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堀割峠・川島峠
  ほりわりとうげ・かわしまとうげ  (峠と旅 No.327)
  旧美郷村の山間部・東山へと至る峠道
  (掲載 2024. 7.24  最終峠走行 2015. 5.26)
   
   
   
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堀割峠 (撮影 2015. 5.26)
手前は吉野川市美郷字奥丸
奥は同市川島町桑村
道は徳島県道(主要地方道)43号・神山川島線
峠の標高は約335m (文献などより)
ご覧の通り峠は長い切り通し
それが峠名「堀切」の由来とか

   

   

<掲載動機/美郷村>
 少し前に経の坂峠(倉羅峠)を掲載してみた。開けた吉野川沿いから登って吉野川市(よしのがわし)美郷(みさと)を通り、峠を越えて鮎喰川(あくいがわ)上流部の神山町(かみやまちょう)へと通じる峠道だった。 その先、更に雲早隧道の峠霧越峠となかなか険しい峠が待っている。
 
 途中の吉野川市美郷は吉野川支流・川田川(かわたがわ)の中・上流域の山間部に位置し、以前の美郷村(みさとそん)になる。川田川沿いに通じる国道193号以外、村と外界との交通は殆ど峠道となる。 その中で今回の堀割峠は村の第2の生命線とも言えそうな重要路だ。僅か8Km余りと短い峠道だが、美郷村は吉野川市になる前から何度か旅をした地なので、掲載しておこうかと思っていた。

   

<所在/川島町桑村>
 峠道はほぼ南北方向に通じ、北は徳島県吉野川市(よしのがわし)川島町(かわしまちょう)桑村(くわむら)になる。吉野川市は2004年に鴨島町、川島町、山川町、美郷村の4町村が合併して成立した。 よってそれ以前の桑村は旧麻植郡(おえぐん)川島町の大字桑村になる。吉野川市になってからの住所表記では、「桑村」の前の「大字」は付けないそうだ。
 
<「縺v>
 尚、地理院地図で「桑村」を探していたら見付からない。代わりに「繿コ」と出ていた(地理院地図)。「縺vも「桑」と同じく、訓読みで「くわ」、音読みで「そう」と読むようだ。本稿では勿論「桑」の字を使う。
 
<所在/美郷字奥丸>
 峠の南側は同県吉野川市美郷(みさと)字奥丸(おくまる)で、旧麻植郡(おえぐん)美郷村(みさとそん)字奥丸になる。旧美郷村では大字は中村山と別枝山の2つしかなく、他の地域では直ぐに字名が来る。

   

<地理院地図(参考)>
 国土地理院地理院地図 にリンクします。


   
本ページでは地理院地図上での地点を適宜リンクで示してあります。
   

<道/神山川島線>
 峠には徳島県道(主要地方道)43号・神山川島線が通じる。大きく神山町と川島町とを繋ぐ県道ということになる。ただ、神山町に至るには堀割峠の他にもう一つ、焼野峠(地理院地図)を越える必要がある。
 
<寄井川島線>
 県道神山川島線になる前は県道寄井川島線と呼ばれていた。県道番号は多分243号だったと思う。神山町に「寄井」という地名がある(地理院地図)。この県道は昭和47年(1972年)10月から12月に掛け、自衛隊により特別整備されて立派な自動車道となったそうだ。

   

<水系>
 峠の北側は広く吉野川本流右岸に面する。細かくはその支流の桑村川(地理院地図)右岸の水域であることは確かだが、その幾つもの支流に跨って峠道が通じているようだ。最終的には天神谷(地理院地図)の上部辺りに峠は位置するが、あまり重要なことではない。大ざっぱに言って吉野川平野を見渡す位置である。
 
 峠の南側は、吉野川の支流・川田川(地理院地図)の支流・東山谷川(ひがしやまだにがわ、地理院地図)の支流・奥丸谷川(おくまるだにがわ、地理院地図)の源流部に位置する。かなり奥まった地であることが想像される。

   

<立地/東山>
 東山谷川は奥野井谷川(おくのいだにがわ)と並ぶ川田川の大きな支流だ。稀に単に「東山川」とも呼ばれる。東部の神山町との境を源流に、西流して旧美郷村の中心地・川俣(地理院地図)で本流の川田川に注ぐ。この東山谷川の中・上流域は大字がなく、代わりに通称として「東山」(ひがしやま)と呼ばれるそうだ。
 
 この「東山」という地名は東部にそびえる大鹿山、通称石堂権現(626.4m、地理院地図)に関係するようだ。西方の吉野川市山川町に古い歴史を持つ修験道の山・高越山(こうつざん、地理院地図)があるが、その山と向き合うようにそびえることから「東山」と呼ばれ、それが地名にもなった。
 
 今回の堀割峠は吉野川沿いから峠を越えて一気にその東山の地へと通ずる。
 
 旧美郷村を下る川田川本・支流は、その多くが山地を深く浸食してV字状の谷となり、明治末までは道路も人家も山の中腹にあったそうだ。その中でも東山谷川沿いには若干の平地が見られ、川岸近くに集落が形成されたようだ。
 
<東山村>
 江戸期から明治に掛けての東山村。ただ、天正年間に現在の鴨島町樋山地が含まれたそうだ。文献(角川日本地名大辞典)には、明治5年(1872年)に東山小学校を設置したとある。 場所は美郷字古土地(こどち、地理院地図)で、多分そこが東山村の中心地だったものと思う。
 
<古土地>
 堀割峠は字奥丸を過ぎ、最終的にその字古土地に降り立つ。 古土地では、北の堀割峠方面から下って来た奥丸谷川(おくまるだにがわ)と、南の焼野峠からの中谷谷川が本流の東山谷川に注いでいて、その周辺に比較的広い平坦地が形成されている。集落も発達し易かったのだろう。
 
 明治22年(1889年)からは市制町村制による東山村となる。大字は編成せず。昭和30年1月1日からは字樋山地を除いて美郷村の地区名「東山」となった。

   

<峠名>
 文献によると堀割峠の名は、「南北に100mほどの切り通しになっているところから名づけられたらしい」と出ている。勿論これは車道開通前の峠のことである。 しかし、現在の峠も長い切り通しで、「堀割」の名はピッタリに思われる。
 
<堀か掘か(余談)>
 尚、「掘割」と書いているケースも見掛ける。誤植と言う訳ではなさそうだ。「掘割」は「地面を掘って造った水路」で、この場合は「掘」を使う方が一般的のようだ。 一方、「堀切」という言葉があるが、こちらは「堀」を使う。「地を掘って切り通した水路」という意味だそうだ。そもそも、「堀(ほり)という名詞には「堀」を使い、「掘る」(ほる)という動詞には「掘」になる。 漢字の部首が「つちへん」だと物、「てへん」だと人の手による作業を表すのかもしれない。
 以上からすると「掘割峠」の方にやや軍配が上がりそうだが、まあ、地理院地図や文献、殆どの道路地図などでは「堀」を使っているので、ここでは堀割峠と書いておく。
 
