サラリーマン野宿旅

旅の途中で思うこと


 「旅が好きだ」などというのはどこか現実逃避の匂いがする。歌にも歌われる「どこか遠くに行きたい」という文句がそのことを端的に表している。それは目の前の生活に何らかの不満や苦痛があり、それらから逃れたいという願望が裏にくすぶっているからだ。「旅行が好きです」と言うなら分かるが、「旅が好きです」と言う人はそんな悪人ではないにしろ、どこか危うい面を持っていそうだ。少なくとも人生に対して積極性などが感じられない(自分のことなので良く分かる!)。

 旅では普段の立場や役割と切り離される。例えば会社での地位や責任から逃れられ、見慣れぬ環境にただぽつり自分ひとりがあるだけで、そこが現実逃避なのだろうが、せっかく逃れても余計なことに自分でわざわざ会社のことなど思い出してしまうことがある。1週間や10日の旅ではなかなか逃れ切れる訳はない。

 旅は日常生活(特にサラリーマン生活)で溜まったストレス解消の場であったり、また平凡な普段の暮らしから離れて自分を見詰め直し新しい自分を発見する機会だ・・・、などと口幅ったいことを言う積もりはない。旅に時別な意味を持たせてもむなしいだけで、旅はただ単に旅そのものであればそれでいいと思う。見知らぬ土地を訪れてぼんやり景色でも眺めていればよい。しかし人間であるから旅の途中でも何かしら考え、思わずにはいられないのも確かだ。


 1週間前後の旅をしていると、決まってその中間ぐらいの時期に必ず会社のことを考えてしまう。4日程度の旅ならその間に一度も会社のことなど思い出さずに済むのだが、ある程度長いとどうしても旅の中だるみの時期に会社のことをグチグチ考えるときがある。

 会社のことといっても、あと何日で休暇も終わりまた会社が始まってしまうとか、そうなればあのいやな仕事が待っているとか、納期が近い気になる案件が控えているとか、いやな上司や同僚とまた顔を突き合わせなければならないとかといった当面的なことではない。昔はそうしたことも思ったり考えたり嘆いたり絶望したりしたが、野宿旅が板に付いた今では旅と会社はきっちり区切ることが出来る。休暇の間の時間は旅に費やすことに徹し、休暇が終われば頭を会社用に切り替える。まあ時々勤務中に旅のことを考えている時はあるのだが、概して旅と会社の時間的な頭のスイッチングはそれほどの苦痛もなく出来るようになり、それは自分でも不思議なくらいで、多分既に会社での地位とか業績とかに固執が無く、いい意味では悟っていて、悪い意味では諦めて捨て鉢になってしまっているからかもしれない。

 それでも尚且つ今でも旅の途中で考えてしまう会社のことというのは、もっと根が深く、かえって厄介なことなのだ。

 旅も4、5日経つと、旅のペースが掴め、体も旅に慣れてくる。毎度の事ながら旅の開始直後には僅かだが旅することへの気持ちの高ぶりとでもいうものがあるが、それも数日すれば収まり自然に旅が続けられる様になり、旅が普通の暮らしとなってくる。そんな折り、険しい峠越えを終わり次なる林道を目指して単調な国道の移動などしていると、いつの間にやら会社のことを考え始めているのにはっと気が付く。林道や峠道を走っている最中は楽しい興奮があるので余計なことは考えないのだが、田舎の国道などは交通量が僅かで走っていても緊張感がなく、またただでさえ旅に慣れた目には国道沿いに広がる自然の景色にもう見とれることはない。そこにちょっとしたきっかけで会社のことが頭に浮かぶと、それを火種に頭の中が会社でいっぱいになってしまうのだ。

 例えば上司や同僚、あるいは仕事で関係した他部署の人との間でちょっとした仕事上のトラブルがらみの論議があったとする。特にそこで私に責があるような言われ方をされたり、私の仕事の能力を低く見るようなことを言われたとする。時によっては激しい議論となるが、お互い大人であるからその場は何とか収めることとなる。しかしそれが気持ちの奥底にいつまでも引っかかっているのだ。それをよりによって旅の最中にふっと思い出してしまう。するともう止まらない。如何に自分が正当であっただとか、他の人に比べても自分の能力は劣るどころか勝っているなどと一人で議論してしまう。私にいちゃもんをつけた相手には必要以上に攻撃的なことを考えてしまう。その相手が会社の偉い人なら会社を辞めてやるぞというとこまでエスカレートする時もある。ただしこれは頭の中で考えるだけで実施に移すことはありません、念の為。

