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宝蔵峠  (再掲)
  ほうぞうとうげ  (峠と旅 No.031-2)
  改めて、四国の山深さを痛感する峠道
  (掲載 2024.12. 5  最終峠走行 1997. 9.26)
   
   

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宝蔵峠 (撮影 1997. 9.26)
手前は高知県安芸市畑山乙(はたやま おつ)
奥は同市別役(べっちゃく)(島とも)
道は張川林道(一部市道中川線)
峠の標高は832m (地理院地図より)
峠には立派な看板が立っている
「昭和46年3月31日開通」と書かれていた

   

   

<弓木隧道と関連>
 実は弓木隧道を掲載しようと考えていたら、その峠と関係が深い宝蔵峠のことを思い出した。この峠は1997年9月に一度だけ越え、翌月の10月19日付で早々と掲載している(初掲載)。 本当は宝蔵峠だけでなく、その背後に通じる駒背越隧道も越えたかったのだが、通行止で引き返すことになった。その後も駒背越隧道を一目見たいと思っていながら、叶えられずに長い年月が過ぎた。昨今は宝蔵峠さえも危うい事態になっているらしい。
 
<掲載理由>
 宝蔵峠を初掲載したその年(1997年)の6月20日に、このホームページ「峠と旅」をオープンしている。当時はダイヤルアップ回線でインターネットをする時代で、ページ容量は極めて小さく、掲載できる画像も限られていた。 そこで、もう二度と訪れることができないなら、容量を気にせずに宝蔵峠を再掲載しようと思った次第だ。ついでに駒背越隧道についてもちょっと話題にしようと思う。それなので、最近の峠事情は含まれない。 また、html言語を使ったホームページ製作の技量は、ほとんど昔のままだ。見栄えがする洒落たページにもなっていない。

   

<所在>
 宝蔵峠は県境の峠などではなく、市町村境の峠でもない。高知県安芸市(あきし)の大字となる畑山(はたやま)と別役(べっちゃく)の境に立地する。 尚、畑山の住所表記は更に甲・乙・丙(こう・おう・へい)に分かれるようで、峠は畑山乙(はたやまおつ)にあるようだ。 そう言えば前回の四郎ヶ野峠で登場した野根は、甲乙丙丁の4区域に分かれていた。

   

<地理院地図(参考)>
 国土地理院地理院地図 にリンクします。


   
本ページでは地理院地図上での地点を適宜リンクで示してあります。
   

<水系>
 峠の立地などを理解する上で、水系は欠かせない。峠の西側は安芸川(あきがわ)水系で東側は伊尾木川(いおきがわ)水系になる。どちらも2級河川で概ね安芸市内を南流し、土佐湾に注いでいる。あまり長い河川ではない。宝蔵峠は単なる大字境だが、この2つの水系の分水界ではある。

   

<安芸川水系と弓木隧道>
 安芸川の源流は五位ヶ森(1,185m、地理院地図)の北麓付近で、一時香美市を流れる。安芸川の上流部は畑山川(地理院地図)と呼ぶ。文献(角川日本地名大辞典)によると、支流の張川(地理院地図)が合流(地理院地図)して以降を安芸川(地理院地図)と呼ぶそうだ。地理院地図ではその記述とほぼ一致する。しかし、「畑山川」は別称であり、弓木隧道(地理院地図)から流れ下る支流を合して(地理院地図)以降を安芸川とする地図もある。
 
 今回の宝蔵峠は支流の張川上流部に位置する。その点、弓木隧道は更に安芸川本流の上流部に位置するので、弓木隧道の方が安芸川水系を代表する峠と言える。ただ、香美市側に入った畑山川沿いにも道が延びているようで(地理院地図)、厳密にはそちらの方が格上だが、ここでは見なかったことにする。

   

<伊尾木川水系と駒背越隧道>
 文献などでは、伊尾木川は安芸市北端の別役地区北東部の「駒背越山」にその源を発っする、としている。その駒背越山が分からないが、多分安芸市最北端にあり、香美市との境に立つ1,311mの山(地理院地図)だと思う。また、「駒背越」の正確な読み方も分からないが、通常なら「こませごえ」か「こませこえ」であろう。文献(角川日本地名大辞典)では「皆山集ではコマジコヘ山」と呼ぶともしている。
 
 駒背越隧道のトンネル名はこの駒背越山から来ているのだろう。一般に「駒背」とは馬の背の様になだらかな山容を表すものと思う。ただ、「越」が付いているのが気に掛かる。隧道開通前に「駒背越」という峠道が通じていた可能性を予感させる。 ここは高知県と徳島県との境になる。江戸期までの土佐と阿波との国境に位置する。
 
