峠と旅
舟石峠
 
ふないしとうげ
 
足尾町で見つけた小さな峠道
 
    
 
舟石峠 (撮影 2004.10.23)
手前が栃木県足尾町(あしおまち)・銀山平(ぎんざんだいら)方面
奧が同町・本山(ほんざん)方面
標高は約1,045m(国土地理院の地形図から読み取る)
道は林道舟石線
車道の右手に広い駐車場が造られている
 
 栃木県の足尾町。良きにつけ悪しきにつけ、銅山で世の中に知られた町だ。今は製錬所の火が消えたように、ひっそり静まり返った山間の集落になっている。この足尾町に、もう5回以上は訪れている。
 
 峠としては、足尾から日光に抜ける日足トンネルの上を細尾峠(ほそお)が越え、また、南西に隣接する粟野町との間に粕尾峠(ぬかお)がある。しかし、町の中央部を縦断する国道122号を外れると、粕尾峠を除けば、行止りの道ばかりである。要するに車で旅をする所が非常に限られてしまっているのだ。
 
 それで、これまで何度も訪れた足尾町ではあるが、ほとんど素通り同然であった。足尾の市街地付近の様子なども、あまり分かっていない。これではいけない。国道を走るだけでも楽しく、お隣りの日本有数の観光地である日光より、ずっと気に入っている足尾である。ここは一つ、足尾町に一泊し、じっくりゆっくり旅してみようと思い立った。東京都心からもさほどの距離がない足尾に泊まるなんて、これは一生に一度あるかないかの贅沢である。それを肝に銘じて、秋空の元、足尾に旅立った。そしてめぐり会ったのがこの舟石峠である。
 
峠にあった案内図より
 
    
 
 群馬県の大間々町の方から渡良瀬川沿いの国道122号を北へ遡る。途中、草木ダム(くさぎ)の景勝を眺めたりしながら、秋色に染まった渡良瀬渓谷の中を快適に車を走らせる。
 
 足尾町に入ってからは、遠下(とおじも)という交差点で左に分かれる道に進む。こちらが足尾の市街地を通る昔からの国道だ。一方、遠下の先で渡良瀬川を渡って左岸を行く道は、後にできた国道のバイパスである。
 
 さて、足尾に着いたら何をするか。それは、トロッコ列車に乗るのである。旧坑道を観光用に作り変え、そこをトロッコ列車で見学するという足尾銅山観光は、前々から気になっていた。しかし、あまりにも観光っぽいので、おいそれと乗る訳にはいかない。しかし、この足尾町に於いては、唯一無二の観光スポット的な存在であり、見聞のためにと今回初めて乗ってみることにしたのだった。
 

足尾銅山観光のトロッコ列車
いよいよ乗車
 トロッコ列車は小さく、今回同伴の連れは、乗り込む時に、嫌というほど頭を強く天井の梁にぶつけ、渋い顔をした。しかし、トロッコが走り出すと、子供に返ったようにわくわくする。間もなく坑道の暗い穴の中に入った。これはなかなか楽しいぞ、と思ったら、直ぐに終点でがっかりした。もう少し長く乗りたかった。
 
 トロッコを降りてからは徒歩で坑内を見学する。その方が時間が長くかかった。坑道を出てからは資料館やら土産物屋、鉱山神社など、その周辺をこまごまと散策した。土曜日ということもあってか、観光客が意外と多く、賑わっていた。ここは町役場も近い町の中心地である。
 
 銅山観光を後にしてからは、また旧国道の続きを北へ走る。町中の道は狭い。足尾駅前ではクランクもあり、国道を走っているのかどうだか、分からなくなってくる始末。一方、対岸を走るバイパスは快適だ。
 
 町の中心地を外れ人家も途切れると、「田元」の大きな交差点に出る。そのまま直進すればそれが国道の本線で、日足トンネルを抜け、日光へと通じる。ここまで進んで来た道が本来の国道である証拠で、面目躍如といった感じだ。
 
