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伊賀越
  いがごえ  (峠と旅 No.258)
  芭蕉も越えた伊勢と伊賀を繋ぐ峠道
  (掲載 2016. 5.24  最終峠走行 2015.10.12)
   
   
   
伊賀越 (撮影 2015.10.12)
手前は三重県津市(旧安芸郡芸濃町)芸濃町河内
奥は同県伊賀市(旧阿山郡大山田村)上阿波
道は県道(主要地方道)42号・津芸濃大山田線
峠の標高は507m (県別マップル道路地図 24 三重県より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
峠前後は暗い切通しで眺望は全くない
この時は津市側が通行止で、わざわざ伊賀市に回ってこの暗いばかりの峠を訪れた
 
 
 
   

<伊賀越>
 名前の通り、旧国名である伊賀の地へと通じる峠道である。現在は伊賀市という大きな市が誕生しているが、ちょっと前までその中心地は上野市であった。 今でも伊賀という地名からは忍者を連想し、戦国などの古い時代を思い起こさせられる。その名を持った伊賀越だから、さぞかし味わい深い峠だろうと期待する。
 
 最初、津市側から登ると途中で道は通行止となり、峠まで至らなかった。それでもどうにか伊賀市側から回り込み、いろいろ苦労の末、峠に辿り着くことはできた。 伊賀越の現状はみすぼらし車道が辛うじて通じる峠だった。峠の津市側峠下に点在する集落も過疎化が進んでいる様子だ。 何だか時代の片隅に追いやられたような峠道であった。

   

<所在>
 峠の東側は三重県津市で旧安芸郡(あげぐん)芸濃町(げいのうちょう)となる。大字では芸濃町河内(こうち)と呼ぶ。
 峠の西側は三重県伊賀市で旧阿山郡(あやまぐん)大山田村(おおやまだむら)で、大字では上阿波(かみあわ)となる。
 どちらも今は三重県の内だが、旧国名では東が伊勢、西が伊賀の国であった。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<立地/布引山地>
 当峠は鈴鹿山脈に続いて南北に連なる布引(ぬのびき)山地に位置する。広く伊勢湾に面した伊勢平野と近江・伊賀・大和の地を分かつ山々である。 布引山地は笠取山(842m)を最高峰とし、南北約30kmに及ぶ。その名は、遠くから見た山地形が布を引いたようであることに由来するとか。 鈴鹿山脈に比べると標高は低く、山稜も比較的穏やかで、山地の一部は布引高原とか青山高原と呼ばれる。

   

<布引山地の峠>
 北の加太越(かぶとごえ)で鈴鹿山脈と接し、南は桜峠付近で室生山地とか高見山地と呼ばれる山並みに続く。 ちなみに、布引山地を越える主な峠とそこに通じる現在の車道を列記すると次のようになる。
・加太越:国道25号 (309m)
・蝙蝠峠:県道668号 (500m)
・伊賀越:県道(主)42号 (507m)
・長野峠:国道163号の新長野トンネル (峠は496m)
・青山峠:国道165号の青山トンネル (峠は約500m)
・塩見峠:車道なし (約600m)
・布引峠:県道(主)29号 (約590m)
・桜峠 :県道(主)39号 (580m)
 旧東海道でもある加太越を除けば、山地のほぼ中央に位置する青山峠が、南伊勢と伊賀・大和を結ぶ交通路として最も利用されたようだ。今回の伊賀越は布引山地の中では北の方に位置する。

   

<伊賀越と長野峠>
 現在の伊賀越に通じる車道がやや置き去りの状態にされているのは、その直ぐ南隣で越える長野峠との関係が大きく影響しているのではないかと思う。 峠の津市側はそれぞれ完全に独立した峠道が通じているが、伊賀市側に入って直ぐ、2つの峠道は一本に合わさってしまっている。 伊賀越に通じる県道(主要地方道)42号も長野峠に通じる国道163号も、どちらも三重県の県庁所在地・津市を東の起点とするが、 津市街から峠までは国道163号の方がやや直線的で距離も短い。一方、県道42号は北に大きく迂回して峠に至る。 また、長野峠には古く明治期からトンネルが開削されている。津市と伊賀市(旧上野市街)との間を行き来するのに、わざわざ険しい伊賀越を選ぶ者は居ない。 誰しも快適な国道163号で長野峠(トンネル)を越えて行く。しかも、最近になって長野峠には新長野トンネルも開通している。 その側ら、伊賀越の車道は通行止の憂き目にも遭っている。

