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細尾峠
 
ほそおとうげ No.185
 
時代の変遷の中に取り残されていく峠道
 
(初掲載 2011.10.17  最終峠走行 2001. 7.30)
 
  
 
細尾峠(細尾トンネル) (撮影 2001. 7.30)
見えているのが富山県南砺市(旧平村)梨谷側の坑口
トンネルの反対側は同市(旧城端町)旧上田
トンネルの標高は約720m(国土地理院 2万5千分1地形図より読む)
道は旧国道304号、五箇山街道
木々に埋もれそうなトンネルである
 
 
 
 峠の名前も覚えていないのに、脳裏に残る一つの峠道があった。現在の国道が長大なトンネルで山を貫通している部分を、細々と峠を越える旧道がまだ残っている。その距離は短く、特に興味をそそられるような峠道には思われなかったが、旅のついでとばかり、足を踏み入れた。味気ない長いトンネルを抜けるより、いくらかましだろうと思った程度だ。
 
 入り込んだ道は、旧国道ともあり全線舗装で走り良いが(2001年現在)、どこか異様な寂しさが漂っていた。沿道には人気が全く感じられない。そして峠も間近になった頃、一軒の茶屋らしき建物が見えてきた。しかし、近寄ってみると無残にも朽ち果てている。その側らには大きな杉の木が、人の世の移り変わりを見守りながら、毅然として立っているばかりだった。
 
 峠の名前は忘れても、その場所は容易に指し示すことができた。富山県の旧福光町から五箇山へ通じる五箇山トンネルの旧道である。手持ちのツーリングマップルには峠名の記載がなく、代わりにボールペンで峠の部分を丸で囲み、その横に「細尾峠」と書き込みがしてあった。多分、道路標識か何かで名前を知り、地図に書き残しておいたのだろう。
 
 五箇山(ごかやま)とは、現代では富山県の旧平村(たいらむら)、旧上平村(かみたいらむら)、旧利賀村(とがむら)の地域に当たる。岐阜県(飛騨)との境の地域称で、富山の平野部とは峰で隔てられている。古くはブナオ峠、小瀬峠(おぜ)、細尾峠、朴峠(ほお、ほう)、杉尾峠、栃原峠などがその峰々を越えていた。峠道として車道が通じたことがあるのは、ブナオ峠とこの細尾峠のようだ。ブナオ峠は開かずの県道と呼ばれ、実質、細尾峠が国道304号として唯一の車道の役目を担ってきた。そして今は細尾峠の代わりに五箇山トンネルが抜けている。
 
 
旧城端町から峠へ
 

国道304号を五箇山方向へ (撮影 2001. 7.30)
前方の道路上に掲げられた看板には
「五箇山合掌集落」とある
 ブナオ峠はなかなか越えることができない峠で、その日(2001年7月30日)も福光町側の通行止に遭い、すごすごと県道10号を引き返して来た。途中、桜ヶ池の脇を抜けてショートカットで国道304号に出た。その国道を五箇山トンネル方向に向けて進む。すると、行く手の道路上に「五箇山合掌集落」の案内看板が見えてきた(左の写真)。
 
 この先にそびえる峰々を越えて庄川が流れる五箇山谷に入れば、雰囲気は一変する。広々として何となく捉え所がない富山の平野から別れ、山々に囲まれて落ち着きが取り戻せる場所に向かうのだ。古くは遠隔の地として流刑先にもなった五箇山だが、今は五箇山トンネルが容易に合掌集落の里へ導いてくれる。
 
 右手に山田川の支流・二ツ家川の谷を望む頃、国道はようやく山道の様相を呈する。尚、山田川はどうやら小矢部川水系で、小矢部川は庄川の直ぐ近くを並んで富山湾に注いでいる。平野部と五箇山の間にそびえる峰々が分かつ水系が、その先を追うと、実は隣り合って日本海に注ぐ庄川と小矢部川のものであることが、不思議に思える。
 
 国道が五箇山トンネルに入る前の右手は、ちょっとした公園の様に広々としている。芝生があり、花壇があり、何かモニュメントの様な物が置かれている。その広場を過ぎてトンネルの直前を右に分かれる道があることを、道路標識が告げている。それが旧道の細尾峠へと続く道だ。

