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冠山峠
     かんむりやまとうげ   (峠と旅 No.226)  
  越前と美濃の両国を結ぶ交通の変遷を見せる峠道
  (掲載 2014.10. 3  最終峠走行 2014. 7.30)
   
   
   
冠山峠 (撮影 2014. 7.30)
手前は岐阜県 揖斐郡(いびぐん)揖斐川町(いびがわちょう、旧藤橋村、旧徳山村) 塚(つか)
奥は福井県 今立郡(いまたてぐん) 池田町(いけだちょう) 楢俣(ならまた)
道は林道冠山線
峠の標高は1,050m (ツーリングマップルより)
   
概要
   
<県境の峠(余談)>
 やはり、県境の高い峰を越える峠に面白いものが多い。 峠は高く、道は長く、越え応えがあるのだ。 例えば椎矢峠(しいや)。 宮崎県と熊本県の県境を越える険しい未舗装林道の峠道で、九州を代表する峠と言える。 あるいは京柱峠(きょうばしら)。 徳島県と高知県との間を一本の国道が越えているが、国道とは名ばかりの細い道が延々と続いている。 峠は徳島・高知の両県供に雄大な景色が広がり、さしずめ四国の屋根に立った様な思いをさせられる。 四国随一と言っても過言でない峠だ。 本州に目を転じれば、山岳地帯が多い長野県とその隣接県との間に、面白い峠が目白押しだ。 東北では奥羽山脈越えの峠が楽しい。 その一つに、秋田県と岩手県を真昼岳林道で越える峠がある。 これまで2度ほど訪れたが、いずれも林道通行止で未だ越えられずにいるのが気掛かりになっている(余談だが)。
  
 そして今回の冠山峠も、福井県と岐阜県の県境を越える峠だ。 ちょっと日本地図を頭の中に描いてみても、福井県と岐阜県が接する部分が、一体どうなっていたか想像できない。 福井県は北陸にあり、広く日本海に面する県だ。 一方、岐阜県は海に接しない内陸県で、どちらかと言うと、長野県や太平洋に面する愛知県と隣接するイメージが強い。 福井・岐阜の県境と言われても、ただただ山ばかりがあるよう思える。
 
<両白山地、越美山地>
 福井県と岐阜県と県境付近は、 白山(はくさん、2,702m)と能郷白山(のうごはくさん、1,617m)を主峰とする両白山地(りょうはくさんち)と呼ばれる。 両白山地の内、九頭竜川の谷より南側の半分を越美(えつみ)山地(ときに山脈)と呼ぶそうだ。 「越」は越前国、「美」は美濃国を示す。 岐阜県は、旧国名で南半分の美濃と北半分の飛騨に分かれるが、その美濃と越前の境が越美山地である。 越前・美濃両国名の組み合わせで、濃越山地とか越前美濃山地、美濃越前山地などの呼称もあるようだが、 越美山地が最も一般的なようで、 峠にも「越美山地 緑の回廊」などと看板が立っている。
   
<越美山地の峠>
 九頭竜川より南になる福井・岐阜県境を越えている峠を拾い出すと、まず九頭竜湖の上流部に油坂峠、その後暫く峠は通じず、 能郷白山の近くになってから温見峠(ぬくみ)、冠山峠、 高倉峠と続く。 尚、「高倉」はこれまで「こうくら」と読んでいたが、今回文献(角川地名大辞典)を調べていると、 高倉峠に「こくら」とルビが振ってあった。 僅かな発音の違いであって、「こうくら」も間違いではないだろうが、「こくら」と呼ぶ場合もあることを知って、 改めて高倉峠に新鮮な感じを受けたのだった。
 
 さて、温見、冠山、高倉となると、これはもう、そうそうたる峠の連続である。 これらの峠の名を聞けば、福井・岐阜の県境のイメージがふつふつと湧いてくる。 温見峠には国道157号が通じるが、近年、岐阜県側の本巣市(旧根尾村)能郷・黒津間が長い間通行止で、 最近になってやっと開通したくらいだ。 こんなに長い間、通行止が続いた国道も珍しい。 能郷・黒津の区間は冠山峠や高倉峠に通じる林道よりも怖い道が通っている。 「危険 落ちたら死ぬ」と大きな看板が出ているが、それこそ足がすくむ断崖絶壁の道である。
 高倉峠は林道塚(つか)線が越えるが、赤茶けた未舗装林道が如何にも険しく、壮大な山岳道路の雰囲気である。
 
 そうした温見峠と高倉峠に挟まれ、冠山峠はやや影が薄い気がしないでもない。 冠山峠は1996年に初めて越えたが、峠に通じる林道冠山線はその時既に完全舗装の道であった。 また林道冠山線は、高倉峠に続く林道塚線から分かれて始まるので、高倉峠の道が本線、冠山峠はその枝道というイメージを持った。 ただ、温見や高倉と比較してしまうのが悪いので、冠山峠だけを考えれば、 やはり高い県境の峰を越える走り応えのある峠であることは間違いない。
   
<峠名>
 古いツーリングマップ(昭文社、1988年5月発行)には、峠名が記されていなかった。 多分、初めて高倉峠を訪れた時にでも何かの看板を見て、そのツーリングマップに「冠峠」とボールペンで書いておいた。 「冠山峠」ではなかった。 その後、実際に峠を訪れ、峠に「冠山峠」と大書された立派な石碑が立っているのを見たが、 それからも、この峠には「冠峠」と「冠山峠」の二つの呼び名があるものと思ってきた。 「山」が付くか付かないかは、ちょっとした違いと考えていた。 最近のツーリングマップルには「冠山峠」と出ているし、インターネット上にもこちらの名称が一般的なようだ。 峠の石碑の効果が現れているのだろう。 一方、福井県側の池田町の観光パンフレットや岐阜県側にできた徳山ダムで見掛けた案内看板などでは、 最近でもこの峠を「冠峠」と記しているのを見る。 個人的には、「冠山峠」という名はやや冗長な気がするし、何だか冠山の付属物のようなイメージも受ける。 「冠峠」と簡潔な方が気に入っている。 最初に「冠峠」と覚えたことも理由の一つだろう。
   
<旧冠峠>
 越美山地は険しいが、その国境を越えて、越前と美濃の両国の間は古くから深い交通関係があったそうだ。 例えば、越前の鯖江(さばえ)誠照寺本山使僧が、毎年国境を越えて美濃まで訪れたとのこと。 その時越えた峠を「冠峠」という。 この旧冠峠は福井・岐阜県境の稜線上にある冠山(1257m)の直ぐ東に通じていたようだ。 一方、現在の林道が通じる冠山峠は、冠山の西、約2kmの位置にある。 旧冠峠の古道はすたれてしまい、現在の地形図には点線でも描かれてなく、その経路は想像するばかりだ。 しかし、由緒ある冠峠の名は引き継がれ、それで新しい峠も時として「冠峠」と呼ばれるのではないかと思うのだった。
 
<峠名の由来>
  「冠」の由来は、やはり冠山によるものと思われる。冠ヶ岳とも呼ばれた山だ。 山頂部に岩が露出していて、その形が烏帽子(えぼし)冠に似ていることからの名称である。 越美山地の西部にあり、その中で一際印象的な山容を示している。 その山名の「冠」を取って、近くに通じる峠も「冠峠」と呼ばれたのであろう。
 その旧冠峠と、現在の冠山峠は別ものである。車道を通す為に全く新しく開削された峠だ。 開削した当事者としては、旧冠峠と区別する為にも、「冠山峠」と新しく命名し、峠に大きな石碑も建立したのであろう。 峠は、東へと続く稜線上にその冠山が望める地にあり、「冠山峠」とは全くふさわしい名である。 しかし、古くからの「冠峠」の名に馴染んだ者は、新しい峠もついつい同じく「冠峠」と呼んでしまうのではないだろうか。 ここでは旧冠峠と区別する為に、「冠山峠」としておいた。
   
<他の旧峠(余談)>
 越前と美濃の間には、近世までかなりの交流があったそうで、それに絡む峠は多く、 東から挙げると、蠅(はえ)帽子峠、温見峠、冠峠、檜(桧)尾峠、高倉峠などになるだろうか。 蠅帽子峠は屏風山と越山との鞍部、檜尾峠は冠山峠と金草(かなくさ)岳の中間くらいの位置にあった。 こうした峠を用いた山越えの交通も、明治期以降は次第に衰えていき、昭和30年頃には多くの峠が廃道となっていったようだ。 やっと近年になって車道の開削が行われ、温見峠には国道157号が通じ、冠峠と高倉峠も林道が越えるようになった。 ただ、冠峠は別の所に新しい峠が通じ、高倉峠も確か現在の車道の峠と古くからの峠は少し位置が異なっていたと記憶する。 また、蠅帽子峠と檜尾峠には車道は通じていない。 こうしてみると、旧峠にそのまま車道が通じたのは、温見峠だけとなる。 その意味でも改めて温見峠は凄いと思うのだった。
   
<峠道の変遷>
 文献には、昭和46年(1971年)11月に徳山村から越前へ抜ける村道が完成したとある。 峠に立つ「冠山峠」の石碑の建立日が、やはり昭和46年11月となっている。 この時に初めて車道が通じたようだ。 現在は峠を挟んだその前後の道が、冠山林道(時に冠林道)と呼ばれている。 そして福井・岐阜両県の麓までは国道417号が来ている。 その前身は主要地方道・鯖江藤橋線と呼ばれていた時期があるらしい。 更に古くは、県道根尾今立線という路線名もあったようだ。 今立は福井県側の地名である。
 
 そして今、「冠山峠道路」の計画があるようだ。 峠の岐阜県側は徳山ダムの建設に伴い、国道417号は大きく変貌したが、 それを延長し、冠山のほぼ真下を長大なトンネルで抜ける計画である。 これが完成すると、越美国境越えの交通は歴史的な変貌を遂げるだろう。 冬期でも容易に車の行き来ができるようになる。 温見峠など置き去りにされるのではないかと、ちょっと心配な気もするが。
   
<揖斐川源流(半分余談)>
 最近妻に、前書きからして長過ぎるのではないかと言われている。 歳をとって、全般的に話がくどくなったんじゃないかとも言うのだ。 そのきらいは認めるが、これも「峠」に対するこだわりとして、もう少し続けることとする。
 
