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相津峠・佐原峠 (仮称)
  あいづとうげ・さわらとうげ  (峠と旅 No.296)
  多気山地に通じたまた一つの車道の峠道
  (掲載 2018.10.24  最終峠走行 2018. 5.24)
   
   
   
飯南三瀬谷停車場線の峠 (撮影 2018. 5.24)
手前は三重県多気郡大台町佐原
奥は同県松阪市飯南町向粥見
道は三重県道710号・飯南三瀬谷停車場線
(大台町側の一部は三重県道429号・佐原勢和松坂線と併用)
峠の標高は約450m (地形図の等高線より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
ここは車道開通により新しく通じた峠で、
本来の相津峠(佐原峠)とは異なる
 
 
 
   

<新相津峠>
 文献(角川日本地名大辞典)では、相津峠は「県道飯南三瀬谷停車場線の最高地点」と紹介されている。しかし、その一方で、「峠付近は自動車の通行は不可能で、現在拡張工事が進められている」ともある。文献の発行時点(昭和58年6月8日発行)では、まだ相津峠には車道は通じていない。
 
 その後、県道は開通したものの、元の相津峠とは全く異なった所に峠が通じてしまった。よって、この県道飯南三瀬谷停車場線が越える峠は正確には相津峠ではない。新しい峠名も持たない。ただ、開通の経緯からしても「新相津峠」と呼んでもよい存在であることは間違いない。大雑把にはずばり相津峠と言い切ってもいいのではないかと思ったりする。

   

<所在>
 峠道はほぼ南北方向に通じ、峠の北側は三重県松阪市飯南町(いいなんちょう)向粥見(むこうがゆみ)、南側は同県多気郡(たきぐん)大台町(おおだいちょう)佐原(さわら)となる。
 
 松阪市飯南町は元の飯南郡(いいなんぐん)飯南町である。その大字向粥見の中に相津(あいづ)という集落があり、相津峠の北側起点となる。
 
 一方、大台町側は宮川村と合併する前からの大台町で、紀勢本線の三瀬谷(みせだに)駅周辺に佐原の市街地が広がり、そこが南側起点となる。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


地図は元の相津峠を指す
(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<立地>
 前回は多気山地(たきさんち)のほぼ中央を越える湯谷峠を掲載したが、 今回の相津峠も同じように多気山地に通じる。しかし、多気山地ももう尽きようとしている東の端の方に峠は位置する。 多気山地は三重・奈良県境となる台高山脈(だいこうさんみゃく)から東方に派生した山地になる。険しい台高山脈に比べるとその支脈でしかない。 しかも、峠道が通じるのは伊勢湾に面した平野にも近い所だ。自ずと険しさはない。地形図でその付近を見ても、相津峠以外に多気山地を越える幾筋もの徒歩道が描かれている。台高山脈には高見峠以外にほとんど峠道が通じていないのとは対照的だ。
 
<多気山地の車道の峠>
 ただ、多気山地を越える車道の峠となると、これが意外に少ない。代表格は勿論湯谷峠(湯谷トンネル)だ。 また、最東端に国道368号の桜峠があるが、これはもう極めて穏やかな峠道となる。他に林道が一本程通じているようだ。そうしてみると、相津峠は湯谷峠に次ぐ立派な車道の峠と言える。しかも、この道が開通したのは平成3年(1991年)と、それ程古いことではない。
 
 湯谷峠のページでは名倉峠・田引峠・尾放峠といったあまり知られない峠について少し触れた。 地形図や一般の道路地図には載らないこうした無数の峠道が、かつては多気山地の各所に通じていたようだ。しかし、時代と共に忘れ去られ、今では廃道となってる峠道も多い。その点、相津峠は車道の峠として現代に蘇った数少ない峠の一つとなる。

   

<水系>
 多気山地は、桜峠付近を除けば、北側を流れる櫛田川(くしだがわ)と南側の宮川(みやがわ)との分水界を成している。
 北の松阪市側では櫛田川支流の「相津川」の上流部に峠は位置する。更に正確には相津川の更に支流・長入川の源流部にある。
 一方、南の大台町側では宮川の短い支流の上部に位置する。その川は多分「大谷川」と呼ぶものと思う。この名は地形図などには載って来ない。

   

<峠名>
 地形図や一般の道路地図などでは「相津峠」と記載されている。文献では稀に「相津越え」とも出ていた。この「相津」は当然ながら松阪市にある相津の地名から来ている。多気山地を越える峠は、概ね櫛田川水系側の旧飯高町(いいたかちょう)や旧飯南町(どちらも現在は松阪市)にある地名で呼ばれることが多い。
 
<「づ」と「ず」(余談)>
 余談だが、相津は「あいづ」と仮名を振る。津(つ)の濁音だから「づ」になる。しかし、現代では「づ」と「ず」は同じ発音である。 また、福島県の会津に関するパンフレットか何かで、「AIZU」と書かれていたのを見たことがある。それを「AIDU」とすると、どう読んでいいか分からなくなる。 よって、相津や会津も「あいず」としてしまっていい気がする。
 ところが、丁度司馬遼太郎の本を読んでいると、九州は鹿児島の地で、遠く薩摩藩の時代では、「づ」と「ず」は言い分けていたとのことだ。日本語の多彩さを知る思いがした。ただ、本なので、実際にどのように発音したかは説明されていない。
 
<佐原峠>
 ところで、このページの表題では「相津峠・佐原峠」と2つの峠名を列記した。「佐原」(さわら)とは勿論多気山地の南側の大台町側にある地名だ。 湯谷峠も「栗谷湯谷峠」などと記される場合があった。今回特に佐原峠を併記したのは、現在の峠に祀られる地蔵の説明書きに、佐原峠から移転した旨が記されていたからだ。 正確には今の車道の峠に名はない。せめて佐原峠にあった地蔵を引き継ぐ後継者として、佐原峠という仮称も示しておきたかった。

   

<峠の役割>
 飯南町向粥見の櫛田川対岸に位置する粥見(かゆみ)は、旧飯南町の中心地である。一方、大台町の佐原も旧大台町の中心地だ。相津峠は櫛田川沿いの粥見と宮川沿いの佐原という2大地域を結ぶ峠道となる。かつてはこの地域一帯の人や物資の重要な交通路だったものと思う。
 
 更に広くは熊野街道と和歌山街道とを結ぶ連絡路となる。熊野街道はほぼ現在の国道42号に相当し、佐原はその交通の要衝として旧街道沿いには多くの茶屋や旅籠が並んでいたそうだ。一方、和歌山街道は松阪と和歌山とを結ぶ街道で、櫛田川沿いに通じる現在の国道166号に相当する。粥見はその和歌山街道と更に 伊勢参りに利用された伊勢本街道が通じ、大変賑わった地だったそうだ。
 
 相津峠は、伊勢湾岸沿いの松阪・伊勢や熊野灘沿いの紀伊長島・尾鷲などの地と、遠く和歌山・奈良とを結ぶ大きな交通路の一部として利用されたかもしれない。 かつての湯谷峠は正に熊野灘の海産物を奈良へと運ぶ輸送路を担った。それ程の役目は相津峠にはなかったかもしれないが、単なる地元民の生活路という役目だけではなかったかもしれない。
 
<現状>
 現在、峠には県道飯南三瀬谷停車場線が開通している。「停車場線」とあるように佐原を通る紀勢本線の三瀬谷駅を起点に、旧飯南町の中心地である粥見に至る道だ。 鉄路の通じない櫛田川沿いへの便宜のようにも思える。しかし、国道42号・166号などの改良、紀勢自動車道・伊勢自動車道の開通で、周囲の幹線道路は格段に便利になった。 国道42号と166号を繋ぐ近道だからと言っても、わざわざこの県道を使う気にはなれない。ツーリングマップルでも「ほとんど車の通らない山道」と評している。車道開通で現代に甦った相津峠ではあるが、どれ程の利用があるかは疑問である。

