サラリーマン野宿旅
野宿の災難

の巻

テントの中は水浸し


 初掲載 2000.1.13
 写真追加 2000.1.17

 あれは九州の椎葉村(宮崎県)に初めて訪れた時だった。もう8年ほど前になる。ゴールデンウィークの休暇を使った旅で、九州に佐賀関より上陸した初日に、国道265号の国見峠を越え上椎葉までやって来た。秘境と言われた椎葉村も、今はもはや観光地化された感は否めず、町中を散策する観光客が多く見られる。そんな中を車を停めることもせず、のんびり走って通り過ぎ、そのまま椎葉湖の裏の林道に入り込んだ。

 道は急坂のじゃりダートで、開けて眺めはいいのだが、野宿によさそうな場所など全くありそうにない。日は西の山陰に隠れてしまうし、もっと暗くなれば野宿地探しは尚更困難になる。やや気持ちは焦り気味で、車のスピードは上がり気味。どうせ他に通る車もいないことだろうから、そこらの道路脇にでもテントを張ってしまおうかなどと思っていた。

 それでも急坂を登りきり、道がやや平坦になったところで脇道を見つけた。入ってみると道というほどのものではなく、ちょっと登って直ぐに行止り。その先に歩いて行くと、山の反対側の谷間が眼下に広がっていた。なだらかな谷の斜面一帯は植林されたばかりのようで、綺麗に下草も刈り取られた山肌に、まだ背の低い木が見渡す限り並んでいる。自分が立っているところは、ちょっとした山の鞍部に相当するようである。日没に急き立てられていたこともあり、一も二もなくそこを今夜の野宿地としたのは言うまでもない。

 草の根が頑丈にはびこり、しかも石が混じる硬い地面で、テントのペグが思うように打ち込めなかったが、さほど風もないのでまあ大丈夫だろうと判断。しかし食事を済ませたくらいから、ぽつりぽつり雨が落ちてきた。残念ながら天気予報を聞いてないので、今夜がどんな天候になるのかさっぱり分かっていない。テントを設営した場所は、緩やかな斜面で、ほっといても水はけは良さそうだ。周囲に崩れ落ちてきそうな崖もない。まずは安全と考えていい。しかし夜中にテントを撤収する羽目に陥ることも考え、念の為、ビニールカッパと防水の懐中電灯を、いつもの野宿道具と一緒にテントの中に持ち込んだ。カッパは車の中に常備してある物で、雨の日のパンク修理や、寒い野宿で防寒のために使ったことがある。また防水の懐中電灯は、こんな野宿旅を始めた当初に必要になることもあろうかと、家にあった古い懐中電灯は使わず、奮発して特価品でもないのに新規に購入したのだった。しかし、その日までその防水性能を発揮する機会は一度もなかった。

 雨は最初、テントに降ってもほとんど音を立てない程度のものだった。降っているのかとテントの外に手をかざすと、手に当る雨の感触は以外に強く、それなりの降りのように思えた。テントの一番外側のフライは直ぐにびしょ濡れとなり、フライが触れている部分のテントの内側も、雨がじっとりにじんできている。ペグが十分でないので、テントに触らずフライを張ることができなかったのだ。しかしテントの中が少々濡れたところで大したことはない。ビニール製のエアーマットの上に寝ているので、シュラフが直接水に漬かる心配も少ないのだ。旅の疲れをとらねば、明日の旅に差し障る。とっとと寝る事にした。

