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八草峠/回想 (前半)
  はっそうとうげ  (峠と旅 No.007-2)
  3世代と移り変わった峠道
  (掲載 2018. 9.18  最終峠走行 2004. 9.26)
   
八草峠(後半)へ進む
   
   
   
八草峠 (撮影 1991.10.13)
左手は滋賀県長浜市木之本町金居原
右手は岐阜県揖斐郡揖斐川町坂内川上
道は国道303号
峠の標高は約740m (峠にあった看板より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
約28年前の八草峠
揖斐川水域と姉川水域との分水嶺をぐるりと回って越える豪快な峠道
しかし、八草トンネルが開通した現在、もう訪れることは難しいようだ
 
 
 
   

<回想>
 「峠と旅」を開設した当初、10の峠を掲載して始めたのだが、その中の一つが八草峠だった。 数ある峠の中から選んだ訳で、それなりに思い入れのある峠である。旅を始めた比較的初期に好んで越えている。国道でありながら冬期通行止となる険しい峠道だが、それでも4回訪れることができた。 しかし、2004年9月に岐阜県側からアクセスしてみると、大規模な崖崩れが発生していて峠には行けず、仕方なく八草トンネルを抜けたのだった。
 
 その後、ずっとご無沙汰しているのだが、最近の状況を調べてみると、峠前後の旧道の通行はなかなか難しい状態の様子だ。もう二度とあの素晴らしい峠道が 走れないかと思うと、残念でならない。八草峠に関しては比較的多くの写真を撮ってある。ここは一つ、昔を懐かしみながら回想しようと思うのであった。

   

<所在>
 峠の東側は岐阜県揖斐郡(いびぐん)揖斐川町(いびがわちょう)坂内川上(さかうちかわかみ)、旧揖斐郡坂内村(さかうちむら)川上である。私にとっては坂内村の方が馴染である。
 
 峠の西側は滋賀県長浜市木之本町(きのもとちょう)金居原(かねいはら)、旧伊香郡(いかぐん)木之本町金居原である。こちらも単に木之本町の方がピンと来る。 尚、金居原は「かねばら」とか「かないはら」、「かないばら」とも呼ぶそうだ。私は「かないはら」派なのだが、地元ではどう呼ぶのが本当だろうか。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<水系>
 峠の東側は広く揖斐川(いびがわ)水域(木曽川水系)で、峠はその支流の坂内川(さかうちがわ)の更に支流の八草川上流部に位置する。
 
 峠の西側は琵琶湖に注ぐ姉川(あねがわ)水域(淀川水系)で、峠はその支流の高時川(たかときがわ)の支流・杉野川(すぎのがわ)の支流・須亦川(すまたがわ、須又川とも)の支流・日の裏谷(ひのうらだに)の源流部に位置する。
 
 峠は、大きくは木曽川(きそがわ)水系と淀川(よどがわ)水系との分水界上にあるが、どちらの水系も広大で捉えどころがない。
 峠の東側は、概ね、揖斐川支流の坂内川水域と考える。坂内川最上流部でこの水域を越える車道は八草峠以外にない。尚、揖斐川の最上流部には高倉峠(こうくら、こくら)が越える。
 峠の西側は、杉野川水域の最も奥で越えるのが八草峠になる。尚、その本流の高時川最上流部には栃ノ木峠が位置する。

   

<伊吹山地最北>
 峠は、岐阜・福井・滋賀の3県の接する三国岳から南端の伊吹山に至る伊吹山地(伊吹山脈)の主稜上に位置する。岐阜県と滋賀県との境界を成し、中部地方と近畿地方を画する山地ともなる。八草峠はその伊吹山地の中で最も北に通じる峠道だ。

   

<峠名>
 「はっそうとうげ」というの何となく軽快な感じがして、いい峠名だと思っている。この名は峠の岐阜県側直下にあった八草という小さな集落から来ている。 文献(角川日本地名大辞典)では、「八草」は概ね「はっそう」と読んでいるが、一部に「はつそう」、稀に「やくさ」ともある。まあ、一般には「はっそう」でいいのだろう。