 今回の宝蔵峠は伊尾木川の小さな支流(名前不明)の上部に位置する。伊尾木川水系では何と言っても駒背越隧道が一番の峠になるが、宝蔵峠も伊尾木川水系のかなり上流部に位置する。

   
   
   

畑山側より峠へ

   

<県道210号から分岐>
 畑山方面からの峠道は県道210号・畑山栃木線から分岐して始まる(地理院地図)。この県道は安芸川本流沿いを上流の畑山丙の小川名(おがわみょう、地理院地図)から下流の栃ノ木(とちのき、地理院地図)まで通じる。小川名から県道に続いて弓木隧道を越えているのは、林道畑山奥西川線になる。次回、この峠道を掲載しようと思う。
 
 分岐の住所はまだ畑山ではなく、安芸ノ川乙となるようだ。直ぐ近くで張川がその本流に注いでいる。尚、先程は張川を合して以降を安芸川と呼ぶなどとしたが、同じ文献で畑山川の別称は畑山地区で使われるともある。 すると、安芸ノ川乙ではまだ「安芸川」なのかもしれない。ちょっと上流で畑山甲になるが、そこから上流側が畑山川と呼ばれることになる。住民にとって自分が住んでいる土地の名は重要である。畑山に住んでいる者にとっては安芸川ではなく、あくまで畑山川になるのだろう。
 
<張川林道>
 県道210号から分かれて張川沿いを峠へと遡る道は、以前は張川林道と呼んだものと思う。林道の名に恥じぬよう、当時は全線が未舗装路だった。しかし、訪れた時(1997年9月)にちょっと問題が起きた。 100m程進んだ所で工事車輌が道を塞いでいたのだ。入口には通行止とは出ていなかったが、通してもらえるのだろうかと不安になった。 直ぐ脇で工事作業をしているおばちゃんに尋ねると、「おーい車が来たよ〜」と工事車輌の方に声を掛けてくれた。トラック1台とユンボ1台がわざわざ作業を中断し、林道入口まで待避してくれた。 こちらは別に何の用もなく、単なる遊びで通るだけなので、申し訳ない気持ちで一杯だ。今から思うと、その時から林道の舗装化が進められていたようだ。
 
<市道中川線>
 今回、調べてみると、張川沿いの道は市道中川線となっているようだ。張川の上流部に「中ノ川」という集落名が見える(地理院地図)。安芸市のホームページによると、昭和26年(1951年)にその中ノ川までの張川林道が開通したとのこと。今は市道に昇格し、舗装化も進んだことだろう。

   

<旧張川林道の様子>
 以前の張川沿いの張川林道は、未舗装ながらもよく整備された走り易いダートだった。平坦で林道としては道幅も広い。張川に沿ってひたすら遡る。最初は左岸沿い、途中から右岸側になった。 川沿いから離れる中ノ川近くまで、15Km近くもあるだろうか。以前のツーリングマップ(ル)では、「楽しさあふれるファイブスターの林道」と褒め称えていた。しかし、視界は広がらず、単調な景色の連続である。途中で飽きてしまう程だ。
 
<昼食(余談)>
 そこで、丁度12時を過ぎた頃だったので、昼食を摂ることとした。林道脇に適当なスペースを見付けてジムニーを停める。食材はインスタントやレトルトばかりだが、豊富に用意してある。飲料水は20リッターのポリタンクに水道水を詰めて来ている。これでいつでもどこでも、食事の支度ができるようになっているのだ。

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張川林道沿いで昼食 (撮影 1997. 9.26)

   

 今回はカレーを食べることとした。ポケットコンロとアルミの片手鍋を出し、レトルトカレーとレトルトご飯を温める。最後にそのお湯を使ってインスタントのスープを作った。 最近のキャンプは食にこだわりがあり、なかなか凝った料理を作るようだが、私はいつもこの程度の食事である。おなかが満たされればそれでいい。レトルトカレーは具が少なくて寂しいが、そんな時は魚肉ソーセージを一本追加する。それで十分満足な食事に思えていた。
 
 特に昼食にわざわざ面倒なカレーにするのは珍しいことだ。いつもなら、カップ焼きそばか、どこかのスーパーで買っておいた菓子パン1個を、コカ・コーラで流し込む。それでも自然の中で食べる食事は充分うまい。 カレーなら尚更で、ちょっと贅沢な気分で昼食の一時を過ごした。途中、木材を積んだトラックが一台、側らの林道を通り過ぎて行った。

   
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レトルトカレーを温めているところ (撮影 1997. 9.26)