   
   
   
松阪市側より峠へ 
   

<峠の旅へ>
 バイクや車で旅を始めた当初に使っていたツーリングマップ(関西 2輪車 1989年7月発行 昭文社)では、相津峠の文字は書かれていたが、峠前後で県道は未開通であった。 最近になって県道が通じたことを知り、旅のついでにちょっと立寄って見ようかという気になった。本の気まぐれである。旅の成り行き上、松阪市側からのアクセスとなった。

   

茶倉駅の看板 (撮影 2018. 5.24)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<茶倉駅(余談)>
 まずは飯南町(いいなんちょう)粥見(かゆみ)にある道の駅・茶倉駅に寄って体制を整える。主目的は寂しい峠越えを前に、妻の小用を済ませておくことだ。 それと、飯南町の観光パンフレットでも手に入らないかと期待した。
 
 茶倉駅は国道166号(368号との併用区間)の脇にあるこじんまりした施設だった。ちょうど店舗が休みのようで、残念ながらパンフレット類は手に入らなかった。妻の小用だけは無事に済ませる。

   

<飯南町>
 パンフレットの代わりに、茶倉駅の一角に立つ飯南町の案内看板「茶倉駅周辺MAP」を眺める。「三重県飯南町」とあるので、松阪市になる前の物だろう。旧飯南町は何度か訪れているが、こうしてゆっくり立ち寄った覚えはない。大抵は和歌山街道を高見峠方面などへと駆け抜けている。
 
 茶倉駅周辺MAPではその中央の下側に「飯南・三瀬谷」とある道が相津峠への県道になる。「飯南」とあるのは「大台町」の間違いかとも思う。
 
<粥見村>
 旧飯南町の中心地は大字粥見で、櫛田川が湾曲する部分の広い谷盆地に位置する。江戸期からの粥見村で、明治22年に有間野村・向粥見村(むこうがゆみむら)と合併し、新しい粥見村が成立、旧村域は大字となる。昭和8年町制施行で粥見町、昭和31年に柿野町と合併して飯南町となって行く。


茶倉駅周辺MAP (撮影 2018. 5.24)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<茶倉駅からの眺め>
 茶倉駅の店舗の脇より、下に流れる櫛田川と、その上流方向に連なる多気山地が眺められる。残念ながら、相津峠は右手の山陰に入り、僅かながら視界に入らないようだ。
 
 山地の麓には主に櫛田川左岸に粥見の市街地が広がる。粥見付近から上流側の櫛田川は、古くは俣谷川(かばただに)と呼ばれた。そのほとんどが狭い峡谷を流れ、現在は香肌峡(かはだきょう)の名を持つ。その櫛田川沿いに形成された谷盆地に粥見の様な集落が大小無数に点在する。

   
茶倉駅より櫛田川と多気山地を眺める (撮影 2018. 5.24)
相津峠はもう少し右手にあり、視界に入らないようだ
   

<向粥見へ>
 国道166号の粥見出鹿(かゆみいずか)の交差点から県道710号・飯南三瀬谷停車場線に入る。谷盆地を北から南に横断し、新高橋で櫛田川を右岸に渡ると、そこは向粥見(むこうがゆみ)の地である。 粥見に対し櫛田川の向こう側にあることからこの名があるようだ。櫛田川右岸沿いに上流側から波留(はる)・本郷・魚瀬といった集落が点在するが、左岸の粥見に比べ谷盆地は狭く限られている。
 
<向粥見村>
 江戸期から明治22年までの多気郡向粥見村で、明治22年に飯高郡有間野村・粥見村と合併して新しい粥見村が成立、旧向粥見村は大字向粥見となる。その後は前述のように粥見町を経て飯南町の一部となって行く。
 
<櫛田川右岸>
 県道710号は本郷集落を過ぎると櫛田川右岸の岸壁沿いに下る寂しい道となる。左手に流れる櫛田川は香肌峡と呼ぶにふさわしい峡谷の様相を示す。

   

この先に分岐 (撮影 2018. 5.24)

<県道745号分岐>
 間もなく道は櫛田川沿いを離れ、支流の相津川左岸沿いに遡り始める。直ぐに分岐があり、左へ県道745号が分かれて行く。分岐の看板にはその方向に「国道368号 2Km」とある。

   

<峠道起点>
 一方、県道710号の続きには「14Km 大台(おおだい)」とある。 ここで櫛田川から分かれ、大台町の宮川沿いに至るまでの約14Kmが、地形的に見た場合の今回の峠道の範囲と言える。この県道745号分岐が相津峠の松阪市側起点となる。ただ、峠道の役割の観点からはやはり粥見という大きな市街を起点と考えるべきだろう。


分岐の様子 (撮影 2018. 5.24)
峠方向に見る(ドラレコより)
   
分岐の様子 (撮影 2018. 5.24)
粥見市街方向に見る(後方のドラレコより)
   

<ドラレコ(余談)>
 ところで、こうした分岐などはいちいち車を停めて写真を撮るような余裕はない。車を進めながらシャッターを切るのだが、なかなかうまくタイミングが合わない。 その点、ドラレコ(ドライブレコーダー)は絶えず撮影しているので、撮り逃しの心配が要らない。最近は機器の画質も良くなった。 車の後方にも取り付けたので、一度一方方向に峠を越えれば、反対側から越えた場合の画像も同時に得られるという仕掛けだ。これで峠道に関わる事象で見逃すことはほとんどなくなった。
 
 ところが大きな問題がある。旅先で一日車を走らせると、それでドラレコに装着した32GBや64GBのマイクロSDメモリはほぼ一杯になる。 1週間とか10日も旅を続けるには、多くの高価なSDメモリが必要だ。そこで、一日の旅が終わって宿に入ると、その日のデータをハードディスクに移すこととした。 その為、新調した小型のノートPCと3TBの外付けハードディスクをいつも宿の部屋まで運び入れる。これがなかなか重い。そして毎日生み出される何10GBという大きなデータのコピー作業に励むのだ。 それが最近の旅の日課となってしまった。無駄なデータも多いのだが、選別する手間の方が勿体ない。ハードディスクも一杯になり、今は2台目となる。
 
 こうして撮り溜めた旅の画像は果して意味があるのだろうかとも思う。時には林道に飛び出して来たシカなどの映像が得られ、それなりに面白いと思うこともあるが、旅の後に画像を眺めることはほとんどない。せめてこうしてホームページに活用しようと思うのであった。

   

<相津川沿い>
 櫛田川に代わり相津川沿いに道は進む。いよいよ多気山地の山中へと分け入って行く。当初はセンターラインのある2車線路だったが、数100mも走ると狭い道に変わった。その後は広くなったり狭くなったりを繰り返す。当面、道は相津川左岸にぴったり沿っている。

   

この先狭い道 (撮影 2018. 5.24)
センターラインも消える

幅員減少の看板 (撮影 2018. 5.24)
   

<記念碑>
 左の川岸に下る道があった。そちらに小さな田畑があるようだ。続いて地形図に記念碑のマークがある箇所がある。幾つか岩が並び、石柱が一本程立っていたようだ。 何の記念碑だか分からなかった。集落の跡だろうか。側らの看板には次のような文句が書かれていた。
 愛郷無限
 先代に感謝を
 現代に誇りを
 未来に喜びを
  おくろう
   相津組