   

<3世代の峠>
 八草峠から八草トンネルへと世代交代が進みつつあるが、それ以前に八草峠には別の世代交代があった。文献によると、現八草峠の北約1.5Kmに初代の八 草峠があったそうだ。久加越(くがごえ)とか八草峠越、八草越などと呼ばれた。これを区別する為、元の久加越の方を旧八草峠、現在の方を新八草峠と呼んだ りもする。
 
<峠道の変遷>
 かつては旧八草峠を介し、美濃(岐阜県のほぼ南半分)と近江(滋賀県)との文物交流が盛んに行われた。しかし、明治27年(1894年)、揖斐川本流から坂内川沿 いに川上まで車道が開通する。これにより、距離は遠くとも川沿いに下って大垣などの市街へと出る方が容易となった。険しい峠越えとなる旧八草峠は次第に利 用されなくなって行く。峠下の八草集落も遂には廃村の運命を辿った。車道の開通がかえって峠道の衰退につながるというのも、皮肉なことである。
 
<車道開通>
 戦後の昭和22年(25年とも)、奥地林道開発事業の一環として八草峠にも車道を開削することとなった。しかし、旧八草峠は急坂な為、路線変更が行わ れ、新しい八草峠が開かれた。それが後に国道303号に昇格する。これが決定打となり、旧八草峠は廃道、人の記憶からも消えていった。今ではわざわざ新旧 の区別をする必要はない。

   

<旧八草峠の位置>
 さて、久加越とも呼ばれた時代の峠はどこにあったのだろうか。既に地形図上にも痕跡を見ない。現峠より直線距離で北1.5Kmとは、丁度816mのピークの位置である。鞍部でないのが不可解だ。
 
 文献では旧八草峠の標高を約750mとか、現峠(約740m)と同高だとかしている。ただ、730mとか770m、780mといった数値も見られ、断定はできない。また、杉野川源流の登谷(のぼたに、「登り谷」とも)を直登するコースともある。それらを総合すると、標高約730mの鞍部か、標高約750mの鞍部ではないかと想像する。丁度、八草トンネルはその真下を通り、先祖返りしたようだ。だた、新峠からは2Km以上離れていて、文献で何度か登場する「1.5Km」の数値との整合が取れないが。

   

<久加>
 ところで、久加越の「久加」(くが)とは何であろうか。「八草」が坂内村にあった集落名だったように、「久加」もどこかにあった集落の名であろう。 ただ、岐阜県側か滋賀県側かも分からない。久加という地名は珍しく、文献(角川日本地名大辞典)でも久加越でしか登場しない。それでも、幾つかの項に久加 越が記されているので、誤植などではないようだ。字名以下の小さな地名はあまり一般の道路地図などには載らない。八草さえもう地図にはない。余程地元の詳 しい地図でもない限り、「久加」を探し出すことは難しいようだ。

 

<伊吹山地の峠(余談)>
 揖斐川上流部より伊吹山地を越え、近江との文物交流などが行われた峠は、八草峠の他にも多い。文献を頼りに主な峠を北側から順に列記すると、概ね次のようになる。
 ・久加越(くが)・八草峠:国道303号 
 ・鳥越峠(とりごえ、とりこし):広域基幹林道鳥越線 (地形図
 ・新穂峠(しんぽ):車道未開通? (地形図
 ・品又峠(しなまた):県道40号(未開通?) (地形図
 ・国見峠(くにみ):林道国見線 (地形図
 ・上平寺越(じようへいじ):
     (伊吹山より南と思われるが、場所は不明)
 