 一方、右から合流したのが新参者の国道バイパスで、国道の続きを日光方面に進もうとすると、ここで右折しなければならないことになる。そんなこととはつゆ知らず、足尾市街など見向きもせずにバイパスを疾走して来た車は、この交差点で戸惑うことになる。国道たるもの右折も左折もすることなく、真っ直ぐ進めばいい筈と、地図もろくに確認しないでやって来れば、急に右折を指示する道路標識に驚くことになるのだ(実は初めて足尾に来た時、私がそうだった)。迂闊にも標識を見落として直進すれば、国道らしからぬ道へと変貌し、左手に足尾製錬所の異様な姿を目にし、遂には足尾ダムの先で道は未舗装となってしまう。 

田元の交差点
左は足尾ダム方面、正面は日足トンネル方面
右は国道バイパスを草木ダム方面へ戻る
 
 こちらはそんなことはもう百も承知で、国道から分かれて足尾ダム方面へと道を進める。目的は「松木渓谷」であった。足尾町での一般的な観光地としては、足尾銅山観光が何と言っても一番だが、それ以外となると、はっきり言って全然ないのだ。それでも、観光案内看板などを眺めていると、松木渓谷という文字が見つかった。紅葉がいいらしいのだ。それではと、今夜の宿へ向かう前にちょっと寄ってみることにしたのだ。
 
 足尾ダムへの道は県道250号。側らに渡良瀬川が流れる。ちなみに日足トンネルへ向かう国道に沿うのは、渡良瀬川ではなく、その支流の「神子内川」であった。間もなく行き止まりとなる県道の方が、利根川から分かれて延々と続く渡良瀬川の本流に沿っているのだ。
 

水が勢いよく流れ落ちる足尾砂防ダム
 道は集落内で極端に狭くなる。その先、左手の渡良瀬川の対岸に、異様な姿の建物を目にする。足尾製錬所である。途中で通り過ぎた集落もひっそり寂しく、またその朽ち果てた製錬所の光景も、過ぎ去った時間の流れを痛感させる。かつてはこの地も活気に満ちた時代があったのだ。今は銅山観光の客で賑わう通洞付近より、こちらのひっそり佇む間藤や赤倉といった地区の方が、何となく「足尾」を感じさせるのだ。
 
 製錬所も過ぎると間もなく前方に、足尾砂防ダムが現れる。この付近は近年建設が進んだ場所で、新しさに溢れている。ダムからは、しぶきを上げて渡良瀬川源流の水が流れ落ちていた。車道から一段下がって駐車場があり、そこより歩道の橋を渡ると、向こう岸に「銅親水公園」なるものができている。ここにはまだ建設途中に一度来た覚えがある。昼食ではコンロなどを使わなければならないので、車からあまり離れらない。仕方なく駐車場に戻って、その一角で食事を済ませたのだった。
 
 さて今回は松木渓谷だと思ったら、ダムを過ぎると直ぐに道はゲートで通行止となった。以前来た時には通れた筈だが、その時は車高の低い普通乗用車だったので、未舗装路は敬遠としたのだ。今回は4WDでどこへでも行くぞと思ったが、ゲートでは行かれない。残念なことをした。
 
 紅葉の渓谷美がいいらしい松木川は、ダム上流より北西に向かい、渡良瀬川の源流となる川だ。それに沿って途中まで林道が続いているようなので、それに入り込もうとしたが、ゲートの前から指をくわえてその方角を眺めるよりなかった。側らに臆面もなく「松木渓谷」と大きな看板が立っているのが恨めしい。ゲートの向こうではトラックが走っていた。工事が進行中のようである。その内一般にも松木渓谷が開放され、楽しめるようになるのだろうか。 

ダムより上流は通行止
トラックは走っていた
 

ダムから戻り、右折で銀山平へ向かう
 今日最後の目的地もこれで終了。後は今夜の宿としてある銀山平の国民宿舎かじか荘へ向かうことにする。銀山平は、足尾ダムへの県道より一本西にある県道293号沿いで、製錬所近くの本山という所より一山越した位置だ。ツーリングマップルにはその間に道は全くないが、図書館で借りてきた詳しい県別マップルには、本山と銀山平の双方より、途中まで道が伸びてきている。残念ながら峠の部分は未開通になっていたが、これはもしかしたらもしかすると思っていた。案の定、ダムに向かう途中、「銀山平」と書かれた道路標識を目撃していたのだ。
 