<川島峠>
 また文献では「川島峠ともいう」とある。東山地区側から見て吉野川沿いの川島に至る重要性を感じさせる名だ。川島から吉野川沿いを下れば、徳島市街に通じる。 陸路だけでなくかつては舟運もあった。鉄路が発達してからは、阿波川島駅から徳島駅へと徳島線を利用することもできる。
 
<桜峠>
 尚、文献の「東山(近代)」の項に、「標高333mの桜峠を越えて、川島町に通じる県道寄井川島線」との記述が見られる。 前述のように、寄井川島線は現在の神山川島線に相当する。更に標高の数値も酷似していて、この「桜峠」とは堀割峠を指しているようだ。 峠を越える県道は「東山チェリーライン」などとも呼ばれ、桜との縁は深い。ただ、桜峠という名は多く、日本のあちこちで見掛ける。 やや一般的過ぎる峠名なので、あまり峠を特定する場合に使用し難い面が否めないと思う。
 
<天神越え>
 文献に「天神越え」という峠名が登場する(後述)。現在の堀割峠を越える県道の川島町側の起点は大字川島である。しかし、峠に接しているのは大字桑村であった。 更にその桑村の中に「天神」という地名が見られる(地理院地図)。 多分字名だ。確認できた訳ではないが、堀割峠の川島町側は大字桑村字天神ではないだろうか。また、県道とは別に、直接麓の天神集落へと下る徒歩道もあるようだ。 以上からすると、「天神越え」とは堀割峠の別称ではないかと思われる。
 
 後で分かったことだが、堀割峠の次に越えた焼野峠の峠道の途中、下の写真のような看板を何度か見掛けた。県道を北へ戻る方向に「天神」と書かれてあった。これも「天神越え」に関係するのではないだろうか。

   
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県道を焼野峠に登る途中の分岐 (撮影 2015. 5.26)
看板が立つ

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分岐の看板 (撮影 2015. 5.26)
「天神」とある

   
   
   

川島町より峠へ

   

<四国の地(余談)>
 四国は4県合わせても、例えば北海道と比較して1/4の面積しかない。こじんまりしているので、旅程が組み易く、それでいて各所に特徴的な見所が多い。四国は旅をしたという実感が持てる地だ。
 
 2015年5月、過去2、3度の会社出張も含めると、今回で多分16度目となる四国の地を踏んだ。前日は明石海峡大橋で淡路島に渡り、かんぽの宿に投宿、今日は早々と大鳴門橋を渡って四国入りを果たした。
 
 今は、四国への陸路は瀬戸大橋としまなみ海道、そして今回の明石海峡大橋から大鳴門橋を走る3ルートがある。 かつては、岡山県の宇野と香川県の高松を結ぶ宇高連絡船の航路が本州と四国を結ぶ主幹線路で、陸路は一本も存在しなかった。小学生の時、家族旅行で宇高連絡船に乗船した記憶があるが、当時とは隔世の感がある。
 
 3つの陸路の内、最後に架けられたのが明石海峡大橋になるが、それ以前に明石海峡フェリーを何度か利用したことがあった。 年末・年始や春の大型連休などの繁忙期は、乗船待ちの車が車道にまで溢れて列を成す混雑振りを見せた。慌ただしく乗船・下船を行い、旅の苦労はなかなかのものだった。今は随分便利な時代になったことだと思う。

   
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建設中の明石海峡大橋 (撮影 1993. 5. 1)
2本の橋脚だけが立つ
明石海峡フェリーの順番待ちの時に車内から撮影
結局この時は乗船を諦め、近場に宿を取り、翌日早朝淡路島に渡った
(本稿とは特に関係なし)

   

<吉野川沿いを遡る>
 藍住(あいずみ)ICから徳島自動車道に乗り、西を目指す。途中、上板SAに寄る。この付近は特に吉野川沿いの平野が広々としている。吉野川を挟み、その先にこれから越える堀割峠が通じる長い山並みが望める。

   
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堀割峠が越える山並みを望む (撮影 2015. 5.26)
徳島自動車道の上板SAにて

<川島町へ>
 土成ICで自動車道を降り、阿波中央橋で吉野川右岸側に渡る。左岸には徳島自動車道、右岸には国道192号と鉄路の徳島線が通じる。国道192号に乗って川島町桑村を目指す。

   
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国道192号を遡る (撮影 2015. 5.26)
この先に県道43号分岐

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県道分岐の看板 (撮影 2015. 5.26)
行先は「美郷」

   

<県道43号分岐>
 堀割峠を越える県道43号の看板が出て来る。行先は「美郷」とか「吉野川市 美郷」などと書かれている。ただ、この付近一帯が吉野川市である。「ヘルスランド美郷 8Km」と案内看板も掛かっている。峠を美郷側に下った所で、そのヘルスランドの前を通り過ぎる。

   
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県道分岐直前 (撮影 2015. 5.26)

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県道分岐の看板 (撮影 2015. 5.26)
「ヘルスランド美郷」の案内看板が掛かる

   
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県道分岐の交差点 (撮影 2015. 5.26)

<川島町川島>
 県道分岐の交差点名(地理院地図)は「川島町神後」になる。峠道の川島町側はそのほとんどが川島町桑村の地内に通じるが、県道分岐の交差点付近だけ、川島町川島になるようだ。県道名が神山川島線なので、起点が川島町の中心地の川島であるのは相応しい気がする。近くに徳島線の阿波川島駅もある(地理院地図)。吉野川を利用した舟運が行われていた時代には、川島の川港にも程近い。

   

<県道43号へ>
 国道から分かれた県道43号は、暫くはセンターラインもある走り易い道だ。川島町神後交差点から峠まで、僅か5Km余りの道程である。

   
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県道43号を進む (撮影 2015. 5.26)

<以前の道筋>
 ところで、古くからの掘割峠を越えていた道が、現在の県道の道筋と一致するのかどうか、疑問だった。徒歩で峠に登るだけなら、もっと上流側からアクセスした方がずっと近い。現在の県道は、車道ということもあるが、余りに冗長的なコースを辿っている。
 
