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鳥居峠  (群馬県・長野県)
  とりいとうげ  (峠と旅 No.352)
  車道開通後も変わりゆく峠道
  (掲載 2026. 6.20  最終峠走行 2017. 9.12)

   
   
   
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鳥居峠 (撮影 1998.11.15)
手前は長野県上田市真田町(旧小県郡真田町)長
奥は群馬県吾妻郡嬬恋村大字田代
道は国道144号線(国道406号線との併用区間)
標高は1,362m(文献などより)
(フィルム・スキャナの色補正が不調で、おかしな色味になってます)

今から28年前の峠の様子
鳥居を模した赤い看板が印象的だったが、この看板はもうない
最初に峠を訪れたのは1993年10月だったと思うが、
その時は残念ながら写真は撮らなかった
その後峠は変わって行き、今は峠の茶屋なども姿を消して寂しい峠になった

   
   
   

概要

   

<掲載動機/AI(余談)>
 栃木県の旧栗山村に関わる峠ばかりを掲載していたが、そろそろ目先を変えようと考えていた。そこでAIに車で行ける標高の高い峠を聞いてみた。大方は知っている峠ばかりだったが、6番手くらいにコマクサ峠(2,040m)というのがあった。 全く覚えがない。峠通としては見逃しておく訳にはいかないので、早速調べてみた。
 
 すると、車坂峠地理院地図)と地蔵峠(地理院地図)を繋ぐ林道途中にある(地理院地図)。 一度訪れたことがあり、「コマクサ峠」と書かれた看板も写真に撮ってあった。しかし、この峠がある場所は、車坂峠や地蔵峠などの様に群馬・長野県境の峰などではなく、山腹を横断する林道の最高地点でしかない。どうにも峠道らしくないのだ。それでこれまでこの峠は無視してきたのだった。
 
 更にAIに、コマクサ峠は本当に峠なのかと聞いてみた。すると、峰を越える様な峠ではなく、林道の最高点だと、それなりの言い訳はして来た。また、標高についてAIは2,040mとしていて、確かに現地に立つ看板には「2040M」と書かれている。 しかし、地理院地図では2,061mと出ていて、そちらの方が正しいようだ。
 
 他にも標高第5位に山田峠(地理院地図)が挙げられていたが、この峠には渋峠を越える国道が稜線方向にただ通過しているだけで、車道は峠を越えていない。AIの回答にはまだまだいろいろ問題があるように思う。
 
 過去に標高三大峠というのを掲載し、車で行ける標高の高い峠を列挙してあった。ここはひとつコマクサ峠も含めて考察し直そうかと思い付いた。 それには標高1,732mの地蔵峠も掲載しておく必要がありそうだ。地蔵峠をいろいろ調べていたら、近くに鳥居峠があるのが気になった。鳥居峠の写真を眺めていたら、この30年くらいの間に峠の様子が大きく変わっているのに気が付いた。以前は高原食堂という小さな飲食店が立っていた。その写真を見ていたら、鳥居峠を掲載したくなった。
 
 今後、地蔵峠・コマクサ峠を新規掲載し、標高三大峠の修正版を出したいと思うが、今回は鳥居峠である。ただ、どこまで続けられるかが心配だ。

   

<立地>
 鳥居峠と呼ばれる峠は多い。今回の鳥居峠は群馬と長野の県境に位置する。峠の場所を見付けるには、群馬県側から探すのがいい。群馬県の県境が最も西に張り出した地域がある。概ね嬬恋村(つまごいむら)の村域に相当する。そこで最も西に通じる国道の峠が鳥居峠だ。

   

<所在>
 峠道は多くね東西方向に通じ、東は群馬県吾妻郡(あがつまぐん)嬬恋村(つまごいむら)大字田代(たしろ)になる。江戸期からの田代村で、明治22年(1889年)に嬬恋村の大字となり、現在に至る。 尚、江戸期の田代村は大笹村(おおざさむら)の枝村としても扱われたそうだ。よって、鳥居峠は信州と上州大笹村との境とも言われる。
 
 峠の西側は長野県上田市(うえだし)真田町(さなだまち)長(おさ)で、その直前は小県郡(ちさがたぐん)真田町大字長だった。
 
<長村>
 江戸期からあったかは分からないが、少なくとも明治9年に真田村(など)と合併して長村(おさむら)ができ、更に明治22年には市・町村制施行による長村となる。 昭和33年(1958年)には長村・傍陽(そえひ)村・本原(もとはら)村が合併して真田町が成立し、旧長村は大字長となる。現在では真田(さなだ)の方が知られる地名だが、元々は真田村は長村の一部だったようだ。
 
<上田市>
 平成18年(2006年)3月にそれまでの上田市、丸子町、真田町、武石村の1市2町1村が合併して新しい上田市が発足している。

   

<地理院地図(参考)>
 国土地理院地理院地図 にリンクします。


   
本ページでは地理院地図上での地点を適宜リンクで示してあります。
   

<水系/利根川水系・吾妻川>
 峠の群馬県(東)側には吾妻川(あがつまがわ)が流れ下り、東流して渋川市で利根川に注ぐ(地理院地図)。吾妻川は利根川水系の第1次支川となる。本峠は吾妻川本流の源頭部にあり、文献でも鳥居峠付近を吾妻川の源としている。吾妻川水域は全て本峠の範疇と言える。
 
