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地蔵峠 (群馬県・長野県)
  じぞうとうげ  (峠と旅 No.353)
  標高の高い車坂峠と並走する双子の峠道
  (掲載 2026. 7. 9  最終峠走行 2015. 9.16)
   
   
   
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地蔵峠 (撮影 2004. 2.13)
奥は群馬県吾妻郡嬬恋村大字田代
手前は長野県東部町(現東御市)大字新張
道は県道94号(主要地方道)・東部嬬恋線(現東御嬬恋線)
(この2カ月後に東部町は東御市の一部になっている)
標高は1,732m (地理院地図や現地に立つ看板より)

冬の地蔵峠 (今から22年前)
この10年以上前にも一度訪れているのだが、全く写真を撮って置かなかった
その当時から観光客、特に冬場のスキー客が多く訪れる開けた峠だった

   
   
   

峠の概要

   

<掲載理由(余談)>
 前回の鳥居峠とはご近所の峠になる。標高の高い峠として車坂峠(1,973m)を掲載してあったが、同じ様に群馬・長野県境を越えていて、双子の様に並んで通じる峠道になる。 どちらも峠は開けていて、似たような雰囲気がする。車坂峠は高峰高原、本峠は湯の丸高原と呼ばれ、スキー観光などが発達した。その為、これだけ高い峠にも関わらず、冬期の自動車交通が可能である。
 
 標高は本峠(1,732m)の方がぐっと低い。車で行ける峠として車坂峠は第5位ぐらいに入り、なかなかのものだが、本峠は精々10数番目程度だろう。
 
<コマクサ峠/標高の高い峠?>
 ここで問題なのは、車坂峠と本峠を繋ぐ林道の途中に2,061mの最高地点があり(地理院地図)、そこが「コマクサ峠」と呼ばれることだ。 もし本当にそれが峠なら、標高で車坂峠の上を行くことになる。これは由々しき事態だ。それを確かめたくて、その前に今回の地蔵峠を掲載しておこうと思ったら、近くの鳥居峠が気になり、そちらを先にして、やっと順番が回って来たのだった。

   

<鳥居と地蔵(余談)>
 鳥居峠の名は多いが、地蔵峠はもっと多い。一概に鳥居だ、地蔵だと言っても個々の峠は千差万別で、名を聞いただけでは何ら特定のイメージが湧いて来ない。漠然と鳥居峠には鳥居が立ち、地蔵峠には地蔵が祀られる考える程度だ。 妻曰く、地蔵峠は仏様で、鳥居峠は神様だそうである。ただ、日本は神仏混淆(しんぶつこんこう、神仏習合とも)で、あまり宗教に対して明確な意識を持たない。鳥居峠も地蔵峠も、結局区別はない。

   

<所在>
 群馬県の県境がコブの様に西に張り出している部分がほぼ嬬恋村(つまごいむら)で、その西端に通じるのが前回の鳥居峠だった。コブの南側で長野県との県境が東西方向に通じる部分に車坂峠と今回の地蔵峠がある。同じ県境に位置する峠でも、鳥居峠は東西方向、車坂峠・地蔵峠は南北方向に峠道が通じる。
 
<田代・大笹/群馬県側>
 本峠の北側は群馬県吾妻郡(あがつまぐん)嬬恋村(つまごいむら)大字田代(たしろ)になる。江戸期は田代村(たしろむら)で、元は轟(とどろき)新田と称したそうだ。 また、広くこの一帯は大笹村(おおざさむら)でもあり、田代村はその枝村・枝郷とした扱いだった。大笹には鳥居峠に通じる大笹街道の大笹宿があった。田代村は明治22年(1889年)に嬬恋村の大字となる。
 
<新張/長野県側>
 本峠の南側は長野県東御市(とうみし)新張(みはり)で、旧小県郡(ちいさがたぐん)東部町(とうぶまち)大字新張であった。 江戸期の新張村で、明治22年に新張村以下、新屋村・禰津西町・禰津東町・姫子沢村・鞍掛村が合併して市・町村制施行の禰津(ねつ)村が成立、大字新張となる。昭和31年には禰津村・和(かのう)村・田中町が合併して東部町ができる。更に平成16年(2004年)4月1日に東部町と北佐久郡北御牧村(きたみまきむら)が合併して東御市が誕生している。
 
 以上より、江戸期は大笹・田代村と新張村、明治22年からは嬬恋村と禰津村、昭和31年からは嬬恋村と東部町、平成16年以降は嬬恋村と東御市の境に峠はある。
 
<禰津(余談)>
 禰津は祢津とか根津とも書く。現在の道路地図などでは専ら「祢津」の字が使われる。江戸期の禰津村は一時は大禰津村などとも称し、その支配は新張村も含んだような記述が見られる。例えば「元禄14年の大笹村と信州根津村との国境論争」などである。

   

<地理院地図(参考)>
 国土地理院地理院地図 にリンクします。


   
本ページでは地理院地図上での地点を適宜リンクで示してあります。
   

<水系・水域/湯尻川>
 群馬県嬬恋村側は利根川(利根川水系)の第1次支川・吾妻川(あがつまがわ)の支流・湯尻川水域になる。湯尻川の源流は本峠を源頭部とする支流と、県境上の1740mのピーク(地理院地図)を源頭部とする支流の2本に分かれる。1740mの方が源流になると思うが、そちらに峠はない。よって湯尻川水域は全て本峠の範囲と言える。
 
<吾妻川水域の峠(余談)>
 一方、吾妻川本流の源頭部には鳥居峠があり、吾妻川本流域は鳥居峠の範疇となる。吾妻川上流部は鳥居川とも呼ばれ、湯尻川を合した以降を吾妻川とする習わしもあるようだ。 鳥居川と湯尻川を比較した場合、湯尻川の方が流長が長く、より高所を源流とする。この点からは鳥居峠より本峠の方が格が上の様に思える。しかし、吾妻川水域ではその支流の万座川などの方がより山深い位置に源を発する。しかもそこには万座峠(標高約1,830m、文献では1,827m)なども通じる。そんなことを考えると、やはり吾妻川本流沿いは鳥居峠、地蔵峠は湯尻川水域のも、万座峠は万座川水域のみ、としておくのが無難である。

   

<水系・水域/所沢川>
 長野県東御市側は千曲川(信濃川水系)の第1次支川・所沢川(しょざわがわ)水域となる。「所沢」は埼玉県の地名の「ところざわ」ではなく、「しょざわ」と読むそうだ。多分、峠はその川の源頭部に当たる。ただ、所沢川は湯ノ丸山(ゆのまるやま)の西方にも源を発するので(地理院地図)、どちらが本流かちょっと迷うところだ。
 
 尚、所沢川の上流部(地理院地図)を「所沢西川」とする地図がある。すると東から合流する支流(地理院地図)が「所沢東川」かもしれないが、不明である。。

   

<立地>
 広くは東の浅間山(地理院地図)から西の湯ノ丸山(地理院地図)へと南北方向に通じる県境の峰に本峠や車坂峠は位置する。狭くは篭ノ登山(かごのとやま、地理院地図)と湯ノ丸山の間の鞍部に通じる。尚、篭ノ登山には東・西2つのピークがあるようだ。
 
<中央分水嶺>
 これらの峰は太平洋側の利根川水系と日本海側の信濃川水系とを分かつ中央分水界(大分水界)となる。
 
<標高>
 峠の標高は、現在の地理院地図には1,732mと出ている。文献では1,733mと1,723mとかあった。1,723mは低過ぎるので誤植だろうか。峠に立つ看板では1,732mとなっている。

   

<峠名/百体観音>
 多くの地蔵峠の名は峠に地蔵が祀られることに由来する。本峠も概ねそうなのだが、何と100体も居らっしゃる。ただ、峠に100体並んでいる訳ではない。峠道に沿って1町(丁とも、約109m)おきに一体ずつ点在するのだ。しかし、正確には地蔵ではなく観音なのだが。

