ホームページ★峠と旅
赤石峠
 
あかいし とうげ
 
伊那山地と赤石山脈に挟まれた遠山郷に通じる峠道
 
赤石峠 (撮影 2000. 5. 3)
長野県喬木村(たかぎむら)氏乗(うじのり)と同県上村(かみむら)上町(かんまち)との境
峠は赤石隧道(赤石トンネル)
標高は1,195m
喬木村小川と上村上町を結ぶ峠道
道は県道251号・上飯田線(旧赤石林道)
写真は赤石隧道内より上村側坑口を通して南アルプスの峰を望む
 
<辞職峠>
 
 「辞職峠」。この名前を最初は何から知ったのか、もう全く覚えていない。でも、ちょっとショッキングな命名で、一度聞けばそう簡単には忘れられない。勿論これは俗称であり、「小川路(おがわじ)峠」というのが本名だ。この赤石峠と一体何の関わりがあるかと言うと、小川路峠の後輩にあたり、同時に小川路峠をさびれさせ、言うなれば「辞職」に追いやった張本人が赤石峠なのであった。
 
 さて、「辞職峠」とは本来どういういわれがあるのだろうか。どんなエピソードにまつわるものなのか。それと知らなくても名前から何となく検討はつくと思うのだが・・・。
 
<遠山郷>
 
 赤石峠やその前身とも言える小川路峠を知る上で、まず「遠山郷」(とおやまごう)について思いをはせる必要がある。長野県と静岡県の県境を南北にそびえる赤石山脈・通称南アルプスの西側に、かつて遠山郷と呼ばれた山里があったそうな。現在の長野県上村から南信濃村に至る地域である。
 
 遠山郷という名を知らなくとも、この付近を旅したことがある者なら、思わずググッと旅情を誘われる。国道152号が北の地蔵峠と南の青崩峠(車道未開通)という2つの険しい峠を繋いで途切れ途切れに走り、東には絶景三大峠の一つと呼ばれた(勝手に自分で言っているだけのだが・・・)しらびそ峠が眼前に南アルプスを望んでいる。地形的には日本最大の地質構造線・中央構造線が谷を深く削って南北に走り、東に赤石山脈、西に伊那山地を仰ぎ見て、険しい谷間の土地柄である。上村下栗の急斜面に点在する小集落と畑は、全く秘境を思わせる。
 
 ツーリングマップルなどの道路地図でこの地域を調べても、どこにも遠山郷の地名は見受けられないが、川の名前として遠山川という川が流れていることが分かる。赤石山脈の聖岳西斜面より流れ下り、天龍村の平岡で天竜川へと注いでいる。遠山郷とはこの遠山川やその最大の支流・上村川などを含めた流域一帯に栄えた村々の総称であった。
 
<遠山郷への峠道>
 
 かつて、この遠山郷を訪れるには、天竜川より遥々と遠山川沿いに遡るか、さもなければ1,000m以上もの峠を越えなければならなかった。その峠道の中、特に伊那谷で大きな町である飯田から遠山郷に最短で向かうのが、小川路峠であった。
  
 現在では飯田市街から国道256号(旧152号)が伊那山地の中腹まで来ているが、ほぼこれが小川路峠の道筋と思っていいようだ。峠道は国道が途切れた先を、飯田市と喬木村の境に進み、金森山(1,702.5m)の北側に位置する小川路峠で上村に入り、上村の中心地上町(かんまち)へと下る。
 
 小川路峠は明治10年頃から改修が進み、飯田と遠山郷との人や物の行き来に使われたが、それでも牛馬がやっと通れる程度の険しい峠道であった。
 
 未開通の国道に代わって、現在飯田と上村を繋いでいるのが県道251号・上飯田線、すなわち赤石峠の道である。こちらは喬木村の中を小川川沿いに登り、やはり同じく上村の上町で国道152号に合流している。
 

矢筈トンネルの喬木村側のインターチェンジ付近
 この赤石峠を越えるなら、やっぱり伊那側から登るのがいい。車なら簡単な峠越えなのだが、それでも遥々「遠山郷」へ向かうのだという気分を出すのである。
 