五箇山トンネル手前 (撮影 2001. 7.30)
右に旧道が分岐する
 
 細尾峠に対して新道となる五箇山トンネルではあるが、トンネル名は「細尾トンネル」とはならなかった。実は、細尾峠にも小さいながらトンネルが通じていて、その名が細尾トンネルなのだ。ならば、「新細尾トンネル」とでもする手はあるが、細尾峠と五箇山トンネルが通過する部分は大きく離れている。また、細尾峠の以前に朴峠(ほお、ほう)と言う別の峠が存在し、どちらかと言うと五箇山トンネルは朴峠に近い所に穿たれたのだ。
 
 五箇山の地に通じる大きなトンネルとして、五箇山トンネルの名前は適切かもしれない。ただ、五箇山は今や合掌造りなどでやや観光地化されたイメージが強い。五箇山トンネルと言う名は、何となく安っぽく聞こえてしまう。合掌集落などは、古い昔を偲ぶものであるのだから、五箇山トンネルも古い朴峠を偲んで、「朴トンネル」とでもしたらどうかと思ったりもする。でも、「朴」を即座に「ほお」(ほう)と読めない人も居るだろうし、ましてや朴峠を偲ぼうと思う人は皆無に近いことだろう。
 
 五箇山トンネルが開通したのは昭和59年のことだそうで、調べた資料の一つ、角川日本地名大辞典などは54年発行で、まだこのトンネルの記載がなかった。
 
 細尾峠の名前の由来は、細い尾根の形から来ているそうだ。昔の朴峠や現在の五箇山トンネルが、東西方向にそびえる峰に向かってほぼ真っ直ぐに通じているのに対し、細尾峠は遥か西を迂回して越えている。その西に延びている細い尾根のことを言っているのであろう。
 
 ところで、細尾峠と言うと、栃木県の旧日光市と旧足尾町を繋ぐ国道122号のトンネル、日足トンネルの旧道となる細尾峠を思い出す。こちらもトンネルが開通するまでの元国道で、辿った運命が似通っている。また、峠道を走った雰囲気も、どこかさびしげなところがお揃いだ。
 
 
旧道を進む
 
 五箇山トンネルの坑口手前を右に、旧道に入る。地図で見ると、五箇山トンネルとそれに続く梨谷大橋の区間を、細尾峠の旧道がバイパスしているのだが、五箇山トンネルは約3Kmと意外に長い。細尾峠の道は、ざっくりその倍の6Km。道がくねっていることだろうから、所要時間では4倍以上掛かる覚悟が必要だ。
 
 道は険しい谷沿いをトンネルとほぼ並行するように進む。右手に谷が鋭く切れ落ちている。右手前方に、この先の道が尾根を巻いている様子が眺められる(右の写真)。険しい様相だ。
 
 この右手の谷は、その名も人喰谷(ひとくらいだに)と呼ぶ。人を喰らうのだから空恐ろしい。谷に落ちる遭難者があったことから、この名が付いたと言われる。ただ、細尾峠のことではない。細尾峠に現在の車道が通じたのは後々のことで、最初はもっと別のコースを辿っていた。

前方の尾根を巻く道 (撮影 2001. 7.30)
手前の谷は人喰谷
 
 人喰谷の名が起こったのは、朴峠の時代と思われる。朴峠の城端側直下は、この人喰谷の上方を通過する。冬には通行の難所だったそうだ。雪に足を滑らせ、深い谷に落ちて命を失う者もあったことだろう。
 
 その谷を今は車道の細尾峠の道が行く。人喰谷は二ツ家川から分かれる本の短い支流だが、朴峠があった高い峰に向かって深く切れ込んでいる。現代は、整備された峠道を車で安楽に越えている我々だが、深い人喰谷を恐々見下ろしながら険しい山道を行った昔の旅人のことに、一時思いを馳せてみてはどうだろうか。
 
 
覆道地点
 
 道は人喰谷の右岸の中腹を進み、間もなく谷の源頭部に達する。するとそこはちょっとした広場になっていて、側らに鉱山の精錬所跡ではないかと思われるような、汚れたコンクリートの構造物が草木に埋もれている。
 
 よくよく見ると、どうやらこれは、五箇山トンネルの一部が地表に露出している所で、スノーシェッド(スノーシェード)の様な構造になっているらしい。岩から守る場合はロックシェッド(ロックシェード)などとも呼ぶそうだ。ここでは、それらの総称として、覆道(ふくどう)と呼んでおく。
 
 精錬所跡などとは失礼な話で、五箇山トンネルの通行を確保する為の現役の覆道だった。一角に大きな扉があり、トンネル内部と通じているらしい。それにしても、こんな山の中に突如として薄汚れたコンクリートが現れると、やっぱり朽ちた精錬所跡に見えてならない。
 

五箇山トンネルの覆道部分 (撮影 2001. 7.30)
大きな扉はトンネル内に通じているらしい

覆道 (撮影 2001. 7.30)
湾曲するスロープは、上部の水や土砂を流し落とす部分か?
 

