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オロフレ峠
  おろふれとうげ  (峠と旅 No.017-2)
  しばしば霧に包まれる旧道の峠道
  (掲載 2026. 8.17  最終峠走行 2026. 7.16)

   
   
   
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オロフレ峠の行止り箇所 (撮影 2026. 7.16)
手前は北海道有珠郡壮瞥町字黄溪
奥は登別市カルルス町
道は主要道道2号・洞爺湖登別線
標高は930m (峠に立つ看板などより)
ここは旧道の峠で、この下には新道のオロフレトンネルが通じる

この峠については「行止りの峠」(掲載 1997. 7. 5)などと称して簡単に掲載してあった
そこで「行止り」の箇所を象徴的に先頭の写真にしてみた

   
   
   

   

<掲載動機(余談)>
 前回コマクサ峠を掲載したので、一つにはカタカナ繋がりと言う訳だ。また、つい最近北海道旅行をし、30年振りにこのオロフレ峠を訪れた。過去2回はどちらも濃い霧だったが、今回の旅では晴天に恵まれた。写真も沢山撮ることができ、再掲載しようと考えた。

   

<所在>
 峠はざっくり言って東西方向に通じる。東側は登別市(のぼりべつし)カルルス町(ちょう)、西側は有珠郡(うすぐん)壮瞥町(そうべつちょう)字黄溪(おうけい)になる。
 
 北海道の住所表記はちょっと変わっているようで、大字(おおあざ)が見られない。カルルス町や壮瞥町の下に大字がないようだ。
 
<群>
 壮瞥町は有珠郡だが、登別は市なので群はないが、登別町の時代(昭和45年以前)は幌別郡(ほろべつぐん)だったそうだ。よって、以前のオロフレ峠は郡境でもあった。登別市が施行されて幌別郡は消滅している。
 
<地域・地方>
 幌別郡も有珠郡も明治2年の国郡制設定により胆振(いぶり)国の1郡として成立している。現在は胆振地域または胆振地方などと呼ばれる。全部で14地域ある。北海道は広いので、こうして群より大きな単位が存在する。

   

<地理院地図(参考)>
 国土地理院地理院地図 にリンクします。


   
本ページでは地理院地図上での地点を適宜リンクで示してあります。
   

<区分(余談)>
 更に大きく北海道は道央(どうおう・道南(どうなん)・道北(どうほく)・道東(どうとう)の4つに区分けされる。胆振地域は道央に属する。
・道央:石狩、空知、後志、胆振、日高
・道南:渡島、檜山
・道北:上川、留萌、宗谷
・道東:網走(オホーツク)、十勝、釧路、根室
 
<旧支庁(余談)>
 以前は「支庁」(しちょう)という呼び方をよく使っていた。14支庁あり、多分地域名がそのまま支庁名になる。しかし、この制度は廃止されたそうだ。 今は9局の総合振興局(空知、石狩、後志、胆振、日高、渡島、上川、十勝、釧路)と5局の振興局(檜山、留萌、宗谷、オホーツク(旧・網走)、根室)に分かれるとのこと。
 
 長年親しんだ「支庁」がなくなったのは寂しい。峠の中には支庁境も多かった。例えば日勝峠(にっしょうとうげ)などの様に、隣り合う日高支庁と十勝支庁のそれぞれ一文字を取って峠名としていた。 これからの日勝峠は日高総合振興局と十勝振興局の境と言わなければならない。ただ、地域とか地方という呼称はまだ使われるようだ。
 
 今回のオロフレ峠は郡境止まりである。

   

<立地(余談)>
 道央の胆振地方の旧幌別郡と有珠郡の境などと言っても、よほど北海道の地理に詳しくないと峠の所在は分からない。北海道ではチキウ(地球)岬で知られる室蘭(地理院地図)が分かり易いだろう。南岸に接する胆振地方では最も南に張り出した岬だ。室蘭港は青森県の八戸港(地理院地図)との間にフェリーが運航している。以前は下北半島の大畑港(地理院地図)との間にもフェリーが通じ、航路による北海道への玄関口の一つにもなる。
 
 その室蘭の左上に壮瞥町の洞爺湖がある(地理院地図)。一大観光地であり、近年洞爺湖サミットが行われて事で知られる。一方、右上の沿岸沿いには登別市が位置する(地理院地図)。オロフレ峠は登別市街から洞爺湖近くを結んでいる。

   

<水系>
 登別市側は比較的単純で、峠道は概ね登別川(地理院地図)に沿って登り、峠は登別川の源頭部に位置する。登別川は2級河川ながら一水系を成す。
 
 壮瞥町側はちょっと複雑だ。大きくは美笛峠(びふえとうげ、地理院地図)に源を発する長流川(おさるがわ、地理院地図)水系に属す。峠はその支流の白水(しろみず)川(地理院地図)の源流部にあるように読める。但し、峠道は別の支流・弁景(べんけい)川(地理院地図)水域から登り、峠直前で白水川水域に入っているようだ。
 
 本峠は登別川水系と長流川水系の分水界にあり、登別川側では一番奥の峠になる。長流川側では美笛峠をはじめとして幾つもの格上の峠が存在する。

   
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峠にあった道路史碑の石碑 (撮影 1996. 7.22)

<峠道の経緯>
 本峠に通じた道の変遷については、「オロフレ峠 道路史碑」という石碑に詳しく書かれていた。30年前に訪れた時は霧で何の景色も見れなかったが、その石碑の碑文は写真に収めて置いた(左の写真)。 そこに書かれていた内容を整理すると、以下のようになる。

   

