ホームページ★ 峠と旅
仮称  文後峠
  ぶんごとうげ  (峠と旅 No.297)
  旧勢和村の濁川水域に越える峠道
  (掲載 2018.11. 6  最終峠走行 2018. 5.24)
   
   
   
文後トンネル (撮影 2018. 5.24)
トンネル手前は三重県多気郡多気町車川
トンネルの反対側は同町朝柄
道の名は不明 (多気町の町道?)
トンネル坑口の標高は約180m (地形図の等高線より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
何でもないトンネルの峠
 
 
 
   

<文後峠>
 1985年3月竣功の文後トンネルで抜ける峠だ。文献(角川日本地名大辞典)発行後の開通で、このトンネルに関する情報はまるでない。「文後」という名の由来も、「ぶんご」と読むかどうかも不明である。
 
 文後トンネルが記される前の古いツーリングマップには、一部分の道筋さえ全く描かれていなかった。 しかし、同じ村内の集落同士を繋ぐ峠道として、トンネル開通前から何らかの道が通じていた可能性は高い。表題の「文後峠」は全くの仮称だが、もしかすると本当に文後峠という峠がかつては存在していたかもしれない。そんな淡い期待をさせられる。

   

<所在>
 峠道は概ね南北方向に通じ、峠の南側は三重県多気郡(たきぐん)多気町(たきちょう)車川(くるまがわ)で、北側は同町朝柄(あさがら)となる。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<水系>
 峠は大きく宮川(みやがわ)水系と櫛田川(くしだがわ)水系の分水界に位置する。細かくは、宮川支流・濁川(にごりがわ)と櫛田川支流・朝柄川(あさがらがわ)との分水界上である。

   

<立地>
 当峠は多気山地(たきさんち)内にあると言えそうだ。三重・奈良の県境となる台高山脈(だいこうさんみゃく)のほぼ中央に池木屋山(1396m)がそびえる。 「池小屋山」とも記され、「いけのきややま」、「いけごややま」、「いけこややま」、「いけのこややま」などとも呼ばれる。この山を西端とし、東方へ派生したのが多気山地だ。 その稜線を越える峠として、湯谷峠相津峠を続けて掲載した。
 
 文献(角川日本地名大辞典)によると、多気山地は「櫛田川水系と宮川水系の分水界をなし、飯南郡と多気郡の郡境になる」としている。水系の観点からは、今回の峠はまさしく多気山地の主稜を越えていることになる。
 
 一方、郡境の観点では、飯南郡(いいなんぐん)とはかつての飯南町(いいなんちょう)と飯高町(いいたかちょう)の2町で編成されていた。 現在、どちらの町も松阪市(まつさかし)に含まれ、もう飯南郡という呼称は使われないのかもしれない。旧飯南郡飯南町と多気郡多気町との境には国道368号・和歌山別街道の桜峠がある。 文献ではこの峠を多気山地の峠としている。ただ、桜峠の峠道は全て櫛田川水系に属する。水系からすると文後トンネルが、旧郡境からすると桜峠が、多気山地の峠ということになるようだ。

   

<旧勢和村>
 今回の峠道は元の多気町と合併する前の多気郡旧勢和村(せいわむら)にある。櫛田川沿いとその支流の朝柄川水域、及び宮川支流・濁川中・上流域に村域は広がっていた。 勢和村より西に位置する三重県の市町村は全て、宮川水域か櫛田川水域かのどちらかに分かれていたのに対し、勢和村はそのどちらの水域にも属していた。 日本屈指の多降水域と知られる台高山脈の三重県側に降った雨は、宮川と櫛田川がほぼ二分する。その二河川ともに関係する村であった。
 
 多気山地西端の池木屋山は1,396mと高いが、東に進むに従い多気山地は高度を減じ、桜峠(旧飯南町・勢和村の境)で標高約160m(文献では155m)、文後トンネル上部の鞍部で199mと低くなる。勢和村はもう多気山地が尽きる東端の地と言える。

   
   
   
勢和多気ICより峠へ 
   

<勢和多気ICより>
 伊勢自動車道を勢和多気ICで降り、国道42号から国道368号へと入る。今は伊勢自動車道・紀勢自動車道が開通して、東京方面からも自動車道のみを走り繋いで容易に紀伊半島内に入り込むことができる。
 
