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引牛越
  ひきうしごえ  (峠と旅 No.334)
  奈良と和歌山の県境を細々と越える峠道
  (掲載 2025. 3.24  最終峠走行 1994.10.10)
   
   

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引牛越 (撮影 1994.10.10)
峠の前後はどちら側も奈良県吉野郡十津川村大字上湯川
峠の標高は750m余り (地理院地図の等高線より)
道は県道735号・龍神十津川線

峠は県境にはないのだが、
この峠道は実質的に奈良県と和歌山県旧龍神村を繋いでいる
いつものことながら、もう31年近く前の峠の様子である

   

   

<掲載動機(余談)>
 ちょっと前のことになるが、NHKの「ドキュメント72時間」で国道425号を取り挙げていた。この国道は紀伊半島を南北に横断する道になっている。 東の熊野灘に面した三重県尾鷲市から、途中奈良県を通り、西の紀伊水道に面した和歌山県御坊市に至る。ただ、以前は丁度牛廻越(うしまわしごえ)の前後がまだ主要地方道・田辺十津川線だったので、国道425号が紀伊半島を横断する一筋の道だという認識は、全く持っていなかった。NHKの番組を見て、なるほど一本に繋がっていたのかと、やっと理解した次第だ。
 
 その牛廻越のちょっと南にあるのが今回の引牛越(ひきうしごえ)になる。国道にほぼ平行に通じる県道の峠で、牛廻越と同様、奈良県と和歌山県を繋ぐ峠道になっている。 また、どちらの峠名にも「牛」の字が使われているが、文献(角川日本地名大辞典)によると、これはかつての「牛車道」の名残らしい。奈良県十津川村と和歌山県龍神村(現田辺市)との間で、峠を越えて牛が行き来したそうである。
 
 牛廻越を越えた時(2004年5月)はやっとデジカメが普及しだした時期で、写真フィルムの残りを気にせずに何枚でも写真が撮れるようになっていた。しかし、引牛越の時はまだフィルムカメラしかなく、あまり峠道の写真を撮っていない。 いつかまた越えて、思う存分デジカメで撮ろうと思っていたのだが、どうももう訪れる機会がなさそうだ。そこで簡単ながら、今回掲載することとしたのだった。最近、四国の峠ばかり取り挙げていたが、ここでちょっと目先を変えようとも思う。

   

<峠の所在>
 峠の前後はどちら側も奈良県吉野郡(よしのぐん)十津川村(とつかわむら)の大字上湯川(かみゆかわ)になる。でも、これだけではしょうがない。 峠を西に下ると、やがて県境を過ぎて和歌山県田辺市(たなべし)龍神村(りゅうじんむら)丹生ノ川(にゅうのがわ)に入ることになる。峠自身は県境に位置しないが、実質的にこの峠道は奈良県十津川村と和歌山県田辺市とを結んでいる。
 
 尚、文献などでは「丹生ノ川」を「にうのがわ」としているが、ここでは現代風に「にゅうのがわ」とする。また「丹生川」と書く場合もあるようだが、「丹生ノ川」を採用する。 更に、「丹生ノ川」の場合の「川」は「がわ」と発音することがほとんどのようだが、龍神村の観光パンフレットの一つには「Nyunokawa」と出ていて、「かわ」とも発音するのかもしれない。

   

<地理院地図(参考)>
 国土地理院地理院地図 にリンクします。


   
本ページでは地理院地図上での地点を適宜リンクで示してあります。
   

<十津川村>
 十津川村の「十津川」は「とつかわ」と読むのが正しいようだ。一方、サスペンスドラマのトラベルミステリー・十津川警部シリーズの方は「とつがわ」と呼んでいる。このドラマは人気があるようで、今でも時々BSなどで再放送されている。 私も嫌いではなく、「サスペンス」というフォルダーまで作ってこの種のテレビ番組を多数録画して楽しんでいる。

   