 ダムからの帰り道、その分岐へと右折する。丁度、製錬所を過ぎた所だ。
 
 渡良瀬川に架かる古河橋の上から、足尾製錬所の異様を間近に見る。この先どんな道が待っているのだろうか。標識には「銀山平」と確かにあったが、車道が通じていないことも考えられる。ちょっと不安を覚える。
 
 誰もこんな道には入り込まないだろうと思っていたが、何と目の前に一台の先行車があった。しかし、その走り方がまた不審である。遅過ぎるくらい遅く、一体何を目的に走っているのだろうかと、疑いたくなった。道に迷ったのだろうか。しかし、こんな所でそんな筈はない。その車はやっとこちらに気が付くと、道の端にフラフラと寄って少し斜めに停車した。慎重に追い越しながらも、その車の中をのぞくと、女性が2人乗っていた。こんな寂しい場所に女性だけとはまた不審である。

古河橋を渡る
 

ススキの中の真っ直ぐな道を行く
 進んで行く道はススキの中の一本道となり、周囲には山以外に何も目に入らなくなる。左手には渡良瀬川の支流である出川が小さく流れる。川に沿った道は西の山並を目指し、寂しい谷間を登って行く。ただ、路面は良好なアスファルトで、荒れた感じはない。比較的最近になって整備されたようだ。
 
 途中で右へと道が一本分岐するが、寂れた道である。多分、製錬所の方へと戻っているらしい。
 
 地図にはこの付近の出川の対岸に、「本山鉱山跡」と記されている。製錬所跡のような遺物を想像したが、その様な建造物は見当たらなかった。ただ、「狸堀り跡」などという看板を道端に見かけた。
 
狸 堀 り 跡
 
 江戸時代の鉱脈の掘り方は、自分だけが入れる狸穴に似た狸堀りであった。足尾銅山でも対岸の沢沿いに多く見られる。
(危険ですから対岸に入らないで下さい) 足 尾 町
 
 この狸堀りなども、本山鉱山跡の一部かはよく分からない。国土地理院の1/25,000地形図では、本山鉱跡にまだ集落の記号が見られたが、少なくとも人家などの痕跡もなく、今は人の気配を全く感じない場所となっている。

狸堀り跡
 

峠への登り
 参考資料によると、本山坑は有木坑とも呼ばれ、狭小な段丘地に足尾町北部で最大の集落を形成していたそうだ。それも昭和48年の閉山により、施設や社宅などが全部撤去され、無住地となったとのこと。
 
 本山付近を過ぎ、道は坦々と進む。寂しさはあるが険しさはない。出川の川筋が見えなくなると、道の勾配が少し増した。屈曲も多くなる。道幅は終始1.5車線といったところだ。今回は軽自動車なので走りは楽である。夕暮れが近いが、車道の上は木々などに覆われることなく開け、暗い感じがないのがいい。
 
 それでも今の季節、夕方5時にもなれば暗くなる。既にもう4時を回り、気が気でない。しかも山間では尚更日の暮れは早い。無事に峠を越えられれば、これはもう宿まで最短距離で行けることになるが、もし越えられなければ、まだ長い道程を残していることになる。銀山平方面には今回初めて行くので、暗くなってからの走行はあまりしたくない。峠が近付くに連れ、何とか越えられればいいなと、願う様な気持ちである。 

果たして峠は越えられるか
 

峠に着く
左に駐車場への入り口
 峠はあっさり現れた。そこが峠だと、直ぐにはピントこなかった。とにかく広いのだ。それまでの道の様子から、こじんまりした切り通しの峠を想像していたので、不意をつかれたというところである。
 
 広い理由は道に併設されて大きな駐車場があるからだった。迷わずそこに車を乗り入れる。誰もいないので、勝手な場所に停車させた。
 
 駐車場の入り口には、「舟石峠 駐車場」と大きな看板が立っていた。これは有り難い。名無の峠ではなく、しっかりした名前があった。名前がないと面白くないし、いろいろ不便でもある。ホームページに掲載するにも、表題やら何やら、都合が悪くてしょうがない。それに、勝手に仮称などをつけると、目くじら立てる方もいるので、迂闊なことはできないのであった。
 

