サラリーマン野宿旅
野宿実例 No.31
 
同宿人の居る野宿
 
岐阜県坂内村川上・ホハレ林道脇にて(2004.9.25泊)
 
  
 
 今回の野宿には同宿人が居た。こんなことは初めてである。しかもその日に会ったばかりの初対面の方とである。これまで一人旅が多く、野宿などをするのも一人と相場が決まっていた。それにあまり他人との付き合いがうまくない。普段の生活の場で一般的な対人関係に支障を来たす程のことはないが、逆に特定の相手と親しく付き合うのが大の苦手である。だから旅に限らず一人で居ることが多い。それが、野宿で一夜を共にする事態となった。
 
 その経緯(いきさつ)はこうである。
 予(かね)てよりホームページで相互リンクして頂いていた「オカ・プランニング」のOさんから、久しぶりにメールが届いた。Oさんは家業の電気店を営む側ら、雑誌「4×4マガジン」のエリアレポーターなどで活躍されていた。その雑誌では「一緒に走りませんか?」という企画を担当し、一般人からゲストを招いて一緒に林道などを走行、そのツーリングレポートを掲載していた。今度、それを私にどうかというお誘いであった。雑誌社からの謝礼などは出ないそいだが、雑誌に自分のことが掲載されるのは嬉しいことである。にもなくOKの返事を返した。
 
 ツーリングの場所は、Oさんが広島で私が東京だから、その間をとって滋賀県の琵琶湖辺りでどうかと決まった。それでもお互い長い移動を伴う。最低1泊は必要だ。聞けばOさんも車中泊などはお手の物だそうだ。それなら林道脇などで一緒に野宿しましょうということになった。また、偶然にもOさんと私は全くの同じ歳であった。あまり歳が離れていると、話題や感覚のズレを生じるが、それまで育ってきたバックグラウンドがほぼ同じというのは都合よい。でも、それまでメールで僅かにやり取りしただけの相手とどういう旅になるか、やはり一抹の不安があった。 
  
  
 
 野宿の当日は、琵琶湖の東岸にある道の駅「母の郷 近江」で落ち合うことにした。私の方はジムニーから乗り換えたキャミで、Oさんの方はその懐かしいジムニーだという。道の駅の駐車場に乗り入れると、片隅にジムニーが一台と停まっていた。空いたスペースにキャミを停め、そちらに向かって歩いて行くと、ジムニーからも一人の男性が降りて来た。目と目が合い、お互いに目的の人であることが直ぐに理解された。
 
 これから未舗装林道を走ったり、野宿をしたりしようという二人だが、お互いにもういいおじさんである。若者の様な軽いノリはない。丁重に挨拶を交わし、付近のベンチに腰掛け、自己紹介を兼ねた世間話をする。やはり同じ年齢なので、会話をしていても安心感がある。それにOさんは温和な感じの方であったのもよかった。
 
 これからの大まかな走行コースを確認し、いざ出発となった。まずは長浜市街を抜け、滋賀県と岐阜県の県境にある国見峠を目指すことにした。長浜市内は今朝ここに来る途中、私が走って来たので、まずは私が先導することにした。しかし、私の市街地走行には定評があった。早くも長浜駅付近で行止りの路地に入り込み、後続のOさんにも迷惑をかけてしまった。その後も自分で走っていて全く自信がない。正しい道を進んでいるのか、さっぱり分からないのだ。県道の筈なのだが段々狭い路地の様な道になる。

 
 すると、Oさんが察してくれたのか、私に代わって先導してくれることになった。Oさんのジムニーにはカーナビがある。それが頼りである。ジムニーの後を追って、それまで走って来た道を外れた。ところが今度は道路工事による通行止である。またもや狭い行き止まりの路地に入り込み、必死で方向転回し、軌道修正を試みる。その後はもうどこをどう走っているのか、さっぱり分からない。こんな細い道で大丈夫なのかという道をOさんは進んで行く。カーナビとは凄いものだ。私はとにかくジムニーを見失わないように走るだけであった。
 