 しかし、地蔵峠を源流部とする吾妻川支流・湯尻川(地理院地図)の方が、よっぽど山深い地に発する。標高も地蔵峠の方が鳥居峠より高い。それもあってか湯尻川が合流する付近より上流側の吾妻川を、鳥居川とも称するそうだ。
 
<水系/信濃川水系・渋沢川>
 峠の長野県(西)側は渋沢川水域になる。川の流れは以下の様になり、信濃川水系である。
 
 渋沢川→神川(かんがわ)→千曲川(ちくまがわ)→信濃川(しなのがわ)
 
 峠道は概ね渋沢川の小さな支流(地理院地図、名前不明)沿いに峠を目指す。しかし、現在通じる車道は峠の手前500m余りの区間で渋沢川支流・高屋沢(地理院地図)水域を通って峠に至っている。
 
 本峠は水域としては非常に微妙な位置にある。大筋は鳥居川(吾妻川上流部)と高屋沢との分水界に立地するように思う。一方、小さな支流との分水界という考えも捨てきれない。
 
 渋沢川本流の上流部は滝ノ入沢と名を変え、その源流は四阿山(あずまやさん、地理院地図)になる。 日本百名山の一峰だ。文献(角川日本地名大辞典)によると、神川の源も四阿山腹としているので、渋沢川更に滝ノ入沢が神川本流となるのだろう。 滝ノ入沢上流側には県道182号・菅平高原線が、また神川支流・大洞川沿いには国道406号が、共に菅平高原から下って来ている。それらを除けば、大筋神川流域は全て本峠の範疇となる。
 
 峠は太平洋側(利根川水系)と日本海側(信濃川水系)を分ける中央分水界(大分水界とも)上に位置する。それなりに大きな峠だ。

   

<地形的立地>
 微妙な水域の問題を別にすると、大局的には四阿山から南の角間(かくま)山(地理院地図)へと、ほぼ南北方向に中央分水嶺が続き、峠はその稜線の鞍部に位置する。文献などでは峠の標高を1,362mとしている。

   

<旧峠>
 現在の鳥居峠は大きな峰の鞍部という教科書的な位置にある。それで古くからの峠もほぼ同じ場所に通じていたと思っていた。ところが今回調べてみると(日本歴史地名大系より)、現峠より稜線上を北に500mも行った所に旧峠があったそうだ(地理院地図)。標高は1,390mとのこと。現在の地理院地図などには徒歩道などの旧道の痕跡は全く見られない。
 
 このように旧峠が存在したことには、やはり長野県側の微妙な地形が関係していると思う。現在峠を越える国道144号は、渋沢川右岸沿いを遡り、渋沢橋(地理院地図)で左岸に入った直後、県道182号・菅平高原線を分ける(地理院地図)。その付近は渋沢川上流側の支流(名前不明、地理院地図)の水域に居る。その後、国道は小さな支流沿いに進む。
 
 多分、旧道の方は県道分岐辺りからほぼ真っ直ぐ東に進んで旧峠に至っていたのではないだろうか。上流側支流コースと言う訳だ。旧田代村(大笹村)側に古永井(こながい、地理院地図)という小集落がある。上州側最初の集落になる。旧道は渋沢川沿いから古永井へと最短で至る道筋に通じていた様に推察される。文献(日本歴史地名大系)では古永井側の旧峠近くに道標が残っていると記している。

   

<航空写真(参考)>
 過去の様子が写っているかどうか分からなかったが、一応、地理院地図で古い航空写真(1961年〜1969年)を調べてみた(地理院地図)。 すると、長野県側だけだがほぼ推測通りの道筋が確認できた。一方、群馬県側には全く道らしき痕跡が残っていない。それは多分、その付近一帯で植林が行われ、古い道筋は掻き消されてしまったものと思う。


   
峠を中心とした航空写真(1961年〜1969年)
   

<新峠開削>
 また、同じ文献によると、道の改修が進んで明治11年(1878年)には新峠が開削されたそうだ。その場所の詳細は分からないが、現在の峠とほぼ同じ位置だろうと思う。 ただ、現峠の北150m辺りの群馬県側に徒歩道が描かれているのが気に掛かる(地理院地図)。 そちらが初期の新峠かという疑いは残る。
 
 長野県側の道筋については、これも想像だが、現在の国道が小さな支流を渡る付近(地理院地図)から最短で稜線へと至っていたように思う。すると、先程の徒歩道にも接続が可能だ。こちらは小さな支流コースになる。

   

<車道開通>
 鳥居峠に車道が開通したのは昭和初期で、昭和7年(1932年)とか昭和8年とか昭和9年などと文献に見られる。渋沢橋の竣工が昭和7年なので、それ以降であることは間違いない。また、その車道の峠が現峠と一致することもほぼ間違いない。傾斜の少ない車道を通すため、上流側支流から小さな支流、更に高屋沢の水域へと、細かく複雑に遷移した道筋となった。
 
 それにしても、新峠開削から半世紀以上経っての車道開通である。何故、旧峠と現峠の間に新峠開削が必要だったのだろうか。旧峠は渋沢川沿いから上流側支流水域に最短で古永井に通じていた。 その為、峠は稜線の鞍部になく、峠までの標高差が大きくなった。渋沢橋を基準にすると175mくらいはある。一方、峰の最も低い鞍部に位置する現峠なら、旧峠より30m近く低くなる。荷車程度の通行を可能にするには、新峠開削が必要だったのだろう。
 
