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三国峠 (前編・長野県側)
 
みくにとうげ No.014-2
 
今でも見事な峠の姿を留める峠道
 
(初掲載 2011. 9.29  最終峠走行 2011. 7. 4)
 
  
 
三国峠 (撮影 2011. 7. 4)
手前が埼玉県秩父市中津川(旧大滝村中津川)
奥が長野県川上村梓山
峠の標高は1,740m(峠にある看板より)
道は、埼玉県側は秩父市道17号(または194号、旧大滝村道17号、旧中津川林道)
長野県側は不明(林道梓山線?)
 
 
 
 この三国峠については、「埼玉と長野を結ぶ唯一の車道」と題して、既に掲載してあった(三国峠)。初掲載は1997年6月23日のことで、もう14年以上も前になる。峠は見事なV字型の切り通しで、両側の法面は岩や土が露出し、荒々しい中にも秀麗な感じを受け、全く惚れ惚れする見事な峠であった。加えて、峠の埼玉県側は長い未舗装路の中津川林道ときている。ダートで高い県境を越える、これ程魅力的な峠道はない。それで、このホームページ「峠と旅」でも、開設直後に掲載した峠の一つであった。
 
 しかし、あれから長い年月が経つ。林道はアスファルトによって舗装され、峠の法面はコンクリートで覆われたかと思ったが、今年(2011年)7月に行ってみると、峠も林道も、ほぼ昔のままの姿で残っているではないか。これは嬉しかった。久しぶりにV字の峠を眺め、中津川林道の走行を楽しんだのだった。
 
 今回調べてみると、最後に三国峠を越えたのは1991年のことで、それ以後今年に至るまで、三国峠を訪れた形跡が見当たらない。もう20年も前に越えたきり、ずっとご無沙汰だったとすると、それは驚きだ。長野県側の川上村や埼玉県側の旧大滝村には、何度も行っている筈だが、三国峠は越えていなかったようだ。また、1991年より前の旅では、写真をほとんど撮らなかったので、1991年以前の三国峠の写真が残っていない。それだけでなく、いつ三国峠を越えたのか、何回越えたのかも、今では分らなくなってしまっていた。ジムニーで越えたのか、AX−1だったろうか、何だか大切な記憶の一部を失ったような面持ちである。
 
 
千曲川最奥の集落・梓山
 
 国道141号・佐久甲州街道の方から、県道(主要地方道)68号・梓山海ノ口線で東に向かう。道はほぼ千曲川に沿っている。千曲川と言えば、長野県に源を発し、新潟県に入ってから信濃川と名を変え、新潟市で日本海へと注ぐ、日本一長い大河である。新潟市街の万代橋の直ぐ下流から、佐渡へ渡るフェリーが出ていて、かつてそれに乗ったことがある。そのフェリーが日本海へ漕ぎ出す河口が信濃川だったと思う。この長野県の山に囲まれた川上村からは、遥か遠くの彼方である。
 
 右に山梨県に通じる信州峠(しんしゅう)への道を分け、次に左に馬越峠の分岐を見、村役場も過ぎて更に進むと、秋山の集落に入る。ここより右に廻り目平方面の道が分岐している。その先には山梨県へと越える大弛峠(おおだるみ)が待っている。この川上村を訪れても、いろいろ峠があるので、必ずしも三国峠を越えるとは限らないのだ。特に大弛峠は標高が高く、越え応えのある峠道で、ついついそちらに触手が伸びる。
 
 秋山を過ぎると次は梓山(あずさやま)だ。ここが長野県側最後の集落となる。梓山は、北に群馬、東に埼玉、南に山梨、それぞれの県との境を成す峰々に囲まれ、文字通り最奥の地だ。そして日本一の千曲川(信濃川)の源流を擁する地でもある。
 

梓山の集落に入る (撮影 2011. 7. 4)
県道上を峠方向に見る

梓山の看板 (撮影 2011. 7. 4)
 

