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日坂峠   (仮称)
  ひさかとうげ  (峠と旅 No.304)
  小さな峠の旅を味わう峠道
  (掲載 2019.10. 6  最終峠走行 2004. 9.25)
   
   
   
ここは県道40号の峠 (撮影 1995. 5. 4)
手前は岐阜県揖斐郡揖斐川町日坂
奥は同町坂内坂本
道は県道40号(主要地方道)・山東本巣線
(坂内坂本側の一部に県道274号・揖斐高原線)
峠の標高は約680m (地形図の等高線より読む)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
ここは本来の日坂峠ではないが、
その峠に代わって通じた車道の峠になる
今回この一枚の写真が見付かり、初めて越えたのは24年前であることが分かった
 
 
 
   

<新日坂峠>
 昭和38年(1963年)頃に通じたこの車道の峠に、名前は付けられなかったようだ。但し、峠道の大筋やその役割からして、地形図にも記載のある日坂峠(ひさかとうげ)の代替峠であることは明白だ。それにしても、名無しのままでは何かと不便である。そこでここでは、元の日坂峠と区別する意味で「新日坂峠」と呼んおきたい。あくまでここだけの仮称である。
 
<掲載理由>
 少し前に八草峠(回想)を記載した。その時、旧坂内村近辺の峠についていろいろ思い出していた。その中の一つに今回の日坂峠があった。県境越えの八草峠や鳥越峠、険しい林道のホハレ峠などに比べると、隣り合う小さな村同士を繋ぐ小さな峠道で、走り応えなどは期待できない。それでも、幹線路の国道を外れ、ちょっとした峠の旅を楽しむには打って付けの峠である。
 
<ぎふこくナビ>
 日坂峠は小さな峠なので、文献(角川日本地名大辞典)などではほとんど登場してくれない。 そこで、以前にも紹介した旧岐阜国道工事事務所(現岐阜国道事務所)の「ぎふこくナビ」というホームページを参考にした。 現在、もうこのホームページはないのだが、一部の内容をメモリに記憶しておいたのが偶然残っていた。「ぎふこくナビ」は岐阜県の峠に関して貴重な資料を提供してくれていたのだが、残念である。

   

<所在>
 峠はほぼ東西に通じ、東は岐阜県揖斐郡(いびぐん)揖斐川町(いびがわちょう)日坂(ひさか)、旧揖斐郡久瀬村(くぜむら)大字日坂である。揖斐川町になってから「久瀬」の地名が見られないのは惜しい。
 
 西は同町坂内坂本(さかうちさかもと)。「坂」が重複するのが何だか変な感じである。旧揖斐郡坂内村(さかうちむら)の大字坂本である。峠直下に諸家(もろか)という小集落があり、日坂峠は久瀬村側の日坂集落とこの諸家を結ぶ峠道となる。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<水系>
 峠一帯は木曽川水系・揖斐川(いびがわ)の水域にある。日坂側では揖斐川の支流・日坂川が流れ下る。 日坂川の源流は旧久瀬・春日(かすが)・坂内の3村の境界にある貝月山(かいづきやま山、標高1,234m)の北東麓で、始め貝月谷として流れ下り、峠道が沿う頃から日坂川と名を変える。
 
 坂内坂本側は揖斐川の支流・坂内川(広瀬川とも)の更に支流・白川が流れ下る。源流はやはり貝月山の北西麓で、白川の上流部は品又谷(しなまた)と呼ばれる。峠道は品又谷に沿い、諸家で新穂谷(しんぽ)を合わせて以降を白川と呼ぶようだ。

   

<立地>
 峠は広く伊吹山地(いぶきさんち、伊吹山脈とも)内にある。 伊吹山地は岐阜・滋賀・福井3県の接点となる三国岳(みくに(が)だけ)から南の伊吹山(1,377m)に至る主稜を成し、岐阜・滋賀の県境、更に中部地方と近畿地方を画する山地ともなる。日坂峠はその主稜を越える訳ではないが、稜線から2Km余りの距離にあり、稜線越えの峠とは関係が深い。

   

<峠名>
 日坂峠とは、坂内川流域の旧坂内村側から見て、旧久瀬村大字日坂へと越える峠という意味であろう。一方、その日坂集落の住人はこの峠を日坂峠とは呼ばない。峠の向こうにある諸家(もろか)集落に至る諸家峠と呼んだそうだ。
 