<バス運行など>
 この自動車道路の完成により、昭和10年には省営(国鉄)バスが群馬県側の長野原と真田との間で運行を開始している。長野県側との自動車交通が確立されたことで、群馬県最奥の嬬恋村はその変貌の契機となったそうだ。
 
 鳥居峠を越えた車道は当初は県道中之条上田線と呼ばれたそうだが、昭和30年に国道に編入、現在は国道144号(406号との併用)になっている。広くは長野県北部と関東とを結ぶ交通の要衝である。

   

<大笹街道>
 本峠を越える道は、群馬県側では信州街道・長野街道など、長野県側では上州街道などと呼ばれる。群馬県側では大笹宿(地理院地図)まではほぼ一本道で、あまり複線はないようだ。大笹宿を通ることから大笹街道(大笹道)と呼ばれる。
 
<3本の道>
 一方、長野県側は大きく3筋の道が通じていたそうだ。
 
<須坂から/北国街道脇往還>
 一つは北国街道・福島宿(現須坂市)から仁礼(にれい)宿(地理院地図)を経て菅平高原を通り、鳥居峠を経て大笹宿に至る街道で、これが本来の大笹街道(狭義の大笹街道)になるようだ。仁礼宿を経由することから仁礼街道(仁礼道)とも呼ばれる。 北国街道の脇往還として利用された。ほぼ現在の国道406号に相当し、地理院地図にも「大笹街道」の文字が見える(地理院地図)。
 
<善光寺平・長野から/湯治客往来>
 また、善光寺がある善光寺平(後の長野市)からの道筋もあったそうだ。上州側の草津温泉や川原湯(かわらゆ)温泉への湯治客の往来で賑わったとのこと。現在の県道34号・長野菅平線にほぼ相当するのだろう。
 
<上田から/中山道脇往還>
 現在の国道144号は上田市街から延びて来ている。こちらは信州街道・長野街道などと呼ばれることが多いようだ。上田から中山道経由の碓氷峠(うすいとうげ)越えて高崎に至る道の代替路になり、中山道脇往還としても利用された。上田市街から神川沿いに遡る道筋で、水系的には鳥居峠の本筋と言える。
 
 以上3筋の街道は鳥居峠の手前で合流し、鳥居峠で上信国境を越え、大笹宿に至っていた。これら全てを大笹街道(広義の大笹街道)と呼ぶ場合もあるようだ。

   

<2つの鳥居峠(推測)>
 今では簡単には訪れることができない旧峠が存在したことは確かだろうが、ほぼ現在の位置に新峠が開削されたということについては、文献によってニュアンスが異なる。元から現峠付近にも峠道が通じていた可能性があるのだ。 それは前述の長野県側にある複数の道筋が関係する。須坂方面から来る仁礼街道(狭義の大笹街道)なら、なるべく北側に通じる旧峠の方が近道である。 一方、上田からの信州街道にとっては渋沢川をその最上流部の滝ノ入沢辺りまで遡るより、途中から稜線の鞍部(ほぼ現在の峠)へと登って行った方が都合がいい筈だ。その道筋は分からないが、同時期に2通りの峠道が利用された可能性がある。
 
 新峠以外に鳥居峠が2つあるとなると、困ったことになる。鳥居峠の名の由来となる鳥居は一体どちらに立っていた(立っている)のかということだ。また、文献が言う「明治11年の新峠開削」の新峠とは正確にはどこなのか。 これまでこの鳥居峠は単純な峠だと思っていたが、謎が多いことが分かった(この件についてはまた後述)。

   

<他の鳥居峠(余談)>
 鳥居峠と言えば、まず真っ先に長野県の塩尻市と木祖村の境に位置する鳥居峠を思い出す。江戸期の五街道の一つ、中山道の難所となる峠だ。 現在は国道19号の新鳥居トンネル(鳥居トンネルとも)が通じるが、歴史ある旧道が残されていて、往時を偲んで探訪する人達がいる。塩尻市側の麓にある奈良井宿は世に知られた観光地だ。 また、新鳥居トンネルに至るまでの車道開削は、何世代にも渡る歴史があり、こちらも興味深い。
 
 本峠はそれに続く鳥居峠だろう。戦国期には真田氏の軍勢が暗躍した道だった。江戸期に入ると北信濃と関東とを結ぶ交通の要衝としての役割を担った。北信の米や善光寺平で生産された大量の菜種油が江戸へと運ばれたそうだ。ただ、そうした旧峠を通る古道はほとんど残っていないようである。
 
 他にもいろいろな鳥居峠があるようだが、大半は地方の小さな峠道に名付けられた鳥居峠が多く、車道が通じていないものも少なくない。国道が通じる鳥居峠としては福島県の国道401号の峠がある(地理院地図)。以前は単純に「鳥居峠」と呼ばれていたが、最近の地図では「新鳥居峠」に変わっている。現峠からかなり離れた所に旧峠がある(地理院地図)。どうやらそれで名を改めたように思う。こちらの鳥居峠も掲載してみたいが、いつになることやら。
 
<日本一の鳥居峠?>
 尚、旧中山道の鳥居峠も中央分水界に位置する峠である。信濃川水系に於いては犀川支流・奈良井川水域程度の領分だが、木曽川水系ではほぼ木曽川本流の源流部に位置する。正確には境峠鉢盛峠の方が、より木曽川本流上流にある。しかし、木曽川と言えば中山道であり、鳥居峠は木曽川水系の頂きに立つ峠と言える。その意味でも、この峠は日本一の鳥居峠と言えるだろう。今回の鳥居峠は、それに次ぐ二番手となるだろうか。