 勢和多気ICを降りた時は既に旧勢和村に入っているようだ。国道368号に曲がってからは旧勢和村の大字色太(しきふと)である。宮川支流の濁川左岸沿いだが、まだ近くに川は見られない。

   

国道368号を桜峠方面に進む (撮影 2018. 5.24)
左手に旧道が分かれるが、車は入れない

<国道368号>
 
紀勢自動車道の高架をくぐって暫く行くと、左手に国道368号の旧道が分かれて行く。車では入れないようだ。かつて一度くらいは走ったかもしれないが、そんな昔の旅の一場面など、覚えている訳はない。改修後の国道368号はりっぱな二車線路である。

   

<和歌山別街道>
 この国道368号は「和歌山別街道」と呼ばれる。同じ意味で「紀州別街道」とも呼称される。単なる和歌山街道ではなく「」が入ることが肝心のようだ。道路地図によってはこの「別」が落ちた誤植を見掛けることがある。
 
 和歌山街道は和歌山と松阪を結ぶ。ほぼ現在の国道166号に相当する。途中には難所の高見峠越えがある。 一方、和歌山別街道は旧飯南町(現松阪市)粥見(かゆみ)で和歌山街道から分かれ、櫛田川を右岸に渡り、桜峠を越え、旧勢和村内の朝柄川沿いを下り、丹生(にう)・佐奈を通り、野中で熊野街道と合して田丸城(三重県玉城町田丸)に至るルートとのこと。ほぼ粥見以東の国道368号がそれに相当する。


旧道と並走する国道368号 (撮影 2018. 5.24)
   

<国道368号の旧道へ>
 このまま国道を行くと櫛田川水系に入ってしまうので、一先ず旧国道へと入る。そこに看板が出ている。行先は車川(くるまがわ)と看板にある。

   

左に分岐 (撮影 2018. 5.24)

分岐の看板 (撮影 2018. 5.24)
行先は車川(くるまがわ)
   

<分岐の様子>
 分岐する道は新道と旧道を結ぶ為に新たに設けられたようだ。分岐に立つ大きな看板に「勢和台テニスコート 指定取扱所 やまげん」とある。肝心なのはその横に立つ看板で、「色太、土屋、車川」と行先が案内されている。

   
分岐の様子 (撮影 2018. 5.24)
   

<色太・土屋・車川>
 ここから先の濁川水域には、下流側から色太(しきふと)・土屋(つちや)・車川(くるまがわ)の3大字が並ぶ。ほとんどが本流の濁川沿いに集落を形成している。最上流部の車川は旧飯南町・大台町と境を成し、その山地を源として濁川が発している。
 
<五ケ谷>
 色太・土屋・車川とも江戸期は村で、明治22年に周辺7か村が合併して五ケ谷村(ごかだにむら)が成立し、その大字となっている。その後、五ケ谷村と丹生(にう)村が合併して勢和村となった。「勢和」という地名は公募350の中より選ばれたそうだ。「南勢の「勢」と和やかの「和」を結び、勢よく和するという意をこめた勢和に決定された」と文献にある。
 
 「五ケ谷」の由来は、「櫛田川のいくつもの支流が谷をつくり、古くから五つの谷と呼ばれていたため、五ケ谷と名付けられた」と文献にある。和歌山別街道も五ケ谷に通じていたとあった。また、「勢和村一帯は古来五ケ谷と称していた」と文献は記す。ただ、宮川水系の濁川沿いは本来は五ケ谷には含まれないのではないだろうか。五ケ谷村ができた時に一緒になったように想像する。

   

右に旧国道が分かれて行く (撮影 2018. 5.24)

<旧国道分岐へ>
 旧国道に入ったものの、直ぐに旧国道は右に分かれて新道へと向かう。そこを直進方向に分かれるのが元々の車川方面へと続く道だ。県道でも何でもない。
 
 国道368号などこの周辺の道は何度も通ったことがあるが、ここから先の濁川水域は今回初めて足を踏み入れる。文後トンネルという小さな峠道を越えるだけが目的だ。しかし、初めての地に足を踏み入れるのは、何となくワクワクする。

   

<色太集落内>
 暫くは色太の集落が引き続いて沿道に広がる。濁川の中流に位置し、平坦地はまだ多い。人家は密集することなく、比較的閑散としている。人家の間を埋めるようにして水田が広がる。茶畑の様な耕作地も見える。
 