  史誌
●明治14年(1881年):登別〜登別温泉間の道路を開削
  (滝本金蔵氏が私費を投じた)
●明治24年:客馬車開通(登別〜登別温泉間?)
●大正 4年(1915年):軽便鉄道開通(登別〜登別温泉間?)
●大正10年:登別〜カルルス間が準地方道に認定
●昭和 7年(1932年):弁景〜オロフレ間(壮瞥側)の道路改良完成
●昭和 8年:カルルス〜オロフレ間の道路改修工事開始
●昭和11年?(3ヶ年後):上記完成
●昭和11年:融雪大水害発生・満州事変勃発により不通
  (カルルス〜オロフレ間?)
●昭和29年:道道に昇格、カルルス〜オロフレ間の改良工事に着手
●昭和37年:上記の工事概成(がいせい、一応の完成)
●昭和38年:登別〜カルルス間の舗装工事完成
●昭和45年:オロフレトンネルを含む本格的改良工事の調査開始
●昭和52年:上記工事開始
●昭和63年(1988年)10月:主要道道・洞爺湖登別線の併用開始
  通年通行可に
 
 文献(角川日本地名大辞典)では、「峠は深雪のため、11〜6月上旬に道路閉鎖される」と出ていたが、文献の発行年(1987年10月)からすると、オロフレトンネル開通前のことだろう。
 
 また、別の文献(日本歴史地名大系)では、オロフレ峠の車道工事は昭和2年に始まり、昭和10年10月に全線開通したとある(碑文では昭和8年から3ヶ年後)。この時初めてオロフレ峠を自動車が越えたそうだ。 しかし、早くも翌昭和11年には融雪被害で不通となり、その後は大戦の為に放置されたとある。

   

<旧道の道筋>
 本峠が片側からしか登れない行止りの峠となったのも、オロフレトンネルの新道が通じたことによる。個人の経験では、1990年7月に訪れた時点で登別市側は通行止となっていた。新道開通の僅か2年後のことである。
 
 石碑の史誌にもあるように、登別側7Kmが急勾配・配急カーブの険しい道だった。しかし、現在の地理院地図や一般の道路地図では旧道の道筋は消されてしまっていて全く分からない。峠から登別側にはまず登別川右岸沿いに道が下る。 現在の峠道は常に登別川の左岸側に通じるが、中腹に位置するカルルス温泉(地理院地図)辺りから右岸側に旧道が通っていたのではないかと想像したりした。 古いツーリングマップ(1989年5月発行)にはまだ新旧2本の道が描かれているのだが、何せ1/28万の粗い縮尺では詳細は読み取れない。

   

<航空写真>
 そこで地理院地図の年代別航空写真を探してみた。最も古い写真で1974年〜1978年のものが見付かった(下の写真)。時期的にはオロフレトンネルを含む本格的な改良工事が始まった頃である。そこにははっきり旧道が写っていた。  (国土地理院地理院地図 にリンク)


   
地理院地図の1974年〜1978年の航空写真
   

 その道筋は、峠から登別川の右岸側を屈曲しながら下り、峠直下で左岸に入り(地理院地図)、現在のオロフレトンネルの坑口近くに至るものだった(地理院地図)。地理院地図では「798」の標高が記されている地点である。それ以降はほぼ現在と同じ道筋になるようだ。旧道区間は約2Km程になる。

   
   
   

峠の登別市側

   

<登別駅>
 オロフレ峠の登別市側起点は登別駅(地理院地図)と言えるだろう。背後に太平洋を控えたその駅の正面から、真っ直ぐに道が始まっている。国道36号との交差点以降は峠を越える主要道道2号・洞爺湖登別線となる。
 
<余談>
 今回の北海道旅行では行き先に迷ったら近場の駅に立ち寄ることとした。北海道のちょっと大きな駅はどこもゆったりした造りで、駐車場に困らない。乗降客や出入りする車は少なく、混雑とは無縁だ。 それでいて閑散としているかというと、意外と人は多い。広い待合所や休憩室が設けられ、そこで列車を待っているのか、多くの客が居た。昨今の時勢を反映してか外国人が目立つ。

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登別駅 (撮影 2026. 7.18)

   

 特に登別駅は歌にも歌われた登別温泉の大観光地を控えた観光基地である。登別市観光交流センターという施設が併設され、情報を得るにも便利だ。他にも雨を避けて休憩したり、トイレを借りたり、昼食を摂ったりと利用価値は高かった。以前の旅はこうした人が集まる場所が苦手で、人があまり来ない寂しい道ばかり走っていた。最近はやや図々しくなったようだ。

   
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登別駅にあった周辺案内図 (撮影 2026. 7.18)
概ねオロフレ峠の登別市側が描かれている

   

<道道350号分岐>
 道道2号・洞爺湖登別線をそのまま真っ直ぐ走っていればオロフレ峠に着くかというと、そうではない。登別温泉方面に行ってしまうのだ。道道2号の方は途中で左折する(地理院地図)。直進は道道350号・倶多楽(くったら)湖公園線になる。前述の道の変遷からも分かるように、登別市街とます登別温泉が結ばれた。客馬車や軽便鉄道の開通も、登別温泉への交通の為であろう。

   
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道道350号分岐 (撮影 2026. 7.18)

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分岐の看板 (撮影 2026. 7.18)
オロフレ峠へは左折する

   

<登別温泉(以下暫く余談)>
 登別温泉は世に知られた温泉地だ。道道350号沿いに大きな温泉街が広がる。

   
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登別温泉の温泉街の様子 (撮影 2026. 7.18)
大きな旅館・ホテルが立ち並ぶ

   
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登別温泉の案内看板 (撮影 2026. 7.18)

<地獄谷など>
 また、宿泊だけでなく、地獄谷などの見学だけでも楽しめる。しかし、さすがにここは混んでいる。人も車も多い。駐車場所の確保や遊歩道の選択など、いろいろ悩まされる。
 
