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飛騨東部広域農道の峠
  ひだとうぶこういきのうどうのとうげ  (峠と旅 No.321)
  当時はまだ道路改修真っ只中だった峠道
  (掲載 2022.11.12  最終峠走行 2001. 5. 1)
   
   
   
飛騨東部広域農道の峠 (撮影 2001. 5. 1)
手前は岐阜県高山市久々野町有道
奥は同市朝日町万石
道は飛騨東部(2期地区第2工区)広域農道
峠の標高は約1,155m (地形図の等高線より読む)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
この時、峠道は大規模な改修工事中で、元の峠は姿を消してしまっていた
 
 

   

<掲載理由(余談)>
 この峠は一度も越えたことがないと思い込んでいた。ところが前回、大平峠を掲載した折にアルバムをシゲシゲ眺めていると、大平峠に続いてどこかの峠を越えている。峠道の一部が改修工事中で、峠も正に新しく造り変えられようとしていた。その峠の直後には美女峠(旧国道361号)に向かっている。こうした前後の経緯から、今回の峠が特定できた。今頃は改修工事も完了し、全く新しい峠道に生まれ変わっているだろう。そこで、当時僅かに残っていた改修前の道の様子をここに掲載しておこうと考えた。
 
<峠名>
 今回の峠には名前がない。代わりに道の名を明記したいが、それもあまりはっきりしない。岐阜県の広域農道の一つで、飛騨東部地区にあるので、仮に「飛騨東部広域農道の峠」と題してみた。
 
 ただ、「飛騨東部」と言っただけではまだまだ範囲が広く、一本の農道には定まらない。工事看板に「飛騨東部2期地区第2工区」とあったのだが、「岐阜県広域農道飛騨東部2期地区第2工区の峠」では長いので、止めておいた。

   

<所在>
 峠は岐阜県高山市(たかやまし)久々野町(くぐのちょう)有道(うとう)と同市朝日町(あさひちょう)万石(まんごく)との境にある。元は大野郡(おおのぐん)旧久々野町と 同郡旧朝日村(あさひむら)との町村境であった。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<立地>
 野麦峠を源頭とする飛騨川(ひだがわ)が、最初西へと流れ、朝日町から久々野町に入ると南へと向きを変えて行く。今回の峠はその朝日町と久々野町との飛騨川沿いをショートカットで結んでいる峠道になる。広くは御嶽山の北西麓に位置し、その最北西端に通じる。

   

<水域・水系>
 峠の久々野町側では口有道谷(くちうとうだに)と呼ばれる川が流れ下り、大坊(おおぼう)本谷という川を合わせて間もなく飛騨川に注ぐ。口有道谷と大坊本谷のどちらが本流かは分からない。
 
 一方、峠の朝日町側では、初め万石谷(まんごくだに)水域に入るが、直後に大広谷(おおひろだに)水域にちょっと足を踏み入れ、再びまた万石谷沿いへと戻って来る。 大広谷水域では住所も朝日町大廣(おおひろ)となる。尚、地理院地図などでは河川名には「大広」、地名には「大廣」と記載していたのでここでもそれに従った。
 
 口有道谷(または大坊本谷)や万石谷も大広谷も飛騨川左岸の一次支流だが、この付近の河川は皆小規模の為か、河川名のほとんどが「川」では「谷」となっている。尚、飛騨川は木曽川最大の支流で、この一帯は木曽川水系である。

   
   
   

小坊より峠へ

   

<国道41号より分岐>
 峠道の久々野町側は飛騨川沿いに通じる国道41号より分かれて始まる。この付近、飛騨川右岸は険しい崖で、そこに通された国道は覆道(ふくどう)となっている。 落石や雪崩などを防止する為、半分トンネルのような構造としているのだ。その覆道の途中から唐突に道が分かれ、直ぐに横を流れる飛騨川を渡る。信号機はなく、分岐を示す道路標識などもない。 特に右折で入るのが怖い。勿論右折車線などないので、後続車を気にしながら対向車の間隙をぬって曲がらなければならない。覆道と言えども快適な国道だ。 まさかこんな所に分岐があるとは誰も思わないので、通る車のスピードは速い。まごまごしていると、後続車に追突されかねない。今回の峠道ではここが最大の難所である。

   

<小坊>
 国道が通じる右岸は久々野町木賊洞(とくさぼら)だが、飛騨川を渡った左岸側は久々野町小坊(こぼう)の地になる。高山市になる前の旧大野郡久々野町の大字小坊だ。 この橋の袂近辺は大字小坊内の大坊(おおぼう)と呼ばれるが、あまり大きな集落はなさそうだ。大字小坊の中心地はここより少し上流にある小坊になる。何だか大小が逆の様である。
 