 旧勢和村の役場などがあった中心地は、幹線路の国道368号が通じる朝柄川沿いの朝柄(あさがら)である。色太などが立地するこの濁川水域は、多気山地で隔てられている。道は快適な2車線路だが、周囲にはのどかな景色が広がる。この道を旅する者は少ないことと思う。

   

<濁川>
 色太の集落も終わり掛けた頃、濁川(にごりがわ)を渡って少しの間右岸沿いになる。これまで遠い存在だった濁川がやっと近くに見られるようになった。この川の名は、「ふだんは清流であるが少しの降雨でも濁るので名づけられたという」と文献にある。
 
 橋の袂を色太集落方向に見る看板に「色太」と出ていた。大字色太の範囲はもう少し上流側に伸びるが、実質の色太集落はこの橋より下流側になるようだ。
 
 道は概ね西に向かう。遅い午後の陽射しが丁度正面から差し込み、写真は逆光になってうまく写らない。その点、車の後方に付けたドラレコはきれいな画像を残してくれた。「色太」の看板も、ドラレコが捉えていた。


濁川を渡る (撮影 2018. 5.24)
   
色太集落方面に見る (撮影 2018. 5.24)
「色太」の看板が立つ
橋の銘板には「濁川」とある
   

<再び左岸へ>
 右岸を200m余りも行くとまた橋を渡って再び左岸に戻る。この区間を除くと、車川集落までの道は終始左岸沿いとなる。しかも、元々はこの2つの橋を渡らず、ずっと左岸沿いを通る旧道があったようで、その名残が今でも見られる。

   

この先の橋で左岸に戻る (撮影 2018. 5.24)

左岸に戻った所 (撮影 2018. 5.24)
リアのドラレコで色太集落方向に見る
左岸沿いの旧道が左に分かれる
   
   
   
大字土屋 
   

太陽光パネルが並ぶ (撮影 2018. 5.24)
(色太集落方向に見る)

<大字土屋>
 道の南側に太陽光パネルが大々的に並んでいる。その辺りから大字土屋(つちや)になる。

   

<土屋集落>
 濁川の谷が再び広さを見せ、沿道には水田が広がりだす。しかし、色太程の広がりはもうなさそうだ。その先には土屋集落が人家が見えて来る。


土屋集落へ (撮影 2018. 5.24)
   

<県道に接続>
 それまで2車線幅をキープして来た道が、小さな十字路を境に極端に狭くなる。角に立つ看板では、直進が「車川」、右折する方向は「古江・朝柄」とある。

   

県道に接続する十字路 (撮影 2018. 5.24)
右が県道を古江へ

十字路に立つ看板 (撮影 2018. 5.24)
   

<県道429号>
 十字路周辺には県道標識など見当たらないが、道路地図ではここで県道429号・佐原勢和松阪線に接続したことになる。その県道は、右手の古江(ふるえ)方面から来て、この十字路で曲り、車川方面へと続く。
 
 その名が示す通り、櫛田川左岸の旧松阪市の市域を起点とし、旧勢和村の古江や土屋などを経由、濁川をどこまでも遡って大台町との境も越え、大台町の佐原(さわら)へと至る。佐原では相津峠の道とも重複する。但し、多気町と大台町の境で道は途切れている。

   

十字路の様子 (撮影 2018. 5.24)
電柱の足元に道標らしき石碑が立つ
かつてはのどかな辻であったのだろう

十字路の看板 (撮影 2018. 5.24)
手前方向は「色太・R42」
   

<佐田郷峠(余談)>
 ところで、文献では、「昭和34年古江と土屋を結ぶ佐田郷峠の拡幅付替工事が完成して交通が便利となった」と記している。県道429号は古江と土屋の間で、櫛田川と宮川の分水界を越えている。僅か標高110mの低さだが、峠は峠である。その県道429号が越える峠を佐田郷峠と呼ぶようだ。

   
十字路を色太方向に見る (撮影 2018. 5.24)
手前が車川方面
   

<文後トンネルの役割>
 佐田郷峠にも車道が通じ、今では濁川沿いと櫛田川水域との車の行き来は容易だ。しかし、これより上流側は県道429号が未開通で、以前はどこにも抜け出ることができなかった。 それが文後トンネルの開通で、やっと抜け道が一本通じたことになる。文後トンネルの峠道はそういう位置付けである。その道の開通がなかったら、濁川水域の旅もしなかっただろう。