駐車場の様子(1/2)
奧に車道が通る

駐車場の様子(2/2)
例の不審な車もやって来た
 
 駐車場は、ただ砂利が敷き詰められただけで、かろうじて区分けの線も一部に見受けられるが、ほとんど何でもない広場という感じである。しかも、これだけの広ささを車が埋め尽くす事態など、こんな所であるとは思えないのであった。
 
 広場の周辺にはベンチが設けられ、案内看板が立てられ、樹木が植えらと、整備が行き届いていた。それまでの道といい、この峠といい、最近になってこの峠道は新しく生まれ変わったようだ。そのお陰で今回無事に、この舟石峠を越えられるようである。
 
 その一方で、道が通る峠自身は、あまり趣がなかった。このページの冒頭に掲載する峠の写真を、沢山撮った中からいろいろ選んだが、これといって気に入るものがなかったことでも分かる。やはり峠は狭い切り通しの間に、細々と道が通じている方が絵になるようだ。

峠の銀山平方向
 

地名の由来となった舟石
 広場のあちこちを散策していると、連れが何やら見つけたと騒いでいる。行ってみると広場の一角に変わった形の石が置かれていた。側らにはその説明書きが立っていた。
 
 それによると、その石こそが「舟石」ということだった。この峠の付近一帯には古くに集落があり、その地名の由来ともなった石であった。
 
 舟の形をしたその石は、元々農家の畑の中にあったそうだ。足尾銅山を開発した古河氏がその石を見て、それまでの地名「魚の沢」から「舟石」にしてはどうかということで、舟石になったそうな。集落は足尾町高原木の一部であったが、通称地名として明治36年から「舟石」が使われだしたとのこと。
 
 しかし、その舟石集落からは徐々に他所へ移転する家が増えていき、記録では昭和22年の世帯数16、人口83人とまで減少、遂に昭和29年は無住地となった。
 
ふな いし
 
 舟石には、明治のはじめ数戸の家が、農業を営み生活をしていました。当時は、この地を岩魚が多くとれたので、「魚の沢」とよんでいましたが、足尾銅山を開発した古河市兵衛が、明治30年代にこの地をおとずれたとき、この舟の形をした石を見て、「舟石といったらどうか」といわれたことから舟石の地名がついたということです。
 舟石の最も栄えたのは、大正7年(1918)のころで47戸の家が点在していましたが、徐々に少なくなり、昭和29年には、まったく住む人がいなくなりました。
 往時を物語る石碑が、今も山の上に残されています。
足尾町

舟石の看板
 
 舟石集落から人々が移転していった理由の一つに、足尾銅山の製錬所が出す亜硫酸ガスの煤煙があった。銅山の関係から付けられた名前の集落なのに、皮肉なことである。
 
 今ではこうして記念碑の様に祀られ保存される舟石ではあるが、これが往時に畑の中にポツンと置かれていた様子を想像すると、何だか寂しい気がしてくる。こうして駐車場となった広場にも、昔は家が建ち、畑が作られていたのだろう。広場の本山方向の真下には、段々畑の様な痕跡もはっきり見て取れる。かつてここに人が住み、そして今は誰もいなくなった。これほど寂しい峠はない。
 
 最初は単に峠に名前がついていてよかったと思っただけだが、ここにあったと言われる集落の顛末を思うと、「舟石」いう名前が石の様に重く感じられるのであった。
 
峠の広場から本山方向を望む
直ぐ下に田んぼか畑の跡がうかがわれた
 
 峠の広場から本山方向には眺めがいい。遠く日光の男体山も望める。ここで暮していた人たちも、農作業の合間にこの景色を眺めたのだろう。
 
峠より本山方向の山並を望む
左側の奥に一際高い山が日光の男体山とのこと
 
 こんな寂しい峠には誰も来ないと思っていたら、どこからか人の話し声がする。すると、広場の奧より男の登山者が2人現れた。この峠の南東には備前楯山(びぜんたてやま、1,272mまたは1,273m)という山がある。そこから下りて来たのだろう。
 