   

左に下る道 (撮影 2018. 5.24)
その先は畑のようだ

石碑の箇所 (撮影 2018. 5.24)
   

左手に相津川を望む (撮影 2018. 5.24)
再びセンターラインが出て来た

<大字向粥見>
 相津川沿いは暫く何もない。時折川面を眺めるばかりで、視界の広がらない狭い谷間が続く。
 
 向粥見は櫛田川沿いとこの相津川沿いに僅かな集落があるだけで、粥見に比べると集落はぐっと少ない。ただ、大字向粥見は多気山地の北麓に広がる相津川水域の全てと、あと櫛田川の幾つかの小さな支流の水域を含めた広大な地域となる。

   
   
   
下相津集落 
   

<下相津集落>
 相津川沿いを丁度1Km走ると、ポツポツ人家が現れ始める。相津川沿いに立地する相津集落だ。ここより上流側約2Kmの県道沿いに人家が点在する。
 
 相津集落は大きく上相津と下相津に分かれているようで、最初に現れるのは下相津集落である。
 
<相津川沿いの集落>
 旧飯南町はそのほとんどの集落が櫛田川沿いに集まるが、支流の仁柿(にがき)川とこの相津川沿いにも集落が立地する。ただ、国道368号が通じる仁柿川沿いに比べると、相津川沿いの集落の規模は小さい。櫛田川本流から1Km以上も奥まった地となる。


人家が出て来た (撮影 2018. 5.24)
左手の県道標識が立つ
   

県道標識 (撮影 2018. 5.24)
飯南三瀬谷(停)線

<相津村>
 古く江戸期には相津村(あいづむら)であったが、相津川河口付近の向粥見村の枝郷とした扱いだったようだ。明治22年に有間野村・粥見村・向粥見村が合併して新しい粥見村が成立すると、相津は大字向粥見の一部となったものと思う。
 
 現在の住所名も向粥見まででそれ以降は番地となり、相津の名は出て来ないようだ。ただ、下相津の集落に差し掛かった所に立つ県道標識では、「松阪市 飯南町 相津」と出ていた。「向粥見」が抜けている。

   

<集落の様子>
 集落が形成されるだけあって、相津川の谷もやや広がりを見せるが、大きな水田が広がるようなことはない。集落内に通じる県道は人家の軒先をかすめるように通る箇所もあり、道幅は狭い。


下相津集落内へ (撮影 2018. 5.24)
   

集落の様子 (撮影 2018. 5.24)
左手は相津川

集落の様子 (撮影 2018. 5.24)
人家の間を抜ける
   

<分岐>
 下相津集落を行く途中、左手に小さな道が分かれる。相津川を右岸に渡り、その支流の手石川沿いを遡る道だ。
 
 地形図を見ると、途中から徒歩道になるが、一旦多気郡多気町に入り、その先大台町側へと下って行く。これも多気山地を越える峠道の一つではないだろうか。


左手に分岐 (撮影 2018. 5.24)
   

手石川上流方向を望む (撮影 2018. 5.24)
手前の広場は地蔵寺の駐車場

<県道429号>
 話は飛ぶが、相津峠の大台町側に通じる県道の番号は、710号ではなく、429号とあるのに気付いた。その片割れは飯南町とは東隣となる多気町に通じる。 宮川の支流・濁川沿いに県道429号・佐原勢和松坂線が遡って来ていた。「佐原」とあるように、峠を越えて大台町の佐原に至る。相津峠の大台町側は、この県道の続きということになる。
 
 濁川の上流部は上津又川と名を変え、その川をずっと遡ると、下相津集落から手石川沿いに登る道と峠近くで合流している。ただ、その先は佐原ではなく大台町の上三瀬方面へと下っているが。

   
上津又川沿いの県道429号・佐原勢和松坂線 (撮影 2018. 5.24)
「この先 通行不能」の看板が立つ
   

<多気町側の県道429号(余談)>
 相津峠を訪れる前、上津又川沿いの県道429号を文後トンネルへの分岐点まで遡ってみた。分岐から先の県道方向には、大きく「通行不能」と出ていた。 この看板にはどこか心魅かれる思いがする。車道未開通の峠道でよく見掛ける看板なのだ。きっと古くは地元民が歩いて越えた道ではなかったろうか。車道の開通を見ることなく、今は寂れた峠道であろう。
 
 余談だが、文後トンネルは宮川水系と櫛田川水系の分水界に位置する。近くにある国道368号の桜峠は、文献では多気山地の峠として出ていたが、そちらは峠道全て櫛田川水系に含まれる。多気山地を宮川・櫛田川の分水界とするなら、文後トンネルの方が多気山地の峠としてふさわしい。

   

県道佐原勢和松坂線の標識 (撮影 2018. 5.24)
ここは「多気町 車川」

「この先 通行不能」の看板 (撮影 2018. 5.24)
何故か心惹かれる
   

相津川左岸へ渡る (撮影 2018. 5.24)
この橋は那女地橋

<相津川左岸へ>
 下相津集落が続く中、途中で道は相津川を渡って右岸沿いになる。今後この県道は相津川を何度も渡り返したり、またその支流を渡る為、幾つもの小さな橋が架かっている。
 
 ちなみに、最初に渡る橋は那女地橋(なめじはし)といい、平成11年8月竣工と橋の銘板にあった。比較的最近に架け替えたようだ。

   

<再び右岸>
 相津川の谷は徐々に深くなり、川の屈曲も多くなった。道は左岸から右岸、右岸からまた左岸へと渡り返すようになる。川筋も南北方向からやや東西方向へと向きを変えた。

   

また橋を渡る (撮影 2018. 5.24)
その向こうにちょっと気になる用水路
相津川左岸の急斜面を相津川の支流が下って来ている

用水路 (撮影 2018. 5.24)
   

この先ちょと人家が途切れる (撮影 2018. 5.24)

 県道沿いには適度に人家が点在し、ほとんど途切れることはない。集落は下相津から上相津へと移って行く筈だが、どこがその境目だかあまりはっきりしない。右岸沿いを行く途中、谷が狭まりちょっと寂しい区間があったが、その付近が境だったろうか。

   
   
   
上相津集落 
   

佐古谷川橋 (撮影 2018. 5.24)

<上相津集落へ>
 右岸の小さな支流を佐古谷川橋という橋で渡る。その名からしてその支流は佐古谷川と呼ぶのだろう。その橋を渡る頃から谷はまたやや広がりを見せ、沿道の人家が多くなる。少なくともここは上相津の集落となるのだろう。

   

<集落の様子>
 県道沿いに並ぶ人家は下相津集落と特に変わりない。集落としては上相津の方がやや規模が小さいように思えた。沿道にあまい耕作地は見られない。それでも茶畑などが目に留まった。
 
 
<長入川>
 上相津集落の前半は相津川右岸沿いとなる。その途中、支流の長入川を渡る。橋の名は和泉橋(いずみばし)。


集落の様子 (撮影 2018. 5.24)
   
長入川を渡る (撮影 2018. 5.24)
   

左に分岐 (撮影 2018. 5.24)

<旧道>
 和泉橋を渡ると長入川の左岸沿いに遡る道が分かれる。地形図を見ると、その上流部で元の相津峠を越えている。この上相津集落で相津川沿いを外れ、支流の長入川沿いに登る道が元の峠道となるようだ。
 
 ただ、長入川の上流部は2筋に分かれていて、地形図には相津峠の西側にもう一本峠道が描かれている。これもまた多気山地を越える峠の一つだろうか。

   