梓山集落内の様子 (撮影 2011. 7. 4)
県道上を峠方向に見る
右手に旅館
 梓山は秋山より更に小さな集落に見える。東西に走る県道を中心に、その両側に家々が集まっている。それでも沿道には商店や食堂、旅館の看板も見える。千曲川がそばを流れている筈だが、集落の北の外れを山際に沿って流れているので、県道上からはその様子は窺えない。
 
 梓山などのこの付近の集落は、千曲川によって形成された狭い河岸段丘上に発展していった。千曲川源流の行止りとも言える地だが、かつては秩父への物資運搬や鉱山、林業で栄えたと言う。まだ、現在の三国峠の車道が開通する以前のことである。今は高原野菜の生産地として農業を主な生業としている。
 
 右手に旅館があり、その前にバス停らしい物が立っていた。梓山は路線バスの終点の地でもあった。
 
 集落内で一本の小さな川を渡る。千曲川の支流・梓川である。国師ヶ岳に発し、千曲川源流の一つになっている川だ。橋の袂より、その川の左岸に沿って道が分岐している。その道の方向を示す看板には、「梓湖・村民グランド」、「町田市自然休養村 3Km」などとある。町田はわたしの近隣の市なので、何となく親近感が湧く。
 
 橋を渡った先には、「秩父多摩甲斐国立公園」の大きな看板が左手に立ち、それに並んで国立公園や川上村の案内図が出ている。
 
 ところで、道の所々に次のような看板が立っていた。
 
 この場所での大型車の回転は、禁止いたします。
 この先×××mに回転場所がありますので ご利用ください。
 (尚、途中での回転もご遠慮ください。)
                        川上村長
 
 この県道には付近で採れた高原野菜を輸送する大型のトラックが行き交う。多分そうした運搬業者への注意だと思われる。

梓川を渡る (撮影 2011. 7. 4)
ここに立つ看板には、700m先に回転場があるとのこと
 

梓山集落内の様子 (撮影 2011. 7. 4)
 集落内の県道沿いには、家々が軒を連ねて並び、ちょっとした街道の雰囲気がないでもない。隣の武蔵の国(現在の埼玉県)との国境を越えて、交易を行っていた武州道が通じていた所である。峠越えを控えた地として、梓山は宿場的な役割があったのかもしれない。
 
 集落の先を見ると、いよいよ埼玉県との県境を成す高い峰々が迫って来た。
 
 
県道終点とY字の分岐
 
 小さな集落はあっと言う間に過ぎ、人家が途切れる東の端に到達すると、そこで県道は終点である。仮にも主要地方道・梓山海ノ口が終わると言うのに、何の道路標識も見当たらない。代わりに、細い道が二手に分かれるY字の分岐が正面に現れる。それまでセンターラインもある2車線の道路だったのが、いきなり細くなり、どちらの道に進むのだと、ドライバーに迫ってくるのだ。事情を良く知っていればいいが、ただ、漠然とそのまま進めば三国峠へ行けると思って来ると、一瞬戸惑ってしまう。Y字の分岐にはしっかり道路標識があるのだが、赤く大きく書かれた「行き止まり」の文字ばかりが目に入り、これは一体どうしたことかと思わざるを得ない。

前方にY字路 (撮影 2011. 7. 4)
 

分岐にある道路標識と看板 (撮影 2011. 7. 4)
 三国峠へはこの分岐を左へ行く。Y字の分岐は、道のつながり具合から言うと右の方が本線らしく思える節もあるが、「行き止まり」となるのは、その右方向なのだ。道路標識とその下に続く看板には次の様にある。
 