 一般に日坂峠と呼ぶのは、坂内村側にとってより利用価値が高かった為ではないだろうか。支流の坂内川水域からより開けた本流の揖斐川沿いに出る峠道である。
 
 日坂峠にしろ諸家峠にしろ、峠を挟んだ小さな集落同士を繋ぐ小さな峠というイメージを受ける。

   

<峠の村(余談)>
 坂内川流域を占める旧坂内村は、明治30年(1897年)に坂本・広瀬・川上の3か村が合併して成立している。「坂本」の由来は、「他地域との往来に坂の多い峠越えをしなければならなかったことによる」のではなかとされる。更に旧坂本村の「坂内」の地名も、「周囲との交通がすべて峠越えの坂をめぐらすことによる」と文献にある。今の揖斐川町坂内坂本の「坂」はどちらも峠道のことであった。
 
<坂内川の難所>
 現在、坂内川沿いに国道303号が通じるが、その前身の車道は明治27年(1894年)に揖斐川本流から川上まで開通している。 現在でも横山ダム(昭和39年竣工)に注ぐ直前数Kmの坂内川は、蛇行を繰り返す険しい峡谷となっている。車道開削以前の昔から、この区間は難所の一つではなかったろうか。そこで、川沿いではない峠道の利用が多かったのではないか。
 
<鉄嶺峠・寒谷峠>
 そういう目で地形図を見ていると、鉄嶺峠(くろがね)や寒谷峠という峠の存在に気付く。どちらも坂本集落から始まり、鉄嶺峠は真っ直ぐ揖斐川沿いに、寒谷峠は峠を越えた先で揖斐川沿いと日坂川沿いの日坂・白川沿いの諸家(ころか)へと道が分かれる。これらの峠道は坂内川沿いを通らずして外界と往来する為であったろう。
 
<鉄嶺トンネル>
 尚、国道303号は八草トンネル開削などの大規模なバイパス路開発が進んでいる。その一つの西横山バイパスでは鉄嶺トンネル(仮称)の掘削が始まっているようだ。世の中からほとんど忘れかけていた鉄嶺峠の復活である。

   
   
   
旧久瀬村より峠へ 
   

揖斐峡大橋を渡る (撮影 2001.11.12)

<揖斐峡(余談)>
 旧揖斐川町北方(きたがた)から旧久瀬村東津汲(ひがしつくみ)にかけての揖斐川は断崖絶壁の峡谷になっていて、景観がよいことから揖斐峡(いびきょう)と呼ばれている。 しかし、現在の揖斐川沿いに通じる国道303号は新北山トンネルや久瀬トンネルなどを抜ける為、あまり景観を堪能できない。 そこで、旧久瀬村乙原(おとはら)より国道を外れ、対岸の三倉(みくら)に至る揖斐峡大橋(昭和43年8月竣工)を渡る。橋の上からは吸い込まれそうに満々と水をたたえる揖斐川を眺めることができる。
 
 しかし、揖斐峡という名は今回初めてはっきりと認識した。私の旅は揖斐峡を見たいが為に幹線路を外れた訳ではない。 立派な国道を走っていても詰らないので、気ままに横道へとそれたまでである。後から考えてみると、結局そのことが揖斐峡を堪能する結果となったようだ。それが揖斐峡とは知らず、カメラのシャッターを切っていた。

   
揖斐峡大橋より望む揖斐峡 (撮影 2001.11.12)
揖斐川の上流方向を見る
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<山東本巣線>
 今回しっかり調べてみると、揖斐峡大橋以降、揖斐川右岸を遡る道は県道40号(主要地方道)・山東本巣線(県道254号との併用)であった。 この道が行く行くは新日坂峠を越えている。「西美濃もみじライン」という愛称の様な名が付いている。その名からして、揖斐峡は秋の紅葉がきれいなのであろう。
 
