サラリーマン野宿旅
10年前の野宿旅 (その3)
旅の3日目
 
 
 
 
 
 1993年の3月26日金曜日。鍛冶屋峠近くの野宿は、狭くて窮屈ながらも無事に明けた。しかし、眠っている最中なら、狭かろうがどうだろうが、そんなことは関係ない。それより、全く静かな夜であった。ここは南勢町(なんせいちょう)の中心地まで5キロと離れていない場所だが、旧道の寂しい峠道ということもあり、夜中はシーンと静まり返って、僅かな物音もなかった。安眠できたことが何よりである。
 
 しかし、朝になったらもうこんな狭苦しい場所に用はない。何の名残惜しさもなく、今年最初の野宿地を後にした。
 
 
   旧道からサニーロードに戻り南勢町側に下る。南勢町は昭和30年に周辺町村が合併してできた町だそうだ。伊勢の南にあるからそのような名前が付けられたのかもしれない。町は熊野灘に面した五ヶ所湾ひとつをぐるりと取り囲むようにあり、はっきり言って何もない。ほぼ湾の周囲をなぞって走る国道260号が町の幹線道路で、そこより時折望める五ヶ所湾が唯一目をひくだけだった。
 
 そこで、目的の南紀とは反対方向だが、東の英虞(あご)湾あたりをちょっと探訪することにした。ツーリングマップを見ると、湾内は小さな半島が入り組み、無数の島々が点在し、全く訳が分からない。そこに気が引かれた。
 
 英虞湾を抱え込むように伸びる半島を、その背骨のごとく先端まで走る国道260号で進み、手始めに途中にあった大王崎に寄った。山間部を旅する時は頂上にある峠を好み、海岸部を走る時は海に突き出た先端にある岬を好む。「何とか」ほど高い所に登るというが、それと同じ理屈のようだ。しかも、大王崎には大王埼灯台がある。入場料の他に駐車料金300円も取られたが、高い灯台の上に登ることにした。  
 
   平日ともあり、他に観光客など誰もいないのがまた気に入った。観光地の灯台は、下手をすると大混雑する時がある。エレベーターなどないから、狭いラセン階段は数珠繋ぎとな
り、どこの誰とも知らない人の尻を見ながら、いつ果てるとも分からない円筒の中を登ることになる。また、元々灯台の上も展望所として造られた訳ではないから、狭い円形通路は身動きできないありさまだ。今日こうしてのんびり景色を楽しめるのも、平日さまさまである。
 
 灯台から海を見ると、海ばかりであった。これでは写真を撮っても仕方ない。代わりに、陸地の方を向いてパノラマ写真を撮る。灯台の直ぐ近くから家並みがごちゃごちゃと続いているのが印象的であった。  
 

大王埼灯台からの眺め
 
   国道に戻り、更に先島半島の先端に向かって走る。道の終点は御座というところだ。英虞湾の入口を挟んで対岸の浜島まで数キロの近さである。その間をフェリーが15分で繋いでいる。フェリーの発着場を見つけたが、便数が少ないようで、その周辺にはひとっこ一人なく、閑散とした小さな漁港でしかなかった。それまで、北海道や九州などへの長距離フェリーを利用することが多く、こんな寂しいフェリー乗り場はあまり経験がない。何だかこちらの気持ちまで寂しくなって、来た道をまた戻るしかなかった。
 
 御座のフェリー乗り場
対岸の浜島と結ぶ
 
 半島に一本走る国道を往復しただけで、英虞湾周辺の土地のことが全て分かる筈もないが、旅でできることはこれで精一杯である。それでも、一応訪れたことがあるんだという、言い訳ぐらいのことは言える。この程度で留めておかなければ、旅は先へは進まぬ。ただ、御座のわびしい印象ばかりが残って、英虞湾は暗く沈んだ。多分それはほんの一面だけに過ぎないのだろうが。  
 
   灯台の上から熊野灘を眺め、一応目的の紀伊半島に着いたという気になって南勢町に戻った。そこから先の国道260号は、数年前に走っている。そこで、海岸沿いから少し離れた内陸を進むことにした。その目的はやはり峠である。
 
 国道から県道721号・度会(わたらい)南勢線に入り、手始めの峠として鴻坂(こうさか)峠を越える。舗装路ながら狭い道であった。
 
 次に川上林道から藤越を越え、藤越林道で大宮町に下る。峠前後は未舗装路で、川上林道の途中では間違って行止りの枝林道に入ってしまう程であった。この道も現在は県道に昇格しているようだ。
 