<感謝の丘>
 長入川を渡った直ぐ先に大きな看板が立っていた。「金婚しだれ桜」と案内していた。ここから車で約15分の「感謝の丘」にあるようだ。後で分かったことだが、その場所はもうほとんど峠と同じ地点であった。

   

金婚しだれ桜の看板が立つ (撮影 2018. 5.24)
看板には次のようにある
ここは、
松阪市飯南町相津です。
金婚しだれ桜
「当地方、一番咲き!!」
感謝の丘 ↑
(車で約15分)


金婚しだれ桜の看板 (撮影 2018. 5.24)
   

<左岸沿いの上相津>
 上相津集落の後半、道は相津川の左岸沿いとなる。民宿か何かの看板が出ていた。「さぶろへい」とある。住所は「松阪市飯南町向粥見」で、やはりそれ以降は番地になっていた。しだれ桜の看板にあった「飯南町相津」というのは、やはり便宜的な呼び方なのだろう。


上相津集落の様子 (撮影 2018. 5.24)
   

<集落の終点>
 下相津・上相津と続いた相津集落も、相津川を3Km余り遡った地点で尽きる。集落南端に近い所に道路情報の看板が立っていた。「通行注意、落石注意」とある。これはこの先の峠道についてのことだろう。看板の直ぐ後には一軒の人家の前を過ぎる。それが松阪市側最終の人家となるようだ。続いて小さい古そうな橋で相津川の右岸へと渡る。これ以降はもう人家はないようで、この橋が集落の終点と言える。

   

集落の南端 (撮影 2018. 5.24)
道路情報の看板
「通行注意、落石注意、松阪土木事務所」

道路情報の看板 (撮影 2018. 5.24)
   
   
   
集落以降 
   

橋を渡った先の右に分岐 (撮影 2018. 5.24)

<集落以降>
 古くからの相津峠の道は上相津集落の途中より支流の長入川沿いに峠へと登って行ったが、現在の県道は相津川本流をそのままかなりの上流部まで遡る。 相津川は細かな屈曲が多く、道はまた何度か相津川を渡り返す。橋はどれも古そうだ。橋の名がコンクリートの欄干に刻まれているようなのだが、写真やドラレコ画像からでははっきりと読み取れなかった。
 
 橋には水道管の様な管が並んで渡っていた。放射状の構造物は「鼠返し」だろうか。
 
 橋を渡った先に林道が分かれていて、看板に「民有林林道 波留相津線」とあった。地形図では途中で止まっているが、全延長6Kmとあるので、櫛田川沿いの波留集落までつながっているのかもしれない。

   

<根湯橋付近>
 相津川を左岸から右岸へと渡る橋には、白い銘板が付けられていて、「根湯橋」(ねゆはし)と書かれているのがはっきり分かった。橋そのものは古い。
 
 県道標識には「飯南三瀬谷(停)線 松阪市 飯南町相津」とある。標識によっては「飯南三瀬谷停車線」としているのも見掛けた。
 
 根湯橋に続いて多分「末廣橋」と呼ぶ橋を渡る。昭和31年3月という竣工日も書かれていたようだ。この県道が峠を越えたのは平成になってからだが、相津川沿いの途中までは、この橋の竣工と共に車道が延びて来ていたのだろう。


根湯橋 (撮影 2018. 5.24)
左手に県道標識が立つ
   
多分末廣橋 (撮影 2018. 5.24)
竣功は昭和31年3月
   

<沿道の様子>
 上相津の集落は過ぎたが、沿道にはちょっとした敷地があったり、何かの作業小屋のような物も見掛ける。獣除けの柵などが張られている箇所もあり、まだ人の活動を十分に感じさせる地帯だ。車も一台が追い越して行き、一台とすれ違った。
 
 ただ、田んぼや畑といった耕作地はほとんどない。文献によると、飯南町ではシイタケ栽培は300年以上の歴史があるそうで、静岡県から向粥見相津の地にその技術が導入されたそうだ。 沿道からは分からなかったが、この付近の林の中でシイタケ栽培が行われているかもしれない。
 
 余談だが、井上靖の自伝的小説「しろばんば」では、主人公の少年の祖父がシイタケ栽培の名人で、日本各地に技術導入したということが書かれていたと思う。 靖の故郷は天城峠の麓の湯ヶ島(現伊豆市)である。
 
 末廣橋以降、道は相津川左岸沿いだが、その間で徐々に寂しい道となって行く。谷は狭くなり、沿道にはいよいよ平坦地は見当たらない。古いツーリングマップ(1989年7月発行)では末廣橋の上流500m余りで県道は止まっていた。

   

道の様子 (撮影 2018. 5.24)

道の様子 (撮影 2018. 5.24)
沿道は寂しくなって来た
   

水道施設か何かが建つ (撮影 2018. 5.24)

<相津川上流部へ>
 県道は尚も相津川沿いを遡る。元の相津峠いは一向に近付いて行かない。道は1.5車線幅を十分確保していて、屈曲は多いが比較的走り易い道だ。アスファルト路面の状態も概ね良好である。比較的最近に通じた峠道なので、まだ傷みは少ないようだ。途中、水道施設の様な建物の脇を過ぎる。他に人工物は皆無だ。

   

<相津奥山線>
 右にアスファルト舗装だが狭い道が分かれていた。林道看板では「民有林林道 相津奥山線」とあった。地形図上ではどこにも通じていない。
 
 
<相津川最上流>
 続いて右に未舗装路が分かれて行く。その先にはコンクリート製の貯水槽の様な建物が見えた。相津川を水源として相津集落の水道水を確保しているのだろう。この付近は県道が到達している相津川の最上流部となる。相津川沿いに遡ること5Km、相津集落を過ぎてからは約2Kmの地点だ。


右に相津奥山線分岐 (撮影 2018. 5.24)
   

右に砂利道が分岐 (撮影 2018. 5.24)
県道は直ぐに相津川を渡る
この付近が県道の相津川最上流部

砂利道の先に貯水槽の様な建物 (撮影 2018. 5.24)
   

<また別の峠道>
 県道はここで相津川を渡り、右岸側をやや戻る方向へと進む。そこを地形図では相津川の上流方向へと徒歩道が延びている。そして多気山地を越え、大台町の下真手方面へと下って行く。これも一つの峠道だろうか。

   
   
   
相津川右岸の山腹 
   

<相津川右岸の山腹へ>
 県道は川筋を離れ、相津川右岸の山腹をよじ登り始める。道幅や路面状況にはほとんど変わりないが、勾配が急になり、いよいよ峠への登りが開始されたと実感させられる。


道の様子 (撮影 2018. 5.24)
   

樹林の間から僅かに景色を望む (撮影 2018. 5.24)

<周辺の様子>
 道は暫く相津川本流の谷に面して登る。高度が上がるに従い谷を見渡す位置関係になるのだが、沿道の木々が多く思うように眺望は広がらない。

   

<道の様子>
 この県道は、相津峠に通じる元からの峠道に代わり、新しく切り開かれた車道である。開通当時はどうだったか分からないが、少なくとも現状は予想以上に走り易い道となっている。 道幅は十分で、勾配も比較的緩い。広い道を確保する為か、暫く登ると高いコンクリート擁壁が多く見られるようになった。これで景色が広がると楽で楽しい峠道となるのだが、残念ながら峠道全般に展望には恵まれない。


道の様子 (撮影 2018. 5.24)
   
相津川本流方面の眺め (撮影 2018. 5.24)
   

峠の様な切通し (撮影 2018. 5.24)