   
   
   
県道429号以降 
   

<土屋集落>
 車川方面への県道429号に乗る。濁川沿いの道がこの狭い県道になってから土屋集落の人家が多く並びだす。 江戸期の土屋村は、「谷あいの村であるため周辺村々との往来は少なく、また五ケ谷地域では戸数・人数が最も少なかった」と文献は記す。 しかし、それ程山が迫って来ている訳ではなく、まだまだ開けた谷間である。 それでも、南には宮川本流との分水界となる山が連なり、北には櫛田川水系とを分かつ多気山地がそびえ、閉ざされた地であることは変わりない。佐田郷峠の改修も昭和の中頃というから、かつては周辺の村々とを結ぶ交通も不便であったのだろう。


土屋集落の様子 (撮影 2018. 5.24)
(色太方向に見る)
   

左手に菅河内橋 (撮影 2018. 5.24)

<沿道の様子>
 濁川沿いに立地する色太・土屋・車川の3か村は「三養地区」とも通称されたそうだ。その三養地区で明治9年に小学校が創設された。多分、土屋集落の中に置かれものと思う。ただ、現在の地形図には小学校のマークは見られない。
 
 土屋集落の主要部は500m程で過ぎ、沿道からは人家が減って行った。その後、左手の濁川に菅河内橋が架かっている。比較的立派な橋で、それを渡った右岸に平地が多いようだ。土屋集落の後半は右岸側が発達しているらしい。

   

<大字車川>
 菅河内橋の前を過ぎ、数100m行くと、地図上では大字車川(くるまがわ)の地ということになる。これまでにない狭い谷間が800m程続き、再び開けたところでやっと「車川」という看板が出て来た。

   
右手に「車川」の看板が立つ (撮影 2018. 5.24)
   

<下津又川>
 看板の直ぐ後に、左手の川を渡る道が分岐する。橋には「車川橋」とあるが、川の名は濁川である。分岐する道は濁川の支流・下津又川沿いに遡るようだ。昭和42年に「林道車川下津又線」が開通したと文献にあったが、その林道だろうか。下津又川のかなりの上流部まで登っているようだが、やはり宮川本流との分水界を越えることはないようだ。ただ、徒歩道は越えて行く。

   

左に車川橋 (撮影 2018. 5.24)

橋の袂に「車川橋」とある (撮影 2018. 5.24)
   

左に中津又川沿いの道が分岐 (撮影 2018. 5.24)

<中津又川>
 車川橋から300m程で、今度は中津又川という支流が流れ込んでいる。その川沿いに遡る道が分岐している。

   

<上津又川>
 濁川本流の上流部は上津又川と呼ぶ。その川に中津又川・下津又川という支流が相次いで注ぎ込んでいる。少なくとも下津又川以降は濁川と呼ぶものと思うが、正式にはどこから濁川なのかはよく分からない。

   
中津又川沿いに分岐する道を見る (撮影 2018. 5.24)
   

<車川集落の様子>
 中津又川沿いの道を分けると、県道は川沿いからやや離れ、集落の中を屈曲しながら通る狭い道となる。濁川の谷も狭まり平坦地が少ない為か、斜面を切り開いた石垣も見られるようになった。

   
車川集落の様子 (撮影 2018. 5.24)
(土屋方向に見る)
火の見櫓が立つ
   

<車川村>
 文献では江戸期からの車川村について、「土地が狭く、山が多いため、主として山仕事・炭焼きなどで生計をたてた。住民は、谷の外に出ることも少なかった」としている。土屋と同様、ここでも濁川水域に留まってひっそり暮らしていた村人の様子がうかがえる。

   
車川集落の様子 (撮影 2018. 5.24)
(土屋方向に見る)
徐々に斜面が多くなって来た
   
   
   
峠道分岐 
   

右に文後トンネルへの道が分かれる (撮影 2018. 5.24)

<峠道分岐>
 車川集落も終わり頃になって、路面にセンターラインが出て来た。すると沿道の人家がパッタリ途切れ、その先右に分岐がある。それが文後トンネルへの峠道となる。一方、分岐から先の県道を見ると、傍らに「この先 通行不能 三重県」と看板が立っていた。