 ただ、峠道の起点を川島とするメリットは大きい。大正期頃までの堀割峠は、人が担いだり馬に背負わせたりして荷物を運んだそうだ。しかし、峠を越えるだけでは人の往来や物流は完結しない。 更に吉野川沿いに人や物が移動する必要がある。その点、川島は交通の要衝である。また、古くは川島城(地理院地図)の城下町が発達していた。何ら確信はないが、現在の川島町側の県道の道筋は、古くから通じる峠道をある程度踏襲しているように思う。

   
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県道の様子 (撮影 2015. 5.26)
県道看板が立つ

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県道看板 (撮影 2015. 5.26)
住所はまだ川島町川島

   
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県道の様子 (撮影 2015. 5.26)
左手に県立の中学校・高校が見える
前方には山並みが迫って来た

<県道の様子>
 県道は暫く真っ直ぐ南の山並みへと突き進む。700m程も行くと視界が開けて来る。沿道には大きな県立の中学校・高等学校などが立地する。途中、左に県道238号・川島西麻植(おえ)停車場線が分かれて行く。

   
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左に県道238号分岐 (撮影 2015. 5.26)

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県道看板 (撮影 2015. 5.26)

   

<美郷温泉>
 堀割峠の道は、山間部の旧美郷村東山地区と繁華な吉野川沿いとを結ぶ実用的な面が強いが、行楽にも利用される。その一つが「ヘルスランド美郷」である。 沿道にも「ヘルスランド 美郷温泉 この先7Km」と案内があった。レジャーと健康増進を目的に、温泉やキャンプ場・運動設備を備えて昭和57年(1982年)に落成した。 ただ、今となっては「ヘルスランド」はやや古さを感じさせる。そこで根強い人気がある温泉にあずかって、シンプルに「美郷温泉」と呼ぶようになったのだろうか。

   
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沿道に美郷温泉の看板が立つ (撮影 2015. 5.26)

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美郷温泉の看板 (撮影 2015. 5.26)

   

<上桜公園>
 いよいよ山並みが迫って来た頃、左手に上桜公園の分岐がある。当初は保養センター上桜があったようだ。

   
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左に上桜公園への分岐 (撮影 2015. 5.26)

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上桜公園の看板 (撮影 2015. 5.26)
水神の滝ともある

<東山チェリーライン>
 堀割峠を越える県道が整備され、沿道に保養センター上桜とヘルスランド美郷が造られると、その施設間を結ぶ道は「東山チェリーライン」と名付けられたそうだ。 「チェリー」が付くことからも分かるように、桜で見事な景観を呈するとのこと。この桜から桜峠の名も起こったものと思う。「桜街道」との呼び名もあるようだ。

   

<山間部へ>
 沿道から建物が消え、道は山間部へと分け入って行く。住所は桑村へと変わった。

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山間部に入って行く (撮影 2015. 5.26)

   
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県道看板が立つ (撮影 2015. 5.26)

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県道看板 (撮影 2015. 5.26)
川島町 桑村

   
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道の様子 (撮影 2015. 5.26)
急坂の屈曲

<屈曲・急坂>
 すると、途端に道の屈曲が始まる。勾配もきつい。
 
 かつての峠道も屈曲や急坂が多く、文献(角川日本地名大辞典)によると「六郎の坂」とか「七まがり」といった言葉で形容されたそうだ。馬子歌(まごうた)として、「馬がものいうた六郎の坂で、こり木七まがりわしゃ嫌じゃ」などと歌われたとのこと。重い荷物を負った馬を引く馬子(まご)の苦労がしのばれる。
 
 余談だが、「馬子にも衣装」の馬子である。ふんどし一丁の殆ど裸のような姿で、汗まみれ埃まみれになって街道を往来したとか。そんな馬子にも衣装を着させれば、それなりに見えるという意味らしい。

   

<景色>
 ひとしきり急坂を登ると、晴れ晴れとした景色が広がる。眼下には吉野川沿いの平野、そしてその背後に讃岐山脈の山々が居並ぶ。峠の美郷側は全く展望がないので、この峠道では貴重な展望だ。随分前のことになるが、讃岐山脈を越える峠の一つ、鵜峠(うのたお)を掲載したことがあった。その峠の麓では野宿した思い出も残る(野宿実例集 No.07)。

   
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峠道の途中から望む景色 (撮影 2015. 5.26)

<大正池(余談)>
 景色の中に一際目を引く大きな池がある。大正池と呼ぶそうだ。吉野川平野の田畑を潤す灌漑用であろう。その池の周辺は緑が多く、上桜公園などの施設が立地するらしい。

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大正池 (撮影 2015. 5.26)

   

<展望台>
 やがて路面からセンターラインが消え、視界がない林の中の道となる。すると、峠の切り通しの手前100m余りに展望台箇所がある。路肩に数台の駐車スペースが設けら、その側らから景色が眺められる。

   
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展望台に出る (撮影 2015. 5.26)

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展望台の看板 (撮影 2015. 5.26)

   

<茶屋>
 展望台の奥の一角には茶屋を模した小屋が立ち、中には自販機が設置されている。峠も間近なので、「峠の茶屋」と言える存在だ。この付近の県道の道筋は、古くからの峠道とほぼ一致しているものと思う。 北斜面にあって吉野川平野に少し張り出た支尾根上に位置し、地形的に見晴しがいい場所だ。以前から休憩場所として使われていたかもしれない。馬子たちも一息入れ、疲れた馬を休ませたことだろう。

   
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峠の茶屋 (撮影 2015. 5.26)

 小屋には四国お遍路さんへの注意書きなどが掛けられていた。堀割峠から更に焼野峠を越えた先に一二番焼山寺(地理院地図)がある。今回の旅では私たちも寄ってみようと思っている。
 
 また、小屋には善入寺島の解説が見られた。善入寺島とは吉野川にある日本最大規模の中州とのこと。その解説文中にも「吉野川平野」の文字があり、この付近の吉野川沿いは平野のごとく広いことを表している。

   
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茶屋の様子 (撮影 2015. 5.26)
四国お遍路さんへの注意書きがある

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善入寺島の解説 (撮影 2015. 5.26)

   

<眺め>
 残念ながら展望台からの眺めは、木々が成長していて善入寺島も一部は木の陰になっていた。ただ、この峠道は有志によって適宜整備されているようだ。その内、また良好な視界が得られることだろう。

   
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展望所からの眺め (撮影 2015. 5.26)
この時はやや木々がうるさかった