 更に次の奥西河内林道に入る前に、藤坂峠まで往復した。前回の旅で南島町側から登ったが、大宮町側が雪で引き返した。それが悔しくて今回わざわざ峠まで往復したのだった。
 
 奥西河内林道にも峠があった。しかし、マップには名前がなかったのが残念だった。
 
奥西河内林道の峠 
名前がない
 
 峠といえば、内陸に位置する山国、長野県や岐阜県などを思い浮かべ、海に面して細長い三重県に、峠のイメージはない。しかし、こうして走ってみると、大きく雄大な峠こそないが、なかなか味わいのあるこじんまりした峠道が沢山ある。どれもひなびていて、道の狭さもどこぞの険しい峠道に負けてはいない。考えてみればあの矢ノ川(やのこ)峠も三重県にあった。実はこの旅で初めて訪れることになる。  
 
   さて、次なるターゲットは、大内山村と宮川村の境にある千石越(せんごくごえ)である。こちらはなかなか手強そうな峠だ。紀伊半島の大幹線道路である国道42号を、走りたくないがちょっと走り、直ぐに紀勢本線の大内山駅付近で村内に入る。しかし、どこが村の中心地だろうかと見渡してしまう程、何もないのであった。線路を渡り、唐子川沿いの道を更に奥へと進めば、尚更何もない。周囲は山ばかりである。
 
 となれば、こちらにとっては好都合である。そろそろ野宿地探しの時間なのだ。この先の峠は険しそうで、峠道の途中で暗くなっては面白くないし危険でもある。坂道を登り始める前にいい場所があれば、今夜はこちら側で野宿してしまって、体勢を整え、明日千石越に挑もうと考えたのだ。
 
 唐子川を左岸い渡ったところで、右手に如何にも行止りといった支線林道が分岐していた。とっさにその道に入り込む。もう入口から勾配がきつい荒れた砂利道だが、そこは頼りになるジムニーである。難なく登ってゆく。
 
 すると道は直ぐに小さな砂防ダムで行止りであった。治山工事専用の道だったらしい。そうなれば、この道をやって来る者は滅多にいない筈だ。それに、砂防ダムの上流側には、テントを張るのに適した平地がある。一も二もなく、その場所に居座ることにした。ちょっと日が暮れるにはまだ早いが、のんびり野宿そのものを楽しむのもたまにはいい。
 
 
 今回の野宿地翌日の朝に撮影
 
   車には食料や水が、豊富とはいえないまでも、2、3泊の野宿に不自由しない程度は積み込まれている。一旦、砂防ダムに着いてからは、明日の朝出発するまで、もうどこにも行く必要がない。根の生えたようにそこで12時間以上もの時を過ごすのである。

 考えてみれば随分長い時間だ。夏場ならもう少し日が長く、昼間の行動時間も少しは増えるだろうが、それでも一日の半分近くを野宿地で過ごすことには変わりない。旅に於ける野宿地の重要性がうかがわれる。

 
 その点、この場所はなかなかであった。林に囲まれた狭い谷間にあって、砂防ダムの周辺だけはどうにか空が開け、閉塞感をあまり感じないで済む。煩わしい人間もやって来そうにない。じっくり野宿が味わえる場所である。
 
 いつもの緑色のフライのドーム型テントを張る。昨夜は狭い思いをしたが、今夜はゆったりした空間が得られる。それとやっぱり焚き火である。ここは沢沿いとはいっても、広い川原ではないので、山火事には最新の注意が要る。それで、こじんまりした焚き火となるが、それでも夜になれば、小さな炎も思いのほか明るく周囲を照らす。日が落ちれば3月下旬はまだ肌寒く、焚き火の暖がまた体に嬉しい。
 
 
   焚き火にかざした自分の手を見つめながら、じっくり思うことといえば、明日越えようと企んでいる、まだ見ぬ峠、千石越かというと、どうもそれだけには留まらない。この旅が終わった後に控えている、新しい会社生活が頭をよぎる。勿論、新入社員なんかじゃないから、希望に胸が膨らんでいる訳ではない。転職経験も今度で3回目の、すれっからしである。サラリーマンの酸いも甘いも知り尽くし、後はただ漠とした不安があるばかりだ。
 
 焚き火ができても、あまり外に長くはいない野宿にしている。だから、テントに入ってからも、やや時間の持て余し気味。余計なことは考えず、早く眠りに就こうとするが、大内山村の夜はなかなか更けていってはくれないのであった。
 
<制作 2003. 4.13>
 
 
☆10年前の野宿旅(その4) につづく
 
 
 
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