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三国峠 (三国トンネル)
 
みくにとうげ (みくにトンネル)
 
上越国境を繋ぐ大幹線路の峠
 
 
 
三国峠/三国トンネル (撮影 2003. 8.11)
三国トンネルの群馬県新治村(にいはるむら)側の坑口
トンネルの反対側は新潟県湯沢町
標高は1.084m(峠にある看板より)
道は国道17号・三国街道
 
道路の真上に掲げられたトンネル標識には次のようにある
 高 さ 制 限 3.8m
車 線 幅 員 2.5m
 三国トンネル
通 行 注 意
 
タクシーから降りた一人の男性が、山歩きの支度を始めた
 
 
 
 今は関越自動車道が完成し、車やバイクで首都圏から新潟へ向かうには、長い関越トンネルを使って群馬県と新潟県の上越国境を抜けるのが最も手軽である。
 
 新潟からは日本海フェリーが発着し、北海道の小樽との間を結んでいる。太平側のフェリーに比べて料金が安いこともあり、北海道を旅する時はしばしば日本海フェリーを利用した。最近になって東京と北海道を直接結ぶフェリーが姿を消したこともあり、尚更新潟−小樽間のフェリーの利用価値は高い。
 
 目的地が遥か彼方の北海道ともなると、のんびり国道17号を走って三国峠(トンネル)を越えている暇などない。迷わず関越自動車道に乗ってしまう。あるいは北海道を旅してきた帰りも、もういい加減、旅に疲れているので、この上新潟や関東を旅しようなどという元気は残っていない。早く家にたどり着きたい一心で、関越道を東京に向けて突っ走る。
 
 こうして群馬と新潟の県境上に三国峠があることは、すっかり忘れてしまっていた。以前はその県境近辺も楽しく旅したことはあるが、この10年程の間はトンとご無沙汰である。三国峠がどんな峠だったか、今となってはおぼろげだ。一級国道のトンネルの峠であり、当時はあまり魅力を感じなかったことも、記憶に残らなかった理由の一つである。
 
 それがまた、最近気になってしょうがない。仮にも太平洋側と日本海側を結ぶ大きな峠である。その三国峠を再び訪れ、この目にしっかり焼き付けておきたいと思い始めた。そこで、ここ数年、久々の群馬や新潟の旅を兼ねながら、何度か三国峠を越える機会を設けたのだった。
 
<三国街道 須川宿>

 群馬県の中之条町から、県道53号・中之条湯河原線で大道(だいどう)峠を越え、新治村(にいはるむら)に入って来ると、国道17号に出るちょっと手前に、「歴史国道 三国街道須川宿(すかわじゅく)」という観光スポットがあることが、ツーリングマップルに記されている。それがどんなものなのか全く知らぬまま、当てがない旅には格好の暇つぶしとばかりに、ちょっと立ち寄ってみることにした。
 
 車で乗り込んだその須川宿は、幅の広い直線の舗装路で、長さは500mあるという。一般の車道とちょっと違ってセンターラインがなく、車で走るとどこを通っていいのか分からず、とても違和感がある。
 
 歴史国道とは、歴史的に重要だった道を建設省(現在の国土交通省)が選定したもので、昔の宿場の町並みが復元されたこの三国街道須川宿も、その一つだそうだ。


須川宿
 
 まだ朝の9時と早いせいもあるのか、通りは閑散としていた。時折近所の住人が歩いて通ったり、地元の車が走り抜けるばかりで、観光客は誰もいない。真っ直ぐな道を北側の終点までおずおず進むと、左手に駐車場を見つけた。無料である。そこで車を停めておいてちょっと散策することにした。
 
 道の片側には堀が通り、涼しそうに水が流れている。こんなところが昔の街道らしさを思わせる。
 
 三国街道とは、東海道などのいわゆる五街道に次ぐ要路とされた道で、上州高崎から中山道と分かれ、三国峠を越えて越後長岡を経由し、日本海に面する寺泊(てらどまり)に至る経路を指す。街道の名は三国峠を越えていることに由来するそうだ。その三国街道の宿場・須川宿なら、三国峠とも無縁ではない。
 