   

<水系>
 布引山地の稜線より東側に流れる川は、鈴鹿川水系、安濃川(あのうがわ)水系、雲出川(くもずがわ)水系に分かれる。どの川も伊勢湾へと流れ下る。 伊賀越は安濃川水系に属し、しかも安濃川本流の最上流部に位置する。 一方、長野峠から南にある峠は全て雲出川水系で、長野峠は雲出川の比較的下流側の支流・長野川の上流部に位置する。また、蝙蝠峠以北は鈴鹿川水系だ。 伊賀越はひとりで安濃川水系をしょって立っている。その点、長野峠より少し格が上のような気がする。
 
 一方、布引山地の西側は全て淀川水系だ。伊賀越からは服部川が流れ下り、木津川・淀川を経て大阪湾に注ぐ。 尚、長野峠も服部川水域にあるが、服部川の支流(名は不明)の上流部である。それに対し、伊賀越は服部川本流の最上流部に位置する。車道の良さでは負けたが、地形的には長野峠に勝る伊賀越であった。

   
   
   
津市街より 
   

<津市(余談)>
 昨日は山梨の自宅を発って、夕方津市に入り、津駅前のホテルに投宿した。津市内はこれまでも何度か泊まったり立寄ったりしている。 東京方面から車で来ると、この津市辺りが1日で走れる丁度良い距離にある。 また、津市を過ぎて更に紀伊半島を南下すると、安いビジネスホテルなどがある大きな都市が少ない。その点、県庁所在地でもある大都市の津市街なら宿に不自由はしない。
 
 ホテルの部屋では翌日の旅のルートを検討する。いつもながら行き当たりばったりの旅である。 地図を眺めていると、長野峠は走ったことがあるが、その北の伊賀越はまだである。当面はその峠を旅の目的とする。相変わらず下調べなどは全くなく、ただただ地図を頼りに峠道を辿ることになる。

   

安濃川に架かる安濃津橋より (撮影 2015.10.12)
河口方向を望む

<安濃川>
 翌日は、少し市内を見学する。ついでだからと、その伊賀越から流れ下る安濃川の河口を見て来ようかと思ったが、 最下流に架かる安濃津橋を渡っただけで、止めてしまった。安濃川は正に津市街の中心地を流れ、安濃津橋は津駅にもほど近い。 同じく市街を流れる志登茂川という川もあるが、そちらの水源は布引山地の稜線より手前にある。一方、安濃川は正に布引山地の稜線より流れ下る。
 その後は津城址公園などを散策する。藤堂高虎の像を眺める。

   

<県道42号へ>
 津市街からほぼ安濃川沿いに伊賀越の峠に続くのは県道(主要地方道)42号・津芸濃大山田線となる。 旧津市から始まり、旧芸濃町を通り、旧大山田村に至るという名だ。それにしても見事に安濃川沿い一筋に通じた道となっている。地形に逆らわない県道の設定といえる。 よって、県道番号42を見逃さなければ、峠道から外れる心配はない。
 丁度、その県道は津城跡の近くの交差点「三重会館前」で国道23号から分岐して始まっていた。 ちなみに、宿敵の長野峠の国道163号も、僅か500m足らず南より同じこの津市街を発っている。それぞれ異なる道筋を辿り、違う峠を越えるが、伊賀市側に下ると一緒になる峠道だ。


県道42号を行く (撮影 2015.10.12)
市内の広々とした道
   

鉄路をくぐる (撮影 2015.10.12)

<市内を行く(暫く余談)>
 市内を西へ向かう県道42号は、暫くは片側2車線の広い道だ。間もなく紀勢本線と名鉄名古屋線の高架をくぐる。 いつまで片側2車線が確保されているか分からないので、おとなしく左側車線を進む。県道118号と交差する。この辺りから県道42号ははっきり安濃川右岸沿いになる。