覆道地点から先を見る (撮影 2001. 7.30)
 道は覆道地点から反転し、人喰谷の左岸の山腹を進む。五箇山トンネルの覆道は、人喰谷の源頭部分に位置する訳だ。この谷の険しさが、五箇山トンネルを完全なトンネルとはさせずに、一部を覆道とさせた。人喰谷が今でも牙を剥いている。その牙の痕がこのコンクリートの構造物である。
 
 谷が険しいだけあって、眺めはすこぶる良い。谷側の路肩には、コンクリートブロックの車止めが、ガードレール代わりに並ぶ。旧来の車道ではこうした構造を時折見掛ける。時代を感じさせる代物だ。それが単なる歴史的遺構なら良いが、実際にそこを走る車にとっては、人喰谷から身を守ってくれる大事なガードである。それにしても、ちっちゃなブロックがまばらに並ぶ様は、頼りなさそうである。
 
 
上田や若杉の旧集落のこと
 
 尾根を一つ左回りに回り込んで、また道が峠方向に向けば、右手は二ツ家川の本流の大きな谷である。
 
 細尾峠の道は、朴峠の後継者となる新道として、明治20年(または23年)に開通したそうだ。その後、昭和2年に自動車道が建設され、その折、峠はトンネルとなり、また城端側のルートが大きく変更された。当初の細尾峠の山道は、人喰谷を回り込むことなく、峠直下から直ぐに二ツ家川の川沿いに降りて行ったようである。現在でも細尾トンネルの手前数100mくらいの地点から、谷へ下る山道が地図に見える。
 
 文献では、細尾峠の城端側に上田と言う集落があったそうだ。道路地図などによっては、まだその「上田」の文字が記されているものもある。二ツ家川に人喰谷が合流する地点より0.5Kmほど下流の場所だ。城端町の大鋸屋(おおがや、おがや)から延びた車道が、二ツ家川に沿って上田の集落があった山間部まで通じている。

峠方向に向く (撮影 2001. 7.30)
右手は二ツ家川の谷
この谷沿いに上田の集落はあった
 
 古くは五箇山街道の宿場として繁栄した上田であったが、細尾峠が車道化され、その街道筋から外れてしまったのは、大きな痛手だったのであろう。その後、大鋸屋方面から上田までは車道が通じたが、そこから先、車道は峠を越えることはなかった。
 
 上田集落は、昭和48年に集団移住し、翌49年には閉村式を行っているとのこと。
 
 峠道の変遷の中、上田の集落は衰退していったが、ならば細尾峠が衰退させた朴峠の場合はどうなのだろうかと、余計な詮索が始まる。
 
 調べてみると、朴峠の城端側にもやはり集落が存在した。若杉(わかすぎ)と言う。二ツ家川と同じく山田川の支流・打尾川が、国道304号の東側に流れるが、その川の上流部にあったようだ。現在の朴峠には中部北陸自然歩道が通るが、峠を城端側に下ったその道が、打尾川沿いに降り立った地点辺りである。ただ、今では道路地図にその名を探しても、見付けることはできない。
 
 江戸期、五箇山と城端を往来する街道の要点に位置し、ボッカと呼ばれる荷を運搬する人たちで栄えた若杉であったが、やはり細尾峠が車道化されるに伴い、その重要性を失っていった。細尾トンネルを抜けてトラック輸送が可能になっては、もうボッカが活躍する場は残っていない。
 
 若杉集落は、上田集落より一足早く昭和42年4月、やはり集団移住し、廃村となったとのこと。
 
 細尾峠に車道が通じ、今でもこうして車での探訪が可能だが(2001年時点)、この道の出現は、上田や若杉の村人にとって、生業を奪われる死活問題でもあったのだ。車が城端と五箇山を便利に行き来する、その陰で、街道筋から外され、ポツンと山間部に取り残された集落には、廃村の運命しか待っていなかったのだろう。
 
