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概要 |
<峠再訪(余談)> 前回掲載した立丸峠に続き、既に掲載済みの峠となる。日本には何千という峠があるのに、わざわざ同じ峠を取り上げなくてもよさそうなものだが、本当に面白い峠とはそうそうあるものではない。 最初にこの温見峠を掲載したのは1997年6月20日のことだ。それはこ のホームページ「峠と旅」をスタートした日でもある。当初、10の峠を掲載して始めた。安倍峠、大峠(山形県・福島県)、大笹峠(山伏峠)、京柱峠、長 慶峠、温見峠、八草峠、日の尾峠、三国峠(北海道)、神坂峠である。どれもこれも実に面白い峠ばかりだ。今思い返しても、なかなかいい選定である。その 10峠の一つに温見峠も入っていたのだ。 つい最近、冠山峠を掲載した。同じ福井・岐阜県境に位置する峠なので、地図を眺めているとついつい温見峠も目に入ってしまう。もう一度、この面白い峠をじっくり取り上げてみたいという気持ちが、湧き上がってきてしまった。 また、今回温見峠を取り上げるには一つの理由がある。峠の岐阜県側の一部の区間で長い間通行止が続いていた。それが近年開通したのだ。2014年 7月に、わざわざその通行止だった区間を往復してきた(峠には行っていない)。そのことなども是非取り上げてみたいと思ったのだ。 |
<峠の所在> 温見峠は越美山地(えつみさんち)を越える峠の一つだ。「越」は越前国、「美」は美濃国である。現在の県名では福井県と岐阜県になる。ただ、岐阜県は大きく北側の飛騨と南側の美濃に分かれ、越美山地とは日本海側に流れる九頭竜川よりも南側の範囲となる。 <越美山地の峠(余談)> 山深い地である越美山地だが、そこを越える峠は意外と多く、東(北)から挙げると、油坂峠、蠅帽子峠(はえぼうし)、温見峠、冠峠(冠越)、冠山峠(冠峠の新 道)、檜(桧)尾峠、高倉峠(こうくら、こくら)などである。この内、車道が通じるのは油坂、温見、冠山、高倉であるが、油坂峠を除けば、どの峠道も険し く、冬期の通行は困難だ。ただ、冠山峠については最近「冠山峠道路」の建設が進んでおり、冬期でも通行可能な長大なトンネルが福井・岐阜の県境を貫こう としている。(冠山峠参照) |
<福井県大野市温見> 温見峠の福井県側は大野市温見である。この地名(集落名)「温見」(ぬくみ)が峠名にもなっている。 <岐阜県本巣市根尾> 一方、峠の岐阜県側は本巣市(もとすし)根尾(ねお)となる。旧根尾村だ。温見峠の道はほぼ、福井県側の大野市街と岐阜県側の旧根尾村の中心地である樽見 (たるみ)市街とを結ぶ峠道と言える。ただ、根尾村は近隣の町村と合併して新しい本巣市となり、岐阜県側の起点(本巣市街)はずっと南に下ってしまったような感じだ。 |
大野市街より峠へ |
<国道157号を南下> 大野市の中心を通る国道157号を南に向かう。車だとものの10分もすると、もう山間地の雰囲気だ。すると電光掲示板に「巣原先 大型車7.7m 通行不能」と出てきた(下の写真)。巣原(すはら、文献では「すわら」)は温見より一つ手前に位置する大野市の大字である。7.7mと言わず、4mにも満たない軽自動車で走っても、狭苦しい峠道がこの先に待っている。 |
![]() 自転車をこいでいる2人組が居た |
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<真名川沿い> 間もなく道は川沿いになる。左手に見える真名川(まながわ)は早くも深い谷を刻んでいる。真名川は九頭竜川の支流で越美山地を水源とする。温見峠はこの真名川の上流域にある。 <真名川ダム> やがて真名川を堰き止めた真名川ダムの巨体が見えてくる。道はこのダムの出現により、谷の上部に通じている。 |
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<麻那姫湖> ダム湖は麻那姫湖(まなひめこ)と呼ぶ。湖畔に通じる国道は相変わらず快適な二車線路で、ちょっとした観光道路の雰囲気もある。ただ、しっかりしたガードレールは少なく、代 わりにコンクリートブロックの車止めが路肩に並んでいるだけだったりする(以前の話だが)。また、ロックシェッドに守られた区間もあり、やや険しい感じも残って いた。 |
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<若生子大橋(余談)> 国道は麻那姫湖の左岸に通じるが、その対岸にも細々と車道が通じている。湖には若生子(わかご)大橋という一本の吊り橋が架かっているが、それを渡ると対 岸の道に出られる。橋を渡った袂には展望台も設けられ、湖を一望する。「姫」とつく湖だが、そんなのどかな雰囲気ではない。 |
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<麻那姫湖青少年旅行村> 麻那姫湖より上流側の真名川は、徐々に谷の深さもおさまり、やがて開けた所に出る。真名川の上流部は、西の雲川(くもかわ、くもがわ)と東の笹生川(さそ うがわ)の2筋に分かれていて、その2つの川が交わる地点は広い三角州を形成している。その好立地を活かし、麻那姫湖青少年旅行村ができている。 大野市からこの国道157号をやって来ると、真名川沿いになってから既に人家というものをほとんど見掛けない。真名川ダムの出現により、その川沿い にあったであろう集落もなくなったものと思う。それでも、広々とした青少年旅行村があることで、それ程の辺ぴさは感じない。大野市の奥座敷といったところか。 |
![]() 国道から眺める |
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これから先の温見峠までは、まだまだ険しい道程を残している。それでも峠の岐阜県側に比べると、こちらの福井県側の方がまだその険しさは幾分和らいで感じ
る。勿論、地形的な険しさが福井県側の方が少ないのだが、それ以外に青少年旅行村など一般人が観光で訪れるような場所が、峠を下って来た所にあるので、それが安心感
につながる、更に大野市という大きな市街地も後に控えている。 一方岐阜県側は、その地形的な険しさに加え、大きな市街地に辿り着くまでが非常に遠い。根尾樽見 が岐阜県側最初の市街地とも言えるが、それ程栄えた街ではない。旅の途中、容易にビジネスホテルなどを探せる市街地は、ずっと遠くである。 |
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電光掲示板個所 |
<電光掲示板> 国道脇には真名川から代わった雲川が流れ、その奥に広がる旅行村を見て過ぎると、電光掲示板が出てくる。 |
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1995年に訪れた時は、「中島〜温見 落石 通行注意」とあり、2001年では「巣原先大型車 7.7m 通行不能」、2007年には何の表示もなかった。この2007年の時点は、まだ岐阜県側が通行止だったのだが。尚、「中島」(なかじま)とはこの旅行村付近の地名で、巣原より更に手前に位置する大野市の大字のようだ。 <看板> 電光表示板の手前左に雲川を渡って県道230号が始まっている。電光掲示板の下に立つ看板では、そちら方向に旅行村の入口があることを示していた。 ま た国道方向には、「大型車通行不能」と看板があり、区間は「大野市巣原〜岐阜県根尾村能郷(のうご、のうごう)」とあった(下の写真)。肝心な通行止の掲載がない。 |
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<蠅帽子峠>
国道から分岐する県道230号の方を進むと、真名川のもう一つの支流・笹生川(さそうがわ)の右岸に出て、その上流に遡り、大野市伊勢(旧大野郡和泉村)との境で伊勢峠を越える。途中、笹生川ダムによる笹生川貯水池を通るが、その対岸に蠅帽子川(はえぼうしがわ)という一本の支流が流れ込んでいる。水源は越美山地の北斜面だ。その川の上流部に蠅帽子峠(はえぼうしとうげ)という峠があった。 真名川の上流部は、雲川と笹生川の2筋に分かれているが、実は峠道もこれに沿って2つに分かれていたようだ。蠅帽子峠は温見峠と並び、美濃〜越前間の主要通路であった。温見峠とは非常に近い存在なので、別に少し触れたい(蠅帽子峠)。 |
![]() 電光掲示板 (撮影 1995. 5. 3) (上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます) |