<登山道>
 小屋の近くから山方向と谷方向へ登山道が分かれて行く。
 
 山方向の道標には「樋山地石鎚山 梨ノ峠登山口」とあった。樋山地は現在は鴨島町の一部だが、かつては東山に属していた。石鎚山が分からないが、樋山地にあることからして、神山町との境にある525mのピーク(地理院地図)ではないだろうか。梨ノ峠(梨ノ木峠とも)は県道31号の鴨島町と神山町との境の峠だ(地理院地図)。この「峠と旅」でも、もうとっくに掲載したとばかり思っていたが、調べてみたらまだだった。多分、次回の掲載候補になるだろう。石鎚山も梨ノ峠も、堀割峠から東に連なる稜線上に位置する。登山道もその上を行くようだ。梨ノ峠までかなりの距離があるように思える。
 
 谷へ下る道の道標には、「パイロット道路経由 久保田第二地区へ下山口」と書かれている。パイロット道路とは北斜面の山腹を東西方向に横断する道路(地理院地図)のことだろうか。

   
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山方向への登山道 (撮影 2015. 5.26)
「樋山地石鎚山 梨ノ峠登山口」とある

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谷方向への登山道 (撮影 2015. 5.26)
「パイロット道路経由
久保田第二地区へ下山口」とある

   

<麻植開拓パイロット事業(余談)>
 この「パイロット」と関係するか断定できないが、昭和42年から58年に掛け、吉野川沿岸の山麓地帯や旧美郷村内の山地で、大規模な開墾や農道が開削されたそうだ。それを「国営麻植(おえ)開拓パイロット事業」と呼ぶ。
 
 この事業により、温州ミカンや梅を主とする果樹や桑・茶などの集団栽培、養鶏・畜牛・養蚕も大規模に行われるようになった。製茶などの工場も誘致され、地域の産業形態は大きく変わった。しかし、県内屈指の過疎地となる東山に於いては、その歯止めにはならなかったそうだ。

   
   
   

   

<峠の桑村側>
 峠の茶屋から本の僅かで峠に至る。県道は1.5車線幅のまま、長い切り通しへと入って行く。その手前、右(西方)に未舗装の車道が分岐する。

   
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峠の川島町側の手前 (撮影 2015. 5.26)
この先右に未舗装路が分岐している

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峠直前 (撮影 2015. 5.26)
長い切り通しが待ち構えている

   
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峠手前で分岐する未舗装路 (撮影 2015. 5.26)
寒風峠方面に通じるようだ

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県道を川島市街方向に見る (撮影 2015. 5.26)
この少し先に峠の茶屋がある

   

<切り通し>
 峠ははっきりした峰の鞍部に通じる。現在は車道が開削されてはいるが、古くからの峠と位置は全く変わりないものと思う。但し、さすがに車道を通す為に稜線は削られ、切り通しは深く長くなっているのではないだろうか。
 
 切り通しの長さはなかなか正確には決められない。例えば、川島町側と美郷側にそれぞれ未舗装路が分岐するが、その分岐間の距離は115mくらいだ。 それから類推し、現在の切り通しの長さは100m以上あると言っていいだろう。文献(角川日本地名大辞典)では、100mほどの切り通しが「堀割」の名の由来だろうとしているが、人馬が往来した当時の峠も、確かにその程度の長い切り通しになっていたと想像できる。

   
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川島町側から見る堀割峠 (撮影 2015. 5.26)

<標高>
 峠の標高は、文献には333mとか335mと出ている。車道開通前の峠の標高が正確に分かる訳ではないので、推定値か現在の車道の峠の標高であろう。一般の道路地図では300mとなっているのを見た。 地理院地図の等高線では330mを超えた辺りが車道の最高点で、330m台の数値は信用できるものと思う。

   

<峠の美郷側>
 切り通しを抜けると、道はY字に分岐している。右が県道の続きで、左は未舗装路だ。分岐の間はちょっと開けていて、いい休憩場所になっている。そこにパジェロ・ミニを停めた。 ここは稜線の南側に位置するので、日が当たって明るい雰囲気なのもいい。ちょっとしたモニュメントも立ち、峠の長い切り通しよりも、堀割峠を印象付ける場所になっている。
 
 ここの住所は吉野川市美郷(みさと)字奥丸(おくまる)で、その前は麻植郡(おえぐん)美郷村(みさとそん)字奥丸で、更にその前は東山村字奥丸であった。

   
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峠の美郷側 (撮影 2015. 5.26)
Y字の分岐になっている

<車道開通>
 この堀割峠に車道が通じた時期については、文献の東山(近代)の項に、「山村開発のため、明治44年から5か年計画で郡道鴨島東山線が、大正12年には東山山瀬線・川島東山線が開通、車両による物資輸送ができるようになった」とある。
 
<郡道鴨島東山線>
 明治44年(1911年)から5か年で開通した郡道鴨島東山線が、今回の峠道に該当するのかもしれないが、はっきりしない。鴨島町は川島町より更に吉野川下流側に位置する。よってその郡道は、東山地区から堀割峠を越えて川島、更に鴨島へと至る道だったかもしれない。それなら堀割峠を越えている。
 
<東山山瀬線>
 大正12年(1923年)の東山山瀬線は、多分現在の県道245号・二(の)宮山川線の一部ではないかと思う。この道は、徳島線の山瀬駅(地理院地図)付近を起点に峠を越えて美郷の川股に至り、更に東山谷川沿いに遡って東山地区の古土地を過ぎ、更に峠を越えて神山町の二ノ宮(地理院地図)に通じる。この道筋は明らかに堀割峠を越えていない。
 
<川島東山線>
 同じく大正12年(1923年)の川島東山線は、正にその後の県道寄井川島線の前身と思われる。現在の県道神山川島線へと引き継がれる。
 
 明治44年は大正元年でもある。よって、ほぼ大正期に堀割峠は車両が通行できる峠道に変わったと考えて良さそうだ。それまで人の肩や馬の背に頼っていた物資輸送は、荷車などの車両も利用できるようになったものと思う。

   
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美郷側から見る堀割峠 (撮影 2015. 5.26)

<県道寄井川島線の特別整備>
 文献によると、県道寄井川島線は「昭和47年10月から12月にかけて、延長3,543m、工費4,228万円をかけ、自衛隊により特別整備され、立派な自動車道となった」となっている。峠の美郷側に船戸大明神に関する看板が立っているが、そこにも「昭和47年12月 当時の兎道を(中略)現在の桜街道にしました」とあり、年月が一致する。県道寄井川島線はそれ以前からあったのだろうが、この昭和47年(1972年)に峠を挟む全線が、県道らしい車道(自動車道)に生まれ変わったものと思う。

   
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峠から奥丸方向に下る県道を見る (撮影 2015. 5.26)
モニュメントには「船戸大明神駐車場」とある

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船戸大明神に関する看板 (撮影 2015. 5.26)

   

 ところで、「兎道」という表現が面白い。ただ、どんな道だが想像できない。少なくとも自動車が通れそうな車道には思われない。大正期から昭和47年まで、堀割峠は荷車程度の車両がやっと往来するだけで、自動車の本格的な通行は不可能だったようだ。
 