   

<山の湯道>
 これらの観音は新張村から大笹村側にある「山の湯」への湯治客の為に、旅の安全と道標を兼ねて建立されたものだそうだ。新張入口が1番、峠が80番、山の湯入口が100番になる。この「百体観音」についてはまた後述。
 
<鹿沢温泉>
 「山の湯」は現在では鹿沢(かざわ)温泉と呼ばれる。大字田代には田代、古永井(こながい)、農場、鹿沢、新鹿沢の5集落(字)があるそうだ。その内の鹿沢に鹿沢温泉がある。ただ、今は「旧鹿沢」と呼ぶようだ(地理院地図)。大正の大火により温泉は新鹿沢(地理院地図)に移り、「新鹿沢温泉」となった。一方、元の鹿沢温泉は「旧鹿沢温泉」と区別される。
 
<鹿沢と加沢(余談)>
 「鹿沢」の名の由来は、手負いの鹿が湯治したとか、東御町の加沢(かざわ、地理院地図)の後背地である山の湯、という説があるそうだ。 加沢は峠から流れ下る所沢川が千曲川に注ぐ地でもある。「手負いの鹿」説より、「かざわ」(加沢)にいつしか「鹿沢」の字を当てるようになったと考える方が妥当な気がする。それに加えて「手負いの鹿」の話しがもっともらしく語り継がれてきたのだろう。
 
<禰津湯、加沢湯>
 鹿沢温泉は古くは「禰津(ねつ)の湯」、「加沢湯」などとも呼ばれていたそうだ。禰津も加沢も信州(長野県)側の地名である。国境を越えた上州(群馬県)側の大笹・田代村にあった温泉をそのように呼ぶのは、ちょっと奇異な感じがする。やはり信州側からの湯客が多かったせいだろうか。
 
<鹿沢温泉の支配(余談)>
 江戸期には上州大笹村(田代村)と信州禰津村(新張村)との間で境界争いがあったそうだ。結局、峰通し(稜線)を国境としたが、鹿沢温泉の湯の支配は信州側と裁定されたそうだ。それで温泉の名も信州側の地名を使うのかもしれない。
 
<湯道>
 本峠はかつて新張村から旧鹿沢温泉まで湯客が通った道であった。それでこの区間は「湯道」とか「湯の道」、「山の湯道」、「鹿沢道」、「加沢道」、「かざわ道」などと書かれ、呼ばれた。

   

<群馬・長野県境の地蔵峠(余談)>
 地蔵峠と呼ぶ峠は多けれど、群馬・長野県境の地蔵峠は本峠だけかというと、そうでもない。野反峠(富士見峠とも)(地理院地図)で少し触れたが(地蔵峠)、野反ダムのちょっと奥(北)にその地蔵峠がある(地理院地図)。群馬県の吾妻郡中之条町と長野県の下水内郡栄村との境にあり、県境の地蔵峠になる。古くは長野原町方面から遥々と上信国境を越え、栄村の切明(きりあけ)へと通じる峠道だったようだ。現在、この峠を越える車道は通じていない。
 
 ちょっと面白いのは、この地蔵峠は中央分水界にない。野反湖は信濃川水系の湖なのだが、行政区画上では利根川水系側の群馬県中之条町に属している。野反湖手前(南)に位置する野反峠が中央分水嶺上にあるようだ。 現在の野反湖は人造湖だが、かつては自然湖の野反池があったとのこと。どのような経緯か分からないが、野反池は上州に属し、それでその先にある地蔵峠は上信国境となり、現在の群馬・長野県境となったということらしい。
 
 尚、この付近に池ノ峠という名の峠があったようだ。その名からして野反池に関わる峠と思われる。多分、現在の車道が通じる野反峠の代わりに、中央分水嶺を越えていた峠ではなかったか。池ノ峠から更に地蔵峠を越え、秘境と呼ばれた秋山郷へと至っていたと思う。

   

<好きな地蔵峠(余談)>
 全くの余談なるが、数ある地蔵峠の中でホームページ「峠と旅」でもこれまで5峠掲載した。他にも訪れたことはあるが、まだまだ知らない地蔵峠は多い。
 
 その中に限られるが、長野県木曽町の新開(旧木曽福島町)と開田高原(旧開田村)との境にある地蔵峠地理院地図)が、峠道の味わいの点では一番好みである。元は国道361号が通じていたが、新地蔵トンネル(地理院地図、開通 1987年)が出来、国道は大きく換線された。今ではその地蔵峠に国道が通じていたなどとは、誰も思わないだろう。静かになった峠には一体の地蔵が佇む。如何にも地蔵峠らしい趣だ。
 
 その地蔵峠を掲載したのは1999年8月ともう古い話だが、峠は今でもあまり変わらず残っているらしい。是非、再掲載したい峠の一つだ。

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地蔵峠 (撮影 2007. 8.14)
長野県木曽町の新開と開田高原の境にある
この峠もまた詳しく掲載してみたい
(本題とはあ関係なし)

   
   
   

峠の群馬県側

   

 本峠は5回越えている。最初は1993年10月のことだったが、全く写真を撮っていない。当時は険しい未舗装林道ばかり走っていたので、こうした極めて普通の舗装路には全く関心が向かなかった。ここでは2004年2月以降に訪れた4回分の写真を掲載したい。
 
<県道94号分岐>
 その内2回は群馬県側から越えた。そのどちらも鹿沢温泉に泊まるのが目的で、相変わらず地蔵峠を楽しもうという気はあまりない。 嬬恋村に通じる国道144号を鳥居峠方向(西)に向かって走っていると、県道94号・東御嬬恋線の分岐を示す道路標識が出て来る。その県道方向には「東御」とか「鹿沢温泉」と案内看板が立つ。
 
<田代交差点/峠道起点>
 県道が分岐する交差点は「田代」という(地理院地図)。しかし、田代の中心集落は現国道よりちょっと北に通じる旧道沿いにある。県道の起点も峠道の起点も、本来はその田代集落だ。ただ、わざわざそちらに寄る理由はない。田代の交差点からは250m程北に離れている。
 
<交差点付近の様子(余談)>
 鹿沢温泉に泊まる予定なので、田代の交差点に辿り着いた頃は、そろそろ沿道の明かりも灯され始めていた。それにしては鳥居峠方面から国道を走って来る車が多い。 この田代より西には古永井(こながい)の小集落があるばかりで、その先はもう県境の鳥居峠だ。この嬬恋村はキャベツなどの高原野菜の栽培で知られるが、農作業の帰りにしては走る車は普通の乗用車ばかりである。

   
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田代の交差点の手前 (撮影 2015. 9.15)
鳥居峠方向に見る
道路標識では「←鹿沢、↑上田、田代→」
左手はJAのガソリンスタンド
明かりが灯り、夕暮れが近い

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田代の交差点 (撮影 2015. 9.15)
鳥居峠方向に見る
本峠へはここで左折
鳥居峠方面からやって来る車が意外と多い
仕事帰りだろうか
こちらも宿へと急ぐ

   
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田代の交差点の手前 (撮影 2017. 9.12)
中之条方向に見る
2度目に鹿沢温泉に来た時

   

<鳥居峠は通勤路?(余談)>
 考えてみると、この田代から峠を越えて長野県の上田市街まで、車で26Km程だ。都心部と違い信号機の数は少ない。道は快適な2車線路が通じ、上田市側では日々改修が進む。嬬恋村から上田市街まで40分程だろうか。充分に通勤圏内である。同じ群馬県の中之条町や渋川市方面に出るより便利だ。しかも上田は都会である。
 