   秩父         千曲川源流
  三国峠         十文字峠
 中津川林道         農道
             
 千曲川源流・十文字峠・農道
 行き止まり
 秩父・三国峠・中津川林道
 通行注意
 
 よくよく見れば、右へ行く「千曲川源流・十文字・農道」が行止りで、左の「秩父・三国峠・中津川林道」は通行注意で済んでいる。安心して左に進めば良いのであった。
 
 それにしても、この看板には困ったものだ。どうしても「行き止まり」の文字が目に付いて、一瞬ドキッとしてしまう。特に辺ぴな峠道ばかりを旅している者にとっては、行止りや通行止に遭遇する機会が多く、「今日もまたか!!!」と、落胆させられるのだ。そうでなくても、車を運転しながらでは、咄嗟にはこの看板を正確に理解できない。道を知らないドライバーなら、車を停めてまじまじと看板に見入ってしまうだろう。
 
 わたし自身の場合も、この看板に惑わされたドライバーの一人であった。三国峠を最初に越えたのは、確か埼玉県側からで、その時はこの看板の前は素通りで、ほとんど気付かなかった。しかし、その後、長野県側から向かった時は、動体視力があまり良くないのもあって、目の前に出て来た「行き止まり」に、こちらが立ち止まってしまった。
 
 当時と今では、看板の内容も少し違っているかもしれない。特に、埼玉県側が大滝村から秩父市に変わって、その関係で変更になっている箇所もあることだろう。しかし、この「行き止まり」の文字だけは、20年経った今でも記憶に残っている。
 
 
十文字峠方向へ寄り道
 
 ところで、峠マニアとしては、この「十文字峠」(じゅうもんじとうげ)と呼ばれる峠も、以前から気になる存在であった。三国峠と同じく、長野県川上村と埼玉県旧大滝村との間に位置する。勿論看板にあった様に、峠のずっと手前で車道は行止りであり、長野県と埼玉県の間に通る車道は、三国峠一本であることに変わりない。しかし、十文字峠は古くからある峠のようで、それでは三国峠との関係はどのようなものだったのだろうかと、いろいろ疑問が湧く。
 
 ここは、十文字峠までは行けないと知りつつも、件(くだん)のY字を右に、車で行ける所まで行ってみようと思うのであった。
 

十文字峠方向に進む (撮影 2011. 7. 4)

道端に立つ案内看板 (撮影 2011. 7. 4)
 
 分岐からちょっと坂を上ると、その先には高原野菜の農園が広がった。これがこの川上村の主産業である。緩慢な斜面を切り開いて、広々と野菜畑が広がる。その中を直線的な農道が走る。広いので方向感覚が定まらず、どの道を行ったら良いか分らなくなる分岐もあるが、そうした所には適宜「千曲川源流 十文字峠」と書かれた看板が道端に立ち、それが道案内してくれる。
 
 千曲川源流と言っても、道は千曲川から離れて来ている。どちらかと言うと、三国峠への道の方が千曲川に沿っているのだった。川が流れる谷間は、道の左手の野菜畑の外れにある。
 
 梓山の農園を過ぎると、道は立派なアスファルト舗装の農道から、砂利道の林道へと変わった。一転して周囲に木々が林立し、視界の広がらない林の中を行く。道は良く整備されていて走り良い。これは、思いも掛けない所で、林道走行が楽しめるかと、喜んでいる間もなく、道は終点に着いてしまった。そこには、大きな駐車場があった。

 (撮影 2011. 7. 4)
 
 
毛木場
 

この先、未舗装路の終点 (撮影 2011. 7. 4)
大きな駐車場があった
 何の予備知識も無く、どんな所に出るのだろうかと、不安だったり少し楽しみだったりして到着した道の終点には、舗装された広い駐車場があった。トイレや休憩小屋、案内看板も完備され、こんな山の中に、随分立派な施設だと驚いた。
 
 入口に立つ看板には、「毛木場駐車場」とあった。「毛木場」は「もうきば」と読むらしい。「千曲川源流入口 十文字峠・甲武信ヶ岳登山道入口」ともある。駐車場の広さは60台分だ。
 