<品又峠(余談)>
 山東本巣線の本巣(もとす)は岐阜県の本巣市(旧本巣町)であるが、山東(さんとう)とは一体全体どこのことだろうか。 地図を追っかけてみると、滋賀県の米原市、旧山東町のことだった。山東本巣線は新日坂峠を越えた先、更に品又峠で伊吹山脈を跨いで滋賀県に入って行くのだ。 以前の道路地図では品又峠前後には全く道が描かれていなかった。最近は峠近くに奥伊吹スキー場などができ、車道が延びているようだ。ただ、一般車が通行できるかどうか。

   
揖斐峡の様子 (撮影 2001.11.12)
揖斐川右岸の県道40号上より眺める
前方に見えるのは旧久瀬村の外津汲(とづくみ、とつくみ、とつぐみ)に架かる橋
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<日坂川沿い>
 上空に国道303号の久瀬大橋や、その奥に久瀬ダムを望んだ後、道は支流・日坂川の狭い谷間へと進んで行く。
 
 この日坂川が揖斐川に注ぐ付近は西津汲(にしつくみ)となるようだ。ほとんどの集落は揖斐川本流沿いにあり、日坂川沿いに入ってからは建物をほとんど見ない。


前方の橋は国道303号の久瀬大橋 (撮影 2001.11.12)
奥は久瀬ダム
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久瀬ダム方面からの道を合わせる (撮影 2001.11.12)
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<久瀬ダム方面からの道>
 道は日坂川右岸に通じる1.5車線幅のアスファルト道だ。直ぐにも久瀬ダム方面からの道が左岸より合流して来る。 久瀬大橋を渡る国道とは立体交差になっているので、国道から直接この道を来ることはできない。 しかし、蛇行する揖斐川にぴったり沿った道で、かつての揖斐川沿いに通じていた幹線路ではなかったかと思わせる。
 
<道標>
 久瀬ダムへの分岐の角に、小さな道標がポツンと立っている。「東津汲 1KM 15分」、「日坂 7KM 100分」と出ていた。 多分、東海自然歩道の道標である。東津汲(ひがしつくみ)は揖斐川の東(左)岸にあり、旧久瀬村の中心地である。この先の日坂川上流部に位置する日坂の地への案内は、この東海自然歩道の看板程度しかないのが寂しい。

   

久瀬ダムへの分岐点より日坂方向を見る (撮影 2001.11.12)
右手に寂しく道標が立つ
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側らに立つ道標 (撮影 2001.11.12)
   

<国道からのアクセス路>
 道は一旦川沿いを離れ、石灰工場の中を通って再び日坂川右岸に戻って来る。すると、右手の日坂川を渡って来た立派な2車線路に接続する。国道303号からの最短のアクセス路となる県道254号である。今はそちらの方が日坂への正規のルートと言える。
 
 以前は分岐の角に「日坂 5Km」、「藤橋 5Km」と出ていた。藤橋とは旧藤橋村のことで、揖斐川源流の村であった。今は揖斐川町の一部となり、住所名に「藤橋」の名は出て来ない。 かつての村の中心地は、現在は揖斐川町東横山となるようだ。もう、この案内看板はないものと思う。

   

国道からの県道254号に接続 (撮影 2001.11.12)
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分岐に立つ看板 (撮影 2001.11.12)
   

<道程>
 日坂川沿いをまだ1Kmも進んでいないが、東海自然歩道の道標の「日坂 7KM」が、看板では「日坂 5Km」になっている。日坂集落は日坂川沿いに細長く点在するので、道標の方は日坂集落の上流部、看板の「日坂 5Km」は日坂の中心部辺りを指すのだろう。
 
 概ね、峠の日坂側は10Kmの道程で、日坂集落の端までが約7Km、その先峠までの残りが約3Kmとなる。
 
 坂本側は峠から坂本集落で国道303号に接続するまで約9Km、峠から最初の集落諸家(もろか)までが3Km余りである。


分岐を国道方向に見る (撮影 2001.11.12)
   
   
   
日坂へ 
   

<日坂村>
 日坂川沿いを遡ること約3.5Kmで日坂の地に入る。ここより上流側、貝月山に至るまでの日坂川水域が大字日坂である。江戸期からの日坂村で、明治前期は日坂上村と日坂下村の2村に分かれていたそうだ。明治30年(1897年)に西津汲などと共に12か村が合併して久瀬村が誕生し、大字日坂となった。
 