 この内、「峠と旅」では鳥越峠国見峠を掲載している。
  八草峠を除くと、車道未開通だったり、せいぜい林道が通じる程度の峠道ばかりである。トンネルが開通した八草峠の道は、伊吹山地最北に位置しながら、最も発達した峠道であることが分かる。 しかも、往時も他の峠に比べ、八草峠(久加越)は美濃・近江文物交流の主要ルートだったそうだ。

   

<美濃路(余談)>
 余談ついでに、文献を調べていると、美濃路(みのじ)という項を見付けた。「近江から美濃国に至る街道の総称」とか「古来より商品流通路・参勤交代路として多く利用された街道」とあり、次の10の道が挙げられていた。
 ・長競(たけくらべ)越
 ・藤川(ふじかわ)越
 ・大久保(おおくぼ)越/国見峠越・・・国見峠
 ・加須川嶺(かすかわとうげ)越・・・品又峠
 ・久加(くが)越・・・八草峠
 ・中尾嶺(なかおとうげ)越
 ・島津(しまづ)越
 ・上平寺(じようへいじ)越
 ・鳥越峠(とりこしとうげ)越・・・鳥越峠
 ・新穂(しんぽ)越・・・新穂峠
 
 まだまだ知らない峠や峠道がある。いろいろ調べてみたいと思うが、それではいくら時間があっても足らない。余談もこの程度で終わりとする。

   
   
   
岐阜県側より峠へ 
   

<横山ダム近辺>
 数年前、横山ダムの脇を通る機会があった。八草峠へはこの揖斐川沿いから旧坂内村へと分かれる国道303号を行く。

   

横山ダム近辺 (撮影 2014. 7.30)
国道417号を大垣市街方向に見る

国道303号分岐の看板 (撮影 2014. 7.30)
   

<奥いび湖>
 すると、ダム湖に見慣れぬ立派な橋が架かっていた。道路看板はそちらを坂内方面の303号としている。後で最近の地図を調べると、奥いび湖大橋というそうだ。横山ダムによる湖は奥いび湖と名付けられている。このダム湖に名前があるとは初めて知った。

   

ダム湖に架かる橋 (撮影 2014. 7.30)

横山ダムの堰堤 (撮影 2014. 7.30)
以前はこれが国道303号だった
   

ダム堰堤近く (撮影 1994.12.29)
奥の堰堤上に国道303号が通じていた

<ダム堰堤>
 以前の坂内村へと続く国道303号は、ダムの堰堤上を走っていた。現在は一般車は通行禁止になっている。知らぬ間に八草峠の道は大きな変貌を続けている様子だ。

   

<ダム湖右岸>
 旧国道は堰堤を渡ってダム湖右岸を少し遡る。すると、ダムを望む地に道路看板が立っていた。「木之本 40Km、坂内 7Km」とあった。この揖斐川沿いを発ち、トンネル開通前の八草峠を越え、滋賀県の木之本市街に至るまで約40Km。これが八草峠全線の距離となる。

   

冬期通行止看板の位置 (撮影 1994.12.29)
車はダム堰堤方向を向く

横山ダムを望む (撮影 1994.12.29)
   

道路看板 (撮影 1994.12.29)

冬期通行止の看板 (撮影 1994.12.29)
   

<冬期通行止>
 また、この道路看板の下には、いつも八草峠の交通情報が出ていた。主に冬期通行止に関してである。1994年の年末に訪れた時は、12月15日から翌年3月31日まで冬期通行止と出ていた。 概ね毎年12月中頃から翌年3月末まで峠は越えられない。この時は福井県の敦賀まで行く予定だったので、八草峠が越えられないと大変なことになる。遥々、伊吹山の南麓、関ケ原を迂回することとなった。


横山ダムを望む (撮影 1997. 4.27)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

通行止情報を確認する (撮影 1997. 4.27)
この時はまだ冬期通行止の期間は決まっていなかった
これから八草峠に向かう
ところが、この後川上集落を抜けた先で
積雪の為通行止と出て来た

冬期通行止の看板 (撮影 1997. 4.27)
   

