当日、土曜日の朝は機嫌がすこぶる悪かった。
前日はちょうど関東地方の梅雨明けで、夜は熱帯夜となりなかなか寝つかれず、今朝は完全に寝不足なのだ。滅多にない貴重な旅の出鼻を、こうしてくじかれることがままる。6時前に朝食も食べずに出発する。
青梅市を抜け、一気に埼玉県名栗村の有間湖まで走る。
7時20分。ダムのそばに車を停め、家から持ってきたあんパン2個と水筒に入れたコーヒー牛乳で、湖の景色など眺めながら遅い朝食とする。湖越しにこれから越える山並みも望める。秩父市に抜ける峠道を行くのだ。双眼鏡を覗くと峠が見えた。自然の景色を前にして、今朝の機嫌の悪さも直り、気分も晴れる思いだ。
秩父市で浦山湖の脇を通って国道140号に入り、一路中津川方面に向かう。
国道140号は雁坂トンネル開通に伴って大きく進路を変えた。特に中津川を跨いで造られた大きなループが圧巻である。中津川への道はループの前で分岐し、ループを横目に川の右岸を行く。
中津川のループ
以前来た時にはまだ開通していなかった
中津川をそのまま行けば三国峠だが、今回はもっと北の十石(じっこく)峠を越える予定だ。
途中から八丁峠へ分岐し、志賀坂峠で国道299号に出る。トンネルを抜けて群馬県中里村に入り、さらに国道299号を西へ、上野村を走る。
昼飯にはまだ少し早いが、この先険しい峠越えが待っている。途中、「道の駅上野」があるので、そこで済ませることにする。国道299号なんて以前にはな〜んにもなかった道だ。長野県の佐久町に抜けるまで本当に寂しいものだった。それが最近ではレストランや土産物屋が建つようになった。
道の駅上野も出来たばかりの綺麗な造りで、食堂もある。天ぷらうどん500円也を注文した。この暑いのに、熱いうどんとは失敗したかと思ったが、店内はクーラーが効いていたし、うどんは田舎の味がしておいしかった。使っている割り箸が、きめの細かい材質の木を使ったなかなかいいもので、使い捨てではもったいない。持って帰ろうかと思ったが、恥ずかしいのでやめておいた。その時なにやら気に掛かることがある様な気がしたが、店を出ると外はもう真夏の暑さで、さらに車の中は地獄の様相で、思考が停滞してしまった。
黒川林道経由で十石峠へ出る。
林道は改修工事中で時間帯通行止だが、運良く通行可能な時間であった。峠には見なれぬ建造物が建っていた。展望塔だ。勿論登ってみる。国道299号はいよいよ変わってゆく。
峠の駐車場では蜂がうるさい。
さすがに田舎の蜂は栄養がいいせいか、まるまる太っていると思ったら、ミツバチではなく違う種類の蜂のようだ。ちょうどバイクでやってきたライダーも、蜂に辟易して直ぐに立ち去って行った。この時期は蜂に悩まされる。野宿では熊は怖い存在だが、熊で死ぬのは年間に1、2人程度だという。それに比べ例えばスズメバチの被害はその十倍だそうだ。蜂の方が恐ろしいのである。
長野県側に下り、余地(よじ)峠への県道に分岐する。
いつも野宿旅には、はっきりしたコースや目的地の計画はない。大雑把な行動エリアを決めて、後は場当たり的に旅をする。それでも1、2の目的はある。何にもないと何をしていいか分からないからだ。今回の旅の最大の目的は、この余地峠を訪れることであった。群馬と長野の県境附近は幾度となく訪れているが、余地峠はまだ未経験なのだ。
峠道の悪路に大変な思いをした。
道も間違え、生きた心地がしなかった。でもどうにか峠を征服し、また長野県側に戻って来た。余地峠は群馬県側に車が走れる道ができていないのだから仕方がない。目的を達成したという思いと、険しい道から抜け出して来た安堵感で、少し気が抜けた。もう今日は何もせず野宿といきたい。
すると道からよさそうな空き地が見えた。
峠からの帰り道、未舗装路が舗装路になって直ぐのところである。それらしき分岐に折れて、草に埋もれた土の道を行く。そこは空き地かと思ったら、林道が僅かに広がっている程度のものだった。林道は尚もその先に続いている。しかし明らかに行止りだろう。通る者などまずいない。薪にする枯れ枝も豊富で、なかなかいい野宿地になりそうだ。まだ日は高いが、ここに決めた。
