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蘭峠
  あららぎとうげ  (峠と旅 No.262)
  大塩峠に続く会津・米沢街道の小さな峠道
  (掲載 2016. 8.14  最終峠走行 2016. 6.13)
   
   
   
蘭峠 (撮影 2016. 6.13)
峠は福島県耶麻郡(まやぐん)北塩原村(きたしおばらむら)大字桧原(ひばら)にある
手前は桧原集落方面
奥は中ノ七里集落跡を経て大塩峠へ
道は村道大塩桧原線(一部は旧高曽根林道)
峠の標高は約945m (地形図の等高線より読む)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
古いツーリングマップには「江戸時代の米沢街道の名残がある」と書かれていたのだが
峠前後は既にセンターラインもある2車線路となっていた
 
 
 
   

<峠の所在>
 住所としては福島県耶麻郡(まやぐん)北塩原村(きたしおばらむら)大字桧原(ひばら)にある。 一般には、観光地の裏磐梯(うらばんだ)で知られる会津磐梯山北麓一帯に広がる高原の一角に峠は位置する。 この裏磐梯高原で最大の湖が桧原湖(ひばらこ)となるが、その湖を中心とする北塩原村の広い範囲が大字桧原の地となる。
 
<桧原湖>
 桧原湖は南北に細長く、猪苗代湖方面にも近い南岸付近が裏磐梯高原の観光の中心地と言える。 一方、北岸近辺は、その直ぐ北側に福島・山形の県境を成す吾妻連峰(あづまれんぽう)の高い峰が東西にそびえ、山深い地で、 あまり観光地らしい賑わいは見られない。 北岸近くには僅かに早稲沢(わせざわ)、金山(かなやま)、桧原(ひばら)といった素朴な集落が点在するばかりだ。
 
<村道大塩桧原線>
 桧原集落は西岸沿い北部に位置するが、その集落を起点に南西方向へと、寂しい村道が一本通じる。 その道は大塩桧原線と呼ばれ、蘭峠・大塩峠と2つの峠を経て、国道459号沿いの大字大塩(おおしお)の大塩集落に至る。 国道459号は西の喜多方市方面と裏磐梯高原を結ぶ大幹線路だ。一般の観光客は国道459号を走っても、村道大塩桧原線はその存在さえ気付かないことだろう。 早稲沢、金山、桧原といった桧原湖北部の集落の住民が、北塩原村の中心地との行き来に使うくらいか。 その場合も、西岸の県道を下って国道459号に迂回した方が、距離は2倍近く長いが、全線快適な2車線路が通じ、車は走り易い。 一方、村道の方は車の離合にも事欠く狭い区間がある。
 
<会津・米沢街道>
 そんな村道大塩桧原線であるが、その道筋は、明治の初め頃まで福島県の会津地方と山形県の米沢盆地とを結ぶ、ほとんど唯一の幹線路であった。 米沢側からは会津街道、会津側からは米沢街道などとも呼ばれ、ここでは会津・米沢街道と表記している。 会津若松城下と米沢城下の間を桧原峠で越えて結んだ全長約56kmの街道であった。 それが今はこんな寂しい村道になって、その一部が残っている。この道の変遷などについては大塩峠を参照されたい。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<水系>
 峠の西側は阿賀野川(あがのがわ)水系で大塩川の上流域にある。 大塩川は北塩原村と喜多方市との境に位置する高曽根山(1443.2m)の南麓に源を発し、最初、小塩川とも呼ばれて南流、 細野峠から西へ流れ下って来た支流(名前不明)を合わせて名実ともに大塩川本流となり、西から南へと方向を変えつつ、 喜多方市の塩川町で猪苗代湖の排水口となる日橋川(にっぱしがわ)に合流する。日橋川は阿賀川(あががわ)に注ぎ、新潟県に入って阿賀野川と名を変える。
 
 一方、峠の東側も同じ阿賀野川水系となり、会津川の上流部に位置する。峠より流れ下った会津川は、まず桧原湖に注ぐ。 文献(角川日本地名大辞典)などでは、桧原湖は桧原川が会津磐梯山の噴火で堰き止められてできた湖とのことだが、現在、桧原川という川は見当たらない。 桧原湖上流部の北岸付近には、会津川の他に大川入川、長井川(桧原峠を水源とする)、吾妻川、大早稲沢(おおわせざわ)川などが流れ込んでいる。 これらを合わせて桧原川となっていたものと想像する。
 桧原湖より下流は長瀬川8ながせがわ)が複雑な流路で裏磐梯高原を流れ下る。 磐梯山の噴火でこの高原には大小無数の湖沼が誕生していて、長瀬川はその間を縫って南流、最終的には猪苗代湖に注ぐ。 長瀬川は猪苗代湖の流入河川としては最大となるようだ。
 
 猪苗代湖の排水河川は西に流れ下る日橋川で、大塩川の本流でもあった。結局、蘭峠は同じ日橋川水域にあると言えそうだ。

   