<龍神村>
 現在の龍神村は田辺市の一部になっている。平成17年(2005年)5月1日に合併したそうだ。もう随分前のことで、驚く。元は日高郡(ひだかぐん)の龍神村だった。 明治22年(1878年)に龍神・小又川・広井原・三ツ又・湯ノ又の5か村が合併して成立して新しい龍神村になっている。ただ、この時点ではまだ大字丹生ノ川は龍神村に属していない。
 
<大字丹生ノ川>
 一応、大字丹生ノ川の経歴について触れてみる。江戸期からの丹生野川(にゅうのがわ)村、その村名は川の名・丹生ノ川から来ている。 明治22年に丹生野川・殿原・東・宮代・西の5か村が合併して上山路村(かみさんじむら)が成立、旧丹生野川村は大字丹生ノ川となる。更に昭和25年(30年とも)、龍神村が上山路村・中山路村・下山路村を合併したことで、丹生ノ川は龍神村の大字となった。

   

<水系>
 峠は県境にはないが、地形的には峠の基本通りに分水界上に位置する。
 
<上湯川/熊野川水系>
 峠の東側には上湯川(かみゆかわ、地理院地図)が流れ下る。峠はその源頭部と言っていいようだ。尚、牛廻山(うしまわしやま、地理院地図)方面から流れ下る支流があり、多分、古谷川(地理院地図)という名であろう。地図を眺めると、そちらの方が上湯川本流のようにも見えるが、ここでは一応引牛越を
上湯川源流の源頭部と考えておく。
 
 上湯川は遥々東に流れ、やはり牛廻越方面から東流して来た西川(にしかわ、地理院地図)に注ぎ、その西川も直ぐに本流の十津川(とつがわ)に注ぐ。こちらの「川」は「がわ」になるようだ。
 
 十津川は熊野川(くまのがわ)の上流部の名称で、熊野川水系となる。熊野川は下流域で三重・和歌山の県境として流れ、最終的に熊野灘に注ぐ(地理院地図)。尚、熊野川は新宮川(しんぐうがわ)という別称もある。複雑だ。
 
<丹生ノ川/日高川水系>
 一方、峠の西側には丹生ノ川(にゅうのがわ、地理院地図)が流れ下る。文献(角川日本地名大辞典)などでは丹生川(にうがわ)で掲載されているが、地理院地図などでは地名と同じく丹生ノ川と書かれている。ここでは「丹生ノ川」としておく。
 
 丹生ノ川本流の源流はその支流の北又谷(地理院地図)の様に見えるが、他にも幾つかの支流があり、あまりはっきりしない。峠自身は北又谷水域にない。ただ、文献では「十津川村の引牛越を水源地」と書いている。峠付近の広い範囲が丹生ノ川の源流である。
 
 丹生ノ川は西流して日高川(ひだかがわ)に注ぎ(地理院地図)、日高川は最終的に紀伊水道に注ぐ(地理院地図)一水系を成す。
 
 よって、引牛越は熊野川水系と日高川水系の分水界上に立つ。大きく見ると、紀伊半島を熊野灘側と紀伊水道側に分ける立ち位置だ。この状況は牛廻越も同様だが、牛廻越の方が熊野川、日高川のどちらの水系に於いても、引牛越より上流側に位置する。標高も高い。その意味で、やっぱり牛廻越は格上の峠となる。

   

<国道425号の峠(余談)>
 国道425号は紀伊半島を横断するので、そこには紀伊山地を越える大きな峠が存在する。それが牛廻越だろうと思っていた。奈良・和歌山の県境でもある。しかし、十津川の存在が状況をちょっと複雑にする。

   
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牛廻越 (撮影 2004. 5. 4)
手前が和歌山県龍神村小又川(現田辺市)
奧が奈良県十津川村迫西川
標高は約820m(地理院地図の等高線より)
道は国道425号(旧主要地方道・田辺十津川線)