 登山関係の本などを見ると、「毛木平」とも書かれている地点である。ここは十文字峠やその先の甲武信ヶ岳などへの登山基地となっているらしい。駐車場奥の左手隅より、長野・埼玉県境の峰へと登る登山道が始まっていた。
 
 ところで、登山道入口の近くの林の中に、「白木屋旅館」と小さな案内看板が、遠慮深くひっそり立っていた。徒歩1時間などとある。その旅館はまさかこの登山道の先にあるのだろうかとも思ったが、よくよく考えてみると、ここから戻った梓山の集落内にあったのだった。後で写真を確認すると、確かにその名の旅館が県道沿いに写っていた。
 

毛木場駐車場の看板 (撮影 2011. 7. 4)
向こうにあるのはトイレ

毛木場駐車場の様子 (撮影 2011. 7. 4)
左手奥より登山道が始まる
右手奥にあるのは休憩所
 
 休憩所の小屋の中などには、登山などの案内看板が多くあり、登山者ならずとも大変参考になった(下の写真)。
 

登山・ハイキングコース案内 (撮影 2011. 7. 4)
平面的な図
(上の画像をクリックすると、拡大画像がご覧頂けます)

登山・ハイキングコース案内 (撮影 2011. 7. 4)
立面的な図
(上の画像をクリックすると、拡大画像がご覧頂けます)
 
 案内看板を見ると、まず、これから登る三国峠は、「新三国峠」と書かれていたのが目を引いた。以前のページで次の様に書いたことがある。
 
古くは、現在の峠より更に南側に、歩いて越える三国峠があったそうだ。多くの例があるように、今のこの車道の峠に付けられた名は、歩 く峠に対して新三国峠とすべきところなのだ。
 
 実際に「新三国峠」の呼称は使われていたのだった。登山の世界では、当然ながら車道だけが道ではない。古い三国峠も登山道の一つとして今も活きているのだろう。それと区別する目的で「新」が冠された。ちなみに、登山関係の地図や本を見ると、やはり「新三国峠」と記載されていた。一方、一般の道路地図で、この峠を新三国峠などと書いたのを知らない。こここそが三国峠と言わんばかりに、記載されている。
 
 ところで、その元祖とも言える三国峠がどこにあったかと言うと、毛木場にあった看板にも、調べた登山関係の地図や本でも、どこにも「三国峠」は載っていないのだ。代わりに、長野、埼玉、群馬の3県に接っする所に三国山がある。どうも、この山そのものが、三国峠だったのではないかと思う。文献に「峠の南700mに新三国峠が開かれた」とある。現在の三国峠から700m北を見ると、三国山が鎮座する。
 
 本来、峠は峰の最も低い部分、いわゆる鞍部を越えるのが常套である。わざわざ、高い所を越える必要はない。ただ、稀なケースで、峰のピーク部分を越える峠も存在するようだ。沢沿いに道が開削し難く、代わりに尾根上に道を切り開く。そうすると、自ずと峰のピークを越えることになる。この様な理由ではないだろうか。
 
 元の三国峠もそうしたケースの一つかもしれない。三国山の頂上、あるいは、その直ぐ近傍を道が越えていた。現在の登山地図では、「三国山」の文字の陰に「三国峠」が隠れてしまったのだと思う。

「千曲川源流の里」の看板 (撮影 2011. 7. 4)
川上村のことを紹介している
(上の画像をクリックすると、拡大画像がご覧頂けます)
 
 
十文字峠のこと
 
 十文字峠は、山梨、埼玉、長野の接点となる甲武信ヶ岳から、埼玉、長野、群馬の接点となる三国山に続く稜線上にあるのは、三国峠と同じだが、車道の三国峠(新三国峠)がその稜線上、最も低い鞍部、標高1,740mを越えているのに対し、十文字峠は、国土地理院の 2万5千分1地形図では、標高1,970m付近を越えている。文献では標高2,017mとか2,030mともある。少なくとも昔の三国峠も十文字峠も、信州(長野県)と武州(埼玉県)の境の、一番低い所を越えようとはしなかったようだ。
 