 冠山峠は揖斐川(いびがわ)の源流部に位置する。 揖斐川は、木曽川・長良川と並ぶ濃尾地域三大川、通称・木曽三川(さんせん)の一つである。 但し、文献などでは揖斐川本流の源流は、高倉峠となっている。 確かに、冠山峠より高倉峠の方が奥まった地にある。 揖斐川本流の上流部は、北側の道谷(みちんたに)と南側の赤谷(あかんたに)の2筋に分かれている。 高倉峠へ続く塚林道は、一旦道谷沿いに登り、うそ峠を越えて赤谷水域に入り、最後は赤谷沿いに峠に到る。 一方、冠山峠は、道谷と赤谷が合流する地点より1km程下流で揖斐川本流に注ぐ、才の谷という支流の上流部に位置するのだ。 ただ、大きく見れば、越美山地の若丸山から三周ヶ岳(さんしゅうがたけ)に到る一帯が揖斐川の源流部と言える。 尚、温見峠は揖斐川の支流・根尾川の上流部に位置する。
   
<足羽川>
 一方、冠山峠の福井県側には、足羽川(あすわがわ)が流れ下る。 冠山から金草岳に到る稜線の北斜面に源を発し、福井市で日野川に合し、直ぐに九頭竜川に注ぐ。 足羽川の上流部を河内川とも呼ぶようだ。 河内(こうち)は池田町内にある地名である。
 
<大分水界>
  九頭竜川は福井県の景勝地で有名な東尋坊(とうじんぼう)の近くで日本海に注ぐ。 一方、揖斐川は太平洋岸の伊勢湾に注いでいる。 すなわち冠山峠は、日本列島を大きく太平洋側と日本海側に分かつ、大分水界(中央分水嶺)に位置する峠だ。 一応、念の為。
   
福井県側から峠へ
   

池田町市街の国道417号を行く (撮影 2014. 7.29)
この先、右に分岐
<池田町市街より>
 峠の麓まで通じている国道417号は、最初の内は足羽川沿いにない。板垣トンネルで池田町に入ると、まず支流の魚見(うおみ)川を越え、国道476号との併用区間を過ぎた後、池田町の市街である「市」(いち)という所で右に分岐し、そこから初めて足羽川沿いとなる。
 
 分岐には県道417号方向に「冠荘、かずら橋」と案内看板が立つ。冠荘とはこの先の国道417号沿いにある冠鉱泉(渓流温泉)の公共の宿である。
   

池田町の「市」の分岐 (撮影 2014. 7.29)

分岐の角に立つ「市」のバス停 (撮影 2014. 7.29)
「冠荘、かずら橋」の看板もある
   
<足羽川左岸>
 道は直ぐに市街を外れ、沿道には稲田が広がりだす。左手奥に足羽川が流れている筈だが、岸からは少し離れて国道が通じている。

池田町 市(いち)の看板 (撮影 2014. 7.29)
国道417号を峠方向に見る
   

足羽川を右岸へ渡る (撮影 2014. 7.29)
<足羽川の右岸へ>
 「市」の分岐から2km程で足羽川に取り付くと、直ぐに右岸へと渡る。この先暫くは右岸に沿って遡る。
 
 橋を渡ると、左手より道が一本合流する。池田町の中心地より右岸沿い延びて来た道だ。こちらが昔の本線の峠道ではなかったかと想像する。現在、左岸に通じる国道の区間は、中心地を迂回したバイパス路的である。
   
<通行止の看板>
 訪れたのは7月下旬だが、橋の袂に「この先 田代〜県境 冬期間通行止 道路工事中」と大きく道路情報看板があった。この時期、冬期通行止はないだろう が、道路工事で通れない可能性はある。しかし、今回は事前に情報を仕入れて来ている。つい先日、冠山峠は開通している筈なのだ。しかし、やや不安にさせら れる看板である。
 
 道路情報看板の少し後ろには、この先にある池田町の地名と、そこまでの距離が示されていた。
 田代 11.5km
 河内 9.5km
 志津原 2.0km
 土合皿尾 2.0km
 月ヶ瀬 0.5km
 これからすると、「田代」が最奥の地である。

道路情報の看板 (撮影 2014. 7.29)
   
<足羽川の右岸沿いを行く>
 月ヶ瀬の小集落を過ぎると、周辺はほとんど緑一色となる。山と稲田に囲まれる。
 
 路肩にポツンと案内看板が立っていた(下の写真)。「2km かずら橋・そば道場」、「1km 能面美術館」、「1km 冠荘」、「岐阜県大垣市方面」とある。岐阜県大垣市は遥か彼方で、距離が記されていない。
 
 冠山は福井・岐阜両県から望める山だそうだが、国道を遡る途中、あの独特な山容は見られなかったように思う。
   
緑一色に囲まれた道 (撮影 2014. 7.29)
   
志津原、冠荘
   

志津原カントリービレッジの入口 (撮影 2014. 7.29)
右手に分岐する道は足羽川の左岸に通じ、
そちらに土合皿尾の集落があるようだ
<志津原カントリービレッジ>
 志津原には国道周辺にちょっとした観光施設が集まり、全体を「志津原カントリーりビレッジ」と名付けられているようだ。キャンプ場があったり、足羽川に架かるかずら橋もこの施設内にある。
   
 そこを通る国道は立派で、その沿道もきれいに整えられている。一方、その国道沿いに人家はあまり見られない。国道より少し奥まった所を通る脇道や、足羽川左岸に通じる道があり、そちらに人家が集中しているようだ。

志津原カントリービレッジの看板 (撮影 2014. 7.29)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   
左手に登る道は志津原キャンプ場へ (撮影 2014. 7.29)
その脇道沿いに志津原の集落があるようだ
   

左に冠荘への入口 (撮影 2014. 7.29)
<冠荘(余談)>
 途中、左手に登る道があり、入口に「冠荘」とあった。「渓流温泉」とも呼ばれる温泉地で、冠荘はそこにある一軒の公共の宿である。今回はそこに宿泊した。峠道の途中で一泊しながら峠越えをするなど、贅沢な旅であ る。以前も峠道の側で一夜を明かしたことは少なくないが、野宿ばかりであった。しかし、最近は身体が言うことを聞かない。その日も、日中に琵琶湖の竹生島 (ちくぶじま)を見学したら、暑さでフラフラになり、急遽、冠荘を予約したのだった。旅の目的の一つが、冠山峠再訪だったので、何とか宿で体調を整え、翌 日の峠越えに備えたのであった。
   
冠荘の敷地から望む志津原カントリービレッジ (撮影 2014. 7.30)
下に通るのが国道417号
   
  冠荘では一つの収穫があった。ロビーの一画に掲示板が立ててあり、その中に「7月26日(土)午前8:30〜 冠山林道(福井〜岐阜) 通行できます」とあったのだ。事前の情報通りであるが、これで更に確実なものとなった。それにしても、峠を再訪したのは7月30日(2014年)のことで、僅か数日前に開通し たばかりである。幸運であった。
   

冠荘の館内の掲示板 (撮影 2014. 7.30)

「冠山林道 通行できます」とある (撮影 2014. 7.30)
   
志津原以降
   

工事箇所 (撮影 2014. 7.30)
<工事箇所>
 志津原の外れでは、丁度国道の改修工事を行っている最中だった。僅かな距離だが片側交互交通になっていた。工事内容は道幅を広げているように見えた。
 
 後で考えると、「冠山峠道路」の計画があり、まさに峠の下をトンネルで貫通しようとしている時である。それに合わせ、トンネル前後の道も良くしようとのことだったのかもしれない。
   
<足羽川沿い>
 志津原集落以降、道は足羽川の左岸に行ったり、また右岸に戻ったりを少し繰り返す。それまでよりグッと川に近付くようになり、川面を眺める機会も多くなった。道は概ねセンターラインがある道幅を維持しているが、屈曲が多くなり、谷底に沿った視界の広がらない道が続く。
 
 この先、ほとんど人家を見ない。それでも時折、看板が出て来る。「天地乃宿」と店の名が示されてあった。食事や宿泊ができるようだ。つり堀りを営む養鱒場もあるようだ。随分と人里離れた地にある。

右手に足羽川を近くに見る (撮影 2014. 7.30)
   
<覆道>
 覆道(スノーシェッド)が現れ、道に変化を持たせている。付近に立つ国道標識に示された地名は、まだ「池田町 志津原」であった。
   

左端に国道標識 (撮影 2014. 7.30)
地名は「池田町 志津原」とある

覆道に入る (撮影 2014. 7.30)
   

右に旧道が分岐 (撮影 2014. 7.30)
以前はその先に人家があったのかもしれない
<改修された国道>
 この先、道は足羽川の本流を何度か渡り、左岸沿いになったり、右岸沿いになったりを繰り返す。その時に渡る橋がやたらと立派である。時折、その前後で脇道が分岐する。どうやらそちらは旧道らしい。
 
 初めて冠山峠を訪れたのは1996年8月のことだが、その時はまだ、国道はこんなに立派だったという覚えはない。以前、電子メールで峠情報を頂いた方から、2000年には国道の改修工事が行われていたと教えてもらったことがある。
   
河内
   
<河内へ>
 国道標識に書かれている地名が「河内」(こうち)に変わった(右の写真)。相変わらず国道は立派である。地図を見ると、右手の対岸に旧道が通じているようだ。そちらに河内集落が記されている。
 
 この付近、新しい県道沿いにも僅かに家屋が見られた。河内集落の一部であろうか。既に廃屋となった家もあるが、まだまだ人の気配を残す場所となっている。
 
<道路情報看板>
 「全面通行止」と出て来た(下の写真)。しかし、看板は古そうだ。念の為、宿をチェックアウトする時フロント係りに、冠山峠が越えられることを確認してきているので、安心して先へ進む。

国道標識の地名は「河内」に (撮影 2014. 7.30)
   

左に道路情報の看板 (撮影 2014. 7.30)
右に楢俣(ならまた)川沿いを遡る道が分岐

分岐に立つ道路看板 (撮影 2014. 7.30)
   
<楢俣>
  道路情報看板の反対側から細い道が一本分岐する。足羽川の支流・楢俣(ならまた)川に沿って県境の稜線へと遡る道である。地図を見る限り、途中で行止りのようだ。
 
 その川の流域は池田町の大字で楢俣と呼ぶ。 冠山峠はどちらかと言うと足羽川本流ではなく、その支流・楢俣川の上流部に位置している。よって峠の直ぐ池田町側は、この先にある田代ではなく、楢俣という地名になる。また、越美山地を越える古い峠の 一つである檜尾峠も、楢俣川の更に支流・添又谷上流部にあったようだ。
   
トンネル群
   

河内トンネル手前 (撮影 2014. 7.30)
左に旧道分岐
<河内トンネル>
 トンネルが現れた。名前は「河内トンネル」。その後、田代第一、第二、第三トンネルと、合計4つのトンネルが連続する。こうしたトンネル群も2000年頃から建造されたようだ。
 