<もう一つの峠>
 十津川は紀伊半島北部の天辻峠地理院地図)方面(源流は大峰山脈)から、ほぼ紀伊半島の中央を東西に分かつように南流して下る。 紀伊山地は一つの山塊などではなく、その丁度真ん中に十津川が流れていた。牛廻越や引牛越は十津川の西側に位置するので、すると東側にも何らかの大きな峠があることになる。 調べてみると国道425号は白谷トンネル(しらたにとんねる、地理院地図)を越えていた。 行仙岳の下を通る、昭和45年(1970年)度竣工のトンネルだ。丁度、引牛越を越える前日に訪れていた(下の写真)。牛廻越の標高は約820mだが、白谷トンネルは坑口標高でも約850mある。国道425号には他にもいくつかの峠があるが、白谷トンネルと牛廻越が東西横綱となるようだ。

   
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白谷トンネル (撮影 1994.10. 9)
トンネル坑口のこちら側は奈良県吉野郡下北山村大字浦向
反対側は同県吉野郡十津川村大字大野
坑口標高は850m余り(地理院地図の等高線より)
道は国道425号(旧白谷林道)


   
   

峠の十津川村側

   

<十津川村で野宿(余談)>
 奈良県の十津川村は7回程旅している。宿泊や野宿も何度か経験がある。村の面積が広いということも関係するだろう。十津川村の観光パンフレットには、「十津川村は日本で一番大きな村」と出ていた。
 
 引牛越を越えた前日も、玉置山(たまきさん、たまきやま、地理院地図)の近くで一夜を明かした。多分、十津川村の村道平谷竹筒線と呼ばれる道沿いである。 道路脇の残土置き場のような空き地にテントを張った(地理院地図)。 車道から丸見えで、あまりいい野宿地とは思えなかったが、他に当てがなかった。ただ、谷を見渡す開けたロケーションで、眺めがよく解放感はあった。玉置山の山頂近くには玉置神社が鎮座し参詣客も少なくないが、夜になれば目の前の寂しい村道を通る車は皆無となった。

   
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野宿の朝 (撮影 1994.10.10)
道路の直ぐ脇の残土置き場のような所にテントを張った


 翌日は人目に付く前にと早々とテントを撤収、一晩厄介になった野宿地を後にした。最近の優雅なキャンプとは大違いで、傍から見ればみすぼらしいかぎりだったろう。 それでも、こうして気ままに野宿しながら旅ができるのどかな時代だったように思う。そんな旅のスタイルは、今では難しいのではないだろうか。玉置神社は後年妻と一緒にのんびり参拝し、御朱印を頂いたりした。
 
<県道735号へ>
 十津川村から引牛越への峠道は、国道425号から県道735号・龍神十津川線が分岐して始まる。十津川沿いに通じる国道168号方面から国道425号を進むと、直ぐに県道分岐の看板が出て来る(地理院地図)。その先、国道425号は狭い。紀伊半島を横断する一本の国道になるには、この牛廻越の峠道が最後まで険しい区間として残った。

   
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県道分岐の看板 (撮影 2004. 5. 4)
この先、国道425号は狭い
この後、牛廻越を目指す

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県道分岐の看板 (撮影 2004. 5. 4)
(この日は生憎の雨模様)

   

<県道分岐の看板>
 看板では、国道425号の行先は「龍神村」で、途中「昴の郷」(すばるのさと)があることになっている。県道735号の行先は龍神村(西)で、途中に上湯温泉がある。龍神村西(にし、地理院地図)は丹生ノ川が本流・日高川に合流する地点で(地理院地図)、正に引牛越の西側起点となる。ただ、途中県道735号から国道371号に乗り換えている。

   

<新西川トンネル>
 国道425号から県道735号が分岐した直ぐ先に新西川トンネルがある(地理院地図)。このトンネル前後500mくらいだけ、センターラインがある立派な道に改修されている。この部分だけは国道らしい。
 
<西川>
 ところで、トンネル名になっている「西川」とは何か。十津川の支流・西川の河川名から来ているとするには違和感がある。やはり地名であってほしい。「西川」は余りに単純な地名なので、かえって調べ難い。
 
 西川水域は明治22年以降、西十津川村(にしとつかわむら)になったが、その大字に「西川」は見当たらない。大字の一つ、西川最上流・牛廻越の手前が大字迫西川(せいにしがわ)の地だが、文献の迫西川村(近世)の項に、「江戸期〜明治22年の村名。吉野郡のうち。幕府領。村高は、「慶長郷帳」では西川のうちに含まれ」とあり、そこに西川が登場する。西川村とは記していないが、江戸期に西川という地域名があったものと想像する。

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新西川トンネル手前 (撮影 2015.10.13)
左に県道735号が分岐
電光掲示板には「五條市〜新宮市 通行可能」とあるが
それは168号のことだが?