<峠名>
 由来などは分からない。ただ、この峠に続く大塩峠は、古くは萱峠(かやとうげ)と呼ばれていた。 峠付近が一面の萱野原だったことに由来すると推測される。蘭は植物のイチイやノビルの古名とのこと。 よって、蘭峠もその付近にイチイやノビルが自生していたのかもしれない。

   
   
   
境橋付近 
   

<境橋>
 大塩峠より北東の桧原集落方面に下って来ると、それまで細かった道幅が広くなると同時に、小塩川の右岸沿いに降り立つ。 道がやや左にカーブしているが、そこを真っ直ぐ対岸の土が露出している辺りへと、かつては「境橋」という橋が架かっていたようだ。 面白いことに地形図や一部の道路地図では、まだその橋が記載されていて、車道は小塩川の左岸へと渡ることになっている。 しかし、現状は橋などもう影も形もなく、立派な2車線路がそのまま小塩川右岸沿いに延びる。
 
<一ノ渡戸>
 この境橋が架かっていた付近は、会津・米沢街道の時代には「一ノ渡戸」とも呼ばれる渡し場があったようだ。 以前は「史跡 一ノ渡戸古戦場」と書かれた標柱が立っていて、その場所を示していたが、今はそれも見られない。


大塩峠から下って来たところ (撮影 2016. 6.13)
この直ぐ先に境橋が架かっていたようだ
   

小塩川右岸沿い (撮影 2016. 6.13)

<峠道の境>
 大塩峠から下って来た道は、その境橋以降は小塩川沿いに遡り始める。よって、ここが大塩峠から蘭峠への接続点、峠道の境と考えられる。
 
<大字の境>
 境橋の名は、そこが北塩原村の大字大塩(以後大塩地区)と大字桧原(以後桧原地区)との大字境となることによるらしい。 境橋より下流側が大塩地区、上流側が桧原地区となる。一般に、分水界や川そのものが行政区域の境となることが多いが、ここの場合は川の途中で境界線が横切る格好だ。 昭和29年(1954年)に北塩原村が誕生する前は、江戸期から続く大塩村と桧原村との村境でもあったろう。 会津・米沢街道の時代から続く由緒ある境界なのかもしれない。

   

<高曽根林道>
 小塩川沿いに蘭峠を目指すと、対岸に如何にも古そうな道がちらりと見える。 今は大塩集落と桧原集落を結んで一本の村道大塩桧原線が通じるが、以前は大塩集落と大塩峠の間が未開通の時期があった。 その時代、大塩峠付近と蘭峠を結んで高曽根林道という車道が通じていた。現在、小塩川左岸に見える車道の痕跡は、その高曽根林道ではないかと思う。


対岸に古い道 (撮影 2016. 6.13)
   

<道の変遷>
 また、古くは一ノ渡戸を渡った会津・米沢街道もそちらに通じていたのではないだろうか。現在、右岸は2車線幅の道路が開削され、広々とした雰囲気だ。 一方、左岸は林に覆われていて険しい地形に見える。しかし、昔は渡河を繰り返してまでも、左岸沿いに道を通した方が都合が良かったのだろう。 少なくとも蛇行する小塩川に対し、道は直線的になって距離的には有利である。 高曽根林道はその旧街道にならって左岸に通じたが、結局、現在の2車線幅の車道は右岸に開削するしかなかったようだ。

   

右手に橋が見える (撮影 2016. 6.13)

<車道の戻りの橋>
 左岸に通じていた車道は300〜400mでまた右岸に戻って来る。そちらの橋は健在だ。欄干などほとんどないコンクリート製の橋が残っている。 車道としては最低限の大きさで、当時の高曽根林道の様子が偲ばれる。通行止の看板などはないが、勿論車で渡る気はしない。渡った先も廃道の様な道だ。 Uターンする場所などなさそうで、無事に帰って来られるか分かったものではない。
 
 林道開通前の会津・米沢街道も、この橋の辺りでまた右岸へと渡河する渡し場があったのだろう。

   
古い車道方向を見る (撮影 2016. 6.13)
   
   
   
中ノ七里 
   

<中ノ七里の一里塚>
 会津・米沢街道が右岸に戻って来ていたことは、その直ぐ後に一里塚跡があることで分かる。橋から先100m余りにある待避所の並びだ。「中ノ七里の一里塚跡」という史蹟の案内看板も立つ。
 
 会津若松城下と米沢城下を結ぶ会津・米沢街道は14里(56km)余りで、7里がほぼ中間点に位置する。その為、「中ノ七里」と呼ばれたようだ。


待避所に並んで一里塚がある (撮影 2016. 6.13)
   

左手に一里塚 (撮影 2016. 6.13)