 特に「わ」ナンバーの車が多い。レンタカーである。幹線路は広いが、駐車場の出入りなどは狭い。いつまでもウロウロしている車が進路を妨害する。そうした車とのトラブルも多い。 駐車場に停まって次の目的地をカーナビにセットしていると、真横に大型のワンボックスカーが入って来た。他にいくらでも場所が空いているのに、何でここに停めるのかと嫌な予感がした。 案の定、助手席のドアがパット開くとこちらの車のドアにヒットした。その男性は知らん顔でさっさと見学に行ってしまった。後から降りて来た運転手に文句を行ったが、その中国人には日本語が通じない。 身振り手振りで説明を試みるが、全く意に介さない様子だ。ドアの傷もほとんど目立たない程度だったので、そのまま諦めることとした。

   

 来る者は拒まずで、日本を観光先として選んだことは、それはそれでいいことだと思う。出来ればいい思い出を持って帰国し、リピーターになってくれるといい。しかし、私が経験したような小さなトラブルは尽きないことだろう。これは受け入れる日本側の対応だけでは、解決しない問題である。

   
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地獄谷 (撮影 2026. 7.18)

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大湯沼 (撮影 2026. 7.18)

   

 北海道は好まれる旅行先としていつも上位にあり、私もこれまで10回旅をしている。登別温泉の地獄谷なども訪れたことがあると思うが、一枚の写真も見付からない。 自分は他の観光客とは違うぞという気概があり、記念写真など滅多に撮らなかった。しかし最近は旅のスタイルも大きく変わり、こうした普通の観光地を普通に観光している。登別温泉の奥に位置する大湯沼なども見学した(地理院地図)。手軽なデジカメということもあるが、登別温泉だけでも100枚近く写真を撮っている。11日間の旅行で、2千枚以上に登る。
 
 大湯沼から先の道道350号・倶多楽湖公園線は通行止になっていた。以前は倶多楽湖畔の方からグルっと周遊できる道だった。途中にあった日和山展望台(地理院地図)からは眼下に大湯沼が望めた(下の写真)。

   
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日和山展望台 (撮影 1996. 7.22)
道道350号・倶多楽湖公園線沿いにある

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日和山展望台から見る大湯沼 (撮影 1996. 7.22)
残念ながらガスっていた

   

<余談>
 今回、久し振りに北海道を旅してみると、新しく道が通じた所もあったが、以前通れた道が通行止になっている箇所も多く見られた。支笏湖北部にあるオコタンペ湖へ通じる道道78号も途中で通行止だった。オコタンペ湖は北海道三大秘湖の一つとも言われるそうだが、ますます秘湖らしくになって行く。

   

<カルルス温泉>
 道道2号の先に進む。道道350号を分けてからは一気に寂しい道となる。沿道に人家は皆無だ。この先、峠を越えた弁景集落が出て来るまで、一般の住居はないものと思う。
 
 峠までの2/3程も来ろうか、カルルス温泉の前を通過する(地理院地図)。道道沿いには旅館など見られず、駐車場とトイレ、それに案内看板があるだけだ。

   
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カルルス温泉付近 (撮影 2026. 7.18)
道道の脇に駐車場と案内看板が立つ

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カルルス温泉の案内看板 (撮影 2026. 7.18)

   

<カルルス温泉内(余談)>
 カルルス温泉にちょっと寄ってみた。この付近は道道が登別川に一番近付いた箇所で、温泉街は登別川を挟んで広がる。登別温泉を見学した後では、小さな温泉街に映る。
 
 道路史碑には、このカルルスからオロフレ間の改良工事が行われたとか、特にオロフレ峠から登別側7Kmが険しかったということなどが記されている。 オロフレ峠から7Kmとは、現在廃道となっている旧道区間を約2Kmとすると、オロフレトンネル坑口から残り5Kmとなる。その地点はやはりカルルス温泉のちょっと先になる(地理院地図)。
 
 最初、この険しい区間にはもっと別ルートの旧道があるのかと思っていた。地理院地図などを眺めていると、カルルス温泉より登別川右岸沿いに峠に向かって少し道が延びている。何か手掛かりはないかと探したが、何も見付からなかった。やはりそのような旧道は存在しないようだ。

   
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カルルス温泉の様子 (撮影 2026. 7.18)
オロフレ荘の前辺り
この先に寿橋が架かる

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旅館などの案内看板 (撮影 2026. 7.18)
「カルルス温泉 観光マップ」

   

 カルルス温泉では寿橋(ことぶきばし)で右岸に入り、上流側の東雲橋(しののめばし)経由でまた道道に戻った。道道からは直接は登別川の流れは見られない。カルルス温泉の案内では東雲橋を渡ると川のせせらぎが聞けると記している。 峠から望む登別川の谷は険しいの一言だが(後述)、この付近の流れは優しいようだ。

   

<登別側ゲート箇所>
 カルルス温泉から道道に戻って来ると、その分岐の峠側にしっかりしたゲート箇所がある。ゲート脇に立つ道路情報の看板には「カルルス〜弁景 落石」とある。オロフレトンネル開通後、道道2号は基本的には通年通行可能だと思う。しかし、時期によっては夜間通行止となるようだ。

   
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カルルス温泉から道道に戻って来たところ (撮影 2026. 7.18)
道道にゲート箇所がある

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登別側ゲート箇所 (撮影 2026. 7.18)
峠方向に見る
しっかりしたゲートだ

   
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登別側ゲート箇所を市街方向に見る (撮影 2026. 7.18)
右にカルルス温泉への道が分かれる

   

<壮瞥側ゲート箇所>
 登別側ゲート箇所に対応したゲート箇所が壮瞥町側にもある。国道453号から道道2号に入って7Km程の地点だ(地理院地図)。最初、大きな電光掲示板が出て来て、次に右手に幌別硫黄鉱山鉱廃水処理場への道を分ける。その直ぐ先だ。

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壮瞥町側の道道2号 (撮影 2026. 7.16)
電光掲示板が出て来る
この時は何も表示されていなかった