   
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新西川トンネル手前で分岐する県道735号 (撮影 2018. 5.29)
2度目にホテル昴に泊まった時

   

<昴の郷(余談)>
  「昴の郷」は新西川トンネルを抜けた直ぐ先にあり、牛廻越の峠道沿いということになるが、引牛越についてもその起点近くの立地である。「昴の郷」の敷地は広く、駐車場の一角にトイレもあり、牛廻越や引牛越を越える時に、ちょっと立ち寄るのに便利なスポットとなっている。
 
 2004年5月に牛廻越を越えた時は、トイレを借りる為だけに寄った。今度また十津川村を旅した時には是非泊まってみようと思っていた。その11年後の2015年10月にやっと妻と一緒に十津川温泉・ホテル昴.に宿泊する機会を得た。 よくよく調べてみると、その3年後にもまた泊まっている。この十津川温泉付近は広い十津川村の中にあって南の中心地的な存在になっている。見所や宿泊施設も多い。非常に分かり易い立地でもある。

   
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左手に「昴の郷」 (撮影 2018. 5.29)
国道425号の新西川トンネルで抜けた先

   

 例のNHK番組「ドキュメント72時間」では、牛廻越も出て来るかと見ていたら、ロケ車らしい車が急坂を登って行く様子がちらっと映っただけだった。さすがに牛廻越の峠前後に人は居ない。 インタビューする相手が見付からなければこれは仕方ない。代わって、「昴の郷」での取材は多かった。見知った所なので、関心を持って視聴できた。

   
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「昴の郷」にある宿泊施設 (撮影 2015.10.14)
十津川温泉・ホテル昴

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「昴の郷」の施設案内 (撮影 2015.10.14)

   

<十津川警部シリーズ(余談)>
 ホテル昴で面白かったのは、ロビーに西村京太郎作の推理小説「十津川警部シリーズ」がずらりと展示してあったことだ。どれでも手に取って自由に読めた。同じ「十津川」繋がりである。村は「とつかわ」、警部は「とつがわ」であることも説明されていた。

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十津川警部シリーズの蔵書 (撮影 2018. 5.29)
ホテルのロビーにある

   
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「昴の郷」にあった野猿 (撮影 2015.10.14)
実際に乗ってみた

<野猿(余談)>
 また、「昴の郷」の敷地の一角に実際に乗れる野猿(やえん)があった。勿論、妻と一緒に体験してみた。四国・徳島の奥祖谷二重かずら橋のちょっと上流側にある野猿も経験がある。 そちらは実際に深い祖谷川を渡るもので、なかなかスリリングであった。「昴の郷」の方はホテルの前に流れる西川を渡る訳ではない。危険がないよう、川岸に川と並行に野猿が渡されていて、下は砂利で、完全に観光用である。 しかし、この近辺ではかつで実生活に野猿が使われていたのかもしれない。野猿ではないが、柳本橋という吊り橋も架かっていて(地理院地図)、この付近では行楽に事欠かない。
 
 全くの余談だが、柳本より南の尾根沿いを登った所に果無(はてなし)集落がある。この近辺は世界遺産になっている。車道も通じていて、その果無集落は一度見ておく価値がある。

   
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世界遺産・熊野参詣道 (撮影 2015.10.14)
果無(はてなし)集落

   

<西川隧道(余談)>
 これも余談だが、「昴の郷」の大きな駐車場の東の外れに、ぽっかり穴が開いている。何だろうと行ってみると、トンネルだった。扁額に「西川隧道」とある。現在の国道425号の新西川トンネルの前身となるトンネルのようだ。開通日などは不明だが、現代ではとても車道のトンネルとは思えない狭さである。