 
郵便逓送隊の中継小屋
 

二ツ家川の谷とその先の平野部を望む (撮影 2001. 7.30)
 車道が通じた細尾峠だったが、まだ万全の峠道ではなかった。冬期では自動車交通が不能になったのだ。そこで郵便物は雪の峠を人の力で担いで運んだそうだ。その者達を郵便逓送隊(ていそうたい)と呼んだ。峠近くの城端側に中継小屋があり、城端側から登って来た郵便物と、五箇山側から担ぎ上げた郵便物が、その小屋の中で交換されたとのこと。
 
 その中継小屋は昭和44年まで使われ、冬場に途絶する細尾峠の物資輸送を補ったようだ。その小屋の所在は、文献によると「城端側の旧道を1Kmばかり下った所」とある。それが現在の車道沿いなのか、それとも車道から外れて二ツ家川に下る山道沿いなのか、特定できないでいる。少なくとも、車道沿いに小屋の跡らしき物は残っていなかたっと思うが。
 
 最終的に冬期の自動車交通の確保には、五箇山トンネルの開通が待たれたのであった。
 
 道は二ツ家川の上流部を過ぎ、更に西へと延びる尾根の山腹を進む。五箇山トンネルや朴峠からは益々遠く、細い尾根の先へと道を続けて行く。この辺りが細尾峠の名の由来だろうかと思う。
 
 道は、舗装はやや古くとも十分な道幅があり、不安なく車を進められた。
 
 車道を開削するには、このルートは勾配が緩く、適していたように思える。しかし、細尾峠の道は、当初は朴峠に代わる新道として開設された筈だ。細尾峠の旧道は、途中から二ツ家川の上田の集落へ向けて、一気に谷を下る。そこは車道向きではない。細尾峠の山道を開設した後、別ルートで車道を通すのにも、峠はほぼ同じ箇所となった。

尾根伝いを行く正しく細尾峠の道 (撮影 2001. 7.30)
 
 
茶店跡
 

峠の茶店の跡 (撮影 2001. 7.30)
 左手に続く尾根の頂上もだんだんと近付き、峠ももう直ぐそこだろうと思った頃、右手に廃屋が現れる。文献によると、峠には茶店が一軒とバス停があったとのこと。これ以外、沿道に建物らしき物は皆無で、これがその茶店だろうと思うが、外見はあまり茶店らしくない。茶店が閉店した後、造り変えられているようだ。
 
 こうした人工物が朽ちていく姿は、やっぱりドキッとさせられる。かつてここに人が住み、道行く人の休憩場所として、飲物や食事を提供していた。外に置かれた縁台に腰掛け、景色を眺めながら茶をすすり、まんじゅうをほおばる。そんな光景がかつては見られたのだろうか。そんなことを想像すると、峠の旅は奥深いものになっていく。行ったことはないが、上田や若杉の集落は、今はどんな姿を留めているのだろうか。
 
 茶店跡を過ぎ、峠の手前から振り返ると、茶店の横にの杉の木が、すっくと立っているのが見えた(右の写真)。茶店の建物が朽ちていく側ら、その杉の木は何事もないかのように、毅然としている。こうして長い間、峠道の変遷を見守ってきたのだろう。

峠手前から茶店方向を望む (撮影 2001. 7.30)
一本の杉が立つ
 
 
 

細尾トンネル (撮影 2001. 7.30)
旧城端町側の坑口
右手に林道が分岐する
 左手の尾根にポッカリ小さな穴が開いていると思ったら、それが細尾峠のトンネルであった。
 
 坑口の前を通り、尾根に沿って道はまだその先に続いている。そちらは袴越林道で、庄川沿いの国道156号にまで抜けている道のようだ。ただ、その入口には通行j禁止の立札が立っていた。古いツーリングマップ(1988年5月発行)には、その林道は全く記されていないところを見ると、細尾トンネルよりもずっと後になって開削された車道だと思う。
 
 細尾トンネルは、その外観は比較的新しかった。最初に細尾峠にトンネルが抜けたのは昭和2年のことだから、明らかに当時のものではない。それに、やたらと狭いのだ。
 
 想像するに、昭和59年に五箇山トンネルが開通した後、老朽化した細尾トンネルを補修するに当たり、古いトンネルはそのままに、その上からコンクリートなどを塗り重ねたのではないだろうか。それで、トンネルが小さくなった。旧道の身だから、一応通じていれば良いという感じのトンネルである。かつては路線バスも通行したであろう細尾トンネルであるが、今はどうにも味わいのないトンネルになってしまっている。
 