   
分岐より県道の続きを見る (撮影 2018. 5.24)
「通行不能」の看板が立つ
   

<通行不能>
 県道429号は分岐より更に3.4Km程上津又川(濁川の上流)沿いを遡るが、その先は通行止となるようだ。どちらにしろ車道は大台町側には越えない、行止りの道である。
 
 こうした峠部分が車道未開通の路線には、しばしば「通行不能」の看板が立っている。元々峠道が通じていたのだが、車道の開削には至らず、現代の車社会から取り残された峠道たちである。 この「通行不能」の看板を見ると、何故か心惹かれる思いがする。峠道の哀れさを感じさせられる。
 
 文献では県道佐原勢和松阪線いついて、「大台町・勢和村境で拡張工事が進んでいる」としているが、一向に開通する気配はない。


通行不能の看板 (撮影 2018. 5.24)
   

<庄司峠の通行不能(余談)>
 この付近で他には、庄司峠(しょうじとうげ)が同様の運命である。湯谷峠を越えた国道422号が更に北上する時に越える松阪市と津市との境にある峠だ。 正確には、旧飯南郡飯高町の赤桶(あこう)と旧一志郡美杉村の丹生俣(にうのまた)との境になり、元の主要地方道嬉野飯高線のルートであった。1996年に美杉村から向かったが、「通行不能」の看板を見て引き返した。その後20年以上が経つが、この庄司峠も開通する様子はない。

   

旧美杉村から庄司峠へ向かう国道422号 (撮影 1996. 1. 3)
通行注意の看板には次のようにあった
この先丹生俣で・・・
飯高方面には
通行不能です。



通行不能の看板 (撮影 1996. 1. 3)
   

<甲子峠の通行不能(余談)>
 バイクや車で辺ぴなと峠道を旅するようになって、初めて「通行不能」の看板を目にするようになった。最初は物珍しかった。かつての甲子峠の通行不能は特に印象的であった。福島県下郷町側から峠に向かうと、頭上にデカデカと看板が出ていた。実際にも暫く行くと国道289号は通行止となり、先へは進めなかった。
 
 ただ、甲子峠は全くの通行不能ではなかった。未開通の国道289号に代わって林道甲子線が峠を越えていた。その道を使って西郷村側からは峠まで辿り着くことができた。しかし、すごい悪路だった。
 
 いつか下郷町側も通りたいと思っている内に、甲子トンネルが開通してしまった。休日には多くの行楽の車が行き交い、特にバイクが目立った。沿道にできた道の駅・しもごうも行楽客で賑わっていた。 通行不能時代からすると、隔世の感がある。その一方で、甲子峠へと続く旧国道は完全に通行止となっていた。これで下郷町側から峠に辿り着くという希望は断たれてしまった。これはこれで寂しい気がする、通行不能であった。

   
かつての甲子峠の「通行不能」 (撮影 1997. 8.10)
福島県下郷町側
   

<分岐から先の県道429号>
 文後トンネルへの道を分けた後の県道は、正に寂しい雰囲気だ。500m程は県道と上津又川とに挟まれた平坦地に田んぼが続き、その作業道的な役割を担うものと思う。しかし、その先の上津又川の谷は狭く、沿道に耕作地などありそうにない。林道の様な道が続くようだ。

   
分岐から先の県道の様子 (撮影 2018. 5.24)
侘しい雰囲気
   

<県道標識>
 ただ、これまでほとんど見掛けなかった県道標識がこの分岐にはしっかり立っている。面白いことに車川集落方向に見る標識もある。これを見る人は滅多に居ないことだろう。「多気町」の文字だけ新しいが、これは勢和村を修正した跡のようだ。

   

上流側に向く県道標識 (撮影 2018. 5.24)

下流側に向く県道標識 (撮影 2018. 5.24)
   

<分岐の様子>
 分岐の角は、小さいながらもちょっとした園地の様になっている。車を停めて一休みするのに丁度良い。

   
分岐を車川集落方向に見る (撮影 2018. 5.24)
左に文後トンネルへの道が分かれる
   

文後トンネルへの道を見る (撮影 2018. 5.24)

案内看板 (撮影 2018. 5.24)
   