   
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「昴の郷」の敷地 (撮影 2015.10.14)
東に見る
この正面に西川隧道がある

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西川隧道の西側坑口 (撮影 2015.10.14)
まだ照明が灯っている

   

 新西川トンネルの竣工は1998年3月なので、少なくともそれ以前には西川隧道は使われていたことになる。国道425号は1993年4月に牛廻越経由となったそうで、すると西川隧道は暫く国道としても利用されていた訳である。

   
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西川隧道西側坑口の様子 (撮影 2015.10.14)
「危険高電圧線 制限高 3.0M」とある
その上部に扁額も掛かる

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西川隧道西側坑口の扁額 (撮影 2015.10.14)
「西川隧道」とある

   

 西川隧道は今でも照明が灯り、通行可能な状態を維持していた。こうなると、旧国道のトンネルを実際に車で走ってみたくてしょうがない。宿をチェックアウトした後、早速パジェロ・ミニを走らせた。 延長は120mくらだが、とても長く感じられた。対向車が来るとアウトだが、まずその心配は要らない。どうやら、昴の郷から果無集落への遊歩道の一部として、今でもこの西川隧道が利用されているようだ。

   
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西川隧道を抜ける (撮影 2015.10.14)
このトンネルは旧国道425号
(ドラレコ画像)

   

 西川隧道を抜けた先は現在は県道735号の途中だが、かつては牛廻越と引牛越の分岐点であったことになる。更に西川隧道さえ無かった頃は、ちょっとした峠越えの道がトンネルの上部に通じていたらしい(地理院地図)。

   

 十津川村ではホテル昴などで十津川村に関するパンフレットを各種仕入れて来てある。見所は多い。
 
 ただ、県道735号を進んだ先には上湯温泉程度しか観光案内はなかった。一般の観光客が訪れる地ではない。「昴の郷」の十津川村観光案内図では、県道沿いに多分オオカミがイノシシを追っている漫画が描かれていた。自然が多いという意味だろうか。峠まで約25Km、長々と寂しい道が続く。

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十津川村観光案内図 (撮影 2015.10.14)
「昴の郷」にあった看板より

   
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十津川村観光案内図の部分拡大 (撮影 2015.10.14)
奈良県側の牛廻越と引牛越の道が描かれているが、
沿線にあまり観光スポットはない

   

 余談ばかりで県道を一歩も進んでいない。峠越えをした当時は写真フィルムが貴重で、あまり写真を撮らなかった。また、走ること自身に夢中で、写真にほとんど関心がなかった。
 
 途中、県道脇に流れる上湯川の谷の様子を1枚写真に撮った程度だ(下の写真)。そこは小壁(こかべ)と地図にある付近だったと思う(地理院地図)。対岸に耕作地が望め、農作業小屋のような建物も見られた。その手前の谷には吊り橋らしい橋が架かり、小壁の住民はそれを渡って畑まで行くのだろうかと思った。なかなか険しい景観であった。

   
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上湯川の谷の様子 (撮影 1994.10.10)


<県道沿いの様子>
 小壁は大字では出谷(でだに)に含まれるようだ。その手前の「昴の郷」付近までは大字平谷(ひらだに)で、小壁から少し上流側に行くと大字上湯川に入る。
 
 道は常に上湯川の谷の左岸に通じる。それは峠まで続く。ただ、谷は深く、車道と川面はほとんど遠い存在だ。また、沿道には林ばかりで遠望がなく、長い道程は退屈を感じさせる。そこで地図にない主要な分岐をツーリングマップに書き留めてみた。下出谷の分岐(地理院地図)、迫野(せいの)の分岐(地理院地図)、入谷(いりたに)の分岐(地理院地図)。大井谷の分岐(地理院地図)などである。
 