須川宿資料館
<須川宿資料館>
 
 ただ歩いているだけではしょうがないので、途中にあった資料館に入ることにした。他に観光客が誰も居ない状態では、やや入り難い門構えだし、入館料も取られそうなのでちょっと躊躇したが、思い切って中に足を踏み入れた。丁度係りのおじいさんが開館準備をしている最中で、館内の明かりを点けて迎え入れてくれた。
 
 館内は狭く、おじいさんの目はどこに居ても届きそうである。歴史には疎いしあまり興味もないが、無関心に歩き回っては体裁が悪い。そこで、熱心そうな振りをして展示品を食い入るように見て回った。特に三国峠に関する展示を関心深気に眺めていると、それが幸いしたのか、おじいさんが棚の中から「三国峠」と題した1枚のパンフレットを出してきて渡してくれた。これは思わぬ収穫で、200円の館料の元が取れた思いだった。
 
 それを切っ掛けに、その資料館のおじいさんと少し話をする。おじいさんは背が低く小柄だが、体格は今でもガッチリしていて背筋もピンと伸び、なかなか年季の入ったおじいさんだ。若い頃には畑仕事や山仕事でよく働いたのだろう。昔は1日に10里(約40Km)は当たり前に歩いたが、今の自衛隊は直ぐ車を使ってしまうなどとこぼしている。
 
 資料館の大きさに比べて思いもかけぬ長い時間を過ごし、資料館を後にした。私が出て行くと、館内の照明はまた消えてしまった。
 
 
 
<赤谷湖>
 
 続いて相俣(あいまた)ダムによって堰き止められた赤谷湖(あかやこ)に寄った。須川宿からは国道を走らずに来れる。ダム近くに公園があり、広い駐車スペースも設けられている(無料)。忙しい国道から外れて、一息入れられる場所として最適だった。
 
赤谷湖
 

赤谷湖上流の風景

国道脇の駐車スペース
(除雪ステーション?)
 
<峠への登り>
 
 寄り道はこのへんにして、いよいよ国道17号に入って峠を目指す。赤谷湖上流の猿ケ京温泉付近は、観光旅館やホテルが立ち並び、なかなか賑やかである。途中、右手に猿ケ京関所跡があったが、近くに駐車場所が見当たらず、断念して通り過ぎた。
 
 しかしその先には、さすがに一級国道だけあって、チェーン着脱や休憩に使われる待避所が何箇所かある。道路の幅も広く、部分的に登坂車線もあり、快適そのものだ。
 
 途中、注意して見ていると、山の中へ旧三国街道の山道が分岐していた。旧永井宿の付近から三国峠を越えて、新潟県側の三国トンネル坑口まで続く散策コースで、三国路自然歩道と呼ばれているようだ。 

新三国大橋を渡る
 

また別の駐車スペース (撮影 2002.10.14)
トイレもあり休憩に好都合
(三国峠トラックステーション?)

峠へ登る快適な道
 

クロソイド曲線碑
<クロサイド曲線の碑>
 
 いよいよ三国トンネルが近付いた頃、左手に「三国峠雪ステーション」の建物が見えてくる。その手前にちょとした公園が設けられている。その広場の片隅に変わった形のモニュメントがあるなと思って近付いてみたら、クロソイド曲線という碑であった。ここはクロソイド記念公園というらしい。
 
 サイクロイド曲線というのは知っているが、クロソイド曲線というのは聞き覚えがなかった。カーブを曲がる時のハンドル操作が滑らかになる、ある特殊な曲線が存在するということを聞いたことがあるが、これがそうだったのか。
 
 後日、NHKテレビのプロジェクトXという番組を偶然見ていたら、またそのクロソイド曲線が登場した。うる覚えで正確な話ではないが、なんでも東名高速道路の建設でこの曲線が用いられたそうだ。「ああ、あのクロソイドか」とテレビを見ながら合点がいったが、結局どんな曲線かは全く理解していないのだった。
 