<看板>
 文後トンネル方向の道には、「国道368号線 2Km、朝柄 2Km」などと案内看板や道標が立つ。

   

分岐の様子 (撮影 2018. 5.24)

分岐に立つ道標 (撮影 2018. 5.24)
   

<石碑>
 この分岐では大きな石碑が目を引く。開通記念碑の類かと想ったら、「航空戦士敬華之碑」とあり、慰霊碑の様だった。

   

大きな石碑が立つ (撮影 2018. 5.24)

文後トンネル方面より分岐を見る (撮影 2018. 5.24)
   

文後トンネル方面から見る看板 (撮影 2018. 5.24)

文後トンネル方面から見る道標 (撮影 2018. 5.24)
   

<文後トンネルへの道>
 県道から分かれて文後トンネルへと登る道は、狭いものの新しそうなアスファルト道が延びていた。

   
文後トンネルへの道 (撮影 2018. 5.24)
   
   
   
文後トンネルへ 
   

文後トンネル方面より分岐を見る (撮影 2018. 5.24)

<道程>
 文後トンネルを越える道は、通行不能の県道429号に代わり、この濁川上流域から外界へと抜け出す貴重な車道となる。ただ、道程は短く、国道368号に至るまで僅かに2Kmだ。
 
 一方、国道368号から分かれてこの分岐に至るまでも約5.3Kmで、車なら何でもない距離である。 かつては村からあまり外界へと出なかった住民にとっても、今の車社会ではほとんど通行に支障はないだろう。それでも、濁川下流側にしか出入口がないのは万が一の場合を考えると不安である。その点、濁川水域にとって裏口の様な存在の文後トンネルでも価値は十分にあると思える。

   

<峠への登り>
 慰霊碑の脇で飲み物を飲んだりして10分程休憩し、いよいよ文後トンネルへの登り坂を進む。旅には余裕が肝要だ。
 
 地形的には濁川沿いを分かれてからが文後トンネルの本来の峠道と言える。しかし、県道429号は未開通であり、濁川最上流部を越える車道の峠は文後トンネルということになる。その意味では、ここまでの濁川沿いも文後トンネルの峠道の範疇と言えなくもない。
 
 道は文後トンネルと共に開削された新しい車道と思われ、沿道には古くからの物は見当たらない。濁川左岸のやや急な崖を斜めに登って行く。


道の様子 (撮影 2018. 5.24)
   

左手に何かの施設 (撮影 2018. 5.24)

<水道施設付近>
 文後トンネルの車川側の道は600m程しかないので、あっと言う間に頂上近くまで登って来てしまう。すると、金属製の建物が佇んでいた。多分、上水道の施設だと思う。 その付近でやや視界が広がる。濁川対岸の景色を望む。見えているのは中津又川との境となる尾根だと思う。宮川との分水界までは見えて来ないようだ。

   
濁川対岸の景色 (撮影 2018. 5.24)
   

<水道施設以降>
 水道施設らしい建物を過ぎると、道は朝柄川との分水界へとなる山の中へと入って行く。

   
水道施設方向を振り返る (撮影 2018. 5.24)
   

<旧道>
 地形図を見ると、水道施設の裏手辺りに濁川沿いから直登して来る道が描かれている。文後トンネル開通以前にもここに峠道が通じていたのではないかと思ったのは、それが一因だ。 今の車道がトンネルに入る50mくらい手前で、その旧道が合流していることになっている。しかし、その部分にはガードレールが設けられていて、もう道らしき痕跡も見られない。


この左手辺りに旧道が登って来ていた? (撮影 2018. 5.24)
   
   
   
文後トンネル 
   

<文後トンネル>
 文後トンネルは狭い谷間に口を開けている。行き交う車もなく、周囲はひっそりした山の中だ。これと言って何の変哲もないトンネルの峠である。

   
文後トンネルの車川側 (撮影 2018. 5.24)
   

扁額 (撮影 2018. 5.24)

<扁額>
 坑口上部には一応、扁額はある。しかし、擁壁のコンクリートにそのまま文字を刻んだような質素な物だ。また書体もそっけなく、誰の筆によるものかなども記されていない。 特に「トンネル」という片仮名が貧弱に見える。ただただ、これが「文後」という名のトンネルであることを示すだけの、事務的な表札の様である。

   

