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序 |
<武
道坂> 「武道坂峠」という峠はない。ただ、武道坂(ぶどうざか)と呼ばれる道があり、その道に峠がある。無難には「武道坂の峠」とでも書けばよいが、いつもの ことながら「何々峠」と題したいので、勝手に「武道坂峠」と書こうと思った。しかし、少しだけ遠慮してカッコ付きで「武道坂(峠)」としてみた次第であ る。 武道坂は小さな峠道で、現在は未舗装の林道が辛うじて峠に通じている。ところが、そのか細い道には不似合いな程立派な石碑が路傍に立っていた。後で知っ たのだが、この武道坂とは、坂上田村麻呂が征夷代将軍として東征したことに関係し、その配下の軍の進路となった道を後の世で武道坂と呼ぶようになったもの だそうだ。それ に関係した石碑であった。 個人的には、峠の旧東和町側に「東和町いこいの森」というキャンプ場があり、20年程前に一度そこに泊まったことがある。その時は東和町側から峠道の途 中にあるキャンプ場まで往復しただけで、その裏手の山にある峠は越えていなかった。そこで、峠越えを楽しみながら、いこいの森でももう一度見て来ようかと 思ってみただけのことだった。それが、坂上田村麻呂の東征に関係した道だったとは、恐れ入った。 |
奥州市側から峠へ |
<広
瀬川> 武道坂は現在の岩手県奥州市江刺区梁川武道坂にある。元の江刺市内だ。北上川の支流・広瀬川(ひろせがわ)の最上流部に位置する。東側の旧東和町(とうわ ちょう、現花巻市)との境に金成山(540m)があるが、広瀬川はその山を水源とし、旧江刺市内の梁川、広瀬、稲瀬、愛宕と貫流、北上川に注ぐ。武道坂の 峠は金成山の北西の肩に位置し、正に広瀬川源流の峠である。 <梁川> 武道坂を大きく包含する梁川(やながわ)という地は旧江刺市の最北に位置し、明治8年から昭和30年まで梁川村という村であった。成立は野手崎(のでさ き)、栗生沢(くりうざわ)、菅生(すごう)の3か村が合併したことによるそうだ。現在、それらの旧村域を明確に表す地図は容易に見付からないが、多分、 野手崎が最も上流の位置にあったのではないだろうか。 <野手崎> 江戸期から明治8年までは野手崎村があり、野手崎村宿とも呼ばれた。金成山などの山裾が長く伸びた先端を「野出先」と称し、後「野出崎」と書くようにな り、今では「野手崎」となったようだ。現在は地名として使われることが少ない様で、県道179号線沿いに「野手崎局」という郵便局が見られる程度だ。 |
少し寄り道 |
<国道107号から県道179号へ> 梁川の北部域である野手崎には、幹線路として国道107号が東西に通じていて、西の北上市街からこの道を来るのが近い。梁川に入ると県道179号・玉里 梁川線が交差する。以前は国道107号より南が県道玉里梁川線であった。国道より北は、東和町を通る JR晴山駅に至る道(晴山線)で、最近県道になったのだろう。 武道坂へは国道より分かれて広瀬川沿いを行く本線の道があるが、今回はちょっと変則気味に、その手前にある県道179号を北へ向かうこととする。 |
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国道を分かれてから700m程、西沢目というバス停を過ぎた先、右手に細い 道が分岐する。何の看板もないがそこに入る。すると、新しい陸橋が架けられていた(左の写真)。下に立派な道が建設中であった。現在は釜石自動車道が開通 しているよう だ。 |
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その先、小さな峠を越える。広瀬川の支流から本流へと尾根一つ越えるのだ。寄り道の目的はこの峠であった。ちょっとした峠でも一度は越えてみたいのであ
る。林の中を狭い砂利道が通じている。名もない峠で、峠道という程の距離もないのだが。 |
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広瀬川沿いへ |
<広
瀬川沿い> 小さな峠を下りだすと、林が途切れ、視界が広がった。前方に花巻市東和町との境を成す山並みが望める。そこにある峠から流れ下る広瀬川周辺に、素朴な農 村が形成されていた。川沿いには田んぼが多く、両側の山際に人家が点在する。 尚、広瀬川上流の正確な河川名は分らない(野手崎川という川もあるようだ)が、ここでは上流域まで広瀬川と呼ぶこととする。 |