 次に碑文を写す。
 
クロソイド曲線記念碑
 
 三国峠付近の国道は、古くは三国街道として江戸と越後を結ぶ主要な街道であったが、戦後本格的な自動車交通時代に対応する道路に改良すべく、建設省三国国道工事事務所が昭和27年より工事に着手し、昭和34年の三国隧道の貫通により完成したものである。
 この区間は小半径の曲線が連なる山岳道路のため、車両が安全かつ快適に走行できるように道路の直線部と曲線部の間に、緩和区間としてクロソイド曲線を昭和28年に日本で初めて設置した。
 これを記念してここに碑を建立する。
 
 昭和61年12月
            建設省高崎工事事務所長
               田 崎 忠 行
 
<峠>
 
 三国峠雪ステーションを過ぎると、それに続いて道路の左側に比較的広い駐車スペースがある。その先は上越橋という橋を渡って三国トンネル(三国隧道)へと吸い込まれて行く。
 
 三国峠の道は、一級国道だけあって全般的に勾配が緩やかで、トンネルの少し手前からも、ほとんど水平移動のようである。漫然と車を走らせていると、国境のトンネルを抜けるという意識も湧かない。峠に着いたという感激が少ないのは残念だ。
 
 この峠を最初に越えたのは、多分真冬のことだったと思う。幹線道路の峠とあって冬季も通行止はなく、車の往来は多い。しかし、豪雪地帯である上越国境を、標高1,000m以上の高所で越える峠道である。雪と無縁ではない。除雪作業が十分に行われて初めて車が通行できる厳しい環境だ。道路の両側には土埃が混じった汚れた雪が積まれ、殺伐した雰囲気であった」その中を関越自動車道を節約した輸送トラックが、時間を惜しんでよそ見もせず、雪を蹴散らして通り過ぎる。ほとんどの車両にとって、三国トンネルは単なる通過点でしかなく、そこに停まる車は少ない。ちょっと峠で休んでいこうという気持ちより、早くこの場から抜け出したいという気が先に立つ。私もそそくさとトンネルを抜けて新潟に下ったのだった。

三国トンネルの群馬県側 (撮影 2002.10.12)
上越橋を渡ってトンネルの中へ
 
 その時は、幹線国道の峠など何の期待もできず、案の定詰まらない峠だと思った。しかし、今ではそれがこの三国峠の一つの味であるような気がしている。最近になって久しぶりに訪れた時も、雪の無い時期ではあったが、トンネル前後にある駐車スペースには、何かの工事の為の車両が並び、コーンや柵が置かれ、作業員らがうろついている。峠や国境を思わせる情緒などとは無縁の存在であった。全く実用本位である。それが三国峠ということか。
 

上越橋の袂
三国峠への案内図がある
トンネル長1218m、標高1084m」と書かれている
<本来の三国峠>
 
 行き交う車は多くとも、峠に立ち寄る一般車は少ないが、そんな中、1台のタクシーが停まるのに居合わせた。一人の初老の男性が降りてきたかと思うと、山歩きの為の身支度を整え始めた。その様子が一番上の写真に偶然写っている。どうやら三国峠へ登るらしいのだ。
 
 三国トンネルのことをここでは三国峠と呼んでしまっているが、勿論本当の峠はこの上にある。トンネルの標高が1,084mに対し、峠は1,244m。その差160m。先ほどの男性を見ていると、歩道のない上越橋を行き交う車に注意しながらとぼとぼ渡り、トンネル坑口の直前を右手に入っていった。そこがどうやら峠への入り口だ。
 
 その登山道は三国峠を越える三国街道の旧道とは異なるが、峠に登るには最短の経路になっている。同じような登山道が、新潟県側坑口からも始まっている。峠まで片道20分程度と聞く。
 
 三国峠からはさぞかし眺めが良いのだろうが、国道の峠からはあまり遠望がない。クロサイド曲線の碑の裏手辺りから、群馬県側最後の景色が僅かに広がるが、この下にある法師ノ沢の様子もほとんど分からないままだ。
 