<銘板>
 文後トンネルに関してはほとんど情報がない。そこでトンネル坑口に掛かる銘板は、内容は少ないが貴重な情報源となる。一部白く汚れて読み難いが、次のようにあるようだ。
 文後トンネル
 1985年 3月
 延長95m 巾6.5m
     高 4.5m
 施工 日本土建(株)

 
 この近辺の地をジムニーで走り回ったのは1990年代が多いのだが、当時使っていたツーリングマップ(ル)には文後トンネルはなかなか登場して来なかった。 トンネル竣工は1985年とのことで、とっくにこの峠道は開通していたようだ。知っていれば、立ち寄っていたかもしれない。 ただ、延長僅か2Kmの峠道など、縮尺の粗いツーリングマップ(ル)では、余程注意して見ないと通じているかどうか分からない。今回この峠を訪れたのは、縮尺の細かい県別マップルの眺めていたお陰である。


支流を渡る (撮影 2018. 5.24)
   
車川側の文後トンネル銘板 (撮影 2018. 5.24)
   

<トンネル>
 文後トンネル前後の道は1.5車線幅と狭いが、トンネル内はセンターラインがある2車線路となっている。峠道開削に当たり、トンネルだけは余裕をもって造られたようだ。長さは100mに満たず、照明は皆無である。トンネルの両側直前で道はカーブしているが、トンネル自体は真っ直ぐだ。

   

車川側よりトンネル内を覗く (撮影 2018. 5.24)

トンネル内より車川側を見る (撮影 2018. 5.24)
   

トンネル内より朝柄側を見る (撮影 2018. 5.24)

<標高>
 坑口標高は約180mとなる。濁川沿いが標高120m付近なので、高度差は僅かに60mしかない。また、トンネル上部の鞍部は、地形図に199mと出ている。もしかすると、かつてそこに峠道が通じていたかもしれない。濁川沿いに通じる道から、それ程苦労なく鞍部まで登れたのではないだろうか。

   
朝柄側の文後トンネル (撮影 2018. 5.24)
   

<トンネルの朝柄側>
 朝柄側坑口の扁額・銘板とも、車川側と大差ない。坑口の上方を望むと、宮川・櫛田川の分水界となる多気山地の稜線は近い。トンネル前後にその鞍部へと登る道はないようだ。

   
   
   
朝柄へ下る 
   

<朝柄>
 文後トンネルを北に抜けた地は多気町朝柄(あさがら)で、旧勢和村の大字朝柄である。櫛田川の支流・朝柄川流域に広がる。旧勢和村の中心地だが、市街地は朝柄川下流の盆地に集中する。 文後トンネルを越えた道は、街中からずっと離れた朝柄川源流の桜峠にも程近い所へと下って行く。
 
 朝柄側の地形は穏やかで、道の勾配は緩く、道幅も心持ち広いように思う。距離は1.4Kmだ。文後トンネルがやや古さを見せているのに対し、路面のアスファルトや白線、路肩のガードレールは新しさを感じさせる。最近、道の改修が行われたのかもしれない。
 
 尚、比較的最近のツーリングマップル(関西 2015年8版1刷発行 昭文社)でも、文後トンネルの峠道はまだ通じていない。しかし、朝柄側だけはしっかり車道か記されていた。 地形が穏やかなので朝柄側が先に開通したのだろう。もしかすると、トンネル竣工時の1985年には、まだ車川側は未開通だったっかもしれない。

   

道の様子 (撮影 2018. 5.24)
穏やかで道幅も幾分広い

道の様子 (撮影 2018. 5.24)
路肩も広い
   

<文後川>
 地形がなだらかなので、地形図には文後トンネル付近を源頭部として流れ下る川筋もはっきり描かれる。もしかするとと思い、「川の名前を調べる地図」でその名を調べてみると、案の定「文後川」であった。相変わらず読み方は不明だが、トンネル以外に「文後」の名を持つものが見付かった。
 
 多気山地を越える峠は、北の櫛田川水系側にある地名を峠名として用いる傾向にある。湯谷峠や相津峠がそうだ。朝柄内の字名か何かに「文後」という地名があり、そこを流れる朝柄川支流を文後川と呼んだものと思う。新しく開通したトンネルもその文後を取って名付けられたようだ。

   

左に急坂が登る (撮影 2018. 5.24)