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ジムニーに積んだ野宿道具 (撮影 1997. 9.26)
これで10日間ぐらいの旅を続ける

   

<畑山>
 中ノ川までの半分くらいの距離で畑山乙の地に入る。ほぼ現在の甲乙丙を合わせ、江戸期からの畑山村であった。 明治22年(1889年)には畑山・栃(ノ)木・尾川・小谷・安芸ノ川の5か村が合併して新しい畑山村が成立、旧畑山村は大字畑山となる。昭和29年(1954年)には安芸市の一部となり、大字畑山は同市の大字として継承された。
 
<中ノ川と正藤>
 大字畑山は安芸川水域で最上流に位置する。また、張川沿いの中ノ川以外に、その支流の正藤川沿いに正藤(しょうとう)という集落名が見える(地理院地図)。それらは畑山の中でも最奥地の集落と言えるだろう。正藤には明治32年開設の小学校もあったそうだ。中ノ川の児童は一尾根歩いて越え、正藤小学校に通ったとのこと。
 
 しかし、昭和40年頃から畑山全体で過疎化が進む。そして昭和50年(52年とも)には中ノ川と正藤の両集落は集団移住したとのこと。正藤小学校も廃校となった。
 
 張川沿いを走っていても、ほとんど人工物を見ない。中ノ川を除けば他に集落名の記載はない。沿道に人家は皆無だ。中ノ川の集落は車道から少し離れていてその様子は分からないが、もう人が定住することはない。現在の張川水域は「無住の地」と言えるのだろう。

   

<峠への登り>
 張川を上流部まで突き詰めると、橋を渡ってまた左岸に出る(地理院地図)。その先、いよいよ峠への登りが開始される。道の様相も大きく変わる。進むに連れ、勾配は急になり、大きな蛇行を繰り返すようになる。宝蔵峠の道で一番の難所に差し掛かった。
 
 峠の車道開通は昭和46年(1971年)3月31日とのことだが、私が訪れた時点(1997年9月)でも、まだ道を開削したばかりかの様に、荒々しい雰囲気を残していた。路面は重機で慣らしただけで、砂利などは敷いていないデコボコ道だ。 崖の岩も掘削しまま、岩肌を露わにしている。路肩には余った岩がゴロゴロ寄せてある。

   

<ヘアピンカーブ>
 暫く行くと一段と険しい箇所に差し掛かった。急なヘアピンカーブを過ぎる(地理院地図)。ツーリングマップ(ル)ではこの区間、「荒れ進む」としている。林道開削以来、ほとんど補修の手が入っていないのかもしれない。

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急なヘアピンカーブ (撮影 1997. 9.26)

   
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急なヘアピンカーブの様子 (撮影 1997. 9.26)

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張川の谷の眺め (撮影 1997. 9.26)

<眺め>
 道は張川左岸の斜面を登っている。高度を上げるに従い、張川の谷を広く見渡すようになる。道は険しいが、開けて眺めはいい。

   

<道の様子>
 道は急斜面の崖を何度も往復して登る。尾根一つ回り込むたびに新しい視界が展開される。しかし、景色に見惚れている暇はない。誤って道を外したら、真っ逆さまに転落してしまう。ガードレールは皆無だ。緊張を強いられる。

   
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急な崖にガードレールもない (撮影 1997. 9.26)
緊張を強いられる道


 崖下を覗くと先程通過した道筋が見える。険しい様相だ。これぞ山岳道路。

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崖下に通じる道 (撮影 1997. 9.26)

   

<仙谷林道分岐>
 峠の手前1Km程で大きな分岐が出て来る(地理院地図)。本線が左急カーブする所をほぼ直進方向に仙谷林道が分岐して行く。分岐には看板が一つ立つが、その看板がちょっと分かり難い。本線を進んで宝蔵峠を越える方向には、「伊尾木川、別役、古井」とあるようだ。別役も古井も伊尾木川沿いに立地する。また、仙谷林道方向は「仙谷」である。他に「張川山」と指す矢印がある。ここは三叉路なので、どの方向なのだろうかと悩む。張川山がどこかも分からない。名前からして「張川」の語源になる山だろうか。

   
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分岐より本線方向を見る (撮影 1997. 9.26)
路面はかなり悪い
この右に仙谷林道が分かれて行く

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分岐に立つ看板 (撮影 1997. 9.26)

   

<仙谷林道>
 仙谷林道はちょっと見る限り、本線より整備された林道に見えた。ただ、林道標柱は朽ち掛けて傾いているし、もう一つ立つ標柱の文字もかすれて読めなかった。幅員は3.6m、延長は9,319mとあるようだった。「38支線」との名もあるようだ。
 