 一度は寝ついたものの、雨足は強くなる一方で、風も出てきた。テントを叩く雨の音がうるさくなり、遂には目が覚めてしまう。しかし慌てず騒がず、こんな時の為にと用意してあった耳栓を出して装着。また静寂を取り戻し、うとうとする。ところが間もなく、その耳栓も役に立たないほどの音を出し始めた。雨粒がテントに当ると一粒一粒がバチバチとはじけるような鋭い音を出し、しかもそれが一度に大量に襲ってくるものだから、テントの中は轟音が響いたようになる。こんな大雨は普段経験した事がない。加えて風もますます強力になってきた。谷を渡るヒュ−という音が近づいてきたかと思うと、その直後に周囲の木々をゴウゴウ唸らせ、テントをバサバサ揺らす。テントを設営した場所が悪かった。ちょうど山の鞍部のようなところだったので、谷から谷へ風が通り抜けるのだ。

 音で脅かされるが、目を開けても何も見えない。晴れていれば月明かり、星明りで、人工の明かりが全くなくても、案外見えるものであることを、野宿した者なら経験して知っているだろう。しかし厚い雨雲に覆われてしまった夜は、真の闇である。見えないということは非常な恐怖だ。思わず手探りで防水の懐中電灯を見つけ、テントの中を照らし出す。かなり浸水がきている。隅の方ではもう数センチほどの深さで水が溜まっているところもある。テントは地面に触れる部分は水を通さないようにビニールでできているが、逆に一度テントの中に入った水は、そのままでは外に出て行ってくれない構造になっていのである。シュラフや荷物をなるべく濡れないように位置を調整し、懐中電灯を消して尚も眠ろうと努力する。

 一際強い風の音がしたかと思うと、顔に濡れたテントがかぶさり、また離れた。アルミパイプを使った自立型のテントだが、突風で一瞬つぶれたようだ。一人で組み立てる時は、アルミパイプをしならせるのに、随分骨が折れるテントなのに、それが顔が触れる程しなったのだ。明かりをつけて確認すると、幸いテントに損傷はない。しかし浸水は尚も進んでいた。フライは全面がテントにぺったり張り付いている有様で、そこらじゅうから水滴がぽたぽた落ちてきている。

 撤収を考え始めた。このままではシュラフなどがズブ濡れになり、朝までもちそうにない。それにさっき以上の突風に襲われたら、テントごと飛ばされるんじゃないかと、おっかなくなった。

 まず自分の体が濡れてはいけない。体力を消耗したり、風邪でもひいたら一人旅は困るのだ。用意してあった合羽を着込む。安い透明ビニール製で、こすれた時に静電気が起こり、暗闇の中で青白く光った。テントの中はもう水浸しなので、靴を履いてしまう。シュラフを畳み、ビニール袋に納める。懐中電灯以外の荷物は残らずバッグに詰めた。エアーマットもエアーを抜き、小さく畳んだ。テントから車まで約10m。懐中電灯片手では、これらの荷物は一度では運びきれない。2回の往復で運ぶことにした。なるべく濡らしたくないシュラフとバッグをまず最初に持ち、意を決しテントから出る。目を開けていられない程の雨だ。車まで小走りに走り、荷台のドアを開ける。いつもの様に野宿する時は車の全てのドアのカギを開けてあったのが幸いする。荷物を車に放り込むと直ぐにテントに戻った。人や荷物がなくなり軽くなったテントは、飛ばされかねないからだ。残りの荷物をテントから出すと、アルミのポールを外し、テントをぺしゃんこにする。近くにあった石をその上に置き、なるべく飛ばされないようにする。この状況でのテントの回収はすでに諦めていた。物より人間の方が大事である。それにこんな時に惜しくはないようにと、安物のテントを使っているのだ。

 車に戻って運転席に座る。ヘッドライトを点けると無数の大粒の雨がほとんど真横に流れていく。懐中電灯を近くの森に向けると、木の枝が折れる程にしなって、怪物の様にうごめいている。根こそぎ大木が倒れて来るんじゃないかと怖くなった。この風雨を少しでも避けられる場所を求め、車を移動することにする。イグニッションキーをひねると、エンジンは何事もないかのようにスタートした。当たり前のことだが、それが頼もしく思える。本線の林道まで下る。視界が悪く、どこが道だか、ただの草地だか分からない。間違っても脱輪しないよにと慎重になる。林道へ出て直ぐの所に道幅が広く、片側が低い崖の壁になっているところを見つけた。その壁に沿うように車を停める。これで少しは風雨を避けられそうだ。

