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渋 峠
しぶ とうげ
 
牧水以後に観光道路として蘇った峠道

<初掲載 2000.12.10> 「今月の峠 2000年12月」として
 
渋峠
渋峠 (撮影 1999.11. 7)
手前が長野県山ノ内町(高山村)、奥が群馬県六合(くに)村
あまり広々としていて、峠らしい感じを受けない
向かって道路の左側に渋峠ロッヂ、右側に渋峠ホテルが建つ
渋峠ホテルは建物の真中で色分けされ、それぞれに「ぐんま」と「ながの」と書かれたあった
 
 渋峠は国道の中で一番高い峠として知られている(筈だが確かめていない)。標高2172mだそうである。ただし「国道」という限定付きで、例えば車道が通る峠では、大弛(おおだるみ)峠(山梨県と長野県の県境)が2360mと渋峠より200m近く上である。
 渋峠を通る国道292号・志賀草津道路は、少し前までとても近寄りがたい道であった。と言っても、険しい峠道だからではない。有料だったからだ。道路地図では青色の線で描かれていて、色とは反対に私には赤信号のサインである。滅多な事では近付いてはいけない。でも、それもいつの間にやら赤色に変わり、最近では安心して越えられる峠となったのである。めでたし、めでたし。
 以前から渋峠は何度か越えているが、群馬から新潟へ抜ける通り道として使う意味合いが強かった。渋峠を長野県側に下り、途中で奥志賀スーパー林道(未舗装のくせにこちらも有料だった)に入り、秋山林道に曲がって切明に抜け、秋山郷を中津川沿いに下ると新潟の津南町に出る。このルートはとっても楽しい。渋峠のひとつやふたつは目じゃないのだ。それに、東京方面から出掛けると、幾つもの峠越えあり林道ありで、もの凄い長丁場になる。峠に立ち寄ってちょっとのんびりなんていう暇が全然ないのだ。そんなこんなで、これまで渋峠はいつも素通りであった。ふと考えてみると、渋峠のことを思い出そうにも、何も頭に浮かんでこないのだ。これはいかん。そこで、去年(1999年)の秋に訪れた時は、昼飯がてらに峠でのんびり過ごしたのだった。
 

草津白根山 湯釜
水の色が独特
 峠へは草津から向かった。道は雄大に山を登って行く。この眺めは何度見ても壮観である。ところが運悪く、渋滞に巻き込まれた。原因は草津白根山の湯釜見物である。駐車場の出入りで、混雑を引き起こしていたのだ。これだけ広々とした景色の中で、1本の道に車が長い列を作っている光景は、おかしなものだと思った。
 ただただ忍の一字で、やっとこちらにも湯釜見物の順番が回ってきた。釜の底に溜まった水の色が独特である。しかし、記憶にはないが以前にも立ち寄って見ているかもしれないのだ。今度は忘れない様にと、写真を5、6枚撮っておいた。

 道は草津白根山の南・西麓を通り、横手山の東側の鞍部に位置する峠へと登って行く。昔の峠越えの山道は、草津白根山の東・北麓を通ったと書かれている本を読んだことがあるが、どうも定かでない。それが本当なら、現在の国道とはかなりコースが異なることになる。

 
 到着した渋峠は、峠と言うより山の頂上の様な感じを受ける。あまり周囲に視界を遮るものがないのだ。近くの県境にある横手山2305m以外、峠より格段に高い山が存在しないのである。峠には国道の2車線路がゆったりS字を描いて通過し、道路脇には広い駐車スペースがある。全く広々とした峠だ。漠然と通り過ぎたのでは、峠としての記憶が残らないかもしれない。こんなんだったのかなと、ちょっと不思議な気がした。
 群馬県側から登って来ると、木の枝に隠れて目立たないが、道路の左隅に「渋峠」と書かれた太い木の柱が傾いて立っている。その太さは他にあまり類を見ないどっしりしたものだ。周囲の木陰には僅かながら雪が残っていて、さすがに標高が高いのだと実感させられる。
 峠の太い標柱に並んで、文字が消えかけた県境を示す標識が、こちらも斜めに立っている。どうやら「長野県山ノ内町」と書いてあったらしい。地図を見ると渋峠の群馬県側は六合村とはっきりしているが、長野県側は山ノ内町と高山村が接した微妙な位置にあり、判然としない。ある本で「高山村との境である」と記されていたのを見たこともある。しかし、この県境標識を見る限りは、山ノ内町との境としたほうがよさそうだ。