 当時はネットを使って地理院地図などを閲覧できる訳でなく、主な幹線路を除けば、ツーリングマップ程度ではどこにどんな道が通じているかさっぱり分からない。現地で確かめる以外方法はなかった。 こうした分岐の中にはどこかへ抜けられる道があるかもしれないと思っていた。しかし、今になって地理院地図を調べてみると、どの道も車道としては行止りであった。

   

<小さな切り通し>
 道は狭く長く、早く峠に着かないかと思っていたのが間違いの元だったようだ。小さな切り通しに差し掛かったので、てっきり峠だと勘違いし、貴重な写真フィルムを使って写真を撮った(下の写真)。

   
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峠と勘違いした切り通し (撮影 1994.10.10)


 しかし、どうもおかしい。切り通しを過ぎて暫く下ったが、その後また道は登り始めたのだ。当時は詳しい地形図もなければ勿論GPSによるカーナビもない。山林に囲まれた中では現在地などなかなか把握できない。

   
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切り通しの先 (撮影 1994.10.10)
如何にも峠っぽいのだが・・・


 今回地理院地図をしっかり調べてみると、上湯川本流沿いからその支流、多分、古谷川(ふるやがわ)という川沿いへと移る地点に、小さな鞍部が存在する(地理院地図)。 ここを峠と勘違いしたらしい。本来の峠はまだまだ先で、引牛越はそうあまくはなかった。

   

<峠直前>
 古谷川から再び本流沿いに戻ると、道は上湯川の源頭部に向かって素直に登って行く。上湯川の谷は全体に渡って比較的真っ直ぐ東西方向に延びている。峠直前では沿道の林さえ切れれば、遠くまで見通せそうである。しかし、なかなかいい遠望ポイントがないのが残念だ。

   
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多分、峠直前の上湯川の谷の景色 (撮影 1994.10.10)
林が多く、あまり遠望がない

   
   
   

   

<峠に着く>
 疑心暗鬼もあったのか、本来の峠ではたった一枚の写真しか撮っていなかった。遥々上湯川の谷を遡って来て、たった一枚である。今ならデジカメを使い、途中にあった分岐や沿線に点在する集落の様子など、いくらでも写したものをと思う。

   
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引牛越(再掲) (撮影 1994.10.10)
両側ともコンクリートで固めた切り通し


<峠について>
 文献(角川日本地名大辞典)にはさすがに引牛越専用の項はないが、牛廻山(うしまわしやま)の項に若干の記述が見られる。それによると、山の北側に牛廻越、南側に引牛越があるとしている。 「現在は両側ともに林道が開通」とも記されているが、随分古い話である。現在は、一方は国道、一方は県道に昇格している。

   

<峠名について>
 「何々越」という名は、勿論峠そのものを指す場合もあるが、峠道全般を示す事も多い。あるいはそのどちらの意味にも使われるケースもある。引牛越や牛廻越の場合、峠道全般を示すニュアンスの方が強いようである。 地理院地図を見ても、引牛越や牛廻越の文字は道に沿って描かれている。明らかに峠名を記す場合と異なっている。
 
 ただ、他に峠名がある訳ではないので、引牛越や牛廻越という名称は、ある時は峠道、ある時は峠自身を指すと、その場に応じて適宜に判断すればいいように思う。
 
 引牛越や牛廻越の名にはどちらも「牛」の字が使われる。牛廻越の方は牛廻山に直接由来しているのだろう。文献では引牛越や牛廻越はかつての「牛車道」だったとしている。 牛を使って荷駄を運んだから牛車道なのか、あるいは牛の売り買いや農耕用の牛の貸し借りで牛が移動したのか分からないが、そのどちらの場合もあったように想像する。それで牛の字が山名や峠名・峠道の名に登場したようだ。

   

<峠の位置>
 文献は「かつての牛車道は廃道同様となっている」と記す。確かに今の車道と以前の牛車道とは、その道筋は全く異なるかもしれない。しかし、峠部分は地形的にしっかり峰の鞍部を越えていて、その位置は変わりようがないと思う。引牛越も牛廻越も、現在の峠そのものをかつては牛が行き来したのだはないか。
 