 現在の八草トンネルは冬期も通行可能であろう。敦賀方面へのルートとして安心して使える。これでもう国道303号沿いに「冬期通行止」の看板は見られなくなったのだろう。

   
横山ダムを望む (撮影 1991.10.13)
無事に八草峠を越えて来たところ
このダム湖を見るとホッとする
まだ奥いび湖大橋の影も形もない頃である
   
   
   
坂内川沿い 
   

<旧坂内村>
 国道303号は奥いび湖に注ぐ坂内川沿いに遡る。暫くは人家もなく寂しい道が続く。この上流の坂内川水域一帯が旧坂内村(さかうちむら)である。 明治30年(1897年)に坂本(さかもと)・広瀬(ひろせ)・川上(かわかみ)の3か村が合併して成立、旧村名を冠した3大字を編成した。すると、坂内川の名は坂内村ができた以降のものかもしれない。「もと広瀬川といった」と文献にもある。
 
<坂内>
 坂内という地名について文献は、「周囲との交通がすべて峠越えの坂をめぐらすことによる」としている。 揖斐川に注ぐ直前の坂内川は険しいV字谷を形成し、その川沿いに道を通すことは容易でなかったようだ。 明治27年に揖斐川本流から坂内川沿いに川上まで車道が開通したが、それ以前は坂内川水域と外部とを隔てる分水嶺を越えて行き来していた。すなわち旧坂内村には峠が多く、この村に関心がない訳はなかった。坂内村に関し、八草峠以外では鳥越峠ホハレ峠を掲載している。
 
 坂内川沿いには概ね下流側から坂本・広瀬・川上と続く。これらの集落が点在する中流域は坂内川の谷も比較的穏やかだ。

   

<坂本>
 旧久瀬村との境になる日坂峠より白川沿いに下って来た道が国道303号に接続する付近が坂本だ。「坂本」という地名は多く、峠と関係が深い。 文献でも、「地名の由来は、かつて他地域との往来に坂の多い峠越えをしなければならなかったことによるか」としている。 日坂峠も坂本と外界を繋ぐ重要な峠の一つではなかったろうか。

   

坂内村案内図 (撮影 1995. 5. 4)
地図は概ね下が北
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<坂内村案内図>
 ホハレ峠からの帰り道、坂本にあった「坂内村案内図」を写真に撮って置いた。今見ると、なかなか味わい深い看板だ。八草峠・鳥越峠・新穂峠・品又峠の峠が居並ぶ。坂本・広瀬付近は「広瀬川」となっていて、川上より上流部が「坂内川」となっている。
 
<上原・三軒屋>
 川上集落より奥には上原・三軒屋という地名が見られる。これらは字名だろうか。また、八草峠下には「八草集落跡」の文字もある。場所は大雑把なのではっきりしないが、もう一般の地図には載らない八草集落である。

   

<広瀬>
 初めて八草峠を越えた時は、滋賀県側から登り岐阜県側へと下って来た。早朝に敦賀市を出発、その日の内には東京の自宅に戻らなければならない。 雨に降られた上になかなかハードな峠越えで、坂内川沿いを走りながらどこかで休めないかと思っていた。すると、国道脇に駐車場やトイレのある施設が見付 かった。今ではそこがどこだか分からいが、広瀬付近だったと思う。「坂内村案内図」にある「坂内やなバンガロー」辺りだろうか。現在は道の駅が広瀬にでき ているようだ。

坂内川沿いで休憩 (撮影 1991.10.13)
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鳥越峠を下って来たところ (撮影 2001.11.12)
前方に立派な国道303号が通じる
   

林道鳥越線の分岐 (撮影 2001.11.12)
手前が鳥越峠方面
左の道路脇にに「伝説夜叉ヶ池 伝承の地」の看板が立つ
左に分かれる細い道は大草履へ
前方右に入る道は国道303号の旧道
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<鳥越線分岐>
 2001年11月に鳥越峠から広瀬浅又川沿いに通じる広域基幹林道鳥越線を下って来ると、2車線路の立派な国道303号に接続した。後で分かったことだが、この時既に八草トンネルも開通していた。トンネル開削と共にその周辺の国道も随分立派になった。

