サラリーマン野宿旅
  
長距離フェリー
  
初掲載:2000年頃
 

 
 日本には長距離フェリーの航路がいくつかある。例えば東京やその近県からは北海道や四国、九州へフェリーで行くことができる。こうした2日や3日に渡る長距離のフェリーをよく利用するという人は、仕事上利用する方以外あまり多くないのではないか。忙しい現代人にその様なゆったりした移動手段を使える余裕はない。私も30歳を過ぎてオートバイの免許を取った後、北海道ツーリングに出かけた時、初めて使った。
 
フェリー 長距離フェリー
 
1996年7月28日北海道小樽港より舞鶴に向けて出港する
新日本海フェリー ニューあかしあ
同日新潟に向けて出港するフェリーしらかば船上より
 

  
 長距離フェリー 目次
  
○初めての長距離フェリー
○港
○出港
○船上で過ごす
○到着
 
 

 
 
初めての長距離フェリー
 
 ある年の9月終わりにフレックスの夏期休暇が取れた。時期外れの北海道一周を目論み、東京フェリーターミナルから苫小牧行きのフェリーに乗り込んだ。寝台を予約していたが向学の為とばかりに乗船後に奮発して特等室を取った。特等室は2人部屋だが閑散期の為1人で使わせてくれたのだった。これから待ち受ける旅の期待や不安はあるが、ひとまず落ち着くことができた。
 
 特等室はベッドが2つと衛星放送が映るTV、洗面台、バス、トイレ、浴衣にタオルと2等の雑魚寝とは天と地ほどの違いである。ちょっとしたビジネスホテル並だ。しかしホテルと決定的に違う事がある。それは部屋全体が揺れることだ。さすがに大型船なので大きく揺れはしないが、ゆったりした揺れがじわじわ効いてくる。出港後1時間程で完全に船酔いにかかってしまった。苫小牧到着まで後約30時間。私は「船を戻してくれ!」と叫びたい心境だった。
 
 ベッドに横たわったまま起き上がることができない。起き上がろうとすると黄色い胃液をもどした。当然食堂には行けない。さりとて30時間何も食べない訳にもいかない。幸い少しのお菓子を持っていたので、それを少しずつ口に含んで食べる。こんな所でサバイバルをするとは思ってもみなかった。腕時計は絶望するほど遅々として進まない。
 
 長い時間が過ぎ乗船後2度目の朝を迎えた。いつの間にか揺れはほとんどなくなっている。荒れた外洋から凪いだ内海に入ったらしい。起き上がってもなんともない。それまでの苦痛がうそのようだ。下船時間が迫っているので荷物の整理や身支度をする。車両甲板に降りバイクに跨り無事北海道に上陸。まだ早朝なので国道沿いにコンビニを見つけ早速腹ごしらえをした。
 
 その後はどうにか予定通り北海道を回ることができた。そして帰りのフェリーには酔い止めの薬をしっかり持って乗船し、今度は無事な船旅がおくれた。
 

 
 
 
 船酔いを除けば長距離フェリーの旅を非常に気に入っている。それは例えば同じ港でも空港とは雲泥の差がある。空港は近代的でハイテクが溢れ、華やいだ雰囲気があるが、何かよそよそしい気がする。それに比べフェリーの待合所は建物は古く、安物のベンチが並び、隅には時代遅れのゲーム機が誰も使う事なく置かれている。利用客もトラックの運転手や仕事で利用する男たち、小さな子どもを沢山連れた家族連れ、汚いライダー姿の若者。年に何回かある混雑する時期を除けばあまり利用する者もなく、ガランとしている。この侘しさが私の性に合っている。肩肘張らず普段着のままサンダル履きで来れる。これがよいのだ。
 
港 港  
 
 
港の建物の中 建物の中
 
新しくなった新日本海フェリー小樽港(1996年7月28日)
 
 ところが最近掟破りが出た。新日本海フェリー小樽港だ。日本海側のコースは安いのでよく利用したものだが、近年久しぶり行くと何やら変わった建物が立っている。中に入ると電光掲示板が掲げられ、以前のガラス越しの窓口もカウンターに変えられて、ロビー中央は2階まで吹き抜けで、その上はガラス張りの天井である。まるで空港の様に洗練された雰囲気だ。
 
 それでも修学旅行なのか、中学生の集団が先生に引率されてわいわい入って来た。ロビーの一角に陣取ると、しゃがみ込んだり、床に座ったり、そこらを走り回ったり。また野宿ライダーも健在で、汚いオフロードブーツのままどやどや入って来る。トラックの運ちゃんも相変わらずのいでたちでスリッパ突っかけて歩いている。何ら客層には変わりはないので安心した。
 