<長入川との分水界>
 道は相津川を散々その上流部まで遡ってから、やっと山腹を登り始め、ほぼ真東へと移動している。元の峠道からすると、その迂回の様子は甚だしい。和泉橋の袂から始まる元の峠道の道程は、峠まで大よそ2.2Kmだ。一方、県道の方は約5.8Kmとなる。3倍近い差がある。
 
 川筋から離れて1.5Km程登ると、県道は峠の様な切通しを過ぎる。道は常に上り調子なので峠などではないが、そこが相津川本流と支流長入川との分水界となる。これでやっと峠のある水域へと入って来た訳だ。

   

<長入川水域>
 長入川水域に入ると、明らかに道の様子は変わった。道の勾配がグッと緩くなった。道幅にもやや余裕が出て来て、広い路肩や沿道にちょっとした草地の広場さえ見える。 多気山地の稜線にも程近い高度になって、こんなに道が安定して来たのがちょっと不思議なくらいだ。これも大きく西に迂回したルートで車道を開削した効果であろうか。


道の様子 (撮影 2018. 5.24)
   

沿道に草地の広場 (撮影 2018. 5.24)

沿道の様子 (撮影 2018. 5.24)
安定した地形だ
   

<長入川源頭部>
 道は多気山地北麓を緩やかに高度を上げながら東へと横断して行く。すると蛇が慌てて道を横断していた。その先、幅員減少の看板が立つ。路肩が少し崩れていて、その付近はやや険しい地形となる。

   

蛇 (撮影 2018. 5.24)

長入川源頭部に差し掛かる (撮影 2018. 5.24)
   

 地形図を見ると、丁度そこが長入川の源頭部に当たる。長入川の上流部は大きく二筋に分かれていて、多分支流と思われる方の源頭部に元の相津峠が通じ、本流らしい源頭部は相津峠の1Km余り西にある。 県道はその箇所を過ぎるのだ。地形図では相津峠とは異なる峠道が、長入川本流沿いに登ってここに至り、県道を横断し、多気山地の稜線を越えて行く。大台町側は不動谷川水域を下って宮川左岸の弥起井に通じる。

   
長入川源頭部 (撮影 2018. 5.24)
路肩がやや崩れている
   

長入川下流方向を望む (撮影 2018. 5.24)
路肩が崩れ掛けている
下から峠道がここまで登って来ていたのだろうか

 しかし、崩れ掛けた路肩側には、谷が鋭く切れ落ちるばかりで、道のような痕跡は見られない(左の写真)。一方、県道の山側はもう多気山地の稜線上部が直ぐそこに見える(下の写真)。しかし、コンクリートで覆われた擁壁が続くばかりで、古い道の跡など残るような状態ではない。
 
 ただ、この箇所は崖が急なだけあって、眺めが広がる。生憎逆光で写真はうまく撮れなかったが、北へと下る長入川の谷を通し、櫛田川左岸に連なる高見山地方面まで視界があったようだ。

   
長入川源頭部を相津集落方向に見る (撮影 2018. 5.24)
左手の直ぐ上がもう多気山地の稜線である
(ドラレコの画像も良くなった)
   
   
   
稜線沿い 
   

<稜線沿い>
 長入川の源頭部分はさすがに険しい様相を示したが、そこを過ぎるとウソの様に穏やかな地形となる。右手にはもう手の届きそうな距離に多気山地の稜線が通じる。 ほとんど尾根上に道が通じているような箇所もある。しかし、県道はいつまでもその一峰を越えようとはしない。稜線に沿って尚も東へと進む。
 
 こうした冗長性のある峠道はやはり車道ならではであろう。人が歩いて越えるなら、いくら道が良くてもこんな迂回路は選ばない。地形音痴な妻も、何度もこうした峠道を走っているので、この事態をよく理解しているようだ。その内、峠が出て来る筈だと、穏やかな道を落ち着いて運転している。


道の様子 (撮影 2018. 5.24)
穏やかな雰囲気
   
道の様子 (撮影 2018. 5.24)
稜線に並行に通じる
   

トイレ? (撮影 2018. 5.24)

<トイレ?>
 暫く沿道に人工物がなかったが、ひょっこり簡易トイレのような物が立っていた。ただ、使える状態かどうかは怪しい雰囲気だった。やはり茶倉駅で済ませてきてよかった。
 
 
<感謝の丘>
 続いて「感謝の丘」とのぼりが立ち、その脇から稜線へと登る階段が始まっていた(下の写真)。上相津集落の和泉橋近くに立っていた看板「金婚しだれ桜」のことであろう。その桜が咲く頃は、この付近も人で賑わうのかもしれない。その便宜に先程のトイレも設置されたのかと思う。

   

<絶景>
 今回は桜の時期もとっくに過ぎていたので、「感謝の丘」は素通りした。しかし、のぼりには「ありがとうの心 絶景 感謝の丘 登り口」とあったようだ。 その「絶景」が気に掛かった。車道より30m程登ると稜線上のちょっとしたピークに出るようだ。多分、その多気山地の頂上から雄大な眺めが広がったのだろう。 今回の峠道は全般に景色には乏しい。その意味で「感謝の丘」は貴重な展望所となるようだ。立寄らずに残念なことをした。ただ、のぼりの脇から始まる階段はちょっと寂しい。車もほとんど通らないこの峠道では、クマでも出ないかと少し不安にさせられる。


右手に感謝の丘 (撮影 2018. 5.24)
脇から階段が登る
   
この先が峠 (撮影 2018. 5.24)
   

<峠へ>
 長入川源頭部からほとんど水平移動で走ること1Km。道は右に急カーブして、やっと多気山地の稜線を横切ろうとする。そこが峠であった。

   
   
   
峠の松阪市側 
   
峠の松阪市側の様子 (撮影 2018. 5.24)
   

<峠の松阪市側>
 広い路肩とそれに続いてちょっとした園地が設けられている。空も開け、広々としている。多気山地の北側に位置するが、訪れた時刻が午後5時を過ぎていて、丁度西日が射し込み尚更明るい雰囲気だった。

   
峠の松阪市側 (撮影 2018. 5.24)
広い路肩と小さな園地がある
   

<視界>
 ただ、周辺は木々が囲み、松阪市側への水平方向の視界はない。やはり景色を眺めるには「感謝の丘」に登らなければならないようだ。

   
峠より松阪市方向を振り返る (撮影 2018. 5.24)
左手奥に「感謝の丘」ののぼりが立つ
右手には桜の植樹の看板
周辺は木々が囲み、視界が広がらない
   

<植樹>
 崖側の路肩の奥に桜の植樹に関した看板が立っていた。稜線の上に「感謝の丘」があり、そこが桜の名所なのかと思っていたが、県道沿いにも桜が植樹されているようだ。 相津集落の方による平成3年(1991年)度の事業とある。県道開通とほぼ同時期に植樹も行われたらしい。峠に車道が開通したことをこうした形で記念したのだろう。

   

桜の植樹 (撮影 2018. 5.24)
看板の後ろに立つ木は桜

植樹の看板 (撮影 2018. 5.24)
   

地蔵のお堂 (撮影 2018. 5.24)

<地蔵>
 路肩に沿う場所にしっかりした地蔵のお堂が立っている。この峠は古くからある相津峠の後継ではあるが、峠そのものは全く新しい。このお堂も新しく造られた物だ。
 
 お堂の中を覗くと、花やお酒が供えられ、きれいに飾られている。いつも感心させられるが、ほとんど通る車もないこうした峠に佇む地蔵も、麓の住民の方によって大切に祀られている。
 