<一里塚>
 北塩原村にはかつての会津・米沢街道が横断するが、その間に以下の一里塚があったようだ。
・5里目:樟(くぬぎ)
・6里目:八丁壇(はっちょうだん)
・7里目:中ノ七里
・8里目:桧原
・9里目:鷹ノ巣
 この内、桧原の一里塚は桧原湖に沈んでいるが、その他の一里塚は今も保存されているらしい。 

   
中ノ七里の一里塚 (撮影 2016. 6.13)
   

看板の地図 (撮影 2016. 6.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<一里塚の様子>
 通常、一里塚は街道の両側に塚が2基造られる。それぞれ土を盛り上げ、榎などを植えてその根で塚を固めたそうだ。 残念ながら、2基とも残る一里塚は少ない。この中ノ七里の一里塚も、小塩川寄りの1基は車道開削により取り崩されてしまったのだろう。 また、今見られる1基も、保存の為に多くの手が加えられているものと思う。 車道からは邪魔物扱いされ、周囲からは絶えず森が迫り、土を盛っただけの塚は放置すれば自然に帰ってしまう。 中ノ七里に残った1基だけの一里塚は、車道脇に設けられた待避所に並んで、辛うじて保存されているといった姿だ。
 
 以前は「史跡 中の七里一里塚跡」と書かれた大きな標柱が立っていたことが「郷土資料」(休暇村裏磐梯に宿泊の折りに閲覧した書籍)にある。しかし、その写真と今の様子はちょっと異なる。場合によっては、塚は元の場所から少し移されているかもしれない。

   

<一里塚の所在>
 看板によると、住所は「大字桧原字中ノ七里地内」となっている。これで峠道は既に桧原地区に入っていることがはっきりする。
 
<中ノ七里集落>
 看板の説明文には、「ここに、宝永三年(1706年)大塩の「たい小屋」から十三軒が引っ越した」とある。 しかし、一里塚の周囲は小塩川の谷が狭く、住居を設けるには適さない場所だ。一里塚より200m余り遡った所に中ノ七里集落跡がある。 そのことを言っているらしい。道路脇に「史蹟 中ノ七里集落跡」と書かれた標柱が立っている。 その近辺は小塩川の谷は広がり、家屋や耕作地が設けることができそうな土地だ。


看板の説明文 (撮影 2016. 6.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
中ノ七里集落跡 (撮影 2016. 6.13)
   

集落跡 (撮影 2016. 6.13)

<集落跡の様子>
 こちらには標柱だけで説明看板がない。また、沿道には草地が広がるばかりで、既に家屋らしい痕跡もほとんど見られない。
 
<集落の発生>
 「郷土資料」によると、この地が史料に見られるのは「宝永三年(1706年)大塩領大小屋より中ノ七里へ引越十三軒  木地頭興右ェ門(北塩原の木地挽変遷)」が最初とのこと。 ただ、会津藩時代に会津・米沢街道が整備され一里塚が築造された頃から、街道を往来する人の為に助小屋的な施設が設けられた可能性があるともする。 大塩峠(萱峠)にはそうした茶屋があった。

   
集落跡を大塩方向に見る (撮影 2016. 6.13)
   

<集落の位置(余談)>
 中ノ七里集落は大塩宿と桧原宿の間にある。大塩宿から桧原宿まで2里9丁余(約9m)あったそうだ(新編会津風土記)。
 また、大塩宿より八丁壇一里塚まで8丁(約872m)。八丁壇一里塚から中ノ七里一里塚まで1里(約4km)。 中ノ七里一里塚から集落跡までおよそ2丁(約200m)。合計1里10丁(約5km)となる。 残り中ノ七里集落から桧原宿まで1里(4km)弱だ(桧原宿近くにも一里塚があった)。
 中ノ七里集落は会津・米沢街道の真ん中にあるだけでなく、大塩・桧原2つの宿のほぼ中間に位置することにもなる。
 
 中ノ七里は桧原村にあった31の集落の一つだそうで、現在も桧原地区に属す。 しかし、他のほとんどの集落が桧原湖水域にあるのに対し、中ノ七里は桧原湖の水域とはひと山西に越えた大塩川水域にある。 桧原の中心地に出るには蘭峠を越えなければならない。一方、同じ大塩川水域の大塩集落に出るにも、萱峠を越えなければならなかった。 2つの峠に挟まれた地でもあり、なかなか辺ぴである。

   

<道の変遷>
 明治17年(1884年)、大峠を越える道(大峠隧道)が会津若松と米沢を結ぶ新しいルートとなり、桧原峠を越える道は本道の地位を失う。 また明治21年(1888年)の磐梯山噴火で桧原宿が湖底に沈み、道が約1kmに渡って寸断される。 こうした中、中ノ七里集落に通じる道は、会津・米沢街道としての大きな役目は失って行ったと思われる。道を往来する旅人の数もめっきり減ったことだろう。
 