<整備区間>
 尚、延長約3.5Kmとはどこの区間だろうか。多分、旧美郷村側では、東山地区の中心地・古土地から峠手前の集落・奥丸(地理院地図)までは既に車道が通じていたことだろう。奥丸から峠を越えて3.5Kmの地点は、県道242号・植桜鴨島線が分岐する付近(地理院地図)になる。この間はあまり人家などは見られない。そこが特別整備され、峠道全線が晴れて「立派な自動車道」となったようだ。
 
<県道寄井川島線の延長>
 更に文献では、昭和59年(1984年)には「隣接の神山町に通じる県道二の宮山川線、寄井川島線も延長・拡張されて、陸の孤島であったこの地区の交通も便利になり、産業の発展に役立っている」とある。「この地区」とは東山地区である。「陸の孤島」はちょっと大げさか。
 
 1989年7月発行のツーリングマップでは、県道二宮山川線も県道寄井川島線も、まだ神山町との境前後が車道未開通になっている。 1997年9月発行のツーリングマップル(中国四国)では、県道二宮山川線は神山町まで通じていた。一方、県道寄井川島線は既に県道(主要地方道)43号・神山川島線に変わっていたが、相変わらず神山町側の一部で車道未開通となっていた。
 
 少なくとも県道寄井川島線の時代では、まだ焼野峠前後は未開通で、県道(主要地方道)43号・神山川島線になって以降、川島から神山町の寄井までの全線が開通したものと思う。時期は昭和59年(1984年)より後ではなかったか。

   

<美郷側の未舗装路>
 地理院地図では峠の美郷側で分岐する未舗装路の道筋がしっかり描かれている。自動車の通行が可能なのだろう。ほぼ現在の県道と並行して下り、美郷栗木辺り(地理院地図)に降り立っている。県道とはまた別の峠道のルートと言える。
 
 但し、この道は奥丸集落を経由していないし、東山地区の中心地・古土地に直接通じていない。そのことからも、やはり今の県道のルートの方が昔からの峠道の本ルートに近いのだろう。

   
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美郷側で分岐する未舗装路 (撮影 2015. 5.26)

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未舗装路の道路標識など (撮影 2015. 5.26)

   
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奥丸集落方面から見る峠 (撮影 2015. 5.26)
奥の木の下に石碑などが並ぶ

<船戸大明神など>
 峠の切り通しから未舗装路に掛けての道路脇に、何基かの石碑などが並ぶ。繁茂した木の根方に鎮座するので、あまり目立たない存在だ。

   
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沿道に船戸大明神や道路整備記念碑などが並ぶ (撮影 2015. 5.26)

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左端が道路整備記念碑 (撮影 2015. 5.26)

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右端が多分、船戸大明神 (撮影 2015. 5.26)

   

<道路整備事業の記念碑>
 中でも、一番左に置かれた「県道寄井川島線道路特別整備事業」と題した記念碑に最も関心がある。碑文からこの峠道の来歴などが分かるからだ。 ただ、結局は文献に書かれていた内容以上に参考になる点はあまりなかった。起工が昭和47年10月5日で、終工が昭和47年12月20日と、工事の日付が詳しかった。そのことから、工事期間は約2.5ヶ月と分かる。後は、施工した自衛隊の詳細や、事業委託者に徳島県とある程度だ。
 
 尚、全く些細なことだが、文献では工費は4,228万円と出ていたが、碑文には総工費4,228,000円となっている。 一桁違う。これまでの経験上、文献はこうした碑文を参考にしているらしく、文献の解説文が碑文の内容と酷似していることが多かった。すると、文献の誤植の可能性の方が高く、碑文の方の数値が正しいのだろう。 ただ、こうした道路補修工事が約420万円というのは安く、間違えても仕方がないか。自衛隊による施工だったので、破格なのかもしれない。
 
<碑文(余談)>
 それにしても、このところ碑文の文字ばかり読んでいる。現場では全く読まずに写真だけ撮って置き、こうしてホームページを書く段になって解読することがほとんどだ。 碑文から峠道に関してまた新たらしい知識が得られたりすると楽しくなる。ただ、写真がピンボケだったり、露出が不適切だったり、草木が邪魔をしていたりと、解読がなかなか難しい。画像レタッチソフトで文字を鮮明化したりしながら、ちょっとした宝探しのような気分で碑文を読んでいる。

   
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道路整備事業の記念碑 (撮影 2015. 5.26)

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記念碑の碑文 (撮影 2015. 5.26)

   

<尖跡(余談)>
 道路整備事業の記念碑の右隣に石が置かれ、その更に右側にもう一つの石碑が設置されている。右から左に読むと「尖跡」となる。「尖った跡」とはどういうことだろうか。道路改修作業のつるはしの痕跡とでもいうような意味だろうか。この手の石碑はもう私の手に負えない。
 
<碑文>
 概ね工事を施工した陸上自衛隊への謝意が書かれているようで、中央に大きく歌が詠まれている。「隊員の 天し 道成なりし 峠や」だと思う。 その後に当時の川島町長、美郷村長、神山町長の名が連ねられている。この石碑を撮った数枚の写真はどれも写りが悪く、石碑自身の文字もややかすれ掛けていて、この碑文に関しては文字を解読するのはあきらめた。
 
<船戸大明神>
 石碑に並び、県道の整備事業の時に移設された船戸大明神を安置する小さな社が建立されている。船戸大明神は上桜城主・篠原紫雲長房によって元亀年間(1570年〜1573年)に設けられたものとのことだった。ただ、社は扉が閉ざされていて、中は見られない。

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もう一つの石碑 (撮影 2015. 5.26)
この写真だけでは文字を解読するのは難しい

   

<上桜城址>
 船戸大明神は元は現在より北方にあったとのことだが、多分、今の展望台辺りではなかったか。上桜城は川島町桑村にある小高い山の上にあった(地理院地図)。展望台付近からその城が望めたのかもしれない。船戸大明神は、この峠道を行く者たちの道中の守り神であり、同時に上桜城の守り神だったのかもしれない。
 
 城址がある所は大字桑村字植桜というそうだ。この「植桜」と「上桜」は同じ地名を指すのだろうか。
 
 篠原紫雲長房は戦国末期、勝瑞三好家の侍大将で、彼が築いた上桜城は要害堅固な城だったそうだ。しかし、元亀3年、ざん言により三好長治に攻められ、城兵全員が戦死したとのこと。 長房が祀った船戸大明神は、上桜城の落城をどのような想いで見詰めていたことだろうか。

   