 余談だが、甲武信ヶ岳の「甲武信」とは、甲州(甲斐の国)、武州(武蔵の国)、信州(信濃の国)の頭文字をとったのだと、改めて気付いた。以前から知っていたような気もするが、最近特に物忘れが激しく、何でも新鮮に思えるのであった。
 
 文献によると、「十文字」の名は、三国山と甲武信ヶ岳を結ぶ稜線上の道と、直交することから来ているそうだ。
 
 十文字峠の道も、信州から武州へ通じる武州道だが、古くは牛馬も通れぬ険しい道だったそうだ。戦国期、信州から秩父の金山へ米や味噌などを運ぶ輸送路として使われた。
 
 江戸期に入ると道の改修が進み、三峰神社の参詣道として利用が増えた。十文字峠の埼玉県側は大滝村の栃本(とちもと)だが、慶長19年(1614年)にはここに関所が設けられている。秩父往還最奥の地の栃本へと、人々は十文字峠を越えたのである。秩父往還とは、江戸期に秩父に至る幾つかの道の総称で、江戸を基点とするか、またはいずれ中山道や甲州街道に連絡する支線であった。十文字峠はそうした秩父往還の一つで、中山道と甲州街道とを結ぶ、裏街道の峠として賑わった。
 
 十文字峠の川上村側の経路は、ほぼ千曲川に沿って登り、稜線近くになってから十文字山と大山の間の鞍部へと向かって峠に至っている。一方、大滝村側では、荒川上流部の栃本から川沿いを離れ、北を流れる中津川との境を成す尾根上を峰へと登って行く。途中で通る白泰山の付近には茶店もあったと言う。
 
 元治元年(1864年)には、旅の安全祈願と道標の意味を兼ねて、栃本を基点に1里(50町、約4Km)ごとに観音像が五体安置されたそうだ。何とそれが今でも残ると言う。県別マップル(昭文社 埼玉県 2007年3版14刷
発行)には、一里観音から四里観音まで記載があった。尚、五里観音は十文字峠を越えた梓山側にあるらしい。
 
 記録によると、観音像が祀られた元治元年の8月中に、十文字峠を越えた者は309人も居たそうだ。
 
 三国峠の対抗馬である十文字峠であるが、観音像まであってはかなわない。三国峠も三峰神社に参拝する人々が多く通ったそうだが、十文字峠の方が断然、格が上のようである。
 
 しかし、明治期以降は三国峠も十文字峠も衰退していったとのこと。鉄道や車の発達の影で、十文字峠道の観音様は、寂しい思いをしたことであろう。
 
 昭和41年になって、この峰に初めて車道が開通した。三国峠が新しく生まれ変わったのだ。これで三国峠は十文字峠に一矢報いたのであった。
 
  
 
 ちょっとした気まぐれで入り込んだ毛木場であったが、いろいろ収穫があった。それに、ここにトイレがあって本当に助かった。ここに来る前、信州峠を越えて来たのだが、その沿道にトイレが無く、いつものことながら妻が難儀していたのだ。このままほっておいて三国峠へ行くこともままならず、困ったと思っていたら、こんな立派な所に出て、ついでにトイレが見付かるとは、全く幸運である。
 
 トイレは丁度清掃の男性が居たので、それが済んでから使わせてもらった。きれいなトイレだったと妻は言う。わたしもついでに用を足そうかと思ったが、まだそれ程の必要性は感じていない。それに、登山案内の看板に、新三国峠にもトイレがある様に書かれていたので、そちらで済ませてもよいと思った。しかし、それが後々後悔することとなった。
 