 河内トンネル手前を左に旧道が分岐する。そちら方向を宿や釣堀の店の看板が矢印で示している。現在の国道からはその様子はうかがえなかった。
 
 ここから先は異常気象時の通行規制区間となる。その起点を示す看板がトンネル手前に立っている。ここより3km(池田町田代まで)の間とある。ほぼ国道の終点・冠山林道の起点までである。
   
<冠山林道情報>
  河内トンネルを抜けた先で左手に看板が出ていた(下の写真)。「この先2.0km 冠山林道起点」とある。
   

左手に林道情報の看板 (撮影 2014. 7.30)

冠山林道情報の看板 (撮影 2014. 7.30)
   
田代
   
<田代トンネル>
 田代第一から第三までのトンネルは、足羽川の左岸に通じている。その間、旧道は対岸の右岸にある。この付近は既に田代の地である。勿論、現在の立派な国 道沿いに人家は全く見られない。左手の足羽川を挟んだ対岸に、時折か細い道が見える。旧道らしい。初めて冠山峠を訪れた時は、あの道を遡った筈である。元 々狭い谷間に通じる道で、沿道に人家などはほとんど見られない。

田代第一トンネル (撮影 2014. 7.30)
その向こうに田代第二トンネル
   

田代第三トンネルの出口 (撮影 2014. 7.30)
橋を渡った先で左から旧道が戻って来る
<田代第三トンネル>
 トンネル開通で直線的になった国道は、あっと言う間に過ぎて行く。国道417号の福井県側は、山奥に入ってからの方がかえって快適であった。
 
 田代第三トンネルを抜けた少し先で、左手から旧道が合して来た。旧道の出入口は特に通行止などにはなってなく、約1km程の距離は今でも通行可能なようであった。
   
国道が狭くなる
   
<狭小区間>
 旧道を合わせた直ぐ先で、快適な国道も遂に力尽きた。「徐行」の看板と供に、道幅が半減していく(右の写真)。これこそ昔の国道の姿である。
 
 同時に「200m先 トンネル 発破作業中」と物々しい看板も立っている。
 
<トンネル工事>
 道が狭くなってから100m程も行くと、行く手にトンネルの坑口らしき物がちらりと見えた。最初は、そこまでもあった他のトンネルと同じように、単なる 国道改修の延長工事かと思ったが、どうもそうではなったようだ。坑口近くに立つ工事看板には、「トンネル新造工事」とだけあり、トンネルの名前などはな かった。しかし、後で考えてみると、「冠山峠道路」となる県境を抜けるトンネルの工事だったようである。もうここまで工事が進んでいたのかと驚くばかり だ。

左手に徐行の看板 (撮影 2014. 7.30)
右手奥に発破作業中の看板
   

前方にトンネルの坑口らしき物が (撮影 2014. 7.30)

トンネル工事現場 (撮影 2014. 7.30)
このコンクリート壁の向こうに坑口があるようだ
   

路肩に工事車輌や建機などが並ぶ (撮影 2014. 7.30)
<トンネル坑口の先>
 国道はもう数100m程続く。路肩に工事関係者の車やトンネル工事用らしい建設機械が並ぶ。作業員の人影も見られ、トンネル工事はまさに進行中であった。その内、この周辺の様子は一変することだろう。
   
林道起点
   
<ゲート箇所>
 工事車輌が途切れた先でゲート箇所が現れ、その脇に幾つかの看板が並ぶ。冠山峠を越える林道冠山線の起点である。
   
林道起点 (撮影 2014. 7.30)
   
<林道看板>
 看板にある林道名は「冠山線」である。地図に書かれた峠の名前も「冠山峠」だ。林道の延長は9,783m、幅員は3.6mとある。この延長距離はこの林道起点から峠までを示しているものと思う。約10kmである。舗装済みと言えども、やはり険しい峠道である。
   

林道冠山線の看板 (撮影 2014. 7.30)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)

看板の地図 (撮影 2014. 7.30)
上が南
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   

林道の注意看板 (撮影 2014. 7.30)
 いろいろ注意看板もある。運転は妻の続行である。
   
 それにしても、林道が通れて良かった。ゲートは見事に開いている。

開いたゲート (撮影 2014. 7.30)
   
冠山林道へ
   

足羽川沿い (撮影 2014. 7.30)
<足羽川の右岸沿い>
 冠山林道は、国道に引き続き、足羽川の右岸を遡る。谷は狭まり、草木は路面にまであふれそうな勢いである。右手に流れている筈の足羽川もほとんど望めない。
 
<支流沿いへ>
 道は一路、足羽川の支流の谷を東へ遡りだす。支流と言っても谷は以外と広い。少し登ると視界が広がりだし、気分も晴れてくる。
   
やや視界が開けてきた (撮影 2014. 7.30)
   
支流の右岸を登る (撮影 2014. 7.30)
   
 徐々に高度を上げ、それに従って視界も広くなる。よく見ると、対岸に道が通じている。本流の谷へと戻る道だ。
   
支流の谷を詰める (撮影 2014. 7.30)
   
<支流の谷を詰める>
 道はヘアピンカーブで谷の上流部を巻く。 道の左手、上流側に砂防ダムが築かれていて、そこから涼しげな水が小さな滝の様に流れ落ちていた。 何だか分らないが、砂防ダムに「8」の字が書かれた看板が取り付けてあった。

支流の谷を詰める (撮影 2014. 7.30)
ここで右にヘアピンカーブ
   
本流の谷へ
   

路肩にコンクリートの車止めが並ぶ (撮影 2014. 7.30)

法面の工事の跡 (撮影 2014. 7.30)
   
<本流の谷へ>
 支流の谷の左岸沿いを本流の谷へと登る。やや道は険しい様相を呈する。道の崖側にコンクリートの車止めが並んだり、山側の法面が工事されていたりする。
   
本流の谷へ (撮影 2014. 7.30)
   

擁壁工事の跡 (撮影 2014. 7.30)
 谷の傾斜がきつくなってきたのか、道は山肌をなぞって細かく屈曲し、規模の大きなコンクリート擁壁なども見られるようになった。
   
本流の谷を遡る
   
<本流の谷>
 道は概ね南の稜線方向を向くようになる。 遠くの対岸に、山肌が削られて土が露出しりコンクリートの擁壁になっていたりする部分が望めるようになる。 そこに道が通じている。 道は一旦足羽川の本流の谷の右岸を遡り、上流部で折り返して左岸を登るのだ。
   
ほぼ本流の谷沿いに出る (撮影 2014. 7.30)
   
<対岸の道>
 本流の谷とはいえ、それ程大きな谷ではない。 先程の支流とあまり大差がない。 ただ、時折対岸に通じる道が望めるが、それが如何にも険しそうだ。 あちこちで山肌が露出し、崖崩れの痕跡も見られる。

対岸の道を近くに見る (撮影 2014. 7.30)
   

本流の谷を詰める (撮影 2014. 7.30)
<本流の谷を詰める>
 谷が狭まり、右手の谷底が登って来ると、道は遂に足羽川を渡る。 足羽川の上流部はいろいろ枝分かれしているので、正確な川の名前は不明である。 河内川と呼ぶのかもしれない。 ただ、本流の上流部であることは間違いないと思う。 この地の真南に冠山がそびえている筈だ。
 
<県境を前に険しい地形>
 ここより県境の峰までの斜面は急である。 稜線方向から道の直ぐ脇に流れ下って来ている川は、滝の様な急流となっている(下の写真)。
   
<車道の道筋>
 車道はその急斜面を避け、ここより暫し谷の左岸を戻り、西方面の足羽川の支流・楢俣川上流部へと移動して行く。 この冠山林道は、岐阜県側はほぼ一つの谷(才ノ谷)沿いに一筋下るだけだが、福井県側は複雑である。 足羽川の本流を中心に、西や東へと大きく振れながら県境を目指している。
 
<旧道の道筋>
 ところで旧冠峠の道は、多分このまま足羽川の本流の右岸沿いに国境を目指したと思う。 峠は冠山の少し東で、美濃側で言えば、揖斐川の支流・シタ谷の上流部に位置していたのではないかと思っている。 車道が足羽川本流を横切る付近に、登山道などが通じてはいないかと見渡したが、残念ながらそれらしい山道は見当たらなかった。 ここまでに到る途中のどこかで、林道と旧峠道が交差している筈なのだが、もう旧道は掻き消されてしまっているのかもしれない。

足羽川を上流方向に見る (撮影 2014. 7.30)
  
足羽川を下流方向に見る (撮影 2014. 7.30)
旧道はどこに通じていたのだろうか
  
本流の谷の左岸
  
<左岸の道>
 道は一路、県境とは真反対の北の方角へ登って行く。右手に足羽川本流の谷を望む。一挙に視界が広がり出す。峠道の岐阜県側としては、この付近がハイライトだろう。
  
本流の左岸を北へ登る (撮影 2014. 7.30)
  
<道の様子>
 対岸から見えていた付近の道が特に険しい。 眺めは良いのだが、その分、崖は急である。 コンクリートの車止めやガードレールが頼りとなる。
  
眺めは良いが、怖い道でもある (撮影 2014. 7.30)
  
<尾根を巻く>
 道は徐々に本流の谷の上流部から外れ、県境から北へ伸びた尾根を巻き始める。 すると、沿道の木々が多くなり、視界があまり良くない。 地形は安定して道の険しさは影を潜めるが、楽しめる景色に乏しい。 福井県側の林道の後半は、ほぼこの調子が続くのがやや残念である。 ただ、こうした安定した地形を選んで車道を通したのだから、当然のことではある。
  

尾根を巻き始めた頃 (撮影 2014. 7.30)

道は安定したが、視界が広がらない (撮影 2014. 7.30)
左手に稜線が近い
  
稜線沿い
  
<稜線沿いに>
 尾根を巻き終われば、県境の稜線へと徐々に近付いて行く。 概ね左手に県境の峰が連なる。 右手の麓の方角に雄大な景色が広がらないかと、良いビューポイントを物色するが、木々が多くてなかなかこれといった所が見付からない。
  
僅かに景色が広がる (撮影 2014. 7.30)
トンビでも飛んでいるのか
  

稜線が近い (撮影 2014. 7.30)
<稜線間近>
 その内、稜線が近くに見えてくる。 道と稜線がほぼ平走してくる。 少し、峠の麓方向に視界が広がる場所もあった(上の写真)。 福井県北部の奥深くに広がる山々が連なって見えた。
   
<番号看板>
 峠間近に「1」と大きく書かれた看板があった。 それまでも同じ様な数字が書かれた看板を何度か見掛けている。 その看板には「POINT 1 峠まで500m」とあった。 500mおきに番号を振った看板が置かれていたようだ。 距離の目安になる。
 
<空が広がる>
 沿道からの眺めはあまりないが、空が大きく広がりだす。峠が近いことを予感させられる。

「1」の看板 (撮影 2014. 7.30)
  