   
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壮瞥町側ゲート箇所 (撮影 2026. 7.16)
峠方向に見る
手前を右手に幌別硫黄鉱山鉱廃水処理場への道を分ける

   
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壮瞥町側ゲート箇所 (撮影 2026. 7.16)
左手に通行規制の看板が立つ

<通行規制>
 ゲート脇に「特殊通行規制区間」と書かれた看板が立つ。「これより17.3km区間」とある。これは登別側と壮瞥側の各ゲート箇所に挟まれた区間の距離となるようだ。
 
 看板は「吹雪による視界不良時には通行止になります」と続ける。吹雪にならなくともこのオロフレ峠は視界不良になるのだがと経験者は思う。峠道をよく旅する者としてこうした通行規制の看板はよく目にするが、「特殊」が付くのはあまりお目に掛ったことはない。

   

<登別側ゲート箇所以降>
 登別温泉では時々傘を差さなければならなかったが、峠へと登るに従い増々天候は悪くなって行く。峠方向から下って来る対向車は皆ヘッドライトを点けていた。昼間なのに夕暮れの雰囲気だ。時々深い霧が立ち込める。道は良いのだが、走るのが怖くなってくる。オロフレ峠はかつて2回訪れたが、いつもこんな霧の中だった。

   
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対向車は皆ヘッドライトを点灯 (撮影 2026. 7.18)
時間は昼の12時

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深い霧が立ち込める (撮影 2026. 7.18)

   

<原生林(余談)>
 道道の周囲には原生林が広がる。日本の中で「原生林」という言葉が使われるのは、北海道ぐらいなものだ。これも大陸的な広大さによるものと思う。手付かずの自然の中に道が通っている。単に霧が濃いだけでなく、この荒々しい原生林の雰囲気が何となく恐ろしく感じさせているような気がする。
 
<覆道区間>
 オロフレトンネルの手前1Km余りから覆道の連続が始まる。道の屈曲が激しい上に霧で視界が悪い。対向車が勢いよくはみ出して来ないかと心配である。周囲の車が安全運転してくれることを願う。
 
く第7覆道>
 覆道には番号が付いていて、最初は「オロフレ第7覆道」となる(地理院地図)。どの覆道も屈曲していて怖そうだが、覆道内はあまり霧が立ち込めず、かえって視界はいいように感じた。このままうまく乗り越えたい。

   
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オロフレ第7覆道に入る (撮影 2026. 7.18)

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オロフレ第7覆道の中 (撮影 2026. 7.18)
意外と視界ははっきりしている

   
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オロフレ第7覆道の峠側坑口 (撮影 2026. 7.18)
市街方向に見ている(帰り道の途中)

<第6覆道>
 オロフレ第7覆道を抜けると直ぐに第6覆道に入る(地理院地図)。どれも同じような覆道なので、形だけでは区別がつかない。

   
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オロフレ第6覆道 (撮影 2026. 7.18)

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オロフレ第6覆道の峠側坑口 (撮影 2026. 7.18)

   

<第6覆道の先>
 第6覆道の先はちょっと間が空く(地理院地図)。「洞爺湖温泉 31Km、オロフレ峠 7Km」と看板が立つ。この峠までの「7Km」とは、オロフレトンネルを抜けた先の壮瞥町側から更に旧道を登る道程である。

   
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第6覆道の先 (撮影 2026. 7.18)

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「オロフレ峠 7Km」の看板 (撮影 2026. 7.18)

   

<第3覆道+第1覆道>
 オロフレ覆道は第7、第6と続いたので、今度は第5かと思いきや、第3覆道と出ていた(地理院地図)。またその出口にはオロフレ第1覆道と書いてある(地理院地図)。不可解だ。

   
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オロフレ第3覆道に入る (撮影 2026. 7.18)

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オロフレ第1覆道の峠側坑口 (撮影 2026. 7.18)
オロフレ第3覆道の出口

   

 この覆道の連続からオロフレトンネルに至る区間は、史誌にあったように昭和52年より12年もの長い歳月を掛けて改良を行った峠道最大の難所である。その間にいろいろな変遷があったものと思う。覆道も追加されたり改修されたりが繰り返されたことだろう。
 
 第3覆道から第1覆道に至る箇所は、途中に完全なコンクリートのトンネル箇所もあり(地理院地図)、改修された様子だ。第2覆道が見当たらないが、第3と第1の間にあったのかもしれない。元々1、2、3と並んでいた短い隧道が、繋げられて一体化された可能性がある。

   

<第4覆道>
 オロフレ第4覆道は単独で存在する(地理院地図)。

   
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オロフレ第4覆道 (撮影 2026. 7.18)

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オロフレ第4覆道の峠側坑口 (撮影 2026. 7.18)

   

<第5覆道>
 オロフレ第5覆道はオロフレトンネルの坑口に接続している(地理院地図)。隧道入口左側に看板があり、全長142mと書いてある。オロフレトンネルが935mなので合計1,、077mと1Km超えになる。
 
 結果として覆道をトンネル側から並べると以下のようになる。
 オロフレトンネル+5、4、1+(2)+3、6、7
 
 やはり第2覆道は1と3の間にあったものと考える。その後、4、5、6、7と増設されたのだろう。(以上、覆道に関する余談でした)

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オロフレ第5覆道に入る (撮影 2026. 7.18)
続いてオロフレトンネルを抜ける

   

<オロフレトンネル>
 オロフレトンネル内は直線路で起伏もほとんどない。登別側坑口付近の標高は地理院地図には798mと出ている。壮瞥町側もほぼ同じ標高だ。

   
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オロフレトンネルの壮瞥町側出口 (撮影 2026. 7.18)

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オロフレトンネルの壮瞥町側坑口 (撮影 2026. 7.18)

   