 仙谷林道の進む先は、伊尾木川との分水界を越え、その支流の仙谷川(地理院地図)の上流部になるようだ。これも一つの峠越えの道と言える。ただ、仙谷林道はどこにも抜けられない行止りの道らしい。

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分岐より仙谷林道方向を見る (撮影 1997. 9.26)
こちらの方がいい道に見える

   
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標柱 (撮影 1997. 9.26)
何て書いてあるか分からなかった

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朽ち掛けた林道標柱 (撮影 1997. 9.26)

   
   
   

   

<峠の様子>
 畑山側から峠に着くと、一見Y字路に突き当たったように思える。峠の切り通しの手前を左(北)へ張川52支線林道が分岐して行くのだ。

   
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宝蔵峠 (撮影 1997. 9.26)
右が峠の切り通し
左は張川52支線林道
手前が張川林道を畑山方面へ

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張川52支線林道方向を見る (撮影 1997. 9.26)

<張川52支線林道>
 林道標柱には次のようにある。
  張川林道五十二支線林道(自動車道)
  幅員 3.3米 延長 2,745米
 
 また、大きな矢印看板には「杉ノ谷(52)治山工事現場、行止り」とあった。車の轍は、別役方面から登って峠を過ぎ、52支線林道へと行く方がはっきりしている。 峠に居る間にも、一台の工事車輌が支線方向から現われ、別役方面へと下って行った。宝蔵峠へは伊尾木川沿いからアクセスした方が容易のようだ。
 
<杉ノ谷山>
 52支線林道は張川の最上流部へと進む。そちらに杉ノ谷山(1,367m)という山がある(地理院地図)。その南麓辺りが張川の源流となるようだ。52支線林道の終点(地理院地図)より杉ノ谷山への登山道があるらしい。山の周辺は杉ノ谷山国有林となっている。

   
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52支線林道の標柱と注意書きの看板 (撮影 1997. 9.26)

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峠方向の看板 (撮影 1997. 9.26)
「至木頭村、至古井」、「古井、別役」などと案内されている
木頭村は駒背越隧道を越えた先だ

   

 峠から畑山方面へと下る道を眺めると、ポツンと一つ看板が立ち、「張川林道」とだけある。どこに通じるとも何の案内もない。支線林道などより扱いが下なのだ。道の険しさ影響していて、あまり利用されていないのかも知れない。

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峠より畑山方面を見る (撮影 1997. 9.26)
「張川林道」と看板が立つ

   

<峠の切り通し>
 宝蔵峠は狭くて小さい切り通しになっている。こじんまりした峠だ。そこまでの林道の険しさに比べると、穏やかな様相の峠である。ほっと一息つける空間になっている。切り通し前後にはそれ程眺望はない。標高は地理院地図に「832」と出ていて、それで間違いないだろう。

   
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宝蔵峠 (撮影 1997. 9.26)
畑山側から見る


<峠の看板>
 宝蔵峠では何と言っても「宝藏峠」と大書された看板が印象的である。題字の下に「昭和46年3月31日開通」と書かれている。その時に張川沿いの中ノ川から宝蔵峠を越え、伊尾木川沿いに通じる伊尾木林道へと張川林道が延伸されたのだろう。

   
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宝蔵峠の看板 (撮影 1997. 9.26)
なかなか見事

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切り通しにある看板 (撮影 1997. 9.26)
林班の境を示すようだ
手前が44、奥が51

<峠の役割>
 昭和50年代には峠の畑山側直下に位置する中ノ川集落の集団離村があった。よって昭和48年の宝蔵峠の車道開通は、地元住民の生活路としての役割はほとんどなかったのではないか。 峠で工事車両の往来を見掛けたように、もっぱら林業用などとして開削されたと言っていいように思う。その為、峠道から分岐する枝道・支線も多いのだろう。

   
   
   

峠より別役へ

   

<島>
 宝蔵峠の北側は安芸市の大字別役(べっちゃく)と書いたが、峠道は一部に大字島(しま)を通過するとする地図もあり、ちょっと微妙だ。
 
<道の様子>
 道はまずは伊尾木川支流の谷の左岸上部を進む。林業用などの車両が利用することもあってか、道の状態はいい。大型の工事車輌も通れる様にと林道としては道幅も広く、しっかり踏み締められた路面は非常に走り易い。ただ、あまり展望はなく、よそ見をすることもないまま、どんどん先に進む。峠から伊尾木川沿いまで6Km程度と長くもない。
 