 やっと大きな道に出て、それが国道365号であることを確認し、自分でも現在位置を認識することができた。やれやれである。ゴチャゴチャした市街地を抜け、これからなら私でも道が分かるぞと思っていたら、今度はジムニーが停まってしまった。こちらのキャミも近くに停車させ、歩いて行ってOさんの運転席を覗くと、カーナビが目的の県道40号上に居ないと言う。しかし、周辺の山並から察すると、このまま進めば目的の道が通る谷間に入り込むのは間違いない。どうやらカーナビにない新しい道ができていて、それがOさんを惑わせたらしい。こんな時は、機械より人間の観察力・判断力の方が融通が利いていいであった。
 
  
 
 県道40号から別れた国見峠への林道は、最初にちょっと未舗装が顔をのぞかせたが、直ぐに真新しい舗装路になってしまった。以前来た時には峠のこちら、滋賀県側にまだ未舗装区間を多く残していたが、これは残念である。Oさんの「一緒に走りませんか?」という企画では、やはり未舗装林道が欲しいとのこと。それでも、途中で景色のいい場所を見つけては、雑誌に載せる為の写真撮影である。時期は9月下旬で、まだまだ半袖で十分なのだが、雑誌は12月販売ということで、長袖を着ての撮影である。Oさんはジムニーの屋根に乗ってカメラを構え、なかなか大変な作業だが、モデルとなるこちらも暑さにじっと耐えなければならないのだった。
 
 到着した国見峠には、以前には見られなかったゲートが設けられていた。幸いゲートは開かれていたが、如何にもちゃちなゲートである。仮に閉まっていても、バイクならその脇を容易に通れる代物だった。
 
 峠道が舗装路になった効果があるのか、峠にはぽつぽつ客が訪れ、峠からの景色を眺めていたりした。また、ちょうと昼時ということもあり、ジムニーと軽トラを率いた4、5人のグループがやって来たかと思うと、大きなシートを広げ、宴会よろしく昼食を始めた。生憎、峠から見える筈の伊吹山は霞んでいたが、峠の滋賀県側のなかなか見晴らしのいい所に陣取って、昼食を堪能していた。
 
 Oさんが峠に佇む教如上人の石像などを撮り終ると、それでは我々も昼飯にしましょうかということで、日差しを避けて峠の岐阜県側の山影に車を移し、食事の支度を始めた。お互いに何の打ち合わせもしてなかったが、それぞれ自前の食料を車から持ち出すと、手際よくカセットコンロで調理し、全く手馴れたものである。何の違和感も感じない。ほんの数時間前に初めて会った二人なのに、しかもこんな道端で食事をするというのに、お互いにさも当たり前という風に作業を進めるのである。これなら今夜の野宿も何の心配もないなと思えた。
 
 折畳み式の椅子に腰掛けて向かい合うと、食事をしながら話しをした。見ると、こちらは相変わらず簡単なインスタント食品だけだが、Oさんはちょっと大き目のクーラーボックスに、いろいろな食材を用意していた。フライパンで炒めたウィンナーを頂いたが、これはうまかった。他にもハンバーグやら冷凍ホタテやら、なかなか豪華である。ただ、私の食事は1食100円にも満たない場合が多いのだが、これは如何にもお金が掛かっていそうだった。
 
 国見峠にて昼食
 
岐阜県春日村と滋賀県伊吹町の境に位置する峠
 
 国見峠を後にしてからは、日坂越の西方にできた車道の峠を越えて春日村から久瀬村に入り、更に日坂峠の南方の峠(県道40号)を越えて坂内村に入る。この辺りはいろいろと峠が多い。峠好きとしては素通りできない。車では越えられない古い日坂越や日坂峠への入り口などを探しながら進む。峠の探索はOさんには関係ないことだが、ちょっと付き合って頂く。
 
 その後、今回のメイン・イベントと考えていたホハレ峠へと進み、見事、峠の地蔵も発見できた。ホハレ峠の道はひどく荒れ、小型のキャミでも単独では到底走行不可能な道であった。それでもどうにか峠に辿り着けたのは、走破性のいいジムニーを操るOさんに先導して頂いたお陰であった。
  