<オロフレ橋>
 オロフレトンネルの壮瞥町側はトンネルに続いて直ぐにオロフレ橋を渡る(地理院地図)。白水(しろみず)川の支流上部だと思う。

   
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オロフレ橋を渡る (撮影 2026. 7.18)

   

<展望所>
 天候は更に悪化した。どこか退避所に逃げ込み、一休みしたい。トンネル坑口から300m程の所に展望所がある(地理院地図)。オロフレ峠は登別市側の眺めはいいが、壮瞥町側にはあまり視界が広がらない。その点、この展望所は壮瞥町側を眺めるのに適している。本来は遠く羊蹄山(地理院地図)まで見渡せるそうだが、今は深い霧の中だ。今はただただ車の運転の緊張から解放されたい一心で逃げ込んだ。

   
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トンネルの先 (撮影 2026. 7.18)
右手に壮瞥町の看板が立つ

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右手に展望所 (撮影 2026. 7.18)
今は何も見えない

   

<道路史碑の石碑>
 展望所にはアスファルトの駐車場が広がり、その片隅にトイレがある。奥に進むと何かの設備の建屋に並んで大きな石碑が立っていた。「オロフレ峠 道路史碑」とあり、「史誌」と題した碑文が刻まれる。 激しく降る雨の中で何回もカメラのシャッターを切り、どうにか碑文が読める程度の写真を撮った。

   
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展望所の様子 (撮影 2026. 7.18)
奥に道路史碑が立つ

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道路史碑 (撮影 2026. 7.18)

   

 後で比べてみると、やはり30年前に写した峠の石碑(前出)と全く同じである。峠にあったような気がしていたが、記憶違いだろうか。トンネルによる新道の開通後に建立したことは間違いない。 元々ここに立っていたとしたら、この展望所も30年前には既にあったということになる。峠にあるよりもこちらの方が人目に付くだろう。

   
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オロフレ峠 道路史碑 (撮影 2026. 7.18)

   
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「オロフレ峠 道路史碑」の碑文 (撮影 2026. 7.18)
大雨が降っていたので、ちょっと読み難い
(碑文の内容については前述)

   

 この大雨の中、これから旧道を登って峠を見に行っても仕方がない。オロフレ峠はいつ来ても霧に悩まされる峠であった。壮瞥町にある洞爺湖周辺の観光は数日前に済ませてあったので、ここから再び登別市側に戻ることとした。

   
   
   

峠の壮瞥町側

   

<壮瞥町側より峠へ>
 しかし、この2日前に壮瞥町側から峠まで往復してあった。その日は晴天に恵まれた。
 
<字黄溪>
 長流川(おさるがわ)沿いに通じる国道453号から分かれ、道道2号・洞爺湖登別線を進む。前述の瞥町側ゲート箇所を過ぎた先で、字弁景から字黄溪(おうけい)に入る(地理院地図)。「黄溪」は「黄渓」とも書くが、地名を表す場合は「黄溪」を使うことが多いようだ。道はこのまま峠まで全て黄溪の地に通じる。
 
 地図をちょっと見た限りでは、黄溪には集落がなさそうだ。地名は「硫黄(いおう)の産する沢」にちなむとのこと。黄溪は硫黄鉱山で栄た土地だったが、昭和48年に閉山となり無住地となったとのこと。
 
<黄渓橋>
 途中、大きく湾曲した黄渓橋(おうけいばし)を渡る(地理院地図)。この付近から一段と空が広がりだす。

   
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黄渓橋 (撮影 2026. 7.16)

   

 過去2回訪れた時は、こんな立派な黄渓橋はまだ架かっていなかった。1989年5月発行のツーリングマップには、黄渓橋付近は「一部未舗装」と出ていたくらいだ。私が通った時に未舗装だったか記憶にないが、大規模な改修前であったことは確かである。黄渓橋の完成は1997年11月とのこと。
 
<展望所>
 弁景川右岸の斜面を大きく蛇行しながら暫く登ると展望所があった(地理院地図)。南方に景色が広がる。この場所にも記憶がない。黄渓橋などの改修工事に伴って建設されたのだろう。

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右手に展望所 (撮影 2026. 7.16)

   
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展望所からの眺め(1/3) (撮影 2026. 7.16)

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展望所からの眺め(2/3) (撮影 2026. 7.16)

   

<洞爺湖を望む>
 右手奥には洞爺湖が望めた。中央に大きな中島があり、脇に弁天島、観音島、饅頭島が浮かぶ。その島の間を抜けて遊覧船で観光した。

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展望所からの眺め(3/3) (撮影 2026. 7.16)

   
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洞爺湖を望む (撮影 2026. 7.16)

   
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有珠山を望む (撮影 2026. 7.16)

<有珠山を望む>
 洞爺湖の左手に頭一つ高く望める山は有珠山(うすざん)だろう。その手前にある筈の昭和新山は見えないようだ。有珠山ロープウェイに乗った折り、間近に見学した。
 
<余談>
 北海道にはこうした観光地があちこちに点在する。もう随分前に大体の観光地は訪れているのだが、今回の旅の様に遊覧船やロープウェイに乗ってじっくり見学したことはない。昭和新山なども写真一枚撮ってそれきりだった。

   

<余談の続き>
 しかし、初めてあの荒々しい火山を眺めた時の感動は、今ではもう湧いて来ない。それに、あまりにのんびり観光したので11日間も費やしながら、羊蹄山から東、苫小牧より西の狭い範囲しか回れなかった。本当は大雪山系の三国峠を再訪したかったのだが、全く届かなかった。
 
 道は弁景川右岸の斜面を登って北へと向かう。その頃「オロフレ峠4.6Km」の看板が出て来る(地理院地図)。これから弁景川本流沿いからその支流沿いへと移る途中で、分水界の尾根上に通じる道はなだらかだ。
 