   

「伝説夜叉ヶ池 伝承の地」の看板 (撮影 2001.11.12)
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<大草履>
 この林道鳥越線分岐付近には大草履という地名が残る。一般の道路地図にも記載があり、「坂内村案内図」にも「大ぞり・小ぞり」と出ている。以前は鳥越線入口の林道標柱と並び、「伝説夜叉ヶ池 伝承の地」という看板が立っていた。それでも大草履・小草履はそれぞれ「おおぞり・こぞり」と読んでいた。一方、文献では大草履を「おおじより」としている。
 
 この付近は大字広瀬の内ではあるが、広瀬の中心地からはずっと離れた上流部にある。江戸期からの広瀬村の出郷であったそうだ。しかし、現在の国道沿いに人家はほとんど見られない。大草履は現在の国道より少し西側に通じる道沿いにあるようだ。

   

<道路看板>
 鳥越線分岐を過ぎた先で小さな支流を渡る。ガンドガ谷とかいう。橋の銘板には昭和63年(1988年)12月竣工とあった。この付近の国道はその年に改修されたのだろう。
 
 その先に道路看板が立つ。以前は「木ノ本 33Km、八草峠 11Km」とあった。「11Km」はトンネルではなく正真正銘、八草峠までの距離である。峠から先木之本までは22Kmとなる。
 現在の看板は「木ノ本 26Km、国道8号 25Km」となっているそうだ。もう八草峠を案内する道路看板は二度と出て来ないだろう。
 
 道路看板の支柱の袂に寂れた道が合流して来ている。今のガンドガ橋が架かる以前の道らしい。よく見れば、この近辺には旧道の痕跡があちこち残っている。


国道沿いから鳥越線分岐方向を見る (撮影 1997. 4.27)
手前が八草峠方向
前方の橋には昭和63年12月竣工とある
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

道路看板が立つ (撮影 1997. 4.27)
その手前左から細い道が合流している
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道路看板 (撮影 1997. 4.27)
今後、「八草峠」の文字は道路看板には出て来ないだろう
   

<川上>
 坂内川水域の最上流部は旧坂内村の大字川上だ。名の由来は単純に川の上流に位置することによるそうだ。 北の夜叉ヶ池などを水源とする坂内川に、南の八草峠方面から流れ下って来た八草川が合流する地点の、少し下流側に川上集落の中心地がある。この辺りになると坂内川の谷も随分と狭まり、集落内を通る道も狭い。
 
<ホハレ林道分岐>
 川上集落の終り頃、ホハレ峠に至るホハレ林道と、坂内川上流の夜叉ヶ池へ続く登山道が並んで分岐する。


ホハレ林道分岐 (撮影 2001.11.12)
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分岐に立つ看板 (撮影 2001.11.12)

分岐に立つ看板 (撮影 2004. 9.25)
こちらの方が少し新しい写真
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<八草川左岸へ>
 ホハレ林道分岐から直ぐに坂内川を渡ると、その先は支流の八草川沿いになる。川上集落の建物も、間もなく見れなくなる。右手に大きな建物があったが、民俗資料館のようだ。


八草川左岸沿いの道 (撮影 2004. 9.26)
右手に民俗資料館などが立つ
     
川上集落の終りの方 (撮影 1997. 4.27)
ホハレ林道分岐方向を振り返る
手前が峠方向
右手に八草川が流れる
左手の大きな建物は民俗資料館だと思う
   
   
   
八草川左岸沿い 
   

川上集落の先 (撮影 1997. 4.27)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<川上集落の先>
 一旦は2車幅になった道が、集落の先でまた狭い道に戻る。ここより八草川左岸沿いの険しい谷を進む。
 