 念願の地蔵を拝見し、草の海と化したホハレ林道から抜け出して来ると、もう夕方の5時近くとなっていた。先行して峠を下るジムニーが、林道脇の空き地に停まった。そこは、側らを流れる川に設けられた砂防ダムの上流側に形成された広場で、この付近では最も広い平地である。Oさんはここで野宿にしましょうかと聞く。この先、林道を出てしまえば、野宿に適したいい場所は、なかなか見つかりそうにない。ちょっと安直な気もしたが、無難な策ではある。側らに気になるワゴン車が1台停まっていたが、ちょうど我々とほぼ一緒に林道を降りて来たショベルカーの操縦者が、今日の作業を終えたのか、それに乗って里の方へと帰って行った。ホハレ峠は行止りの峠である。坂内村とは反対側の藤橋村側は、道は既に廃道となって久しく、車やバイクで越えて来ることはできない。今日はこれでもう、このホハレ林道から上の方には、我々以外に誰も居ないのである。それではここで野宿しましょうということになった。
 
ホハレ林道脇の広場 
 
ここが今回の野宿地となった所
 
 広場より下流側を眺める
 
大きな砂防ダムがある
 
  
 
 実は、この場所には覚えがあった。
 
 ホハレ峠を最初に訪れたのは、約10年前の1995年5月3日のことである。ホハレ峠がどんな峠道だかも知らずに、のこのことやって来た。あわよくば藤橋村に抜けようと言う魂胆である。滋賀県木ノ本町方面から、まだ八草トンネルの影も形もない頃の険しい八草峠を越え、そのままホハレ林道へと車を進めた。
 
 しかし、林道を進む頃には既に時間が遅く、明るい内に峠を越えられそうもない。夜道の険しい峠越えは絶対避けるべきである。そこで、林道沿いに野宿地を探すことにした。道から見える範囲でいい場所がないかと探すが、なかなか手頃な所がない。そのまま暫く進むと、側らを流れる川上浅又川(あざまたがわ)に大きな砂防ダムが架かり、その上がちょっとした高台の広場になっていた。多分、現在よりも土が盛られて高かったように思う。直線的な谷の途中に形成され、空が開けて眺めが広がり、なかなかいいロケーションである。だが、何となく気が進まなかった。
 
 その頃は、野宿を始めて4年程が経ち、いろいろ経験を積むんで野宿がうまくなると同時に、数々の悲惨な目にも遭ってきていた。その2年前にも夜中の強風にテントを飛ばされ、野宿の当初から使っていた愛着のあるテントを紛失している。このホハレ林道脇の広場も、見晴らしがいい分、風が強そうなのだ。車から降りて高台に立つと、峠方向から吹き降ろす風が、広場を勢いよく駆け抜けていく。ここは「風の通り道だ」。
 
 野宿で失敗を重ねるたびに、自分なりの教訓を持つようにしていた。「風の通り道には、テントを張ってはいけない」。2年前の惨劇を思い起こし、高台の広場は諦めて先に進むことにした。しかし、道はその直ぐ先で川筋を外れ、急な坂を蛇行して登り始めた。道の直ぐ脇は切り立った険しい崖である。もう道沿いにテントを張れそうな場所はない。仕方なく、引き返すことにした。先ほどの広場を横目に見ながらも、別の場所を探すことにする。 
 
 さて、どうしようかと不安に思いながら、林道もあらかた引き返し、もう林道起点の国道に出てしまうという所で、細い脇道を見つけた。勿論、地図には載っていない、どこにも抜けることのない行止りの枝道である。でも、とにかく進む。
 
 道は川上浅又川を左岸に渡り、その支流の小さな流れに沿って登って行く。すると間もなく、その沢に築かれた小さな砂防ダムがあり、その上流に僅かばかりの平坦な河原があった。そこは小さな谷間に位置し、落ち着いて静かな所だった。ここなら風の心配は要らなそうだ。やや人里に近い気がしたが、側らの道を通る者はいそうにない。どうやら今夜も無事に野宿ができそうだ。
 
 テントを張り、寝床の支度が整えば、後はあまりすることがない。日は沈むにはまだ早く、手持ち無沙汰である。ふと、写真を撮ってみようかと思った。カメラにはセルフタイマーと言う機能が付いている。しかし、自分を含めた記念写真など撮ることはないので、その時所持していたカメラを買って以来、一度もその機能を使ったことがなかった。根っからの技術屋なので、単純に技術的な興味が湧いてきた。それでは一つ暇つぶしに、そのセルフタイマーとやらを試してみようと思った。
 