 お堂の中心に立つ石像は、周りのコンクリート製のお堂と違って古さを感じさせる。全体に角が取れて丸みを帯び、お地蔵さんのお顔の様子も今でははっきりしない。

   

地蔵のお堂 (撮影 2018. 5.24)

地蔵の様子 (撮影 2018. 5.24)
   

地蔵の看板 (撮影 2018. 5.24)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<地蔵の看板>
 お堂の中にこの地蔵に関する説明書きがある。やはり石像そのものは古く、弘化三年(1846年)に彫られたようだ。多分、石像の一部にその年号が刻まれているのだろう。明治元年が1868年であるから、江戸期も最晩年の頃である。
 
<佐原峠>
 この地蔵菩薩は元は「佐原峠」に祀られていたとある。断定はできないが、相津峠の別称であろう。 看板の文面からして、地蔵の移転は相津住民の手によるようだ。祀られる場所も峠の相津集落側である。相津集落に住む者からすれば、大台町の佐原へと越える峠であり、それを佐原峠と呼ぶのは至極当然のこととなる。

   

<峠の開通年>
 園地のほぼ中央には開通記念碑が立っている。背面には何も刻まれず、正面に次のようにある。

 飯南三瀬谷停車場線
 開通記念
 平成三年十月
 三重県知事
  田川亮三

 
 大台町側の道はどこからかはっきりしないが県道429号・佐原勢和松坂線となるようだが、少なくともこの峠を越えるのは県道710号・飯南三瀬谷停車場線で間違いない。 平成3年(1991年)10月の県道開通は、同時にこの新しい峠の誕生の時でもある。開通記念碑だけではなく、「新相津峠」などと峠名を定め、石柱でも立ててくれたら嬉しいのだが。

   

園地に立つ開通記念碑 (撮影 2018. 5.24)

開通記念碑 (撮影 2018. 5.24)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<東屋など>
 園地の端には休憩用に東屋が立っている。しかし、周辺の草木がうるさく生い茂っていて、あまり近寄りたい雰囲気ではない。多分、県道開通当初はもっと木々が少なかったのだろう。27年近くの月日を経て木が育ってしまったことと思う。
 
 しかし、園地やその周辺は全般的にきれいに整えられていて、路肩に車を停め、一休みするには格好の場所となっている。これで眺めがあれば言うことなしなのだが。


東屋 (撮影 2018. 5.24)
   

園地内より車道方向を見る (撮影 2018. 5.24)
左手奥が峠の切通し

園地内より車道方向を見る (撮影 2018. 5.24)
右手奥に相津集落側への道が延びる
   
   
   
峠の切通し 
   

<切通し>
 駐車スペースともなる路肩が切れた辺りから、峠の切通しが始まる。距離は短いが、はっきりした切通しとなって、多気山地の稜線を抜けて行く。

   
峠の切通し (撮影 2018. 5.24)
左手に「大台町」の看板が立つ
   

<境の看板>
 切通しの松阪市側手前に市町境の看板が立つ。片面に「大台町」、反対側には「松阪市」とある。峠の北側は以前は飯南町であったのが、ここでは新しく松阪市となっている。南側は以前から大台町であったが、町章は宮川村と合併した後の新しい物が描かれていた。看板の新しさからしても、平成の大合併後に立てられた看板だ。
 
 市町境を示す看板以外には、市や町の観光案内の看板などは全く見当たらない。同じ多気山地を越える湯谷峠では大台町ガイドマップの看板が峠にあった。 あちらの峠には国道422号が通じ、旧宮川村の村域とと櫛田川沿いの地域を結ぶ幹線路である。一方、こちらはほとんど通る車もない寂しい県道となる。観光ガイドの看板を立てても、あまり効果はないであろう。

   

大台町の看板 (撮影 2018. 5.24)
町章は合併後の新しい物

松阪市の看板 (撮影 2018. 5.24)
   

<標高>
 切通しの部分は松阪市側から大台町側へとやや下り坂になっている。道の最高所は峠の松阪市寄りにあるようだ。
 
 文献(角川日本地名大辞典)では相津峠の標高を450mとしている。これは元の相津峠のことである。現在の地形図上の相津峠も大体標高450mに位置する。 一方、県道の新しい峠は、偶然ながら同じ450mあたりに道が通じている。相津峠とは水平距離で400m余り離れているが、この付近の稜線は起伏が少なく、430m〜480mに連なっている。

   
切通しより松阪市側を見る (撮影 2018. 5.24)
道の最高所は松阪市寄りにあるようだ
   

<切通しを大台町側へ>
 切通し中も道は右カーブを続け、丁度切通しを頂点にUターンする格好にある。大台町側に入ってもカーブミラーと車を停めるにはちょっと狭い路肩があるだけで、松阪市側の様な広さはない。ゴミ捨て禁止や監視カメラ設置の看板が僅かにあるだけだ。

   

切通しを大台町方向に見る (撮影 2018. 5.24)

切通しを大台町側に抜けた所 (撮影 2018. 5.24)
   
   
   
峠の大台町側 
   

樹間から景色を覗く (撮影 2018. 5.24)

<景色>
 峠の大台町側は狭い代わりに、峠直下へと直ぐに急な崖が下っている。こうした峠の場合、景色が期待できる。しかし、もう少しの所で視界が広がらない。ここでも木々が伸びて来てしまっている。

   
樹間から望む景色 (撮影 2018. 5.24)
鉄塔が立つ山が見える
   

 しかし、道を数10mも下ると、沿道の木々が途切れる箇所があった。そこからやっと大台町側の眺めが広がった。ただ、峠から下る谷は大きく屈曲していて、宮川沿いの市街地までは見通せない。ただただ山ばかりの景色である。

   
道を少し下ると景色が広がる (撮影 2018. 5.24)
   

 それでも一つ大きな人工物が目に入った。幾つかの橋脚が並ぶ車道だ。紀勢自動車が紀勢宮川橋を渡る付近のようだ。その下に流れる宮川の川面は見えていない。

   
紀勢自動車が紀勢宮川橋を渡る所が見える (撮影 2018. 5.24)
   

<露頭>
 景色とは反対側の峠が通じる峰の斜面を見ると、車道を開削する為に削った山肌が露わになっている。その中に湾曲する地層が確認できる。こうした露頭は峠道では時々見られる。ただ、専門家でないのでその価値は全く分からないが。

   
露頭 (撮影 2018. 5.24)    
   
   
大台町側に下る 
   

<佐原村>
 峠の大台町側は大字佐原(さわら)の地となる。宮川の中上流域左岸に位置し、多気山地の南麓に広がる。江戸期から明治22年までは佐原村であった。
 
<三瀬谷村>
 一方、紀勢本線の三瀬谷駅や宮川に架かる三瀬谷ダムなど、「三瀬谷」(みせだに)という地名もその付近に見られる。 文献によると、江戸期の下三瀬(しもみせ)・上三瀬村(かみみせ)周辺が古くは三瀬谷という名で呼ばれたようだ。
 明治22年に佐原や下三瀬・上三瀬など8か村が合併して三瀬谷村が成立する。三瀬谷村と言った場合、非常に広い範囲を示すことになり、佐原はその村の大字という関係になる。 昭和28年に三瀬谷村に町制が施行され、三瀬谷町となった。更に昭和31年、三瀬谷町と川添村が合併して大台町が成立している。その間、佐原は大字として続く。
 
<佐原へと下る>
 峠はその佐原を下る。かつて佐原市街には熊野街道が通り、現在は紀勢本線や国道42号、紀勢自動車道が通じる。大台町の中心地であり、物流も盛んである。しかし、市街地は宮川左岸の一部の台地に集中していて、峠を下る道は当面は寂しいままだ。

