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 金八峠   北海道の未舗装峠道


更新 1998/11/21 メールを頂きました。
更新 1998/ 7/21
峠名の由来が分かりました。


金八峠
金八峠
奥が紋別市、手前が丸瀬布町

 峠道は楽しいが未舗装だとなお楽しい。しかしそうした未舗装峠道はそうそうあるものではない。本州や四国、九州とも通り抜けが出来る峠道はどんどん舗装が進み、未舗装で残っているのは峠道と言うにはあまりにもお粗末な短い村道や行き止まりの林道ばかりである。だが北海道には探すとまだまだ未舗装峠道がある。日勝、石北、北見、訓北、山中といった有名な峠(?)は当然舗装されているが、名前も聞いたことがない峠の道が、距離もそこそこで、そして何と言っても未舗装のままであるのがいい。この金八(きんぱち)峠もその一つである。

 金八峠は紋別市と丸瀬布町を繋ぐ道道305号紋別丸瀬布線の標高490mの峠で、紋別市の元紋別からほぼ藻べつ川沿いに藻別、上藻別、鴻ノ舞、上鴻ノ舞を経て峠を越え、丸瀬布町の金山に至る峠道である。ちなみに紋別市と丸瀬布町との境の峠には他に丸立峠(530m)があり、こちらも未舗装(1992年7月現在)である。

 オホーツク海を背に元紋別より道を溯ること27Kmで鴻ノ舞である。この辺りの道は直線的で走り易いが、付近に何も無い。しかしよく見ると道路脇の夏の生い茂った草木の中に何やら錆びて朽ちかけた道路標識らしき物がところどころ立っている。車を止めて草の中を分け入ってみると、アスファルトの古い道路の跡が雑草に覆われていた。また先に進につれ写真の様に集落があった事を示す立札も幾つか見られる。立札には「喜楽町跡 紋別鴻友会」などとある。楽しそうな名前の集落だが今は立札を残すばかりで、集落らしき痕跡を見つけ出すのは難しい。地図によると昔鴻ノ舞金山があったらしく、金山で栄えた集落なのかも知れない。道は新しくなり、人はいなくなってしまった。皮肉なものだ。

廃村跡
廃村跡 「喜楽町跡 紋別鴻友会」

遠軽分岐
左に遠軽への分岐

 鴻ノ舞を過ぎると間もなく左に上原峠を越えて遠軽町へ至る道の分岐がある。分岐を示す道路標識には丸瀬布と遠軽のどちらの道も道道137号とある。道道305号との関係はどうなるのであろうか。
 道路情報にはデカデカと嬉しい「開通」の文字、さらに「紋別市鴻ノ舞から丸瀬布町境(金八峠)まで延長10.6Km」とある。冬季閉鎖となる為、この様な「開通」の道路情報が出されるのだろう。
 ともかく通れるのは有り難い。峠道が通行止の場合、迂回路に苦労する。つまらない国道を延々と遠回りさせられることもしばしばだ。

 分岐から数Kmの上鴻ノ舞で舗装が切れ、峠への上りが始まる。いよいよ未舗装の峠道だ。ここの道路標識には「道道305北海道 紋別丸瀬布線 紋別市上鴻ノ舞」とある。
 道は北海道に多い大味な峠道の中では、比較的本州にある峠道らしいこじんまりした感じがする。ただし木々が迫り、展望はほとんどきかない。

起点
峠道起点 ダートが始まる

峠の看板
峠の看板

 ダート道は走り易く何のストレスも無く峠に着ける。峠はカーブミラーのある曲がり角で、木製と金属製の2種類の看板が立っている。金属製の方はご覧の通り錆付いていた。多分
       「金八峠 KINPACHI PASS」
と書かれてあったのだろう。
 余談だが、手持ちのツーリングマップ北海道編では金入峠と書かれてあった。それでこれまでずっと金入(かないり)峠だと思っていた。実際に訪れて金八峠の誤植である事が分かった。金八とはテレビドラマでもお馴染みで愛嬌のある名だ。由来などについて分かるとよいのだが。