   
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福島県の鳥居峠 (撮影 2001.10.21)
今は「新鳥居峠」と呼ばれている

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以前は「鳥居峠」だった (撮影 2001.10.21)

   
   
   

峠の長野県側

   

<掲載範囲>
 水域の関係から見ると、本峠は群馬県の渋川市街から長野県の上田市街までを結ぶ、100Km近い峠道になる。また、長野県側では長野市や須坂市へと続く街道にも接続する。その峠道全線を扱う訳にはいかなので、ここでは峠付近だけに絞ってその様子を見て行きたい。
 
<峠の印象(余談)>
 本峠は5回以上は訪れている。但し、峠道を楽しみにして越えたことは一度もない。やはり、旅をする上での実用的な利用だった。関東北部と長野県との行き来には、自然とこの鳥居峠を越えることになる。
 
 群馬県側には四万(しま)、沢渡(さわたり)、草津、万座(まんざ)、川原湯(かわらゆ)、鹿沢(かざわ)などなど、いろいろな温泉が点在する。また、吾妻川水域には他水域との間に多くの峠が通じる。
 
 一方、長野県側に於いても上田市は真田氏の居城・上田城などがある観光地である。更にリゾート地の菅平高原を経て長野市や須坂市にも通じる。上田市街を観光したり、善光寺参りに行ったりと、その行き帰りに鳥居峠を利用した。 須坂市には私の家系の発祥の地があり、そのルーツを訪ねてみたりもした。そんな折り、気が付くといつの間にやら鳥居峠に辿り着いていたという印象だ。

   

<長野県側の様子>
 峠の長野県側は、そのやや複雑な地形からか、峠の手前200mくらいから沿道が開けて来る。峠は県境の高い峰の鞍部にありながら、全般的に広々としていて、狭い切り通しなどの形態ではない。 そこに通じる国道も幅の広い2車線路で、屈曲する道もスラロームの様に走り抜けられる。また、長野県側に広がる平坦な地形を生かし、かつては峠の茶屋などいろいろな建物が立っていた。

   
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峠手前の様子(1/3) (撮影 2017. 9.12)
この200mくらい先が峠
沿道に建物は見られない

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峠手前の様子(2/3) (撮影 2017. 9.12)
青看板の所が峠
周囲は殺風景

   

 ところが、2017年9月に訪れてみると、沿道に並んでいた筈の建物が、全てなくなっていた。草地となった敷地の前にはポープが張られ、立ち入りができなくなっている。峠付近に立っていた看板類も、めっきり数を減らしたようだった。 いつも何となく見て来た峠なので、特に驚くようなことはなかったが、変われば変わるものだと思った。

   
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峠手前の様子(3/3) (撮影 2017. 9.12)
青い道路標識が立つ所が県境の峠

   

<峠の茶屋>
 以前は、長野県側から登って来ると、まず左手に峠の茶屋が見えて来る。「峠の茶屋」と看板が掛かっていたのでそう呼ぶことにするが、名前は先に取った者勝ちであろう。普通の飲食店とあまり変わりない。

   
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前方に峠の茶屋が立つ (撮影 2006.10.22)

   

 2006年10月に訪れた時は、その建物は残っていたが、既に営業は行われていない様子だった。敷地の前にはロープが巡らされていた。

   
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この時、茶屋はもう営業していなかった (撮影 2006.10.22)
脇に立つ松の木が印象的

   

<一本松>
 茶屋の前には大きな松の木が一本立っていて、とても象徴的だった。その木はまだ残っていた。

   
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前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1998.11.15)
この松の左手に峠の茶屋が立つ
松の後ろには高原食堂がある
その右奥の大きな建物はレストラン
(フィルムスキャナの画像なので、色合いがおかしい)

   
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峠の茶屋 (撮影 2014. 2. 4)
この時点ではまだ建物は残っていた

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峠の茶屋付近 (撮影 2014. 2. 4)

   
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長野県側の県境看板が立つ付近 (撮影 2014. 2. 4)
上田市街方向に見る

   
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まだ営業中の頃の峠の茶屋 (撮影 1998.11.15)
(写真プリントのスキャナ画像)

<営業中の頃の峠の茶屋>
 本峠を最初に訪れたのは1993年10月だったと思うが、残念ながらその時の写真はない。店などが多く並び、その周辺に観光客の姿も見られるこうした峠には、殆ど関心がなかったのだ。
 
 それでも1998年11月には何枚か撮って置いた。当時、峠の茶屋まだ営業中だったようだ。

   
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峠の茶屋の様子 (撮影 1998.11.15)
まだ暖簾が掛かっている
(フィルムスキャナの画像)

   

<観光案内の看板>
 茶屋の前より上田市街方向を見ると、案内看板が立っている。表題に「信濃の國 みちしるべ」とある。地図には主に上田市街方面が描かれていたが、主要観光地には長野市や松本市も挙げられていた。

   
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右手に観光案内の看板が立つ (撮影 2014. 2. 4)
上田市街方向に見る

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「信濃の國 みちしるべ」の看板 (撮影 1998.11.15)

   
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「信濃の國 みちしるべ」の看板の拡大 (撮影 1998.11.15)
地図は概ね下が北
(フィルムスキャナの画像)

   