 それでも、第2次大戦後までは桧原地区で生産された木地や木炭などが、この道を通って大塩方面へと運ばれたそうだ。 桧原地区にとって重要な生活路であり続けた。「郷土資料」によると、昭和期の中ノ七里にはまだ穴沢、小椋、遠藤、佐藤の4軒が定住して、畑作や製炭作業等で生計を営んでいたそうだ。
 
 桧原地区と大塩地区を結ぶ車道が開通したのは昭和29年(1954年)のことで、 蘭峠の南に位置する細野峠を越えたのが最初と思われる。 同じ昭和29年3月31日には北山村、大塩村、桧原村が合併して北塩原村が誕生している。 同じ村の桧原地区とその他の地域を結ぶ為にも、車道開通が望まれたのだろう。 この道は後に主要地方道・喜多方北塩原線となり、更に細野峠から取上峠に換線して今の国道459号になっている。
 
 細野峠の車道開通で、萱峠(かやとうげ、後の大塩峠のこと)、 蘭峠と越える旧会津・米沢街道のルートは桧原地区の生活路としての役割も少なくなって行ったと思われる。 ただ、蘭峠の方は中ノ七里集落と桧原地区の中心地とを結ぶ峠道として、ある程度の車道の開削は進んだようだ。 しかし、中ノ七里と大塩集落の間にある萱峠は衰退し、廃道に似たものになったとも言われる。
 
 そんな中、中ノ七里集落に残った4軒の人家もいつしか移転し、昭和40年(1965年)頃には廃村になったと「郷土資料」にある。 一方、中ノ七里一里塚に立つ案内看板では平成19年(2007年)までは人家があったとする。 定住しないまでも、以前の住民が家屋や畑を維持しつつ、時々訪れていたのかもしれない。

   

<村道大塩桧原線の全線開通>
 1989年(平成1年)5月発行のツーリングマップ(東北 2輪車 昭文社)では、まだ大塩集落と萱峠の間で車道が描かれていない。 細々と高曽根林道が中ノ七里付近に通じるだけだ。その後の道路地図では大塩集落から桧原集落まで一本の車道として開通している。 よって、村道大塩桧原線の全線開通は概ね1989年前後と思われる。
 
 また、最後まで未開通で残っていた区間に「八丁壇一里塚」とか「旧米沢街道の松並木」と呼ぶ史蹟があり、 これらは昭和61年(1986年)3月6日に北塩原村指定重要文化財になっている(別の資料では昭和62年(1986年)6月9日指定とも)。 こうした史蹟を維持・管理するには車道の開通は不可欠だったことだろう。よって村道の全通は1986年以前と想像される。 逆に、村道全通を切っ掛けに、その沿道にある史蹟を重要文化財に指定して行ったとも考えられる。史蹟の案内看板も、村道脇に立てられていったであろう。
 
 こうしたことから、村道大塩桧原線の全線開通は昭和の末期(1986年)頃と推測する。ただ、その時にはもう、中ノ七里の集落に居住する者はほとんど居なかったようだ。
 
 現在は、衰退していた萱峠も村道開通で大塩峠と名を変えて復活し、沿道には旧会津・米沢街道の史蹟が随所に残る。 しかし、もっぱら桧原湖北部沿岸に位置する桧原、金山、早稲沢といった小さな集落の住民が、 大塩地区方面との行き来に細々と使う程度の道となっているのではないだろうか。 それも、狭い大塩峠を越えるより、距離は遠いが快適な2車線幅を維持する国道459号に迂回した方が便利かもしれない。 また喜多方市街方面から裏磐梯高原へと続く観光道路しての役割も国道459号が担ってしまっている。桧原湖北部は観光地としての雰囲気はあまり感じない。

   

<墓石>
 中ノ七里集落の北の外れの林の中に墓石が並ぶ。多分、この地に集落らしい集落が誕生したのは、やはり木地師らが集団で住み着いてからのことと思う。 萱峠には元禄八年(1695年)の記銘がある墓石が立っていたそうだ。木地師たちの定住(1706年)とほぼ同じ時期である。 中ノ七里の墓石もその頃から立ち始め、以来、集落や街道の様子を見守って来たのではないだろうか。


集落の外れに墓石が残る (撮影 2016. 6.13)
   
中ノ七里集落方向を振り返る (撮影 2016. 6.13)
もうこの地に人の気配はない
   

小塩川沿いの道 (撮影 2016. 6.13)

<中ノ七里以降>
 小塩川沿いに快適な2車線路が続く。川の流れはほぼ真っ直ぐで、それに沿う道の屈曲も少ない。勾配も緩く、坂道を登って行くという感覚は少ない。道の方向はほぼ峠のある北東を目指す。

   

<物見岩>
 集落跡から800m程行くと、道の左手に「史蹟 物見ノ岩古戦場」と書かれた標柱が立つ。 「郷土資料」によると、文明18年(1486年)、蘆名(あしな)氏が物見岩の文太郎という大男を首領とする山賊6、70人を退治したそうだ。 この山賊伝説は江戸期の会津・米沢街道の時代よりずっと古い。 また、米沢を本拠とする伊達政宗が天正13年(1585年)に蘆名氏の領地へと軍勢を進めたのもこの道であったが、それより100年前となる。 古くからこの地に道が通じていたことをうかがわせる。ただ、標柱が立つ裏手の山を眺めたが、林に覆われていて岩山などは見掛けなかった。