<眺め>
 それでも峠を少し下ると谷の視界が広がる。沿道の伐採が行われていて、見通しがいい箇所が時々ある。

   
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伊尾木川支流の谷を望む (撮影 1997. 9.26)


<伊尾木川本流の様子>
 更に行くと、伊尾木川本流を上流方向に望める箇所がある。

   
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伊尾木川本流の谷を望む (撮影 1997. 9.26)

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伊尾木川の拡大 (撮影 1997. 9.26)

<別役>
 V字の谷底に一筋の川が流れる様子が伺える。その川の更に上流部に別役の集落が点在することになる。改めて四国の地の山深さを感じさせる。
 
 別役は伊尾木川最上流の地であり、安芸市でも最奥に位置する。 江戸期からの別役村で、明治22年に別役・島・大井・黒瀬・入河内(にゅうがうち)・奈比賀(なびか)・古井(こい)の7か村が合併して安芸郡東川村(ひがしがわむら)が成立し、旧別役村は大字となる。更に昭和29年以降は安芸市の大字となる。

   

<県境の峰>
 伊尾木川の源流の峰は高知・徳島の県境ともなる。江戸期には土佐・阿波との国境である為、別役村の影野(かげの)には関が設けられたそうだ。役人が派遣され、出入国を取り締まったとのこと。
 
<駒背越>
 現在は駒背越隧道が通じているが、古くから峠道が通じていたようだ。前回の四郎ヶ野峠(しろがねとうげ)では、戦国期に長宗我部元親が四国制覇を目指して野根山街道を越えたと記した。 こちらの峠では1569年にその長宗我部氏との戦に敗れた安芸國虎の長男・千寿丸が、畑山氏と共に阿波国へ落ち延びたという記録が残るそうだ。その峠の名は不明だが、駒背越山と呼ぶ山もあることから、駒背越(え)ではないだろうか。

   
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伊尾木川源流の山々を望む (撮影 1997. 9.26)
このどこかに駒背越隧道が通じる

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国有林の看板 (撮影 1997. 9.26)

<峠名>
 峠から2Km余り下って来た所に国有林に関する看板が立っていた(地理院地図)。「宝蔵己屋続国有林」とある。「己屋」は「ごや」と読むものと思う。馬路村との境に稗己屋山(ひえごややま、地理院地図)がある。「続」とは「宝蔵己屋」(ほうぞうごや)に「続く」ということか。
 
 「宝蔵」という峠名については何の手掛かりもない。しかし、どの道路地図にも地理院地図にも、その小さな峠の名が記されている。「宝蔵」とはそれなりに由緒正しい名ではないかと思ったりする。
 
 同じ馬路村との境に宝蔵山(地理院地図)がある。明治期に銅鉱が採掘された山だ。ただ、伊尾木川の反対側にあり、宝蔵峠とはかなり離れている。
 
 別役村と同じように東川村の一部になった江戸期の大井村に「殿己屋」という小字があったそうだ。「宝蔵己屋」も別役かその付近の小字名ではないかと想像する。ただ、「宝蔵」の詮索もここまでである。

   

<古井>
 国有林に関する看板では、現在地はどういう訳か大字古井(こい)になっている。古井は島より下流域側だ。飛び地でもあるのだろうか。

   

<市道古井別役線に接続>
 宝蔵峠の別役側の道はそれ程長くない。6Km程で伊尾木川を渡り、左岸に通じる市道古井別役線に接続する。橋の名は多分「栗の木橋」であろう。
 
 峠道の起点となる橋の袂には、古びた林道看板が立つ。辛うじて「張川林道」と読める。こちらは伊尾木川水域なのだが、張川の名が林道名としてここまで使われている。林道看板などは峠道の開通当時の物と思うが、26年程度でこんなに朽ちてしまうものなのかと思うほど古ぼけている。
 
 林道看板に並び「通行止」の標識もあったが、畑山側ではそのような規制看板は見なかったし、工事車輛もよけてくれた。こちら側からアクセスしようしてたら、宝蔵峠はついに訪れていなかったかもしれない。

   
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峠への起点の橋 (撮影 1997. 9.26)
峠方向に見る
橋は栗の木橋?