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<東沢目> 広瀬川右岸に沿う本線の道に合流し、峠方向に進む。直ぐに集会所のような場所を過ぎる。路傍に周辺の地図が描かれた看板が立ち「東沢目」とある。 この付近の地区名としては武道坂とか柳沢、水上沢などを見掛けるが、「東沢目」というのは一般の地図に見ない。上記の地区名よりもう少し大きなくくりの ようだ。「沢目」というのは、川筋とでもいう意味だろうか。そう言えば西沢目というバス停があった。広瀬川の上流部は、こちらの武道坂の峠付近を源流とす る本流と、もう一筋、西の北上市との境に源を発する支流がある。それぞれの流域を東沢目、西沢目というのかとも想像する。野手崎とか東沢目とか、ある地域 を表す地名が残っていると、場所の特定がし易くてよい。これまでを整理すると、奥州市→江刺区(旧江刺市)→梁川→野手崎→東沢目→武道坂の順で峠の所在 が特定されてきた。 |
左に看板が立っている |
広瀬川沿いを行く |
広瀬川沿いを峠へと至る道は、東沢目の看板には「東沢目線」などとあり、峠近くは「武道坂」とある。暫くセンターラインもある直線的な道が続く。車社会と
なって、ここにも立派な車道を通したようだ。古くはもっと曲がりくねった細々とした道が通じていたことだろう。 この道を中心に、所々で左右に細い道が枝分かれしている。現在のこの立派な幹線路沿いには、かえって人家は少なく、それら枝道の先に人家が点在してい る。枝道のほとん どは東沢目内での生活路の役割が多く、外界との連絡路の役目は少ないのではないかと思う。 東沢目の地は周囲を小高い山や丘陵に囲まれ、「野手崎」の名の興りにもなったように、金成山方面からの山裾が緩い斜面を形成し、その中を広瀬川の流れが 一筋通じている。直線距離で約3km。多分、一日もあればこの集落の隅々まで見て回れるのではないかと思えたりする。そんな一目で見渡せる程の広さの東目 沢だが、ここだけで一つの独立した世界を形作っているかのようにも思えた。 |
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パトカーなどがそちらに向かって行った |
幹線路に合流した時、前方にパトカーや小型の消防車が4、5台の車列を成し てゆっくり進んでいた。追いつかないようにと、こちらもゆっくり車を走らせる。いつまで前を走っているのだろうかと思っていたら、途中、「奉納 月山」と 書かれた標柱が立つ道に曲がって行った。分岐に「名勝 月山堂」と案内看板もある。その道の先に神社でもあるようだ。消防車などは消防訓練でもする為だろ うか。かえって平和な光景に見えた。 |
この道はバス路線でもあるよ うで、「大岳」というバス停を見掛けた。そこを過ぎた辺りから、道はやや蛇行が多くなり、登り勾配となる。地図で見ると、バス路線はこの先にある「大岳高 齢者生きがいセンター」が終点のようだ。 |
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上り坂に |
幹線路といえども山並みを前に遂に細い坂道となった。周辺は棚田が多くなる。山際まで開墾されている。人家はまだポツリポツリと立っている。 |
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田畑の中にポツンと一軒、土壁の小屋が立っていた。農作業用にでも使用して
いるのだろうか、今ではなかなか見られない物だ。その小屋が立つ周囲はどこか懐かしい風景である。私が子供の頃には、近所にもまだこうした土壁の小屋や土
蔵なども残っていたと思う。 旅の面白さは、こうしたところにもあるとつくづく感じる。世間に名も知られない、観光地でも何でもない地をのんびり訪れている時に、かえって「旅」をし ているなと実 感する。東沢目はそんな集落である。 |
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<大岳温泉> 道はいよいよ狭く、屈曲も多く、勾配も増した。すると、左手の上に、ちょっとした近代的な建物が見えた。路線バスの終点にある「大岳高齢者生きがいセン ター」だと思う。地図によっては「大岳温泉」と出ている場所である。文献では大岳温泉は「開発はまだ行われていない」とあったが、生きがいセンターとなっ たらしい。 この辺りは既に住所地でいう「武道坂」である。 |
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大岳丸の石碑 |
<大
岳丸> 生きがいセンターへの道を左手に分けた分岐の角に、大きな石碑が立っていた。バス停などの名として残っている「大岳」の由来が、この石碑で明らかにな る。 |
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石碑には「大岳丸終焉の地」と大書され、その左脇に「古代エミシの将 大岳