  
冠山峠 (撮影 2014. 7.30)
手前が福井県側、奥が岐阜県側
半分開いたゲートがある
  
<峠に到着>
 峠の数10m手前から道はほぼ直線路となり、その先に看板などが見えている。 峠はゲートを半分だけ開いて待っていた。
  

福井県側から見る看板 (撮影 2014. 7.30)
<「峠です!!」の看板>
 峠を福井県側から見ると、ゲートの右に大きな看板が立ち、左のちょっと高い所に「冠山峠」の石碑がそびえる。 看板には「峠です!!」と大書されている。ただ、古い物で、他の部分はあまり読めない。
 
 峠の福井県側では、道の途中にポイント番号が書かれた看板があったり、峠の看板に「峠です!!」とあったり、峠へのいざないを感じる。 冠山峠は福井・岐阜両県とも山深い地にあるが、福井県側は池田町中心地などの市街からはやや近い距離にある。 丁度峠で散策している短い間にも、1台の原付バイクが池田町側から登って来た。 多分、冠山にでも登るのであろう。 一方、岐阜県側は、この下に徳山ダムが建設され、人の住む所からは更に遠い地となってしまった。
  
<看板の岐阜県側>
 看板の岐阜県側も朽ちていて、特に地図の部分が読めないのが残念だ。 冠山林道の記述では、「延長9,783m」は福井県側の林道起点にあった林道看板と一致する。 やはり、福井県側の林道距離を示しているらしい。
  

岐阜県側から見る看板 (撮影 2014. 7.30)

看板の林道冠山線の部分 (撮影 2014. 7.30)
  

峠から福井県側を見る (撮影 2014. 7.30)
<峠の感想(余談)>
 峠では道が稜線を浅い角度で横切っている。 こうした峠の形態は林道開削によってできた新しい峠に多い。 一応は稜線の鞍部であるが、稜線の起伏は少なく、切通しという程ではない。 よって、道の方向に峠をながめてみても、あまり峠らしい味わいが感じられない。 空が開けているばかりだ。 こういう峠は少し道から外れ、稜線方向に眺めると、格好がつく。 特に冠山峠は、側に大きな石碑が建ち、その向こうに冠山の鋭い山容が望める。
  
峠周辺
  
<似た峠(余談)>
 妻がこの峠はどこかの峠に似ていると言う。 ただ、どこの峠かは思い出せないらしい。 私は愛染峠(あいぜん)ではないかと聞いてみた。 愛染峠も稜線を浅く横切る峠で、やはり林道開削で通じた峠だったと思う。 空が開けていることや、側に大きな石碑が立っていることなども共通点だと思う。 しかし、妻は別の峠を思い出しているらしい。
  
峠を東の稜線方向に見る (撮影 2014. 7.30)
石碑の向こうに冠山を望む
  
<峠の思い出(余談)>
 初めて冠山峠に立ったのは、今から18年前のことだった(下の写真)。 残念ながら峠は霧で冠山どころか、目の前の石碑も霞んでいるくらいであった。 どこにも写真を撮る価値などなく、下の写真一枚を写したきり、さっさと峠を後にしたのだった。
  
18年前の峠 (撮影 1996. 8.15)
この時はまだ「揖斐川町」の石碑はない
   
<霧の峠>
 越美山地の峠は霧が多い。 温見峠や高倉峠でも霧で何も見えなかったことがある。 ただ、これらの峠は複数回訪れているので、晴れた日の峠を見てきたことがあった。 ところが、冠山峠は18年前の一回きりで、その後訪れる機会がなかった。 それがずっと気掛かりだったのだ。 今回は体調を押してまで福井県側に辿り着き、池田町の冠荘に宿泊して体調を整え、翌日早々峠に臨んだのだった。 幸い天候に恵まれ、絶好の峠日和である。 こんなに見晴らしの良い峠だとは思わなかった。 峠名の由来ともなる冠山もしっかり望めたのだった。
   
峠の石碑
   
<峠の石碑>
 やはりこの冠山峠で一番目を引くのは「冠山峠」と刻まれた大きな石碑である。 福井県知事の名で建之と添え書きがある。 側面には池田町と徳山村の連名で「昭和四十六年十一月」と日付が記されている。 この地に初めて車道が開通した記念碑である。「冠山峠」の大きな文字は、その名を誇るかのようである。 ただ、歴史ある旧冠峠からすれば、二代目の峠で歴史もまだ浅い。 時折「冠峠」と昔の名前で呼ばれ、大きな石碑もかたなしである。
   

峠の石碑 (撮影 2014. 7.30)
町村名が刻まれた石碑が足元に4つ並ぶ

冠山峠と刻まれる (撮影 2014. 7.30)
   

「福井県知事中川平太建之」とあるようだ (撮影 2014. 7.30)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)

「昭和46年11月」とある (撮影 2014. 7.30)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   

越前国 池田町 (撮影 2014. 7.30)
<町村の石碑>
 大きな峠の石碑に比べるとやや小さな四角い石碑が、足元に4つ程並ぶ。一つは「越前国 池田町」とあり、峠の石碑の福井県側に置かれている。
 
 一方、岐阜県側には、「美濃国 揖斐川町」、「美濃国 徳山村」、「美濃国 藤橋村」と3つも並んでいる。冠山の岐阜県側の地は、古くは徳山村であっ た。少なくとも峠の石碑が建之された時はまだ徳山村である。最初にこの峠を訪れた時は、既に藤橋村に変わっていた。徳山村と藤橋村はお隣同士の村で、小規 模な合併だったと思う。藤橋村といえば、福井県との県境にこの冠山峠があり高倉峠があり、東の旧根尾村(ねおむら)との境に馬坂峠(馬坂トンネル)があ り、南の旧坂内村との間にはあのホハレ峠があった。

 そして今は揖斐川町である。 揖斐川源流の地にあることに因むのであろうか、新しい町名だ。 坂内村とも一緒になったようである。 根尾村も本巣市となったらしい。 こうして古い村名が消えていくのは寂しい。 峠に佇む町村名の石碑では、福井県とか岐阜県と書かず、旧国名である越前国、美濃国と刻まれているのは、何となく嬉しい気がする。

美濃国の町村の石碑 (撮影 2014. 7.30)
   
峠の東側
   
 峠からは東西に県境の稜線が走る。 峠の石碑は東側に立つ。 その稜線の延長上に冠山がそびえる。 峠からは冠山へと稜線伝いに登山道が延びている。
   

東側の稜線上から峠を見る (撮影 2014. 7.30)

東側の稜線上よりゲートを見る (撮影 2014. 7.30)
   

東側の稜線上より岐阜県側を見る (撮影 2014. 7.30)
 車道の両側には登山者用らしい駐車スペースがあるが、東側の方に車が並ぶ。皆さん、冠山を目指すのだろう。
 
 峠から少し稜線の上に登って景色を眺めてみるが、残念ながら福井・岐阜のどちらにもあまり眺望がない。 木々が視界をさえぎっている。 360度の展望と聞く冠山に立てば、さぞかし良い眺めだろう。
   
<揖斐川源流の碑>
 峠の石碑からもう少し稜線上を東へ進むと、「揖斐川源流 冠山」と書かれた碑が立っている。 正確には高倉峠の方が揖斐川本流の源流部であろうが、まあ、越美山地一帯が揖斐川源流と言える。 冠山もこの冠山峠も揖斐川の源流部に含まれる。 冠山はこの近辺では有名な山で、登山客も多いようだ。 冠山峠は一番の登山口である。 そこに「揖斐川源流」の碑を建てれば、多くの人の目にはいる。 高倉峠に建てても、あまり見る人は居ないであろう。
 
<越美山地 緑の回廊>
 源流の碑の近くに「越美山地 緑の回廊」と書かれた看板が立つ。 地名が揖斐川町になっているので新しいものだ。 温見峠の道は描かれているが、冠山峠の道は省略されているのが気に掛かる。

揖斐川源流の碑 (撮影 2014. 7.30)
後ろに「越美山地 緑の回廊」の看板
  

冠山を望む (撮影 2014. 7.30)

緑の回廊の看板の地図 (撮影 2014. 7.30)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
  
峠の西側
  

金草岳への登山口 (撮影 2014. 7.30)
<金草岳登山口>
 峠の西側には、稜線上を金草岳への登山道が始まっている。 登山道の脇には小さな祠があり、地蔵が祀られている。 温見峠などにも地蔵が佇むが、こちらは林道開通以来の歴史の浅い峠である。 地蔵は古いものではないかもしれない。
  
登山道脇に小さな祠 (撮影 2014. 7.30)
  
<看板類>
 登山道の右脇には幾つかの看板が並ぶ。
  
看板が並ぶ (撮影 2014. 7.30)
   
<越美山地 緑の回廊の看板>
 こちらにも「越美山地 緑の回廊」の看板が立つ。やや古いものだ。地図は広域で、あまり細かいことは分らない。

越美山地緑の回廊の看板 (撮影 2014. 7.30)
  

緑の回廊の説明文 (撮影 2014. 7.30)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)

緑の回廊の地図 (撮影 2014. 7.30)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
  

楢俣県自然環境保全地域の看板 (撮影 2014. 7.30)
<楢俣県自然環境保全地域の看板>
 「緑の回廊」に並んで「楢俣県自然環境保全地域」と書かれた看板がある。 福井県池田町側のことである。楢俣川上流域の楢俣地区に関するものらしい。
   
 看板の「区域概略図」の県境上には、冠山、布滝、檜尾峠などとある。 布滝とは県境上にある一つのピークらしく、標高は1046.6mらしい。 冠山峠の名はないが、檜尾峠がある点が面白い。 やはり古くからの峠なのだろうか。
 
<峠の標高>
 ついでながら、冠山峠の標高はツーリングマップルなどでは1050mとある。 地形図で読むと1040mから1050mの間にある。 高倉峠はツーリングマップルで950m(地形図:950m〜960m)、温見峠はツーリングマップルで1040m(地形図:1010m〜1020m)である。 越美山地のこの3峠の中では冠山峠が一番高い。 尚、檜尾峠は約910mと低い所を越えていたようだ。 ただ、西の外れである。 一方、旧冠峠は約1160m付近ではないかと思う。高い峠であるが、より徳山村の中心近くに降り立つ峠道で、歩いて越える峠としては、距離が短かったのであろう。

楢俣県自然環境保全地域の看板の地図 (撮影 2014. 7.30)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
  

奥にトイレ (撮影 2014. 7.30)
<トイレ>
 冠山は人気らしく、時には多くの登山客がこの峠を訪れるようだ。 並んだ看板の奥にトイレがあるが、小さくて暗い林の中にある。 あまり使いたいとは思えない。 登山時のトイレは厄介である。
 