 備前楯山は足尾町のほぼ中央に位置し、足尾銅山採鉱の主要地域であった。「楯」とは銅鉱脈の露頭のことだそうな。この舟石峠は備前楯山と、西北西に位置する庚申山(こうしんざん、1,901m)との鞍部に位置していた。
 
 峠の銀山平側に備前楯山への登山口があった。そこの標識によると山頂まで1.5Kmとある。山道ではなかなかの距離だ。また峠より銀山平まで2.2Km、本山を経て通洞駅まで7.4kmとあった。これらは「関東ふれあいの道」に指定されているようだ。
 

備前楯山の案内看板

備前楯山への登山口から峠方向を見る
 

峠の道の石垣にあった標識
この林道は昭和59年度の開設のようだ
 これで今夜の宿にももう直ぐ着けると安心して、のんびり峠で散策していたら、2人の登山者以外にも、やって来る者がいるではないか。例の怪しい挙動の乗用車も、遅れて広場に乗り入れて来た。一体何が目的でここまでやって来たのだろう。
 
 車から降りて景色を眺めていた2人の女性に、男性の登山者が話し掛けた。ここには集落があったのだとか、広場の下に畑の跡らしいのが見れるとか、男性の一人が一方的に大きな声で説明している。お陰でこちらも、ここから男体山が見えていることを知ったのだった。
 
 広場に駐車しないまでも、峠を通り過ぎて行った車が他にも1、2台あったようだった。舟石峠はそれなりに使われている峠道だった。
 
 さて、夕方4時半を過ぎ、峠から銀山平まで2.2Kmと短いながらも、明るい内には宿に着いて、夕食前にまずは一風呂といきたい。やっと、重い腰を上げて舟石峠を後にした。
 
 まだ峠に居座る女性2人とその乗用車を残し、銀山平側に下る。全く何を目的に来た人たちだろうか。
 
 下り道は暫く谷間を見下ろして眺めがいい。沿道のススキが秋を感じさせる。鮮やかではないが渋い紅葉も楽しめる。
 

広場の片隅の紅葉
 

峠より銀山平方向を望む

銀山平へと下る道
 

土神社碑
 道はこちら側も同様に良く整備されたアスファルト舗装である。荒れた感じは微塵もない。
 直ぐに一つの立札が目に付いた。
 
うぶすな じん じゃ
 
 明治19年に群馬県花輪村(現東村)の栗原猪之太が、この地を開畑した。ふつう「うぶすな」と書くが略したもの。
明治31年建立。    足 尾 町
 
 ここに住み始めた人たちは、どのような思いでここを開墾したのだろうか。とにかく人の業を知ってか知らずか、自然はこの地をススキの原と化してしまった。
 
 また、道路脇に鳥獣観察舎という東屋が立っていた。ちょうど初老の夫婦2人が利用しているようであった。道の側らにはその方たちの物と思われる軽自動車が停められていた。こうして、この峠道も活用されているようだ。
 
 他にも沿道には往時の跡を示す看板が立てられ、この道を訪れる者に昔を語りかけている。舟石峠の道は、今はこうした新しい任務を担っているようだった。

鳥獣観察舎
 

もう直ぐ峠道の終点
 途中の山側に、銀山平展望台と書かれた標識があり、山道を歩くと展望台に出られるようだ。しかし我々にはもう時間的余裕がなかった。
 
 道は静かな紅葉の中に吸い込まれて行く。勾配は全般的にきつく、どんどん下る。手を緩めることがない。路面状況は相変わらず良く、距離も短いので、あれよあれよと言う間に、左手の木々の間から何やら建物の屋根が見えてきた。するともう直ぐに終点であった。
 