<小坂>
 これまでの日坂川は狭小な谷を形成し、集落が発達するような余地はなく、沿道に人家を見ない。しかし、大字日坂に入って暫く行くと小坂(おさか)という小集落を過ぎる。日坂の中心地からはやや離れた存在だ。
 
<日坂の中心地>
 その内、日坂川の谷が俄かに広がりだす。あの下流部分の狭さがウソの様だ。こうして日坂の中心地に入ると、沿道に人家が点在し、周囲には田畑が広がる。 下流側から下村・上村と2つの集落が続く。元々はその集落内に県道が一本、細々と通じていただけだが、私が訪れた頃から2車線化が進み始めていた。工事個所も通過した。

   
県道40号を下流方向に見る (撮影 2001.11.12)
下村集落付近
道は2車線化の工事が進んでいた
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集落を過ぎた先 (撮影 2001.11.12)
少し谷が狭まる
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 今頃は立派な県道が集落をバイパスして通じることだろう。そこをあえて集落を通る細い道に入れば、味わいのある峠の旅が楽しめることと思う。
 
 
<集落の外れ>
 日坂の中心地は2.5Km程続いたが、また沿道から人家が消え、谷は一時期狭くなる。そこに快適な2車線路が延びる。白線の白色も鮮やかで、できたばかりの道に見えた。

   
   
   
新日坂越分岐 
   

<日坂越分岐>
 また谷が広がりだすと、左手に大きな分岐が出て来る。日坂越(ひさかごし)への道である。但し、本来の日坂越とは別物で、新日坂越とも呼ぶべき大規模林道関ヶ原・八幡線(春日・久瀬区間)の峠である。旧春日村の美束(みつか)へと通じる。

   
分岐を日坂集落方向に見る (撮影 2004. 9.25)
この右手が新日坂越へ
   

<分岐の様子>
 この分岐に関しては既に日坂越のページで掲載済みだが、改めて写真を載せてみる。今回は精細なフィルムスキャナを使っている。ところが、どういう訳か赤みの多い画像になってしまった。実際以上に紅葉が強調されているようだ。


分岐の様子 (撮影 2001.11.12)
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林道関ヶ原・八幡線方向を見る (撮影 2001.11.12)
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左の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2004. 9.25)
これはデジカメ
   

分岐に立つ看板 (撮影 2001.11.12)

分岐に立つ看板 (撮影 2001.11.12)
   

林道の看板 (撮影 2001.11.12)
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林道の看板 (撮影 2001.11.12)
  

<国見峠(余談)>
 日坂越で旧春日村に出ると、その先国見峠で滋賀県に越えることができる。 国見峠の道は大久保越(おおくぼごえ)とか千疋越(せんびきごえ)などとも呼ばれ、八草峠(旧久加越)・鳥越峠(とりごえ、とりこし)・新穂峠(しんぽ)・品又峠(しなまた)などとともに美濃・近江間の文物の交流を担った。 国見峠の往来は、更に日坂越でこちらの久瀬村まで及んだものと思う。尚、日坂川沿いの東海自然歩道は日坂越へと続いて行くようだ。

   
分岐の先 (撮影 2004. 9.25)
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上の写真の少し先 (撮影 2001.11.12)
この先で2車線路は終わる
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<分岐以降>
 分岐を過ぎると、そこから上流は貝月谷となる。それまで新しい2車線路だった道が、急に狭くなる。そのまま貝月谷沿い方向に進めば揖斐高原スキー場へと入って行く。 周辺に建物が少し見えるが、スキー場関係の建屋だろうか。かつてこの地はブクリヤと呼ばれ、第2次大戦後の開拓地だったそうだ。

   

この先、右に曲がってS坂で斜面を登る (撮影 2001.11.12)
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S坂を登り切った所 (撮影 2001.11.12)
正面の鞍部がほぼ峠
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<左岸の山腹へ>
 一方、県道は川沿いを外れて左岸の山腹をS坂で急登し、高みに出る。

   
   
   
日坂側の旧道 
   

<林道分岐>
 今回の峠は日坂峠の後継であり、元の峠道がどこかで分岐する。S坂を登り切った所で右手に寂しい林道が分岐していた。これが本来の峠へと続く旧道だろうと思い、入口の様子を熱心に写真に収めた。林道はチェーンで通行止とされていて、何の看板もなかった。