<楢俣ブナ植物群落保護林>
 峠の福井県側、背後に福井県の山々を控える所に植物群落保護林の看板が立つ。 こちらの地図には冠山峠がある。 また、檜(桧)尾峠の道筋が描かれているのが参考になる。
  

楢俣ブナ植物群落保護林の看板 (撮影 2014. 7.30)

楢俣ブナ植物群落保護林の看板の地図 (撮影 2014. 7.30)
檜尾峠の道筋が描かれている
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
  
岐阜県側に下る
  
<才ノ谷>
 峠の岐阜県揖斐川町側は、揖斐川の支流・才ノ谷の谷間が切れ落ちている。 道は谷へ下ることなく、暫くは峠近くの稜線から南へ派生する尾根に沿って下る。 ほとんどスカイラインの道である。 左手に谷を見下ろし、その先に冠山の山容を終始望む。
 
<ビューポイント>
 峠から200m程も下ると、谷を広く望む箇所を過ぎる。 冠山峠の道の中ではここが一番のビューポイントではないかと思う。 しかし、霧がなければの話である。

終始冠山を望む (撮影 2014. 7.30)
  
峠を下って直ぐの眺め (撮影 2014. 7.30)
最大のビューポイント
   
<道の様子>
 晴れていれば道の先の方まで見渡せ、その様子は壮観である。 一見険しそうだが、道幅は充分で比較的安定した地形である。 尾根の頂上付近に道を通した効果であろうか。 まだまだ高所に位置するが、ガードレールなどはほとんど見掛けない。 それでも車を走らせていて、それほど危険には感じない。 ただ、景色に見とれてよそ見運転は禁物だ。 時には崖に張り出した急カーブもあり、曲がりそこなって落ちたらそれこそ只では済まない。 これは峠道の宿命であった。

最初に訪れた時の様子 (撮影 1996. 8.15)
この時は霧で遠望がなかった
  
道の様子が壮観 (撮影 2014. 7.30)
  

道の様子 (撮影 2014. 7.30)

やや険しいカーブもある (撮影 2014. 7.30)
  
<記念写真(余談)>
 初めて冠山峠を訪れた時は、峠は濃い霧でほとんど素通り同然だったが、岐阜県側に下りだしてからは、何度かジムニーを停めて記念写真を撮った(下の写真)。遠望がないので、相棒のジムニーを写してやった。残念ながら冠山などは見た覚えがない。
  
遠望がないので、ジムニーを撮った (撮影 1996. 8.15)
   
尾根道の途中
   
<峠を振り返る>
 福井県側では登っている途中でほとんど峠は望めないが、こちらの岐阜県側では、振り返ると暫くは峠の位置がはっきり確認できる。 岐阜県側から登った経験はないが、峠までの間合いを計りながら登れるようだ。
  
峠を振り返る (撮影 2014. 7.30)
  
<尾根の道>
 道が通じる尾根は、左手眼下に見えている才ノ谷と、揖斐川最上流の川の一つ道谷(みちんたに)の支流・ソバク又との境にある。 余談ながら檜尾峠はそのソバク又の上流部に位置するようだ。
 
 この尾根に通じる道は、見晴は良く快適だが、旧冠峠の道筋とは全く異なる。 福井県側は足羽川沿いまではほぼ旧峠道に倣っているが、峠の手前数kmから岐阜県側に掛け、歴史のある峠道ではなくなる。 古くからの道は川沿いに通じていたことが多く、視界の広がらない林の中で急坂を登っていたことだろう。 こうした開けた尾根沿いの道は、やはり車道開削によってできた比較的新しい形態の峠道と言える。
  
尾根筋の道は続く (撮影 2014. 7.30)
   
 妻の運転なので、わざわざ車を停めることなく、いくらでも写真が撮れる。 写真枚数が進んでしょうがない。
   
道の様子 (撮影 2014. 7.30)
   
 後で写真を眺めていると、遠くの山間に湖らしいものが見える(下の写真)。 徳山ダムによってできたダム湖で、名前を「徳山湖」と呼ぶそうだ。 その湖を見るのは今回が初めてであった。
   

遠くに徳山ダム湖(徳山湖)を望む (撮影 2014. 7.30)
山の間に霞んで見える

徳山湖の遠望 (撮影 2014. 7.30)
  
尾根道後半
   
 尾根沿いの見晴の利く道は数km続く。まだ冠山も見えるし、振返れば峠のある稜線がそそり立っているのが望める。稜線の起伏はゆったりとしていて、その僅かな鞍部に峠が位置する。

道の様子 (撮影 2014. 7.30)
  
峠方向を望む (撮影 2014. 7.30)
写真のほぼ中央部が峠
なだらかな稜線の鞍部に位置する
  

多分ここで右手に分岐あり (撮影 2014. 7.30)
<檜尾峠への分岐>
 道は一瞬、ほとんどソバク又とを分かつ尾根の真上を通過する。 その時、右手に分岐のようなものがあったようだ。 はっきり林道とは分らないが、道の形跡は感じられる。 地形図では、ソバク又の谷の左岸側を稜線方向へと遡る道が描かれている。 その車道は稜線までは達していないが、その先に檜尾峠がある。 その林道が古い檜尾峠の峠道かと思ったが、そうではなさそうだ。 高倉峠へ通じる道谷沿いの塚林道途中から、ソバク又沿いにも道が描かれている。 そちらが古道だろう。
   
<尾根沿いから外れる>
 檜尾峠への林道分岐を過ぎると、道はこれまでの尾根筋を外れ、才ノ谷へ張り出した支尾根へと道を転ずる。 小さな尾根なので、勾配はやや急になり、時折ヘアピンカーブも出て来る。

支尾根上を行く (撮影 2014. 7.30)
  

谷が浅くなった (撮影 2014. 7.30)
<才ノ谷が近付く>
 谷底が近付き、視界が悪くなる。 冠山もどこかへ行ってしまった。
  
塚林道へ接続
   
<冠山林道の起点>
 前方に道が通じているのが見えてくる。 相手は高倉峠へと続く塚林道である。 塚林道から冠山林道が分岐する林道起点に到着したのだ。
 
<峠道の終点>
 塚林道は揖斐川本流沿いから更にその源流の川である道谷に沿って通じる峠道である。 高倉峠を揖斐川源流の地と考えれば、塚林道の方が峠道の本線となる。 よって冠山峠の峠道は、冠山林道と供に、この分起点を持って終了と考えられる。

前方に塚林道 (撮影 2014. 7.30)
  
分岐を峠方向に見る (撮影 2014. 7.30)
左が高倉峠へ通じる塚林道の続き(この時は通行止)
右が冠山峠への冠山林道
  
<分岐点の様子>
 どうしてしまったのか、高倉峠方面は物々しく全面通行止である。 近年は集中豪雨が多発し、また今年の2月には大雪が降った。 そうした天候の影響だろうか。 通行止の理由はどこにも示されていなかった。
 
 冠山峠へはまだ「福井県へ 通りぬけは 出来ません」と看板が出ている。 数日前に通行止が解除になったことは、反映されていなかった。 岐阜県側から訪れた者は、これではどちらへも進めない。
  

高倉峠方面は「全面通行止」 (撮影 2014. 7.30)

看板には「福井県へ通りぬけは出来ません」 (撮影 2014. 7.30)
   
以前の分岐点の様子(余談)
   
1992年の分岐点の様子 (撮影 1992.10. 9)
この時は左の高倉峠へと進んだ
   

冠山林道方向を見る (撮影 1992.10. 9)
<1992年>
 この分岐点を初めて訪れたのは1992年のことだった。 今よりも木々が少なく、開けた感じであった(上の写真)。 その時は高倉峠へと進んだが、冠山林道も通行可能な様子だった。 冠山林道の入口には、林道看板や「水源かん養保安林」、「山火事注意」などの看板が並んでいた(左の写真)。
 
 尚、この日は天候が悪く、高倉峠は深い霧の中だった。
  
1995年の冠山林道入口の様子 (撮影 1995. 5. 3)
この時、冠山林道は通行止
  
<1995年>
 3年後にまたノコノコこの分かれ道にやって来た。 今度は冠山峠を越える積りだった。 ところが、林道入口は道が半分バリケードで塞がれている。 林道に少し入り込んでみたが、1km程も行くとゲートで通行止になっていた。 その先で路肩決壊があったようだ。 仕方なく引き返し、再び高倉峠を越えたのだった。 今度はまあまあ見晴の良い峠越えができた。
 
 その時の冠山林道入口を見ると、「水源かん養保安林」の看板は左側に移動していた。
 

林道看板など (撮影 1995. 5. 3)
   

1996年の冠山林道入口の様子 (撮影 1996. 8.15)
<1996年>
 早々と翌年には、今度は福井県側から冠山峠を目指した。 越えることは越えたが、霧でほとんど視界がなく、全くつまらない峠越えになった。 それ以来、ずっと悔いが残っていたが、やっと今年(2014年)になって晴天の冠山峠を見て来られたのだった。
 
 それにしても、この分岐は訪れる度に写真をよく撮っている。 単に細い林道が二手に分かれているだけの場所だが、どちらの道を選ぶかで、その先の旅が大きく変わる。 高倉峠を越えるのか、冠山峠を越えるのか。時には道が通行止だったりする。
   
古い看板
   
<古い看板>
 冠山林道の入口の看板は少なくなった。特に道の右側に立っていた看板が今は何もない。 代わりに、分岐の角に古い看板が地面に転がっている。
   
分岐の様子 (撮影 2014. 7.30)
古い看板が分岐の角に置かれている
   
 以前右側に立っていた冠山林道の林道看板やら「大型車輌通行止」とか「高倉峠 福井県へ 通り抜け出来ません」と書かれた看板などが転がっている。
   

古い看板 (撮影 2014. 7.30)

古い看板 (撮影 2014. 7.30)
  
<水源かん養保安林の看板>
 いろいろある看板の中で、水源かん養保安林の看板は貴重である。 その付近の道や河川の名前が細かく記されていることが多いのだ。 転がっている中に高倉峠方面の水源かん養保安林の看板があった(左下の写真)。 所在場所は「揖斐郡藤橋村大字塚地内」とある。 道谷より南側の河川名が詳しく載っている。
 
 いろいろ辺りを探していると、冠山峠方面の水源かん養保安林の看板も見付かった(右下の写真)。 こちらは才ノ谷が描かれている程度であまり参考にはならなかった。
  

高倉峠方面の水源かん養保安林の看板 (撮影 2014. 7.30)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)

冠山峠方面の水源かん養保安林の看板 (撮影 2014. 7.30)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
  