 文献(角川日本地名大辞典)によると、地名の由来は「当地は河内(かわうち)郷7か村のうち土地の肥えた地で、開墾した田畑の地を大富・小富と称し、それがのちに大坊・小坊となったものという(後風土記)」とある。江戸期からの小坊村で、枝村として大坊村があった。明治8年(1875年)に位山(くらいやま)村の大字になり、その後明治16年からは河内(かわうち)村、明治30年から久々野村、昭和29年(1954年)からは久々野町の大字と移って行く。

   

大坊橋を国道方向に見る (撮影 2001. 5. 1)
手前が峠方向、橋の先に覆道の国道が通じる  
地理院地図←現在地)
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<大坊>
 飛騨川に架かる橋は大坊橋になる。この狭い橋を無事に橋を渡り切れば一安心、思わず記念写真を撮った(左の写真)。
 
 車が行き交う国道側とは打って変わって、こちらの大坊側はのんびりしている。地名の由来にもあったように、付近には平坦地が見られ、田畑が営まれているようだ。
 
<集落内>
 大坊橋を後に峠へと向かう。集落内に通じる狭いクランク状の道を行くと、間もなく単線のJR高山本線を小さな踏切で渡る。その後は大坊集落からどんどん離れ、口有道谷(あるいは大坊本谷)の左岸沿いを遡って行く。

   

<新大坊橋>
 ところで、最近の地図を見ると、大坊橋の下流1Km弱に新しく立派な橋が架けられた(地理院地図、まだ橋の記載はない)。新大坊橋と呼ぶそうだ。そこから踏切の先まで道が延びて来ているらしい。かつて、この峠道最大の難所だった大坊橋を、今では渡らずに済むようになったようだ。
 
<飛騨農園街道>
 新大坊橋から始まる現在の改修された峠道は「飛騨農園街道」と名付けられているそうだ。今回の峠は今では「飛騨農園街道の峠」とすべきである。

   

<口有道谷左岸沿い>
 道は大坊本谷を渡って口有道谷(くちうとうだに)の左岸沿いになる。谷は狭く、視界が利かない。平坦地がないので、沿道に田畑や家屋の類も皆無だ。その谷に沿って当時はまだ未舗装鵜の寂しい林道が続いていた(右の写真)。
 
 川の名の口有道谷(くちうとうだに)と言うのがちょっと面白い。最初はまだ小坊の地で、有道(うとう)はもう少しこの川を遡らなければなrない。そこで単に「有道谷」ではなく、有道に入る入口と言うことで「口有道」と呼んだのではないだろうか。


口有道谷左岸沿い (撮影 2001. 5. 1)
地理院地図←ほぼこの付近)
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不法投棄禁止の看板 (撮影 2001. 5. 1)

<沿道の様子>
 沿道の様子は寂しい。あるのは不法投棄禁止の看板くらいなものだ(左の写真)。好き好んでこの未舗装の峠道を走りにやって来る者は少ないことだろう。
 
 この峠道の特徴の一つは、ほとんど全線に渡って人家が見られないことだ。 大坊橋袂の大坊集落は別として、高山本線を渡ってから朝日町万石で国道361号に接続するまで、沿道には人家はおろか、目に付く人工物は皆無に等しい。 農道ということもあるのか、人の暮らしがまるで感じられない。道その物はそれ程険しくないが、何とも寂しい道である。
 
 峠からは口有道谷の川が一直線に下って来ていて、その川沿いの道もほぼ一直線に北東方向へと遡って行く。道の屈曲は少なく、勾配もまだ緩い。未舗装ながら安定した道だった。

   

<改修工事>
 大坊橋から2Km余りも走ると、何だか道の様子が変である。改修工事の真っ最中のようだ。まだ未舗装だが道幅は拡張され、アスファルト舗装を待っている状態だ。側らを流れる口有道谷も護岸の改修工事が進んでいる。

   
口有道谷の左岸沿い (撮影 2001. 5. 1)
改修工事が行われていた (地理院地図←ほぼこの付近)
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口有道谷を右岸へと渡る (撮影 2001. 5. 1)
地理院地図←現在地)
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<口有道谷右岸へ>
 大坊橋から4Km弱で道は口有道谷の右岸へと移って行く。その橋から先は既に舗装済みだった。センターラインがくっきり描かれた広い道だ。
 