   

道の様子 (撮影 2018. 5.24)
支尾根に沿って下る

<大谷川水域>
 県道は元の相津峠と同じ水域に通じる。宮川の短い支流で、多分「大谷川」だと思うが、なかなかはっきりした資料が見当たらない。
 
<道筋>
 元の峠道は素直に川筋を下っていたのに対し、県道の方は、大谷川とその西隣の不動谷川との分水界となる支尾根に沿って、そろりそろりと進んで行く。 峠直下の谷が急斜面で険しいので、車道は大きく迂回するのだ。左手に大谷川上流部の谷を大きく臨みつつも、なかなか道はその谷へとは下って行かない。 その代わり、道の勾配は抑えられ、道幅にも余裕がある。
 やがて左手奥に多気山地の稜線が望めるようになる(下の写真)。そのどこかに元の相津峠も通じている筈だが、なかなか特定できなかった。

   
多気山地の稜線方向を望む (撮影 2018. 5.24)
このどこかに相津峠が通じる
   

<寺谷川水域へ>
 県道は遂には大谷川の水域を一時期ではあるが出てしまう。西隣の小さな寺谷川水域へと足を踏み入れる。 分水界となる支尾根を越えると、それまで左手に谷を見ていたのが、今度は右手に寺谷川の谷間を望む。支尾根を巻いて元の大谷川水域へと戻る間、コンクリートで覆った擁壁がほとんど途切れることなく続いた。

   

支尾根を越える (撮影 2018. 5.24)

寺谷川水域に入った (撮影 2018. 5.24)
高いコンクリート擁壁が続く
   

<川沿いに至る>
 尾根を巻いた後は、越えて来た峠方向に向かって大谷川の谷間へと下って行く。地形的に見て、この尾根を巻く前後の区間が、この峠道では最も険しい感じがする。
 
<谷に降り立つ>
 グルリと大回りして来た道は、やっと峠の下の谷底へと降り立つ。谷を見渡すように張り出したちょっとした草地があり、そこにベンチが設えてあった。展望所といった様子だ。

   

右手の広場にベンチなどが見られる (撮影 2018. 5.24)
ちょっとした展望所となっている

大角橋を渡る (撮影 2018. 5.24)
   

<大角橋>
 その先で大谷川上流部の支流を渡る。この県道には多くの橋が架かっているが、その中では最も大きな橋ではないだろうか。橋の上流側に旧道の痕跡も見える。 欄干は新しそうな鉄製のガードレールになっているが、橋の袂の左右には古そうなコンクリート部分が残っている。多分、この橋自身も補修されたのだろう。
 
 そのコンクリートには「大角橋」、「おおずまばし」と刻まれていた。 通常、こうした橋の銘板には橋の名以外に竣工日や河川名が記されている。そこで、橋を渡って反対側のコンクリート部分を見たのだが、同じように「大角橋」、「おおずまばし」と書かれているだけだ。大谷川という名も怪しいのに、その支流となると名など全く分からない。橋の銘板が頼りだったが、それも当てが外れた。

   

「大角橋」 (撮影 2018. 5.24)

「おおずまばし」 (撮影 2018. 5.24)
「おおまばし」かもしれない
   

<峠直下の支流>
 峠からは私の運転で、妻は写真とナビを担当してもらった。この先重要なのは、元の相津峠から旧道が下って来ているので、その接続地点を見付け出すことだ。 大角橋以降、何度かカーブを曲がると、峠を源頭部とする川が流れ下って来ている。その川沿いに古い峠道が続いていた筈だ。


支流を渡る (撮影 2018. 5.24)
   

上流側に小さな砂防ダムがある (撮影 2018. 5.24)

 妻がここだろうという場所に車を停めた。大角橋から150m程の所だ。橋は架かっていないが、上流側には砂防ダムが築かれ、下流側は確かに川の様相である。 砂防ダムへと登る狭い道の様な痕跡は見られるが、古い峠道などではなさそうだ。下流側には全く道らしい様子は見られない。もう相津峠の道も廃道と化したのだろうと思った。
 
 ところが、後になってドラレコを確認してみると、全く違った場所だった。現在の県道が通じる峠を源頭部とする支流の方だった。そんなところに道など通じている訳がない。やはり地図音痴の妻に頼ったのは間違いであった。

   

川の様子 (撮影 2018. 5.24)

川の様子 (撮影 2018. 5.24)
   

<旧道との接続地点>
 旧道との接続地点は更に350m程下った所だった。やはり橋は架かっていないが、県道は小さな支流を横切っている。カーブミラーとは反対側の右岸側に、何となく道のような物が峠方向に登って行くようにも見える。
 
 古いツーリングマップでは、佐原側から登って来た県道は、丁度この旧道との接続付近で途切れていた。そのことからしても、相津峠を越えた旧道はこの地点にまで至っていたようだ。 峠との水平距離は僅かに400m弱で、標高差は200m余りもある。そこを車道は2.7Km程の道程で大きく迂回して通じている。

   

旧道との接続地点 (撮影 2018. 5.24)
麓方向に見る

旧道との接続地点 (撮影 2018. 5.24)
峠方向を見る
   
   
   
旧道接続地点以降 
   

右岸沿いの道 (撮影 2018. 5.24)

<大谷川?左岸>
 相津峠直下に流れ下る川が大谷川本流かどうかはっきりしないが、その可能性は大きい。道はその左岸沿いに下りだす。道の方向も概ねやっと佐原市街を向いている。
 
 昔の峠道と現在の車道とは、正確には一致しないだろうが、どちらもこの川筋に通じることは同じだ。谷の眺めも、かつての旅人が見たものと同じであろう。

   
谷を右に見て下る (撮影 2018. 5.24)
   

<自転車>
 上相津集落を過ぎた末廣橋付近で軽自動車とすれ違ったのを最後に、それ以降は一台の車も見掛けていない。それがこの峠道の現状であろう。ところが、もう夕方近いというのに、佐原方面から自転車が一台登って来た。
 
 かつては人や物資の往来が役目となる峠道だったが、現在はこうして趣味やスポーツの対象でもある。かく言う私たちも、旅という遊興の為に峠を越えているようなものだ。実益はあまりないが、峠から人の気配が絶えるよりはいいのではないだろうか。


自転車が登って来た (撮影 2018. 5.24)
   

<支流を巻く>
 まだ大谷川の上流部なので、地形は険しく車道は本流沿いには素直には下れない。小さな支流を何度か巻きながら、概ね本流の谷に沿う。
 
 ある急カーブ曲がると、その先2車線路となった。この時、道は一時期的に峠方向を向いている。

   

急カーブで本流へ戻る (撮影 2018. 5.24)

その先、僅かに2車線路 (撮影 2018. 5.24)
道は一時的に峠方向を向いている
   

 林の間から稜線の山が望めた。相津峠よりやや東を見ているようだ。

   
峠方向を望む (撮影 2018. 5.24)
   

<本流右岸へ>
 2車線路を下るとまた狭い道に戻り、急カーブして本流の川を右岸へと渡る。橋の袂より上流方向に道が分かれていた。直ぐの所に比較的大きな砂防ダムが築かれている。古い峠道はその砂防ダム付近に下って来ていたのかもしれない。


右岸へ渡る (撮影 2018. 5.24)
右手奥に砂防ダムが見えた
   

水道施設が出て来た (撮影 2018. 5.24)
その直前に左岸に渡っている

<本流沿い>
 これ以降はずっと川に沿って下り、最終的に佐原の市街地にまで至ることになる。暫くは谷は狭く、視界がない。沿道に最初に現れたのは水道施設だった。看板には次の様にあった。
 国民年金積立金還元融資施設
 佐原簡易水道 配水池
 大台町