<塚>
 冠山峠の岐阜県側の地は、塚(つか)と呼ばれる。 明治22年に徳山村の大字になり、その後藤橋村から揖斐川町へと大字名が引き継がれている。 揖斐川町の最北西端にあり、福井県との県境を成す地区だ。 ただ、人が住む塚の集落はここよりもっと下流の揖斐川左岸にあったそうだ。 揖斐谷最奥の辺地とのこと。
 
 「塚」の名は、追ってより逃れて落ち延びた二条天皇が、三軒家(さんげんや、塚より下流の櫨原(はぜわら)地区内)近くの崖で足を踏み外して一命を亡くし、 その二条天皇を葬った塚があることに由来するとのこと。
 
 古くより冠峠、檜尾峠、高倉峠を越え、この塚の地を通って越前国と美濃国の交流が盛んに行われた。 塚より下流の揖斐川沿いには難路が多くて、塚の周辺の地はかえって越前国との結び付きが強く、越前文化の名残を多く留めていたそうだ。 ただ、その地も今は徳山湖に沈んでいる。
  
分岐を揖斐川町市街方向に見る (撮影 2014. 7.30)
  
林道分岐以降
  
<国道417号へ>
 林道分岐点より下流側は高倉峠の峠道と言えそうだが、この先に国道417号が延びてきている。 国道417号は福井県側にも通じていて、将来は冠山峠道路として福井・岐阜両県を繋ぐ国道である。 よって、国道417号まで話を進めてみる。
 
 冠山林道が合流した塚林道は、道谷を離れ、才ノ谷の右岸を川沿いへと下りだす。 途中、怖そうなヘアピンカーブもある(下の写真)。 カーブの下は才ノ谷の谷底だ。
  

ヘアピンカーブ (撮影 2014. 7.30)

頑丈そうなガードレール (撮影 2014. 7.30)
  
<才ノ谷沿いの林道>
 地形図などでは、才ノ谷の川に沿って冠山峠方向の途中まで遡る林道が描かれている。 その分岐がヘアピンカーブの直ぐ先の左手にある筈なのだが、見掛けた覚えがない。 後日、ドラレコ画像(ドライブレコーダーで撮った動画)を調べてみても、それらしい道は見当たらなかった。 何となく分岐らしい所はあったのだが、その道はもう草木に埋もれてしまったようだ。
  

右手に分岐 (撮影 2014. 7.30)
 道はどんどん才ノ谷の川に近付いて行く。左手に砂防ダムなども望めるようになる。
 
 右手に分岐があった(左の写真)。 チェーンで通行止である。 揖斐川本流方面へ少し遡る道らしい。
  
塚林道起点へ
  
<沿道に看板>
 沿道にいろいろ看板が出て来た。 林道塚線に関する物が多い。 ほとんどが峠方向に見る向きで立っている。
  
左手の沿道に看板が並ぶ (撮影 2014. 7.30)
  

林道関係の注意看板 (撮影 2014. 7.30)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)

林道看板 (撮影 2014. 7.30)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
  
 「塚林道」と書かれた林道標柱も立っていた(左下の写真)。
 
 「福井県へ 通り抜けは 出来ません」と冠山林道の入口にあった物と同じ看板もあった(右下の写真)。 ただ、ここでは高倉峠と冠山峠のどちらのことかは判別できないが、どちらにしろ福井県には行けないということなのだろう。 実際には冠山峠の方は越えられるのだが。

看板の少し先に林道標柱 (撮影 2014. 7.30)
  

林道標柱 (撮影 2014. 7.30)

「福井県へ 通り抜けは 出来ません」 (撮影 2014. 7.30)
  
<塚林道の起点>
 立ち並ぶ看板の直ぐ先で才ノ谷の川を渡る橋が架かっている。 その先、道は揖斐川の本流沿いになる。 橋の手前には、ちょっとした路肩があり、その先にゲートがある。 道が分岐するのか、それとも何かの敷地の入口か、とにかくゲートの先は草だらけである。
 
 既に林道標柱が立っていたし、林道看板もあったので、少しあいまいだがこの付近が塚林道の起点であろう。 支流の才ノ谷が本流の揖斐川に注ぐ地点でもあり、道の起点としてはふさわしい。 正確には、林道標柱が立っている所が起点であろうが、どうも道の途中の中途半端な場所な気がする。 ぼんやりしていると通り過ぎそうだ。 橋の袂だったら、分り易かっただろうに。
  

林道関係の看板 (撮影 2014. 7.30)

塚林道の起点付近 (撮影 2014. 7.30)
徳山ダム方向に見る
この先、道は才ノ谷を渡る
右手の路肩の奥にゲートがある
  
<林道起点に立つ看板>
 林道関係の看板以外に、徳山ダムができてからと思われる新しい看板も立っている(下の写真)。
  
塚林道起点に立つ看板 (撮影 2014. 7.30)
  
林道関係以外の看板 (撮影 2014. 7.30)
  
 徳山湖からすれば、ここは湖の最上流部、しっぽの部分である。 ここまで入り込んで来る一般者は少ない。 細い林道が始まるだけの寂れた場所である。 そこに真新しい看板だけが目立っていた。
看板の地図 (撮影 2014. 7.30)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
  
揖斐川沿い2km
  
才ノ谷を渡る橋を徳山ダム方向に見る (撮影 2014. 7.30)
その先、道の右手には揖斐川本流が流れ下っている
  
<揖斐川本流沿い>
 才ノ谷に架かる橋は古く、鉄製の欄干は、片側はほとんど朽ちていた。 橋の右手では、冠山峠より流れ下って来た才ノ谷が本流の揖斐川に注いでいる。 橋を渡れば、道は遂に揖斐川本流沿いとなる。
  
揖斐川沿いの道 (撮影 2014. 7.30)
右手に揖斐川を間近に見る
  
<名前が不明な区間>
 塚林道の起点は過ぎ、この揖斐川沿いの道は国道417号かというと、そうではなさそうだ。 現在の岐阜県側の国道417号は、この先約2kmの地点で止まっている。 すると、この揖斐川沿い2kmの区間は、何という道だろうか。
  

道の様子 (撮影 2014. 7.30)
左手に上がる道、その先には何かの建屋

道の様子 (撮影 2014. 7.30)
この付近は揖斐川を間近に見る
  

右手に「通行注意」の看板 (撮影 2014. 7.30)
<道の様子>
 道巾は狭いままだが、才ノ谷を渡ってからは路面のアスファルトは比較的新しい。
 
 「通行注意 ここから先、300m区間 待避所はありません」と看板が出て来た(左の写真)。 そこからは新しそうなガードレールが途切れることなく続いている。 山側の崖と川側のガードレールに挟まれ、狭苦しい運転を強いられる。
  

河原へは降りられないようにゲートあり (撮影 2014. 7.30)

やっと待避所が出て来た (撮影 2014. 7.30)
  
 待避所が出て来てからも、川側のガードレールは続いて行く。 時折、沿道からも揖斐川の流れが望めるが、ガードレールに阻まれ川岸には全く近付けない。 護岸も新しく、道は徐々に川から遠ざかって行く。 やはりこの付近の道は、徳山ダムの建設に伴って改修されたようだ。 側を流れる揖斐川の川面も、この先だんだんと川幅を増し、徳山湖の湖面へと姿を変えようとしている。
  
揖斐川の川面を望む (撮影 2014. 7.30)
護岸が新しい
  
<以前の揖斐川沿い(余談)>
 徳山ダムができる前の揖斐川沿いは楽しかった。 2枚の写真が残っている(下の写真)。 川がもっと身近に感じられた。 一度は河原にジムニーを乗り入れ、即席ラーメンを作って食べたりした。 長い旅の途中であった。 食後は小雨の降る中、ジムニーの車窓から川面を眺めてのんびり過ごした。
  

以前の揖斐川の河原 (撮影 1992.10. 9)
峠方向に見る
河原に車を乗り入れて、即席ラーメンを煮て昼食を摂った
西への長い旅(Part2)

以前の揖斐川沿いの道 (撮影 1995. 5. 3)
峠方向に見る
この後、高倉峠へ
  
<工事看板>
 沿道に工事看板が幾つか出て来た。 まだ法面工事などが残っているようだ。 途中で工事車輌も数台停まっており、付近に作業員も見掛けた。
 
 この冠山峠の峠道では、峠に原付バイクでやって来た登山者を一人見掛けたきりだ。 それ以外は、福井県側のトンネル工事と、岐阜県側のこの工事現場の作業員ばかりである。

工事看板 (撮影 2014. 7.30)
  
国道の終点へ
  
<シタ谷(またはヒン谷)を渡る>
 道は時々待避所のような場所を過ぎるが、ほとんど狭いままだ。そして最後に細長い橋を渡る(下の写真)。 シタ谷あるいはヒン谷と呼ばれる揖斐川支流の川に架かる橋だ。 その川は上流部で西側のシタ谷と東側のヒン谷に分かれているが、どちらが本流かは地形図からは分らなかった。
  
シタ谷(またはヒン谷)を渡る (撮影 2014. 7.30)
その先の正面に広場
  
<シタ谷>
 シタ谷の源頭部は冠山の少し東側の鞍部にあり、多分そこに旧冠峠があり、旧冠峠の道はこのシタ谷沿いに本流の揖斐川へと下って来ていたのではないかと思う。 橋は徳山ダム建設によって架け替えられた新しい橋で、橋上からは谷を下の方に望む。 その谷底に沿って古い峠道が通じていたのではないだろうか。 今は深い木々に埋もれてしまっている。
  
橋より北の旧冠峠方向を望む (撮影 2014. 7.30)
工事用だろうか、少し上流側に別の橋が架かっている
この谷の下に旧冠峠の古い峠道が通じていたのではないかと思う
  
<国道417号と徳山ダムの管理用道路>
 後で写真を眺めていたら、橋の袂に看板があるのに気が付いた(下の写真)。「徳山ダムの管理道路は、ここ迄です。ここから先は、国道417号です。」とあるではないか。ここが岐阜県側の国道の終点であることが分かると同時に、塚林道と国道とを繋ぐ約2kmの区間は、「徳山ダムの管理用道路」と判明した。才ノ谷とシタ谷(またはヒン谷)との間の区間だ。徳山ダムが完成した今、揖斐川の上流部で本流の流れを間近に望める道は、この管理用道路がほぼ唯一となるようだ。
  

橋の袂 (撮影 2014. 7.30)
右手に看板

ここから国道であることを示す看板 (撮影 2014. 7.30)
  