 私にとって鳥居峠は旅行で越える峠道だが、地元の方には普段の通勤路なのかもしれない。かつて鳥居峠にあった飲食店では、朝食の提供も行われていた。毎朝そこで食事を済ませ、上田にある仕事場まで車を走らせたのかもしれない。

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田代の交差点 (撮影 2017. 9.12)
中之条方向に見る
左が田代、右が本峠
上田市街の観光から鳥居峠を越えて来たところ

   
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田代の交差点 (撮影 2004. 2.13)
県道側より田代集落方向に見る
キャミで雪の地蔵峠を越えて来たところ

<県道94号へ>
 本峠を越える県道94号は主要地方道で、今は東御(とうみ)嬬恋線と呼ぶが、以前は東部(とうぶ)嬬恋線であった。
 
 2004年2月に訪れた時、県道標識には確かに「東部嬬恋線」と出ていた。その直後の2004年4月1日に東部町と北御牧村(きたみまきむら)が合併し、東御市が誕生している。
 
<道程>
 田代の交差点から峠まで約8.5Km、峠から東御市で国道18号に接続するまで約13.5Km、合計約22Kmの峠道になる。

   
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県道より田代交差点方向を見る (撮影 2010. 5. 5)
パジェロ・ミニで地蔵峠を越えて来たところ
この付近の沿道には建物が点在する

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田代交差点の看板 (撮影 2010. 5. 5)

   

<沿道の様子>
 県道に入った直後は道沿いにはまだ暫く人家が点在する。農業用の大きな倉庫も多い。その向こうに高原野菜の広大な耕地が広がる。西方を望むと、群馬・長野県境の峰が連なる。

   
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県道沿いより西方を望む (撮影 2010. 5. 5)
群馬・長野県境の峰が連なる
中央の山は四阿山(あずまやさん)だろうか?

   

<道の様子>
 県道94号も国道と同じく終始快適な2車線路が続く。以前は一部にセンターラインが消える箇所もあったが、今は道路改修が進み、嬬恋村側はほぼ100%2車線路だと思う。一方、東御市側は市街地に近付くと昔ながらの狭い道になる(後述)。
 
<湯ノ丸山?>
 県道を前方の峠方向に見ると、暫くは円錐形の山が望める。多分、湯ノ丸山だと思う。その左肩に地蔵峠が通じるが、山影になってその鞍部は見えてこない。

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道の様子 (撮影 2017. 9.12)
前方に見える円錐形の山は湯ノ丸山?

   
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新鹿沢温泉付近 (撮影 2015. 9.15)
峠方向に見る
右手にみやげ物屋

<新鹿沢温泉>
 「鹿沢温泉」と一言で言っても、旧鹿沢温泉と新鹿沢温泉、それにもう一つ、休暇村嬬恋鹿沢がある。私達が泊まるのは休暇村の方であった。
 
 田代交差点より2Km足らずで、まず新鹿沢温泉を通過する(地理院地図)。 県道の両側に温泉旅館や土産物屋、飲食店などがポツポツと点在する。その距離は500m位に及び、どこが新鹿沢温泉の中心地と言う訳ではなさそうだ。その為か、いつの間にやら通り過ぎていたという印象である。 もっと横断幕などで大々的に宣伝した方が賑やかでいいように思う。県道沿いにはレトロな雰囲気のある街灯が並んでいたが、新鹿沢温泉を過ぎるとそれもなくなる。

   
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新鹿沢温泉付近 (撮影 2004. 2.13)
田代方向に見る
観光バスが停まる
(今より賑やかな様子)

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新鹿沢温泉付近 (撮影 2010. 5. 5)
田代方向に見る
ほぼ左の写真と同じ場所
レトロな雰囲気の街灯が立つ

   

<休暇村入口>
 新鹿沢温泉を過ぎると、沿道からは建物がすっかりなくなる。道の両側は林に囲われ、あまり視界も広がらない。ただただ快適な道が続くばかりだ。間もなく休暇村嬬恋鹿沢の入口が左手に出て来る(地理院地図)。

   
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左に休暇村への入口 (撮影 2017. 9.12)
これからここに宿泊する

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休暇村の看板 (撮影 2015. 9.16)
宿泊した翌日、これから峠に向かう

   

<休暇村(余談)>
 休暇村嬬恋鹿沢には2015年9月と2017年9月の2回宿泊している。新鹿沢温泉などの昔ながらの温泉旅館も味わいがあっていいのだが、どうしても設備などが安定していて無難な旧かんぽの宿やこうした休暇村を選んでしまう。

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休暇村嬬恋鹿沢 (撮影 2017. 9.12)

   
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部屋の窓からの景色(1/2) (撮影 2017. 9.12)

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部屋の窓からの景色(2/2) (撮影 2017. 9.12)

   
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部屋の様子 (撮影 2015. 9.16)
昔ながらの旅館風

<国民休暇村(余談)>
 現在は休暇村嬬恋鹿沢と呼ばれるようだが、当初は「鹿沢国民休暇村」という名称で、国民休暇村の第1号だったそうだ。昭和37年(1962年)12月に温泉付きという特色を持って開設され、昭和43年には国民保養温泉に指定されている。
 
 国民休暇村は国民の保健休養の為、国立公園や国定公園の中に低廉で清潔な宿泊施設と各種のレクリエーション施設を提供する目的で整備されていった。
 
 休暇村嬬恋鹿沢は我が国最初の国民休暇村として誕生した。時代がやや古いので、今からすると和室の部屋などはレトロささえも感じる。しかし、当時としては非常に近代的な施設だったのだろう。戦後期の日本を盛り上げようとする意気込みを感じる。

   

<余談続き>
 国民休暇村はその後いろいろな変遷があったようだが、今も廉価な宿泊を提供していることは確かだ。元からあった旧鹿沢や新鹿沢の温泉旅館からすると、大変なライバルだったことだろう。
 
 その宿泊設備のコストパフォーマンスの良さから、私たち夫婦はよく休暇村を利用する。特に夕食抜きの、朝食付き一泊プランはリーズナブルだ。二人とも食事に贅沢しようとは思わないので、一食一人当たり数千円も支払う気がしない。 ただ、朝食はしっかり食べたいし、食堂などの館内施設や他の泊り客の様子なども見ておきたいので、毎回必ず予約する。特にバイキング形式は好きな物が好きな量だけ食べられるので、ゆっくり楽しんで食事ができる。

   
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朝食の様子 (撮影 2017. 9.13)

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朝食の様子 (撮影 2015. 9.16)

   

<余談続き>
 休暇村は宿泊施設以外にもキャンプ場などが併設されている。朝食前の朝の一時、敷地内をあちこち散策するだけでも楽しい。しかし、今回はクマ注意の看板が立っていたのであっさり諦めた。

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休暇村の案内図 (撮影 2015. 9.16)
館内にあった看板

   

<休暇村以降(本題に戻る)>
 休暇村付近から先はしっかり湯尻川に沿って道が通じる。左岸側を行く。深く細い谷ではないので、暗い印象はないが、視界はあまり広がらない。

   
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休暇村から先の道 (撮影 2015. 9.16)
地理院地図

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道路標識 (撮影 2015. 9.16)
東御まで21Kmとある
これは市役所までの距離だろう
(今日は生憎の雨模様)

   

<道の改修>
 私が何度か訪れた2000〜2010年代では、嬬恋村側の各所で道の改修が進んでいた。来るたびに快適な2車線路に生まれ変わっていた。それも2017年9月に訪れた時は、概ね完了したようだった。

   
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道の様子 (撮影 2010. 5. 5)
田代方向に見る
「たまだれの滝」付近 (地理院地図
道の改修が進む

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道の様子 (撮影 2010. 5. 5)
田代方向に見る (地理院地図
湯尻川左岸沿いに道が通じる

   

