サラリーマン野宿旅
生理現象 惨劇(その3)
 
もうどうにも止まらない
<初掲載 2002. 1.14>
 
 
 旅先で突然の「下痢」に見舞われるのは、私の場合、これはもう体質と諦めている。別に悪い物を食べた訳でなく、食べ過ぎなどの不摂生をした訳でもない。それなのに、どういう訳かこいつが襲ってくるのだ。旅に出た緊張感や、普段の生活のリズムが崩れたことなどが、微妙に影響しているのだろう。それ程デリケートな体質という訳である。

 しかし、旅先で一旦下痢に襲われたとしても、出す物さえ出してしまえば、後はすっきりしたものだ。長い間腹痛に悩まされることはない。これはもう一種の儀式みたいなもので、旅の最初に一度苦しんでしまえば、後は楽しく旅を続けられる。

 ところが、いつもそうだとは限らないことが分かった。その旅の最初も、これは毎度のことだと高をくくっていた。しかし、それは長く苦しい体験の、ほんの序曲に過ぎなかったのだった。

 
 
 去年(2001年)の夏休みは、山形県近辺を集中的に旅をすることにした。東北地方にはよく出掛けているので、当然ながら山形県も何度か訪れている。しかし、いつも急ぎ足の旅になってしまうので、ここはひとつ狭い範囲をじっくり旅してみようかと思ったのだ。たまには、貴重なサラリーマンの休暇を贅沢に使てみるのもいい。

 と、言いながらも、やっぱり大切な休暇である。時間を有効に使おうと、旅の初日は普段になく早起きし、朝の6時前には既に家を出発していた。こんなに早く出掛けるのには、他にも理由があった。
 
 東京の西の方に住んでいる関係上、東北方面へ向かうには、東京の東の方から始まっている東北自動車道に乗らなければならない。しかし、東京の中心を車で抜けて走るなんて、恐ろしくてできたものではない。自慢ではないが、これまで首都高に足を踏み入れたことがないのだ。
 それでこれまでは、都心から遥か北を迂回している国道16号を、延々と走るのが常であった。R16は混雑するし、車線が1車線になったり2車線になったり。右折専用レーンが出て来たり左折専用レーンが出て来たり。一級国道なのに右折もするし左折もする。非常に走り難い道だ。それでも都心を通るより遥かにましだと思っていた。
 
 しかし、今回は違う。中央道を高井戸ICまで走り、そこから環状八号線(通称環八)で北へ向かい、谷原の交差点で左折して、大泉ICで東京外環自動車道に入り、川口JCTで東北自動車道へ乗ろうという途方もない計画なのだ。うまくすればかなりの時間短縮が見込まれる。ただ、どんな険しい峠道を越えるより、これには非常な困難が予想される。それで早起きしたという訳だ。早朝ならまだ交通量が少ないだろうと見込んでのことだった。

 前日に頭に叩き込んだルートを何度も復習しながら、中央道を東へひた走る。危うげながらも環八には正しい方向で乗ることができた。しかし、早起きした甲斐もなく、環八は既に渋滞が始まっていた。忍の一字でゴー・ストップを繰り返す。やっと谷原で曲がり、訳の分からない大泉ICで危うく関越自動車道に入りかけたが、どうにか東京外環道に乗った。その後は大した渋滞もなく、難なく東北道に乗り継いだ。

 
 
 ほっと一安心したところで、早くも下腹部の異常である。実は前日からほとんど眠れていない。旅慣れているとはいえ、旅に出る前は少なからず緊張する。加えて、環八などという都心を走るとなると、気持ちが高ぶって眠れなかったのだ。これでは体調が崩れて当たり前。単に下腹部が痛いだけでなく、体中に気だるさを感じる。
 
 朝食は食べずに出て来たので、当初はどこかのサービスエリア(SA)に入って、持ってきたパンでもかじろうかと考えていた。しかし、この体調では何も食べずに安静にしている方が良さそうだ。ただし、SAには寄ってトイレにしゃがむことにした。高速道路はSAやPAが随所にあって、トイレに困らないのがいい。
 
 
 予定通り、福島県の二本松ICで高速を降り、R459を北西へ走る。国道とはいえ静かな田舎道で、やっと旅が始まったなという感じであった。国道沿いの道の駅「つちゆ」に寄る。そこには小さな食堂があった。ゆで卵の入ったうどんが330円。丁度昼時だ。朝から何も食べていないし、うどんなら消化にいいだろうと食べることにした。しかし、それさえも許されないことだったのだ。

 その直ぐ後、土湯峠を越えて磐梯吾妻スカイラインに入る頃には、またしても腹痛の前兆が始まった。どうもおかしい。いつもなら一度下痢をしてしまえば、その後は大丈夫の筈である。何か変だと思いながらも、浄土平に着いた。ここには名高い観光名所の吾妻小富士がある。そこへ歩いて登るのが観光として当たり前のことなのだが、今の体力ではたして登れるだろうか。
 
 ここには随分前にも1、2度来ているが、その頃はカメラを持たない旅をしていたので、1枚の写真も持ってない。今回は沢山撮る積りだったのだ。吾妻小富士を目の前に、登らないのもしゃくである。意を決して歩き出した。どうにか無事頂上には着いたが、その先お鉢の回りを一周する気力はもう残っていなかった。お鉢の向こうの景色はどんなだったろうかと後ろ髪を引かれながら、元来た道を下り始めた。