左手に「史蹟 物見ノ岩古戦場」の標柱 (撮影 2016. 6.13)
   
   
   
小塩川左岸へ 
   

小塩川を渡る (撮影 2016. 6.13)

<小塩川を渡る>
 境橋(一ノ渡戸)跡から続く小塩川右岸の道は1.6km程続いて左岸に渡る。物見岩の史蹟の直ぐ先だ。ここより小塩川上流は、北西にそびえる高曽根山に向かって遡って行く。一方、小塩川左岸い入った道は、川筋を離れ、北東の蘭峠へと本格的な登りを開始する。

   

<道の様子>
 峠道らしい勾配と屈曲が始まるが、相変わらず広い道幅を維持し、周囲の木々も切り払われていて、広々とした雰囲気だ。


道の様子 (撮影 2016. 6.13)
   

小塩川林道分岐 (撮影 2016. 6.13)

<小塩川林道>
 屈曲が始まって直ぐ、左手に林道が分岐する。入口に立つ林道標柱には「小塩川林道」とあった。このまま小塩川沿いに遡る林道らしい。この分岐点には地形図上で907mの標高が記されている。
 
 林道入口にはしっかりしたゲートが閉まり、一般車両の通行を禁止していた。 大塩峠、蘭峠と続くこの山間部に通じる村道沿いでは、あまり林業関係の仕事が行われている様子は見られなかった。 こうした作業道となる枝道も少なく、しかもあまり使われている様子がない。この付近の林業も今は盛んではないのかもしれない。

   

林道のゲート (撮影 2016. 6.13)

一般車両通行禁止の看板 (撮影 2016. 6.13)
   

<道の様子>
 沿道には立派な擁壁が見られる。全般的に新しそうな道の様相だ。少し登ると、小塩川の谷が下流方向に望めた。ただ、あまり雄大な景色ではない。

   

道の様子 (撮影 2016. 6.13)
しっかりしたよう擁壁が築かれている

小塩川の谷を下流方向に望む (撮影 2016. 6.13)
   

 大塩峠は車の離合も苦労する狭い道であったのに対し、こちらの蘭峠の道はあまりにも立派で、格段の違いを思える。 古いツーリングマップにあった「江戸時代の米沢街道の名残」など、今はもう微塵も感じない。 大規模な車道改修により、旧街道の痕跡など全く消え失せてしまっているようだった。道は数回の屈曲を繰り返す内、あれよあれよという間に峠に着いてしまった。


道の様子 (撮影 2016. 6.13)
   

道の様子 (撮影 2016. 6.13)
屈曲を繰り返す

道の様子 (撮影 2016. 6.13)
峠直前
   
   
   
 
   
蘭峠 (撮影 2016. 6.13)
桧原集落方向に見る
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<峠の様子>
 峠も正に広々としていて、何だか気が抜けてしまった。こんな寂しい山中に、こんな立派な峠道が通じているのが、とても不思議に思えた。それでいて行き交う車は全く見られない。

   
峠より中ノ七里方向を見る (撮影 2016. 6.13)
   

中ノ七里側より峠を見る (撮影 2016. 6.13)

 峠は非常になだらかな鞍部に位置し、切通しの両側も緩傾斜の擁壁などが築かれ、路肩の草木の伐採も行き届いている。峠の上空がとても広い。ただ、中ノ七里方向、桧原集落方向共にあまり遠望はない。

   

<旧峠の痕跡>
 峠のどこかに旧跡などがないものか、石碑の一つも立っていないかと探すが、一向に見付からない。この峠は大塩川水域と桧原湖水域との分水界に位置するが、どことの境にもなっていないので、看板類も全く見ない。殺風景そのものだ。
 
<峠の標柱>
 以前は、これまでの史蹟にもあったように、白地に黒文字で「旧跡 蘭峠 跡」と書かれた標柱が立っていたらしい。 峠の北側、中ノ七里方向に見て右側の林の中辺りだ。しかし、草木が生い茂っているせいか、そのような標柱は見られなかった(下の写真)。 まあしかし、その付近が旧峠だろうと、納得するしかなかった。


桧原集落側より峠を見る (撮影 2016. 6.13)
   
この付近が旧峠か (撮影 2016. 6.13)
   

 この峠は中ノ七里の住民にとって集落と桧原の中心地とを結ぶ生命線であった。比較的早い時期(村道全通前)に車道が通じたことと思う。 しかし、当初からこのように大規模な峠道が通じたとは考えられない。以前はもう少し旧会津・米沢街道の面影を残す林道のような道だったのではないだろうか。 その後に改修が進み、現在のような姿になったことと思う。