 
梓山集落後
 

毛木場から引き返して来たところ (撮影 2011. 7. 4)
前方に梓山の集落が見える
 毛木場から県道終点の分岐へ戻る。分岐近くになると、前方に梓山の集落が再び見えてきた(左の写真)。家々が寄り添って一塊になり、山間にひっそり佇んでいた。
 
 県道終点から三国峠方向に進む。残り数軒の人家の前を過ぎる。前方に幌を被った軽トラックが先行する。この先の畑へと向かうようだ。
 
 梓山最後の人家も過ぎると、道は一段と狭くなる。これからは千曲川の左岸に沿った道となる。その入口にも「梓山」の看板が立っている。ここまでが梓山の集落だと言う意味か。
 

ここで人家が途切れる (撮影 2011. 7. 4)
ここより千曲川沿いの道となる
入口の左手に「梓山」と「県道昇格早期実現」の看板

道の左に立つ看板 (撮影 2011. 7. 4)
 
 その看板に並んで大きく「川上秩父線県道昇格早期実現 川上村・大滝村県道昇格期成委同盟会」と書かれた看板が立つ。
 
 尚、看板が示していた大型車の回転場所は、この直ぐ手前にあったのだと思う。この先は軽トラックが似合う道となる。
 
 道は千曲川の支流を渡り、尚も概ね千曲川の左岸を東へと進む。道は林に囲まれ、川の様子も窺えない。
 

高原野菜の畑が広がる (撮影 2011. 7. 4)
前方に埼玉県との県境の峰が望める
 また広い所に出ると、そこも高原野菜の畑が広がった。千曲川は畑の向こうに去り、またもや川の様子は窺えない。それでも進むにつれて、さすがに畑も尻つぼみとなっていく。両側から迫る山に挟まれ、離れていた川と道がだんだんと近付いていった。そしてそこに一本の橋が架かっている。
 
 
日本基橋
 
 県道を走っている時から、そばにあることを感じてはいたが、なかなか姿を現さなかった千曲川が、ついに目の前に現れるのだ。その千曲川の源流部を渡っている橋は日本基橋と言う。橋板によれば「にほんぎばし」と読むようだ。
 
 何でもない小さな川に、これまた何でもない古そうな小さな橋が架かっているだけで、うっかりそのまま行き過ぎてしまいそうだが、これこそが大河・千曲川の源であり、橋の名も日本基橋とは何だかとても立派である。
 
 橋の竣工は昭和29年3月と書かれている。とにかく「日本基」とは何か特別な意味がありそうだ。何しろ「日本の基(もと)」となる橋である。さて、その名のいわれとは何であろうか。

日本基橋を渡る (撮影 2011. 7. 4)
下を流れるは大河・千曲川
 

橋上より千曲川の上流方向を見る (撮影 2011. 7. 4)
これが大河千曲川、しいては信濃川の源流の川である

日本基橋の橋板 (撮影 2011. 7. 4)
 
 橋板に書かれていることの中で、もう一つ気になることがある。「林道梓山線」とあるのだ。この名は今の道路地図には見当たらない。多分、この橋から峠までは、かつては林道で、その名を梓山線と言ったのかもしれない。
 

日本基橋から梓山集落方向を見る (撮影 2011. 7. 4)
日本電電公社の車庫の脇から左手に車道が分岐
 三国峠への道は、ここで千曲川の本流からお別れである。ここから上流方向の千曲川沿いは十文字峠の道の領分となる。日本基橋を渡る少し手前に「電信電話公社 梓川無駐在無線中継所車庫」と書かれた小屋があり、その脇を千曲川上流方向に道が分岐する。地図によるとこの道は、概ね千曲川沿いを進み、あの毛木場駐車場まで続いている。毛木場側の出口には、「土砂崩落の為 通行止」と出ていて、入ることができなかった道だ。日本基橋側の入口から見ると荒れた舗装路で、毛木場駐車場側から見ると未舗装路であった。
 