<高原食堂>
 峠の茶屋の並びには、「高原食堂」と看板を掲げた小さな飲食店があった。1998年11月の時点では、もう営業を止めて久しい様子だった。それでも、何とも素朴な佇まいが心引かれる思いだった。

   
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高原食堂 (撮影 1998.11.15)
(フィルムスキャナの画像)

   
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高原食堂 (撮影 1998.11.15)
中にバイクが停まる
(フィルムスキャナの画像)

 誰も居ない様子ではあったが、中にバイクなどが置かれ、物置代わりにでも使っているのかと思われた。
 
 看板横には「朝めし」と出ていた。峠の茶屋の方にも「朝定食 焼肉」などとメニューに出ていた。この鳥居峠は観光で訪れるだけでなく、日常の通勤などにも使われ、ここで朝食を済ませて仕事場に向かう者も居たのだろう。
 
 残念ながら2006年10月の時点で、高原食堂の建物は姿を消していた。

   
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高原食堂の看板 (撮影 1998.11.15)
左に「朝めし」とある
(フィルムスキャナの画像)

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こちらは峠の茶屋のメニュー (撮影 1998.11.15)
朝定食焼肉などとある
(フィルムスキャナの画像)

   
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高原食堂 (撮影 1998.11.15)
こちらはフィルムスキャナではなく、写真プリントをスキャナで読み込んだ画像
画質は悪いが、色は原画に近い

   
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中央に鳥居が見える (撮影 2006.10.22)
この時、高原食堂の建物はなくなっていた

<鳥居>
 鳥居峠と呼ぶからにはどこかに鳥居が立っているのだろうが、これまで気が付いたことがない。関心もなかった。今回写真を調べてみると、ちょっと見付け難い所に立っていたようだ。峠の茶屋と高原食堂の間で、高原食堂の左脇を少し中に入った所にあった。
 
 これがこの鳥居峠の名の由来になった鳥居だと言いたいところだが、旧峠は別の場所にある。新峠開削の後に建てられた鳥居と考えるべきだろうか(後述)。

   
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高原食堂の左奥に鳥居が立っていた (撮影 1998.11.15)
(フィルムスキャナの画像)
松の横にはバス停が立っていた

   

<レストラン>
 高原食堂からちょっと離れ、峠に一番近い所に比較的大きなレストランが立っていた。こちらも2006年10月に訪れた時は営業はされておらず、敷地の前にはロープが張られていた。建物解体の準備が進んでいたのかも知れない。
 
 1998年11月に結婚前の妻と一緒に彼女の車・ミラージュで訪れた時は、多分そのレストランで昼食を摂ったと思う。しかし、もうどんな店だったとか、何を食べたかなど、全く覚えていない。

   
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レストラン (撮影 2006.10.22)
この直ぐ奥が県境の峠

   

<レストラン付近>
 本峠に於いてこのレストランは最大規模の建物だった思う。広い駐車場も隣接し、観光客などの車が停まって居た。
 
 道を挟んでレストランの反対側には、「鳥居峠フレッシュガーデン」と書かれた建物があった(下の写真)。多分、地元でとれた野菜などの直販所だったと思う。
 
 こうした建物は、今は全て峠から姿を消してしまった。道が増々快適となり、車も進歩して時間を掛けることなく移動できるようになった。わざわざ峠に寄って休憩する必要もなく、客足が減ったからだろうか。あるいは建物の老朽化が進み、改めて立て直しても採算が合わないと判断し、あえなく閉鎖となったのかもしれない。

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峠よりレストラン方向を見る (撮影 2006.10.22)
建物の手前は広い駐車場
敷地にはやはりロープが張られていた

   
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峠より上田市街方向を見る (撮影 2006.10.22)
正面の建物は鳥居峠フレッシュガーデン

   
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上の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2014. 2. 4)
フレッシュガーデンはもうない

   
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上田市街方向を見る (撮影 2014. 2. 4)
レストランなど、峠の茶屋以外の建物は皆なくなっていた

   
   
   

   
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鳥居峠 (撮影 2017. 9.12)
長野県側から群馬県方向に見る
(今から9年前)

<峠の様子>
 峠も以前と比べると、随分さっぱりしてしまった。レストランなどがなくなり、人が立寄らなくなった為だろうか。周囲の空き地にはロープが張り巡らされ、車を停める場所にも事欠く始末である。
 
 今も昔も変わらないのは群馬県方向に掲げられた青色の道路標識で、次のようにある。
 草津 33Km
 長野原 27Km

 
 草津は言わずもがなの草津温泉のことだが、長野原町にも川原湯(かわらゆ)温泉がある(地理院地図)。どちらも温泉案内と受け取れ、如何にも観光道路らしい。

   
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鳥居峠(再掲) (撮影 1998.11.15)
上の写真とほぼ同じ場所 (今から28年前)

   
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鳥居峠 (撮影 2006.10.22)
上の写真とほぼ同じ場所 (今から20年前)

   
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鳥居峠 (撮影 2014. 2. 4)
上の写真とほぼ同じ場所 (今から12年前)
雪の景色もなかなかいい

   

<峠の看板>
 以前は赤い鳥居を模した大きな峠の看板が立っていて、目立つ存在だった。それには次のようなことが書かれていた。
 
 鳥居峠
 上信越国立公園
 猿飛佐助修行の地 帰去来峠
 山家神社に雨乞いに登る山
 四阿山登山道入口
 「ずら」と「だんべ」の国境

 
 猿飛佐助(さるとびさすけ)は真田十勇士の一人とされ、この付近で修行したと言い伝えられるとのこと。真田氏は諜報活動に隠密を使ったとされるが、猿飛佐助は架空の人物らしい。 尚、「帰去来峠」(ききょらいとうげ)とは猿飛佐助を主人公とした白井喬二の時代小説の題名だそうだ。上信国境の峠らしく、この鳥居峠を指すのだろう。
 