<有道>
 尚、この右岸へ渡る地点の数100m手前からは、小坊(こぼう)から有道(うとう)の地に入っている。大字有道は口有道谷と大坊本谷の上流域に位置し、朝日町との境までが有道だ。
 
 江戸期からの有道村で明治8年(1875年)に位山(くらいやま)村の大字になり、それ以降は小坊と同じ経緯を辿っている。

   

 現在、この口有道谷沿いに集落は見られないが、大坊本谷沿いにも地図を眺める限り集落はなさそうである。それどころか一軒の人家さえ見られない。「うとう」というこのちょっと変わった読み方の地名の由来は、文献(角川日本地名大辞典)によると、「有道(ありみち)と号した武士が当地に隠遁し、山畑を開墾したことによるという(後風土記)」と出ている。隠遁(いんとん)するくらいなので、山深い地となるのだろう。
 
 橋の袂には木材を積んで小屋の様に屋根が被せられていた。薪にするにはやや大きそうだ。林ばかりが続く沿道にあって、僅かながらも人の営みが感じられる光景だった。


橋より大坊集落方向に見る (撮影 2001. 5. 1)
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<飛騨和牛工房>
 右岸沿いになって暫く進むと、この峠道には珍しく開けた区間に出る(下の写真)。右手に大きな建物が見えた。建屋の壁面に掲げられた看板に「飛騨和牛工 房」と出ている。牛の飼育には臭いなどの問題があり、人家の近くでは敬遠されがちだ。その点、この付近にも人は住んでいないようだ。

   
右手に飛騨和牛工房 (撮影 2001. 5. 1)
地理院地図←現在地)
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<再び未舗装路に>
 飛騨和牛工房の前を過ぎると、また谷は狭くなり、道の屈曲もやや多くなる。真新しい舗装が途切れ、再びダートとなった(下の写真)。 道筋はほぼ元のままなのだろうが、法面まで土が露出していて、明らかに改修工事の手が入っている様子だ。 当時使っていたツーリングマップル(4 中部 1997年3月発行 昭文社)には、峠前後が「荒れたダート 約9Km」と出ていた。 その道を走りたかったのだが、残念な気がした。それでも、このダートで少しはその雰囲気が味わえたかもしれない。

   
当時の未舗装路の様子 (撮影 2001. 5. 1)
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通行止箇所 (撮影 2001. 5. 1)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<通行止箇所>
 舗装まではされていないまでも、改修工事はどんどん先へと延びていた。もう昔の未舗装林道の姿はない。そして遂に「通行止」と看板が出ている箇所に至った。工事看板には次のようにあった。
 
 飛広第(?)号 県営広域営農団地農道整備事業
  飛騨東部2期地区第2工区27号道路工事
 区間 大野郡朝日村万石、久々野町有道地内

 
 当時はまだ高山市になる前の旧朝日村と旧久々野町である。

   
工事看板 (撮影 2001. 5. 1)
   

<峠への登り>
 この時は丁度春のゴールデンウィーク休暇の真っ最中だった。多分、工事も休みだろう。工事作業中なら直ぐ引き返す積りで、通行止箇所の先へとお邪魔した。
 
 徐々に峠へと登りだす。盛土をして本来の谷底より高い位置に道を通そうとしている。今後は空が開けて明るい道に生まれ変わるようだ。その脇に僅かに旧道が残っていて、そちらを抜ける。


左の旧道へと進む (撮影 2001. 5. 1)
地理院地図←現在地)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<峠直前>
 峠の300m程手前で再び工事中の本線に戻る。一帯の木々が切り払われ、見通しが良くなっていた。その先に峠の切通しが望める(下の写真)。元の峠道はこの辺りをクネクネ蛇行しながら登っていたのだろうが、もうほとんど痕跡を留めていない。

   
前方の切通しが峠 (撮影 2001. 5. 1)
峠の300m程手前 (地理院地図←現在地)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<工事看板>
 道路脇に大きな工事看板が立っていた。通行止箇所の工事看板とはまた別の施工業者によるものだった。
 
工事名 飛広第5号 県営広域営農団地農道整備事業
      飛騨東部2期地区第2工区25号道路工事
工事場所 大野郡朝日村万石、久々野町有道地内

   

峠手前に立っていた工事看板 (撮影 2001. 5. 1)

工事看板の一部 (撮影 2001. 5. 1)
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<整備効果(余談)>
 看板では整備効果として「久々野、朝日間が身近になり見通しがよく 楽にすれ違いができる道になります」とある。非常にもっともなことだ。道路本来の機能が改善される訳である。ただ、農道としては農林業の振興に関して何かあっても良さそうである。
 