<寒風峠など>
 堀割峠と並び、古くから東山の地と吉野川沿いとを繋いだ峠に、寒風峠(さむかぜとうげ)があったそうだ。堀割峠の西方1.8Km程に位置する(地理院地図)。川島町学(がく)と美郷恵美子(えびす)との境になる。峠道は東山谷川沿いの恵美子集落(地理院地図)と川島町学側の峰八(むねはち、みねはち、地理院地図)集落との間に通じていた。標高約410m。文献によると、峠名は「冬季に峠まで上ると吉野川を越えて吹きつける北風が冷たかったため、ついたらしい」としている。
 
 かつて、東山地区から峠越えで川島へ出て、更にその先徳島方面などに向かうには、堀割峠かこの寒風峠を利用したそうだ。どちらも当時の主要路である。しかし、その後の運命は大きく分かれた。 堀割峠は車両が通れるように改修され、特別整備により立派な自動車道となり、今では主要地方道に昇格している。一方、寒風峠はそのままの姿で残された。
 
 堀割峠と寒風峠は現代の自動車社会からするとかなり近い距離にあり、2つの車道は必要なかったのだろう。堀割峠が越えた先はより徳島市街方面に近く、それも有利に働いたのかもしれない。また、恵美子が立地する東山谷川沿いの県道の改修も関係するだろう。
 
 文献は寒風峠について、「周辺は昔をしのぶものは何もなく、現在の峠道は植物が繁茂するにまかされている」と結んでいる。 それでも地理院地図にはまだ「寒風峠」の文字が記されていて、歴史の痕跡を留めていた。

   

<その他の峠(余談)>
 文献(角川日本地名大辞典)の東山(近世)の項に、「明治20年ごろまでの産物は、江戸期と大差なく、銅鉱のほか、藍・麦・イモ・ソバ・粟などの雑穀で、大部分は村内の自給用に充て、一部が馬や人力で天神越えや六部の坂・横松峠・寒風峠など、標高350〜400mの峠を越えて、里分に送られた」という記述が見られる。 前述の寒風峠を除くと、新規に天神越え・六部の坂・横松峠という3つの峠が出てきている。どういう訳か肝心な堀割峠がない。
 
 天神越えとは、峠名の欄で書いたように、川島町桑村の字天神(地理院地図)に至る峠道ということだろう。 前掲の文中に堀割峠がないのも、天神越えが堀割峠の別称であるからと解釈できる。明治20年頃まででは、当然ながら峠に車道は開通していない。 徒歩で峠を越えた場合、峠直下の麓にある天神集落と東山とを行き来することが普通のことであったろう。当然ながら「天神越え」と峠を呼んだものと思える。
 
 それが大正期頃から車両が通行できる峠道(川島東山線?)に改修され、現在峠に通じる県道は川島町の大字川島を起点にし、「天神」は峠道とは全く無関係な存在になってしまった。 こうした中、「天神越え」の名もいつしか使われなくなったものと思う。但し、今でも焼野峠への登りやその他にも「天神」と書かれた看板が、この東山の地で見られる。古き時代を懐かしむようだ。
 
 六部の坂については、馬子歌に「馬がものいうた六郎の坂」とあったが、その「六郎の坂」と酷似している。これも堀割峠に関係し、その脇道などではないだろうか。
 追記
 文献(とくしま電子図書館/「阿波学会研究紀要」の「美郷村の峠道」)に「六部坂」が掲載されていた。 (地理院地図
 
 横松峠については全く手掛かりがない。ただ、天神越えから寒風峠まで、東から西へと峠を列記したとすると、地理院地図に寒風峠の東隣にも峠があることが分かる(地理院地図)。それ辺りだろう。
 
 とにかく、東の堀割峠付近から西の県道245号の峠に至る稜線上には、200mから高くとも400mを少し超える程度の低い鞍部が多くあり、そこにはそれぞれの地域に適したおもいおもいの峠道が通じていたのだろう。

   

峠より奥丸側へ

   

<奥丸へ下る>
 峠の切り通しに続き、県道は1.5車線幅のまま奥丸集落へと下って行く。「四季芳る 美郷の湯」などと案内看板案が立つ。
 
 峠の川島町側は、広く吉野川平野に面して東西に長い斜面が連なり、そこを斜めに横切るようにして道が登る。川筋とはほとんど無縁の峠道だった。一方、美郷側は峠を源頭として東山谷川の支流・奥丸谷川が流れ下り、道はほぼその谷に沿って下る。こんな小さな峠道でも、峰を挟んで様子は随分異なる。
 
 暫し峠直下の急勾配を、狭い県道は大きく小さく蛇行しながら降下する。

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峠より奥丸側に下る県道 (撮影 2015. 5.26)

   

<2車線路へ>
 峠の船戸大明神の前から800mくらいも下ると、センターラインが出て来る。立派な自動車道だ。「日本一の 桜街道」といった看板が見られる。この峠道の沿線は地元の有志によりいろいろ整備され、何かと手が加えられている。地元だからこそ、その愛着はひとしおなのだろう。

   
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センターラインがある道になった (撮影 2015. 5.26)

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「日本一の 桜街道」の看板 (撮影 2015. 5.26)

   

<道の様子>
 さすがに主要地方道でもあり、交通量はそこそこある。殆どが自家用車や軽トラックなどの地元車だったが、ちょっと大きな輸送トラックなどともすれ違った。この堀割峠に車道が開通したことで、東山地区から徳島市街方面への通勤・通学も可能になったとのことだ。
 
 2車線路になったかと思ったが、まだ一部に狭い道が残っていた。ただ、離合が煩わしくなる程の対向車はない。 

   
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道の様子 (撮影 2015. 5.26)
まあまあの交通量

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また狭い道に (撮影 2015. 5.26)

   
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奥丸谷川の看板 (撮影 2015. 5.26)

<奥丸谷川沿い>
 沿道にポツンと「奥丸谷砂防指定地」の看板が立っていた。こうした看板も、その場では読まずに、写真だけ撮る。思わぬ情報が書かれていることがあるのだ。
 
 今回の峠から下る東山谷川の小さな支流の名など、一般の地図にはまず記載がない。 河川や橋の名については、「川の名前を調べる地図」というウェブサイトなどを利用するのだが、こうした専門サイトでさえ調べられないことが多い。その点、現場に立つ看板は役に立つ。例の砂防指定地の地図にしっかり「奥丸谷川」と出ていた。
 
 道は砂防ダム近くからはっきりと奥丸谷川の川筋に沿うようになる。看板の地図では、まだ「県道寄井川島線」となっていた。

   