 尚、「〜ずら」は信濃国(長野県)側、「〜だんべ」は上野国(群馬県)側の方言である。

   
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群馬県方向に見る峠の看板 (撮影 2006.10.22)
比較的新しい

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長野県方向に見る峠の看板 (撮影 2006.10.22)

   

<看板の付替え>
 1998年の時点でも赤い鳥居の看板があったが、かなり傷んでいた(下の写真)。それが2006年には新品に付替えられていた。その当時はまだこうしてこの峠を盛り立てようとしていたのかもしれない。

   
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初期の峠の看板 (撮影 1998.11.15)
既に老朽化していた

   

<十字路の峠>
 峠は十字路になっている。国道と直交して稜線方向にも道が通じる。北に延びるのは仁田沢林道になる。その分岐の角に峠の碑が立つ。

   
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峠を仁田沢林道方向に見る (撮影 2006.10.22)
左が長野県、右が群馬県
他に場所がないので、林道入口にキャミを停めた

   
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上の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2014. 2. 4)
峠の看板もなくなり、寒々しい雰囲気

   
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仁田沢林道側から峠を見る (撮影 2014. 2. 4)
この手前が仁田沢林道のゲート
今回は黄色いパジェロ・ミニで訪れ、反対側に停めた

   

<峠の碑/標高>
 木製の看板などは朽ちて行くが、石造りの碑は元のまま残っている。昭和49年(1974年)12月の建之だ。表に「標高1,362米」と出ている。文献などでは必ずこの数値が示されている。 時折、文献の内容が碑文とそっくりなので、標高もこの石碑を参考にしているのではないかと思ったりする。まあ、現在の地理院地図の等高線でも1,360m〜1,370mの間であり、大きな間違いはない。

   
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峠の碑 (撮影 1998.11.15)
後ろには「鳥居峠四阿山登山歩道案内図」の看板が立っていた

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峠の碑 (撮影 2006.10.22)

   
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峠の碑と看板 (撮影 2014. 2. 4)

   
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峠の碑など (撮影 2017. 9.12)
看板はかなり老朽化した
奥の林道ゲートは開いているようだった
(見えているのはハスラーのドアミラー)

   

<碑文/吾妻の由来>
 碑文には「鳥居峠の由来」と題されている。他の文献なども参考にすると、概ね以下の通りである。
 
 第十二代景行天皇の皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰路、この地に立った。その折り東を振り返り、相模灘に身を投じた亡き妻・弟橘姫(おとたちばなひめ)を偲び、吾嬬者耶(あづまはや)と三嘆された。それにより峠の北にそびえる山を吾妻(あずま)山と名付けられた。
 
 それが現在の四阿山(あずまやさん)になる。「四阿」は「東屋」などとも書く。上州側では吾妻(あずま、あづま)山、信州側では四阿(あずまや、あづまや)山と呼ばれることが多いとのことだ。吾妻郡(あがつまぐん)や吾妻川(あがつまがわ)も同じ由来になる。明治22年にできた嬬恋村(つまごいむら)の名もその故事に因む。その嬬恋村は平成の大合併にも負けず、現在も健在である。
 
 ただ、日本武尊は伝説上の人物とされる。日本百名山(深田久弥著)では、山の形が四阿(東屋)の屋根に似ていることから、この名が由来したともしている。こちらの方が現実的だ。四阿(あずまや)からいつしか吾妻(あがつま)に転訛したとも考えられるのではないか。
 
 以上は「吾妻」の由来であった。

   
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峠の碑の碑文 (撮影 2014. 2. 4)

   

<鳥居峠の由来>
 文献によると、この峠は古くは碓日嶺(うすいみね)とか碓日坂と称したそうだ。峠からは四阿山山頂の吾妻山権現(白山権現奥宮)に至る登拝路があり、その入口に和銅元年(708年)建立の石の鳥居があった。鳥居峠の名はそれにちなんで命名されたとのこと。
 
 一方、峠の碑では、結局のところこの鳥居峠の由来についてはっきり説明していない。この石碑からは少し離れてはいるが、実際に古そうな鳥居が立つ。それが峠名の元となる鳥居とは言っていないのだ。 本物の鳥居の代わりと言っては何だが、かつて赤い鳥居を模した看板を峠の碑の近くに建て、如何にも鳥居峠らしく装ったように思えてしょうがない。
 
<別称>
 江戸期の鳥居峠は油峠(あぶらとうげ)とか油道と呼ばれたそうだ。善光寺平を主生産地とする大量の菜種油が、この峠を経て江戸へと運ばれた。油峠は通称とか俗称になるのだろうが、極めて直感的な峠名で、嫌いではない。

   

<鳥居と鳥居峠(推測)>(修正 2026. 7.10)
 現峠近辺の道が明治11年(1878年)の新峠開削によるものとすると、旧高原食堂の脇から少し入った所に立っている鳥居は、その当時に新しく建立されたか、旧峠に立っていた鳥居を移築したことになる。 その一方、文献(角川日本地名大辞典)では旧峠に関する記述が一切ない。すると、現在も見られるその鳥居こそが、鳥居峠の名の元となった鳥居ということになる。旧峠は存在しただろうが、元々そこに鳥居はなく、鳥居峠とも呼ばれていなかったかも知れない。 古(いにしえ)の日本武尊が吾嬬者耶(あづまはや)と三嘆されたのは、一体どこなのだろうか。
 