   

S坂を登り切った所 (撮影 2004. 9.25)
この右手から林道が分岐する

右手に林道分岐 (撮影 2004. 9.25)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

 当時はカーナビがなく、GPSで正確な現在地を把握することができなかった。地形図などの閲覧も容易でない。今回調べてみると、その林道は峠の旧道ではなかった。しかし、その道筋は川沿いに日坂峠より低い鞍部へと進んでいて、こちらの方がよほど峠道に適しているように思える。

   
ここは旧道入口ではなかった (撮影 2004. 9.25)
   

<旧道入口>
 本当の旧道入口はその林道分岐から更に300m程進んだ所にあったようだ。現在の地形図では点線表記の徒歩道で旧道が描かれる。多分、これまで一度も車道が通じたことはないであろう。荒廃も進み、道が分岐しているようには見えず、気付かずに通り過ぎてしまったようだ。

  

<スキー場>
 道は高みを進む。間もなく日坂川(貝月谷)の谷を広く望める箇所に出る。眼下には人家などではない比較的大きな建物が見える。スキー場のレストハウスなどであろう。それにしても、下流部では狭い峡谷の日坂川だが、その上流部でこれ程雄大な高原状を成すというのが驚きだ。

   
日坂川上部の谷を望む (撮影 2001.11.12)
スキー場関係の施設が並ぶ
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<車道の開通>
 この日坂川上流部に日坂スキー場が開設されたのは昭和38年(1963年)のことである。この観光開発の一環として日坂地区に通じる県道の改修が進み、かつての日坂峠に代わる新しい車道の峠も誕生したという訳だ。
 
<揖斐高原>
 この地の観光化は旧坂内村側の品又谷を含んだ貝月山北麓一帯に及び、スキー場以外にも日坂キャンプ場(貝月リゾート)・ゴルフ場(揖斐高原カントリークラブ)などが建設されたようだ。
 現在、この付近を「揖斐高原」と呼び慣わしている。「日坂」とか「貝月」を冠するのではなく、もっぱら「揖斐高原」を付けて「揖斐高原スキー場」などと呼ぶことが多いようだ。
 
 日坂集落内で見掛けた県道の2車線化も、この観光開発の継続工事であろう。これで国道303号から揖斐高原スキー場までのアクセスが改善される。ただ、道の改修はスキー場止まりである。その先、S字の急坂を登って峠に到る区間は改修されないのではないかと思う。

   
   
   
 
   

<峠へ>
 道は2車線路ではないが、十分の幅員があるアスファルト道路だ。また、険しい山岳道路などでもないので、峠までは容易に辿り着く。

   
日坂側から見る峠 (撮影 2001.11.12)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<峠の様子>
 峠は貝月山から北に続く尾根上にあり、780.1mのピークとの間の鞍部に位置する。尾根を切り崩してあるので峠は切通し状になっている。標高は約680mだ。
 
<旧峠との違い>
 ちなみに、元の日坂峠は約660mで、新日坂峠の方が20m程高い。また、日坂峠の南約850mの地点を大きく迂回しているので、道程も長い。旧道が約1. 1Kmであるのに対し、その間の新道は約3.4Kmと3倍以上だ。距離が長く、標高も高いコースに車道を開削したことになる。

   

峠から日坂側を見る (撮影 2001.11.12)
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峠の手前をスキー場へと道が分かれる (撮影 2001.11.12)
ジムニーの背後の道
   

<峠の日坂側の様子>
 切通しの少し手前で谷の方へと道が一本分かれて行く。その先には電波塔のような物が立っている。

   

スキー場への道 (撮影 2001.11.12)
この時はまだ立入禁止の看板はなかった

左の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2004. 9.25)
「私有地につき、立入禁止」の看板が立つ
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<スキー場を望む>
 以前、立入禁止の看板が立っていなかった時、ちょっと中に入って見学させてもらった。峠のある鞍部から麓へと雄大にスキーゲレンデが下っていた。また、リフトが峠近くまで登って来ているようで、鉄柱が並んで立っていた。