   

峠より桧原集落方向を見る (撮影 2016. 6.13)

<峠の標高>
 峠は高曽根山(1443.2m)から発して小塩川の左岸に連なり、南の八森山(1149.7m)へと続く尾根上に位置する。現在の峠が通じる鞍部は950mの等高線をやや下回り、峠の標高は約945mと読める。
 
 蘭峠に関しては、文献などにも記述がほとんど見られず、現地に立つ案内看板が頼りである。 大塩集落近くに立つ「会津・米沢街道と大塩宿」と題した看板に、辛うじて蘭峠の標高を見付けた(下の写真)。 それには963mとあった。この後に寄った桧原歴史館にもほぼ同じ看板が出ていた。

   

 この963mという数値は、現在のような広い車道が開削される前の、古い峠の標高かと思った。しかし、今の地形図を眺める限り、それでも950mを遥かに越えていたとようには見えない。963mは測定した年代が古い数値であろうか。
 
 他には道路地図などによって840mとか890m、940mといった値が見られた。


大塩集落近くに立つ会津・米沢街道の看板 (撮影 2016. 6.13)
   
看板の地図 (撮影 2016. 6.13)
蘭峠の標高は963mとなっている
   

<標高差(余談)>
 境橋付近の標高は830mで峠の中ノ七里側の標高差は115mとなる。また桧原湖畔の桧原集落は825mで桧原集落側標高差は120mとなる。 ほぼ同程度の上り下りとなっている。これを見ても小さな峠である。
 
 尚、看板には湖底に沈んだ桧原宿の標高は800mとある。蘭峠の峠道のかつての終点は、その桧原宿であり、峠との標高差は約145mと今より大きくなる。

   
   
   
峠より桧原集落側へ 
   

<道の様子>
 峠の桧原集落側にも同じような道が下る。屈曲は中ノ七里側より幾分少ないくらいだ。カーブでデコボコに曲がった焦げ茶色のガードレールが目に付いた。 これまでほとんどワイヤーを張ったガードだったので、やや珍しい。積雪による破損であろうか。いくら立派な道でも、冬期の通行は厳しいものがあるのだろう。


焦げ茶色のガードレール (撮影 2016. 6.13)
   

道路脇より峠方向を見る (撮影 2016. 6.13)

<旧道?>
 S字を描いて下る道の途中、峠に真っ直ぐ向かう旧道の様な道筋が路傍に見られた。その程度で、他にはやはり旧街道の面影は残っていない様子だった。

   

<会津川左岸沿い>
 峠から数100m余りも下ると、もう会津川の左岸沿いになり、道は安定する。方向はほぼ真っ直ぐ桧原集落へと向く。


会津川左岸沿い (撮影 2016. 6.13)
   

道の様子 (撮影 2016. 6.13)

<道の様子>
 峠との標高差があまりないのもあって、視界は全く広がらない。会津川に並んで林の中を進む。特に目に付く物もない。

   

<左岸へ>
 桧原集落に入る少し手前で、道は会津川を右岸へと渡る。橋の手前には、「これより集落内 徐行願います」の注意看板が立つ。


会津川右岸へ渡る (撮影 2016. 6.13)
   
   
   
桧原集落へ 
   

桧原集落手前 (撮影 2016. 6.13)

<桧原集落へ>
 右岸に入ると一時期道幅がやや狭くなる。間もなく道は桧原集落の西の外れに至る。

   

<集落の様子>
 桧原集落は、会津川右岸に一本真っ直ぐな道が通じ、その両側に500mくらいの長さに渡って細長く人家が並ぶ。会津川の谷は桧原湖岸に達するまでも、それ程広くはならない。よって広々とした水田などは見られない。
 
 元々、桧原集落は今の桧原湖の湖底にあった。磐梯山の噴火では、土石流の被害こそ免れたが、堰き止められた川が一日で増水し、転居を余儀なくされたようだ。その折の移転先となったのが、現在の桧原集落の位置となる。集落として必ずしも好立地ではない。


集落内へ (撮影 2016. 6.13)
   
集落の様子 (撮影 2016. 6.13)
桧原湖方向に見る
   

左に旧道? (撮影 2016. 6.13)

<旧街道の道筋>
 集落の半ば頃、左に細い道が分岐する。後で分かったことだが、旧会津・米沢街道はそちらのコースを行き、再び会津川の左岸へと渡って行ったようだ。
 
 現在の本線は、その分岐後、支流の細い川を渡り、尚も会津川右岸を最後まで行く。集落内は概ねセンターラインがある2車線幅が確保され、走り易い道となっている。会津・米沢街道の桧原宿であった頃と異なり、広い車道を通して新しい集落を築いて行ったのであろう。

   

<集落内を行く>
 道は静かな佇まいの集落の中を行く。穏やかな峠道のフィナーレである。路傍に五輪塔などが見える。観光目的の派手な構えの店屋などはなさそうだ。 蕎麦屋が一軒あったろうか。桧原郵便局が比較的大きな建物となっている。 他にも人家とはちょっと異なるクラッシックな構えの建屋が見られたが、何の建物であろうか。