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張川林道の看板 (撮影 1997. 9.26)

   
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峠道起点の様子 (撮影 1997. 9.26)
左が峠へ
奥が別役方面


<伊尾木林道>
 市道古井別役線の前身は伊尾木林道で、かつては未舗装だったようだ。少なくとも宝蔵峠開通当時はまだ伊尾木林道だったのだろう。私が訪れた時は既に舗装路となっていた。市道への昇格と共に舗装化が行なわれたのではないか。

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峠道起点の様子 (撮影 1997. 9.26)

   
   
   

駒背越隧道方面へ

   

<別役へ>
 宝蔵峠についてはこれで終わりだが、ついでなので駒背越隧道を目指した時のことに少し触れたい。
 
<別役の集落>
 栗の木橋の袂はまだ島か、既に別役(べっちゃく)かはやや曖昧だが、少なくともここより伊尾木川沿いを少し遡れば別役の地である。 市道沿いには最初に影野(かげの)、続いて川成(こうなろ)、トベリキ、土居(どい)と言った集落名が現れる。他にも市道から少し離れた傾斜地に人家が立地しているようだ。その一つ、杉ヶ峯には山姥伝説が残るとのこと。
 
 しかし、どこも大きな集落を形成するということはない。江戸期の別役村の時代から、2戸程度の人家が伊尾木川水域に点在する村だったようだ。その中でトベリキには公民館ができた。現在はかたかな表記だが、「登倍利木」という漢字を当てて書いたこともあったらしい。
 
<道の様子>
 未舗装の伊尾木林道を期待していたが、市道古井別役線は全線舗装だった。それでいて林道のように細い道だ。伊尾木林道をそのまま、ただただ舗装して市道にしたという様子である。そして時々工事車両がやって来る。離合に気を遣う。

   

<別役の交通>
 文献(角川日本地名大辞典)によると、この別役の地まで林道が通じたのは、昭和40年(1965年)のことだそうだ。それ程昔のことではない。それまでは森林軌道が通じていた。 明治42年に古井まで、大正4年(1915年)には別役まで、伊尾木川河口の伊尾木貯木場から国有林の森林軌道が開通した。森林資原の搬出の他、地元民の交通、日常生活必需品の輸送などは森林軌道に依存するようになった。 山間部の別役の生活は格段に便利になったことだろう。その森林軌道も昭和37年には廃止となり、林道へと転換されていった。
 
 森林軌道以前の別役の交通は、伊尾木川に沿った道筋だけではなかったようだ。別役と正藤、更に畑山を結ぶ往還道があったそうだ。現在の宝蔵峠より北側に通じていたらしい。また、「別役往還」と呼ばれる道が南側に通じていたとの話もある。宝蔵峠は立派な名前を持つが、やはり林道開通により新しく誕生した峠で、古い歴史のある峠ではないように思う。
 
<別役とは(余談)>
 ところで、前回の四郎ヶ野峠でも別役(べっちゃく)が登場した。しかし、東洋町(とうようちょう)の別役である(地理院地図)。現在は大字野根(のね)の中の地名で、江戸期の小村として「別役村」とか「別役谷」と呼ばれた。他にも香美市物部町(旧物部村)にも大字の別役(地理院地図)がある。更に、次回掲載しようと思っている弓木隧道が通じる香南市香我美町(旧香美郡香我美町)にも大字別役があった(地理院地図)。地名としてはどれも現在の高知県の一部に集中する。
 
 また、名字としても存在する。古くは香宗我部(こうそかべ)家に仕える臣下にその名が見られるようだ。現安芸市に於いては、畑山の宝加勝鉱山を開発したのが別役芳太郎氏だったとのこと。その鉱山は宝加勝山(856m、地理院地図)の南麓辺りにあったらしい。別役氏のルーツとしては香美郡別役村(現香南市)が起源であるとか。
 
 別役の意味は香美市のホームページを参考にすると、「別役とは荘園の官吏名とも、正規の納税方法と別に、個別に別納する事が認められた土地を指すとも言われる」という記述が見られる。別役氏が住み着いた地を別役と呼んだものか、納税の特例が認められた土地を別役と呼んだものだろう。
 
 今回の安芸市の別役については、文献(角川日本地名大辞典)の別役村(近世)の項に、「高知城から20里、深山・大谷の間に立地し、水田はなく、豆や芋を食料としたという」と記されている。米による納税が難しい地であり、納税の特例が認められた土地であったか。
 
 昭和40年の車道開通で、土佐湾岸沿いの安芸平野に立地する市街地までの交通が各段に便利になった別役であった。しかし、それが人口流出の引き金ともなり、一気に過疎化が進んだ。昭和55年には別役小学校も廃校となったそうだ。

   

<土居以降>
 土居は別役の中でも最奥の集落だ。そして最も大きく、江戸期の戸数は6戸と記録があるようだ。その集落を過ぎた先で伊尾木川を左岸へと渡る(地理院地図)。そこからいよいよ駒背越隧道への登りが開始される。

   
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伊尾木川を渡る (撮影 1997. 9.26)
この先、駒背越隧道への登りが開始される