雲川沿いへ |
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<雲川沿い> 電光掲示板個所を過ぎると、雲川は深い谷間に入って行く。直ぐに「岐阜県側 通行できません」と看板があった(2007年のこと)。通行できないという重大さに比べ、とても控えめな看板であった。あまり岐阜県側まで行く車は少ないと、高を括ってのことだろうか。ただ、猫峠林道などの迂回路は確保されていたが。 |
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<雲川沿い> 道は雲川の左岸を川にぴったり沿って遡る。道にはもう暫くセンターラインが続くが、徐々に狭いさびしい道に変わっていく。人気もパッタリ途絶える。 |
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<中島園地> 雲川の河原が僅かに広まった所に、東屋などが建つちょっとした園地が設けられていた。多分「中島公園」と呼ぶものと思う。通り掛かりの旅人としては、出入口がきっちり決められた堅苦しい青少年旅行村より、こうした素朴な場所に立ち寄って休息したい。ただ、温見峠は長く険しい道なので、早くもこんな所で悠長に寄り道などしていては、無事に峠は越えられない。 |
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<中島トンネル付近> 1995年に訪れた時は、この先の雲川ダム近辺で大掛かりな道路工事が行われていた。その工事の一環か、この付近の道にも改修の跡が見られた。中島公園なども、その折に整備されたのではないかと思う。 中島トンネルという小さなトンネルをくぐる。その先で国道標識が立っていた。地名にはまだ「中島」とあった(下の写真)。 |
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![]() 「中島」とある |
雲川第一堰堤付近 |
<堰堤> 雲川の谷は更に狭まり、もうあまり広い河原は見られない。道の側らに石碑や看板が立っていた。その脇を流れる雲川は、川底や護岸が整備され、小規模ながら堰堤が築かれていた。 |
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石碑には「雲川第一堰堤」とあった。石碑の日付は平成10年(1998年)12月。碑文の文字は大野市内の有終東小学校の小学生によるものだそうだ(つい最近の衆院選挙では有終南小学校が投票所になったとTVで放送していた)。 雲川沿いにはもう人が住む様子はないが、かつては集落などもあったかもしれない。それを記念しての石碑かとも思ったが、そうではなさそうだ。 |
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![]() 「有終東小学校」とある |
<巣原> 道は「中島」から「巣原」に移る。こうして地名が残るからには、かつては集落などがあったと想像されるが、今はその痕跡などは見受けられない。 道は改修によって全般的に状態が良い。新しそうなセンターラインが見える個所もある。側らを流れる雲川も整備されている。ただ、付近の様相は険しさを増す。落石を防止する庇が張り出した擁壁沿いなども通過する。 |
![]() 雲川の川底は整備されていた |
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<ロックシェッド> 擁壁だけでなく、完全な屋根がある覆道(ふくどう)も通過する。「巣原ロックシェッド」とあった。「スノーシェッド」(スノーシェード)の文字の方をよく目にするが、もうここでは積雪のある冬期の通行は諦めているのかもしれない。雪よりも岩が心配なのであった。 |
雲川ダム付近 |
<巣原トンネル> 雲川の谷が一段と狭まった箇所に雲川ダムが築かれている。道はその脇を巣原トンネルで抜けている。 |
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![]() 左手に雲川ダム |
<雲川ダム> 雲川ダムそのものは古いが(文献では昭和31年完成)、巣原トンネルなどは近年になってできたものだ。1995年に雲川ダムの脇を通った時は、まだ開通していなかった。 現在、巣原トンネル手前を右に入る道があり、それを行くとトンネル坑口上部を横切り、左側のダムの堰堤へと続いているようだ。しかし、通行止かもしれない。 |
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![]() 車両通行止の看板が立つ |
<旧道> 今では国道を走っているだけでは快適な巣原トンネルを抜けてしまい、ダムの存在は希薄である。以前はダム湖に沿って、細々と道が通じていた(下の写真)。 |
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<ダム湖付近> 巣原トンネルを抜けると視界が広がる。左手に、それ程大きくはないものの、雲川ダム湖が見渡せる。 ダム湖はその上流部で二股に分かれている。東の熊河川(くまのこがわ)と西の温見川である。沿道からもその様子がうかがえる。尚、温見川の方が雲川の本流とのことだ。 |
![]() 左手に雲川ダム湖 |
![]() 温見側 |
![]() 福井県知事の名前がある |
<にしのみやたにはし> トンネル直後、道はダム湖にそそぐ小さな支流を渡る。橋を渡り切った所に橋の銘板があり、「くまのこ にしのみやたにはし」とあった。「にしのみやたに」とは「西(の)三谷谷」と書くのであろうか。 |
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<巣原と熊河の境> 橋の銘板に「くまのこ」とあるので、この地は「熊河」(くまのこ)であろう。西三谷谷(にしのみやたに)の川が巣原と熊河との境になっているようだ。 <巣原峠(余談)> 雲川ダムの少し上流部で、国道157号は最も西に張り出している。大野市の西隣は同じ福井県の今立郡(いまたてぐん)池田町である。文献によると、「今 立郡池田郷美濃俣村」より東へ山道10kmで巣原に至り、その途中に巣原峠があったとのこと。この「池田郷美濃俣村」とは今の池田町内にあったのではない だろうか。現在、池田町側から県道175号・熊河池田線が大野市との境直前まで通じているが、残念ながら峠は越えていない。この車道未開通の峠が「巣原峠」であろう。 |
<小さな祠> 銘板に並び、小さな祠がある。側らに「南無阿弥陀仏」と標柱も立つ。温見峠の沿道では、こうした石仏を祀っているのを時折見掛ける。歴史がある峠道ならではであろうか。 |
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![]() 下に仮設道路の跡が見える |
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<おちあいはし> 続いて道は「おちあいはし」(落合橋?)を渡る。熊河川と温見川が落ち合う場所にあるからの命名だろうか。 |
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1995年に通り掛かった時は、折しも橋の建設中であった。湖畔沿いに通された仮設道路を通って橋の先へと導かれた。 |
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雲川ダム湖の先 |
<熊河川沿い> ダム湖の先、道は一旦熊河川沿いになる。道路看板が出てきた。「岐阜 78Km 温見峠 10Km」とある。峠までは丁度切りがいい距離だ。岐阜市街となると、これはもう気の遠くなる距離である。 |
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<熊河> 国道標識には「熊河」(くまのこ)と出ていた。熊河川流域が「熊河」で、温見川流域が「温見」だろうか。 落合橋(?)の先でまた小さなトンネルを抜ける。坑口手前を左に旧道が分岐する。 |
![]() 前方にトンネル |
![]() 地名は熊河(くまのこ) |
![]() 以前と変わらない |