五輪塔が並ぶ (撮影 2016. 6.13)
   

この先県道に出る (撮影 2016. 6.13)
この先右手に郵便局が出て来る

県道に出る直前 (撮影 2016. 6.13)
右手にクラシックな建物
   

<県道64号に接続>
 蘭峠を越えて来た現在の峠道は、桧原湖の西岸に通じる県道(主要地方道)64号・会津若松裏磐梯線にT字で接続して終わる。角にはバス待合所の建屋が立つ。バス停の名前は「湖望の湯前」であった。境橋跡より約4.3kmの道程となる。

   

県道に接続 (撮影 2016. 6.13)
左手にバス停

バス停 (撮影 2016. 6.13)
   
県道より峠方向を見る (撮影 2016. 6.13)
   

県道より上流方向を見る (撮影 2016. 6.13)
左に峠道が分岐

<分岐の様子>
 桧原湖の北部は、裏磐梯高原の中心的な観光地からは少し離れている。峠道から出た県道にもあまり車の通行を見ない。

   

<湖岸への道>
 峠道とは反対側に、湖岸へと進む道が延びる。その先の湖底には旧桧原集落が沈む。この付近にはその集落へと続いていた道があった筈だが、その痕跡だろうかと思った。


桧原湖岸へ進む道 (撮影 2016. 6.13)
   

県道脇の案内看板 (撮影 2016. 6.13)

<案内看板>
 分岐近くの県道脇の桧原湖を望む所に、「裏磐梯地域案内」の看板が設けられていた。観光地らしさを感じさせるのは、この看板くらいだろうか。
 
 南北に細長い桧原湖は、南岸付近は観光船の発着所や近くに観光施設が多くあり、賑やかな所である。一方、北岸一帯は静かな湖となっている。 以前より、渇水期に湖底から鳥居が姿を現すと聞いていて、何だか神秘的な湖だと思ってきた。 看板の説明文によると、その鳥居とは桧原宿にあった大山衹神社のことだったようだ。 今回訪れた時は、桧原湖は満々と水をたたえ、鳥居は全く見えそうになく、残念であった。

   
看板の説明文 (撮影 2016. 6.13)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
   
   
桧原ふれあい広場へ 
   

<会津川橋>
 県道を上流側に進むと、直ぐに会津川を渡る。橋の欄干には「会津川橋」と銘板が掛かっていた。橋を過ぎた先で、鋭角に桧原集落方向に戻る道が分岐する。


県道が会津川を渡る (撮影 2016. 6.13)
   
左が県道 (撮影 2016. 6.13)
右は桧原ふれあい広場へ
   

案内看板 (撮影 2016. 6.13)

<桧原ふれあい広場へ>
 分岐する道の方向に「ふれあい温泉 湖望」とか「桧原ふれあい広場」と案内看板が立つ。ちょっと立ち寄ることとする。

   

 道に入ると、この付近一帯を治めていた穴沢氏関係の史蹟や、墓石が点在する。五輪塔なども並ぶ。


穴沢氏関係の史蹟 (撮影 2016. 6.13)
   
桧原五輪の塔など (撮影 2016. 6.13)
   

ふれあい広場 (撮影 2016. 6.13)
桧原湖方向に見る

<桧原ふれあい広場>
 会津川左岸の一角に、ちょっとした園地が設けられ、石碑などが立ち並んでいた。

   

<大衆浴場>
 会津川左岸の上流方向には、「大衆浴場」と大書された温泉が立っていた。「桧原ふれあい温泉 湖望」ともあった。バス停はこの温泉の名前であった。


大衆浴場 (撮影 2016. 6.13)
   

桧原宿跡の看板 (撮影 2016. 6.13)

<看板>
 園地には「桧原宿跡」の看板が立ち、いろいろ参考になる。

   

看板の地図 (撮影 2016. 6.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<旧街道>
 看板の地図では、旧街道を赤い点線で示しているようだった。それによれば、やはり会津川の左岸から湖底の桧原宿へと続いていたようだ。大衆浴場やふれあい広場付近を通っていたのだろう。

   

<桧原宿>
 桧原宿は51戸もの集落であったが、磐梯山噴火に伴い、現在の桧原集落などに慌ただしく移転したことがうかがえる。ふれあい広場に隣接して立つ五輪塔なども、湖底から移築したようだ。


看板の説明文 (撮影 2016. 6.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

桟橋 (撮影 2016. 6.13)

<湖底への旧街道>
 会津川左岸側から湖底へと続く旧街道の痕跡がないかと探すが、湖岸を通る県道が発達していて、岸辺にそのような物は確認できなかった。ただ、近くに小さな桟橋が設けられているだけだった。

   
   
   
桧原歴史館(余談)
   