 ただ、引牛越の場合、ちょっと気になる地点がある。峠の300m程手前で、道は分水界の真横を通る(地理院地図)。直ぐ脇に分水界を越える鞍部が通じる。上湯川の真っ正面の源頭部でもあり、そこがかつての峠であった可能性が捨てきれない。分水界を越えた丹生ノ川本流沿いへと下るには、幾分近道であるようにも思う。ただ、こればかりは想像の域を脱しない。

   

 馬を使って荷物の峠越えをすることは多かったようだが、牛が峠を越えるケースはあまりなかったような印象がある。馬の方が険しい峠道には向いていたからだ。牛が越えたからには、引牛越はそれなりに整備された峠道ではなかったかと想像する。 峠を通じて十津川村と奥日高地方の龍神村との間にいろいろな交易・交流があり、重要な交通路であったようだ。広くは大和国(やまとのくに)と紀伊国(きいのくに)を結ぶ峠道でもある。

   
   
   

峠の龍神村側

   

<河俣>
 峠を西に下ってもまだ暫く十津川村だが、分水嶺は越えている。道は熊野川水系から日高川水系へと大きく移っている。住所は大字上湯川のままだが、分水界のこちら側は河俣地区と呼ばれるようだ。地理院地図にも河俣(こうまた)と呼ぶ集落が記されている(地理院地図)。
 
 「河俣」という地名はやはり川の合流地点であることを示しているのだろう。北からの支流・北又谷(地理院地図)と、南からの支流(地理院地図、多分、八重佐谷)を合する地である。その合流点(地理院地図)以降を丹生ノ川(にゅうのがわ)、時に丹生川(にゅうがわ)と呼ぶようだ。
 
<丹生ノ川沿い>
 「丹生」(にゅう)とい地名は比較的あちこちで見掛ける。確か水銀に関係した名称だったと思う。この丹生ノ川も水銀が産出されたものか。また、文献によると「丹生津姫命」という女神に関係あるとのことだった。 紀伊国(和歌山県)の一之宮は丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)で、後年妻と訪れ御朱印をもらっている。「丹生津姫」と「丹生都比売」、どういう関係なのかは分からない。

   

<県境>
 河俣集落も過ぎ、丹生ノ川右岸沿いを進んでいると、何でもない林の中で県境を跨ぐ(地理院地図)。峠と違い、こちらには看板が立っているので間違いようがない。しっかり写真を2枚撮った。

   
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県境 (撮影 1994.10.10)
奥が和歌山県、手前が奈良県

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県境の看板 (撮影 1994.10.10)

<県境看板>
 和歌山県側は当時はまだ龍神村であった。現在は田辺市の一部になっている。県境看板も変わったことだろう。

   
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県境 (撮影 1994.10.10)


 奈良県側方向にも県境看板はあったのだが、かなり痛んでいた。辛うじて「奈良県 十津川村」と読めた。人気(ひとけ)もない寂しい県境である。

   
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県境の看板 (撮影 1994.10.10)


<菅野>
 和歌山県側に入って最初に出て来るのは大字丹生ノ川の菅野という集落になる(地理院地図)。奈良県側の河俣とは目と鼻の先で、丹生ノ川沿いに立地するお隣同士の集落だ。村が違うだけなら分かるが、県が違うというのは驚きである。
 
<丹生ノ川>
 丹生ノ川本流沿いともなると、道と川との距離も近く、川面も頻繁に望めるようになる。十津川村の上湯川沿いは概ね谷の上部に道が通じていたのとはちょっと雰囲気が異なる。沿道に点在する集落も、龍神村の方が開けていて大きいように感じる。
 
 上湯川は熊野川水系上流部の十津川水域にあった。文献などでは十津川という川名は「遠くの川」に由来するとしている。紀伊山地中央部の奥深くに流れる川だ。一方、丹生ノ川はそのままどんどん西に流れ、日高川となって比較的近距離で紀伊水道に注ぐ。丹生ノ川の谷は比較的広々としているという印象を持つ。立地的にも繁華な沿岸部に近いと言えるのではないか。