<旧道の様子> 熊河川はダム湖の直ぐ上流で湾曲を描くが、トンネルはその区間をバイパスする。一方旧道は川に沿って通じていた。1995年の時は、そのトンネルはまだ影も 形もなく、旧道も通行止で、代わりに川沿いに仮設道路が設けられていた。既にこの時、旧道は哀れな姿であった(下の写真)。 |
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初めて温見峠を越えたのは1991年のことだが、当時はまだこの道が現役で、そこをジムニーで大野市方面へと走り抜けた。それにしても細々と寂しい道である。 |
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熊河川左岸 |
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<熊河川沿いの改修工事> 2007年の時点では、熊河川沿いの区間はまだ道路の改修途中であった。土埃を舞い上げるような道があったかと思うと、急にセンターラインが出てきたり した。国道が通じる熊河川沿いはほぼ3kmに及ぶが、そのほとんどを快適な二車線路にする予定だったのだろうか。今頃はどのように変貌していることだろ う。 |
![]() 左手に国道標識 |
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![]() 狭い区間 まだ残っているのだろうか |
![]() ススキが生い茂る |
<熊河川を渡る> それまで道はほぼ熊河川をなぞっていたが、急に左へと屈曲する(下の写真)。直進方向にも道があるが、手前に立つ国道標識にくっついた案内看板には、左へ曲がる方向に「至 温見峠 根尾村」とあった。 <熊河川上流の峠(余談)> 直進する道は、そのまま熊河川をもう暫く遡るが、越美山地の稜線を前に、車道は尽きている。稜線の岐阜県側は揖斐川町(いびがわちょう、旧藤橋村、更に 古くは旧徳山村で、冠山峠にほど近い。揖斐川町側からも徳山湖に注ぐ揖斐川の支流・ヒン谷沿いに途中まで道があるようだ。稜線上には若丸山(1286m) がそびえるが、この付近にも越美山地を越える峠があったのだろうかと思わせる。 |
![]() 左手に熊河川の川面を眺める |
![]() その先で熊河川を渡る 直進は熊河川沿いを遡る道 |
![]() 曲った国道標識 |
熊河川から温見川へ |
![]() この先、左手の尾根を登りだす |
<熊河川右岸から坂道へ> 道は小さな橋で熊河川を右岸へ渡り、間もなく川沿いを離れて行く。これから熊河川の水域から温見川の水域へと、小さな峠越えが始まる。標高差で50m程の峠道である。 <また小さな祠> 坂を登り始めると、路傍に岩をくり抜いた祠があり、中に小さな石仏が祭られていた(下の写真)。今もきちんと花が供えられている。この先に温見の集落があるが、そこに住んでいた方によるものだろうか。 |
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<温見川の谷> 狭い小さな切通しの峠を抜けると、その先で温見川沿いの谷間の景色が広がる(下の写真)。なかなかの眺めだ。 |
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雲川ダム湖からこの小さな峠を下った地点まで、温見川は狭小な谷間を縫っている。その為か、道は一旦熊河川沿いを迂回し、この小さな峠を越えてやっと温見川沿いに下ろうとしている。 峠から眺める温見川上流部は、直線的に延びる比較的広い谷を形成している。かつてここに温見の集落があった。遠望でも建物などがまだ残っているのが確認できる。 |
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<温見離村(余談)> 温見集落があるこの谷間は、熊河川とを隔てる小さな峠と、越美山地の温見峠とに挟まれ、ある意味閉ざされた世界である。季節のいい時期、旅の途中で眺める限りには、まるで桃源郷かとも思える山里だ。そんな温見集落であるが、過去に大きな自然災害を経験している。 昭和34年9月の伊勢湾台風、昭和36年9月の室戸台風、昭和38年のいわゆる三八(さんぱち)豪雪がこの温見の地をも襲った。山崩れ・道路流出・橋梁 流失など甚大な被害を被り、三八豪雪では2か月もの交通途絶ともなったそうだ。文献では「絶望と恐怖のうちに」村人は離村(昭和39年)したと記す。 |
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<西谷村(余談)> 離村はこの温見峠最奥の集落・温見に限ったことではなかった。真名川上流部の山岳地帯に、中島・巣原・熊河・温見などを含めた11か村の合併で、かつて西谷村という 村がった(明治22年〜昭和45年)。笹生川と雲川の合流点にある中島に役場が置かれたそうで、今の青少年旅行村のある所が中島集落の中心地であった。 この西谷村の地域全体が、今は無住の地となっている。真名川は「荒れ川」で、昭和32年前後に笹生川ダムと雲川ダムを完成しているが、結局昭和41年には全 村がほぼ離村となったようだ。西谷村は昭和45年に大野市に編入されているが、住民の居ない11か村の村名のみが大字名として引き継がれたことになる。 離村から既に約半世紀。改修されつつある国道157号を走っているだけでは、こうした壮絶な過去を知る由もない。 |
温見川左岸 |
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<温見川沿いへ> 熊河と温見を分かつ小さな峠を温見へと下る。見晴らしがなくなり、林の中となる。狭い道が僅かな屈曲を経て、温見川の左岸へと導いている。この道が温見集落の生活道であり生命線である。 |
<温見川左岸> 道は温見川の広い谷間の平地を走るようになる。谷が真っ直ぐなので、道もほぼ真っ直ぐに峠方向を目指している。国道標識に記された地名は、ここに来てやっと「温見」となった。 道は温見川の左岸を行くが、川からは少し離れ、草木も茂るので、川の様子などは分らない。 |
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![]() 地名にはやっと「温見」と出てきた |
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<沿道の様子> 暫く進むと林が途切れ、視界が広がる。道が真っ直ぐに延びていて、広い温見川の谷を見通せる。 |
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以前の沿道の様子を古い写真で見ると、道の両側には耕作地が広がっていたことが分かる(下の写真)。温見集落は無住地となってからも、元の住民が時折訪れては畑や山林を管理していたとのこと。それも徐々に廃れていったのだろうか。 |
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温見集落を過ぎる |
<温見川を渡る> 2km余り真っ直ぐに進んだ後、道はクランク状に屈曲し、温見川を右岸へと渡る。橋の上からやっと温見川の川面が近くに眺められた。穏やかな流れに見えたが、かつてこの川が氾濫し、甚大な被害をもたらしたのだった。 |
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<家屋を過ぎる> 橋を渡るとその先に家屋が数件、密集して立っている。この付近は神社などもあり、温見集落の中心地だったのではないだろうか。文献にも「雲川最上流右岸」に温見集落があったと記されている。(温見川は雲川の本流) それまでの沿道には人家らしい人家は見られなかったが、ここにはまだ人が住んでいそうな家屋が残っている。初めて見た時は、別荘かとも思った。しかし、やはり元の住民が訪れた時、一時的な住居として使っているのだろう。 |
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旧西谷村の地域が無住の地になって久しいと言えども、真名川上流域に人が住んでいたという形跡がほとんど見られないのはちょっと異様である。真名川本流の笹生川上流部もほぼ同様だ。その中で、温見の集落は唯一、人の暮らしがあったことを色濃く残す貴重な存在と言える。 |
温見川右岸を登る |
<登坂開始> 集落を過ぎると、道はいよいよ峠に向かって本格的な登坂を開始する。ただ、谷は相変わらず広く、峠に向かってほぼ直線的に通じている。視界は広いし、道の勾配も緩やかだ。 |