<金山の桧原歴史館へ>
 県道沿いの看板に「ぜひ 桧原歴史館へ」とあったのでそちらに向かう。途中、学校のような建物の前を過ぎるが、「桧原小・中学校へき地集会室」とあった。湖の北岸を通る道は寂しい。暫く行くと、金山(かなやま)の集落の端に取り付き、直ぐにも桧原歴史館は見付かった。

   

県道64号を金山へ (撮影 2016. 6.13)
寂しい道が続く
 
県道標識には 早稲沢 3km とある
北岸付近には桧原、金山、早稲沢の3集落が点在する

県道標識 (撮影 2016. 6.13)
   

<桧原歴史館前>
 県道沿いには「桧原歴史館前」のバス停が立つ。その辺りから桧原湖が一望できる。旧会津・米沢街道は、現在の桧原集落を過ぎ、湖底の桧原宿に至った後は、桧原峠を目指してこのバス停の前辺りを横切って長井川沿いの金山集落へと続いていたようだ。


桧原歴史館前 (撮影 2016. 6.13)
桧原集落方向を望む
   
桧原湖の桧原集落方向を望む (撮影 2016. 6.13)
この目前の湖水の下に会津・米沢街道が通っていたようだ
   

湖越しに桧原集落を望む (撮影 2016. 6.13)

<桧原集落遠望>
 桧原歴史館前から桧原集落方向を望むと、湖面越しに山間に佇む桧原集落が見通せた。小さな集落に思えた。

   

 現在の静かな湖面を望んでいると、この下に集落があったことなどなかなか想像できない。会津・米沢街道がまだまだ使われるような時期に湖底に沈んだので、さぞかし旧宿場町の様子を留めていたことだろう。


長井川河口方向を望む (撮影 2016. 6.13)
   

桧原歴史館 (撮影 2016. 6.13)

<桧原歴史館>
 桧原歴史館はラーメン店と併設だった。「会津山塩ラーメン」と書かれた旗がひらめく。ちょっと入り難い。店員に食べますかと聞かれ、歴史館見学ですと答える。

   

 桧原歴史館は確か協力金100円を払って入った。館内は写真撮影禁止で、いろいろ見たり読んだりしたが全て忘れてしまった。結局、店の前に立つ看板を写しただけのことだった。
 
 余談だが、米沢街道の説明で、寛永4年(1650年)に大峠が廃止されたとあるが、寛永4年は1627年である。誤記だろう。
 この時、桧原峠が本街道になった。その後、明治17年(1884年)に大峠隧道が開通してからは、大峠が新しい米沢街道となっている。それでも桧原峠が本街道だった期間は257年と長い。その間、蘭峠も萱峠(現在の大塩峠)も現役の峠道であった。


桧原歴史館前に立つ案内看板 (撮影 2016. 6.13)
   

看板の説明文 (撮影 2016. 6.13)

看板の説明文 (撮影 2016. 6.13)
   

桧原宿の地図 (撮影 2016. 6.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

 往時の桧原宿の地図があったが、やや損傷していて、文字があまり読めなかった。西の蘭峠から下って来た道は、宿場町の中を通り、東の外れで北に折れ、桧原峠に向かったようだ。

   

 バス停に路線バスが止まったが、乗客は一人も居なかった。それでも、桧原湖北岸にあって、この桧原歴史館付近だけは、やや観光地の雰囲気が漂っていた。 賑やかな観光地より、この程度の方が落ち着けていい。次は金山集落に寄り、かつての桧原峠への登り口の様子でも見て来ようと思う。 そちらも一般の観光客とは全く縁がない場所だ。


桧原歴史館前の様子 (撮影 2016. 6.13)
   

桧原歴史館の玄関の様子 (撮影 2016. 6.13)
ラーメン店は午後3時が閉店で
若い女性店員は片付けを始めたらしい

桧原歴史館入口 (撮影 2016. 6.13)
開館中と貼り紙があるが、ちょっと入り難い雰囲気
   
   
   

 大塩峠に比べると、旧遭いぢ・米沢街道の道筋はほとんど残らず、快適なばかりの峠道だった。それでも中ノ七里の一里塚や集落跡の史蹟を目にし、高曽根林道の痕跡なども眺め、それなりに道の歴史を感じさせる、蘭峠であった。

   
   
   

<走行日>
・2016. 6.13 大塩 → 桧原 ハスラーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典  7 福島県 昭和56年 3月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・福島県広域道路地図 24 1996年 7月発行 人文社
・マックスマップル 東北道路地図 2011年2版13刷発行 昭文社
・郷土資料(名前は失念、休暇村裏磐梯で閲覧)
・その他、一般の道路地図など
 
<参考動画(Youtube)>
蘭峠/大塩方面
 境橋跡から蘭峠までのドラレコ動画(2倍速)です。
蘭峠/桧原方面
 蘭峠から桧原集落までのドラレコ動画(3倍速)です。
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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