<奥丸集落>
 同乗の妻が屋根が見えると言う。それで美郷側の最初の集落・奥丸に入ったことが分かった。峠から下りだして僅か1.5Km程だ。ただ、最初に見えた家屋は草木に覆われ、もう使われていそうになかった。

   
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奥丸集落に入る (撮影 2015. 5.26)
左手に人家の屋根が見える

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奥丸の集落内を通過 (撮影 2015. 5.26)
右手奥に人家が点在する

   

<奥丸集落内>
 奥丸集落の人家は県道沿い数100mくらいの範囲にポツリポツリと点在する。奥丸谷川右岸の奥へと敷地が伸びているので、沿道からはあまり様子は分からない。しかし、今はそれ程多くの人家がある訳ではないようだ。
 
 奥丸谷川右岸の岸辺には僅かながらも平坦地があり、そこで田畑が耕作されている様子が見られる。

   
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沿道の様子 (撮影 2015. 5.26)

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田畑が見られる (撮影 2015. 5.26)

   

<美郷の湯>
 集落の中心部も過ぎ、住所としては字奥丸の最後の方になるが、右手奥の高台に美郷の湯がある。そこへの坂道が分岐して行く。当初はヘルスランド美郷の名で昭和57年(1982年)に建設されたそうだ。
 
 当時の県道寄井川島線は、昭和47年に自衛隊による道路整備が行われ、昭和59年には神山町への延長・拡張工事なども行われた。東山地区と他地域との自動車交通の便が増々良くなって行く時期である。 峠を挟んだ川島町桑村には保養センター上桜も落成する。堀割峠を越える県道は地域の生活・産業だけでなく、地区内外の観光客のレジャー用としても活用される道となった。

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右手に美郷の湯 (撮影 2015. 5.26)
坂道を上った先にある

   
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右手に「若人の森」 (撮影  2015. 5.26)

<若人の森>
 美郷の湯への分岐を過ぎると、道は奥丸谷川左岸に渡る。すると間もなく右手に「若人の森」への入口が出て来る。奥丸谷川を渡った先に管理小屋のような建物と広場が見える。
 
 当初のヘルスランド美郷は、温泉以外にもキャンプ場や運動設備を備え、レジャーと健康増進を兼ねた比較的大きな施設を目指していたようだ。 私がまだ若い頃なら「ヘルスセンター」とか「若人」(わこうど)という言葉は現役だったが、最近ではちょっと時代にそぐわない面が否めない。 県道沿線に立つ看板も、「四季芳る 美郷の湯」というフレーズになっていて、今は温泉がメインとなっているようだ。

   
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「歓迎 若人の森」の看板が立つ (撮影  2015. 5.26)

   

<チェリーロードライン>
 奥丸谷川左岸沿いにもう暫く、狭く暗い道が続く。元は保養センター上桜とヘルスランド美郷の両施設間を結ぶ道として「東山チェリーライン」と名付けられた。 昭和30年に東山村が美郷村の一部になり、地区を表す通称となった「東山」は、徐々に使われなくなったのではないだろうか。最近の地図には地名としてまず出て来ない。 現地に立つ看板などでも、あまり「東山」の文字を見ない。私も経の坂峠やこの堀割峠について調べたことで初めて知った。道路が発達するに伴い、陸の孤島などと呼ばれた東山は、もう過去のことである。
 
 今は「東山」が取れて「チェリーロードライン」などと呼ばれるようだ。「若人の森」を過ぎた先でもその看板があった。他には分かり易く「桜街道」と書かれた看板も見掛ける。

   
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道の様子 (撮影  2015. 5.26)
奥丸谷川左岸沿い

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チェリーロードラインの看板 (撮影 2015. 5.26)

   

<県道245号分岐>
 再び道が広く立派になると、左手(東方)に県道245号・二宮山川線が分岐して行く。道路看板の行先は「二ノ宮」(にのみや)となっている。 名西郡(みょうざいぐん)神山町(かみやまちょう)大字阿野(あの)の字二ノ宮(にのみや)に至る。鴨島町方面から梨ノ峠(梨ノ木峠)を越えて来た県道31号・鴨島神山線に、その二ノ宮で合流する。

   
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東への県道245号の分岐 (撮影 2015. 5.26)

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県道245号分岐の看板 (撮影 2015. 5.26)

   
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分岐の様子 (撮影 2015. 5.26)
県道43号は右にカーブして行く

<バイパス路>
 本線の県道43号は、立派な2車線路で右へとカーブして行く。どうやらこの先は、古土地(古土地)の中心集落を通らないように作った、バイパス路となるようだ。
 
 堀割峠を越えて来た道の旧道は、バイパス路が橋を渡る手前から左に分かれ、そのまま奥丸谷川左岸沿いに下って行く。直ぐに古土地の集落内を貫く狭い道となる。多分、県道寄井川島線の時代くらいまで、それが峠道の本線だった。

   
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左に県道245号が分岐 (撮影  2015. 5.26)

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「美郷の湯」の看板など (撮影 2015. 5.26)

<分岐の様子>
 「四季芳る 美郷の湯 500m」の看板や「日帰入浴 500円」と書かれたのぼり旗などが立つ。やはり「若人の森」の案内はもうないようだ。
 
<東山>
 県道245号方向に「美郷 東山」とあるが、県道43号方向にも同じ道路標識になっている(下の写真)。この付近一帯が吉野川市になり、「美郷村」の「村」が取れて「美郷」だけになったことは分かるが、どちら方向も「東山」では意味がない。それでもさすがにここは東山の本拠地だ。「紅葉を彩る 東山」とか「東山さくらの里広場」などと「東山」の文字が多く見られる。
 
<東山鉱山(余談)>
 県道245号方向の案内看板の中の一つに「旧日本鉱山へ3.5K」とある。 どこかははっきり分からないが、東山地区の東端に元禄18年開坑の太郎鉱山があり、銅鉱を産出したそうだ。それが東山村の大きな産業となって行った。 明治期に東山鉱山と改称、鉱毒問題などもあったが、大正期には隆盛を極めた。道路開削が遅れていた為、空中索道を通し、鉱石は峠を越えて川島町の国鉄徳島線(現徳島本線)川島駅に送ったそうだ。全般に交通不便な村だったので、索道は生活物資の輸送などにも役立ったとのこと。ただ、今となってはどこに索道が通じていたものか分からない。
 
 鉱山は昭和20年を境に採掘量が減少、ついに昭和46年に閉山した。鉱石や物資輸送に大きな役割を果たした空中索道も撤去された。美郷村としては大きな産業を失い、人口流出が著しくなった。それを補うように昭和42年から国営麻植開拓パイロット事業が行われた。

   
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分岐に立つ看板類 (撮影 2015. 5.26)
ここには「東山」の文字が多く見られた