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<栃木峠(余談)> この温見の地と美濃国とを結ぶ温見峠の道は、細く険しい山道であったが、他にも美濃へと通じる道が造られていたようだ。文献では「美濃の長谷原に至る栃木峠もよく利用された」とある。この「栃木峠」というのが謎である。地図で越美山地の稜線を探しても、この峠名の記載はない。 また、今の岐阜県側に「長谷原」(はせはら?)という地名を探したが、これも見当たらない。ただ、旧徳山村(現揖斐川町)の中央に櫨原(はぜわら)という集落があった。揖斐 川の支流・扇谷が合流する付近の小平地に、その集落は立地していた。温見集落とは越美山地を挟んでほぼ真南に位置する。温見集落近くから温見川の支流沿い に、稜線方向へと少し道が続いている。一方、櫨原からも扇谷沿いに稜線方向へと道が延びる。これらの道が峠で繋がっていたのではないだろうか。東の能郷白 山(のうごはくさん)と西の若丸山との間で、若丸山に近い付近に1130m程の鞍部がある。この辺りに栃木峠があったのではないかと思う。ただ、全くの想像に過ぎない。また 櫨原の地は、既に徳山湖に沈んでいる。 |
<登り谷堰堤> 右手に流れ下る温見川に、比較的大きな堰が築かれているのが見えてくる。真名川砂防流域概要図(雲川第一堰堤にあった看板)に「登り谷堰堤」とあるもの だ。この付近になると、温見峠が通じる越美山地の稜線の鞍部が望めるようになる。それ程谷が真っ直ぐ峠まで続いているということだ。見ようによっては、峠 は手の届きそうな所にある。 |
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<白谷と登り谷> 尚、「登り谷」というのは川の名であるかもしれない。堰堤の付近では、温見峠方面から流れて来た川(名前は不明)と、能郷白山の西麓付近を源流とする白谷と いう川が合流している。白谷の方が川の延長が長く、温見川の本流に思える。温見峠方面から流れ下る方が支流で、その川を「登り谷」と呼ぶのではないだろうか。 |
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<コーヒーブレイク(余談)> 道は堰堤近くを過ぎる。堰堤上部は広い河原となっている。その河原に車を乗り入れられたと思う。 野宿旅をしていた頃は、その日どこに行くとも、どこに泊まるとも何の当てもない。先を急ぐ必要は全くないのだ。良さそうな場所があれば、そこにテントを 張るし、まだ日が暮れるまで間があれば、ちょっと休憩に立ち寄る。ポケットコンロを取り出し、お湯をほんの少し沸かしてインスタントコーヒーやココアなどを 飲む。河原に転がる大きな石に腰掛け、周囲の景色を楽しみながら、のんびりと一時を過ごす。付近には人気を全く感じない。一人ぼっちの寂しさがかえって心地よい。登り谷堰堤 の河原では、そんなことがあったのを覚えている。 |
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道が険しくなる |
<道の状態> 温見峠の大野市側は、地形こそあまり険しくないが、道の状態が悪い。支流に架かる小さな橋を何度か渡るが、欄干が崩れていて、その上道幅が狭い。橋の前後に急カーブもあったりして、脱輪の危険性が高いのだ。 峠の岐阜県側の能郷〜黒津間がこの峠一番の難所と言われるが、実は福井県側の峠下のこの付近の道の方が、車の運転としては難しいように思う。初めて温見 峠を越えた時も、黒津〜能郷間は何とも思わなかったが、峠から温見集落まで下る時が一番緊張したのを覚えている。ただ、ここで脱輪しても命まで取られような険しさは少ない。一方、能郷〜黒津間で谷に落ちたら、これはひとたまりもない。 |
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路面も古い。ひび割れたコンクリート舗装だったりする。また、しっかりしたガードレールも乏しい。この道を舗装路にして以来、ほとんど補修を行っていないのではにかと思いたくなるくらいである。 |
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![]() この先、川を渡ってつづら折りを登る |
<谷を詰める> あらかた谷を詰めると対岸に道が望める。やがて川を渡り左岸に出て、その先急坂・急カーブのつづら折りを登る。 川の源流部は、峠より更に南西の能郷白山西麓付近となる。道は川筋から離れ、急傾斜地を蛇行して登り始める。 |
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峠道のハイライト |
<谷を望む> 温見峠の峠道では、険しい割にはあまり景色に恵まれない。その中にあって、峠の福井県側直下に眺める谷間の景色が、私は最も好きだ。くねくねと道が登って来る様は、如何にも山岳道路という雰囲気に溢れている。 |
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うまく眺めるポイントを選ぶと、谷のずっと下の方まで道が続いている様子が一望できる。細々としたその道筋は、温見峠の険しさを象徴するかのようだ。 |
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道は数回の急カーブを描いて峠直前の急傾斜地を登る。眺めだけでなく、車の運転でも山岳道路を味わうことになる。空が広がってきた。 |
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<峠直前> 峠の100m余り手前からは遠望はない。峠に着いてからは福井県側に景色はないので、その前に堪能しておく。 |
峠 |
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<峠の様子> 峠は浅い切通しで、周囲に高い樹木がなく、空が開けている。切通しの区間は短く、峠としてはこじんまりした印象だ。温見峠は、峠そのものより峠前後の道 の険しさがあまりにも際立っていて、峠自身の様相にはあまり魅力は感じない。それでも、この峠に足を止めない者は居ないだろう。長い峠道を登って来て、こ こで一息入れずにはいられない。 |
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2001年11月に訪れた時は、峠は車であふれていた(下の写真)。ちょっと異常な光景であった。峠からは能郷白山(のうごはくさん)への登山道が始まっている。全てその登山客の車だろう。 |
![]() 大野市側から見る 登山者の車が並ぶ |
![]() 大野市側から見る |
温見峠を初めて訪れたのは1991年10月のことであった。残念ながら峠は深い霧で、写真一枚を撮っただけで峠を立ち去った(下の写真)。この時の印象が強く、温見峠 は全く寂しいものと思っていた。それが後に訪れてみると、峠には大抵車が停まっている。こんなに長い峠道を車で走って来て、更に何時間も掛けて山道を歩くのだか ら、熱心なことだと感心する。 |
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<看板など> 温見峠では「通行不能」の看板が目に付く。福井県側と岐阜県側の両方ともである。ただ、よくよく見ると「大型車」と書いてある。岐阜県側では22kmの区間ともある。(多分能郷までの距離) 更に福井県側は異常気象による通行規制がある(左の写真)。峠から中島までの20.5kmにも及ぶ。とにかく、峠を挟んで延長40kmもの険しい峠道が続いていることになる。 温見峠は県境の峠であるが、「福井県 大野市」の看板はあるが、確か「岐阜県」の看板はなかったと思う。1995年に訪れた時は、そうした県境看板などもほとんどなく、今よりさっぱりした峠だった。 |
<登山道> 峠の切通しの南西側には能郷白山への登山道が始まり、その登り口の脇に朽ち掛けているが登山道の案内看板(正確には「能郷白山山系概念図」)が立つ(下の写真)。それでは峠の標高を 1,000mとしている。また、越山(おやま、1129m)の向こうに蠅帽子峠も記されている。能郷白山とは反対方向の蠅帽子峠へは、峠から稜線上を行く 登山道は示されておらず、峠を岐阜県側に少し下った大河原(おおかわら)から登る道が記されていた。これが古くからの蠅帽子峠の道だと思われる。 |