 元の鳥居は石造りと言っても和銅元年(708年)製という古い物だそうで、それが今の世に残るものなのだろうか。その点は専門家の言を待たねばならない。ちなみに、旧中山道の方の鳥居峠の鳥居は明応年間(1492年〜1501年)に建之されたとされる。 こちらの鳥居は8世紀も年代が古い。もし本物だとすると、現在の扱いはややお粗末の嫌いがある。文化財として丁重に扱いたいものだ。その点を考えると、何となく元祖の鳥居ではないような気がしてくるのだが。
 
 現鳥居を本物とすると、正にその鳥居の前が古く(少なくとも江戸期)からの鳥居峠ということになる。上田方面から通じる信州街道・中山道脇往還の方の峠だ。 前出の地理院地図の航空写真(1961年〜1969年)では、その鳥居の辺りから群馬県側に描かれる徒歩道(点線表記)へと通じる道筋が見える。もしかすると、それが元の峠道かもしれない。
 
 それでも文献(角川日本地名大辞典)などを調べていると、やはり鳥居峠が2つあったようには読み取れない。旧峠は存在したものの、いつしか利用は減り、信州街道の方の峠に一本化されて行ったのかもしれない。やや旧峠の存在に惑わされたのだろうか。
 
<明治期の新峠>
 現鳥居の位置が本来の鳥居峠とすると、今の国道でさえもその直ぐ脇を通る。わざわざ「新峠」というからには「旧峠」はもっと離れていて然るべきだ。「新峠」というのは峠そのものではなく、その前後の道筋かもしれない。 今の国道は南側の高屋沢水域を大きく迂回して登って来る。明治期の「新道」は、その道筋の詳細は分からないが、もう少し短距離で峠を越えていただろう。それでも少なくとも現鳥居(元の峠?)の近くを通っていたことには変わりない。
 
 以前の高原食堂は鳥居の近くにあった。吾妻山権現への参道沿いに立っていたことになる。現在はもうその道は使われていない様子である。旧峠まで行ければ、そこに鳥居が残っているか調べられるのだが。

   
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峠の碑の裏に立つ2つの看板 (撮影 2014. 2. 4)
この時はかなり傷んでいた

<看板>
 以前は峠の碑の後ろに「鳥居峠四阿山登山歩道案内図」という看板が立っていた。その後、「四阿山登山線歩道案内図」と「上信越高原国立公園」という2つの看板に変わった。それも今はかなり傷んでいる。
 
 まだ新品の頃の写真を撮ってあった(下の写真)。何か旧峠についての記述がないかと期待したのだが、全く無かった。

   
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四阿山登山線歩道案内図の看板 (撮影 2006.10.22)

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上信越高原国立公園の看板 (撮影 2006.10.22)

   
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嬬恋かるた(余談) (撮影 2014. 2. 4)

   

<仁田沢林道>
 仁田沢林道は現峠から四阿山へと至る登拝路の代替路的な存在だ。その一部が登山道となり、ゲート箇所の横には登山届けのボックスも設置してある。この林道は旧峠近くも通過する。500mくらいの距離なら車では楽勝である。しかし、この道は営林署の管理道で、基本的には「一般通行禁止」と看板が出ている。
 
 旧峠には群馬県側からも長野県側からも、容易に歩いて行けそうな道が見当たらない。旧峠に峠名の由来となった鳥居が今でも立っているかどうか確かめに行くには、やはり仁田沢林道を歩くのが一番良さそうだ。しかし、「熊出没注意」と大きく看板に出ている。昨今のクマ被害を鑑みるとと、躊躇せざるを得ない。 (いろいろなウェブサイトを見てみると、どうやら旧峠に鳥居はないようだ)

   
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仁田沢林道の標柱など (撮影 2006.10.22)
「仁田沢(吾妻山)林道(自動車道)」終点とある

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仁田沢林道のゲート箇所 (撮影 2014. 2. 4)
この時は「通行期間」という看板があり、
4月21日から11月10日までは大型車両を除き、
通行できる様子だった

   

<鳥獣保護区の看板/鳥居川>
 仁田沢林道とは反対側の道の入口に、「浅間鳥獣保護区区域図」という看板が立つ。何か面白いことが書かれていないかと思ったが、あまり収穫はなかった。比較的広域な地図で、車坂峠や地蔵峠も記されている。
 
 ただ、吾妻川上流部を「鳥居川」としていた。文献にそのことが書かれていたが、実際にこうして「鳥居川」の文字を見るのは初めてだ。

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鳥獣保護区の看板 (撮影 2006.10.22)

   
   
   

峠の群馬県側

   

<群馬県側の様子>
 峠の群馬県側には何もない。地形的には群馬県側の方が穏やかで、道も殆ど勾配がないまま直線的に延びる。長野県側では道が大きく屈曲して登っていたのとは対照的だ。群馬県に入った国道沿いはただただ林が続くばかりである。道の左右の山がやや迫っているきらいはある。

   
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峠より群馬県側を望む (撮影 2006.10.22)
県境看板が立つ

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左の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2014. 2. 4)

   
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上の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1998.11.15)