   
スキー場の様子 (撮影 2001.11.12)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<新峠の開削理由>
 それでちょっと考えたことがある。新日坂峠が元の日坂峠とは随分異なった所に開削されたのは、地形的な要因だとこれまで思っていた。旧道の近くには車道が開削し難かったのだろう。 しかし、新峠近くにスキーリフトが来ているのを見て、この峠道はスキー場などの建設やその後の保守用の道路ではないかと気付いたのだ。それなら元の峠より標高が高く、道程も長いことがうなづける。揖斐高原の観光開発がなければ、この場所に峠は生まれていなかったかもしれない。

   

<池(余談)>
 他に何かないかと峠の日坂側をうろついてみたが、これといって特筆すべき物はない。付近に有名な山でもあれば、尾根伝いに登山道などが延びていることがあるが、この新しい峠にはその様な山道は通じていないようだ。ただ、小さな池が道路脇にあった程度である。

   

道路脇に藻が浮かぶ池 (撮影 2004. 9.25)

日坂集落方向を見る (撮影 2004. 9.25)
この左手に池がある
   

<木製の看板>
 切通しの日坂側手前、電柱の脇に木製の看板が立つ。1995年に訪れた時にはまだなかったのだが、2001年に来た時は既に何が書いてあるか分からない状態だった。この峠に関しては情報が少ない。何が記されていたか、とても気になるところだ。

   

切通しの手前に看板 (撮影 2001.11.12)
赤い看板は「鳥獣保護区」

看板はもう読めない (撮影 2004. 9.25)
   

<吉ヶ谷>
 赤い鳥獣保護区の看板の下には、「日坂 平成12年度特別保護地区見取図」の看板がある。こちらははっきり読めるのだが、あまり参考にならない。この付近の字名が細かく載っているが、元の日坂峠付近は字吉ヶ谷となっている。峠から日坂側に下る川を吉ヶ谷と呼ぶのではないだろうか。

   

特別保護地区の看板 (撮影 2001.11.12)
地図は右が北
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

特別保護地区の看板 (撮影 2004. 9.25)
やや破損している
   

<村境の看板>
 現在はこの付近一帯が揖斐川町だが、以前の峠は久瀬村と坂内村の境であった。切通しの部分には、それぞれの側から「坂内村」、「久瀬村」と小さいながらも看板が立っていた。それが唯一峠らしかった。今はもうこれらの看板はないのだろう。

   
日坂側から見る峠 (撮影 2004. 9.25)
左手奥の看板には「坂内村」とある
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
   
   
峠の坂本側 
   
坂本側から見る峠 (撮影 2001.11.12)
左手の看板には「久瀬村」とある
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2004. 9.25)
   

<峠の坂本側>
 峠自身は何の変哲もない。看板類もほとんど見ない。歴史が浅い峠だからか、どことなく味わいも感じられない。ただただ、アスファルトの道が峰を越えて行く。


峠から坂本側に下る道 (撮影 2001.11.12)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
   
   
坂本側へ下る 
   

<品又峠分岐>
 坂本集落へと下る途中、品又峠への分岐がある。そちらが県道40号の続きでもある。しかし、以前の地図では数100m行った先の揖斐高原CCで行止りだった。品又峠の存在もあまり知らなかったので、何の関心もなかった。
 
 品又峠は加須川嶺越(かすがわとうげごえ)などとも呼ばれ、美濃(岐阜県)と近江(滋賀県)との文物交流が行われたそうだ。近江方面から品又峠を越えて坂内村へ、更に日坂峠を越えて日坂を結んだ。

  

<出作集落品又>
 品又峠分岐から下流は白川の上流・品又谷沿いになる。この付近より上流側の品又谷はちょっとした高原状を呈す。かつてこの地に出作集落の品又があったそうだ。 近くに耕地を持たない坂本などの農家が、品又を出作地として水田などを耕作したらしい。坂内川沿いの坂本集落から品又までは白川沿いに8Km程の登り坂が続く。 車などがない時代、日々通うことは困難だ。そこで、農作業の多い季節の間だけ住み込む仮の住居などもあったものと思う。品又への出作りは昭和20年頃まで続けられたそうだ。
 