細尾峠(細尾トンネル) (撮影 2001. 7.30)
旧城端町側の坑口
それにしても狭い
 
 細尾トンネルは短く、覗けば反対側の坑口が見える。電灯などの設備らしい設備は全くなく、簡素なものだ。このトンネルの標高は、2万5千分の1地形図で読むと、約720mである。
 
 文献では、細尾峠の標高を720mとか、740mと記してあった。740mとはトンネルが通じる前の旧細尾峠の標高であろうか。細尾トンネルが貫通する尾根の上で標高740〜750mだ。トンネルより数100m手前にも、標高で740m前後の尾根の部分が見られる。トンネル以前の旧峠は、その辺りの尾根を越えていたのであろう。そしてそのまま二ツ家川の谷へ降りて行った。上田集落を通っていた頃の初期の細尾峠の道と、現在の細尾トンネルを抜ける車道とは、城端側ではほとんど重なる部分がないのではなかろうか。
 
峠からの眺め (撮影 2001. 7.30)
送電線が通じている
奥に湖が見える
 
 坑口手前からは二ツ家川の下流方向に遠望がある。谷を下ったその先に平野が広がる。尾根の上を越える旧細尾峠も、同じような眺めがあることだろう。
 
 
峠の旧平村側
 
細尾トンネルの旧平村側坑口(再掲) (撮影 2001. 7.30)
 
 細尾トンネルを旧平村側に抜ける。そちらからみる細尾トンネルは、もう草木の中に埋もれそうである。まるで山腹に穿たれた洞穴だ。
 
 細尾トンネルの旧平村側は、庄川の支流・梨谷川の上流部の谷間にあり、周囲を山に囲まれ、そこからの見晴らしはない。
 
 
旧平村側を下る
 
 城端側の道が広い谷の中腹を通っていたのに対し、平側は終始谷底を行く。両側が山で、視界も終始広がらない。峠から下って直ぐにも川沿いとなり、比較的直線的な道が続く。
 
 暫くすると狭い谷間も徐々に広がり、閉塞感も解消されていく(下の写真)。
 
 途中から道幅がぐっと広がった。両側から草が侵食して来ているが、センターラインもある二車線路であったことが分る(右下の写真)。この辺りはさすがに元国道と思わせるが、そう長くは続かなかった。

旧平村に下る (撮影 2001. 7.30)
 

やや開けてきた (撮影 2001. 7.30)

センターラインが見える (撮影 2001. 7.30)
 
 城端側は谷が急峻で、その為、初期の細尾峠の道と車道の峠道は、あまり一致しない可能性が大きいが、平側の地形は穏やかで、峠直下から車道は川沿いを行く。初期の峠道もこの同じ川沿いにあったのではないだろうか。
 

小さな覆道をくぐる (撮影 2001. 7.30)
 また元の1.5車線幅の道に戻り、その先には小さな覆道が現れた。その覆道などは、昭和初期に細尾峠の道が車道化された当時の古いものだと思われる。その覆道の幅が、当時の道幅だったのだろう。途中にあった二車線路は、拡幅工事が容易な部分だけ、後に幅を広くしたといった感じだ。
 
 それまで歩いて越えていた細尾峠が、車道として生まれ変わった時、その道は城端と八幡を結ぶ「八幡道路」と呼ばれたそうだ。この八幡とは岐阜県の郡上八幡のことだと思う。城端と五箇山を結ぶ道路ではなく、それよりずっと南に位置する郡上八幡にも通じる道路と呼んだ。それ程、車での移動に掛ける期待が高かったのだろう。しかし、現代の東海北陸自動車道の高速道路が通じるのとは訳が違う。車道と言えども覆道の幅は頼りないほど狭く、こうした道が細々と細尾峠に通じていたに過ぎない。それでも、ボッカが歩いて荷を運ぶ山道より、遥かに進歩しことだった。
 