 北海道の峠道はこうして複数の水域を跨いで通じることが多い。一本調子で登らずに、途中に若干のアップダウンが生じる。北海道は広大で大陸的な地形だからだろうかと思う。その点が本州の峠と異なり、どうも峠道としては好きになれない。

   
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「オロフレ峠 4.6Km」の看板が立つ (撮影 2026. 7.16)

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「オロフレ峠 4.6Km」の看板 (撮影 2026. 7.16)

   

<旧道分岐付近>
 次に「オロフレ展望台 2.7Km」の看板が出て来る。「展望台」とはほぼ峠を意味する。看板の位置から分岐まで100m余り残すので、峠へと至る旧道区間は約2.6Kmとなる。この分岐の付近(地理院地図)、なだらかながらちょっとした峠の様になっている。これまでの弁景川水域を抜け、白水川(など)に移ろうとしているようだ。

   
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オロフレ峠まで2.7Km (撮影 2026. 7.16)
この先道はやや下っている
ちょっとした峠の様相

   

<旧道分岐>
 分岐を直進すればオロフレトンネルへと続く新道となる。丁度正面に見える山はオロフレ山だろう。
 
 
<旧道へ>
 旧道と言っても展望台へのアクセス路、オロフレ山などへの登山道としてよく整備されている。新道が開通した1988年以降も、道路改修は続けられているのだろう。寂れた雰囲気など全くなく、快適な2車線路が続く。

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右に旧道分岐 (撮影 2026. 7.16)

   
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ゲート箇所 (撮影 2026. 7.16)


<ゲート箇所>
 旧道に曲がって直ぐ、ゲート箇所が待っている(地理院地図)。新道の方は通年通行だろうが、さすがに行止りの峠への道は冬期閉鎖になるものと思う。また、ゲート脇には雨量規制の看板も立っていた。やはり峠道というのは厳しい環境に通じているものだ。

   
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左に道がある (撮影 2026. 7.16)

<もう一つの峠道?>
 旧道に入って1.5Km程行くと、左手に細い道が分かれる(地理院地図)。地理院地図に「913」と標高が記されている地点になる。何かの作業道の残骸だろうと思っていた。もう車では通れそうにない道である。
 
 しかし、地理院地図には点線表記の徒歩道が下り、新道を横切り(地理院地図)、その先白水川の河口付近で国道453号に接続している(地理院地図)。しかも前述の1974年〜1978年の航空写真にその道筋がくっきり写っていた。
 
 長流川沿いに字蟠溪(ばんけい)という小集落が見られる(地理院地図)。「ばんけい温泉」という温泉もあるようだ。その付近からオロフレ峠を越えて登別方面を繋ぐ峠道が、古くから通じていた可能性がある。(正確な住所では字幸内(こうない)に道が通じる)

   

<余談>
 その道は概ね白水川本流域を登っているので、峠道としては極めて素直な道筋である。現在の弁景経由の道道2号より距離的にもやや有利かもしれない。 しかし、洞爺湖温泉などがある繁華な地の洞爺湖南岸方面からは離れていて、利用頻度は低かったことだろう。現在のオロフレ峠(トンネル)は登別温泉と洞爺湖という2大観光地を結ぶ観光道路としての意味合いが強い。
 
 元々は蟠溪(幸内)起点の道も使われていたことだろう。しかし、弁景経由の車道改修が進み、自動車社会になると伴にその道の利用は激減したものと思う。昨今の人口減少などにより道の維持管理コストの負担は増加する。 利用する道を選別せざるを得ない。そうした背景にこのもう一本の峠道は廃道となる運命のように思う。

   

<工事箇所>
 峠の手前500m程の地点で偶然に工事を行っていた(地理院地図)。片側交互交通ながらも、どうにか通ることができた。
 
<余談>
 こうして適宜補修を続けてもらわなければ、車の通行は確保できない。ここは行止りの峠への道で、いわば盲腸管である。展望所から景色を眺めるか、近場の山へ登るか程度の利用であろう。いつまでこの旧峠道が維持されるか、やや不安を覚える。

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工事箇所を通る (撮影 2026. 7.16)

   
   
   

   

<峠へ>
 ここからが本題で、これまでは全て余談のようなものだった。このオロフレ峠については、峠部分だけ掲載するばそれで十分なように思える。現在のオロフレトンネルを抜ける峠道全体は、快適な観光道路である。
 
<地形的立地>
 峠は北のオロフレ山(1230.5m)から南の来馬(らいば)岳(1039.9m、地理院地図)を結ぶ稜線上の最も低い鞍部に通じている。標高は文献の一部に「940m」という記述が見られるが、峠に立つ看板など殆どは「930m」としている。

   
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オロフレ峠 (撮影 2026. 7.16)
壮瞥町側から見る

   

<峠の様子>
 この鞍部は非常に緩やかだ。車道は南西寄りに通じているので、北東側に平坦地が広がり、そこに広い駐車場が設けられている。

   
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オロフレ峠(1/4) (撮影 2026. 7.16)
壮瞥町方向を見る

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オロフレ峠(2/4) (撮影 2026. 7.16)
駐車場方向を見る

   
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オロフレ峠(3/4) (撮影 2026. 7.16)
駐車場方向を見る

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オロフレ峠(4/4) (撮影 2026. 7.16)
登別市方向を見る

   

<バイク旅(余談)>
 オロフレ峠は過去2回訪れているのだが、今回初めてその姿を見たのだった。最初はホンダのバイク・AX−1に乗ってやって来た(1990年7月)。ツーリングマップの「360度の雄大な景観」という一言で訪れる気になった。 しかし、旧道に入る頃には凄い霧だ。「景観」などもう無駄と思ったが、ここまで来たら峠までは行こうという一心だ。途中からは数m先も見えなくなった。ゆっくり走ることもままならず、両足を交互にバタバタ地面に着きながらバイクを進めた。 見えるのはもう足元のアスファルトだけである。方向感覚も何もあったのもではない。ただただ道路からはみ出さないようにと進む。対向車にも要注意だ。
 