 その後、坂内村の過疎化などにより出作地は荒廃した。その跡地にできたのがゴルフ場やクラブハウスであった。

   
品又谷沿いを下る (撮影 2004. 9.25)
沿道に時折建物が見えるが、スキー場関連だろうか
   

親水広場の前 (撮影 2004. 9.25)
この右手に広場がある

<親水広場>
 道は県道274号・揖斐高原線と変わって尚も品又谷沿いを下る。峠から2Km程の山側にちょっとした園地が設けられている。道路脇に小さな看板が立ち、「二本杉親水広場」とある。 広場には東屋が設けられ、そこに清水が湧いている。喉を潤したり顔を洗ったりと、一休憩には持って来いだ。ただ、トイレの設備はない。

   
親水広場 (撮影 2004. 9.25)
岡本さんが清水を使う
   

親水広場より峠方向を見る (撮影 2004. 9.25)

親水広場の看板 (撮影 2004. 9.25)
   

<旧道入口>
 東屋の前を過ぎ、親水広場の奥へと進むと、ロープが張られている。その先には道らしきものが暗い林の中へと続いていた。しかし、もう使われている様子はなく、路面にも草が生い茂るばかりだ。 側らには小さな沢水が流れ下って来ていたが、これが親水公園の湧水になっているのだろうか。

   

親水広場の奥 (撮影 2004. 9.25)

ロープの先の道の様子 (撮影 2004. 9.25)
   

 地形図で確認してみても、これが日坂峠への旧道入口で間違いないようだ。品又谷沿いには出作集落品又やその先の品又峠を越える道が古くから通じていた筈である。その道から日坂峠への峠道が分かれていたものと思う。現在の親水公園がその分岐点だったのだろう。「二本杉親水広場」の「二本杉」とは、この分岐点の呼称ではなかったかと想像する。

   
   
   
親水公園以降 
   

<諸家>
 旧道分岐の二本杉親水広場から更に1キロ少しで諸家(もろか)の集落に出る。品又谷に新穂(しんぽ)谷が注ぐ周辺に人家が集まる。下流の坂本集落を除けば、白川沿い最大の集落となる。 「ぎふこくナビ」では諸家と日坂の間は歩いて1時間30分だったとする。日坂上村から旧道入口まで約2.6Km、旧道区間が約1.1Km、旧道を過ぎて諸家までが約1.3Km、合計5Km前後である。そこを所要1時間半なら日坂峠はそれ程険しい山道ではなかったと思える。
 
<新穂峠>
 諸家は近江国と結ぶ品又峠と新穂峠の道が合流する地点でもあり、ちょっとした交通の要衝だったのではないか。新穂峠は諸家産の紙や出作集落品又産の繭の搬出路だったそうである。尚、関ケ原敗戦後、三成や秀吉の母が逃れたのがこの新穂峠だったとのこと。

  

<峠道の変遷>
 また、遠く富山からは売薬さんが八草峠(古くは久加越)を越え、諸家に訪れ、更に日坂峠を越えて日坂まで来ることもあった。日坂峠は国境の峠などではないが、そうした主要な峠道の補助的な役割も演じたようである。
 
 それが明治20年代になって坂内川沿いに車道が通じ始める。坂に囲まれた坂内村だったが、これにより揖斐川本流沿いに大垣市街方面との交通が便利になる。 車道の通じない八草峠・新穂峠・品又峠などは次第に寂れて行く。日坂峠も広域の物流などとは縁遠くなる。それでも昭和20年代頃まで、この諸家を経由して紙や繭の流通が行われ、久瀬村の馬喰たちが牛を引いて滋賀県木之本で開かれた牛市まで往来したようである。
 
 昭和38年には日坂峠に代わる車道が開通し、諸家と日坂の2つの集落間の往来は格段に便利となる。しかし、その頃には坂内村などの過疎化が進んで出作集落品谷もゴルフ場に変わり、クラブハウスやホテルなども立った。新日坂峠は観光開発に利用されるばかりだ。
 
 更に最近ではそのゴルフ場もあまり振るわない様子である。揖斐高原と名付けられた貝月山麓のスキー場へはもっぱら日坂側からアクセスされる。そもそも冬期に新日坂峠は除雪されるのだろうか。
 
 新日坂峠も今では諸家集落の者が車で揖斐川沿いに出る時に便利に使う程度の峠であろう。それも、鉄嶺(くろがね)トンネル(仮称)が開通すれば、諸家の住民の足も遠のくかもしれない。