  
 峠から南下していた道は、梨谷川の本流に沿うようになり、一路東へと進む。左手の梨谷川の谷が徐々に深くなっていく。
 
 暫くして右手にスキー場への案内看板が出てくる。右手奥に「たいらスキー場」があるようだ。その直ぐ後に、梨谷の集落近くを通る。ただ、車道からは人家などは見えない。
 
 梨谷は「なしたに」とも「なしたん」とも呼ぶようだ。ここは城端へ越える朴峠の重要な集落であった。
 
 朴峠は「朴の木峠」とも呼ばれ、平村梨谷からその枝村・垣内村を経由して二ツ梨谷を通り、峠に達していた。峠には人家が一軒あったそうな。米が採れない五箇山へ、冬でも雪の峠道を越えて城端から米を運んだそうだ。梨谷はそんな朴峠街道の要地であった。

右にたいらスキー所 (撮影 2001. 7.30)
  
 明治期に新道として細尾峠の道が造られると、朴峠は旧道となり、五箇山街道と言う幹線路から外される。それでも梨谷の役目は変わらなかったと思う。
 
 昭和2年に細尾トンネルを抜ける自動車道路が開削されると、朴峠へのダメージは決定的となり、朴峠を越える道は廃された。また、細尾峠自身も、上田集落から上る山道が廃された。更に、新しい車道は梨谷の集落を通らなかったそうだ。本当かどうか分らないが、集落内まで入る車道ができたのは昭和32年とのこと。
 
 
国道304号に出る
 

梨谷大橋方向を見る (撮影 2001. 7.30)
その向こうに五箇山トンネルの旧平村側坑口がある
ここは旧平村梨谷
 現在の車道は梨谷川の右岸をそのまま行き、その川に架かる梨谷大橋の袂で国道304号に出る。国道を左の梨谷大橋方向に見ると、橋に続いて五箇山トンネルの坑口が見える(左の写真)。
 
 ここから本流の庄川沿いの五箇山谷に出るには、もう一つ峰を越える必要がある。今の国道は梨谷トンネルが貫通しているので、それは容易なことだ。国道に出た所を右に行けば、直ぐにも梨谷トンネルに入る。
 
 梨谷トンネルの開通は、五箇山トンネルの少し前で、昭和48年とのこと。それまでは庄川と梨谷川を分かつ峰を越える峠道を使っていた筈だ。細尾トンネルから下る途中、梨谷川沿いからたいらスキー場方向に分岐する道があったが、それが旧道ではないかと思う。その付近から、五箇山トンネルと梨谷トンネルの間に出る今の道は、梨谷トンネルの開通に合わせて後で造られたのだと思う。
 
 そんな訳で、細尾峠の峠道が国道に出た場所は、集落などなく、全く殺風景である。昔からの梨谷の集落は、最初の車道からも、後の車道からも外れた地にあった。
 
 梨谷の集落は、昭和40年以降、離村者が多く、参考にした文献が発行された当時(昭和54年)で、人口が1/3にまで減少したとのこと。車で峠を越えるようになっては、休憩や宿泊、交易などに利用される要地としての役割が薄れていってしまったのだろう。
 
 梨谷トンネルから梨谷大橋、五箇山トンネルと走り繋ぎ、現在の国道は更に格段と快適になった。同時に梨谷集落への交通の便も良くなったことは確かだ。特に積雪期には便利なことだろう。しかし、これで梨谷集落は五箇山街道から完全に外れてしまったようにも感じる。スキー客以外、梨谷大橋の袂から分岐する旧道に関心を持つ者は少ないだろう。梨谷集落はその奥に位置するのだ。

五箇山方向から梨谷トンネルを抜けた所 (撮影 2008. 8.13)
右手の道路標識には、左へ「細尾峠」とある
この時は生憎の大雨
  
  
 
 峠近くに廃屋として残る茶店跡が、峠道の変遷を如実に物語っている。更にその陰で、朴峠や旧細尾峠、上田や若杉、梨谷といった集落の運命が大きく左右されていた。細尾トンネルを抜ける旧国道は、ちょっとした寄り道程度に過ぎなかったが、旧峠道には深いドラマがあるなと思う細尾峠であった。
 
  
 
<走行日>
・2001. 7.30 旧城端→旧平村(ジムニー)
 
<参考資料>
・昭文社 中部 ツーリングマップ 1988年5月発行
・昭文社 ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行
・昭文社 ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月発行
・昭文社 県別マップル道路地図 16 富山県 2010年2版2刷発行
・角川書店 角川日本地名大辞典 16 富山県 昭和54年10月8日発行(細尾峠の項、他)
・国土地理院 2万5千分1地形図 下梨
・国土地理院 地図閲覧サービス 2万5千分1地形図
・その他(インターネットでの検索など)
 
<Copyright 蓑上誠一>
  
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