もう野宿の季節も終わった11月のとある暖かい日曜日。その年に使ってそのままジムニーの荷室に積みっぱなしだった野宿道具を、やっと片付ける気になった。駐車場が離れていて、自宅のベランダの物置まで荷物を抱えて往復するのが大変で、延び延びになっていたのだ。自宅は4階にあるが、エレベータがない。しかも、ビルが傾斜地に造られていて、入り口が地階の部分にあたる。ほぼ5階分の階段を上り下りするのだ。
テント3張りにシュラフ2本、エアーマットに空気入れ、20リッターポリタンクにその他の小物が少々。これらを2、3回の往復で全部運び終えた。どれも安物ばかりだから、物置に運び入れるだけで、メンテナンスなどほとんどしない。ただ、テントだけは日干しすることにした。雨や夜露に濡れたテントは、そのまま畳んでおくと、いつまでも濡れたままだからだ。
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それは、数年ぶりに訪れた北海道の旅も、もうこれで終わりという日のことであった。明日は函館港から青森県の大間行きのフェリーに乗船しなければならない。今夜は函館周辺での野宿だ。万が一にも明朝の出航に遅れることのないように、なるべく函館港近くに泊まりたい。港までの道で迷ったりしないか、交通渋滞が起こるのではないかと、いろいろ心配性なのである。しかし、港に近ければ近いほど函館市街地にも近い訳で、そうすれば野宿できるところはなくなってくる。痛し痒しである。
そこで、こんな時の為にと、ひとつ目を付けておいた野宿地があるのだ。函館市の西に隣接する上磯町にある「湯の沢水辺公園」である。ここで以前一度だけ野宿したことがある。園内に無料のオートキャンプ場があるのだが、その時はまだ地図に記載されていないし、看板などの案内も全くなく、一部の地元の人にしか知られていない穴場であった。昼間は近隣の人が散策などに来ていたが、夜になってテントを張ってキャンプする者など、私以外誰もいないという状態であった。 しかしそんな恵まれた環境は、いつまでも続く訳はなかった。今回、のこのこ出かけてみると、居るわ居るわ、数えきれないテントが並び、大勢のキャンパーで水辺公園は大賑わいである。広い敷地に、トイレや水場は整っているわ、設備は新しいわ、それが無料で使えるとなると、このアウトドアブームで人が押し寄せない訳がなかった。 公園内を偵察し、テントサイトの端の車道に面した所に、テントを張る十分な広さがあるスペースを見つけた。しかし、どうもこの混雑には馴染めない。暫し躊躇した後、また車でこの近辺をあたることにした。でも、川原などにいい場所はなく、いいと思うと、もうテントが幾張りか張られていた。 結局、諦めてキャンプ場に戻ると、何と最初に目を付けてあった場所にも、また一張りテントが並ぶところであった。バイクでやって来たキャンパーが、まさにテントを張る最中である。これはウカウカしていられない。その横にまだどうにか一張り分のスペースがあったので、慌ててそこを確保した。しかし、それがいけなかった。テントを設営しながらふと気が付くと、直ぐ近くに外灯が一本立っていたのだ。5mくらいの高さで、照明の部分はさほど大きくもない。「これなら日が暮れて暗くなっても、明かるくて便利だ」、程度にしか考えなかった。明かりに群がってくる虫のことがチラッと気にはなったが、直ぐにその外灯のことは忘れてしまった。 |
いつも通りに野宿の支度を着々と進める。野宿経験はそれなりに多いのだが、こんな賑やかなキャンプ場で野宿するのは、滅多にないことなので、隣近所のキャンパーが何となく気になって仕方がない。のぞく積もりはないが、他人の様子がちらちらと目に入ってくる。
左隣は、大きなオンロードバイクでやって来た、20歳代前半と思える男である。食事の準備をしている途中で、携帯電話をかけはじめた。誰かにテレビ番組をビデオに録画してくれと頼んでいる。自然の中にキャンプをやりにきても、普段の暮らしのことがまだ頭にあるようだ。 更にその左隣もオートバイのキャンパーであった。携帯電話の男と同じオートバイ同士ということで気が合うらしく、二人で話し始めた。大きなオンロードバイクのことを、いろいろ誉めている。長話になりそうだ。 右隣は男女二人のキャンパーだ。女性の方が、とてもキャンプするとは思えない服装をしている。完全に街中で着る服であり、革靴を履いている。何を勘違いしているのだろうか。 全体的には1人や2人組のキャンパーは少なく、大抵は子供を連れた家族や、複数の友人同士のキャンパーである。バーベキューやバレーボールして歓声を上げ、賑やかにやっている。 その内、一人のおばさんが各テントを回ってやって来た。まさかキャンプ料金の徴収かと思ったら、1枚のビラを渡された。説明を聞くと、最近このキャンプ場の近くにクマが出現したそうだ。そのクマはその後捕獲されたが、今後もクマに注意してくれとのこと。ビラにはひ熊に関する注意事項が箇条書きされていた。やっぱりここは北海道なのである。これだけ大勢の人が居てうるさいキャンプ場も、クマ避けとしては役に立つのである。 簡単なレトルトの夕食を終えた後は、広い公園内を歩き回り、自然観察ならぬ人間観察したり、また、自分のテントの脇に腰を下ろし、今回の北海道の旅で走り通してきた道を、ツーリングマップル上でたどったりした。いつもの黄色いマーカーで足跡をしるしながら、本当にこれで今回の北海道の旅も終わってしまうのだと思うと、残念な気がしてきた。 |