 本来の十文字峠への道筋がどれなのか分らないが、この日本基橋の袂から千曲川沿いを行く道ではなく、やはり県道終点から直接毛木場方向へ分岐する道ではないかと思う。峠の信州側最初の集落は梓山で、昔も今と同じ位置に集落があったとすれば、峠から降りて来て現在の日本基橋がある付近まで川沿いを下ると、集落へは遠回りである。ただ、今の梓山奥の野菜畑が後に山を切り崩して開かれたものだとすると、やはり昔は素直に千曲川沿いを道が通じていた様にも考えられる。
 
 余談だが、電電公社の小屋の脇に薄汚れた看板が立て掛けてあった(右の写真)。それには下記の様にある。
 
    通行止のお知らせ
村道一九四号線(旧中津川林道)については
冬期間路面凍結等により通行止とします。
○通行止区間 起点より6Km先(信濃沢橋)
          より終点(三国峠)まで
○期 間 毎年十二月五日より翌年四月末迄
○道路管理者          大滝村役場
 
 信濃沢とは埼玉県側を流れる中津川の支流の一つである。そこを渡る橋と三国峠との間が毎冬、通行止になるので、その時に使う看板のようだ。ならば、こちらの梓山から峠までは、冬期通行止にはならないのだろうか。

通行止の看板 (撮影 2011. 7. 4)
 
 
日本基橋後
 
 さて、十文字峠方向とは完全にお別れし、三国峠への道は一路北へと向かう。日本基橋から程なくしてまた小さな流れを渡る。調べてみると、橋の名は多分、黒谷沢橋、川の名は千曲川の支流で二本木沢と言う。
 
 「二本木」は多分「にほんぎ」と読むのだろう。すると日本基橋の「日本基」と同じである。嫌な予感がする。もしかしたら「日本基」は単に「にほんぎ」の当て字かもしれない。日本最長の大河信濃川・千曲川の源流部にあり、何か日本の基準ともなる意味を持つのかと思ったら、全く意味が無いのかもしれないのだった。

日本基橋の次に来る橋 (撮影 2011. 7. 4)
多分、黒谷沢橋
下を流れるは二本木沢
 

道は川沿いを離れ林の中に入る (撮影 2011. 7. 4)
 千曲川の支流を渡ると、道は千曲川本流の右岸側の斜面を大きく蛇行しながら登りだす。道は林の中に入り、全く視界がない。木々が頭上まで覆いかぶさり、まるでトンネルの様になっている箇所もある。梢の間から木漏れ日がアスファルト路面に差し、独特な雰囲気のある道だ。道幅は狭く、対向車でも来ると厄介だが、そんなことを心配させられるよりも、何となく落ち着いた気持ちになる道である。
 
 道がまた東の峰の方へ向いた頃、最後の野菜畑が道の両側に広がりだす。畑一面にビニールが覆いかぶさっている。

また野菜畑が広がる (撮影 2011. 7. 4)
 

左に分岐あり (撮影 2011. 7. 4)
 畑が尽きた直後の右カーブで、分岐が一本左に分かれている。「林道相木川上線」とある。名前からすると、川上村と北に接する南相木村とを繋ぐ林道だろうか。ただ、地図上では村境で未接続である。林道入口にはゲートが設けられ、関係者以外立ち入り禁止となっていた。
 
 
峠への上り
 
 相木川上線の分岐を過ぎると、道は東の峰の頂上にある峠に向かって本格的な登りを開始する。終始アスファルト舗装だが、ややくたびれている感は否めない。沿道に人工物はほとんどなくなるが、ついでに視界もない。
 
 道筋は概ね二本木沢の右岸の山肌を登って行く。九十九折れなどはなく、勾配はあまり急ではない。
 
 二本木沢の源流は三国山より西の群馬との県境の峰なので、道は二本木沢の源頭部を回り込むと、後は谷筋から離れ、真東へと進む。その辺りに来ると、沿道の木々がまばらになり、やや空が広い感じを受ける。