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![]() 能郷白山山系概念図 (撮影 2007. 8.17) (上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます) |
能郷白山方向への登山道を少し登り、峠を見降ろしてみた(下の写真3枚)。 |
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峠の岐阜県側 |
<峠の岐阜県側> 峠を岐阜県側に抜けると視界が広がる。まあまあの遠望もある。路肩も少し広く、車を停めるならこちら側だ。しかし、繁忙期の登山客の車をまかなう程のス ペースはない。この温見峠は越美山地への恰好な登山基地となるが、それ程開発されている訳ではない。峠から能郷白山までの温見峠ルートも昭和63年 (1988年)の開設で、それ程古い登山道ではなさそうだ。 |
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<通行止看板> 2007年に訪れた時は、岐阜県側の通行止はまだ続いていた。峠にはその通行止を示す看板が立っていた(右の写真)。「災害のため」とある。「根尾能郷 根尾黒津」とあるので、既に根尾村は本巣市になっていたらしい。本巣市になってからは、旧根尾村の大字の前に「根尾」を付けて呼ぶようだ。 |
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<地蔵尊と元の峠> 岐阜県側から峠を見た時、右脇から稜線上に登る道がある。能郷白山とは反対側の越山方面へと続く稜線だ。その稜線の上には小さな社が佇み、中に地蔵尊が祀られている。石仏の磨滅の様子からして、比較的古いものと思われる。しかし、今でも花が供えられている。 この地蔵尊は温見村の人々が背負って登り、この温見峠に建立したものだそうだ。車道開削の折にこの場所に移された訳ではなく、元からここに祀られていたとのこと。すなわち、元々の温見峠は、この地蔵尊の位置に通じていたのである。 |
![]() 社は新しいようだが、中の地蔵尊は それなりに歴史がありそうだった |
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![]() ちょっと分かり難い |
![]() この時も花が供えられていた |
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<峠の標高> 峠の標高については、文献でも1,019mとか約1,050mとかばらつき、他の道路地図などでも1,030mとか1,040m、ざっくり1,000mなどともある。 現在の地形図で見ると、車道は1,020m余りに通じる。車道と地蔵尊の高低差は5m前後なので、旧峠の標高は1,025m強、四捨五入で1,030mといったところだろう。 車道開削時に峠を削った深さは約5mとそれ程深いものではないが、地蔵尊がある所まで登ると、背後の稜線方向にも眺めが広がる。旧峠は随分と開けた峠であったようだ。 |
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<大河原断層> 文献には、温見峠は能郷白山(1,617m)と高台山との鞍部に位置するとある。「高台山」が分らないが、峠の北にある1,310m余りのピークがそうだろ うか。越美山地は概ね東西に連なるが、温見峠がある能郷白山と高台山(?)の間は大きく屈曲し、ほぼ南北に稜線を描いている。温見峠は大河原断層が通ると のことだが、その険しさの現れか。 <岐阜県側の眺め> 峠から福井県方面には眺めが広がらないが、岐阜県側には遠望がある。旧峠の位置まで登ると一段と景色が広がる。 |
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望遠で見ると、幾重にも山々が重なっているのが分かる。この峠が山深い地にあることを実感させられる。また、これから下る岐阜県側の峠道の険しさをも物語っているかのようだ。 |
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<峠の車道> 温見峠に車道が開通したのは昭和49年(1974年)のことだそうだ。岐阜県側の大河原までは戦前には車が入れるようになっていたが、そこから峠までの 開通に更に数十年を要した。昭和52年(1977年)には国道に昇格する。簡易舗装も行われ、車での峠越えが一般にも行えるようになっていったとのこと。 |
岐阜県側に下る |
<中央分水嶺> 峠の福井県側の真名川は九頭竜川の支流で、九頭竜川は景勝地で有名な東尋坊(とうじんぼう)の近くで日本海に注ぐ。一方、根尾川の本流となる揖斐川は太 平洋岸の伊勢湾に注いでいる。すなわち温見峠は中央分水嶺の峠で、これは冠山峠などと同じことである。ただ、冠山峠は揖斐川本流の源流部にあるが、温見峠 はその支流のまた支流の源流であった。 |
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![]() この先に「洗い越し」 |
<根尾西谷川沿い> 峠の岐阜県側直下は、直ぐにも根尾西谷川源流の川に沿って下る。谷は直線的で、この部分を見る限り、かえって福井県側の峠直下より地形の険しさ は少ない。道は小さな蛇行を何度も繰り返すが、ダイナミックな山岳道路といった雰囲気はほとんど感じない。展望もあまり開けないので、印象には残り難 い道である。 <洗い越し> ただ、名物とも言える「洗い越し」にお目に掛かれる。未改修の林道などに時折見られるが、支流の川の水が、道路の上を洗い流して本流へと下るのだ。これ を「洗い越し」と呼ぶ。ちゃんと看板に出ている。余程荒っぽい林道でなければ見られないこの洗い越しが、この国道157号では実際に経験できるのである。 初体験ではちょっと緊張するかもしれない。 |
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しかも洗い越しは一箇所だけではなく、複数箇所あったと思う。一つの道で続けてこう何回も体験できるのも、また珍しい。大雨で水量が増したらどうなるのかと心配に思うが、今までのところ何の問題もなく越えられている。 |
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大河原集落付近 |
<根尾西谷川右岸> やがて道は根尾西谷川を近くに見て下るようになる。左手に川面を眺める。この付近の根尾西谷川の谷間は、まだまだ穏やかな雰囲気だ。細いながらも落ち着いた舗装路が続く。 |
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<広い河原> 峠から数kmも下ると、根尾西谷川には広い河原が所々あるのが望める。この下に大河原集落があるのだが、特にその付近から下流側の黒津集落までの6km程の区 間、根尾西谷川は幅500m内外もの連続した広い河原を発達させている。その為もあり、この付近ではまだ地形の険しさはあまり感じない。 |
<蠅帽子峠への入口> 大河原集落に近付いた頃、国道から分かれて左に砂利道が始まっている(右の写真)。その付近の広い河原を利用し、アウトドアスペースを設けたようで、近くに「大河原 MTB/4WD ゲレンデ」と看板がある。 道の入口の左側に「官道 這星峠」と小さな標柱が立つ。「這星峠」とは蠅帽子峠の別称である。ここはその峠への美濃側の入口となる。 |
![]() 左脇に蠅帽子峠の標柱が立つ |
![]() 左脇に林道看板が立つ |
<猫林道入口> 蠅帽子峠への道から更に国道を500m程下ると、また左手に、猫峠林道の道が分岐する。黒津と能郷の間が通行止の時は、この林道を迂回路よう案内看板が立っていた。その猫峠林道は猫峠(ね ことうげ)を越えて、根尾越波(ねおおっぱ)に至る。更に折越林道で折越峠を越え、根尾川のもう一つの支流・根尾東谷川沿いに降り立ち、川沿いを樽見へと下る 迂回路だった。 |