 峠を越えて丸瀬布側に下るとすぐに展望が広がる。山並みを越えて遠く丸瀬布町を望む。ただしその後は谷間の道となり、紋別側より開けて明るい感じはするが、やはりあまり景色には恵まれない。未舗装も直ぐに途絶えて舗装路になると車のスピードも上がり、あっと言う間に国道333号に出る。
 尚、その先国道を跨ぎ越してトムルベシベ林道(1992年7月現在未舗装)に進み、旭峠(830m)をはしごして留辺蕊町に出るのもよい。

丸瀬布側の景色
丸瀬布側の景色


 メール

 金八峠についてメールを頂きましたので、ここにご紹介させて頂きます。

 はじめまして。ここを訪れるのは2回目です。全国の峠情報、楽しく拝見しています。

 さて、今回金八峠について話題が上っていたので、かの峠に愛着のある人間の一人として、しゃしゃり出てきた次第です。私は金八峠の近くの紋別の出身で、小さい頃からよく丸瀬布の知り合いの家に行くときによく通っていました。その途中に通りかかるのが、例の鴻之舞町(跡)です。すでにご存じのことかと思いますが、あの町は昔金山で栄え、最盛期(確か昭和40年代)の人口は8000人近くいました。「東洋一の金山」の呼び名を得ていたときもあったそうです。しかし、単位当たりの金含有量が少なかったことから、昭和50年かその前当たりで閉山したそうです。その後町は寂れ、いまでは心霊スポットに挙がるくらいのゴーストタウンになってます。あの町がその後発展していったならば、金八峠は今頃舗装になっていたかもしれませんね。

PS 金八峠紹介の中に旭峠の名前が挙がっていましたが、通ったことありますか? 一度行ってみたいとは思っているんですけど・・・

 昭和50年頃の閉山ならそれ程昔のことではないですね。私もとっくに生まれていましたし。それにしても私が通過したときの町の跡はほとんど木々に囲まれていました。人間が作ったものなどあっという間に自然が覆い隠してしまう場合があるのですね。Sunday Shujiさん有難う御座いました。

 尚、旭峠は1992年の7月に越えたことがあります。狭い未舗装林道が長く続いていました。峠らしい峠の所がなく、下の写真も多分峠と思われるところを写したので、確信はありません。

旭峠
旭峠(だと思う)


 峠名の由来

 金八峠の名の由来についてメールを頂きましたので、ここにご紹介致します。

 鴻之舞出身の者で、金八峠の紹介H・Pを見ました。各写真記事の紹介文の正確さには感心しました。金八峠の由来が分かればとあったので、ご紹介します。出所は、鴻之舞鉱業所編纂の、鴻之舞50年史からです。
 鉄道の石北線敷設工事が進むにつれ、この鉄道から鴻之舞に通じる道路が計画され、遠軽と丸瀬布が候補になり、丸瀬布側が誘致に懸命になった。ここに登場したのが、丸瀬布の旗亭「美濃家」に働く金八という芸者である。日頃、ひいきになっている方々の依頼でもあり、また、自分の住む町の死活問題にもつながることとて、おおよそ調査にきたお客さんと聞けば、あらゆる努力をはらい、下にもおかぬもてなしをした。
 かくて金八姉さんの努力が実を結び(?)道路は丸瀬布につくことになった。
 昭和六年十一月末、道路の竣工式当日、峠で一同が休息の時、峠の名前をつけようということになったが、誰ということなく、この道路開通の陰の力になって長い間働いてくれた金八の名を忘れぬためにも”金八峠”とその名をつけることになった。金八は「金が開く」にも通じ末広がりで縁起がよいという意味もある。
 

 愛嬌のある名だと思っていたら、なんと芸者さんの名前だったのですね。名付けた方達の思いがひょんなことから今こうして私たちに金八姉さんのことを伝えてくれたわけです。しかもインターネットを通してとは隔世の感があります。どんな女性だったのか分かりませんが、この峠に少し親しみを感じる様になりました。
 メールを下さったKinzo Yakuwa様、有難う御座いました。面白いことにお名前に「金」と「八」の文字がありますね。


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