 
 「大台町」とあるが、看板は古く、宮川村と合併する前の大台町時代の物らしい。

   

<沿道の様子>
 相津峠に通じた車道は、峠の位置が異なり、道筋も大半は新しく開削されている。しかし、この川沿いに通じる区間は、古くからの峠道とほぼ一致するものと思う。側らに流れる川面を眺めながらの暗く寂しい道だ。
 
 
<廃屋>
 水道施設の次にはポツンと廃屋が立っていた。人家だったのか、単なる倉庫か作業小屋の類か、もう見る影もない。


道の様子 (撮影 2018. 5.24)
   

沿道の様子 (撮影 2018. 5.24)
右手の林の中に廃屋

廃屋の様子 (撮影 2018. 5.24)
   

<敷地>
 廃屋のほぼ反対側には広い敷地があった。何かの作業所らしい。

   

左手に敷地 (撮影 2018. 5.24)

敷地の奥に道が延びる (撮影 2018. 5.24)
これが県道429号?
   

<県道429号>
 敷地の右手奥には道が延びていた。しかし、入口にロープが張られていて進入禁止となっている。
 
 後で地形図を見てみると、その道の先は大台町と多気町との境を越え、多気町側に通じる県道429号・佐原勢和松坂線へと向かって行く。ただし、大台町側の上流部で道は途切れている。これが通行不能の県道429号ではないだろうか。
 
<併用区間>
 相津峠の大台町側では県道標識はほとんど見られない。僅かに大角橋の袂で県道番号「710」と書かれた県道標識が一本、峠方向を向いて立っていたのをリアのドラレコが捉えていただけだった。 他に手掛かりはないが、多分、作業所の敷地が隣接する分岐より下流側は県道429号・佐原勢和松坂線となるのだろう。一方、県道710号の方も飯南三瀬谷停車場線と呼ぶからには三瀬谷駅まで通じる筈だ。 よって、ここより佐原市街までの道は、県道429号と710号の併用区間と思われる。
 
 かつてはどちらも峠部分で車道未開通の県道であった。大台町側の道は県道番号の若い429号と記されていた。 それが、開通したのは県道710号の方で、現在は全線710号と呼んだ方がふさわしい県道となっている。しかし、道路地図には未だに429号の文字が記されている。ちょっと見ると途中から不意に県道番号が変わっていて不可解に思われるが、これも峠道の変遷を物語っている。

   
   
   
集落内へ 
   

<建物>
 大谷川の谷がやっと広がりを見せ始めると、早速建物が現れた。比較体大きな倉庫のような建屋の前を過ぎる。

   

建物が見えて来た (撮影 2018. 5.24)

人家ではなく、倉庫の類 (撮影 2018. 5.24)
   

<人家>
 続いてついに人家が出て来た。すると、それまで大台町側では一台の車ともすれ違わなかったのに、前方より軽トラがやって来た。松阪市側でも相津集落近くでしか車を見掛けていない。おかしなものだ。

   
人家が現れた (撮影 2018. 5.24)
すると前方より軽トラがやって来た
   

<集落内>
 道は大谷川を何度か渡り返すが、最初の人家を過ぎた先で左岸に移った辺りから沿道の人家が増え、集落内の様相を示す。

   
人家が多くなる (撮影 2018. 5.24)
   

沿道の様子 (撮影 2018. 5.24)

<歩行者>
 相津集落ではあまり人影を見なかったが、佐原集落では県道を歩いている人を多く見掛けた。やはり三瀬谷駅周辺の市街地を有する大きな街である。所用で移動する人、木工所の作業員、荷車を押すおばあちゃん。特に犬の散歩をする女性を何人か見掛けた。のどかな夕方の情景である。

   

沿道の様子 (撮影 2018. 5.24)
製材所が隣接する

沿道の様子 (撮影 2018. 5.24)
   

<沿道の様子>
 集落内に入っても道は狭いままだ。歩行者をよけたり、対向車との離合に苦労する。道は集落内で再び右岸へと移る。その先は更に建物が密集した住宅街の様相だ。川筋からも離れて行く。

   
道は右岸へ (撮影 2018. 5.24)
   

<市街地>
 沿道には人家に混じって商店も並びだし、いよいよ市街地の様相だ。すると、この県道では珍しくしっかりした道路看板が出て来る。「松阪31Km、尾鷲58Km」とある。しかし、国道42号に乗るには今少し佐原市街に通じる狭い道を縫って走らなければならない。

   

商店が出て来る (撮影 2018. 5.24)

道路看板 (撮影 2018. 5.24)
   

<駅前の十字路>
 道路看板の先には小さな十字路が待っている。角には銀行や旅館、飲食店が立ち、市街地の只中という雰囲気だ。たった今寂しい峠道を越えて来た者からすると、一体ここはどこだろうと思わせる。 周囲に高いビルなどは見当たらず、佐原は決して大きな都会ではないが、それがかえってかつての熊野街道で賑わった頃の佐原を彷彿とさせる。
 
 県道が分岐する十字路というのに、周辺にはこれと言って道案内の看板はない。唯一、峠方向を指して「飯南 15Km」と看板が立つだけで、寂しい限りだ。

   
三瀬谷駅手前の十字路 (撮影 2018. 5.24)
   

十字路より三瀬谷駅方向を望む (撮影 2018. 5.24)

<十字路以降>
 十字路を直進は、直ぐに三瀬谷駅の前で道は終わる。それが県道710号・飯南三瀬谷停車場線となるようだ。駅前にタクシーが客待ちしているのが見えた。その奥には紀勢自動車道の高架を望む。
 
 十字路を右折するのは県道429号・佐原勢和松坂線の続きとなるようだ。行く行くは紀勢本線の踏切を過ぎ、国道42号に接続する。
 
<終点>
 左折する方向は大谷川に近い所を通って宮川沿いの国道42号に至る。峠道としてはそちらが一番ふさわしい道筋だ。しかし、佐原市街の中心に位置するこの十字路を、峠道の終点としておくのもいいように思う。

   
   
   

 古いツーリングマップではまだ県道未開通となっていたので、これまでこの小さな峠には全く関心が向かなかった。 今回、偶然訪れてみると、寂しい峠道ながら峠にはちょっとした園地が設けられ、開通記念碑や移設された地蔵などが迎えてくれた。飯南町粥見と大台町佐原とを繋ぐ峠道として、2つの市街地の対比も面白く見られた。
 
 長年、峠の旅を続けているが、それでも初めて越える峠は常に不安が付きまとう。しかも、当日は宮川沿いの大台町薗にある奥伊勢宮川温泉に宿泊予定だった。 もし、峠が越えられないと、多気山地が尽きる東の多気町方面か、多気山地の只中を越える西の湯谷峠(トンネル)まで、大きく迂回しなければならない。 峠道に取り付いた時は、もう夕方5時近くになってしまった。不安がる妻を、仮にも県道だから大丈夫と励ますものの、自分自身も一抹の不安を抱いていた。無事、佐原の街中に辿り着いた時は、夫婦で胸を撫で下ろす、相津峠であった。

   
   
   

<走行日>
・2018. 5.24 松阪市→大台町 ハスラーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 24 三重県 昭和58年 6月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・県別マップル道路地図 24 三重県 1998年 7月 発行 昭文社
・関西 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 5 関西 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 関西 2015年8版1刷発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2018 Copyright 蓑上誠一>
   
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