<大河原集落> 根尾西谷川最上流の集落が大河原(おおかわら)であった。川がこの付近で一段と大きな河原を形成していることからの地名だろうか。ただ、岐阜県側の温見集 落と同様、現在の大河 原は無住の地になっている。猫峠林道分岐から更に国道を500m程に下った付近に人家が集中していた所があったようだが、今は家屋らしい跡もほとんど見掛 けない。側らに広がる草に覆われた河川敷を見渡すばかりだ。かつてはそこに耕作地が拓かれていたのかもしれない。 尚、この辺りの根尾西谷川を「大河原谷」とも呼ぶようだ。 <越前・美濃間の交通の要衝> 中世以来、この大河原の地は、北の蠅帽子峠や北西の温見峠を越えて越前と美濃を結ぶ街道が通る、交通の要衝であった。2つの峠道が合していたのである。 しかし、明治以降、峠の交通が次第に途絶えるに従い、集落も過疎化の一途を辿った。大正9年には19戸、84人が住んでいたそうだが、昭和の終わり頃には 数戸となり、遂には廃村に至ったようだ。 |
大河原から黒津へ |
<大河原〜黒津> 大河原の集落と次の黒津(くろづ、くろつ)の集落の間は約5km程の道程である。黒津から先が通行止の時は、この区間を通る車はほとんどなかったと思われる。皆、猫峠へと向かった筈だ。 2007年に訪れた時は、猫峠林道分岐より先が、半分バリケードで塞がっていたが、車一台が通り抜けられるようになっていた。もしかして黒津以降も通れるのかと期待してバリケードをすり抜けた。 |
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すると道の補修工事箇所を通過した。丁度、作業員が路上に寝転んで休憩中であった。その脇をゆっくり通る。 道は川面より少し高い位置に通じる。川面の様子はうかがえないが、根尾西谷川の広い谷を見渡しながら道は下る。 |
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黒津集落 |
<家屋> 温見峠を下って来て初めて家屋らしい家屋が出てくる。黒津集落に入ったようだ。大河原集落とは違い、ここでは多くの家屋は補修され、人が住める状態を維持している。高く積まれた薪なども、人の暮らしをうかがわせている。 |
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<集落内> 黒津の人家が点在する区間は数100m程で、道は徐々に河原近くに下っている。国道下にも人家が見えるようになる。 <黒津村> 江戸期から黒津村があり、明治30年 に中根尾村に編入されている。上流側の大河原も下流側の能郷も西根尾村だったが、この黒津は中根尾村に続いしていたようだ。明治37年に、西、中、東の3つの根尾 村が合併し、本巣市になる直前の根尾村となった。 |
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<閉ざされたゲート> 黒津集落の南の端にゲート個所がある。2007年に訪れた時は、やっぱりゲートは閉ざされていた。淡い期待は外れ、仕方なく越波(おっぱ)への道(市道黒津越波線)を進んだ。 温見峠前後は、元々から土砂崩れなどで通行止が多く発生する道であった。中でも黒津から下流側の能郷までの区間は災害に遭いやすく、2000年少し前か らは特に通行止が頻発していた。2000年頃からの10年以上の間は、ほとんど通行途絶に近かったようだ。その通行止が発生している時、黒津集落の端にあ るこのゲートが閉ざされる。 |
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黒津のゲート個所 |
<最近の通行止解除> 2010年前後だろうか、黒津〜能郷間で大規模な復旧工事が行われたようだ。それにより2012年に晴れて開通の運びとなったとのこと。2014年7月 に訪れた時、ゲートは見事に開いていた。ただ、相変わらず「大型車 通行不能」の道ではある。(以下は2014年7月に訪れた時のことです) |
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![]() 峠方向に見る |
![]() 峠方向に見る 右下に市道黒津越波線が通る |
![]() 「大型車 通行不能」の看板はある |
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黒津集落では、家屋は多く残るが人影を見ない。人家の庭先に人が立っているのかと思ったら、案山子のようだった。ここから能郷までが不通になることも多かったので、もう1年を通じて定住する人は居ないのかもしれない。 |
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![]() もう人は住んでいないのだろうか |
黒津から能郷へ |
<黒津集落の先> 黒津集落を後にゲート個所を過ぎる。側らの根尾西谷川はまだ暫く広い河原を維持している。 |
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ゲートの先なので、もう黒津の人家はないものと思う。しかし、路肩には空き地があったり、廃屋も見られ、かつてはこちらまで黒津の集落が広がっていたのではないかと想像させられる。 <砂防ダム> 黒津集落から下流側にも河原が広がっていた理由の一つは、砂防ダムが築かれているからだ。ゲートから1km余りにそのダムが見られる。そこを過ぎると深 い谷となり、根尾西谷川は南から西へと流れる方向を変える。もう大河原谷と呼ばれたような広い河原のある穏やかな川ではなくなる。 |
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難所へ |
<倉見七里> 砂防ダム以降、道は狭い谷間に吸い込まれるようにして続く。この能郷・黒津間は古くから「倉見七里」(くらみしちり)と呼ばれ、蠅帽子峠(及び温見峠)の街道の難所として知られていたそうだ。 ただ、七里は約28kmで、実際の能郷・黒津間の道程(約 5km)からするとつじつまが合わない。峠(蠅帽子峠)から能郷付近までの全長(20kmくらい)のことを指すのか。あるいは険しさを表現する為に「七里」と大げさに伝えたものか。東海道の難所である箱根峠は「箱根八里」で知られている。これを模したようにも思える。 |
![]() 砂防ダムの下流側 |
<難所の車道化> 能郷・黒津間の倉見道は、昭和5年(1930年)に馬車が入るように作り替えられ、車道化の一歩を踏み出したようだ。第2次大戦中には木材搬出の為の大 幅改修が行われ、昭和18年には貨物自動車が入るまでになったとのこと。ただ、大河原から先峠までの車道化は、その30年以上後となる。 |
![]() 左手に注意看板 |
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<根尾西谷川右岸> 黒津から能郷まで、道は終始根尾西谷川の右岸にへばり付いている。黒津の砂防ダム以降、谷は垂直に切り立ち、徐々にその深さを増していく。通行注意を促す看 板が出ているが、能郷側から登って来る時にあるものに比べれば、あっさりしている。それでも「転落事故現場」と恐ろしいことが記されている。 |
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![]() 川床は岩がゴロゴロ転がっている |
![]() 能郷方向に見る |
<黒津の国道標識> 2014年の時点では、根尾村は既に本巣市になっていた筈だが、国道標識はまだ「根尾村 黒津」であった。大規模な復旧工事は行われても、標識の取り換えにまではなかなか手が回らないようである。 |
![]() 黒津方向に見る |
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<狭路での対向車(余談)> 無理なスピードを出さなければ、難所と言っても道の修復工事が行われているので、それほど危険はない。問題なのは対向車である。場所が悪いと道幅は不十 分だし、近くに退避所はないし、いざという時守ってくれるガードレールもない。 能郷から登って来る時、運悪くその対向車がやって来た。黒津の砂防ダム付近で何か作業を していたようで、その作業者が乗る車のようだった。もう、手慣れているせいか、なかなかのスピードである。しかも、こちらがどこで離合しようかと迷ってい る内に、どんどん近付いて来る。壁側ギリギリに寄せたが、崖側に残るスペースは余り十分とは言えない。そこをさっさと通り過ぎて行った。こちらの方が冷や 冷やする思いであった。 |
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![]() この道の狭さで、どう離合すればいいというのか |