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分岐に立つ看板類 (撮影 2015. 5.26)

   

<チェリーロードラインの記念碑>
 分岐を振り返ると、擁壁の上に記念碑が立っていたようだ。チェリーロードラインに関する記念碑らしい。この峠道に関しては、こうしていろいろ手が加えられている。

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分岐を峠方向に見る (撮影 2015. 5.26)
擁壁の上に記念碑が立つ

   
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対岸に古土地集落 (撮影 2015. 5.26)
集落の裏手に当たる

<バイパス路へ>
 県道43号は奥丸谷川右岸沿いに下る。対岸にいくらかの建物が見えるが、古土地集落の裏手になるようだ。
 
<古土地集落>
 東山谷川と支流の奥丸谷川に挟まれた狭い土地に一本の道が通り、その沿道に飲食店や商店が並ぶようだ。人家などの建物も密集し、古土地の中心集落を形成している。 堀割峠の東山側起点であり、古くはその家並みの前に馬子達の往来も見られた筈だ。峠を越えて来た者はこの地に休み、これから峠越えを控える者は、旅支度に余念がなかったことだろう。かつて人の往来や物流に賑わった集落だったであろうが、今はひっそりとしている様子だ。

   

<3本の橋>
 集落内を回避したバイパス路は、新しい3つの橋を次々に渡って行く。まず東山1号橋(ひがしやまいちごうきょう)で奥丸谷川の右岸へ、次に東山2号橋(ひがしやまにごうきょう)で東山谷川を左岸に、最後に東山3号橋(ひがしやまさんごうきょう)で中谷谷川を右岸へと転線する。東山1号橋の竣工が平成7年(1995年)6月なので、その頃にバイパス路が通じたのだろう。
 
<県道245号分岐>
 東山2号橋を渡る直前、今度は右手(西方)に県道245号が分岐して行く。行先は「吉野川市美郷庁舎 国道193号」とある。 この道は東山谷川沿いに下って川俣で国道193号に接続する。その区間はセンターラインがある2車線路で、ほとんど全線に渡って快適な道だ。更に国道は言うべくもない。 このルートを使って古土地から山川町で吉野川沿いの国道192号に接続するまで、9Km余りである。今の東山地区は、古土地より上流部を除くと、自動車交通にはほとんど何の不便もない。
 
 一方、掘割峠経由で川島町にて国道192号に出るには8Km余りである。若干距離は短いが、その道程の約半分はセンターラインがない狭い車道である。峠越えなので急坂や急カーブも多い。 自動車での移動なら、時間的には県道245号から国道193号経由の方が早そうだ。ただ、掘割峠の方は8Km程徳島市街寄りに出られるというメリットはあるかもしれない。

   
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この先で東山2号橋を渡る (撮影 2015. 5.26)
その手前右に県道245号が分岐

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分岐の看板 (撮影 2015. 5.26)

   
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分岐を集落方向に見る (撮影  2015. 5.26)
小学校などが立つ

<集落方向の道>
 県道245号とは反対側に古土地の中心集落への道が分かれる。元はそちらが県道245号の続きだった筈だ。大きな建物が見えるが、明治5年設立の東山小学校のようだ。近くに東山郵便局などもあるらしい。
 
<余談>
 明治5年とは明治維新後、まだ間もない頃だ。そうした草創期に既にこうした地方の山間部でも一般庶民への教育が進められた。西洋文明に追い付く為に、一つには国民の教育が重要である。 そうした当時の日本の意気込みや、ある意味で健気なまでの純粋さを感じさせる。丁度今、司馬遼太郎著の「坂の上の雲」を読み返している。 時期は少し後になるが同じ明治期の話で、目的の良し悪しは別として、少なくとも当時の日本人は気概に溢れていたように思う。日本という国についての意識がかった。
 
 長い歴史のある東山小学校も、今は閉校したようだ。西欧風の個人主義が横行する一方、国としての一体感は希薄になったように思う。 人口減少や地方の過疎化も、こうした日本人の意識変化と全く無縁ではないだろう。

   

<東山谷川沿い>
 東山谷川沿いを下流方向に望むと、古土地の人家がポツポツ点在する。田畑も見られる。ここは本流の東山谷川に北から奥丸谷川、南から中谷谷川が注いでいて、付近には比較的平坦地が多い。その為、こうして大きな集落も発達したものと思う。
 
 ただ、峠一つを越えた吉野川沿いには、正に「平野」と呼ぶに相応しい雄大な光景が広がっていた。それに比べれば東山谷川はやはり狭い峡谷である。峠を挟んだこの対比は、印象深い。

   
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東山谷川を下流方向に見る (撮影 2015. 5.26)
奥に見えるのは高越山


<高越山を望む>
 東山谷川の谷間を通した先に高越山(こうつざん)らしき山が望めた。ここからその山頂まで直線距離で9.5Km程ある。その間には深い谷間も通じ、高越山まで見通せるとは思ってもみなかった。
 
 「東山」という地名の由来は、高越山を西の山とし、それに対比してここは東山の地、というようなところから来たようだった。何となく納得する思いがする。

   

<焼野峠へ>
 県道43号は東山2号橋、東山3号橋と続いて渡り、中谷谷川右岸沿いを進むようになる。古土地集落は既に背後である。ここから先は焼野峠の範疇だ。

   
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中谷谷川沿い (撮影  2015. 5.26)
県道43号は次の峠を目指す

   
   
   
   

 東京フェリーターミナルと新門司港(当初は門司港)を結んだオーシャン東九フェリーは、国内航路としては長い2泊3日の船旅であった。その途中、徳島港に寄港する。 四国に上陸する訳ではないのだが、寄港の前後は船上から四国の地を眺めることになる。九州への旅の行きや帰りに、合計9回ほどオーシャン東九フェリーを利用した。それを含めると、四国に行った回数は25回となる。 それも9年前に堀割峠などを旅したのを最後に、ずっと四国の地を踏むんでいない。もう2度と四国に行くことはないかと思うと、何だか寂しくなる、堀割峠であった。

   
   
   

<走行日>
・2015. 5.26 川島町 → 美郷/パジェロ・ミニにて
 
<参考資料>
・中国四国 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 6 中国四国 1997年9月発行 昭文社
・マックスマップル 中国・四国道路地図 2011年2版13刷発行 昭文社
・角川日本地名大辞典 36 徳島県 昭和61年12月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・神山町の観光パンフレット(道の駅 温泉の里・神山でもらった物)
・とくしま電子図書館/「阿波学会研究紀要」の中の文献「美郷村の峠道」
・その他一般の道路地図、ウェブサイト、観光ガイドなど
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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