<冬期>
 考えてみると、本峠にはゲレンデがあり、スキー客が多く訪れる。積雪時の車の通行を考慮すると、やはり幅が広い2車線路の必要があるだろう。それもあって、道の改修を進めたのかもしれない。 妻の話によると、休暇村嬬恋鹿沢は普段は予約が取り易いが、かえって冬期の方が混んでいるそうだ。鳥居峠は通勤でも使われるかもしれないが、こちらの地蔵峠は道が良くなっても、さすがに通勤に使う車はないだろう。専ら観光用である。

   
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冬期の道の様子 (撮影 2004. 2.13)
田代方向に見る (地理院地図

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冬期の道の様子 (撮影 2004. 2.13)
田代方向に見る (地理院地図
「鹿沢いこいの広場」入口付近

   

<旧鹿沢温泉>
 休暇村では一応鹿沢の湯に浸かったが、本家の鹿沢温泉の様子は一応見ておきたい。新鹿沢温泉以降、道沿いに建物らしい建物はほとんど見られないが、峠までもう2〜3Kmという地点で道の両側に数軒の建物が並ぶ(地理院地図)。やはり大きな看板などはないが、それが旧鹿沢温泉となるようだ。建物は全て温泉関係の立寄り湯や旅館である。その手前にトイレがある空き地が設けられているので、そこに車を停めるといい。

   
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前方の建物が旧鹿沢温泉 (撮影 2015. 9.16)
この左手にトイレが併設された空き地がある

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旧鹿沢温泉を通過する (撮影 2015. 9.16)
赤いのぼり旗には「日帰り泉道」とある

   

<鹿沢温泉の由来>
 温泉の一角に源泉らしい施設がある。それを囲む柵に「鹿沢温泉の由来」という看板が掛かっている。前述したが、「鹿沢」の名の由来などが分かる。

   
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源泉? (撮影 2015. 9.16)
看板が2つ掛かる

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「鹿沢温泉の由来」の看板 (撮影 2015. 9.16)

   

<往時の鹿沢温泉>
 同じ源泉の所に「上州鹿沢温泉の図」という看板がある。往時の鹿沢温泉の様子が描かれている。ほぼ同じ絵が休暇村のロビーにも見られた。それらには今では想像もできない大きな規模の温泉街が描かれている。 多くの湯治客が散策している様子も窺える。この鹿沢温泉は明治期から大正期にかけて年間4,000〜5,000人の入浴客が訪れたとも言われ、大変賑わったらしい。
 
 絵は上流方向に見ているので、湯尻川の左岸側に温泉地が広がっていたことになる。左手前にそびえる山は「座敷山」としているが、地理院地図にその名は見られない。多分、稜線手前に位置する1855mのピーク(地理院地図)ではないだろうか。右端の一番高い山はやはり湯ノ丸山だろう。左端は稜線上の1847.7mのピーク(地理院地図)か。ただ、こうした俯瞰図は想像で描いたのだろうから、正確なものではない。少しは誇張もあることだろう。

   
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「上州鹿沢温泉の図」の看板 (撮影 2015. 9.15)
休暇村にあった物
「大正7年2月の大火の前の図」とある

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「上州鹿沢温泉の図」の看板 (撮影 2015. 9.16)
源泉の柵に掛かっていた物

   

<大正の大火>
 山間部にありながら多くの湯客が訪れた鹿沢温泉であったが、大正7年(1918年)2月に大火に見舞われ、温泉街は全焼したそうだ。翌8年にはほとんどの湯宿が現在の新鹿沢の地に移転、新鹿沢温泉となった。

   
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旧鹿沢温泉の南端 (撮影 2015. 9.16)
左手に百番目の観音

<百体観音>
 地蔵峠の名の由来となった観音様が旧鹿沢温泉の南端の県道脇に祀られる。正確には地蔵と観音は別物であり、その辺りの事情は妻が詳しい。百体観音を由来に地蔵峠と呼ぶのはおかしいのかもしれないが、そのところは曖昧である。 文献などでは「地蔵観音」などと呼んでいる。また、百体観音以外にもこの峠道沿いには多くの石像が祀られ、中には地蔵尊も居らっしゃる。

   
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百番目の観音 (撮影 2015. 9.16)

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百番目の観音 (撮影 2015. 9.16)

   

<百番目>
 湯道の終点となる旧鹿沢温泉入口に立つ百番目の観音様は千手観音像になる。

   
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百番目の千手観音像 (撮影 2015. 9.16)

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台石に「百番」とある (撮影 2015. 9.16)

   

<千手観音の建立>
 説明書きによると、その千手観音は明治2年に造られた石像だそうだ。大正の大火の前である。よって現在の位置は災害以降に移築されたものと思う。

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「丁石百体観音像」の看板 (撮影 2015. 9.16)

   
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左手に第99番の観音像が立つ (撮影 2015. 9.16)

<第99番>
 その一つの証拠に、僅か50m余りしか離れていない所に99番目観音像が立っている(地理院地図)。1町(丁)おきというからには100m以上は離れていなければならない筈だ。まあ、元からそんなに正確なものではなかったかもしれないが。
  
 第99番も千手観音で、左岸の斜面を登る道の入口に立つ。本来の百番目の観音像はその道を登った先にあったのかも知れない。元はそちらに鹿沢温泉の大きな温泉街が広がっていたのかもしれない。

   
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第99番の観音像 (撮影 2015. 9.16)
標柱には千手観音とある

   
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第99番観音の前から旧鹿沢温泉を見る (撮影 2015. 9.16)

<登山口>
 第99番観音の脇から登る道には、「湯ノ丸山、角間山登山口」とも案内されている。角間峠(かくまとうげ、地理院地図)もその道を登った先にあるようだ。この峠は県境を越え、長野県上田市真田町長(おさ)の角間に下る。
 
<旧鹿沢温泉の様子>
 現在の旧鹿沢温泉は県道沿いの100mくらいの間に建物が並び、そこのみが営業している様子だ。それも少しの期間で家屋の数は減っている。

   
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田代方向に旧鹿沢温泉を見る (撮影 2015. 9.16)
左の擁壁に雪山賛歌の石碑がある

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左の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2010. 5. 5)
以前は第百番観音像の直ぐ横にも建物があった

   

<雪山讃歌>
 鹿沢温泉はあの雪山讃歌誕生の地だそうだ。雪山讃歌の碑やその起こりに関する看板が立つ。

   
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雪山讃歌の碑 (撮影 2015. 9.16)

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雪山讃歌の碑文 (撮影 2015. 9.16)

   

 雪山讃歌は大正15年1月に京都帝大の山岳部によってこの鹿沢温泉で誕生したとのこと。大正7年の大火の少し後だ。天候悪化で宿に閉じ込められた折り、退屈まぎれに作られたとある。記念碑などはこの旧鹿沢温泉に立つが、実際には新鹿沢温泉での出来事らしい。

   
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「雪山讃歌のおこり」の看板 (撮影 2015. 9.16)

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「雪山讃歌のおこり」の解説文 (撮影 2015. 9.16)

   

<旧鹿沢温泉以降>
 また道ばかり立派な寂しい道となる。峠の頂きへと徐々に勾配が増しているようだ。いつの間にやら湯尻川右岸に入っている。すると、右手に「鹿沢合宿研究所」と看板が立っていた(地理院地図)。覚えのある校章が目に留まった。しかし、在学中にこの施設について聞いた覚えがない。この大学は最近統合して、名前が変わってしまった。元々、あまり世間には知られない校名だったが。
 
<学生時代(余談)>
 遠い昔だが、私にも学生の時期があった。今思うと、その自由さは代えがたいものがある。社会人になるといろいろなしがらみがあり、分別も邪魔をする。リタイヤした頃はもう身体が言うことを聞いてくれず、無茶ができない。困ったものだ。