 1997年4月に訪れた時は、「八草峠積雪の為」とバリケードが置かれていた。通行止とか関係者以外立入禁止の文字も見える。もう4月下旬というのにまだ積雪が残っているのだろうか。 通常の冬期通行止期間とはどうも違う。この時も福井県敦賀市に宿を取っていた。時間は午後5時を過ぎ、もう気が気でない。今更関ヶ原への迂回はできない。止む無く先へ進むと、結局何事もなく峠を越えられた。

   
バリケードに「八草峠積雪の為」とあった (撮影 1997. 4.27)
   

<八草川左岸の様子>
 坂内村案内図では八草川左岸沿いに上原・三軒屋という地名が見られる。しかし、人が住むような人家があったような記憶はない。

   
八草川左岸沿いの道 (撮影 2001.11.12)
この時も雨にたたられた
   
八草川左岸沿いの道 (撮影 2001.11.12)
狭い谷を行く
   

<八草川左岸の様子>
 谷は狭く、田んぼや畑などの耕作地も僅かである。農作業用の小屋などが散見されるばかりだ。
 
<川上・八草バイパス>
 国道303号の改良は、峠部分の八草トンネル開通だけに収まらない。横山ダムから滋賀県側の木之本市街近くまでの広範囲に及ぶ。その中で川上集落から八草トンネル先までの区間を、川上・八草バイパスなどとも呼ぶようだ。


八草川左岸沿いの道 (撮影 2004. 9.26)
   

建設途中のバイパスを川上トンネル方向に見る
(撮影 2001.11.12)
ただ、この時まだ川上トンネルは開通していない
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<川上・八草バイパスに接続>
 2001年11月に訪れた時は、八草トンネルは出来ていたものの、その手前の部分は工事の真っ最中であった。道はひょっこり工事途中の道に飛び出した。 振り向くと、まだ砂利だが幅の広い道路が延びて来ている。八草川左岸沿いに通じる細い道の代わりに、右岸の山に川上トンネルを開削する計画だったのだ。ただ、その時は川上トンネルの姿は全く見られなかった。
 
 まずは一番肝心な県境越えの八草トンネルを完成しておき、それに続いて前後の道を改修して行ったようだ。2004年9月に訪れた時も、まだ川上トンネルは通れなかった。

   
   
   
八草トンネルへ 
   

<八草トンネルへ>
 川上・八草バイパスに接続した先は、真っ直ぐ八草トンネルへと快適な2車線路が延びる。坑口から300m程手前、管理棟の様な建物の裏側へと旧道が分かれて行く。

   

川上・八草バイパスの先 (撮影 2004. 9.26)
前方に八草トンネルが見える

右に旧道が分かれる (撮影 2001.11.12)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<八草トンネル坑口付近>
 今の国道は坑口直前で八草川を濃江橋で渡る。「濃江」とは美濃と近江であろう。「のうごう」と読むようだ。橋の手前を八草川上流方向に新しい道が分岐する。トンネル開削と共に八草峠への道が付け替えられたのだ。

   
八草トンネル坑口付近 (撮影 2001.11.12)
左に八草峠の道が分かれる
   

八草トンネル坑口付近 (撮影 2001.11.12)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

坑口を背に川上集落方向を見る (撮影 2001.11.12)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<八草トンネル>
 八草トンネル開通は2001年4月のことらしく、その直後の11月に訪れている。延長3025m。このトンネルで冬期も岐阜・滋賀の県境越えが可能となった。

   

八草トンネルの看板 (撮影 2001.11.12)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

トンネルの中の様子 (撮影 2004. 9.26)
多分、県境付近
   

<三軒屋?>
 トンネル開通の陰で、旧道が寂しく残る。旧道は八草川を一度も渡ることなく、終始左岸側に通じていた。僅かながらも耕作地があるので、その旧道沿いに建物がまだ残る。 作業小屋などとして使っているのかもしれない。ただ、もう人の住む様子はない。かつてはここも小さな集落だったのだろう。坂内村案内図にあった三軒屋ではないかと想像する。