<三国という名の峠>
 
 ところで、「三国峠」という名前の峠はいくつかあるようで、この「峠と旅」でも、北海道の上士幌町と上川町の境と、埼玉県と長野県の境にあるそれぞれの三国峠を掲載している。
 
 「三国」の名がついたのは、大抵が3つの「国」の境が峠の近くにあるからである。「国」とは古くから行われていた日本の地方区分の名称で、難しいことは分からないが、現在の都府県や北海道の支庁による区分けにほぼ相当しているようだ。

群馬県側最後の景色
 
 例えば、北海道の三国峠は、古くは石狩(いしかり)、北見(きたみ)、十勝(とかち)の三国の界で、現在の支庁による区分けで見れば、上川、網走、十勝の三支庁の境ということになる。また、埼玉と長野の県境の三国峠については、武蔵野(むさしの)、信濃(しなの)、上野(こうずけ)の三国、現在の埼玉、長野、群馬の三県である。
 
 峠はなるべく国境を越えやすいようにと、峰の鞍部を選んで越えているので、正確に三国の接点に位置することはない。代わりに三国が接する所には、その名も三国山という山があったりする。前述の2つの三国峠にも、その近くに三国山が存在するしている。
 
<峠名の由来>
 
 ところが、今回のこの上越国境の三国峠の場合は、ちょっと事情が異なるようである。普通に考えれば、上信越(じょうしんえつ)国境の三国峠となる。
 「上」は上野(こうずけ、上州とも)で現在の群馬県。
 「信」は信濃(しなの、信州とも)で現在の長野県。
 「越」は越後(えちご、越州とも)で現在の新潟県。
 
 しかし、実際のこれら三国の接点は、三国峠の遥か西方15Kmも離れた白砂山(2,140m)である。三国山(1,636m)という山も峠の北約800mにあるが、単に上越国境の途中に位置するだけで、やはり三国の境とは関係ない。
 

三国トンネルで上越国境を越える
見えているのは新潟県側の出口
 須川宿資料館でもらったパンフレットなどによると、三国峠の名前の由来は、三国峠に建つ御坂三社神社(みさかさんじゃじんじゃ、三国権現)にようるものらしいのだ。そこには上野赤城(かみつけあかぎ)明神、信野諏訪(しなのすわ)明神、越後弥彦(えちごやひこ)明神、それぞれの一宮が祀られている。峠にこの三国権現が祀られたから三国峠で、その近くの山も三国山と呼ばれ、三国峠を越える道は三国街道となった。
 
 こうして全ての始まりは三国権現らしいのだが、その神社にしても上野、信濃、越後の3国に関係していることには変わりない。気難しいことは抜きにして、上信越国境そのものではないにしろ、それら三国に関わるから「三国峠」tpよばれるのだと理解しておいて、あながち間違いではないと思う。
 
<上越国境を越える他の峠、清水峠>
 
 ところで、この険しい上越国境を越える峠は、この三国峠の他にどんなのがあるかというと、一番気になるのが清水峠である。三国峠の北東約15Kmの稜線上、群馬県水上町湯檜曽(ゆびそ)と新潟県塩沢町清水の境に位置する。現在国道291号が群馬・新潟両県から峠に向かって伸びているが、峠の付近は未開通のままだ。これはどうも怪しい。
 
 調べてみると案の定、清水峠も脚光を浴びた時期があったそうだ。廃道に近い状態にあった古い清水峠の道は、明治6年に新道の開削が始められ、翌明治7年に幅員1.8m、延長29.2Kmの山岳道路として開通する。更に明治11年、東京と新潟を最短路で結ぶ国道としての拡幅工事が計画され、明治14年着工、明治18年清水越え新道(清水国道)として全通する。そして人力車や荷車、荷馬車の往来で賑わったそうだ。国家は歴史ある三国峠ではなく、清水峠に注目していたようだ。
 
 しかし、三国峠よりも標高が高い清水峠(1.448m)は、積雪による破損がひどく、清水越え新道は短命に終わったそうな。結局三国峠に主役の座を再び奪われる羽目に陥る。
 
