サラリーマン野宿旅
野宿実例 No.26
 
天生峠下の野宿
 
岐阜県白川村・宮谷の砂防ダムにて
 

 
 最近の天生峠は、何だか交通量が多くなったように思う。天生峠とは岐阜県の河合村から白川村へ越える国道360号の峠である。この道は10年以上前から時々通る機会があったのだが、以前は本当に寂しい峠道だった。すれ違う車などほとんどないのである。それがここ数年、行き交う車が意外に多いのだ。その理由として、1996年頃に、峠道の全般に渡って道の改修が行われ、走りやすくなったことがある。しかし、どうもそれだけではなさそうなのだ。
 
 道路改修と時を同じくして、白川村の白川郷合掌村が世界遺産に登録されている。白川郷は以前から合掌造りの里として注目され、訪れる者も少なくなかった。しかし、世界遺産登録後は白川村に押しかける人や車の数は半端ではないらしい。白川村へは列車によるアクセスルートがないので、もっぱらマイカーで訪れることになる。いつもは静かな集落内が休日などには交通渋滞を招き、その対策としてシャトルバスの運行などが試みられているそうだ。
 
 その車によるアクセスルートとしては、白川村を南北に走る国道156号が一般的である。また、ほぼ国道に並行して、東海北陸自動車道も年々延長してきている。白川村の前後がまだ未開通のようだが、高速道路が白川村に達するのも時間の問題であろう。大多数の車はこの南北ルートの利用と想像される。
 
 一方、東西方向のルートとしては、村の西側に白山スーパー林道が一応通じている。しかし、冬期閉鎖が長いこともあり、あまり役立たない。残るは東側の天生峠ルートとなるが、本来こちらもなかなか手強い峠道なのだ。ところが、道路地図の上では一応国道ということもあり、世界遺産目当ての観光客がマイカーを走らせてやって来るのではないかと思う。それが近年天生峠の道を賑わしている原因の一つではないかと考えるのである。
 
 天生峠の道は道路改修が行われたといえども、まだまだ狭くて屈曲の多い峠道だ。そうとは知らずにやって来て、驚いているドライバーも多いのではなかろうか。そんな天生峠の道沿いで野宿したのは、まだまだ峠道を通る者も少ない寂しい頃であった。
 
 白川郷合掌村(撮影 1997. 9.22)
 
数年前に世界遺産となった
 
 それまでにも越えたことのある天生峠に、その沿道のどこかで野宿しようとやって来たのは、1993年9月のとある土曜日のことだった。土日2日間の休みを利用した、一泊二日の旅の最中である。早朝から遥々東京方面より車を走らせ、途中乗鞍スカイラインなどを堪能し、やっと天生峠の東側に位置する河合村の天生集落に到着した時には、太陽は峠のある東の山陰に隠れてしまっていた。たった二日の旅でここまで足を伸ばすのは、やっぱりちょっと無理だったのだろうかと思い始めていた。
 
 いつもなら、野宿地探しの時間に余裕が持てる旅をするよう心掛けている。その日に泊まる旅館やホテルが決まっている旅行などとは訳が違うのである。野宿旅では最終的にどこにテントを張って泊まるか、その時になってみなければ分からない。ホテルが予約してあれば少しくらい夜遅くなっても問題ないが、野宿地探しは日が落ちてしまえば不可能となるのである。時間的にも、精神安定の上でも、余裕を必要とするのだ。
 
 ところが、今回はその肝心な余裕がない。それもこれも、休みの少ないサラリーマン稼業のせいだ。現在勤めている会社は、一般的な国民の祝日も全て通常通りの勤務となっている。春のゴールデンウィークや夏休みなど、年に数回しかない連休を除けば、週末のたった二日で旅をしなければならない。二日で行ける自宅の近場は既に行き尽くし、遂にこんな遠くまでやって来る羽目になったのだ。一体今夜の野宿地はどうしてくれるんだ。
 
 しかし、全く考えがない訳でもなかった。目の前に続く天生峠の道なら、どうにかなるとの目論見があったのだ。最初に天生峠を訪れた時は、そのあまりの寂しい道の様子に驚いた。こんな国道があってもいいものだろうか。白川村側より峠を目指したが、途中白山を望むポイントでカメラを構える人を見かけたきり、河合村の天生集落に出るまで1台の車とも出会わない。その時は野宿に適した場所があるかどうかなど気にしていなかったが、あの寂しい峠道ならきっとどこかにいい野宿地が見付かることだろう。今回は家を出発する時から、漠然とそう考えていた。
 