登り道の様子 (撮影 2011. 7. 4)
 

登り道の様子 (撮影 2011. 7. 4)
二本木沢の源頭部を過ぎた後

ビニールに覆われた畑が見える (撮影 2011. 7. 4)
 

前方に峠が現れる (撮影 2011. 7. 4)
 木々にさえぎられ、ほとんど視界が広がらなかった道が、右手に谷を見下ろすようになると、時折西方面への景色が見え出す。下の方で通り過ぎた、ビニールに覆われた畑が垣間見える。こうなるともう峠は近い。前方で道幅が広がっているなと思うと、そこが峠である。
 
 
峠に到着
 
三国峠 (撮影 2011. 7. 4)
手前が長野県川上村、奥が埼玉県秩父市(旧大滝村)
 
 三国峠は、20年経ってもその姿をあまり変えず、峰を直角に真っ直ぐ抜ける見事なV字型を留めていた。峠の切り通し部分の両側も、やや木が生い茂ったが、今も土や岩が露出した無骨さを堅持している。これだけもろそうな切り通しを、コンクリートなどで固めずに維持するのは、かえって大変なのではないかと思う。
 
三国峠 (撮影 1991. 9.23)
手前が長野県川上村、奥が埼玉県大滝村(現秩父市)
ほぼ20年前の三国峠
 
 三国峠の素晴らしさは、その形だけではない。V字の切り通しを抜けて、その先に望む景色がまた良い。長野県側からだと、稜線から埼玉県側に延びる尾根が見える。また埼玉県側からだと、長野・群馬の境を成す主脈が覗くのが特に良い。
 
 峠の通しの前後には、それぞれ適当な広場があり、そこから下界の眺めも広がる。秩父市側の道は未舗装林道だし、川上村側も舗装路とは言え、味わい深い道である。
 
 これまでいろいろな峠を見てきたが、この三国峠ほど魅力がある峠は他にないのではなかろうか。県境を越える高い峠であり、しかも長野・埼玉の境に一つの車道ときている。何と言っても峠の形が絶品だ。峠からの眺めだけなら、ここより素晴らしい眺めが堪能できる峠がいくらもあるが、総合的にみて、この三国峠を超えるものを知らない。
 
 それにしても、20年前の峠を写真に収めておいて、本当に良かったと思う。特に、切り通しの見事さを写していると思うのだ。

峠の川上村側 (撮影 2011. 7. 4)
峠の手前を右手に林道が分岐
峰に上るのは甲武信ヶ岳方面への登山道だと思う
 

峠より川上村側を見る (撮影 2011. 7. 4)
峠の袂にはちょっとした広場があり、そこからの眺めもよい

川上村側に下る道 (撮影 2011. 7. 4)
この先に舗装路だが味わい深い道が続く
 
 峠では、秩父市側より川上村側の方が広いので、車を停めて休憩するのは川上村側の方が良い。秩父多摩甲斐国立公園の看板が立ち、案内図の下はベンチになっている。
 
 峠に到着した時は、軽トラックが一台停まり、中に男性が一人乗っていた。峠の秩父市側にトイレがあり、毛木場でも見掛けたが、トイレの掃除でもする方かと思った。
 
 その軽トラックは直ぐに立ち去ったので、カセットコンロでお湯を沸かし、カップのラーメンと焼きそばで昼食とした。川上村側に広がる景色を眺めながら、のんびりとした昼の時間が過ぎていった。
 
川上村側の景色 (撮影 2011. 7. 4)
 
川上村側の景色 (撮影 1991. 9.23)
 
 
 後編の埼玉県側に続きます → 三国峠後編(埼玉県側)  
 
 また、過去に掲載したページもあります  → 三国峠
 
<Copyright 蓑上誠一>
 
 
  
 
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