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道の様子 (撮影 2015. 9.16)
右手に鹿沢合宿研究所

   

<民宿>
 また途中、大きな建物が一軒立っている(地理院地図)。民宿だった。

   
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大きな建物が見えて来た (撮影 2015. 9.16)

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民宿らしい (撮影 2015. 9.16)

   
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左に林道棧敷山線の分岐 (撮影 2015. 9.16)

<林道棧敷山線>
 民宿の直ぐ先で林道が分岐する(地理院地図)。看板に林道棧敷山線とある。新鹿沢温泉以降峠までの間にこの県道から分岐する道はほとんどなく、この林道が唯一の存在だ。しかも国道144号に抜けられそうである。

   
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林道棧敷山線 (撮影 2015. 9.16)

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林道棧敷山線の看板 (撮影 2015. 9.16)

   

<林道分岐付近>
 今はもうないが、林道棧敷山線分岐の角に如何にも山小屋風と言った建物が立っていた。「アゼリア」と看板が出ていた。この一帯は湯尻川の2本の源流が合流する地点で、広々と開けている。湯尻川沿いは池などが設けられた園地になっている。 アゼリアの背後には棧敷山が直ぐそこにそびえる。この景色を目の当りにしたら、散策や山歩きをしたくなるのは必定だ。できれば民宿などに泊まり、どっぷりこの自然に浸かりたいものだ。

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林道棧敷山線分岐付近 (撮影 2010. 5. 5)
田代方向に見る
正面の山は棧敷山
その麓に山小屋風の建物があった

   
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林道分岐付近 (撮影 2010. 5. 5)
田代方向に見る
奥の建物は民宿

   

<林道分岐以降>
 道は湯尻川本流沿いから分かれ、概ね地蔵峠を源頭部とする谷筋に沿って大きく蛇行しながら急登を開始する。それまでも湯尻川を殆ど意識することがない道で、よくある暗い谷沿いの峠道とは無縁だった。これ以降は更に開けた斜面を登って行く。 近年、道は増々快適になり、空へと駆け上がるようだ。峠までは2Km弱だが、この区間が本峠としては最も楽しい峠道と言えるだろう。

   
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道の様子 (撮影 2015. 9.16)
最近改修されたばかりのようだった (地理院地図
残念ながら天候は悪い

   
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道の様子 (撮影 2017. 9.13)
側らに広い駐車スペースも設けられた
地理院地図

<レンゲツツジ>
 ここは湯ノ丸山の東麓にあたり、一帯は湯の山高原レンゲツツジの群生地として知られる。その見学の為にか、広い駐車スペースも新しく設けられた。ただ、見頃は6月上旬から下旬とのことで、残念ながらその時期に訪れたことがない。

   

<道の様子>
 道は大きく屈曲しながら峠を目指す。豪快な蛇行で、車の運転にストレスはない。林道分岐以降、標高は1,600mを越えている。お隣の車坂峠は標高1,973mと高いが、本峠も1,732mと負けてはいない。道の快適さではこちらの方が断然上である。 これだけの標高にほぼ全線に渡ってこれ程の快適な道が通じる峠道は少ない。
 
 道は見通しの良いまばらな林の中を縫って走る。標高が高いので白樺が多い。ゲレンデがある関係上、一年をとして通行ができるのが大きな特徴だ。冬場は更に見通しが利き、雪景色の中のドライブも楽しい。

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冬期の道の様子 (撮影 2004. 2.13)
田代方向に見る (地理院地図

   
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周辺の景色と屈曲する道の様子 (撮影 2010. 5. 5)
田代方向に見る (地理院地図

   

<峠直前>
 道は終始開けた状態で峠に至る。

   
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峠直前 (撮影 2015. 9.16)
この時は工事中

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峠直前 (撮影 2015. 9.16)
道の改修前

   

<峠直前/道の改修>
 2015年9月に訪れた時は、峠の200〜300m手前から大規模な改修工事が進められていた。それも2017年9月に再訪した時は、路肩も広い2車線路に生まれ変わっていた。これも除雪などを考慮した道造りなのだろう。

   
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道の改修後 (撮影 2017. 9.13)
前の写真とほぼ同じ場所

   

<峠へ>
 こんな開けた峠へのアプローチも珍しい。峠の片側だけならしばしば見られるが、本峠は群馬・長野のどちら側からも空が開けたまま峠に至る。これは車坂峠も同様だ。

   
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前方が峠 (撮影 2015. 9.16)
一部で工事中

   
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前方が峠 (撮影 2017. 9.13)
前の写真とほぼ同じ場所
改修工事は完成

   

<町(丁)石観音(余談)>
 峠を背に田代へと下る道を眺めると、「鹿沢温泉郷」と看板が立っていた。距離は2.8Kmとある。この「鹿沢温泉郷」とは旧鹿沢温泉のことだろう。現在の道路地図では確かにそこまで2.8Km程になる。その間、今では快適な道が通じている。 あまりに快適なので、道沿いに祀られる筈の町石観音には殆ど気付かない。旧鹿沢温泉の千手観音など一部は大きく立派だが、それ以外は小さな石像も少なくない。
 
 それでも時折路傍に佇む観音を見掛ける。100体全て揃っているか分からないが、かなりの数が残っているようだ。峠が80番で旧鹿沢温泉が100番。 よって、その間は20町、約2.2Kmとなる。しかし、これは車道開通前のかつての峠道の道程である。現在は2.8Kmになったということだ。
 
 それを示していた「鹿沢温泉郷」の看板は今はもうない。道ばかりが良くなり、その一方で旧鹿沢温泉は寂れた雰囲気だ。路傍の観音様はどんな気持ちでその様子を眺めているのだろうか。

   
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峠方面より田代方向を見る (撮影 2010. 5. 5)
「鹿沢温泉郷」の看板が立つ

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鹿沢温泉郷の看板 (撮影 2010. 5. 5)

   
   
   

   

<県境の看板>
 本峠は群馬・長野の県境に位置する。大筋はそれで間違いないのだが、群馬県側から登って来ると、ある筈の長野県の県境看板がどこにも見当たらない。
 
 県境看板は必ずあるとは限らないが、いろいろ探してみると群馬県の県境看板は見付かった。群馬県側から峠に登って来て、まず最初右手にぎんれい荘という比較的大きな建物を過ぎる。そこを過ぎて直ぐ振り返ると、その建物の前に「群馬県 嬬恋村」と看板が立っているのだ。
 
 地理院地図を確認してみると、確かに看板が立つ辺りに県境を示す境界線が通る。しかし、そこは道の最高所の140m程手前である。最高所を峠とするなら、峠は県境にない。

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群馬県方向から峠を見る (撮影 2017. 9.13)
ここは既に県境を越えているのだが、
道の最高所はまだこの先にある

   
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峠方面から群馬県側を見る (撮影 2010. 5. 5)
左手に県境の看板が立つ

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群馬県の県境看板 (撮影 2015. 9.16)
ぎんれい荘の手前に立つ

   

<稜線と県境>
 自然界の分水嶺の稜線は正確には複雑な曲線になる。一方、人工的な県境は比較的単純な直線でつないでいるようだ。それで本峠では道の最高所がある稜線と、群馬・長野の県境にずれが生じたらしい。 こうした場合、やはり峠は稜線上にあるとすべきだろう。店舗やスキー場がある峠一帯は、殆どが長野県に属している。

   

<道の最高所は?>
 ならば、峠となる道の最高所はどこかというと、現地でもなかなかピンポイントでは決め難い。本峠はあまりに広々としていて、なだらかな鞍部をゆったり道が越えている。峠を示す看板や標柱が立っていればいいのだが、そのような物も見当たらない。
 
<鉄塔付近>
 最高所辺りと思しき所に大きな鉄塔が立っている。赤字の看板が掛かっているので、「ようこそ地蔵峠へ」とでも書いてあるのかと思ったが、単に「電線注意」とあり、がっかりした。こうした鉄塔は峰の最高所に立てるのが普通で、少なくともその付近が峠である。

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群馬県側から見る峠 (撮影 2004. 2.13)
峠は広々としている

   

<1732・シティオス地蔵の前>
 地理院地図では「1732」と標高を示す地点がピンポイントで地蔵峠としてある(地理院地図)。鉄塔よりやや群馬県(北)寄りで、シティオス地蔵という店のほぼ正面になる。

   
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群馬県側から見る峠 (撮影 2015. 9.16)
右手の建物がシティオス地蔵
峠はその正面か?