 テントとジムニーと私が収まるよう、手頃な岩を見つけてその上にカメラを据え、セルフタイマーをセットした。最近はリモコン式だが、その頃のはゼンマイ式のタイマーだった。シャッターが切れる前に、走ってテントの横に並び、暫くじっとカメラを見つめる。いつシャッターが切れたか分からないので、十分時間が経ってからカメラを取りに行く。これが最近のデジカメなら、その場でちゃんと写っているかどうか確かめられるが、昔からの銀塩カメラではそうはいかない。うまく写っているかどうか半信半疑でも、旅から帰ってプリントに出さない限り確かめようがないのだ。普段自分の写真など絶対に撮らないのに、馬鹿なことをやったなと思いつつ、そのままむなしくカメラを仕舞った。後は野宿の様子などは一枚も撮らなかった。
 
以前の野宿 
 
セルフタイマーで写真を撮った(1995年5月3日)
 
 その旅から帰ると、セルフタイマーは見事に成功しているのが分かった。薄汚れたジーパンにだぶだぶのセーターを着て、何となくつまらなそうな、悲しい顔をした自分が写っていた。だから自分の写真を撮るのは嫌いである。
 
 その時の野宿のことは、そんなこと以外ほとんど何も覚えていない。まあ、それは悲惨な事態に陥ることなく、無事に一夜を過ごせた証拠だろう。翌日は早朝からホハレ峠を目指したが、藤橋村には越えられないことを確認して、次の旅へと向かって行った。
 
  
 
 今回は、以前見送った広場での野宿である。現状からはそれ程危険な場所とは思われない。地形が今とは少し違っていたかもしれないが、当時は多分に野宿することが臆病になっていたのかもしれない。しかも今回は同宿者が居る。これは心強い。
 
 今回の野宿地の全景
 
 同宿者と言っても、Oさんと一緒に同じテントの中で寝る訳ではない。むさくるしい男同士で、さすがにそんなまねはできない。それに、私はテント泊だが、Oさんは車内泊である。私はそそくさとテント設営に取り掛かる。久々の野宿で、ちょっとうきうきする。
 
私はテント、Oさんは車内泊 
 
 Oさんの車内泊と言うのは、単にシートをリクライニングにして寝るという簡単なものではなく、何とあの小さなジムニーの中に、ベッドが備え付けてあったのだ。助手席を取り払い、そこから後部荷室にかけて一枚の板が渡してある。その上に寝るという。普段は助手席の上にテーブルが張り出しているような状態になっていて、そこにGPSと繋げたパソコンを置き、カーナビとしても使っている。
 
 他にも、パソコンなどを動作させる為のインバータや、趣味のカメラ機材も立派なのをいろいろ積んでいる。あの小さな空間に、よくまあこれだけ積めたものだと感心する程である。かなりマニアックである。それでいて険しい林道をどんどん走ってしまうのだった。
 
 テントの側に薪を集めた
 
 ベッドが水平でないと寝にくいからと、ジムニーの置き場所を慎重に選んで停めてから、Oさんは、夜は焚き火をしたいと言う。私も同感である。一緒になって付近に薪となる手頃な枯れ枝などを探すが、なかなかない。あちこち探し回った末、どうにか小規模な焚き火ができる程度には薪が集まった。
 
 そうこうしている途中、側らの林道を駆け上がるバイクの小集団があった。若者が操る4、5台のオフロードバイクが馳走して行く。もう時間が遅いというのに、これから林道探索か。その後、いつまで経ってもなかなか戻って来ない。車が走るにはあまりにも険しいが、バイクでも決してた易い道ではない。それにどっちみち、通行不能に行き着くだけだ。おじさん二人で遅いのを気にしていると、夕暮れ間際にやっとバイクの音が戻って来た。野宿のおじさん二人の脇を、若者が元気よく下って行く。今夜はこのまま家まで走るのだろうか。それともどこか近くにねぐらが用意されているのだろうか。
 
  
 
 日が落ちて暗くならない内にと夕食を始める。Oさんのクーラーボックスは魔法のようである。私のレトルトのカレーでは、全く太刀打ちできない。また少しお相伴に与かる。中でも一番参考になったのは、フライパンでウィンナーなどの肉類を炒めることである。私はもっぱら片手鍋でお湯を沸かすしか能生がない。これではレパートリーの広がりようがない。しかし、フライパンに油を敷いてなどと、とても面倒なことだと思っていた。ところが、目の前でOさんは、いともた易く調理する。使った後のフライパンは、ちょっとティッシュで拭くだけで、余分な手間もゴミも出ない。こんなに簡単なことだったのか。
 