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禁漁の看板だと思う(読めなかった) (撮影 1997. 9.26)
伊尾木川は鮎釣りで知られる

   

<通行止>
 道は伊尾木川沿いを離れ、左岸の山腹をよじ登る。ところが間もなく通行止の看板が出て来た(地理院地図)。
 
  路線 市道古井別役線
  位置 安芸市 別役(この先)
  種別 四輪車以上
  期間 自9年9月8日8時
      至9年11月30日17時
  理由 道路改良工事の為
 
 
 あえなく撃沈である。無理に進んでも、工事の妨げになるだけだ。

   
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通行止箇所 (撮影 1997. 9.26)

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通行止の看板 (撮影 1997. 9.26)

   
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上北川2号橋の袂 (撮影 1994. 5.22)
通行止の看板が立っていた

<千本林道(余談)>
 駒背越隧道については木頭村(現那賀町木頭)側からアクセスを試みたことがあった(1994年5月)。しかし、国道195号の上北川2号橋袂の分岐まで来ると(地理院地図)、千本林道(林道東川千本谷線とも)の全面車輌通行止の看板が立っていた。期間は1994年の4月1日から6月30日までだった。どうもこの峠道では、いつも通行止に出くわしてしまう。縁がなかったようだ。
 
 峠までの千本林道沿いには集落名が一切見られない。頻繁に通行止を行なうところからしても、途中に人が住むことはないのだろう。別役側も今は過疎化が進み、駒背越隧道を越えるのは、増々難しくなるのではないだろうか。

   
   
   

別役より伊尾木川沿いを下る(余談)

   

<伊尾木川沿いを下る>
 駒背越隧道が越えられないとなると、後はひたすら伊尾木川沿いに海岸沿いの伊尾木市街まで下るしか手がない。これが長い。40数Kmはあるだろう。宝蔵峠を除けば、他に伊尾木川水域から抜け出すルートがない。

   
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安明寺橋より伊尾木川下流を望む (撮影 1997. 9.26)
深い谷を形成している
橋の欄干は古いガードレール

<旧伊尾木林道>
 以前は、最上流の別役から中流域の古井(こい)までの道を伊尾木林道と呼んだものと思う。私が訪れた時は既に舗装されていたが、当時使っていたツーリングマップではまだ未舗装表記のままだった。また、名前も市道古井別役線と変わっていたようだが、かつての林道とあまり大差ない狭い道だった。川の蛇行に合わせ、道が細かく屈曲する。ブラインドカーブも多く、滅多に対向車は来ないが気疲れする。そこを延々と走る。
 
<安明寺橋>
 古井では伊尾木川本流に安明寺橋(あみょうじばし、地理院地図)が架かる。この橋より下流側は市道から県道207号・大久保伊尾木線に変わるものと思う。
 
 安明寺橋は小さく古い橋で、欄干代わりの錆びたガードレール越しに、まだまだ山深さを感じさせる伊尾木川の流れが眺められた。橋の上流側には小さなダムが築かれていて、清冽な水が流れ落ち、ダム上部は青い水をたたえていた。まだまだ自然溢れる川だった。
 
 今は安明寺橋は新しく架け替えられたようだ。周囲の様子も開けて見通しがよくなったらしい。

   
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案明寺橋より伊尾木川上流を望む (撮影 1997. 9.26)


<奈比賀付近>
 伊尾木川ダム(伊尾木ダムとも)も過ぎ、ほとんど下流域の奈比賀(なひが)に入る。ここには伊尾木川ダムに関連した発電所がある。
 
 奈比賀以降、伊尾木川左岸には208号・奈比賀川北線が通じる。県道207号の続きは右岸沿いに通じる。県道208号の方が若干道は良さそうだが、センターラインがある道になるのは、結局安芸平野に入ってからである。

   
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奈比賀に入る (撮影 1997. 9.26)
まだセンターラインは出て来ない

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県道標識 (撮影 1997. 9.26)
「安芸市 奈比賀」とある

   

<沈下橋>
 途中、伊尾木(左岸側)と川北甲(かわきたこう、右岸側)を結んで沈下橋が架かる(地理院地図)。 県道207号と208号を連絡する形で道が通じる。近くに伊尾木花(はな)という集落があり、「花沈下橋」と呼ぶようだ。あまり有名ではないのか、ツーリングマップには載っていなかったが、県道を走っていて偶然見付けたので寄ってみた。 欄干のない沈下橋を車で渡るのは、ちょっとしたスリルがある。座興であった。

   
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花沈下橋 (撮影 1997. 9.26)
右岸側(川北甲)より見る
対岸の県道207号沿いに花集落が立地する

   

