元サラリーマンの ちょっと一言
 
コンピューター将棋
 
 
 

 
 

 「峠と旅」とか「サラリーマン野宿旅」などとやや文系寄りのホームページを出しているが、資質としては技術系の人間である。 以前、ちょっと将棋を趣味としていたが、最近のコンピューター将棋に技術的な興味が向く。 40年程も昔、まだパソコンという名もない頃、マイクロコンピューターを個人で持つことができ、詰将棋を解くプログラムを作った。 プログラムとデータ領域を含め、僅かに8KBしかメモリ容量はなく、HDDなどと言った外部記憶もない。 そんな条件の元、大学の夏休みを部屋にこもり、必死にアルゴリズムを考えた。 どうにかプログラムは完成し、マイコンという雑誌の別冊に掲載させて頂いた。 今はパソコンが本将棋を指す時代である。隔世の感があるとともに、羨ましい気がする。 プログラム制作は20歳前後くらいが絶頂期である。今の私にはプログラミングの気力はない。

 
 
 

 それにしても、プロ棋士にもコンピューターが勝つことがあるというのは、やや驚きである。 どのようなハードウェアを使っているかなど、詳しいことは知らないが、例えば超高速の「京」(けい)などといったコンピューターを使えば、その処理能力は桁違いだ。 増々、プロ棋士の旗色が悪くなることだろう。まあ、「京」を将棋に使うなどとというのは、経済的に全く合わない話ではあるが。
 
 人の立場からすると、何とかコンピューターに勝てないものかと思う。コンピューター側には数多くの棋譜が記憶されている。 それを頼りに勝率の良い手を選んで指し進めれば、中盤くらいまではプロ棋士との対局でも遜色ない局面までもって行ける。 中盤から終盤に掛けては、その局面における最善手を求めて指せばよい。それには如何に深く広く手を読むかであり、ハードウェアの良否が物を言う。 人も負けずに最善手を指そうとするが、生身の人間には正確さはなかなか続かない。一方、こうした能力にかけては、コンピューターは更に発展していく。 やはり、人が頼るのは「創造性」という能力になるだろうか。

 

 例えば、先手が人間、後手がコンピューターとする。まず、先手が5八玉と指す。 こんな定石があるかどうかも知らないが、後手が3四歩と角道を開けて応じたとする。次に先手は5九玉とする。 これで先手陣は元の状態だ。こんなバカげた棋譜はまず存在しないだろう。ただただ手損をしただけだ。 プロ棋士同士の将棋なら、後手の必勝となるものと思う。
 一方、4手目の手番を渡されたコンピューターは、もう過去の棋譜にないので、その局面での最善手を計算することとなる。 しかし、どんな手を指しても「一局」の将棋であり、最善手などは存在しない筈だ。 存在しないものは計算しても出て来ない。 これが人なら、今後数10手先の局面を想定し、ある構想を持って差し手を進めることができる。 序盤から中盤に掛け、その創造性をもってコンピューターに対して優勢を築き、 中盤から終盤に掛けては、コンピューターが指す最善手に何とか追いすがり、優勢を維持しつつ終局を迎える。 将来に渡って人がコンピューターに勝つ道筋とは、大筋こんなものだろうか。
 
 こうしたコンピューターの「創造性」に関した議論は昔からある。 コンピューターは計算能力については人に遥かに勝るが、人にはコンピューターにない創造性があるという議論だ。 ただ、世の中は広いので、コンピューターに創造性を持たせようと研究している者は居ることだろう。 遠い将来、あるいは創造性や感情に似たものをコンピューターが身に着ける時代が来るかもしれない。 まあ、その創造性がコンピューター将棋に活かされることなどは想像もできないが。 一方、人にとっても、毎局創造性を働かせて、新しい将棋を生み出すこととなる。これも容易なことではない。

 
 
 

 更に、こんな意地の悪いことも考えられる。コンピューター同士に過去の棋譜にない将棋を沢山指させるのだ。 序盤に乱数などを使って、でたらめな手を指させ、人にとって無駄と思えるような棋譜の山を築き上げる。 人には将棋の指し手は無限にも思えるかもしれないが、9×9のマス目と40の駒は有限であり、 そこから生み出される棋譜は膨大であるが無限ではない。 これまで人が生み出した数々の棋譜より、桁違いの量の人の知らない棋譜をメガデータとして構築するのだ。 すなわち、先回りして、人の創造性が生かされる余地を無くしてしまうのである。 それこそコンピューターが創造性を獲得するのを待つより、手っ取り早く、実現性が高い。 データ量と処理速度の問題でしかない。

 

 最近、不眠症がこうじて、眠れぬ夜にこんな下らないことを考えてしまう。 コンピューターなどの機械は人の役に立てるもので、将棋で人に勝つコンピューターをあれこれ考えてもしょうがない。 また、コンピューター将棋の実情を知らないので、全く的外れな議論かもしれない。 ただ、一部にコンピューターの将来像が見え隠れするような気はする。
 
 40年前、詰将棋プログラムに夢中になっていた時は、ただただ技術的な興味だけが優先した。 更にCAS構想なるものを勝手に思い描いていた。 CASとはComputer aided SHOUGIの略で、定石を覚えたり、詰将棋があまり得意でなかったので、 その補助にコンピューターを使おうという訳である。 そうすればプロ棋士とも対等に将棋が指せるようになるかもしれないと想像した。 しかし、今の技術はその先へと進んでしまっている。

<作成 16. 6.24、掲載 18.10. 7>
 
 
 
 

 
 
サラリーマンのちょっと一言