そうこうしている内に、いつの間にやら例の外灯がボンヤリ灯りはじめた。そして、日も暮れた頃、歯磨きとトイレから戻って来て見上げると、外灯の明かりの周りに虫が集まり始めているではないか。それはもう大変な数である。大きいのから小さいのまで、いろいろな虫の大集合だ。全くおぞましい光景である。ここにきて、やっと事の重大さに気が付いた。これは大変なことになりそうだ。しかし、今更テントの移動は困難である。見ると、もうテントにも虫がたかっている。
テントの出入り口は通気の為に開け放してあったが、防虫ネットだけは閉めておいたので中は無事である。問題は防虫ネットを開いて出入りする時に、虫がテントの中に入ってしまうことだ。私は大の虫恐怖症である。狭いテントの中に一匹でも虫が入ったら、落ち着いて眠ることもできない。 これ以上虫が集まってからのテントの出入りは、自殺行為に等しいだろう。一刻の猶予もならない。外に出ていた荷物を慌てて抱え、素早くテントに逃げ込んだ。
暫くはまだテントの隅に隠れている虫におびえつつ、見付けてはティッシュで退治した。それもやっと一段落つき、防虫ネット越しに外の様子をうかがう。事態は悪化の一途をたどっているようだ。テントの頭上では虫たちの真夏の夜の競演が繰り広げられているのだ。今はこの薄っぺらなテントの布が、地獄と天国を分ける境なのである。テントの上の方でガサゴソ音がする。大きな虫がフライとインナーテントの間に入ってしまい、出られなくてもがいているのだった。外灯の光で、うごめく虫のシルエットが浮かび上がる。 外灯に照らされた白い防虫ネットにも、ますます虫が寄りついてきた。ネット越しに間近で虫を見ると、そのグロテスクな姿に虫恐怖がうずく。それに、どうしてもネットのチャックの隙間が少し開いてしまい、そこから虫が入りかねない。外側のテントのチャックも閉めた方がよさそうだ。そうすれば、外界のおぞましい光景も見ないで済む。
後は、このままテントの中に篭っているしかない。もう、一度の出入りさえも許されない状況だ。でも、明日また日が昇れば、虫もどこかへ行ってしまうだろう。トイレに行きたくなると、ちょっと困ったことになるが、その時はその時である。その後暫くは、起きてツーリングマップルなどを見ていたが、気が散ってしまってダメである。早々と横になって、目を閉じることにした。 |
ところがである。災難は虫だけではなかったのだ。
キャンパーの中には小さな子供も多い。その子供達がテントの近くで大騒ぎを始めたのだ。外灯にたかる虫に気が付いて集まりだし、「ウワー」、「スゲー」、「気持ちわりー」と大声を上げている。このテントの中に人が居ることなど眼中にない。全くお構いなしに歓声を上げ、走り回り、したい放題の我が物顔である。 「罠を仕掛けるぞ、罠をー」。一人が大声で話している。「このガキ、一体何をしでかす積もりだ!!!」。しかし、こちらはテントを出る訳にはいかない。確認の手立てがないのだ。虫以外に子供というとんだ伏兵に悩まされながら、ただただうずくまっているしかなかった。 ひとしきりして、大人の女性の声がする。子供たちの母親の一人だろうか。夜も更けてきたので、いつまでも騒いでないで、帰って来なさいといさめている。その後も暫く子供たちの声がしていたが、徐々に解散していったようだ。静かな夜が戻ってきた。 頭上の外灯には、いったいどれだけの虫が集まっているだろうか。想像しただけでも、身の毛がよだつ。なるべく考えないようにして、目をつむり、眠ることに集中した。
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無事に朝が訪れた。もうテントの外は明るい。虫もどこかに行ってしまっただろう。それでも恐る恐るテントを開く。虫は入ってこない。大丈夫そうだ。外に出てみる。辺りを見回すが、特にこれと言って異常はない。他のキャンパーはまだ夢の中らしく、沢山のテントが並ぶキャンプ場も、今は全く静かなものだ。昨夜の虫の競演も、今はほとんどその痕跡がなく、全く嘘のようである。テントの近くにスイカの切れ端が置かれていた。これが昨夜、子供が言っていた虫取りの罠らしい。カブトムシでも捕ろうとしていたのだろうが、それが昨夜の名残のようでもあった。
でも、もうこんな所で朝食をとる気などにはなれない。一刻も早く立ち去りたい気持ちで、早々とテントの撤収を開始した。テントにまだ僅かに付いている虫や虫の死骸を落とす為に、テントを充分振り払ってから畳んだ積もりだが、それでも一匹大きいのが混じれ込んだらしい。それを遥々家まで連れてきてしまったようだ。 テントやシュラフなどの野宿道具を整理し、いざ車のトランクに積もうとして、最後の災難に見舞われた。訳あっていつものジムニーではなく、白色の乗用車に乗って来たのだが、その白い塗装面に小さな黒い点がびっしり付いているのだ。小さな虫の死骸だった。他の車は大丈夫そうだから、白色がいけないらしい。白が虫を引き寄せるのだ。
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その後、迷うことも、渋滞も無く、無事にフェリー乗り場に着き、北海道の旅は終わっていった。
それにしても迂闊だった。自然の中の野宿なら、いつもそつなくこなす野宿のベテランともあろう者が、外灯一本にあれだけ手を焼くとは・・・。普段の野宿では、外灯などという人工の明かりなど無いのだ。そっれでついウッカリした。何でもない空き地や原っぱには慣れていても、オートキャンプ場には慣れていなかったのだった。 |