渋峠
手前が群馬県六合村、奥が長野県山ノ内町(高山村)
左脇に峠の標柱と県境の標識が立つ
  
渋峠の太い標柱
周囲の木陰には雪がちらほら残る
 
 渋峠の道は、群馬県の草津温泉と長野県の山ノ内温泉郷を結ぶ峠道である。江戸期には、信州側(長野県)では草津温泉に通じる草津道と呼び、上州側(群馬県)では沓野(くつの)村・渋湯(現山ノ内町)に通じる沓野道とか渋湯道と呼ばれたそうだ。東国一の湯治場と名高い草津温泉に、峠を越えて米や醤油などの物資供給が行われた。しかし、峠は難所で馬は使えず、もっぱら牛による輸送だったとのこと。現代の都会人にはよく分からないが、馬より牛の方が悪路走破性がいいらしいのだ。車で言えば、スポーティーカーとクロスカントリーカーの違いといったところだろうか。
 明治以後は県道前橋街道として改修され、馬も通れるようになったそうだ。しかし、明治26年には信越本線が全線開通し、大正15年には草軽電鉄が草津温泉まで通じ(後に廃線)、渋峠の交通は衰退の一途を辿った。
 昭和10年になって、こんどは観光開発として、山ノ内町上林と草津町草津の両温泉を起点とする、車道の開削が開始された。しかし、峠を挟んだ区間(硯川−渋峠−殺生河原の18km)は難工事が予想され、未着工として残された。そのため、渋峠は近代の自動車化の波に遅れをとることになる。
 戦後の昭和31年になって工事が再開され、昭和40年には遂に志賀草津有料道路として車道が峠を通ることとなる。さらに、昭和45年には日本道路公団により上林−草津間41kmの改修・舗装が完了し、日本を代表する観光ルートとして渋峠の峠道が蘇った。

 現在の峠には、国道を挟んで渋峠ロッヂ(「ジ」ではない)と渋峠ホテルという立派な建物が立っていて、如何にも観光地という感じである。道路地図では渋峠ホテルのある位置に「渋峠ヒュッテ」と記されているが、同一の物だろうか。古くからある県営の渋峠ヒュッテは、国道が冬期閉鎖される期間も営業していたそうらしいが。
 ロッヂには食堂と売店が、ホテルにもレストランがあるようで、ちょうど時間もいい頃合だから、昼食をとることにした。さて、どちらに入ろうか。ロッヂは日当たりもよく、明るい感じで、まあまあお客も入り、繁盛してそうだ。一方、ホテルの前にも車が数台停まっているが、人気が全く感じられない。代わりに、玄関先に大きな犬が暇そうに寝そべって、門番をしている。こういう場合、通常の私の選択基準ではホテルのレストランを選ぶのだが、さすがに二の足を踏んでしまった。別に犬が怖い訳ではない。結局無難にロッヂに入った。カツカレーか何か、きわめてオーソドックスなメニューを選んだ。水やお茶はセルフサービスである。

 
峠から長野県側を眺める
道路の電光掲示板には「路面凍結 スリップ注意」とある
 
 峠の山ノ内町側の道路脇に、牧水の碑が建っていた。それによると牧水も峠で昼飯を食べている。大正9年5月21日の日付で、「この渋峠は草津から峠まで三里、峠から渋まで四里あるのださうだ」で始まり、牧水が渋峠を訪れた時の事が記されている。以前には峠に茶屋があったようだが、牧水が訪れた時にはその跡が残っているだけだったこと。茶屋跡を風除けに雪の上に枯枝や茣蓙(ござ)を敷いて昼飯の席を設けたこと。峠までの雪道が険しいのに驚いたこと。それにも関わらず、のんべいの牧水らしく酒の壜(ビン)を取り出し、舌にたらす程度に味わったこと。それがまた格別だったと書いている。
 本当にうまかったのだろうか。酒は牧水のトレードマークのようなものだから、そう書かずにはいられなかったのかもしれない。険しい峠越えにおいても酒の話が出てくれば、やっぱり牧水だと誰もが納得する。しかし、さすがの牧水も飲むほどの勇気はなかったとも書いている。自分の足だけが頼りの当時では、春まだ早い渋峠を越えることは、チョットした冒険だったのだろう。
 牧水の後、約半世紀経って峠道は自動車が走る観光道路と姿を変えて蘇った。今では三里、四里(一里は約4km)の距離など問題にならない2車線路が快走し、自分で弁当を持参しなくても、茶屋などとは比べ物にならない立派なロッヂやホテルで昼飯を食べることができる。
 峠を訪れたのは11月初旬。もう半月もすれば雪にみまわれ、冬期閉鎖へと追い込まれる渋峠である。峠から長野県側に眺望が広がるが、この景色も白一色に変わるのももう直ぐである。道路上にある電光掲示板の「路面凍結 スリップ注意」の赤い文字が、冬がもう訪れていることを告げていた。
 
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