 すると突然、路面が広がった。もう道だか何だか分からない。ウロウロしながらちょっと行くと、左手に売店らしい建物があった。それでどうやら峠に着いたと理解した。それ以外、何も見える物はない。この広い峠で帰路を見失っては事である。 また両足をバタバタさせながらバイクを転回させ、どうにか道を発見して下って行った。

   
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峠の様子(1/4) (撮影 2026. 7.16)
北東の稜線方向を見る

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峠の様子(2/4) (撮影 2026. 7.16)
東方を見る

   
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峠の様子(3/4) (撮影 2026. 7.16)
南方を見る

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峠の様子(4/4)看板 (撮影 2026. 7.16)
南西の稜線方向を見る道

   

<壮瞥町側の眺め>
 駐車場の端から北西方向に視界がある。しかし、この壮瞥町側の地形は穏やかで、あまり眺望はない。視野の左端に僅かに洞爺湖が見えた。ツーリングマップルには晴れた日には羊蹄山も見えるということになっているが、本当だろうか。

   
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壮瞥町側の眺め (撮影 2026. 7.16)

   

<看板・石碑など>
 駐車場の登別市側の端に並んで看板などが立つ。

   
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看板類が並ぶ (撮影 2026. 7.16)

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大観望の碑 (撮影 2026. 7.16)

   
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峠の看板 (撮影 2026. 7.16)

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峠の看板(裏) (撮影 2026. 7.16)

   

<ジムニーの旅(余談)>
 バイクで訪れた6年後に、今度はジムニーでやって来た(1996年7月)。ところがまたしても峠は霧の中である。しかし、身体を露出したバイク旅に比べ、車の中なら遥かに安全である。それに霧も前回より少しはましだった。 峠で暫しウロウロする。それでも写真に撮れるような景色はどこにもない。せめてオロフレ峠を訪れた証にと、峠の看板を写真に撮った。

   
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峠の看板 (撮影 1996. 7.22)
今から30年前

   

<建物>
 以前は霧の中で峠の様子は良く分からなかったが、現在の駐車場は予想以上に広く思える。この30年の間に拡張したのかもしれない。それと、駐車場の北の外れにトイレがある以外、建物が全くない。それで広々として見えるのかもしれない。

   
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頑丈そうなトイレ (撮影 2026. 7.16)
今は峠に於ける唯一の建物

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レストハウスがあった付近 (撮影 2026. 7.16)
並んでいる車の右奥辺りに立っていた

   

<レストハウス>
 以前、深い霧の中で目撃した売店、レストハウスの痕跡は殆ど見られない。駐車場の北東側に接して立っていたと思う。オロフレトンネルが開通する前は賑わったことだろう。本峠が行止りの峠となってからも暫く営業していたようだが、今は駐車場ばかり広い寂しい峠である。

   
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駐車場の様子 (撮影 1996. 7.22)
奥に薄っすらとレストハウスが見える

   
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登別市側直下の様子(1/3) (撮影 2026. 7.16)

<登別市側の景色>
 峠の登別市側には雄大な景色が広がる。本峠が「オロフレ展望台」などと呼ばれる所以はそこにあるのだろう。
 
 登別川の源頭部に位置するので、眼下に険しい登別川の谷が下る。峠直下は特に急斜面の為、常に落石や雪崩が繰り返されるのか、草木が生えていない。土や岩が露出し、まるで活火山の火口を思わせる。荒々しい雰囲気だ。

   
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登別市側直下の様子(2/3) (撮影 2026. 7.16)

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登別市側直下の様子(3/3) (撮影 2026. 7.16)

   

<遠望>
 こうした眺めの良さは、やはり地形が大きく関係する。地理院地図の等高線を眺めて見ても、壮瞥町側はゆったりしているが登別市側は混み合っている。

   
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登別市側の遠望(1/4) (撮影 2026. 7.16)

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登別市側の遠望(2/4) (撮影 2026. 7.16)

   
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登別市側の遠望(3/4) (撮影 2026. 7.16)

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登別市側の遠望(4/4) (撮影 2026. 7.16)

   
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橘湖を望む (撮影 2026. 7.16)

 登別川の谷は鋭く、同時に狭いのであまり視界は広がらない。それでもなかなかの遠望が楽しめる。谷の奥に小さな湖が見えた。多分、橘湖(地理院地図)のようだ。カルルス温泉に近く、そこよりより徒歩40分とのこと。日本で唯一の私有の湖だそうだ。
 
<オロフレの由来>
 北海道森林管理局などのページを見ていると、オロフレ山やオロフレ峠の語源となる「オロフレ」の由来は、アイヌ語の古川名・オロフレペツ「水中赤き川、(その中が・赤い・川)」から来ているそうだ。 オロフレ山はオロフレベツ川の源流になるとする話しもあるが、そのオロフレベツ川なる川の名は見当たらない。オロフレ山を源流とする川は、壮瞥町側の白水川と、白老町側の敷生川(しきうがわ)などだが、それが「赤き川」なのだろうか。

   
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峠を稜線方向に見る (撮影 2026. 7.16)
登別市側(左)は険しく、壮瞥町側(右は)は穏やかだ

   

<登別川=「赤き川」?>
 登別川もオロフレ山を源流とする川の一つと言えなくもない。オロフレ峠直下の登別川の谷は、正に赤い岩肌を露出している。また、中流にはカルルス温泉、支流には登別温泉がある。こうした点は登別川こそ「赤き川」と呼ぶにふさわしい気がする。
 