 飯田市街の方から何でもない県道を走ってくると、突然ひと気のない山の中に、高い橋脚で支えられた巨大なインターチェンジが現れる。うっかりするとそのまま近年開通した矢筈トンネルへと吸い込まれてしまう。赤石峠へは、このインターチェンジで降りなければならない。
 
<三遠南信自動車道>
 矢筈トンネルは、飯田市から静岡県の浜松までを結ぶ三遠南信自動車道の一部として造られた。トンネルは上村の程野に抜けている。その先、兵越(ヒョー越)で静岡県に入った所で草木トンネルが近年開通しているが、それも三遠南信道の一環であった。矢筈トンネルも草木トンネルも随分立派だと思ったら、将来有料道路となる運命らしい。
 
 寂しい山間部に場違いなインターチェンジに別れを告げ、昔ながらのわびしい道に戻る。何となくホッとする。元々赤石林道と呼ばれた道は、矢筈トンネルができてからは、尚更交通量が減ったことだろう。後続で追いついてくる車や対向車の心配がほとんど要らないので、狭い道も気にせずのんびり走れる。
 
 道は曽山(1,600m)の南側の肩の部分で伊那山地を越えるべく、クネクネと山道を登って行く。しかし、のんびり走っても車ではあっという間に峠である。途中、写真を撮るようなビューポイントもなく、ちょっと物足りなさを感じるのは否めない。

トンネルを背に喬木村側を見る
 

喬木村側の赤石隧道坑口
 到着した赤石峠はトンネルで抜けている。トンネルのの前には「赤石峠 1195m」と看板がある。こうして峠に名前や標高を記したものがあるのは嬉しいことだ。よく、トンネルが開通する以前には旧峠があって、新道のトンネルがその峠名を拝借するケースがある。しかし、赤石峠の場合は小川路峠からの継承を考えると、この赤石トンネルの上に赤石峠という峠がある訳ではないと思う。赤石峠はまさにここ以外にはないことになる。
 
 それにしても、「小川路」峠に対して「赤石」峠とは大きく出たものだ。小川路峠が喬木村の「小川」という1地名から命名されているのに比べ、赤石峠は赤石山脈の名前をもらってきた訳である。それだけこの道を開通させた時の期待が大きかったということであろうか。
 
 赤石峠が開通する前の小川路峠は、飯田からの登り三里、遠山郷への下り二里の「五里峠」とも呼ばれた。一里は約4Kmであるから、合計20Kmの道程である。人が歩いての峠越えに、ほぼまる一日を要した難路だった。
 
 明治期以降、遠山郷に赴任する公職の教員や警察官は、みなこの峠を利用した。そしてそのあまりの険しさに驚き、職を辞したくなるというのが、辞職峠の異名の起こりだそうだ。
 
 その後、昭和7年に現在のJR飯田線が天龍村の平岡まで開通すると、平岡経由で遠山川を遡り遠山郷に至るルートの利便性が高まった。これにより、辞職峠と恐れられた小川路峠はさびれ始めた。
 
 更に、昭和43年にこの赤石峠が車が通れる林道として開通しては、牛馬しか越させぬ小川路峠の衰退は決定的だっただろう。同時に自動車という文明の利器により、再び飯田と遠山郷が強く結びついた意味は大きく、「赤石」という命名に繋がったのか。
 
 そしてまた、昭和62年からは矢筈トンネルの工事が開始され、平成6年に完成している。専用自動車道として飯田と遠山郷が短時間に繋がっていく様は、昔の辞職峠とは隔世の感がある。
 
 赤石トンネルを上村側に抜けると、坑口上部に「赤石隧道」の表札が掲げられている。「トンネル」ではなく「隧道」とあるのが、時代を感じさせる。こちらにも同じく「赤石峠 1195m」とかかれた看板が立つ。
 