 その後の私の野宿道具には、フライパンが仲間入りすることとなった。勿論100円ショップで手に入れた物である。冷蔵保存が必要な食品は食事の直前にスーパーで買っておく。常温保存ができるママースパゲティーなどは定番の地位を獲得しつつある。河原などでハンバーグをジュージュー温め、熱いところを口に運ぶと、これは実に美味しい。
 
 しかし、美味しいのは何も100円のフライパンのお陰だけではなかった。いつも1食100円前後で済ましているレトルトや即席物の代わりに、1本50円以上するウィンナーを何本も食べれば、これはもう美味しいのは当たり前である。1個のフライパンの為に、1食の食事代が数倍に跳ね上がってしまった。でも、これまでも頻繁に食べてきた安物の魚肉ソーセージが、ちょっと焦げる程度に炒めるだけで、なかなか美味しく頂ける。食事にはほとんど関心がなかったが、この程度の改善はやってよかったと思った。
 
 夕食が終われば、焚き火である。ところが集めた枯れ木は昨日の雨で湿っていて、なかなか本格的に燃え上がらない。Oさんがうちわを出して来て盛大にあおぐ。私は、昔買った焚き付け用の燃料スプレーがあったのを思い出し、要らない雑誌に吹きかけて染み込ませ、焚き火にくべる。そうすると、一時は火の勢いが増すが、また暫くすると消えそうになる。二人で悪戦苦闘を続ける。のんびり焚き火を眺める暇もないまま、あらかた薪を費やしてしまった。それでもやっと小さな熾(おき)ができ、二人でゆっくり話しをする。
 
 こんな時、一端(いっぱし)の男ならアルコールを嗜(たしな)むのだが、私は全く飲めない。
 
 会社の研究業務の側ら、自分の遺伝子を調べたことがある。ALDH2(アルデヒド・デヒドロゲナーゼ2)というDNA領域には、アルコールの分解酵素に関する遺伝情報が収められている。アルコールを飲むと、体の中でまずはアセトアルデヒドに分解(代謝)される。アセトアルデヒドはシックハウス症候群のホルムアルデヒドと同じように、人体には有害である。しかし、原始人類はアセトアルデヒドを脱水素分解する酵素(たんぱく質)を持つ。ところが、2、3万年前にモンゴロイド系の人種に、そのALDH2領域にたった一箇所、1塩基分の異常が発生した。その遺伝子を受け継いだ者は、正常なたんぱく質が作られない。すなわちアセトアルデヒドを分解する酵素がないのだ。これがアルコールを飲めるか飲めないかを、決定的に左右するというのだ。
 
 調べた私の遺伝子は、見事にそのモンゴロイド系の遺伝子を受け継いでいた。人は皆、父方と母方との両方の遺伝子を持つが、その両方ともアルコールが飲めない、すなわち全くの下戸なのであった。日本人の中には約4%程、そういう人が居るらしい。私はその一人であるのが分かり、DNA的にアルコールに弱いことを納得した。
 
 そういう訳で、私はアルコールがダメなことを話すと、Oさんもアルコールなしの会話に付き合って頂けることになった。
  
小さな焚き火をする 
 
 私は雑誌編集に関したことをいろいろと聞いた。普通の会社の普通のサラリーマンにとって、その手の分野は異質に思え、どのようなものなのか皆目検討がつかない。雑誌の販売数や販売価格、1頁当りの制作コストなど、どのように商売が成り立っているのだろうかと興味があった。
 
 一方、Oさんは盛んに将来の希望を話す。家業以外にもいろんな分野に熱心である。仲間と一緒にログハウスなども建てたそうだ。希望を叶える為には、それなりの投資も積極的である。私が見た限りでも、趣味専用に購入して完全に改造されたジムニーや、それに積まれているカメラ機材。ちょっとした車より高価なレンズも拝見させてもらった。ケチな私には、なかなか真似できない。
 