 今回の峠道は、これまで飛騨川沿いをぐるっと回っていた所を、ショートカットで久々野・朝日間を結んでいる。 特に朝日町側は元村役場があり現在も高山市の朝日支所がある万石(まんごく)に通じる。久々野町側も大幹線路である国道41号に接続する。 久々野側・朝日側の双方にとってそれなりの利用価値はあるかもしれない。ただ、大都市である高山市街から見ると、ほぼ対角線上に峠道が通じる。 高山市街の住民にはあまり影響がないかもしれない。旅する者としても、やはり峠道の沿道に何かしらの施設などができる方が嬉しい。

   
   
   

   
工事中の「飛騨東部広域農道の峠」 (撮影 2001. 5. 1)
あるいは「飛騨農園街道の峠」
手前が高山市久々野町有道、奥が同市朝日町万石
地理院地図←現在地)
   

峠より旧久々野町方向を見る (撮影 2001. 5. 1)
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<峠の様子>
 既に旧久々野町と旧朝日村との境となる峰は大きく深く切り崩され、切通しの法面もコンクリート擁壁が一部完成していた。今まさに新しい峠の姿を現わそうとしている。一方、旧峠は空中に霧散したようだ。一目その姿を見たかったが、手遅れとなった。
 
 峠の旧朝日村万石側はまだまだ工事の真っ最中という雰囲気だった(下の写真)。側らに大型のショベルカーが二台置かれている。道の両側の法面は大きく崩され、広々としていた。

   
旧朝日村万石側から峠を望む (撮影 2001. 5. 1)
重機の後ろより道が一筋登っていた
地理院地図←現在地)
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<峠の旧朝日村側へ>
 ショベルカーを横目に峠の切通しをもう少し先に進む。ふと右上を見ると、ショベルカーの陰から狭い道が登って行く。急ごしらえの柵も取り付けられていた(下の写真)。あれは旧道の跡だろうか。


峠の旧朝日村側へ (撮影 2001. 5. 1)
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斜面の上に旧道の痕跡? (撮影 2001. 5. 1)
   

この先通行不能 (撮影 2001. 5. 1)
地理院地図←この辺り)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<通行不能>
 峠の頂上から100mも行くと、その先はまだまだ開削中で、車が通れる状態ではなかった。急な崖が下って行く。この峠の旧朝日村側は地形が険しい。工事もなかなか進まないのだろう。

   

左上に分岐する林道 (撮影 2001. 5. 1)

<林道分岐>
 通行不能の箇所から左手に狭い林道が分岐している(左の写真)。しかし、登って行くので峠道の旧道ではなさそうだ。それに、手前に工事用の小さな事務所か倉庫のような建屋があり、車では先に進めない。

   

<乗鞍岳の展望>
 通行不能箇所ではほぼ東へと視界が広がっていた。遠くに雪を頂いた大きな峰が見える。方角からして乗鞍岳が望めているようだった。


乗鞍岳を望む (撮影 2001. 5. 1)
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<旧朝日村側の旧道へ>
 工事中の本線はこれ以上先へ進めないことを確認し、峠に引き返した。次に、気になっていたショベルカーの脇へ上がる道を試してみる。 ちょっと登ると下に新しい峠の切通しを眺める位置に道のピークがあった(下の写真)。道は土が露出していて明らかに新しく開削したものだ。 多分、旧朝日村側の新道が未開通なので、旧道へと導く仮設の道だろう。それでも、一応ここが現在の峠である。 遂に元の峠は見ることができなかったが、完全に新道一色になる前に訪れることができただけでも良しとする。

   
この時の峠 (撮影 2001. 5. 1)
旧朝日村側から旧久々野町方向に見る
地理院地図←この辺り)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<標高>
 現在の地形図の等高線では、峠の標高は1,150〜1,160mで、約1,155mとしてみた。これは道路改修後の新しい峠の標高になる。元の峠はそれより数mは高いだろう。1,160m近くあったのではないだろうか。
 
<峠道の経緯>
 この旧久々野町と旧朝日村を繋いだ広域農道の峠が開通したのは、それ程古いことではなさそうだ。 1988年5月発行のツーリングマップ(中部 2輪車 昭文社)では、まだ峠の前後2〜3Kmに渡り車道が通じていない。 久々野町小坊(有道)と朝日村万石・大廣よりそれぞれ谷沿いに途中まで車道が延びているが、どれも町村境の手前で途切れていた。
 