   
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群馬県側から峠を見る (撮影 2014. 2. 4)
長野県側の方が開けた雰囲気

   
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峠より群馬県方向を見る (撮影 2017. 9.12)
沿道には何もない

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国道144号の標識 (撮影 2017. 9.12)
この国道は群馬県側では長野街道・信州街道と呼ばれる

   

<道路標識(余談)>
 嬬恋村を行く国道の行先には、鹿沢(かざわ)温泉、浅間高原、バラギ高原、万座温泉などとある。温泉か高原ばかりだ。

   
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峠から少し群馬県側に入った所 (撮影 2017. 9.12)
道路標識が立つ

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道路標識 (撮影 2017. 9.12)

   

<県境看板の位置(余談)>
 ところで、「群馬県・嬬恋村」と書かれた県境看板は、峠の直ぐ群馬県側に立つ。通常なら長野県側の県境看板はその対角線上にあってしかるべきだ。ところがその辺りにはなく、50m程長野県側に入った所に立っている(下の写真)。 何か特別な訳でもあるのだろうか。かつての国境がもう少し信州側の鳥居に近いところにあったとか。

   
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峠より長野県側を望む (撮影 2014. 2. 4)
中央奥に長野県側の県境看板が立つ

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長野県側の県境看板 (撮影 2014. 2. 4)
「全面通行止」は県道菅平高原線のこと

   

<峠の位置(余談)>
 現峠は峠の碑がある十字路の部分だ。そこが国道の最高所であり、そこに中央分水界や県境も通る。峠としての条件が皆揃っている。 また、旧峠や信州街道の峠や明治期の新峠も、現峠より北に延びる稜線上のどこかにあった筈で、そこが道の最高所であり、やはり上信国境でもあったと思う。しかし、鳥居は現峠から100m以上離れた長野県側に立っている。 正確な意味での鳥居峠の位置と鳥居が立つ位置は、今も昔もズレていたようだ。
 
 長野県側では2つの水域が合わさったような複雑な地形していて、峠近辺だけだが意外と広い平坦地が形成されている。その中に鳥居が立ち、峠の茶屋なども並んでいたことだろう。その付近一帯が広い意味での鳥居峠という認識になる。 標高は高く、冬期などは険しい峠道だったかもしれないが、雪のない季節は広々としたのどかな峠だったような気がする。

   
   
   

<おわりに(余談)>
 この地蔵峠は私がバイクや車で旅をするようになった頃(1990年前後)には既に快適な2車線路となっていて、しみじみ峠道を味わうというような峠ではなかった。その為、訪れた日付などの記録がほとんど残っていない。 今回、過去の旅行経路などを時間を掛けていろいろ調べ、やっとどうにか5回分の日付が特定できた。まだ他にも訪れたことがあるような、おぼろげな記憶が残るのだが、どうしても分からなかった。
 
 そんなことなので、写真もほとんど残っていないかと思ったが、さすがに峠部分の写真は見付かった。時には峠を素通りしたこともあったが、一応車を停め、手早く何枚かの写真を撮っていたようだ。
 
 それにしてもこの30年で峠は大きく変わった。峠前後に通じる国道は日々改修され行くが、峠からは高原食堂や峠の茶屋、レストラン、鳥居の姿の看板などがなくなり、すっかり寂しくなった。 快適な道を走る車は道路脇にポツンと一基残る古びた鳥居をいぶかしげに見ながら、県境を駆け抜けるばかりだ。旧峠からの長い歴史を引き継いできた峠であったが、その最後に示した賑やかさの火も消えた。歴史の一幕を下ろしたかのように思える、鳥居峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1993.10. 9 群馬県→鳥居峠→長野県/ジムニーにて
・1998.11.15 長野県→鳥居峠(昼食)→群馬県/ミラージュにて
・2006.10.22 長野県→鳥居峠→群馬県/キャミにて
・2014. 2. 4 群馬県→鳥居峠→長野県/パジェロ・ミニにて
・2017. 9.12 長野県→鳥居峠→群馬県/ハスラーにて
 (偶然ながらこの5回は全て違う車で訪れている)
 
<参考資料>
・関東 2輪車 ツーリングマップ 1989年1月発行 昭文社
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東甲信越 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 10 群馬県 2006年 2版15刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 20 長野県 2004年 4月 2版 7刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 20 長野県 2010年 2版21刷発行 昭文社
・WideMap 関東甲信越 (1991年頃の発行) エスコート
・角川日本地名大辞典 10 群馬県 平成 3年 2月15日再発行
           (初版 昭和63年 7月 8日) 角川書店
・角川日本地名大辞典 20 長野県 平成 3年 9月 1日発行 角川書店
・日本歴史地名大系 10巻 群馬県の地名 1987. 2.24 初版第一刷 (株)平凡社
・日本歴史地名大系 20巻 長野県の地名 1980. 2. 5 初版第三刷 (株)平凡社
・日本百名峠 井出孫六編 平成11年8月1日発行 メディアハウス
・日本の分水嶺 堀公俊著 2000年9月10日発行 山と渓谷社
・旅先で入手した観光パンフレット各種
 
<参考ウェブサイト>
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・地図のウェブサイト 「Google マップ」、「NAVITIME」、「MapFan」、「Yahoo! マップ」など
・川のウェブサイト 「川の名前を調べる地図」(道路名も参考に)
・嬬恋村、上田市の公式ホームページ
・その他の各種ウェブサイト
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2026 Copyright 蓑上誠一>
   
   
   
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