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群馬県側から見る峠 (撮影 2017. 9.13)
左の写真とほぼ同じ場所
右手がシティオス地蔵の玄関

   

<ロッヂ花紋の前>
 ところが、現地に立つとそれよりもう少し長野県(南)寄りに道の最高所があるように見える。鉄塔も過ぎ、ロッヂ花紋という店の正面辺りである。

   
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群馬県側から見る峠 (撮影 2015. 9.16)
何となくこの先に道の最高所があるように見える

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群馬県側から見る峠 (撮影 2017. 9.13)
左の写真とほぼ同じ場所
右手の店はロッヂ花紋
その前辺りが道の最高所か?

   

<長野県側から見る峠>
 長野県側から見ても、その辺りに道の最高所があるように思える(下の写真3枚)。峠道はほぼ南北方向に通じ、長野県方面からだと太陽を背にして峠を見るので、写真も見栄えがする。

   
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長野県方面から峠を見る(再掲) (撮影 2004. 2.13)

   
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上の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2010. 5. 5)

   
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上の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2015. 9.16)
右手の小さな塚に第80番観音が祀られる

   

<第80番観音>
 この場所を峠としたいもう一つの大きな理由は、ロッヂ花紋と対面するようにして第80番観音が祀られるのだ。文献では峠に第80番の十一面観音と地蔵尊が並びたつとしている。

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冬場の観音様 (撮影 2004. 2.13)
雪に埋もれている
この時の標柱には聖観音(しょうかんのん)とあるようだ

   
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第80番観音などが祀られる塚 (撮影 2015. 9.16)
標柱には「第八十番 十一面観音」とある 

   
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第80番観音側から峠を見る (撮影 2015. 9.16)
道の反対側にはロッヂ花紋
観音様はこうして道行く人々を見守って来た

   

<中央分水嶺の標柱>
 また、ちょっと分かり難いのだが、四体の地蔵菩薩像の更に左側に「中央分水嶺と湯の丸高原」という古い標柱が立っている。すなわちこの地点に中央分水嶺が通じているのだ。それもここが峠とする根拠である。

   
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中央分水嶺の標柱が立つ (撮影 2015. 9.16)

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中央分水嶺の標柱 (撮影 2015. 9.16)

   

<峠の位置>
 結論として、現在の峠の位置は第80番観音や四体の地蔵菩薩が祀られ、中央分水嶺の標柱が立つ小さな塚の直ぐ脇の車道が、地蔵峠と言えるだろう。側らに地蔵が立っているというのも地蔵峠として相応しい。 ただ、地理院地図が示す地蔵峠とは南西方向に50m程ずれていることになる。
 
 車道の改修工事などで道の高低は容易に変わる。以前は地理院地図が示す箇所が道の最高所だったのかもしれない。また、第80番観音が祀られる位置も、当然ながら建立当時とは異なる可能性が高い。
 
 ピンポイントで峠の位置を詮索するのもこのくらいにし、大らかな気持ちで峠を眺めるべきだろう。

   

<峠の標高>
 峠は極めてなだらかなので、その位置が少々変わっても標高は1mも変わらない。地理院地図が示す1,732mという数値は本峠の標高として信頼できる。
 
 尚、「湯の丸高原(地蔵峠)」と書かれた看板が、駐車場の一角、シティオス地蔵の前辺りに立っている。そこにも「標高1732m」と出ている。看板の位置は駐車場の配置などに大きく影響されるだろうが、地理院地図が示す峠の位置より若干だが群馬寄りに立っている。

   
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「湯の丸高原(地蔵峠)」の看板 (撮影 2015. 9.16)
峠より群馬方向に見る

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標高1732mとある (撮影 2015. 9.16)

   

<百体観音の建立(余談)>
 文献などによると、百体観音の建立時期は江戸期から明治初期に渡ったそうだ。古く天明年間(1781年〜1789年)に建立されたともされるが、峠の地蔵の左横に立つ看板では、文久4年(1864年)から10年(1874年、明治7年)の間としている。
 
<鹿沢温泉の開湯(余談)>
 鹿沢温泉の歴史は古く、元禄5年(1692年)には入湯の記録が残るそうだ。天明年間には湯治客も増え、旅の安全と道標を兼ねて沿道に観音像が祀られるようになったのかもしれない。 それが江戸末期には町石百体観音として整備されて行ったのだろう。鹿沢温泉に立つ千手観音は明治2年の作と比較的新しいが、今でも幕末期の石像が多く現存するとのこと。 

   
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湯道・百体観音の看板 (撮影 2015. 9.16)

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右に第80番十一面観音 (撮影 2015. 9.16)
左に四体の地蔵菩薩像

   

<2体の第80番観音(余談)>
 全くの余談だが、峠の方を向いて立っている第80番の観音像はかなり古そうだ。しかし、そのちょっと後ろにも別の観音様が祀られている。しかも台座には同じく「八十番」と刻まれていた。こちらは比較的新しそうだ。明治期以降のものだろうか。

   
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第80番観音を群馬県方向に見る (撮影 2015. 9.16)

   
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新しい第80番観音 (撮影 2015. 9.16)
湯の丸バス停の脇に立つ
やはり十一面観音なのだろう

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こちらにも「八十番」とある (撮影 2015. 9.16)

   

<四体の地蔵(余談)>
 文献などでは、この地蔵峠の名は百体観音にちなむとしている。ところが峠にはこうしてちゃんと地蔵菩薩様も立って居らっしゃった。この峠道沿いには町石百体観音以外にも多くの石像が祀られるとのこと。
 
<峠名について(余談)>
 この峠道は古くから湯道として利用され、その沿道に地蔵や観音を祀ることは古から行われていたことだろう。文献では「地蔵観音」などと表現している。 ただ、1町ごとに観音像を建てる町石百体観音像(百体観音石像町石とも)として整備され始めたのは江戸末期以降のようだ。地蔵峠の名はそれより昔からあったとすると、その由来と百体観音は無関係ということになる。 やはり、地蔵と観音は別物であろう。現在でも四体の地蔵菩薩像が祀られるように、古くから峠には地蔵が立ち、それが峠名の起こりになったように思う。

   

<峠の車道開通>
 本峠にいつ頃車道が開通したかは調べ切れなかった。唯一、文献(角川日本地名大辞典)に昭和35年(1960年)には長野県側から峠までバスが開通したとある。多分、峠の車道開通はバス運行とほぼ同時期か、その直前だろう。
 
 また、群馬県側にある国民休暇村(現休暇村嬬恋鹿沢)は昭和37年(1962年)12月の開設だった。少なくともその時点では峠道全線で車道が通じ、県境を越えて車の往来は自由に行われたものと思う。

   

<航空写真(参考)>
 地理院地図で調べられた最も古い航空写真は1974年〜1978年のものだった(地理院地図)。それにはほぼ現在の道筋にはっきり車道が描かれている。


   
峠付近くの航空写真(1974年〜1978年)
   

<長野県側の峠の様子>
 峠を長野県側に進むと、道が二手に分かれる。

   
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長野県側の分岐 (撮影 2017. 9.13)