国道終点の広場
  
<国道終点>
 現在の国道417号の終点となる場所は、大きな広場となっている。 アスファルト敷きの広い駐車スペースと側にトイレ、その奥に園地が隣接する。
  

橋を渡ると正面に広場 (撮影 2014. 7.30)
道はその手前を左に曲がる

広場より峠方向を振返る (撮影 2014. 7.30)
ここより奥は狭い管理用道路となる
  

道は広場を左に巻いている (撮影 2014. 7.30)
左手奥に進む道が国道(徳山ダム方向)
前方に塚白椿隧道の坑口が見える
 広場の北側には2車線路の立派な国道が始まっている。 その先直ぐにトンネルに入っている。
 
 現在の岐阜県側の国道417号の終点はこの地となる。 将来、冠山峠道路が完成して福井県と岐阜県がトンネルで繋がれば、この広場はトンネルで両県を行き来する車の格好な休憩場所として賑わうことだろう。 ただ、今は国道が行き止まる地点であり、登山者や釣り人などを除けば、余程物好きでなければ訪れることも少ないであろう。
 
<昔の国道終点>
 古い道路地図を眺めてみると、徳山湖ができる前の国道417号の終点も、今とほぼ同じ、シタ谷(あるいはヒン谷)の川を上流側へ渡った直ぐの地点であった。 多分、そこよりこの支流に沿って旧冠峠への道が登っていたので、その地点までを国道に指定したのではないだろうか。
  
<園地周辺>
 トイレに隣接して園地が整備されている。 将来、県境を越えて往来する車のドライバーが、運転の疲れを癒す場所となるだろう。 石碑が一基あったのだが、近付いて見ては来なかった。
 
 園地の先に国道のトンネル坑口があったが、よく見ると、坑口上部に青い屋根の家があり、そこに道が通じているようだった。 他にもその道沿いに何かの建屋が並んでいる。 古くからある道なのだろうか。 昔の揖斐川本流沿いに通じていた道は、徳山湖によって掻き消されてしまっている。 その枝道が残ってるのだろうか。 旧冠峠の峠道とも関係するのかと、後になって気になってきた。

トイレの奥に続く園地 (撮影 2014. 7.30)
散策路が設けられ、石碑が立つ
  
広場の看板
  

「橋・トンネルの名称」の看板 (撮影 2014. 7.30)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
 トイレの建屋に並んで看板が2枚並んでいる。
 
<橋・トンネルの看板>
 ここより下流にある多くの橋とトンネルが列挙されている。 古い地名などに由来する名が付けられていて面白い。 揖斐川の支流となる谷の名も記されているが、一番知りたいシタ谷かヒン谷となる谷の名が掲載されていない。
  
<宮ヶ原地区の看板>
 もう一つの看板には「宮ヶ原地区」とある。 ここはまだ揖斐川町の大字「塚」であるから、その「塚」内の1地区に「宮ヶ原」があったのだろうか。 現在の地形図は徳山湖が大きく描かれてしまっていて、昔の地名の記載が全くない。 古い地形図が容易に閲覧できると良いのだが。
 
 看板には、ここが徳山ダム上流約14kmにあることと、冠山が紹介されているだけで、「宮ヶ原」に関する記述は見当たらない。

宮ヶ原地区の看板 (撮影 2014. 7.30)
  
看板の地図 (撮影 2014. 7.30)
  
看板の「冠山」の紹介文 (撮影 2014. 7.30)
  

揖斐川町の見所マップ (撮影 2014. 7.30)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
<揖斐川町マップ>
 代わりに揖斐川町全体のマップが載っている。 町境にある主な車道の峠を列挙すると、馬坂峠(馬坂トンネル)、冠山峠、高倉峠八草峠(はっそう)、鳥越峠国見峠岩手峠(いわで)などである。また町内にはホハレ峠日坂越(ひさかごし、峠名は仮称)などがある。 随分いろいろな峠が揖斐川町になった。 この「峠と旅」で掲載してきた峠も多く入っている。 たった一つの町で、これだけの数の峠が関係することは珍しい。
  
冠山峠道路
  
<工事用フェンス>
 国道終点の突き当たりは、道が左にカーブするが、その正面は工事用の鋼板のフェンスが張り巡らされている。
  
広場より峠方向を見る (撮影 2014. 7.30)
工事用のフェンスが張り巡らされている
  
<冠山峠道路の看板>
 フェンスの一画には「冠山峠道路」と書かれた看板が掛かっている。 将来このフェンスが開かれ、その先に看板が示す冠山峠道路が続くことになるようだ。
 
 看板の地図を見ると、冠山峠道路は2つのトンネルから成るようだ。 まずシタ谷の右岸沿いに短いトンネルで遡り、シタ谷上流部からは、冠山のほぼ真下を通り、足羽川沿いに出る県境越えの長いトンネルへと続く。 ダム管理用道路に架かる橋の上流側に見えていた橋は、冠山峠道路がシタ谷の右岸へと渡る為の橋だったようだ。
 
 福井県側の坑口付近は工事をしている様子がうかがえたが、こちらは工事フェンスに囲われ、どこまで工事が進んでいるのか分らない。 工事車輌が出入りするような様子もない。

冠山峠道路の看板 (撮影 2014. 7.30)
  

看板の一部 (撮影 2014. 7.30)

看板の一部 (撮影 2014. 7.30)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
  

看板の地図 (撮影 2014. 7.30)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
 冠山峠道路の延長は7.8km。 一方、その間の現在の林道延長は24.7kmとある。 冠山峠の道は、距離が短く快適な道に生まれ変わろうとしている。
 
 県境をトンネルで越える峠道ではあるが、ほぼその道筋は古い冠峠が国境を越えていた道に重なる。 往時、越前と美濃との交流で栄えた峠道に、新しい時代が訪れるのであろうか。
  
国道417号を行く(ここからは余談)
  
<国道417号へ>
 国道417号の終点に達し、旧冠峠の道ともほぼ合したので、これで冠山峠の道は終わりである。 しかし、ついでに徳山ダムなども掲載しておく。 最後にこの地を訪れたのは1997年4月のことで、当時はまだダム工事の真っ最中であった。 あれから17年。 どのように変わったか、一目見ておきたい。
 
<塚白椿隧道>
 国道を走り始めると直ぐに国道標識が立っている。 地名には「揖斐川町 塚」とある。 その先、塚白椿隧道(つかしろつばきずいどう)に入る。 徳山ダム建設に伴って新しくなった国道417号は、この先トンネルと橋の連続である。 中でも塚白椿隧道は最も長いトンネルで、3330m。

国道の終点から徳山ダム方向を見る (撮影 2014. 7.30)
最初の国道標識が出て来た
  

村平コト谷橋を渡る (撮影 2014. 7.30)
<橋とトンネルの連続>
 どのトンネルも天井が高く、比較的大きな造りになっている。 今はまだ交通量はほとんどないので、ガラ〜ンとしたトンネルの中を一台の車だけで走るのは薄気味悪いくらいだ。 しかも塚白椿隧道はいつ終るのかと心配になるくらい長い。 後でドラレコの動画を見直しても、異様なトンネルである。 (ドラレコ画像についてはこのページの一番下を参考に)
  
 それにしても橋とトンネルの連続で、同じような景色が続く(下の写真など)。 最初の内は次々に現れる橋やトンネルを写真に納めていたが、途中からバカバカしくなって、止めてしまった。
 
<徳山湖の景色>
 道は徳山湖の左岸を行く。 橋を渡る度に右手に徳山湖の湖面を眺め、左手に支流の谷に満ちあふれた水面を見る。 徳山湖は細長いので、広々と湖面を見渡すような景観はない。 一方、支流の谷の水面には、立ち枯れた木の幹が並んでいたりして、やや不気味な感じである。 改めてこの湖の出現で多くの土地が湖水に沈んだことを考えさせられる。

櫨原義徳隧道に入る (撮影 2014. 7.30)
道路看板には「岐阜 63km 揖斐川市街 40km」とある
  
磯谷ベロリ橋を渡る (撮影 2014. 7.30)
  
漆谷上原橋を渡る (撮影 2014. 7.30)
前の写真と同じような景観だ
  
以前の徳山付近
  
<ダム建設中の頃>
 旧藤橋村の徳山(旧徳山村の中心地)付近で一度だけ撮った写真がある(下の写真)。 冠山峠から下って来た時のことだ。ダム建設の工事看板が立っていた。 本来、国道417号はこの先徳山橋を渡って揖斐川の右岸へ出ていたが、そちらが通行止である。
  
旧徳山村の中心付近 (撮影 1996. 8.15)
国道417号を建設中のダム方向に見る
  

工事看板 (撮影 1996. 8.15)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
<迂回路>
 工事看板に示された迂回路は、徳山橋の手前で一旦馬坂峠への道(県道270号・藤橋根尾線)に入り、支流の白谷付近から県道を別れ、 建設中のダムの左岸を迂回し、ダムの下流に出るようだ。 ダム建設に先立ち、既に住民は立ち退いてこの付近に住んでいる者はほとんど居ない様子である。 大規模なダム建設が行われているこんな山深い中から、無事に抜け出せるのかと心配になってきた。
 
 恐る恐るジムニーを進めると、係員に案内され不気味なトンネルへと導かれた。 ダム工事の為に造られた架設のトンネルである。 一体どこに通じているのかと不安にさせられる。 トンネルを抜けると揖斐川沿いの道に出た。 そのまま進むと国道に戻った。
  

ダム付近を迂回する架設トンネル (撮影 1996. 8.15)

ダムの下流側に出た所 (撮影 1996. 8.15)
揖斐川左岸に通じる道に合したようだ
  
 翌年(1997年)、今度は馬坂峠を越えて旧藤橋村に降り立った。多分同じ架設のトンネルを抜けたのだと思うが、この時は通行する前に名前を記入させられた。多分、安全の為だろうと思うが、物々しい雰囲気であった。
  
県道270号の分岐
  
<県道270号の分岐>
 今は揖斐川最奥の辺地「塚」も旧徳山村の中心地「徳山」も、全て水の下である。 旧根尾村との境にある馬坂峠(峠は馬坂トンネル)に通じる県道270号・藤橋根尾線は、以前は徳山から分岐していた。 ダム完成後は、峠より揖斐川町側の県道は大きく変わっている。 国道を走っていると県道分岐を示す看板が出て来た(下の写真)。
  

県道分岐を示す道路看板 (撮影 2014. 7.30)

道路看板 (撮影 2014. 7.30)
   

県道分岐 (撮影 2014. 7.30)
左に県道が分かれる
国道はこの先トンネル(洞山鬼岩隧道)に入る
<馬坂峠通行止>
 馬坂峠への道の分岐は全く変わってしまった。 分岐からちょっと覗き見る限りは立派な道だが、「この先、大型車通行不能」とか、「通行注意 落石の恐れ」などとある。 そもそも、訪れた日には全面通行止の看板が出ていた。 理由には「災害のため」とある。
 