<馬路村へ(余談)>
 駒背越隧道が越えられず、徳島県の内陸部とは全く異なる土佐湾岸沿いに出て来てしまった。険しい峠の旅では、こうした旅程変更はままあることだ。こういう時、如何に臨機応変に対応できるか、腕の見せ所である。旅慣れているところを見せたい場面だ。
 
 海岸沿いに通じる国道55号を少し室戸岬方面に走ると、道路脇に伊尾木漁港があった(地理院地図)。 折しも道の駅の建設中だったが、車が停められ、公衆電話も利用できる。午後4時近くともう遅い時刻だったが、宿の予約を試みることにした。 かねてより馬路村にある公共の宿のコミュニティーセンターうまじ・馬路温泉に泊まれないかと思っていたので、ダメ元で電話してみた。 すると、一人利用だが快く受け付けてくれた。別館の2食付きが、7,600円に消費税380円(当時は5%)で合計7,980円と格安だった。馬路村は以前にも一度訪れたことがあり、ある程度の土地勘もある。 車の移動には問題ないだろう。日がな一日、険しい林道や狭く曲がりくねった道ばかり走り通して来たので、今夜は温泉宿でゆっくり過ごそうと思う。それまでジムニーでもう一走りだ。どうにか今日の旅も無事に終われそうだ。

   
   
   

<結び>
 四国は周囲をぐるりと海に囲まれ、それでいて面積は北海道の1/4しかない。しかし、山深さを感じさせる地でもある。ただ、中部山岳地帯の様に3,000m級の山々が連なり、人を寄せ付けないような厳しい自然の山深さとは異なる。 伊尾木川を延々と遡った県境直下の地に、別役の集落が細々と佇む。そうした人の暮らしを感じさせる山深さだ。訪れたことはないが、張川水域にもかつて中ノ川や正藤といった集落が存在した。 このところ四国の峠ばかり掲載しているが、例えば焼野峠の峠直下に月野(つきの)や釘貫(くぎぬき)の集落があった。険しいばかりでなく、人の営みをも包み込む自然である。 しかし、最近はそうした地から人の流出が進んでいる。ただただ山深いばかりになって行くように感じる。
 
<あとがき(余談)>
 駒背越隧道に触れながら宝蔵峠を焼き直してみたが、相変わらずキャラクターエディターを使ってhtml言語を書いている。WordPressを試してみたが、どうも肌に合わない。ブログやスマホ対応ページも作ってみたいが、どうしていいかさっぱり分からない。
 
 これでも若い頃はプログラミングは得意だった。今はコンピューター将棋がプロ棋士に勝つ時代だが、マイクロコンピュータで詰将棋のプログラミングをしたのは私が最初である。当時(1980年頃)の「マイコン」という月刊誌の別冊に掲載された。 まだ学生で、夏休みを使い、毎日アルゴリズム作成と機械語によるプログラミングに没頭した。課題にした11手詰めの詰将棋が解けた時は嬉しかった。
 
 卒論はコンピューターグラフィックスだった。陰面消去に関する論文で、印刷学会の論文賞を受けた。沖タックというミニコンを使い、缶のコカ・コーラがぐるっと一周する動画を作ったりした。まだ「CG」など一般には知らていない時代のことだ。
 
 就職後も当時の電電公社向けの電話交換機設計用の熱解析ソフトを作ったり、ロボット言語をで動作する三菱製の産業用ロボットを使ったウェハ・ハンドリング装置を設計したりした。 元は機械系の学生だったが、丁度マイクロコンピューターが出始めた時で、関心を持ち、独学で勉強した。実務でZ80を載せたコンピューターボードの設計を担当したこともある。
 
 それが今ではスマホの操作にも手こずる始末。やっと書き上げたこのページも、いつもの様に何とも見栄えがしないと落胆するばかり。 それでも、もう車では訪れることが難しくなった峠の写真を、通信速度やメモリ容量を気にせず高画質で掲載できたことで良しとしようと思う、宝蔵峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1994. 5.22 物部村より駒背越隧道にアクセスするも通行止/ジムニーにて
・1997. 9.26 畑山→宝蔵峠→別役→駒背越隧道下で通行止、引き返し/ジムニーにて
 
<参考資料>
・中国四国 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 6 中国四国 1997年9月発行 昭文社
・マックスマップル 中国・四国道路地図 2011年2版13刷発行 昭文社
・角川日本地名大辞典 36 徳島県 昭和61年12月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 39 高知県 昭和61年 3月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・四国森林管理局のホームページ
・香美市のホームページ
・その他一般の道路地図、webサイト、観光パンフレットなど
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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