能郷へ |
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<能郷に入る> 国道標識に書かれている地名が「根尾村 能郷」に変わる。黒津集落から能郷集落までのほぼ中間付近に境があるようだ。 |
<祠> この能郷・黒津間の難所の途中にも祠があり、地蔵尊と思われる石仏が祀られている。祠は小さいながらもしっかりしたもので、石仏はそれなりに時を経たものに思われた。この難所にあって、旅人が旅の安全を祈ったのであろう。 |
![]() 黒津方向に見る |
![]() 能郷方向に見る |
<ロックシェッド> 能郷側に入って程ない所にロックシェッドがある。それ程長い物ではないが、しっかりした構造で見た目にも新しい。近年行われた復旧工事の一環ではないかと思う。 ロックシェッド前後の区間は特に道が険しいようだ。付近には「危険 道幅狭し 運転注意」の看板が所々に立っていた。 |
![]() 黒津方向に見る |
![]() 黒津方向に見る |
<倉見峠> 能郷・黒津間の倉見道に於いて、その最高所を「倉見峠」と呼ぶそうである。道は絶えず根尾西谷川沿いであり、別に水域を変わる訳ではないのだが。ただ、黒津からここまでの道は、確かに心持ち登り勾配であった。 能郷・黒津間の根尾西谷川は概ね東西方向に流れ、南北方向に細かく振れる。ロックシェッドを過ぎた先(能郷集落寄り)で、一段と北へ谷が屈曲し、最も北へ振れた付近が道の最高所のようだ。標高で370m程ある。丁度その辺りに一基の祠が建立されている(下の写真)。 |
![]() 「道幅狭し 運転注意」の看板 |
![]() ここが倉見峠か? 側らに祠がある (黒津方向に見る) |
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<倉見峠の祠> 祠に祀られる石像に刻まれた日付は「平成二年五月二十三日」であった。それ程古いものではない(西暦で1990年)。この近くに他に祠があり、わざわ ざこの地点にも別に建立するからには、やはりここが倉見峠なのかと思われた。尚、「倉見」という地名は現在この付近に見られない。ただ、ここより南東方向 に926.7mのピークが地形図にあるが、これが倉見山と呼ばれるそうだ。 |
![]() 黒津方向に見る |
![]() 黒津方向に見る コンクリートで固めた法面は新しく、 この付近も最近の復旧工事によるものか? |
![]() 倉見峠を過ぎ、道はやや下っている |
<下り道> 倉見峠らしき地点を過ぎると、道はしっかり下りだす。山側の法面を覆うコンクリートが比較的新しそうに見えた。これらも最近の復旧工事に関係するのかと思われる。 復旧工事が行われた後といえども、道幅が際立って広くなったという印象はない。僅かに広い退避所ができたという程度で、ほとんど全線に渡って狭い道に変わりはなかった。 |
根尾西谷川砂防ダム |
<砂防ダム> 黒津側にあった砂防ダム以降、真西に流れ下って来た根尾西谷川は、また別の砂防ダムを越し、その直後に南へと流れを転じる。路傍に看板が立ち、「根尾西谷川砂防ダム」とある。こちらの砂防ダムは深い谷底にあり、車道からは下を覗き込まないと見えない。 |
![]() 右手奥が下流方向 |
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<橋を渡る> 道は支流の「遊び谷」を渡る。遊び谷は砂防ダム下流側の直後に注いでいる。砂防ダムの看板に続き、その谷を渡る立派な橋が架けられている。見るからに新しそうだ。この橋も復旧工事によるものか。旧道は北に少し迂回し、小さな橋で遊び谷を渡っていた。 <茶屋峠(余談)> 尚、遊び谷を頂上まで遡った所に「茶屋峠」と、地形図や詳細な道路地図には載っている。能郷集落からその峠まで山道があることが地形図で分かる。峠より北側には 道が描かれていないが、峠は丁度黒津の集落付近に降り立つ位置にある。難所である能郷・黒津間をバイパスするような峠道に思える。実際にそんな道が存在したのだろうか。 |
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<砂防ダム以降> 谷の向きと同様、道は南へと向かう。道の険しさに変わりはない。崖は垂直に切り立ち、ガードレールがない路肩を外せば、深い谷底まで真っ逆さまだ。路面だけを見ていると、ただただ狭いと思うだけだが、ここから落ちることを想像すると、足がすくむ思いである。 <難所の印象(余談)> 最初に温見峠を訪れたのは30歳代前半で、バイクや車で日本中を走り回っていた頃だ。今にも路肩が崩れそうな未舗装路ならともかく、狭いだけの舗装路な ど、何とも思っていなかったうよであるだ。その証拠に、峠道最大の難所と言われたこの区間に関して、何の記憶も印象も残っていない。 この能郷・黒津間は都合4回 走ったが、時を経るに従い、その本当の怖さが分かってきたように思う。ハンドル操作一つ誤ると、確かに命が危ないのだ。しかし、こうして悟りを得た最近で は、峠道の運転は全て妻がすることになってしまっている。16歳下の妻は、そのことがしっかり分かってハンドルを握ってくれてるのだろうか。 |
![]() 道幅は狭く、ガードレールもない |
![]() 谷は相変わらず深い |
<周囲の様子> 切り立つ崖に囲まれた屈曲する谷間では、ほとんど遠望はない。ただただ、圧倒されるばかりの山の緑を眺めるだけだ。 |
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![]() 緑一色 |
能郷側ゲート個所 |
<能郷側ゲート個所> 能郷集落に入る100m程手前にゲート個所がある。長い間、このゲートは固く閉ざされていた。峠方向に見ると、上に大きな看板が掛かり、「大型車 通行不能 根尾能郷〜大野市巣原間」とある。 |
![]() 能郷集落方向に見る |
![]() 黒津方向に見る 右手にも「大型車 通行不能」の看板が立つ |
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![]() 能郷集落方向に見る |
ゲートの先で急カーブし、能郷の集落方向に向く。集落方向からやって来ると、ゲート手前で丁度正面にいろいろな看板があるのが目に留まるようになっている。 |
![]() 峠方向に見る 正面にいろいろな看板 |
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不法投棄禁止や落石注意の看板が並ぶなか、やはり「危険 落ちたら死ぬ!!」の文字が強烈である。でも、大げさではない。これが真実である。 |
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能郷集落へ |
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<能郷集落> 難所を抜けるとやっぱりホッとする。危険な個所を過ぎたというだけでなく、人家が現われ、人里の気配がしてくるからでもある。 |
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![]() 峠方向に見る 難所のような危険はないが、集落内の道も狭い |
![]() 峠方向に見る 「能郷〜温見峠 通行注意」の看板 国道標識の地名は「本巣市根尾能郷」 |
<能郷(余談)> 根尾西谷川とその支流である能郷谷が合流する地に能郷の集落はある。岐阜市内からの定期バスの終着点だ。集落内の狭い国道沿いにも「黒津口」というバス 停がある。黒津への道の入口という意味だろうか。そのバス停付近で国道より分岐した道が、能郷谷方面へと延びている(下の写真)。 能郷(のうご、のうごう)と呼ばれるちょっと変わった地名は、やはり「能」に関係するようだ。能郷白山山頂の能郷白山神社の御旅所で、例祭時に能が舞われていたこ とに由来するそうだ。その御旅所とは現在の能郷集落内にある白山神社にあたる。今はこちらが本社になり、山頂の社祠を奥宮としたとのこと。白山神社より能 郷谷沿いを遡り能郷白山に至る登山道があるが、これが元々の参詣道であろう。 |
![]() バス停「黒津口」付近(樽見市街方向に見る) 右に能郷谷沿いへの道を分岐 バス路線はそちらにある上原(あげはら)が終点のようだ |
![]() バス停「黒津口」付近(黒津方向に見る) 左に能郷谷沿いの道を分岐 白山神社はそちらにある |
根尾西谷川左岸へ |