丸伝説」と書かれた説明文が立っている。 坂上田村麻呂の東征では辛うじてアテルイの名を知り、神坂峠など古代東山道が越えた峠に関わる僅かな知識があるだけである。この大岳丸は初めて知る。 「おおたけまる」または「おおだけまる」と呼び、「大岳丸」、「大嶽丸」あるいは「大武丸」とも書くようだ。大岳丸はこの野手崎で討死したとのことで、こ こに「大岳」の名や「武道坂」の名が残った。 |
尚、大岳丸の一子人首丸は、
大森山で討死したと説明文にある。現在の奥州市(旧江刺市)の米里(よねさと)の地は、かつては人首(ひとこうべ、ひとかべ)と称したそうだが、これも人
首丸という人物にちなんだものだった。 大岳丸の石碑の前を過ぎ、沿道に建つ人家の軒先をかすめると、もうその先に家屋らしい家屋は見当たらない。細い舗装路が山裾を縫って登っている。直ぐに 細い流れの広瀬川(上流部)を左岸に渡る。 |
この後、人家が途切れる |
この先広瀬川を渡る |
この先で未舗装に |
砂利道に |
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砂利道が始まった。その先、道は林の中へと入って行ってしまう。振り返ると 麓方向に棚田が下るのが 望める(下の写真)。これが東沢目の見納めである。1200年も前の昔、ここにエミシの悲しい歴史があった。今は、のどかな山里が広がるばかりだ。 |
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砂利道になってから峠まで約800m、それ程長い道程ではない。ただ、あま り使われた様子はなく、寂れた感じがする。しっかり砂利が敷かれて整備された所もあれば、草や枯葉に覆われた所もある。視界は全く広がらず、閉塞した雰囲 気である。 |
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法面が崩れかけている |
路面に枯れ草が多い |
林道武道坂線 |
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未舗装になって半分ほども登って来ると、林道標柱が立っていた。「林道 武
道坂線」とある。古代の武道坂に車道を開削した折、名付けられたのであろう。 「武道坂」の様に「何々坂」と呼んだ時、単なる坂道を指す場合もあるが、峠道全体を指し示すことも多い。稀に、峠の名であることもある。ただ、この武道 坂の場合は、峠の奥州市側の坂道を指しているようで、少なくとも峠を示したものではない。峠及び峠の花巻市側は、武道坂としての意味合いは弱そうに思え る。 |
<溜池> 道は未舗装になる前に広瀬川の左岸に移っていたが、途中で道の左手に溜池が現れる。広瀬川の最上流部に位置し、こんな山の中にと、ちょっと不気味な感じ がする池だ。緑の藻か浮き草が一面に漂い、林の中に静まり返っている。 この池は主にかんがい用水を目的にした物だと思う。梁川の地では、峠の花巻市側に流れる猿ヶ石川からも導水し、台地・傾斜地に開田を行ったそうだ。田を 潤す水は重要である。 |
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空が近くなって来た |
峠の奥州市側は比較的地形が穏やかで、峠の少し手前から空が開けてくる。沿 道にちょっとした広場があったり、山の斜面一面にススキが群生していたりする。相変わらず遠望はないのだが、峠を前にかえって開放的な雰囲気に変わった。 道もつづら折りなどはなく、素直な坂道を登って行く。 |
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峠 |
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峠も、奥州市側から見ると明るく穏やかな様相である。南の金成山より下る稜線上のちょっとした鞍部に位置する。ただ峠のどちら側にも眺望はない。峠の左右
は静かな木立で囲まれている。 |
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この峠に人工物は少ないが、峠の花巻市側に何かの看板の跡と、朽ち掛けたトイレがあった。この道の下に「東和町いこいの森」があるが、その関連施設として
「林
間歩道」が設定されている。この峠がその歩道の北側の入口となっているようだ。その為の看板やトイレだったのだろう。いこいの森に宿泊した折は、キャンプ
場はそれなりに賑わっていた。かれこれ20年前のことだが、その後寂れてしまったのだろうか。 |
看板跡と朽ち掛けたトイレ |