 その後昭和45年に国道291号となるが、相変わらず峠は車が通行できないまま現在に至っている。群馬県側の国道291号の終点は一ノ倉沢で、谷川岳への登山者の駐車場付近で行止りだ。新潟県側は清水の集落を過ぎた先で未舗装となり、それも直ぐに通行止となる。そこを尚も登川の河川敷の中を行く登山道に車を進めると、車道は忽然と河原の中に消えうせていた。見上げると遥か彼方に上越国境の峰々が、車を阻むように高く聳え立っている。
 

群馬県側の国道291号 (撮影 1994. 8.12)
土合口付近
JR上越線が清水トンネルに入る所
(トンネルの上に居る)

新潟県側の国道291号 (撮影 2002.10.13)
峠に向けて味のある未舗装路が暫し続く
 
<峠道の変遷>
 
 清水越え新道から主役を奪い返し、また人馬の往来を取り戻しかけた三国峠であったが、それも束の間。明治26年、信越線が遥々碓氷峠を越えて開通すると、その影響は少なくなかった。険しい上越国境を迂回し、距離は長くとも群馬・長野県境を経由して新潟に至る鉄路の方に、人や物資が流れ始める。更に、昭和6年、国鉄上越線の清水トンネルが上越国境に穿(うが)たれては、峠として致命的である。まだ自動車の普及も途上の時代、人の移動や物の輸送は容易に鉄路に奪われてしまった。
 
 道路がやっと鉄路に対抗するようになったのは、昭和34年に三国トンネルが開通し、国道17号が三国山脈を抜けてからである。考えてみればこの時初めて一般の自動車が上越国境を越えたのであって、それ程古い話しではないのだ。
 
 国道開通によって寂れていた三国街道の旧宿場町の中には、息を吹き返す所もでてきた。湯沢町の旧浅貝宿付近などは、苗場国際スキー場がオープンして行楽客を呼び込むようになる。新三国街道は変貌を始めた。ただ、その陰で、トンネルの上にある三国峠そのものは、人知れず置き去りとなっていった。
 
 その後も上越国境では、鉄路の新清水トンネル(上越線の下り専用)や大清水トンネル(上越新幹線)、道路では昭和60年の関越トンネル(関越自動車道)の開通と、目まぐるしい発展は続く。これは新潟からあの有名な政治家が輩出された影響が少なくないだろう。
 
 一方、交通の実用面からは遠い存在となった三国峠も、三国路自然歩道というハイキングコースとして整備され、往時の街道の様子を偲ぶ人たちが時折訪れているようである。
 
 
 
<新潟県側>
 
 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」。川端康成氏の小説「雪国」は、確かこんな冒頭から始まっていた。これは上越線の清水トンネルのことで、後からできた道路の三国トンネルのことではない。しかし、そんな小説の一節を思い出しながら、気分を出して新潟県側に入る。
 

三国トンネルの新潟県側 (撮影 2002.10.12)

新潟県側のトンネル坑口 (撮影 2002.10.12)
 
 新潟県側にもトンネルを抜けた直ぐ右に駐車スペースがある。どちら側から峠に登ってきても、トンネル手前で駐車場所が道路の左側となり、車を入れ易いのはいい。トンネルの上の方を見上げると、峠が位置する三国山の肩の鞍部が、それ程遠くない所に望める。
 
 駐車場から浅貝川に架かる小さな橋を渡った所から、三国峠へ登る登山道が始まっている。往復1時間もあれば峠に登れる筈なのだが、なかなかその余裕がない。できれば古い三国街道をゆっくり歩き通してみたいものだが、そんな旅ができる日がいつ来るのだろうか。
 
 三国峠や三国街道にまつわる文人に、若山牧水や与謝野晶子らがいる。あちこちに歌碑などが残っているようだ。牧水が歩いて法師温泉を訪れたのに対し、晶子は籠に揺られて峠を越えたそうだ。どうも個人的に与謝野晶子は好きになれないのだった。

新潟県側の三国峠登口  (撮影 2002.10.12)
 
