家屋などの木材として使う木も切り出したことがある。
 
 実体験はないが、山では本格的な林業を営む人もあるだろうし、シイタケ栽培などが行われているのも目にする。山は生活をする場、生活の糧を得る場という 認識が、幼い私に埋め込まれた。
 
 私が10歳前後の頃、薪で焚く風呂がある家から立ち退くことになり、その後は都市ガスに依存することなった。そして、薪山との関係は徐々に薄れていく。
 
 私と山との関係は、二十歳代から始めた山歩きで再び繋がる。低山ばかりだが、奥多摩や丹沢などの山をよく歩いた。しかし、山を歩く所などとは考えたこと はない。相変わらずと山は、そこで暮らしている人達の生活の場であるという認識である。その大事な土地をちょっとお邪魔して、歩かせてもらっているという 思いがあった。
 
 日本人には深く山と 関わってきた歴史がある。「山は歩く所だ」などと言う者は、マタギや木地師などのことを少しでも知っているのだろうか。日本の長い文化史の中で、マタギほ ど山を知り尽くしていた人達の集団は他にない。木地師は確か滋賀県辺りからの発祥だと思うが、その後地方に広がり、各地の山に住み付いてろくろを回す仕事 をした。それが山中に興った集落の元ともなったりした。
 
 今、マタギや木地師が居て、「山は歩く所だ」などと聞いたら、一体何のことかと不思議がることだろう。彼らにとって山は、自分たちの生活を支える大事な 仕事場である。
 
 
   「白砂青松」(はく させいしょう)とう言葉はもう死語だろうか。島国である日本は、その国土面積に比して長い海岸線を持つ。いろいろな様相を見せる海岸線の中で、白砂青松は 日本の代表的な海岸美を示す言葉であった。しかし、今は現物を見ることは稀である。昭和20年代位までに作られた映画、特に時代劇物にその白砂青松が見ら れて、嬉しくなることがある。東海道を進む参勤交代の列が、青い松と白い砂の海岸沿に差し掛かるシーンがあったりする。映画用のセットでもなければ勿論 CGなどではない。本物の白砂青松だ。
 
 山の話なのに何故海岸のことなど持ち出すのかと訝しがるかと思うが、その「白砂」を供給していた大元は山である。山の土砂が長い年月を経て沢や川を流れ 下り、河口から海に注がれ、潮の干満や波により海岸が形作られる。
 
 白砂青松が絶滅に近い状態になった原因はいろいろあるようだが、一つには山からの白砂の元が供給されなくなったことだ。山は海岸線にも影響する程、地形 を築く大きな役目がある。
 
 最近、私は富士山を 眺めるのが何となく気が引けるように思う。目を背けたくなるような衝動を感じる時もある程だ。それは富士山が世界遺産になってから尚更強くなったような気 がする。「山は歩く所だ」などと思っている者が、体力任せに歩き回っているのではないかと思うからだろう。富士山が自然遺産ではなく文化遺産であることの 意味も考えない者が、どっと押し寄せている。
 
 富士山は「歩く所」などではなく、言うまでも無く「信仰」の対象である。しかし、マタギや木地師など、日本人が山とどの様な関係であったかの歴史を知ら ない者に、「信仰」などと言っても、無駄であることは確かであろう。
 
 「信仰」と言っても、宗教的な難しい話には限らない。確か、宮沢賢治の童話に「なめとこ山のクマ」といった作品があったと思う。文章中にはマタギとは はっきり書かれていなかったようだが、山でクマを狩猟するマタギと山に棲むクマとの関係を示したものだ。この物語で、人とクマとがどの様に関わってきた か、更に信仰的なものまで読み取ることができる。
 
 山里に暮す老夫婦が一日畑仕事で汗を流し、その日の作業を終え、ふと見上げると西の山に日が沈もうとしている。いつも見上げるその山に向かい、手を合わ せてその日の無事を感謝する。そんな素朴な「信仰」もあると思っている。
 
 
   日本人は「山」に対 してこうしたコンセンサス、バックグラウンドがあると思っていた。私が「山が邪魔をする」と言っても、本当に山など無い方がいいなどだと言っていると、邪 推する者など居るとは思いもしなかった。
 
 つい最近、麻生大臣の失言が問題となった。ナチスドイツを肯定す様な発言をしたことだ。しかし、麻生大臣に同情する点もややある。元来、日本人は先の大 戦に対し、痛烈な反省と悲痛な後悔の念がある。今年も原爆の慰霊祭が盛大に行われてことでもそれが証明される。大戦中の同盟国であったドイツを擁護するよ うな発言があったとしても、日本人ならそれがジョークであることが分る。麻生大臣の発言を現場で聴講していた人たちの中から、笑いが起こったことでもそれ がはっきりする。それを、まるで言葉尻をとらえるかの様に、そのまま外国語に直訳しては、誤解されるのは当たり前である。
 
 しばしば例に出されるのは、日本人が贈答品を差し出す時、「詰まらない物ですが」と添えることだ。外国人がそれをそのまま鵜呑みにすれば、何で詰まらな い物を贈るのかと怒るだろう。日本人は、島国の単一民族だ。誰しもがほぼ同じコンセンサス、バックグラウンドを持つ。また、わざわざ当たり前のことは口に 出さない奥ゆかしさがある。「詰まらない物」と言う裏には、贈答品は相手の喜ぶ物を選ぶのが当たり前だが、それにもかかわらず、あまり好ましい物と思って 頂けないかもしれない。それでも、こちらの気持ちを汲んで、受取ってほしい、との意が込められている。
 
 麻生大臣はうっかり日本人だけに通じる話をしゃべってしまった。それを海外メディアに叩かれ、謝罪することとなった。私は「山は歩く所だ」と非難され、 まるでエイリアンに遭遇したような思いである。
 
 峠の旅などをしてい ると、今でも母屋の板塀に沿って、うず高く薪が積まれているのを目にすることがある。それを見ると子供の頃の懐かしさと同時に、愛おしささえも感じる。そ れだけの薪を絶えず維持するには、相当な労力を必要とすることが分るからだ。薪を使った暮らしの辛さや素朴さ。それを理解する者は、もう少なくなってし まったのだろうか。そして「山」に対して長い間日本人が持っていたコンセンサスが崩れていることに危惧する。
 
 そもそも、登山などとは明治期以降にヨーロッパからもたらされた他国の文化だ。長い日本の歴史に於いて、つい最近の出来事である。マタギも知らず木地師 も知らず、先の大戦など他人事と思って日本の過去を顧みない者が、自分自身の遊興の為だけに「山は歩く所だ」などと豪語して、山を歩き回っているのだろう か。
 
 
   これまでの私の生涯 で、山を「歩く所」などと考えたことは一度も無い。思いもしなかった表現だ。そして死ぬまで、そんな風に山を考えることは絶対に無いだろう。 私にとって「山」は、そんな冒とくするような軽薄な言葉とは全く次元が異なる存在である。人の生活、自然、信仰などと密接に繋がった尊い存在である。
 
<2013. 8.11>
 
 
 

 
 
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