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<峠のトイレ(余談)> それにしても朽ちたトイレは何ともみすぼらしい。これが現役であった頃でも、あまり使いたいとは思われない代物だったろう。余談だが、こうしたトイレを 見ると尾平越(おびらごえ)のことを思い出 す。その峠にもこれに似た現役のトイレがあって、妻が使用した。そのことは彼女にも印象的であったようで、峠の名前は忘れても、時々そのトイレのことだけ は思い 出すようであった。 トイレとは車道の反対側に、稜線上を南に登る山道が始まっていた(右の写真)。金成山へと続く林間歩道であろう。何の案内看板もないが、赤いテープが所 々の木の幹に 巻かれていた。 |
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峠の花巻市側は暗い林の中を 急坂が下っている。一転、地形は険しそうだ。植生もやや異なるように見えた。奥州市側は落葉樹を含めた雑木林が多く、花巻市側は常緑の杉が多いようだっ た。 |
花巻市側に下る |
<花巻市側の道> 道は荒れていると言う程ではないが、路面上には枯葉が多く、こうした未舗装の林道走行に慣れていないと、ちょっと尻込みしそうな道ではある。但し、我が 妻 は何でもない。平然とハンドルを握っている。しかし、朽ち掛けたトイレを見たこともあってか、また例の生理現象を催してきたようだ。どうも峠道にはその点 が適さない体質のようだった。 |
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<またトイレ> 道は険しい地形に屈曲を繰り返しながら下る。一つのカーブの角にまた朽ちたトイレがあった。どう言う訳か、洗濯機のような物も並んで置かれている。 この道は、この下にあるキャンプ場から林間歩道へと続く歩道も兼ねているようであった。それでトイレの設置も行われたのであろう。 |
<いこいの森の看板> やっと東和町いこいの森の看板が残っていたと思ったら、タバコの火の不始末などを注意する物だった。付近の案内図でも掲載されていると良かったのだが。 それにしてもその看板は朽ち果てていて、読める文字はもういくらもなかった。 道は高い杉の林に囲まれ、視界は広がらないが、時折、低い雑木林の中も抜ける。その時ばかりは初冬の淡い陽射しが路面に降り注ぎ、なかなかいい雰囲気で ある。 |
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いこいの森 |
沿道が開けた所に出たと思うと、バンガローやテントを張るウッドデッキなどが沢山並んでいた。いこいの森の上端に差し掛かったようだ。道はもう一曲がりし
てキャンプ場の正面へと向かう。 |
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もう一曲がり |
この先右手にキャンプ場 |
手前が峠 右はキャンプ場へ登る道 |
<舗装路> 正面に舗装路面が出て来る。そこを右手に登る道があるが、それがいこいの森のキャンプ場へと続く。下を通る県道からこのキャンプ場までは舗装済というこ とだ。 |
<キャンプ場正面を過ぎる> 道は舗装になって右手上にキャンプ場を見て過ぎる。車道からは階段が設けられていて、登ると管理棟やトイレ、フリーのキャンプ サイトがあり、更に上へと敷地は続く。 階段の脇の路肩には、利用料金が示された看板がまだあった。値段はリーズナブルである。利用協力金として大人一人200円に、持ち込みのテント一張 300円とある。以前とほとんど変わりがないのではないだろうか。昔の写真を眺めると、階段脇に飲み物の自販機があったのが、今はなさそうである。 |
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夕食も質素だ。暖めるだけで食べられるご飯のパックとレトルトカレーなどの具材の袋を一緒にアルミ鍋の水に浸し、ポケットコンロの火で気長に暖める。それ
に即席のわかめスープでもあればいい方である。 日が落ちればさっさとテントに入り、ローソクを2本ほど灯し、シュラフに寝転びながら、その日の旅の工程をツーリングマップに記したり、翌日の予定を検 討したりする。コンビニなどで紙パックのコーヒー牛乳(これが好物)でも買って来てあれば、それをちびちび飲む(アルコールは全く受付けない体質)。間 違っても割高な自販機などを使うことはない。 そして夜9時頃には寝てしまう。 翌日は早起きだ。まだ他のキャンパーが寝ている間にごそごそと起き出し、出発の準備をする。ラーメンを煮ては、アルミ鍋に入ったままですすり、魚肉ソー セージでもかじりながら朝食も済ませる。 一人、二人とキャンパーがテントから這い出して来る頃には、もうジムニーのエンジンをかけ、その日の旅に出発である。あっけない一夜である。 