 余談だが、小説「雪国」の冒頭の一文には、誰もが聞き覚えがあろうが、しかし誰もがその小説を読んだことがある訳ではないだろう。実は私もその一人であった。偶然だがつい最近、これは一つ読んでおこうとふと思い立ち、図書館で本を借りてみた。
 
 文学音痴な私でも、これは「文学の薫り高い」と思わせる文章が続く。主人公の男の恋人である芸者の容姿や立ち振る舞いを描写するくだりがあるが、これだけ微に入り細に入り、文章で表現することができるとは恐ろしいほどだと思った。百聞は一見に如かずと言うが、凡人が絵や写真でも見る以上に細かく正確に文章によって表わされているのだ。
 
 映像などの技術が発達した現代人には、文章によって物事を表現する機会が失われてきた。最近の若い女性は何でも「かわい〜」の一言で済ませてしまう。斯くいう私もこんなホームページを制作しながら、表現力の乏しさには情けなくなってくる始末である。
 
 でも、「雪国」の物語の筋立ては全く面白くないのだ。文章の素晴らしさはよく耳にするが、これまで小説の内容を聞いたことがなかったのは、この為だろうかと疑いたくなった。主人公と芸者の間は大した展開もなく、グダグダといつまでも続く。図書館で借りた本も遂に途中を読み飛ばし、結末だけ読むことにした。結局、よく分からない。漫才の様に単純で分かりやすい「落ち」がないと、私は納得できないのであった。
 

新潟県側の道 (撮影 2002.10.14)
峠方向を望む
 国道は雪国の町・湯沢町の市街地に向けて、快適だがどことなく寂しい道筋を下っていく。時折、スキー場の側らを過ぎるが、私などスキーの趣味がない者にとって、特に関心を惹かれることはない。ましてスキーシーズンから外れていれば、ひとけのないゲレンデやスキー場施設は、寂しさを増すだけだ。
 
 雪のある季節に、高速道路の関越トンネルや新幹線の大清水トンネルを抜けて新潟県に出ると、小説「雪国」の冒頭を疑似体験できる。車窓に広がる雪景色には、少なからず感動を覚えることになる。
 
 ところが、それ程長くはない三国トンネルではそうはいかない。トンネルの前も後ろも既に雪で、国境を越えたとしても何の変わりもないのだ。それに、のんびり電車に乗っているのと訳が違って、自分で運転しなければいけない自動車では、雪景色に見とれてなどいられない。普段乗り慣れない雪道にハンドルを握る手にも力が入り、大きな輸送トラックに追い立てられて、必死に前走車に付いて行く。これでは情緒も何もない。
 
 湯沢の町中に入るちょっと手前に、道路情報ターミナル「みちしるべ湯沢」という施設が国道脇にある。広い駐車場に冷暖房完備の休憩所。単調になりやすい国道走行の気晴らしとして、一休みするには絶好である。
 
 湯沢市街に入ると一挙に都会が広がる。スキーや温泉など観光で賑わう町だ。思い思いに上越国境を越えてきた在来線や新幹線、国道や高速道路も、ここ湯沢で一同に会す。
 
 越後湯沢駅の近くにある湯沢温泉は小説「雪国」の舞台であった。主人公がひとり夜の湯沢駅に降り立つ場面が出てくるが、その情景は寂しいの一言である。鉄路のみが細々一本通じていた当時と今では、隔世の感があるのだろう。
 
 この2年程の間に訪れた三国峠は、夏や秋でのことだった。雪がなければ車も走らせやすいし旅もしやすい。でも、やはり三国峠の味は冬にあるのではないだろうか。今度また、雪の季節に越えてみようと思う三国峠であった。
 
<参考資料>
 昭文社 関東 ツーリングマップ 1989年1月発行
 昭文社 ツーリングマップル 3 関東 1997年3月発行
 人文社 大きな字の地図 新潟県 2001年4月発行
 国土地理院発行 2万5千分の1地形図
 角川 地名大辞典 新潟県、群馬県
 パンフレット「三国街道 三国峠」 新治村観光協会発行
 
<制作 2004. 7.25 蓑上誠一>
 

峠と旅