 トンネルの先はちょっと広くなっており、本線の道は右に下り、左には支線林道が分岐するが通行止である。そして正面には赤石山脈がそびえている。
 
 赤石峠越えで一番楽しいのは、やはりこの峠からの景色であろう。だから、伊那側から登って来るのがいいのだ。暗いトンネルを抜けた先で、パッと視界が広がるのは感動的である。伊那山地の谷に阻まれ、それ程雄大な眺めとはいかないが、あの山脈の手前にこれから降り立つ遠山郷があるのだと実感できる。

赤石隧道の上村側坑口
 
峠より赤石山脈を望む
 

上村側のトンネル出口付近の様子
 昔、小川路峠を越えてきた教員や警察官たちも、これと同じような景色を眺めたに違いない。そしてこの山深い土地でこれから営まれる自分の厳しい生活を思わずにはいられなかっただろう。一度踏み込めばそう簡単に戻っては来れない辺境の地。眼前に広がる春まだ雪深い赤石山脈も、彼らの目にはただただ恐ろしいばかりに写った筈だ。これでは辞職峠となっても仕方ないところである。
 
 こうした「辞職峠」の異名を持つ峠は、小川路峠ばかりではないようである。四国の程ヶ峠など、日本にいくつかあるようだ。ただ、所詮人の口からのぼる単なる俗称である。どの峠が辞職峠だかあまり確かではない。それに、実際に辞職した者がいたかどうかも定かでない。
 
 赤石峠を上村側に降りてくると、現在の県道が開通当時は林道であった証拠に、「赤石林道」と書かれた立派な開通記念碑が道路脇に建てられている。昭和43年の開通はそれほど昔のことではない。それまでは、本当に交通不便な地であったのだ。
 
 しかし、その待望の車道も現在は矢筈トンネルに取って代わられ、今回もすれ違ったのは軽トラック一台だけであった。三遠南信自動車道が全線開通し有料道路になれば、また息を吹き返すかもしれないが。

赤石林道開通記念碑
 
 峠を下り終えた所にある上町は、かつては小川路峠の峠口の宿場であった。険しい峠越えに備えてここで一泊し、翌日の早朝に峠を目指して旅立ったのだろう。上町は今も上村役場のある村の経済・文化の中心地となっているが、お世辞にも賑やかな集落とはいえず、あまり人影を見ない。
 
 その昔、高遠方面からの秋葉街道と、飯田市八幡から小川路峠を越えてくる秋葉街道と、二筋の秋葉街道が合流する地点であった上町。遠江秋葉神社参詣の人々でこの遠山郷も賑わっていた時期があった。ところがその後、交通の便が良くなるに従い、かえって往来する旅人は減り、逆に村からの人の流出が増えたのは皮肉なことだ。上村の下栗集落に古くからの湯立神事・霜月祭り(国指定の重要無形民族文化財)が今でも残っているそうだが、こうした伝統はいつまでも受け継がれてほしい。
 

矢筈トンネルの上村側坑口
 峠道から国道152号に入って、そこを北に向かえば間もなく矢筈トンネルの上村側の坑口に出る。国道は将来の三遠南信道から分かれて高架の下をくぐり、更に地蔵峠方向へと進むが、地蔵峠は国道未開通である。代わって途中で分岐する林道が地蔵峠を越えている。
 
 矢筈トンネルまで完成し、実用面では存在価値を失った小川路峠であるが、さびれかけたその山道が最近整備されたそうだ。往時を偲んで登山する者もいると聞く。辞職峠をわざわざ越えに行くのだから、時代は変われば変わるものだ。ともあれ、峠道が残され、活用されるのは喜ばしい。機会があれば、沿道に点在して観音像が佇むというその峠道を是非歩いてみたいものだ。
 
 三遠南信道の開発で、今後どの様に変貌していくか気掛かりな点はあるが、これからも旅の目的地として遠山郷は欠くことはできない土地である。
 
 <参考資料>
 角川  日本地名大辞典 20 長野県 平成3年9月1日発行
 昭文社 ツーリングマップ  中部 1988年5月発行
 昭文社 ツーリングマップル 中部 1997年3月発行
 国土地理院発行 2万5千分の1地形図
 
<制作 2003. 6.30> <Copyright 蓑上誠一>
 
峠と旅        峠リスト