<登山口>
 朝柄側を200m余りも下ると、左手に急坂が登る。コンクリート舗装されているものの、余程の覚悟がないと車では入って行かれない。入口に看板が立ち、次のようにあった。
 高根山・富士見ケ原
 登り口
 作業道につき、車両の進入はご遠慮下さい

 
 分岐の直ぐ先には路肩に駐車場も設けられていた。富士見ケ原は飯南町向粥見(むこうがゆみ)との境付近で、桜峠の南方にあるようだ。歩いて行くには距離がありそうだ。桜峠の向粥見からのアクセス路もあるようだ。

   

駐車場が隣接する (撮影 2018. 5.24)

駐車場を峠方向に見る (撮影 2018. 5.24)
   

<文後川沿い>
 道は文後川の左岸側に通じる。暫くは平坦地が少なく、集落は勿論のこと、耕地もほとんど見られない。

   
道の様子 (撮影 2018. 5.24)
右手は文後川の谷間
   

<耕地>
 それでも峠道を半分も下ると、道は文後川の近くを通るようになり、川岸に耕地が広がった。作業小屋のような物も立つが、ちょっとした集落があっても不思議ではない様子だった。

   
右手に耕地が広がる (撮影 2018. 5.24)
   

<平坦地へ>
 最後に林の中を抜けると視界が広がる。文後川の河口近くに広がる小さい扇状地らしい。その平坦地一杯に水田が造られていた。対岸にも狭いながら作業道の様な道が通じる。あるいはかつての峠道かもしれない。

   
広々とした所に出た (撮影 2018. 5.24)
右岸側にも道が通じる
   

<朝柄川を渡る>
 ただ、道沿いにはついに人家は出て来なかった。農作業用の小屋のような物が立つばかりだ。「文後」と呼ばれる集落はどこにあったのだろうか。
 
 その先、峠道は朝柄川を中曽橋(なかそばし)で渡り、国道368号に接続して終わる。朝柄川沿いに通じる道は桜峠の領域である。


沿道様子 (撮影 2018. 5.24)
   

朝柄川を渡る (撮影 2018. 5.24)
前方に国道368号が通じる

分岐に立つ看板 (撮影 2018. 5.24)
この裏側には
県道佐原勢和松阪線 2Km
 車川 2Km
とある

   

<国道からの分岐>
 分岐の近くに次のような道標が立つ。
 車川 ➡
 多気町勢和振興事務所・ゆとりの丘 ↑

 
 振興事務所や「ゆとりの丘」は今回の峠道には関係なく、国道を朝柄川沿いに下った朝柄の市街地付近にあるようだ。

   
国道368号より峠への分岐を見る (撮影 2018. 5.24)
右手に中曽橋が架かる
手前が桜峠方向
右端に「車川 ➡」の看板が立つ
   

 「文後」という地名の所在については最後まで分からなかった。ただ、和歌山別街道の最高所となる桜峠のある所は「字桜峠」という地名らしい。 朝柄の中には他にも地図には出て来ないこうした字名が多くあり、「文後」もその一つではないかと思う。できれば文後峠と呼ばれる峠が、かつて存在したかどうかも知りたいところである。

   
   
   

 文後トンネルは僅か2Kmのほとんど何もない峠道で、そこだけを考えるとあまり面白い旅ではない。 しかし、濁川の中・上流域に位置する色太・土屋・車川といった集落を訪ねる旅と思えば、それなりに味わいを感じる。かつて、村人は外界とはあまり交流しなかったという。今でも一般の観光客はまずやって来ない地である。通行不能の県道とはどういう物かを見てみるのもいい。
 
 今回の峠は、多気山地に通じる峠として、湯谷峠や相津峠の関連で取り上げてみたが、それにしても小さな峠道だ。 ツーリングマップルなどの道路地図から一旦目を離すと、もうどこにあるのか分からなくなってしまう。こんな峠まで掲載していては切りがない。この次はもう少し骨のある峠を掲載したいと思う、文後峠(仮称)であった。

   
   
   

<走行日>
・2018. 5.24 車川→朝柄 ハスラーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 24 三重県 昭和58年 6月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・県別マップル道路地図 24 三重県 1998年 7月 発行 昭文社
・関西 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 5 関西 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 関西 2015年8版1刷発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2018 Copyright 蓑上誠一>
   
峠と旅         峠リスト