 
 

出港

 旅の出発の形はいろいろある。列車やバス、車、飛行機とそれぞれでだ。しかし何といっても船の出港が一番だ。とにかく時間が掛かるのである。乗船して荷物を置いてからデッキに出る。それからが長い長い。いつまで経ってもトレーラの積み込み作業などの出港準備をやっている。やっと終わって綱を解き、巻き取り、固定してやっと離岸を開始する。側面の推進力で大きな船体がゆっくり横滑りする。ある程度岸から離れると今度は180度方向転回を始める。離岸後10分経ってもまだ岸はそこにあるのだ。

 
オーシャン東九フェリー
 
出港準備 出港準備
 
 1992年5月5日徳島港(おーしゃん いーすと) 
 
 
   夜の出港 夜の出港
 
 1997年5月2日新門司港(おーしゃん うえすと)
 
 見送りする者はいつまで経っても港を後にすることができない。船上で見送られる方も相手に悪い気がする。最初はお互いに手を振ったりするが、いつまで振ってもなかなか船が遠ざからない。だんだん気まずくなってくる。そこがいい。

 船以外の例えば列車でも、発射のベルがなったら後はあっさりしたものだ。飛行機などは飛び立つずっと以前に空港ロビーでお別れである。船ではいつまでも遠ざかる相手が見えるのだ。私はひとり旅で見送られることはない。しかし出航のときはいつまでも甲板の上にいる。

 1997年5月2日新門司港よりオーシャン東九フェリー(おーしゃん うえすと)で東京に帰る。夜7時の出港でもともと見送り客は少ない。船が離岸後やっと船首を港の出口に向けて進みだした。もう辺りは暗く岸辺の人の顔など判別できない。それでも護岸に二つの人影が並んでいつまでもあった(写真の中に居る)。

 

 
 

船上で過ごす

 船上では全くやることがない。ゲームコーナーのゲーム機で小銭といえども無駄に使う気はない。風呂にゆりっく入ってもたいして時間は進まない。船内を隈なく探検しても知れたもの。甲板に出て景色を眺めていても、なかなか変わらず海ばかりの景色をそう長く見ていられる訳はない。三度の食事の時間が待ち遠しい。
 
 だからみんなよく寝る。2等船室ではあっちこっちで横になり、昼間から寝ている。夜はどうするのかというと夜もよく寝る。自分でも驚くほど長く眠っている。

 
関門橋 関門橋
  
1991年4月30日早朝 オーシャン東九フェリー船上より
オーシャン東九フェリーの港は門司港から新門司港に変わったので、
もう船上より関門橋は見られない
  
 普段忙しく時間に追われている人も船上ではまな板の鯉だ。船という閉ざされた世界では、じたばたしても仕方がない。時間が無駄になるのがいやで、本を持ち込んだりして時間を有効に使おうと策略する人がいる。しかしこの何もすることがない無駄な時間もいいものではないか。普段はせっかちな私も船の上では覚悟を決める。ゆったり、のんびり、ぼんやり。デッキのベンチにでも腰掛け、なるべく頭を空っぽにする。何と贅沢な時間だろうか。年に1、2度こんな時があってもよいだろう。
 

 
  
到着
  
車輌甲板 車輌甲板
  
入港のとき自分の車を見つけるのが大変
  
 入港時は少しあわただしい。身支度を整えて、忘れ物がないように荷物をまとめてと、やや緊張気味である。
 
 一番気掛かりなのは車輌甲板で自分の車が見付かるかだ。混雑する時期は特に大変だ。乗用車ばかりならまだ見通しがよいのだが、トレーラの貨物が多いと自分が何処にいるのかも分からなくなる。貨物の間は人が通れないほど狭い時もあり、自由に行動できない。ちょっとしたパニックになる。
 
 だから車を停めた時、甲板のどこらへんに停めたかよく記憶しておく。船の進行方向はどちらで、進行方向に向かって右側か左側か、前か後ろか、どっちに向けて車を停めたのか。それから特にどの階のデッキかだ。車輌甲板は時々二階建てになっている。階を間違えると甲板じゅうをうろつく羽目になる。CデッキとかDデッキとか書いてあるので覚えておく。
 
 車に乗り込みエンジンを掛け、係員の指示に従って上陸する。さて旅の続きの始まりである。
 
   
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