 話しはとりとめもなく進み、野宿の夜は更けていった。9時頃になって、それでは寝ましょうかということになった。何時に起きるとも決めず、思い思いのねぐらへと分かれて行った。
 
  
  
 野宿の朝
 
ホハレ峠方向を望む
 
 翌朝は5時頃目覚めた。静かな夜で、野宿としては比較的熟睡できた方である。それは同宿者が居るという安心感があったこともあるのだろう。テントを出てジムニーの方を見ると、まだOさんは寝ているようだった。私一人で周辺を散策することにする。ぶらぶらデジタルカメラを持って、あちこち写真を撮る。今日はいい天気だ。
 
野宿地周辺を散策 
 
 あちこち写真を撮る
 
以前の野宿ではこんなに写真は撮らなかった 
 
 デジタルカメラなら現像代が要らないのがいい
 
  
  
 Oさんが起きて来た。あまり良く眠れなかったらしい。暑いので車の窓を開けて寝たら、蚊に悩まされたと言う。その点、テントには防虫ネットがあるので便利だ。防虫スプレーを足や手首にかけた上で、更にテントの中で蚊取り線香を少し焚けば、もう蚊に刺されることなく涼しく快適に過ごせる。ただ、私も時々車中泊をするので、何かいい手はないものかと思う。車の窓にうまく防虫ネットが付けられればいいのだが。
 
 朝の身支度を整えてから朝食である。Oさんはこれ以上蚊に悩まされてはかなわないと、食事をする場所の風上、4、5個所に蚊取り線香を盛大に焚いた。Oさんは目的に対して投資を惜しまない性格である。多分、血液型はB型だろうと推察した。
 
 Oさんのクーラーボックスからは、まだまだ食材が出て来る。家を出てから、もう1日半以上も経っているのに、10℃以下の要冷蔵の食材は大丈夫かと聞くと、1.5Lか2Lのペットボトルに水を入れ、それを凍らせて保冷材として使っているとのこと。また、ちょっと大き目で性能のいいクーラーボックスを使用している。あの緑色のよくあるクーラーボックスはダメだと言う。今回は持って来なかったが、ケチなA型の私は、まさしくその緑色のクーラーボックスを愛用しているのだった。
 
 テントの撤収などをしていると、川の下流の遠くで猿の泣き声がした。そのまま気にせずにいると、いつの間にやら広場の直ぐ脇の林の中で、猿が木を大きく揺するのに驚かされた。見ると、猿は1匹や2匹ではない。あっちこっちに居る。まるでこちらを威嚇するかのように、木から木に飛び移り、枝を揺さぶり、大きな音を立てる。5匹から10匹くらいも居るだろうか。集団なのでちょっとした恐怖である。Oさんは早速写真を構えて狙っている。私はじっと様子を伺うことにした。
 
 こちらの心配をよそに、猿の集団はそのまま上流の方へと徐々に移動して行った。多分、朝食にでもやって来たのだろう。いつもの通り道に不審な人間を見掛け、ちょっと興奮したのかもしれない。どちらにしろ、ここではこちらの方がよそ者の存在である。
 
  
 
 ホハレ林道脇での野宿も終わり、その後二人は八草峠をトンネルで越え、再び滋賀県に入り、余呉湖の北側の林道などを探索し、琵琶湖北岸のつづら尾展望台付近まで行った。この日は晴天の日曜日とあり、行楽客が多く出ていた。車や特にバイクが排気音やかましく走っている。ずっと静かな山間の道を探索して来たので、この騒音には辟易させられた。もみじが丘というあまり人が来ない展望所を見つけ、別れる前に最後の昼食となった。
 
 私は予定通り、レトルトや即席の食材を使い切った。Oさんのクーラーボックスには、まだおにぎりなどが残っているようだった。距離が離れているので簡単には会えないが、また機会があったら是非お会いしましょうと言って分かれた。
 
 この2日間に渡り、二人とも1円のお金も使っていない。全て車に積んで来た物で済ませてきたことになる。初めて会った二人だが、そんなことが当たり前なので、うまく同宿の野宿ができたのだろうと思うのだった。
 
<初掲載 2005. 4.18>
 
 参考
ホハレ峠
 
4×4MAGAGINEの掲載 
 
  
 
☆野宿実例集    ☆サラリーマン野宿旅