 次に、1997年3月発行のツーリングマップル(4 中部 昭文社)や2001年1月発行の県別マップル道路地図(21 岐阜県 昭文社)では、 峠は開通しているが、繋がったのは久々野町と朝日村大廣(おおひろ)になっている。久々野町側が約8Km、朝日村大廣側が約5Kmで、合計約13Kmの峠道の開通だ。 この時のツーリングマップルに「荒れたダート 約9Km」との記載があった。まだまだ多くが未舗装のままだったようだ。 また、久々野町側から「舗装化が進行中」ともあった。
 
 その後、2003年4月発行のツーリングマップル(4 中部北陸 昭文社)では、峠部分は共通で、朝日村側の途中より分岐して万石にも車道が通じている。
 
 以上は手持ちの道路地図からの類推で正確さには欠けるが、概ね次のようになる。
 ・峠の車道開通は1990年頃〜で、最初は久々野町と朝日村大廣を結んでいた。
 ・朝日村万石へも通じたのは2000年前後。
 
 当初は峠道の多くが未舗装だったが、1990年代後半頃から徐々に舗装化工事が進行。2000年からは本格的な広域農道の改修工事が開始され、2001年には新しい峠が姿を現し始めた。 その一方で旧峠は姿を消した。元の峠道の寿命は10年から長くても20年程度と短かったようだ。

   
   
   

旧朝日村側へ

   

<旧朝日村側へ>
 旧道だか仮設の道だかやや判然としないが、未舗装の道が旧朝日村側へと続いて行った。正面に再び乗鞍岳が望めるようになる(下の写真)。

   

旧朝日村側への道 (撮影 2001. 5. 1)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

正面奥に乗鞍岳を望む (撮影 2001. 5. 1)
   

<大廣への分岐>
 朝日村側峠直下の急斜面をほぼ旧道となる道で蛇行しながら下ると、前方が大きく開けた。今まさに建設中の新道が正面の尾根の真上に通じる。その手前を右に分岐する道もある(下の写真)。

   
右に大廣への分岐 (撮影 2001. 5. 1)
尾根上を直進する道は万石へ
地理院地図←この辺り)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

 地図を確認すると、右に分かれるのが大廣への道で、元々はそちらにのみ道が通じていた。 後に、尾根上を進み、その先の1,105mのピーク(地理院地図)を右に巻いて万石方向に下るルートが別途開削されたようだ。 万石は旧朝日村の中心地であり、大都市の高山市街にもより近い。大廣に通じるより利用価値が高いのもしれない。現在、飛騨農園街道と呼ばれるのは、その万石に至るルートを指すようだ。 一方、先にあった大廣への道は改修が進んでいない模様だ。
 
<大広谷水域>
 両側が切れ落ちた尾根の上を行く開削中の道は如何にもダイナミックだ。この尾根は大広谷と万石谷の分水界だと思う。万石への道もほんの僅かだが大広谷の水域を通過していることになる。

   

旧朝日村側の通行止箇所 (撮影 2001. 5. 1)
万石谷右岸沿い
地理院地図←この辺り)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<万石谷沿い>
 道は1,105mのピークを巻いて再び万石谷水域に戻り、暫く下ると万石谷の川沿いとなる。視界は広がらず、沿道にこれといって目を引く物もなかったと思う。未舗装路を坦々と走る。険しさはない。ポツンと置かれた通行止の看板を通り過ぎる(左の写真)。
 
 間もなく国道361号に丁字路で接続し、今回の峠道は終りとなる。朝日町側の道程は約5.5Kmで、大坊橋からだと合計約13.5Km。新大坊橋を起点とする改修後の道はもう少し短いのかもしれない。
 
 それにしてもその全線で、沿道の人家はほぼ皆無だったと思う。一方、国道361号が通じる飛騨川沿いには多くの人家が並ぶ集落が広がる。急に開けた所に出て、何だか抜け道のような峠道だった。
 
 この後、まだ国道だった頃の美女峠へと向かった。

   
   
   

 以上は今(2022年11月)からもう21年余り前の旅の一コマだ。未舗装路をまごつきながらノロノロ走っても、1時間足らずの峠道だった。 現在の飛騨農園街道などと呼ばれる改修後の快適な道なら、30分も掛らないだろう。ただ、旅の味わいとしては、元のダート路の方が良かったのは言うまでもないと思う、飛騨東部広域農道の峠であった。

   
   
   

<走行日>
・2001. 5. 1 旧久々野町→旧朝日村/ジムニーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 21 岐阜県 昭和55年 9月20日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 21 岐阜県 2001年 1月発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2022 Copyright 蓑上誠一>
   
   
   
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