   
川上集落方向を見る (撮影 2004. 9.26)
左手の建物が並ぶ所に旧道が通る
   
   
   
旧道へ 
   

<旧道の様子>
 建物の先の旧道はぐるっとカーブしてトンネル坑口の真ん前を通過して行く。

   
八草川左岸に通じる旧道の様子 (撮影 2004. 9.26)
この左手が八草トンネルの坑口
   

<旧道の様子>
 旧道の代わりに付け替えられた道は、八草川を平成9年(1997年)11月竣工の八草川橋で渡る。八草トンネル開通前に、八草峠への道を確保する為に架けられたようだ。
 
 橋を渡るとトンネル坑口の方から旧道が接続して来ている。但し、もう道は塞がれている。


坑口から先の旧道 (撮影 2001.11.12)
坑口方向に見る
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
坑口前を通る旧道の様子 (撮影 2001.11.12)
この時はまだ道らしい様子を残す
   

<旧道の様子>
 2001年に訪れた時は、まだ道らしい様子が伺えたが、その3年後には草で覆われ、もう道があったことも分からない状態だった。補修されない道は、あっと言う間に自然に帰って行くようだ。

   

前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2004. 9.26)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

草に覆われた旧道の様子 (撮影 2004. 9.26)
   

<八草川橋以降>
 再び八草川左岸に戻った先は、八草峠へと登る昔ながらの峠道だ。道幅が急に狭くなる。

   

八草川橋の先の道 (撮影 2001.11.12)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

幅員狭しの看板 (撮影 2001.11.12)
   

<バリケード>
 八草トンネルが開通してからは、八草峠への入口は道の半分をバリケードが塞いでいる。「通行止」と出ているのだが、2001年11月に訪れた時は、ほとんど何事もなく峠越えができた。しかし、それが最後となった。

   

道路情報の看板が立つ (撮影 2004. 9.26)

道路看板の先 (撮影 2004. 9.26)
   

道路情報の看板 (撮影 2004. 9.26)

<がけ崩れ>
 2004年に訪れてみると、がけ崩れで全線通行止と新しく道路情報の看板が設けられていた。どんな様子かと進んでみることにした。

   

バリケード (撮影 2004. 9.26)

「この先通行止」の看板 (撮影 2004. 9.26)
この時は、本当に通行止だった
   
   
   
峠への登り 
   

<道の様子>
 道は尚も八草川左岸を行くのだが、道の勾配は増し、いよいよ峠への本格的な登りが開始される。道は一路、八草川源流の南を目指す。人気はすっかりなくなったが、かつてはこの奥に八草集落があった。

   

道の様子 (撮影 2004. 9.26)

道の様子 (撮影 2004. 9.26)
   

<がけ崩れ箇所>
 2Km程も進んだろうか、路肩に重機が置かれてあった。その先、本当にがけ崩れが起こっていた。かなり大規模である。元々、法面をコンクリートで固め、更に落石防止のネットを張ってあった所が崩れたようである。

   

がけ崩れ箇所 (撮影 2004. 9.26)

がけ崩れ箇所の様子 (撮影 2004. 9.26)
   

<がけ崩れの様子>
 崩れた土砂とガードレールの間には僅かに人が通れる隙間があった。がけ崩れの反対側に回ってみると、業者らしい車やトラックが停まっていた。滋賀県側から峠を越えて来たようだ。
 
 素人目にはあまりに酷いがけ崩れで、簡単な重機ではほとんど成す術がないように思われた。その後、復旧できたのだろうか。


がけ崩れ箇所 (撮影 2004. 9.26)
   

がけ崩れ箇所の反対側 (撮影 2004. 9.26)

業者らしい車が来ていた (撮影 2004. 9.26)
   
   
   