   

 左は湯の丸・高峰林道で、コマクサ峠を経て車坂峠に至る。右が峠道・県道94号の本線で、長野県東御市(とうみし)の新張(みはり)へと下る。(コマクサ峠については近々掲載予定)

   
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湯の丸・高峰林道 (撮影 2015. 9.16)
車坂峠へ

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県道94号の続き (撮影 2017. 9.13)
東御市新張へ

   

<峠からの眺め>
 峠の群馬県側は傾斜がなだらかなので、空は開けているが、遠望は殆どない。一方、長野県側は若干地形は急峻だが、峠直下に下る所沢川の谷が狭く、視界はあまり広がらない。ポツンと鉄塔が立つばかりだ。本峠はあまり眺望には恵まれない。

   
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峠の長野県側の眺め (撮影 2010. 5. 5)
鉄塔がポツンと立つ

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峠の長野県側の眺め (撮影 2015. 9.16)
この時期、雑草が生い茂る

   

<開けた峠>
 しかし、峠自身が開けて見晴しがいい。切り通しの様な趣は皆無の峠だが、広々としているのでその周辺を散策するのは楽しい。人にはあまり気付かれない峠の片隅に、第81番観音も佇む。

   
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長野県側から峠を望む (撮影 2010. 5. 5)
開けた峠

   

<湯の丸高原>
 車道開通前の峠は鹿沢温泉への湯客の往来が主であったことだろう。時には大笹・田代村と新張村との間で土地の産物や生活物資の移送もあったかもしれない。そうした人々の往来の為に、峠には茶屋などが立っていた筈だ。 しかし、今の様に開けた峠ではなかったと想像する。第80番観音像の前に荷車が通る程度の道が通じていただけではなかったか。
 
 戦後の昭和30年代に車道が開通し、バスの便も通うようになると、峠は「湯の丸高原」の名で観光地化が進んだ。峠に隣接してスキー場が開設され、広々とした駐車場が切り開かれた。 宿泊や飲食の店が立ち並び、夏場でも避暑やハイキングで多くの観光客が訪れるようになった。湯ノ丸山麓のレンゲツツジは国天然記念物に指定されている。鹿沢温泉には鹿沢国民休暇村も出来上がった。

   
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長野県側から峠を望む (撮影 2015. 9.16)
前の写真とほぼ同じ場所

   

 時は移り、大正の大火で焼失した旧鹿沢温泉やその移転先となる新鹿沢温泉は、今はやや寂れた雰囲気だ。湯道として長く繁栄した地蔵峠であったが、近年の快適な自動車道路の改修はその沿線の様相をも大きく変えて行く。冬期も容易に通行可能な車道が通じては、雪山讃歌も誕生しない。かつて路傍に佇む観音様を一体一体数えながら歩いて登った峠道は遠い昔である。
 
 本峠では峠近辺だけでも100枚近い写真を撮ってあり、いろいろ紹介したいことは他にも多いが、切りがないのでこの辺で切り上げることとする。

   
   
   

峠の長野県側

   

<東御市へ>
 峠から長野県側に下る。旧東部町(とうぶまち)の新張(みはり)で、今は東御市(とうみし)の一部だ。下ると直ぐに道路標識が出て来る(地理院地図)。 主要な市街地までの距離が示されているが、肝心な峠を下った新張集落までの距離はない。峠から新張の第一番観音までが12Km程、新張をちょっと過ぎた先で国道18号に接続するまでも14Km足らずである。かつて80体の観音が並んでいた頃の新張までは9Km弱だった筈だ。

   
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峠から長野県側に下る (撮影 2015. 9.16)
県道94号の道路標識が立つ

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県道94号の道路標識 (撮影 2015. 9.16)
奥の看板には「上信越高原国立公園 湯の丸高原」とある

   
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冬期の道の様子 (撮影 2004. 2.13)
峠方向に見る (地理院地図

<道の様子>
 群馬県側は沿道に広々とした緩傾斜地が広がり、地形的に開けた雰囲気だった。一方、長野県側の峠直下の暫くは、所沢川の谷筋に道が通じ、視界はあまり広がらない。ただ、谷は比較的広い。 また、南斜面に道が通じるという立地的な明るさがある。やはり、太陽の光は偉大だ。冬期の除雪も行き届き、車の通行にはほとんど支障ない。

   

<第五十番・馬頭観音>
 快適に生まれ変わった道沿いにも、ガードレールの陰などに町石百体観音は並んでいる。車ではただただ行き過ぎてしまうばかりだが。
 
 文献(日本歴史地名大系)では、新張入口の第一番と、峠の第八十番と、山の湯入口の第百番の他に、中腹に第五十番があるとしていた。これらの観音像が他と比べて立派なのであろう。その第五十番・馬頭観音は作業道分岐の直ぐ脇に立つ(地理院地図)。その前には広い路肩があるので、車も停め易い。観音像に並んで立つ大木シイノキも目印になる。長野県側の道は単調になり易いので、こうした所に立ち寄るのがいい。

   
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大木シイノキ (撮影 2015. 9.16)
第五十番観音の手前に立つ

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第五十番観音 (撮影 2015. 9.16)

   

<奈良原>
 県道標識には「東御市奈良原」(ならはら)と出ている。正確には大字新張の字奈良原であろう。第三十六番・聖観音を右に見た先で林が途切れ、沿道に建物などが並びだす(地理院地図)。奈良原集落に出たようだ。
 
 この一帯は奈良原高原などとも呼ばれる緩斜面の平地が広がる。湯の丸高原関連の観光の一環として奈良原民宿村としても開発が進んだそうだ。

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奈良原に出た (撮影 2015. 9.16)

   

<塩沢川(余談)>
 文献(日本歴史地名大系)によると、所沢川(しょざわがわ)の上流部を塩沢(しおざわ)川とも呼ぶそうだ。しかし、今の地図にその様な名の川は見られない。「しょざわ」と「しおざわ」は似通っていて、何となく胡散臭い気がした。
 
 ところが、長野県の分県地図を眺めていたら、「塩沢第二発電所」とあるのを見付けた(地理院地図)。奈良原集落の終わりの方である。いろいろ調べてみると、奈良原集落に入った直ぐに中部電力の塩沢第一発電所もあった(地理院地図)。この「塩沢」とは塩沢川の名残りなのかもしれない。奈良原集落より上流部を塩沢川と呼んだものか。

   

<横堰>
 奈良原を過ぎると横堰(よこせぎ)になる。堰を「せぎ」と読むのが変わっている。沿道は一段と視界が広がり、麓の方まで望めるようになった(下の写真)。文献では上横堰とか上堰という字もあったようだが、今は横堰のみの地名が見られる。バス停は上・下あったようだが。

   
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横堰に下る (撮影 2015. 9.16)
右手にチェーン着脱場

   
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チェーン着脱場 (撮影 2015. 9.16)
峠方向に見る

<チェーン着脱場>
 側らにチェーン着脱場が設けられている(地理院地図)。景色を見ながらちょっと一休みにも都合がいい場所だ。峠方向の道路標識には「嬬恋23Km、鹿沢12Km」と出ていた。

   
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横堰池 (撮影 2015. 9.16)

   

<横堰池>
 チェーン着脱場の直ぐ下に横堰池が広がる。こうした高地では耕作の為の水の確保が重要あり、時に争いともなった。かつて上横堰は通称桝場と呼ばれ、所沢川の水流を分水桝で分けたそうだ。
 
 横堰池は水資源の安定供給を目指して建設された。この下流には前橋池も完成している(地理院地図)。

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横堰の看板 (撮影 2015. 9.16)

   