 関東平野の比較的穏やかな気候に慣れている者にとって、地域によっては信じがたい様な大雨に襲われる事がある。例えば津軽半島の蟹田町近辺を走っていた時であった。にわかに降り出した雨が徐々にその強さを増していく。昼間だと言うのに夕暮れの様な暗さだ。ついにはワイパーをフル稼動させても、フロントガラスの水滴が一時たりとも拭われる間がなく、全くと言っていいほど視界が得られない。もう歩く程度の速度でしか車を進められず、やっと道路脇に駐車スペースを見つけ、そこで雨足が弱まるまで待たったことがあった。その時は半島のように海に突き出た地域だから、気候もこんなに厳しいのだろうと思った。しかし周囲には人家もあり、これまでそこで人が暮してきたのだから、この程度の天候は心配するほどのものではないのだろうとも思った。

 しかし今は近くに人家などない。こんな悪天候の夜に、山に入っている人間など私以外ひとりもいないことだろう。時折ライトを点けると、雨は林道を川の様にしてしまっている。これだけ大量の水をこの山は無事に吸収できるのだろうか。山ごと崩れてしまうのではないだろうかと不安になる。それ程ではないにしろ、林道の途中で崖崩れが起きても不思議はない。ならば、今すぐこの山から下界へ脱出すべきだろうか。しかし、この状況で林道を走るのは自殺行為だ。じっと思い留まることにした。

 これが複数の仲間どうしでいれば、ちょっとしたスリルを味わって、逆に楽しいくらいのことかもしれない。しかしひ弱なサラリーマン一人では、耐えがたい程の心労である。車の中はテントに比べ尚更雨音がうるさいので、また耳栓をする。シュラフもほどいて体に掛ける。後はシートにぐったり横たわり、なかなか明けない夜をうつらうつらしていた。ぼんやりした頭で、なぜだか朝になりさえすれば、どうにかなると思った。

 朝と同時に風雨がおさまった。白んできた空を見上げると、ちぎれた黒い雲が勢いよく流れて行く。時折雨の名残が風に運ばれてパラパラと舞い落ちる。いつもの旅なら、日が昇ると同時にその日の行動を開始するのだが、今日は1、2時間ほどまだ車の中で休むことにした。体はくたくたである。

 8時くらいになって、体力をつけようと、車から降りてレトルトのおかゆを温める。それは家の近くのスーパーで見つけたもので、最近はなんでもレトルトができてしまう。こんな災難がなくても普段から胃腸が弱いので、おかゆはいいだろうと、今回初めて旅に持って来たのだ。自分ではほとんど料理はしないが、こうした物はいろいろ試すのが好きである。しかし一口食べたらまずいまずい。味もそっけもなくて、病院で食べたあのおもゆみたいだ。何も食べずに出発することにした。

 テントまで引き返す。半分諦めていたが、テントは飛ばされずそこに残っていた。濡れ雑巾のようなテントを適当に丸めて荷台に放り込む。後で気がついたが、その時ペグを何本か忘れたようだ。惜しくはない安物だが、やはりもったいないのである。

大雨の夜が明け、野宿地を後にし、林道を少し走ってきた。
予期せぬ分岐に出て、もうろうとした頭で迷っているところ。

 その後、九州一のロングダートである椎矢峠を越える道を進んだ。体力はガックリ落ち、頭ももうろうとしているので、慎重な運転を心掛ける。幸い心配した土砂崩れもなく、無事矢部町に着く。その日は通潤橋などおとなしく見学し、そのまま矢部町に早めの宿をとった。天候は回復したが、さすがに野宿をする気にはなれない。安全な宿の畳みの上で、静養することにしたのだった。


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