一日目の余地の野宿地
林道が僅かに広くなっているような場所
時間があるので、買い出しに行く。
いつもは野宿地を決めたら、その後はあまり動かない。キャンプを楽しむ前に、野宿は旅の宿泊の手段である。買い出しする時間があるなら、旅を先に進めた方がいい。でも今日は暑いのだ。冷たい物でも飲んで、なるべく快適に野宿したいではないか。遠いいが佐久市街の国道141号に出る。国道沿いのコンビニで500ccのジンジャエールとプチトマトのパックを一個買う。ついでにJOMOでガスを入れる。それでも時間があるので、臼田町から田口峠に続く県道に入る。そこに函館とここにしかないと言う五稜郭があると地図にあったからだ。名前は龍岡城跡。車を停めて堀の周りを少し散歩する。しかし暑い暑い。城跡の中の広場では少年野球をやっていた。見ているだけでこちらは倒れそうだ。
余地の野宿地に戻る。
帰りは同じ国道をやめて、県道を行く。ところが佐久町は祭だった。訳の分からない道に誘導され、あわや迷子かと思ったが、ちょっこり国道299に出て無事帰還した。
テントを張る。
誰も通らない林道だが、一応通行の邪魔にならない様にとテントの設営場所を探す。同時に風向きを考えた焚き火の位置、荷物の出し入れし易い車の置き場所などなど、いろいろ考慮しなければならない。テントの設置には緻密な計算が必要なのだ。しかし私の明晰な頭脳が弾き出した場所には、大きな石が埋まっていた。掘り出そうとしたが根が深い。しぶしぶ場所を変える。
テントを中心に車の位置を直し、焚き火の場所を少し掘り、その横に薪を拾い集め、ポケットコンロや鍋など夕食道具をそろえ、最後に椅子代わりの発泡スチロールを置いて座れば人心地である。買ってきたジンジャエールで喉を潤し一服する。
暑さはさほど気にならない。
日が西の山陰に隠れるころには、もう昼間の暑さはうそのようだ。寝苦しくなると困ると思ったが、この分なら大丈夫だ。落ち着いて座っていると汗も引いていく。蜂が少々うるさいが、静かにしているとまとわりつくことはない。日が暮れればどこかにいなくなった。
焚き火を始める。
さすがに炎は熱いが、焚き火は面白いので止められない。しかも薪が周囲にこれだけ豊富にあるからは、やらない訳にいかないのだ。
夕食の支度をする。
レトルトの牛丼とライスを暖め始めた。15分かかる。
鍋でぐつぐつ沸騰するお湯を眺めながら、何か足らないという気がしてきた。そうだ箸がないのだ。昼食の時、割り箸が気になったのは、そういうことだった。旅も何日か過ぎると、途中で買った弁当などの箸を残しておくので、不自由することはない。逆に旅の終わりにはいく膳もの箸が余って、家に持ち帰るくらいだ。
しかし今日は旅の初日で、家から箸やスプーンなど全く持ってきていない。たった2本の棒ではあるが、ないと非常に不便である。仕方ないのでナイフを取り出し、適当な細い枯れ枝を削り始めた。木を削るなど、子供の頃の工作以来である。枯れて薄汚れた樹皮の下から、艶やかな木肌が現れる。自然とは見事なものだ。最初は楽しんだり感心したりしていたものの、なかなかいい形に削れない。その内、指が疲れてきた。醜くく曲がった不ぞろいの箸で我慢することにした。
ライスに牛丼の元をかけ、永谷園の即席のお吸い物(あのよくお茶漬け海苔におまけで一個入っていたやつ)を用意する。プチトマトを加えて栄養バランスも十分だ。
食後にジンジャエールがおいしい。コーヒー牛乳を入れてきた水筒に少し氷が残っていた。水で洗ってジンジャエールに入れようとしたら、あっと言う間に溶けてなくなった。野宿で涼しさ冷たさを得るのは難しいことだ。
野宿の様子
テントにフライを付けなかったのは大失敗
野宿地から県道が見える。
そこを日が暮れる前に2台の車がやって来た。この先は未舗装の悪路なのに、何の為に来るのかと思っていたら、2台とも直ぐに引き返していった。おかしな人も居るものだ。しかしあちらから見れば、こちらの方がもっとおかしな人間に写るかもしれないが。
夏場のテントは蚊帳の様なもの。