<横堰池以降>
 横堰池を過ぎると県道は所沢川沿いを離れて行く。東側に流れる西沢川に近付いているようだ。多分、今の県道の道筋は元からの狭い集落内を避け、一部は旧道とは異なる場所を通っているのかもしれない。それでも町石百体観音は道沿いに立っていた。

   
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道の様子 (撮影 2004. 2.13)
峠方向に見る (地理院地図
第十五番・聖観音の近く
県道標識には「県道94長野 (主)東部嬬恋線 東部町横堰」とある
県道標識の奥には滝ノ沢入口バス停が立つ
もしかするとこの付近は元の峠道からは外れているかもしれない

   

<新張集落>
 それでもいつの間にやら県道は新張の集落内へと入り込む。群馬県側の田代交差点から始まり概ね2車線路を維持してきた峠道だったが、新張の街中では道の拡幅もままならないようで、1.5車線の狭い道となる。

   
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新張のメイン・ストリート? (撮影 2017. 9.13)
左側に側溝がある

<道路の堀>
 この新張集落の中心に通じていたかつての湯道には、昭和初期まで道路の中央に長さ162間(約300m)、幅3尺(約91cm)の堀が設けられていたそうだ。多分、生活用水として利用されていたのだろう。その堀の両側に新張の家並みが続いていたとのこと。
 
 現在の県道には集落の中に長い直線区間が残る(地理院地図)。如何にも新張のメイン・ストリートといった感じである。その道に堀があったのではないかと想像する。今は普通のアスファルト道路だが、ちょっと大きめな側溝が脇に通じる。晴天なのだが勢いよく水が流れる音がしていた。

   

<新張交差点>
 間もなく新張の交差点に差し掛かる。側らに「Aコープ生活センター 新張店」とか「JA信州うえだ 新張店」と看板がある建物が立つ。この交差点が新張の中心地と言えよう。

   
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新張交差点 (撮影 2015. 9.16)
右手角にAコープ生活センター新張店がある

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左の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2017. 9.13)

   

<第一番・如意輪観音>
 さて、第一番・如意輪(にょいりん)観音様はどこに居らっしゃるかというと、JA信州うえだ(Aコープ生活センター)新張店の正面(南)側だ。地蔵峠から下って来ると、その建物の陰になって全く見えない。 そうとは知らず、行き過ぎてしまった。第二番観音までは確認してあったので、これはおかしいと間もなく気が付いた。県道79号との交差点手前まで進んで引き返すこととなった。やっと見付けたが、今度は街中での車の駐車場所に苦労した。

   
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第一番・如意輪観音など (撮影 2015. 9.16)
後ろの建物はJA信州うえだ新張店

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第一番・如意輪観音 (撮影 2015. 9.16)
右手の看板は「湯の丸高原」の案内

   

<湯道の基点・起点>
 峠道の変遷はいろいろあろうが、湯道などと呼ばれた湯客が通った道の基点は、昔からこの新張の辻ではなかったかと思う。第一番観音像もほぼ同じ位置に立っているのではないかと期待したい。この観音様を拝んでこれから先の旅の安全を願い、無事に戻った時は感謝の気持ちでお参りしたことだろう。
 
 最近は観音像の後ろにあった建物は解体されている様子だ。これで峠から下って来ても、第一番観音像を見逃すことがなくなったかもしれない。できれば観音像を見学し易いようにと、跡地に駐車場でも整備してくれたら嬉しいのだが。

   
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百体観音の看板が立つ (撮影 2015. 9.16)

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百体観音の説明 (撮影 2015. 9.16)

   

<新張交差点以降>
 新張の十字路から更に千曲川沿いに通じる幹線路・国道18号の接続点まで、残すところ僅か1.7Km程になる。峠道としてはそちらが長野県側基点になるだろう。十字路以降、道幅はまた2車線に戻った。
 
<西沢川水域へ>
 ところが、県道94号は所沢川沿いから離れ、西沢川寄りに進んで行く。新張十字路もう既に西沢川水域に入っているようだ。峠道としては水域を跨ぐのはご法度である。住所も東御市滋野(しげの)に変わる。その別府と呼ばれる集落を抜ける。火の見櫓が立つ。

   
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別府付近 (撮影 2004. 2.13)
峠方向に見る (地理院地図
県道標識には
「県道94長野 (主)東部嬬恋線 東部町別府」とある
この直後の4月1日に東部町は東御市になっている
(これからキャミで2度目の地蔵峠越えに向かう)

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県道標識など (撮影 2004. 2.13)

   
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県道79号・浅間サンラインの直前 (撮影 2015. 9.16)

<千曲川沿い>
 千曲川沿いには交通の大動脈が通じる。国道18号や上信越自動車道、しなの鉄道などなど。
 
 前方に県道79号・通称浅間サンラインが通じていた。第一番観音を見落としたので、この手前で引き返した。その向こうには上信越自動車道の高架が見える。

   

<国道18号に接続/峠道の終点>
 所沢川の水域を外してしまったし、本流の千曲川沿いにはいろいろな道が通じていて、もう地蔵峠の起点など混とんとしていてはっきりしない。それでも一応、国道18号への接続点を峠道の終了としておく(地理院地図)。牧野(ぼくや)交差点という。
 
 思えば、嬬恋村の田代交差点と比べると、この牧野交差点は別世界である。賑やかのことだ。こうした対比を目の当たりにするのも峠道の面白さである。

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国道18号に接続 (撮影 2017. 9.13)

   
   
   

<おわりに(余談)>
 初めてこの地蔵峠を越えた頃は、百体観音も新・旧鹿沢温泉も全く眼中になかった。ただただ峠道を突っ走っただけだった。それが今では、いろいろと盛り沢山のページを書いている。余談ばかりだが、これでも足りないくらいだ。初心に帰ってもっとシンプルに峠の旅を楽しむべきかと思う、地蔵峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1993.10. 9 長野県→地蔵峠→群馬県/ジムニーにて(1度目)
・2004. 2.13 長野県→地蔵峠(雪)→群馬県/キャミにて(2度目)
・2010. 5. 5 車坂峠→コマクサ峠→地蔵峠→群馬県/パジェロ・ミニにて(3度目)
・2015. 9.15 長野県→休暇村鹿沢高原泊/パジェロ・ミニにて
・2015. 9.16 群馬県・休暇村鹿沢高原→地蔵峠→長野県/パジェロ・ミニにて(4度目)
・2017. 9.12 長野県→休暇村鹿沢高原泊/ハスラーにて
・2017. 9.13 群馬県・休暇村鹿沢高原→地蔵峠→長野県/ハスラーにて(5度目)
 
<参考資料>
・関東 2輪車 ツーリングマップ 1989年1月発行 昭文社
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東甲信越 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 10 群馬県 2006年 2版15刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 20 長野県 2004年 4月 2版 7刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 20 長野県 2010年 2版21刷発行 昭文社
・WideMap 関東甲信越 (1991年頃の発行) エスコート
・角川日本地名大辞典 10 群馬県 平成 3年 2月15日再発行
           (初版 昭和63年 7月 8日) 角川書店
・角川日本地名大辞典 20 長野県 平成 3年 9月 1日発行 角川書店
・日本歴史地名大系 10巻 群馬県の地名 1987. 2.24 初版第一刷 (株)平凡社
・日本歴史地名大系 20巻 長野県の地名 1980. 2. 5 初版第三刷 (株)平凡社
・日本の分水嶺 堀公俊著 2000年9月10日発行 山と渓谷社
・旅先で入手した観光パンフレット各種
 
<参考ウェブサイト>
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・地図のウェブサイト 「Google マップ」、「NAVITIME」、「MapFan」、「Yahoo! マップ」など
・川のウェブサイト 「川の名前を調べる地図」(道路名も参考に)
・嬬恋村、東御市の公式ホームページ
・その他の各種ウェブサイト
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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