 一人議論をしている自分に気が付いて何てばからしいと思い、気をそらす為に車外の景色に目をやったりする。しかしいつの間にかまたさっきの続きをやって一人で興奮している。この呪縛からはでこぼこの林道や山深い峠道に辿り着かないかぎり、なかなか逃れられるものではない。

 会社のことを考えるといっても、それは結局は会社における人間関係のことだ。夜中に雨や風の音がうるさくても、それは仕方がないことだと思うが、オートバイや車がうるさいのは別だ。自然現象なら諦めるが、人間の仕業だと我慢ならないのが人の性である。旅は煩わしい人との関係から物理的に解き放してくれるものなのに、その旅の最中でさえも悩まされるとは情けない。もっと精神的に成熟すればよいのだろうが、どうも私はこれ以上成長の見込みはなく、相変わらず旅の途中で余計なことを思っている。


 旅では未舗装の林道や険しい峠道を好むといっても、常にそんなとこばかり走ってはいられない。林道や峠道などめったやたらにあるわけではないからだ。かといって一級国道などは避けて通りたいので、結果的にそれほど山深くなどないが、それなりに自然に囲まれて、小さな集落などぽつぽつある様な穏やかな田舎道をゆっくり流していることが案外多く、そしてそれがなかなかいいものなのだ。険しい道は楽しい代わりにそれなりに緊張させられるし、一級の国道や県道は交通量が多く道がいいので乗用車やトラックがビュンビュン飛ばし、詰まらない上に尚且つ緊張して疲れる。それに比べ田舎道は気が休まっていい。

 そんな田舎道を走っていると、ふと懐かしさが込み上げて来る時がある。それが真夏だったら、じりじり焦がすような太陽の日差しだったり、むせ返るような草や木々の匂いだったり、うるさいほどのセミの声だったり、草原を渡り頬をなぜて僅かな涼をもたらしてくれる風だったり、それらが昔の子供の頃の出来事を思い出させて、無性に懐かしくなる。夏の炎天下、麦わら帽子を被って汗だくになりながら紋白蝶を追いかけたり、家の近くの小川に裸足で浸かりザリガニを捕まえたりした時に体で感じた匂いや音や空気と同じ物を田舎道で感じるのだ。その感触が能の奥底に凍り付いていた記憶の一部を解けださせ、普段思い出したこともなく、憶えていたことが自分でも不思議なほどの、他愛も無いがでも切なくなるような昔あった出来事がよみがえってくるのだ。

 生まれてからこれまで何度か引越しをしているが、ほとんど同じ町の中で、今現在住んでいる所も子供の頃に住んでいた場所の目と鼻の先である。そしてその町は急激な発展をした。町に僅かにひとつあった私鉄の駅の周辺は田んぼが広がりのどかそのものだったのが、今では路線が増え、駅は高架となり巨大な駅ビルが建ち、周辺もビルが埋め尽くした。町中がコンクリートとアスファルトでべたべたと覆われ、土の地面を見ることがほとんど出来ない。子供の頃に遊んだ懐かしい場所は次々失われ、そして決定的に失われたのは日差しや風などの雰囲気である。晴天でも何故かくすんだ太陽の光、車の廃棄ガス臭い風、耳障りなクラクションなどの音、これらは子供の頃の面影もない。しかし別に文句を言う積もりはない。町の発展が悪いなどと考えているのではない。昔に比べて便利で快適になったところも多く、どちらを取るかといわれれば、昔の町より現在の町かも知れないくらいだ。

 そんな訳で今の町では子供の頃のことを思い出すきっかけがない。それが地方の田舎をのんびり走っていると、そこが初めて訪れた場所で何の見覚えもない所であっても、その雰囲気が思い出させてくれるのだ。その雰囲気をなるべく感じる為にも車の窓は開け放つようにする。窓に肘掛けた腕に感じる風や太陽の日差し、窓から入り込んで来る音や匂いを感じながら、昔のことをひとつひとつ思い、ちょっと胸が切なくなる感触を楽しみながら旅している(じじ臭〜い!!!)。


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