と思って、フライは着けなかった。それが大きな間違いだった。何年野宿旅をやっているのだ。気が付いた時はテントは夜露でびっしょり濡れていた。半端ではない。テントの中でもテント地を指で弾くと水滴が顔に降ってくる。夜露は体に悪いと親が言っていた。
ふと明かりのために点けたローソクの上あたりを見ると、炎の熱でテントが乾いている。これはと思い、新品のローソクを2本点けて、テントに付いた水滴を乾かし始めた。これがまた面白い。しかし切りがないので、ローソクを倒さない様に気を付けながら眠りについた。
翌朝、やっぱりびしょ濡れだ。
小さなローソクの炎など焼け石に水だ。テントに触れていたシュラフなどもびっしょりだ。体もどこか優れない。湿気を払いのける為にも、焚き火を起こす。
テントは使い古したバスタオルで拭いて車に放り込む。
お湯を沸かしカップラーメンの朝食。
定番だ。
最後に穴を掘って用を済まし、さあ出発。
佐久市より国道254号を群馬県へ向かう。
内山峠を越えると荒船山の異様な山容が望める。
荒舟山
有料の妙義荒船林道に入る。
いくら取られるかと思ってびくびくしてたら、ただだった。料金所が無人だ。早朝だからか。林道からの浅間山の眺めは素晴らしい。
浅間山
和美峠を越えて未舗装の妙義荒船林道に入る。
こちらはお手のものだと思ったら、直ぐに崖崩れで引き返し。その後迷走。
二度上峠に向かう。
今回の旅の2番目の目的地だ。群馬県倉渕村と長野原町の境の峠。目的地といっても特別な意味はない。ただ「にどあげ」という名前が面白いから、行ってみたかっただけだ。しかしがっかり。オートバイが無理な追い越しをして走りまわり、落ち着いて走れやしない。それに峠はライダーのたまり場と化していた。もう二度と来るものか。しかし冬場にでもなり交通量が減れば、いい峠道なのかもしれない。
浅間山の西側を車坂峠で越え、国道18号に出る。
コンビニで昼食を買い込む。
どこで食べようかと地図を見て知った「道の駅みまき」に行く。あまり通る車も少ない県道に面していて、ちょっとほかの道の駅とは雰囲気が違う。どちらかというと単なる公園だ。ジョギングでも終えたトレーナー姿の男女が、水道で顔や手足を洗っている。爺さんが一人、木陰のベンチで弁当を食べている。女性が軽自動車で乗り付け、人待ち顔だ。通り掛かりの観光客が寄るというより、近所の住人の憩いの場という感じの道の駅である。
私も爺さんの近くのベンチに靴を脱いで上がり、あぐらをかいて弁当を広げる。爺さんは黙々と食事をし、周囲には何の感心もないようだ。ちょっと浮浪者かもしれないと思う。
トレーナーから私服に着替え、男女が車で帰ってゆく。女性が着替える時ちょっとドキッとした。鳩が傍らで餌を探している。近付いてきたら弁当のお裾分けでもしようと思ったが、警戒心が強いらしくて寄ってこない。男が一人、車でやって来て汗を拭き拭き慌しくトイレを使い、自販機でジュースでも買ってまた走り去っていった。昼間はもう真夏の暑さだ。私もコンビニで買った飲み物をがぶ飲みする。車がまた一台入ってきたかと思うと、そこらをうろうろしていた人待ちの女性が、自分の車はそのままに、嬉しそうに乗り込むと、車は直ぐに走り出した。車には若い男が乗っていた。
食事を終えた爺さんがおもむろに立ち上がった。見ていると危なっかしいくらいよろよろと、置いてあったバイクに跨る。バイクの荷台には釣竿のような棒がくくりつけてあった。苦労しながらエンジンをかけ、ふらふらと出て行った。昼をここでとるのを日課としているような爺さんであった。
旅の途中でこんな昼食をとるのが私は好きだ。
山の景色もいいが、見知らぬ町の何の変哲も無い様子を眺めて過ごすのもいい。何となくほのぼのする。そこに暮す人それぞれに生活があり、その断片を見ていろいろ想像する。そして私は旅の途中の傍観者で、何の関わりも責任もない気楽な立場だ。
実生活には少なからず苦労や心配が付きまとう。喜びや悲しみ、怒りといった感情の起伏もある。しかし旅暮しにはただ寝て食べること以外何もない。無用に気持ちを高ぶらせずにすむ。嫌なものには目をそむければそれでいい。
道の駅みまきで長居をしてしまった。私も出掛けることにする。