<追記(2026. 9. 3)>
 文献(日本歴史地名大系)を見ていたら、「オロフレ」の語源となる「オロフレペツ」なる川は、オロフレ山の西に流れる白水川(しろみずがわ)の支流だそうだ。 オロフレ峠を源頭部とする方を白水川の本流とするようなので、オロフレペツの候補はオロフレ山の西側で一番近くに流れる支流(地理院地図)ではないかと思われる。 その源頭部は登別市・壮瞥町・白老町の3市町の接点になる(地理院地図)。 何となくこちらの方が白水川の本流のように思えるが、あくまでオロフレペツは白水川の支流だそうだ。それが「赤き川」らしい。それにしても白水川の支流が「赤い」というのも面白い。

   

<行止りの先>
 かつてオロフレ峠の登別市側に通じていた道の痕跡は、今でも色濃く残っているようだ。しかし、峠から確認できる範囲は限られる。

   
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登別市側から峠を見る (撮影 2026. 7.16)
ガードレールによるバリケードがある

   

<登別市側旧道の様子>
 ガードレールによるバリケードの先は、土が露出した道が登別川右岸の山腹にへばりつくようにして延びている。元は舗装路だったのだろうが、長年の風化で跡形もない。路肩は深い谷へ鋭く切れ落ち、錆びたガードレールの残骸が僅かに残るばかりだ。地形の険しさと気候の険しさを物語っている。

   
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登別市側の道の様子(1/2) (撮影 2026. 7.16)

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登別市側の道の様子(2/2) (撮影 2026. 7.16)

   

<旧道の道筋>
 前出の地理院地図の航空写真(1974年〜1978年)により、登別市側旧道の大筋の道筋は知ることができる。まず、右岸側の高所をそのまま殆ど下ることなく進む。

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登別市側に続く道 (撮影 2026. 7.16)

   
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旧道は右手の大岩を巻いて来る (撮影 2026. 7.16)

   

 続いて峠からも見える右手の大岩(地理院地図)を巻き、峠足下へと戻って来る。大岩を巻いた直後の道は肉眼でも確認できる(右に写真)。
 
 峠足下で登別川を左岸に渡り(地理院地図)、現在のオロフレトンネルの出口付近へと進む。
 
 峠からはオロフレトンネルに続くオロフレ第5隧道の大部分と、単独の第4隧道の全景、それに第1隧道の入口まで見える。旧道が接続するオロフレトンネルと第5隧道の接続部付近は残念ながら山影になり、旧道の痕跡は確認できない。

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大岩を巻いて下る道 (撮影 2026. 7.16)

   
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オロフレトンネルを抜けた新道の様子 (撮影 2026. 7.16)
左が第5隧道、中央が第4、右奥が第1の入口

 その後旧道は、現在の第5隧道以下の覆道が連続する部分とほぼ同じ道筋を辿っていたようだ。
 
 オロフレトンネルを抜ける新道の全通は1988年10月だが、トンネルと覆道第1〜第7の開通はまちまちだったと思う。覆道の開通はやはりその番号順だろう。 もしかすると、第1〜第3ぐらいはトンネル開通前のオロフレ峠を越える時代にも使われていたかもしれない。第4もその可能性がある。現在の第5はトンネルと一体化されているが、これもトンネル開通後に接続されたかもしれないので、何とも言えない。

   

 30年振り、3回目の再訪となったオロフレ峠だが、これで初めてどんな峠なのかこの目で見ることができた。前の2回は峠は深い霧の中だったので、写真も殆ど撮っていない。できたらこの30年間の峠の変遷が示せたら良かったのにと思う。 しかし、霧の中のオロフレ峠をバイクで恐々と訪れた時のことは、今でも懐かしい記憶としてしっかり残っている。

   
   
   

<おわりに(余談)>
 「峠と旅」も開設してから30年近く経つ。その間、世の中の進歩は激しい。初期の頃に作ったページは今のHTMLの仕様に合わない箇所が多い。 つい最近もブラウザEdgeの仕様が変更されたようで、表の枠の表示が全ておかしく(真っ白)なってしまった。これから作成するページについては、どうにかこうにか対応して行こうとは思う。しかし、これまで作り溜めた多くのページを今更修正する訳にはいかない。
 
 今はスマホの時代なので、スマホでもうまく表示できないかと試行錯誤している。ジェミニに現在のコードの一部を示すと、昔ながらの整ったHTMLコードだと褒めてくれた。 その後で具体的な修正コードを示し、スタイルシート(CSS)を使うことも薦めて来る。しかし、これまで続けて来たコード作成のしがらみがあり、どうもうまく行かない。 その内、スマホどころかパソコンでも「峠と旅」が正常に表示されない日が来るのではないかと不安に思う、オロフレ峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1990. 7. 3 登別市→オロフレ峠→壮瞥町/AX−1にて
・1996. 7.22 登別市→オロフレ峠→壮瞥町/ジムニーにて
・2026. 7.16 壮瞥町→オロフレ峠→壮瞥町/ヤリスクロスにて
・2026. 7.18 登別市→オロフレトンネル→登別市/ヤリス・クロスにて
 
<参考資料>
・北海道 2輪車 ツーリングマップ 1989年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 1 北海道 2000年4月2版10刷発行 昭文社
・角川日本地名大辞典 1 北海道 1987年10月 発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 1 北海道 昭和62年10月 8日 発行 角川書店
・日本歴史地名大系 1巻 北海道の地名 2003.10.20 初版第一刷 (株)平凡社
・旅先で入手した観光パンフレット各種
・その他、一般の道路地図など
 
<参考ウェブサイト>
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・地図のウェブサイト 「Google マップ」、「NAVITIME」、「MapFan」、「Yahoo! マップ」など
・川のウェブサイト 「川の名前を調べる地図」(道路名も参考に)
・登別市、壮瞥町の公式ホームページ
・北海道森林管理局の公式ホームページ
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2026 Copyright 蓑上誠一>
   
   
   
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