支流沿い 
   

道の様子 (撮影 2001.11.12)
多分、支流沿い

<支流沿い>
 がけ崩れ箇所辺りから、道は一旦北から流れ下る支流方向へと大きく迂回する。500m程遡ってから支流を渡り、再び本流沿いに戻って来る。

   

<本流沿いへ>
 暫くすると、道は本流左岸の高みに出る。やがて支流が注ぎ込む付近の谷が広く見渡せるようになる。
 
<久加越のルート>
 久加越(くがごえ)と呼ばれた旧八草峠は、この支流の上流部に通じていた。支流沿いに下って来たものと思う。一方、支流を巻いてからは新八草峠を越えた林道の道筋ということになる。


支流方向を見ていると思うがはっきりしない (撮影 1995. 5. 3)
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谷を広く望む (撮影 2001.11.12)
久加越は左奥から流れ下る支流の上流部に通じていたようだ
対岸にトラックなどが停まる
その崖の下辺りにかつての八草集落があったのではないか
   

<八草集落について>
 現在の車道沿いに八草集落の痕跡は微塵も見られない。その場所は謎だ。少なくとも集落内には久加越と呼ばれた当時の道が通じていた訳で、支流を巻いた以降の林道区間ではない。谷は急で、車道は川面から遥か高みに通じる。
 
 八草は比較的大きな集落を形成していたそうだ。そのような広い敷地が確保できる場所は、支流の川が本流の八草川に注ぐ付近に限られる。ほぼ支流沿いに八草の人家は集まっていたのではないか。久加越の道もそこに通じていた。
 
 江戸期からの川上村の枝郷として八草があった。この枝郷は元禄6年(1693年)の成立で、家数は20あったとのこと。明治5年(1872年)に八草村は川上村と合併、川上村の一部となる。 明治27年(1894年)、川上集落まで車道が通じるも、八草にまでは至らなかった。 久加越を通した美濃と近江との間の人や物資の往来を見守って来た八草集落であったが、峠道の衰退と共に時代に取り残されて行く。それでも大正期までは人の居住が見られたそうだ。その後、全村離村となる。
 
 戦後、新八草峠を越える林道が開削されるが、道は集落上部の崖を切り開き、集落を巻くようにして通された。多分、崖の下には往時の集落跡がひっそり佇むことであろう。

   

<久加集落>
 久加越の久加集落が岐阜県側にあったとすると、八草集落より下流側とは考え難い。八草集落は元禄年間と比較的早い成立で、規模も大きかった。その集落を飛び越して下流側の集落名で峠道を表現することはない。
 
 八草集落の人口は多く、それが一箇所だけに集中するとは限らない。久加越が下って来るく支流の上流部にも人家が分散していた可能性もある。もしかすると、八草村の小さな枝村が支流沿いにあり、それを久加と呼んだのかと想像する。全く根拠はないが。

   

<八草川左岸の斜面>
 八草川は伊吹山脈のほぼ中央に位置する金糞岳(かなくそだけ、1,317m)の北麓に源を発し、八草トンネル坑口近くまで北流を続ける。道はその谷の左岸の斜面を急登しつつ、西に連なる伊吹山脈の主稜を目指す。

   

道の様子 (撮影 2001.11.12)
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道の様子 (撮影 2001.11.12)
少し開けて来た
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<道の様子>
 道は幾つかの小さな支流の谷の源流部を横切り、主脈から下る支尾根を巻いて進む。細かい屈曲が多い。

   
支流を横切るく (撮影 2001.11.12)
   

<展望が広がる>
 高度を上げると展望が広がる。北へと下る八草川の谷を広く望む。

   
八草川の谷を望む (撮影 2001.11.12)
   

<峠を望む>
 最後の支尾根を回り込むと、その先に見えた稜線の鞍部に峠が確認できる。峠からは更に南へと林道が分岐している。


前方の鞍部が峠 (撮影 2001.11.12)
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八草峠(後半)へ続く
   
   
   
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