 しかし、野宿地探しは偶然が大きく左右するもの。初めから計画しておいて、その通りに見付かる訳がないのであった。

 天生の集落を過ぎ、その先で峠道の河合村側に設けられたゲートを抜けた。ここからは峠を反対側に下って白川村のゲートを過ぎるまで、人家は皆無となる。このゲートに挟まれた区間が野宿地探しの勝負所となるのだが、見るともうそこは谷底を遥か下に見下ろす山腹であった。野宿地の定番とも言える川原などは望むべくもない。峠の河合村側は終始深い断崖に沿った細い道で、沿道に平坦地などほとんど見付からないのだ。道幅は狭く、テントが張れるような空き地どころか、車を停める路肩にさえも事欠く始末。日の暮れを気にしながらも、そのまま峠に着いてしまった。

 
立派になった天生峠(撮影 1997. 9.22) 
 
奥の切り通しが峠、手前の三角屋根はトイレ
 
 現在の天生峠は、河合村側の山を切り崩して大きな広場が造られ、広々として明るい峠になっている。どこでもテントが張れそうで、おまけにトイレも完備ときている。ところが、以前の峠は暗い林の中にあった。峠の白川村側に立つ石碑の前あたりが、僅かな草地になっていただけだ。そんな道路脇で野宿するのは、ちょっと惨め過ぎて遠慮するしかない。結局、峠も素通りで、白川村へと入って行った。
 
 峠の白川村側は、直ぐに下ることなく、暫く僅かなアップダウンを繰り返しながら、林の中をすり抜けていく。木々は密集し、開けた草地などは全く見付からない。その平坦な台地を抜けると、目の前に大きな谷が広がる。本来そこは西にそびえる白山を望む好適地なのだが、今は暗い雲がかかり、山の影すら見えない。ここから先、道は急降下で谷に下る。文字通りの九十九折れである。何度も何度も狭いカーブを折り返し、そんな所に勿論野宿地などないのだ。
 
 白山のビューポイント (撮影 1993. 9.11)
 
本来はここから白山が望めるのだが、今はもう直ぐ日が暮れそうで、おまけに暗い雲も出てきた
 
 どこまで行っても野宿に適した場所がないまま、白川村側にあるゲートまで来てしまった。赤と白のツートンカラーの大きな目立つゲートで、冬季閉鎖などの時期には固く閉ざされている。どこかに野宿地はないかと血走った目で見ていると、そのゲートを出る直前を、左に入る道があった。迷わず車を乗り入れる。道は直ぐに川原に出た。荘川の支流の一つである宮谷の川に設けられた砂防ダムの上流部だった。
 
 脇道はその砂防ダム工事用の作業道らしく、ダムから更に上流には車は入れそうになかった。川原はそれ程広くはないが、それでも砂防ダムのお陰で、周囲は開けた平坦地となっていた。ここならテントが張れそうである。砂防ダムのコンクリートの側に立ち、川の下流を眺めると、国道が川にぴったり沿って下っている。ちょっとテントサイトと国道が近い気がするが、こんな時、寂しい国道なら心配いらない。ただでさえ人通りの少ない道だから、日が暮れてからなら誰一人通る者もないだろう。
 
白川村側のゲート(撮影 1997. 9.22) 
 
写真は峠方向を向く。ゲートを抜けた直ぐ先で、右に入る道がある。
  
 一応念の為、峠道を更に白川郷の方へ下ってみることにした。川の右岸を進む道の傍らに、直ぐに農作業か何かの作業小屋や資材置き場の様な建物が出てきた。こうなると、もうダメである。人が住む集落は近い。その後間もなく民家が現れ、それをきっかけに車をUターンさせた。
 
 峠道にあるゲートから下は、住民が往来する地域なのである。見知らぬ他国者が野宿する訳にはいかない。野宿地は峠道のゲートで挟まれた区間内で見付けなければいけないのだ。すなわち今回はぎりぎりだった。あの砂防ダムの上へと急いで戻った。 
 
 宮谷の治山ダムの下流 (撮影 1995. 5. 2)
 
この先は民家も出てきて、野宿地は絶望的
 
 河原には相変わらず誰も居ない。まさかこんな場所に他に誰か来る筈もないだろうが、万が一変わり者が居て、先にテントでも張られてはかなわない。折角見付けた野宿地を手放す訳にはいかないのである。
 
 日が完全に落ちる前に、さっさとテントを張ろうと思う。暗くなるまで、もうあまり時間が残されていないのだ。確か3,980円で買った安物の自立式ドームテントを荷台から下ろして組み立て、どこに設置しようかとあれこれ思案する。大きな石がゴロゴロする川辺はダメだ。かといって背の高い草や潅木が茂る所もよくない。エアーマットは当然使うが、それでもなるべく凹凸がなく水平な場所がいいのだ。テントの中で横になった時、背中や腰などに地面の出っ張りが当たると、気になるものである。石は勿論だが、案外草の根の凹凸も邪魔なものだ。
 