その頃は、バイクや車があり、それに会社の休暇さえあれば、日本のどこでも旅ができるように思えていた。野宿をすれば、お金などほとんど要らない。実 際、休みの度に日本中を走り回る生活をしていた。旅先でちょっと体調を崩しても、一晩テントの中でぐっすり眠れば、旅を続けられるだけの体力は回復した。 今思うと、それは幸せなことだった。貯金もある程度貯まってサラリーマンを早期退職し、好きな時に旅に出られる身になったのだが、今度は体がいうことを きか ない。病持ちになり、もうあのようなテント泊などには到底耐えられそうにない。元々体は丈夫な方ではなかったが、それでも若い内は旅に際して体を気遣うこ となどなかった。今は、一にも二にも、体調である。サラリーマンとしての時間の束縛はあったが、あの頃の自由さがうらやましく思えてならないこの頃であ る。 |
キャンプ場以降 |
キャンプ場からは舗装路であるが、道幅は相変わらず狭く、対向車などがある と厄介だと、かえって心配させられる。沿道にはいこいの森の関連施設のような建屋がポツポツと見られる。別荘などもあるかもしれない。 |
家屋が点在する |
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道は尚も急坂を蛇行しながら 下る。樹間から僅かに湖面がのぞいた。北上川の支流の一つ、猿ヶ石川を堰き止めた田瀬ダムによる田瀬湖である。猿ヶ石川の上流部は「遠野物語」で 知られる遠野市にあり、河童伝説などを残す川でもある。中流域に造られた田瀬ダムは、北上川五大ダムの一つとのこと。氾濫の被害が多かった北上川水系にあ り、治水の役割が大きい。道はその湖畔に向かって下っている。斜面は急で、支流らしきものは見られない。 |
蛇行しながら下る |
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いこいの森キャンプ場は、湖が見える立地、というのがうたい文句だったようだが、現在は樹木が育ってしまったせいか、あまり湖は望めない。峠の奥州市側に
は東沢目の集落があり、山際まで棚田が築かれていたが、こちらの花巻市側には峠道の沿道に人家は全く見られない。それでも、途中からは段々畑などが散見さ
れ、人の暮ら
しが感じられるようになる。 |
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湖畔沿いの県道へ |
東北の紅葉の季節はもう過ぎたろうが、それでも沿道に所々に色付いた木々を楽しみながら道を下る(下の写真)。 |
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峠道が突き当たった県道は県
道178号・下宮守田瀬線で、それを左に行けば田瀬ダムへと通じる。そのダム堰堤近くに管理庁舎や展望台などがあるが、その中の施設の一つに「ものしり
館」というのがあった。これまで二度ほどお邪魔している。案内パンフレットやポケットティッシュを頂いたことがある。 こうした施設に寄り道するようになったのは、妻と一緒に二人旅をするようになってからである。一人の野宿旅の時は、見向きもしないで素通りである。もっ と先へ先へと旅を進めたい気持ちで一杯であった。それに、野宿旅を続けるみすぼらしい身なりの男一人、あらたまってそんな施設にノコノコ入るのは、かなり 抵抗があるのだ。その点、最近は人間が少しずうずうしくなって、ものしり館からポケットティッシュも頂いて来る。 |
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武道坂の峠は小さな峠道だが、棚田の広がる素朴な集落が佇んでいたり、エミシの哀れな歴史を残していたり、一転、風光明媚は田瀬湖に至ったりと、意外と面
白い峠かもしれない。できれば、いこいの森で妻と二人の「キャンプ」でも楽しめれば更によいのだが、もうテントを使う機会は一生ないかと我が身を思う、武
道坂の峠であった。 |
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<走行日> ・1994. 8.14 旧東和町(現花巻市)側のいこいの森キャンプ場で宿泊 ジムニーにて ・2012.11. 4 奥州市 → 花巻市 パジェロ・ミニにて <参考資料> ・角川日本地名大辞典 3 岩手県 昭和60年 3月 8日発行 角川書店 ・その他、一般の道路地図など (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒ 資料) <1997〜2014 Copyright 蓑上誠一>
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