   

<加財>
 道は絶えず丹生ノ川右岸沿いを下る。途中加財(かざい)という集落を過ぎる。そこには大きな分岐がある(地理院地図)。広域基幹林道・龍神本宮線が始まっているのだ。この林道はその名の通り本宮町(ほんぐうちょう)に至る。今回調べてみると本宮町も田辺市の一部になっていた。この林道の坂泰隧道(地理院地図)を抜けた先では坂泰林道を分ける。
 
 
丹生ノ川沿いは一度も通しで走ったことがない。龍神本宮線や坂泰林道を走る為に、いつも加財の分岐を曲がってしまっていた。これらの林道を訪れたのはもう古いことで、殆ど写真も記憶もない。龍神本宮線を少し進むと丹生ノ川に加財橋(かざいはし)が架かる(地理院地図)。そこの写真が残るばかりだ(右の写真)。

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加財橋(かざいはし) (撮影 1994.10.10)
広域基幹林道・龍神本宮線に架かる

   

 十津川村程ではないにしろ、龍神村も4、5回は訪れていて、宿泊経験もある。この村では何と言っても龍神スカイラインが楽しかった。

   
   
   

<あとがき(余談)>
 引牛越に近い牛廻越のページを掲載したのは比較的最近のことだと思っていたら、何とまあ、もう20年も前であった。 当時、それまでのダイアルアップ回線からADSLに切り替えたばかりだった。ダイアルアップは遅いしエラーばかりだしで、容量の大きなページを作ってアップロードする訳にはいかなかった。 それがADSLになると、ほとんどストレスがなくなった。容量をあまり気にせず、ページが作れるようになった。
 
 同時に写真もデジカメが普及していた。ただ、当初は横のドット数が1600程度と画質が粗かった。また、ネット界もまだまだ発展途上であった。今なら地理院地図などの地図類は見放題だし、一般のウェブサイトも充実している。 グーグル・ストリートビューやグーグル・アースなどという便利なサイトも無料で利用できる。この20年でのITの発展は目を見張る。
 
 一方、旅に出掛けるということそのものは、あまり変りがないように思う。スマホやカーナビなどの便利なツールが使えるようになったが、自分で車を運転し、自分の足で歩き、自分の目で見る、こうした行為に大きな違いはないようだ。 「旅」の魅力は、遠い昔の江戸時からも、その真髄は同じように思える。
 
 これからは、人類が開発したIT関連ツールも惜しみなく駆使し、旅の真髄をたっぷり楽しもうと思った矢先、肝心な自分の身体がもう言うことを聞かなくなっていた。 先日も、思い切って近場の旅行に出掛けてみたものの、体調を崩して一泊で帰って来た。帰りの車は全部妻の運転に頼る始末。私は助手席で終始ぐったりしていた。 今は精々30年以上も前に撮った旅行の写真を高精細なネガフィルム・スキャナでデジタル化し、容量を気にせず長々とホームページを作るくらいしかない。 こんな形でしか旅を楽しむことがでいないのかと思う、引牛越であった。

   
   
   

<走行日>
・1993. 3.27 十津川村で野宿/ジムニーにて
・1994.10. 9 白谷トンネルを越え、十津川村で野宿/ジムニーにて
・1994.10.10 奈良県→引牛越→和歌山県/ジムニーにて
・1996.11.14 昴の郷近くを通過/ジムニーにて
・2000. 1. 3 昴の郷近くを通過/ジムニーにて
・2004. 5. 4 牛廻越/パジェロ・ミニにて
・2015.10.13 ホテル昴宿泊/パジェロ・ミニにて
・2018. 5.29 ホテル昴宿泊/ハスラーにて
 
<参考資料>
・関西 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 5 関西 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 関西 2015年8版1刷発行 昭文社
・角川日本地名大辞典 29 奈良県 1990年 3月 発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 30 和歌山県 1985年7月 発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・十津川村のホームページ
・田辺市のホームページ
・十津川村の観光パンフレット各種
・龍神村の観光パンフレット各種
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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