   
白川沿いの道の様子 (撮影 2004. 9.25)
   

<白川沿い>
 白川沿いに通じる県道274号・揖斐高原線はすこぶる快適である。沿道には田畑も見えるが、それ程広くはない。車ではあっと言う間に白川の小集落も過ぎる。

   
そろそろこの先に坂本集落が見えて来た (撮影 2004. 9.25)
   
   
   
坂本 
   

<坂本>
 白川が坂内川に注ぐ付近に坂本の集落が広がる。現在は集落をバイパスして坂内川沿いに2車線路の国道303号が通じるが、それより一本南側に通じるのが元の国道である。その道沿いに素朴な坂本の集落が佇む。江戸期からの坂本村で、白川や諸家はその枝郷だったそうだ。

   

坂内村案内図の看板 (撮影 1995. 5. 4)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<坂内村案内図>
 旧国道と県道274号が交わる付近が坂本の中心地となろうか。「本村」と呼ばれるのもこの地かもしれない。
 
 その小さな交差点の角に、以前は「坂内村案内図」と題した看板が立っていた。揖斐川本流側から坂内川沿いに坂内村を訪れると、最初に出て来るのがこの坂本集落である。 それでここに坂内村の案内が出ていたものと思う。現在の快適な国道303号を走っていては、坂本の素朴な集落の佇まいも、この味のある看板も目にすることはできなかった。 こういう所をのんびりと旅するのが、本来の旅の味わいというものであろう。坂内村が揖斐川町に変わった今、例の看板はどうなったであろうか。

   

 坂内村案内図の一部を以下に掲載する。これも詳細なフィルムスキャナを購入したお陰である。案内図では品又峠・新穂峠の名も見える。品又谷沿いには揖斐高原クラブハウス・ホテルとあるが、この建物はもう閉じられているようだ。

   
坂内村案内図の一部 (撮影 1995. 5. 4)
(地図は下が北)
   

<国道303号に接続>
 坂本集落を過ぎると丁字で国道303号に接続する。以前の道路看板では、右手方向は「藤橋」(旧藤橋村のこと)となっていたが、今は揖斐川市街となっているようだ。新日坂峠を越えるより、県道274号から国道303号と走り繋いだ方が、やはり便利である。

   

この先、国道303号 (撮影 2004. 9.25)

国道の道路看板 (撮影 2004. 9.25)
   

<初めての新日坂峠>
 1995年5月に滋賀県側から八草峠を越え、ホハレ峠下で野宿、翌日はホハレ峠まで往復した後、久瀬村の小津渓谷へと向かった。その途中で坂内村案内図の看板を写真に撮っている。 単に国道を走っているだけではこの看板にはお目に掛かれない。もしかしたらとアルバムを調べてみると、このページの最初に掲載した一枚の写真が見付かった。まぎれもなく新日坂峠であった。 当時のことなどもう全く覚えていないが、この峠を最初に越えたのはその時であったようだ。証拠写真は撮って置くものである。

   
   
   

 こんな小さな峠道でも、調べてみるといろいろな歴史を秘めている。ある時、日坂の住民が峠道で野犬に襲われそうになる。救いを求めて思わず地蔵を拝むと、野犬は去り、事なきを得た。 それに感謝し、峠に一体の地蔵を建立したという。そんな話が「ぎふこくナビ」に紹介されていた(「ぎふこくナビ」では地蔵の写真が掲載されていた)。
 
 かつては牛も通える日坂峠であったが、今に残る旧道は人が歩くのも困難な程に荒廃している。峠の地蔵ももう人の目に触れることはない。日坂峠の名さえも人の記憶に登ることは稀であろう。せめて車道の峠を新日坂峠と呼び、その名を留めるのもいいかと思う、日坂峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1995. 5. 4 坂内村→久瀬村 ジムニーにて
・2001.11.12 久瀬村側から峠まで、その後日坂越へ ジムニーにて
・2004. 9.25 日坂越から日坂峠を越えて坂内村へ キャミにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 21 岐阜県 昭和55年 9月20日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 21 岐阜県 2001年 1月 発行 昭文社
・旧岐阜国道工事事務所(現岐阜国道事務所)の「ぎふこくナビ」(現在はありません)
・その他、一般の道路地図やネットなど
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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