<余談>
 実は二日前に旧根尾村側から馬坂峠を越えようとしたら通行止で、大幅に旅程を変更し、 この冠山峠越えもその二日後に福井県側から越えることとなったのだった。 馬坂峠を最後に訪れたのは1997年のことで、この峠もどのように変貌したか、もう一度越えてみたかった。
  
<県道根尾今立線>
 古くは県道根尾今立線が旧徳山村の塚の地まで通じていたと文献にあったが、「根尾」とあるからには旧根尾村と繋がっていたらしく、 ならばその県道は馬坂峠を越えていたことになる。 岐阜バスが塚を終点の地として、根尾村樽見を通り、岐阜市と連絡していたとのこと。 揖斐川沿いの地形が険しかった為、馬坂峠越えの道が先に発達したのであろうか。

この時県道は通行止 (撮影 2014. 7.30)
   
新しい県道270号 (撮影 2014. 7.30)
橋の先は直ぐにトンネル(岳洞山桜隧道)
   
徳山湖右岸へ
   
<徳之山八徳橋>
 県道分岐の少し前より、徳山湖を渡る橋が架かっているのが前方に見えていた。 県道を分けた後、トンネル(洞山鬼岩隧道)を一つ抜けるとその橋(徳之山八徳橋)に差し掛かる。
   
徳之山八徳橋を渡る (撮影 2014. 7.30)
   
<橋からの眺め>
 橋上からは下流方向に徳山ダムを望む。上流方向は、徳山湖が細長いので、あまり遠くまでは望めない。 近くの右岸に建物が見える。 徳山会館と呼ばれる施設だと思う。
  

徳之山八徳橋より下流方向を見る (撮影 2014. 7.30)
右手奥に徳山ダムを望む

徳之山八徳橋より上流方向を見る (撮影 2014. 7.30)
右岸沿いにある徳山会館が見えているらしい
   

徳之山八徳橋の袂 (撮影 2014. 7.30)
<橋の袂>
 橋の先はトンネル(漆原乙女隧道)で、その手前を左右に道が分岐する。 下流側は直ぐに通行止。 上流側は徳山会館への道が右岸沿いに通じる。 徳山ダムの建設途中の一時期、ここで今の国道を横切る道が国道として使われていたようだ。
   

下流方向の道は直ぐに通行止 (撮影 2014. 7.30)

上流方向の徳山会館への道 (撮影 2014. 7.30)
   
<案内看板>
 この付近のダム湖に沈んだ揖斐川沿いは、旧漆原村、後の徳山村下開田の集落だったとのことが、トンネル坑口に掛かる看板にあった。 他にも橋の袂などにこうした案内看板があちこちに見られ、ダム湖に沈んだ村々の由来などが記されていた。

案内看板 (撮影 2014. 7.30)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   
徳山ダム
   

ダム堰堤近くの駐車場 (撮影 2014. 7.30)
<右岸沿い>
 徳山湖の右岸沿いに出ても、まだ橋とトンネルの連続が暫く続き、その後やっと左手へ徳山ダムへの道が分岐している。
 
<徳山ダムの堰堤近辺>
 堰堤近くに駐車場と展望台、ちょっとした園地がある。 園地内にはあちこちに看板が立ち、ダムに関係したいろいろな説明が書かれている。 他にも石碑やモニュメントが並び、いちいち見て回っていると、いくら時間があっても足りない。
   
徳山ダムを望む (撮影 2014. 7.30)
展望台より
(2枚の写真を合わせたもの)
   
<堰堤>
 ダムの堰堤は歩いてなら対岸まで行けるらしく、堰堤途中に休憩施設もあるようだ。 ただ、堰堤は長いので、こちらも時間を要す。 こういうダムには資料館があるだろうと思ったが、管理事務所があるだけで、それに併設されたトイレが使えるだけだった。
  

徳山湖を望む (撮影 2014. 7.30)

徳山ダムの堰堤 (撮影 2014. 7.30)
車両は通行止
   
<ダムの下流>
 ダムから上流側はダム湖に沈み、昔の道など全く陰を留めないが、ダムから下流側は旧道が残っている可能性がある。 以前の徳山橋より下流の国道417号は、横山ダム近くまで、ずっと揖斐川の右岸沿いに通じていた。 ダムから下を覗くと、右岸に沿う細い道が望める(下の写真)。 多分、旧道であろう。 説明看板を読んでいるより、こういう所に昔を偲ぶ方が好きである。
   
ダムの下流側を望む (撮影 2014. 7.30)
右岸に見えるのは旧道だろうか
   
<撮影ポイントの看板>
 管理棟近くの擁壁に小さなトンネル坑口があり、そのトンネル内壁を使ってちょっとしたギャラリーの様になっていた。 資料館の代わりにと、少し立寄った。 その中に「徳山の撮影ポイント紹介します」とポスターがあった(下の写真)。 地図が描かれたそのポスターは、徳山ダムから上流側の国道終点付近までを描いた@と、国道終点から更に上流側のAに分かれる。
 
 関心があるのは、撮影ポイントではなく、地名などである。 Aでは「冠林道」とか「冠峠」とか、「山」を付けずに呼んでいるのが目に付いた。 また、冠(山)林道途中には「林道・車進入不可」と書かれて、点線の道が分岐していることが示されている。 檜尾峠方向へと延びる林道であろう。
   

撮影ポイントの看板A (撮影 2014. 7.30)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)

撮影ポイントの看板@ (撮影 2014. 7.30)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   
徳山ダムより下流へ
   

揖斐川を望む (撮影 2014. 7.30)
ダムの下流1kmくらいの地点
<徳山ダムより下流方向の国道417号>
 もう冠山峠とはほとんど縁が薄くなったが、横山ダムまで道を進める。
 
 国道標識の地名は「揖斐川町 鶴見」となった。 現在の国道は昔と同じ揖斐川右岸を行くが、谷の斜面の高みに通じる。 大きく蛇行する揖斐川の流れを左手の下の方に眺める。
   
<1997年の眺め>
 1997年に訪れた時は、既に現在の道筋に国道が通じていて、そこより揖斐川を眺められた(下の写真)。
   
揖斐川右岸より望む揖斐川 (撮影 1997. 4.27)
建設中の徳山ダムの下流2kmくらいの地点
対岸にも道を認める
   
<分岐>
 徳山ダムから2km程下った所に、川岸へと降りる道が分岐していた。 工事車輌の出入口とあるので、ちょっと入り難いが、そこを行けば、川沿いの旧道に出られたのかもしれない。
 
<藤橋城への分岐>
 ダムから4km程の距離を進むと、左手に下る道が分岐していた(右の写真)。 その方向に「藤橋城」とか「民族資料館」、「藤橋城公園」などと案内がある。 立寄ってみたかったが、旅程が許さなかった。

左へ県道分岐を示す看板 (撮影 2014. 7.30)
   

旧道との合流点 (撮影 2014. 7.30)
<旧道と合流>
 次に左から鋭角に道が合流して来た(左の写真)。その道が旧国道だと思う。これから後は昔の道筋である。
 
 沿道より眺める揖斐川は、相変わらず大きな蛇行を繰り返し、なかなか険しい様相だ。この川筋に道を通すことの困難さを示している。
   
揖斐川の眺め (撮影 2014. 7.30)
なかなか険しい様相
   
横山ダムへ
   

前方に新川尻橋 (撮影 2014. 7.30)
その手前に橋脚だけが立っている
<新川尻橋>
 前方に赤い欄干の新川尻橋が見えてくる。 横山ダムによるダム湖(奥いび湖)の上流部に架かる橋だ。 その橋の上流側に橋の橋脚だけ2本、立っていた。 現在の新川尻橋は古くてやや狭いので、新しく架け替えるようだ。 今後、冠山峠道路で福井県と繋がる国道となるに当り、全線に渡って改修されるのだろう。
   

新川尻橋を渡る (撮影 2014. 7.30)

新川尻橋より上流方向を見る (撮影 2014. 7.30)
   
<新横山橋>
 既に新しい橋が架かっていた。国道417号は国道303号に接続するが、以前の国道303号は横山ダムの堰堤に通じていた。 それが、横山ダムの手前に新しい橋が架かり、対岸から国道303号が渡って来ていた。
   

国道303号への合流点 (撮影 2014. 7.30)

分岐の看板 (撮影 2014. 7.30)
   
 その橋は新横山橋と呼ぶらしい。その橋を渡り国道303号を行けば、八草峠(現在は八草トンネル)を越えて滋賀県だ。
 
<横山ダムの堰堤>
 旧国道303号であるダムの堰堤は、一般車両は通行止になっていた(下の写真)。 ここを通って八草峠を何度か越えている。 峠が冬期通行止で引き返して来たこともあった。 湖を眺めたりした懐かしい場所だが、もう通れないと思うと残念な気がする。 暫く見ない内に冠山峠周辺の道は、徳山ダムの出現以外にも随分と変わったようだった。

新横山橋 (撮影 2014. 7.30)
国道303号が渡る
   

横山ダム以降の国道303号 (撮影 2014. 7.30)
揖斐川市街方向に見る
この右手が横山ダムの堰堤

横山ダムの堰堤 (撮影 2014. 7.30)
ここが以前の国道303号
   
  
   
 県境越えの峠をまた一つ掲載できたのは嬉しい。 特に冠山峠はこれまでずっと気になっていた峠である。 17年振りに訪れた旧徳山村の地は、突如として徳山湖が出現したように思われた。 また、冠山峠道路の完成を前に、かつて越前・美濃両国の交通で栄えたいにしえの峠道が、新しい時代を迎えようとしている。 時の移り変わりに少し驚かされた、冠山峠であった。
   
   
   
<走行日>
・1996. 8.15 福井県 → 岐阜県 ジムニーにて
・2014. 7.30 福井県 → 岐阜県 パジェロ・ミニにて
   
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 18 福井県 1989年12月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 21 岐阜県 昭和55年 9月20日発行 角川書店
・県別マップル道路地図 21 岐阜県 2001年 1月  発行 昭文社
その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒ 資料
 
<ドラレコの動画>
冠山峠(岐阜県・福井県)1/ 福井県側・国道区間(時短)<峠と旅>
冠山峠(岐阜県・福井県)2/ 福井県側・冠山林道区間(時短)<峠と旅>
冠山峠(岐阜県・福井県)3/ 岐阜県側・冠山林道区間(時短)<峠と旅>
冠山峠(岐阜県・福井県)4/ 岐阜県側・塚林道〜国道の徳山ダム区間(時短)<峠と旅>
冠山峠(岐阜県・福井県)5/ 岐阜県側・国道の徳山ダム〜横山ダム区間(時短)<峠と旅>
  
<1997〜2014 Copyright 蓑上誠一>
   
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