 なかなか寝心地が良さそうな地面は少ないのだが、それでもどうにかテントの置き場所が決まった。ここは治山ダムの上部ということで、川岸に比較的平らな地面が広がっているのがよかった。自然のままの地形だと、こうはいかない。それに谷間の底に位置しながらも、段差のあるダムの上なので、ちょっとした高台に居る気分だ。空が開けていて明るい感じがなによりだ。ダムの直ぐ下を国道が通っていたが、道からはテントサイトが見えないのもいい。地面が固くてペグがほとんど効かないなど、全く不満がない訳ではないが、総合的に判断すれば、なかなかレベルは高い。天生峠の道の中で、唯一無比の野宿地である。
 
 今夜のねぐらが確保できれば、これで今日の旅もほぼ無事に終わったことになる。長距離を走ってややハードな1日であった。後は、楽しみの為に、近くの茂みから枯枝をせっせと集め、焚き火を始める。あまり枯枝は豊富でなかったので、非常にこじんまりとした焚き火となった。それでもやっぱり焚き火は楽しい。
 夕食となるご飯をコンロで温めながら、暇なので河原の石を投げて遊んだりする。子供じゃないんだから、普段物を投げるなんてことはしない。それが、ちょっとムキになって力を込めて投げたりすると、てきめん肩が痛んだ。
 
 夜中は予想通り、側の国道を通る車は一台もないようだった。車のヘッドライトやエンジン音に睡眠を邪魔されることはなかった。ただ、突然川の方で岩がぶつかり合う音がして、ビクッとして寝が覚めた。ちょっとした音でも、夜中だとやたらに大きく響くのだ。多分、自然に岩が転がり、近くの河原に落ちたのだろうが、クマでもやって来たのかと一瞬びっくりした。
 以前、奈良県の山の中で、崖の上から景色を眺めていると、直ぐ下で岩が転がる大きな音がした。随分景気のいい自然の落石だなと思ってのぞいて見たら、今しもクマが谷底目掛けて走って逃げて行く途中だった。そこでこちらも慌てて車に逃げ戻ったということがある。
 しかし、ここは人家から1Kmと離れていない。クマなど出て来るような所ではないだろうと、また眠りに集中することにした。しかし、夜中の物音は気になるもので、暫く聞き耳をたてずにはいられなかった
  
 野宿の朝(撮影 1993. 9.12)
 
またちょっと焚き火をする
 
 翌朝は気温18℃。暖かい朝だ。安物のテントに付いていたフライは、丈が短く裾の固定もいい加減な作りなので、あまり役に立ちそうにない。面倒なこともあって昨夜はフライを掛けなかったが、雨に降られることもなく、朝方の冷え込みもなく、何の問題もなかった。ただ、朝露がテントに直接着き、やや湿っぽさを感じた。
 
 寒くはないが、昨日の焚き火の跡を見ると、またちょっと火を起したくなった。燃えるゴミの処理も兼ねてささやかな焚き火をする。薪の燃えカスを残さない様に、新規の枯枝集めは控えておいた。
 いつもの様に野宿道具を片付け、朝食を済ます。最後に近くの茂みに入って用を足し、出発である。今日もあちこち寂しい峠道などを訪れたいのだが、あまり家に帰るのが遅くなる訳にはいかない。明日はまた会社なのだ。
 
   
草木がなくなった(撮影 1995. 5. 2)        資材置場と化した(撮影 1997. 9.22)
 
野宿地の変遷
 
 その旅の後も、天生峠には2年に1度くらいの割りで訪れている。時折、野宿した砂防ダムにも寄ったりしたが、野宿の後間もなく、草木がすっかり綺麗に刈られていた。何だか明け透けで、テントが張り難い気がした。更に1997年の時には、建設機械が入り込み資材置場の様相である。もう二度とここでは野宿できないと思った。ちょうどその頃である。天生峠が大きく変貌を遂げ、峠道全般に改修も進んだのは。その後は砂防ダムに立ち寄るのをやめた。
 
 今の天生峠の道で野宿する場所となると、やっぱり生まれ変わった峠の広場になるだろう。ただし、通る車が多いのが気に掛かる。テントなどを張っていると、変な目で見られるかもしれない。
 
 昔の寂しい頃の峠道がちょっと懐かしい。誰も通らず、一人占めだった。それが今では、いろいろな車が行き交っている。何だか人に取られた様な気がする。
 
 天生峠の道はよくなり、誰でも走り易くなったが、自然の厳しさまでは変わらない。毎年冬期閉鎖が長く、5月初めくらいまで続く。ゴールデンウィークを使って白川郷の合掌村を訪れようなどとしても、ゲートが固く閉ざされているのだった。
<初掲載 2002. 3.22>
 


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