<根尾西谷川を渡る> 能郷集落内の道は僅か200m程続いただけで人家の間を通り過ぎ、その後根尾西谷川を渡る。峠以来、ずっと右岸に通じていた道が、初めて左岸沿いになる。橋 からは川面を間近に見る。能郷・黒津間では遥か下の谷底を流れていた川が、ここからは身近な存在である。河原に降りて遊んでいる家族連れも見掛ける。 橋を能郷側に渡って来ると、橋の袂に例の「大型車 通行不能」の看板が立ち、「最終回転場」と出ている。橋の少し先に退避場が設けられ、ここで回転するようだ。その先能郷集落内は狭く、大型車は引き返しが困難となる。 |
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<根尾長島> 根尾西谷川の左岸沿い入ると、国道標識に「根尾長島」とある。少し川沿いを下ると人家が出てくる。以後は、沿道に集落が途切れることはほとんどなくなる。 |
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<街道の雰囲気> この付近ではまだ国道は狭いままだ。人家の軒先をかすめるようなこともある。沿道に木造の大きな二階屋なども見掛ける。古くは旅籠でも営んでいたのではないだろうか。越前と美濃を結ぶ街道として賑っていた頃の雰囲気が、ほんのりと感じられる通である。 根尾発電所を左手に見る付近から、国道は一時的にセンターラインがある二車線路となる。付近に人家は乏しく代わりに田畑が広がり、道の拡幅が可能だったようだ。人家が密集してくるとまた狭い道に戻る。 |
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国道改修と道の駅(余談) |
<門脇バイパス> 能郷と樽見との間の中間付近で、国道のルートが少し変更されている。根尾長嶺の集落を過ぎると、ぱっと道が広がる。門脇バイパスと呼ぶようだ。山際に快適な二車線路が通じている。これがかつての国道157号かと、何だか戸惑うばかりの立派な道だ。 |
![]() 旧道はより川に近い方に通じていた |
![]() 峠方向に見る 左へ旧道が分かれる |
<道の駅> 門脇バイパスの途中、道の駅「うすずみ桜の里・ねお」への分岐がある。旧道からも道が続いているようだが、その道の駅はやや山沿いで、国道から少し登った位置にある。 |
![]() 門脇バイパスを能郷方向に見る |
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道の駅周辺にはいろいろな施設があり、温泉や温泉ホテルも立つ。温見峠の峠道は長く、それでいて途中でトイレ休憩できる場所は皆無に等しい。そんな中、こうした道の駅の存在は貴重である。 |
![]() 西美濃の案内図 (撮影 2014. 7.28) (上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます) |
![]() 道の駅周辺の案内図 (撮影 2014. 7.28) (上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます) |
<旧国道(余談)> 旧国道の一部は、今は馬坂峠へと続く県道270号・藤橋根尾線になっている。馬坂峠に向かう場合、その部分を通ることとなる。県道270号は尾砂谷(おさごたに)の川を渡る前に分岐して行くが、旧国道は尾砂谷を渡り、門脇の集落内を行く狭い道として残る。 |
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![]() 能郷方向に見る 左に県道270号が分かれる |
![]() 現在は県道270号の一部 |
<県道270号(余談)> 尚、県道藤橋根尾線は古くは県道根尾今立線と呼んだ。岐阜バスが旧根尾村の中心地樽見を経て、旧徳山村の塚(つか)まで運行していた。旧徳山村は揖斐川 最上流の険しい地にあり、最寄りの市街地としては馬坂峠を越えたこちらの樽見であったようだ。後、揖斐川沿いの国道417号が整備され、また徳山村は徳山ダムに 沈んだこともあり、馬坂峠の道はあまり使われなくなったようだ。2014年7月に訪れた時は、馬坂峠の道は路側決壊の為とかで、全面通行止で通れなかった。 |
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![]() 左に県道270号が分岐(そちらが旧国道) |
樽見へ |
<樽見へ> 門脇バイパス以降の樽見側の国道も立派な道が続く。道路看板に「岐阜 39km 本巣市街 25km」と出てくる。 <根尾東谷川を渡る> 旧根尾村の中心地である樽見は、根尾西谷川と根尾東谷川が合流する付近に位置する。国道が根尾東谷川を渡ると、市街が左手に見えてくる。樽見から温見峠までは約32kmと道路看板にあった。 <国道418号合流> 樽見市街の南の端で、根尾東谷川沿いに下って来た国道418号が合する。ここで根尾西谷川沿いに下って来た峠道は、やっと終了である。 |
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![]() 樽見市街は近い |
![]() 看板に根尾東谷川とある |
![]() 本巣市街方向に見る |
![]() 能郷方向に見る |
樽見以南(余談) |
<根尾川左岸> 樽見以降、道は本流の根尾川左岸を行く。道路標識には「岐阜 36km 本巣市街 22km」と出ている。 ところで、根尾川沿いはどこの峠道になるのだろうか。国道157号がそのまま続いているので、温見峠の峠道とも言える。根尾川の本流(源流)は根尾西谷 川の方だそうで、また根尾東谷川の上流部(左門岳付近)には、それらしい峠が見当たらない。やはり温見峠の道がまだまだ続いているようだ。しかし、根尾川が揖斐 川に注ぐ地点まで下っていては切りがないので、話はここまでとする。今夜は大垣駅近くの安いビジネスホテルを予約した。図らずしも大垣市街は揖斐川への合 流点に近く、結局はそこまで車で走らなければならないのであった。 |
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それにしても難所の能郷〜黒津間が開通の運びとなって嬉しい限りだ。やはり峠道はその全線が走り通せないと面白くない。ただ、これまでも度々通行止になるのがこの峠道の宿命である。今後、どうなる事かは神のみぞ知る。 ところで、冠山峠は「冠山峠道路」の建設によって冬期も通行可能な立派な国道に生まれ変わろうとしている。昭和になってから越前と美濃を結ぶ本線の座にあった温見峠であったが、それに取って代わる勢いである。 一方、温見峠の方は、福井県側の雲川から熊河川に至る川沿いの道が大幅に改修されたが、それ以外はそれ程変わりはなさそうだった。復旧 工事が完了した難所の能郷〜黒津間も、相変わらず怖い道のままである。これからも以前の険しさを残したまま、細々と生き長らえてくれないかと思う、 温見峠であった。 |
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<走行日> ・1991.10.10 岐阜県 → 福井県 ジムニーにて (1994. 9.25 伊勢峠から麻那姫湖へ ジムニーにて) ・1995. 5. 3 福井県 → 岐阜県 ジムニーにて ・2001.11.11 福井県 → 岐阜県 ジムニーにて (大河原から猫峠へ) ・2007. 8.17 福井県 → 岐阜県 パジェロ・ミニにて (黒津から折越峠へ) (2014. 7.28 岐阜県側の能郷〜黒津を往復 パジェロ・ミニにて) <参考資料> ・角川日本地名大辞典 18 福井県 1989年12月 8日発行 角川書店 ・角川日本地名大辞典 21 岐阜県 昭和55年 9月20日発行 角川書店 ・ぎふこくナビ(http://www.cbr.mlit.go.jp/gifu/)の 峠関連ページ(http://sirokurage.s59.xrea.com/touge/minotouge.html)の温見峠の項(現在アクセス不可) ・県別マップル道路地図 21 岐阜県 2001年 1月 発行 昭文社 ・その他、一般の道路地図など (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒ 資料) <1997〜2014 Copyright 蓑上誠一>
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