 下ると同時にお腹も下り出した。これはいけない。緊急性はかなり高そうだ。下界を見渡しながら、トイレの在りかを確認した。下に着くとその足で一目散にトイレに駆け込む始末だった。

 
 浄土平 吾妻小富士より眺める
下界に見える駐車場の右脇にあったトイレに駆け込んだ
 
 
 弱った体をおしても、その後板谷峠で山形県に入り、米沢市を抜けて飯豊町の添川温泉に着いた。実はこの日は特別に、公共の宿「しらさぎ荘」を前もって予約してあったのだ。いつもは野宿か、よくても安いビジネスホテルに泊まるのだが、たまには贅沢もいいのである。ちょうど体調も悪いので、今夜は温泉に入ってゆっくり休もうと思う。

 ただ、今夜の夕食は、レトルトや即席物でもなく、コンビニ弁当でもない。いつもの旅では滅多に見られない宿で食べる御馳走なのである。いくら腹具合が悪くても、食べない訳にはいかない。夕食の時間にはそそくさと食堂へ出掛け、ご飯は少なめだがおかずはほとんど平らげた。そしてそれがまたいけなかった。

 真夜中の寝静まった宿の廊下を、スリッパの音をぺたぺたいわせ、トイレに足を運ぶ羽目になった。一体私の体はどうしてしまったのだろうか。

 
 
 それでも宿に泊まって、翌朝も遅くまで寝ていれば、少しは体調もいいようだ。やっぱり初日は寝不足がたたっていたのだろう。宿で出される朝食も、まあまあ美味しく食べられた。

 今日は蔵王の御釜を見る予定だ。しかし、ここでも歩く。エコーライン脇の駐車場よりリフトで登り、その先がなかなか長い。それでも、御釜を直ぐ近くで眺め、その後刈田山の頂上までも歩くことができた。何だかだんだん調子が出て来たような気もする。
 リフトで駐車場に戻ると、昼食を食べる気になった。勿論そこにあるレストランなどには目もくれない。駐車場の片隅でコンロでお湯を沸かし、即席ラーメンである。ただし、駐車場にあるトイレにはやはり行っておいた。

 その後は山寺へも登った。芭蕉の句で有名な立石寺である。ここは半端ではない。ほとんど軽登山と同じだ。それも何のその。見事に制覇することとなった。

 その日の宿は安全をみて、天童市の安いビジネスホテルを予約した。やはり、野宿は非常に体力も気力も使う。まだこの先旅は長い。もう少し体調を整えてから望もうと思う。
 ホテルに着いてから、途中で見かけた牛丼屋へと夕食を食べに出掛けた。並盛が280円。このコストパフォーマンスは凄い。以前から一度食べてみたいと思っていたのだ。いい機会である。ホテルからやや離れていたので車で行ったが、それだけの甲斐はあった。非常に美味しかった。しかし、肉はやっぱり消化には良くなかったのだ。

 真夜中にホテルの部屋を出て、トイレに向かう。もう完全な病人である。はだけた浴衣もそのままに、ふらふらと幽霊の様に歩く。便器にすわり、出すものを出しても、全く痛みが引かない。部屋に戻ってベッドに横になっても、眠れたものじゃない。体をくの字に曲げ、両手でお腹を抱え、ただただ痛みに耐えるしかなかった。
 
 これはもういつもの腹痛ではないと実感した。何かウィルス性の様な気がする。風邪を引いた時などに起す腹痛に似ているのだ。とにかく、これ以上、旅は続けられそうもない。それより、このままここで死んでしまうのではないかとさえ思えた。長い夜が続いた。

  
山寺 五大堂より 
暑さの中、よくここまで登れたものだ
 
 蔵王の御釜 刈田岳山頂より
よりによって今回はやたらと登ることばかりだ
 
  
 朝方近くになってようやく眠りについた。あまりひどいようであれば、救急車を呼ぼうとまで考えていたが、その必要はなくなった。チェックアウト時間の10時ぎりぎりまで寝ていることにした。どうやら外は雨のようである。出発しても仕方がない。
 
 休むと少しはいいようで、雨をついて車を走り出せるまでに回復した。昨夜の出来事が悪夢の様に思えた。そしてどうやらまた旅を続ける気にもなった。ただし、もう何も口にすまいと決心した。何か食べるとおかしくなるのだ。それなら食べなければいいではないか。

 その日からの数日間は、朝も昼も夜も、まともな食事は摂らないことにした。ただ、水分補給の為にペットボトルのジュースやお茶を、時々口に含む程度に飲んだ。食事時はたまにせんべいのかけらを口に入れ、それを充分時間を掛けて噛んで飲み込む程度にした。野宿も諦めた。ビジネスホテルを転々として旅を続けた。
 
 それが効を奏したのか、旅の終り頃には野宿をして、レトルト食品を食べても大丈夫な体に戻っていった。

 
 
 どうにか無事に旅を終え、自宅に帰り体重を測ってみると、20年以上前の二十歳の頃と同じ体重になったいたのには驚いた。あの、「もうどうにも止まらない」状態が数日も続いたのだから、その後遺症がまだ残っていたとしても当然か。
 
 旅先の病気はいやなものだが、思い返してもあの時は辛かった。あんな辛さはもう沢山である。これからもちょっとした腹痛程度で勘弁してもらいたいものだ。
 
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