 峠道はT字路に突き当たって終わる。前方を走るは、渡良瀬川の支流である庚申川に沿う県道293号である。
 
 峠道の起点には「備前楯山 登山口まで2Km」とあった。これは峠までの距離を示すのだろう。
 
 また、「作業道出川線 車の運転には十分気をつけて通行してください 降雨・強風時等落石注意」との看板もあった。

峠道の起点
 

峠方向を見る

起点に立つ看板
 

林道標識
 「作業道出川線」という呼び名は気になったが、一方、これが林道であることを示す立派な林道標識も立っていた。
 
 路線名  林道舟石線
 開設年度 昭和57年〜59年度
 
 峠にあった標識でも分かるように、林道そのものは既に昭和59年頃には開通されていたようだ。それでも、一般の道路地図には掲載されずにいた。
 それ以前、舟石集落がまだあった頃には、どんな道が通じていたのだろうか。やはり自動車の通行はできない道だったのだろうか。
 
 現在の峠道の様子からすると、舟石林道はつい最近に大幅な改修が行われたのは間違いないようだ。あの峠の広場も近年になって出現したのだろう。
 
 ところで、一般的に林道標柱は木製だが、今考えると舟石林道の標柱は金属のようであった。足尾町らしく銅製だったのではないかと想像する。
 
 舟石林道を分岐する県道は、林道に負けないくらい狭い道だった。その道を庚申川の上流方向に進むと、残念ながらあっけなくゲートで通行止であった。
 
 ゲートの周囲には何台もの車が置かれ、中には登山から戻ってきたらしい男性が、汗で濡れた服を路上で着替えたりしていた。この県道先の道は、庚申山の登山口へと続く。その登山者達の車なのだろう。庚申山はどれ程人気がある山かは知らないが、何でも珍しい食虫植物があるそうだ。

県道の上流方向を見る
右に峠道が分岐する
 

県道の通行止個所

県道を下流方向に見る
左に峠道が分岐する
 

国民宿舎かじか荘に到着
 県道を庚申川の下流方向に進むと、直ぐに道は開け、そこに今夜の宿となるかじか荘があった。多分、林道から見えたのは、このかじか荘か、その近くの建物の屋根だったらしい。
 
 かじか荘の玄関には既に明かりが灯り、日の暮れ間際の到着となった。駐車されている車は意外に多く、宿泊客だけでなく、立ち寄り湯の客も多そうだった。
 
 風呂に入り、夕食の時間を待っていると、異様な地震に襲われた。どこかで大変なことが起っているのではないかという予感がした。それが新潟県中越地震の始まりだった。
 
 翌日は晴天で、かじか荘の周辺の紅葉は、朝日に見事に映えた。昨日は暗くてよく分からなかったのだ。宿の近くには銀山平キャンプ場もあり、この付近一帯、なかなかよい雰囲気の所である。今の季節、キャンプはちょっと寒いのではないかと思ったが、意外とキャンパーが多いのには驚かされた。
 
 朝食前の散策がてら、昨日の県道を遡る。かじか荘を過ぎた少し先で、道は極端に狭くなった。昨日はこんな所から出て来たのかとびっくりした。近くには男達が沢山集まっていた。これから狩猟でもするらしい。
 
 かじか荘のある銀山平から国道122号までの区間は、集落はなく、代わりに鉱山跡を示す看板などがちらほら見られた。のんびり寄り道しながら走りたい道だった。この庚申川に沿う地域には、かつて「小滝」という集落があり、最盛期には12,000人が住んでいたとのこと。

翌朝のかじか荘の前の県道
 

県道の続きはこの通り狭い
 足尾町をただ縦断するばかりの国道から外れ、足尾ダムを眺め、本山から舟石峠経由で銀山平、そしてまた国道へと戻る。これはなかなか面白い周遊コースとなった。
 
 ただ、その間に人里は少ない。峠の舟石といい、本山といい、小滝といい、今ではどこも無住地となってしまった。何となく寂しさが付きまとう舟石峠であった。
 
<参考資料>
 昭文社 関東 ツーリングマップ 1989年1月発行
 昭文社 ツーリングマップル 3 関東 1997年3月発行
 昭文社 県別マップル道路地図 栃木県 2003年7月発行
 国土地理院発行 2万5千分の1地形図
 角川 地名大辞典 栃木県
 
<走行日:2004.10.23 制作:2004.11.30 蓑上誠一>
  
    
 
峠と旅