   

<安東大橋>
 安濃川は適宜蛇行するが、県道の方は国道23号から真っ直ぐ延びて来ている。道は安濃川を安東大橋で渡って左岸へ出る。橋上より安濃川上流方向を眺めてみるが、布引山地はまだ遠く、高い山並みは確認できない。

   

安東大橋 (撮影 2015.10.12)

安東大橋より上流方向を眺める (撮影 2015.10.12)
高い山はまだまだ遠い
   

<中勢バイパス>
 津市街を通る国道23号とは別に、郊外に中勢バイパスが通じている。立体交差だ。道路看板に示された県道42号の行先は峠より手前の「安濃」とある。峠の先の大山田にはなっていないのがミソである。伊賀越は推奨されていない。

   

国道23号中勢バイパスをくぐる (撮影 2015.10.12)

中勢バイパスの看板 (撮影 2015.10.12)
   

<伊勢自動車道>
 それまで先行していた大型バスが右にそれて行った。伊勢自動車道の津ICに入るようだ。ここまでの立派な県道42号は、津市街と津ICとを結ぶ大きな役割があった。


伊勢自動車道の手前 (撮影 2015.10.12)
   

伊勢自動車道をくぐる (撮影 2015.10.12)

<伊勢自動車道以降>
 IC分岐を過ぎると県道42号は1車線となる。その先伊勢自動車道をくぐり、道の交通量はやや減少した。それでも、上下線共にそれなりの数の車が行き交う。早くのんびりした峠道にならないかと思う。

   
   
   
安濃川沿い(まだ余談) 
   

<安濃川左岸沿い>
 伊勢自動車道を過ぎた500mくらい先から、それまで真っ直ぐだった道が大きく曲がりだす。従順に安濃川の流れに沿うようになったのだ。道の左手に川の気配がするのだが、林が多くてなかなか川の様子までは分からない。道はやや北方向を目指す。
 
<安東町>
 県道標識には「津市 安東町」と出て来た。この先道は旧安濃町に入り、峠の手前は旧安芸郡芸濃町だ。「安東」、「安濃」、「芸濃」、「安芸」と似た地名が多く、どこかで間違えそうだ。
 
<安濃付近>
 古いツーリングマップ(関西 2輪車 ツーリングマップ1989年7月発行昭文社)を見ると、以前の一般県道だった頃の道は安濃川にしっかり沿っていた。 最近の主要地方道になってからは一部改良され、一時期川沿いを離れる箇所がある。左手の川が見えないなと思った頃、旧安濃町に入ることとなる。安濃川の名が付く町だった。


安濃川沿い (撮影 2015.10.12)
川は林で見えない
   

<県道653号分岐>
 県道がY字路に差し掛かる。左に県道653号が分岐する。そちらに旧安濃町の町役場があった。道路看板はY字路を示しているが、実際は十字路だ。 左手前に分かれる細い道がある。そちらが川沿いに進んで来た旧県道である。県道のこの後の行先は「芸濃」とか「安濃ダム」となって来た。

   

県道653号分岐 (撮影 2015.10.12)

分岐の看板 (撮影 2015.10.12)
   

安濃川を望む (撮影 2015.10.12)

<県道653号分岐以降>
 また安濃川沿いになる。伊勢平野の勢いはまだ続いていて、周囲には安濃川を中心に、広い水田地帯が広がる。安濃川の川面も少し望めるようになった。その向こうには山並みが見える。布引山地である。
 
 嬉しいことに交通量は激減した。ただ、丁度大きなタンクローリー車が1台先行し、やや視界が悪い。距離を置いて走る。

   

<芸濃町へ>
 649号やら410号といった大きな数値の県道と交差する。その後は旧芸濃町内に入る。例のタンクローリーは「名阪道」と看板にある分岐を右に折れて行った。 名阪国道は西名阪道天理ICと伊勢道亀山ICとを繋ぐ無料の自動車専用道だ。輸送コスト削減には有効であろう。丁度先月そこを走っている。
 
<主要地方道28号交差>
 もう、前を行く車も、後ろから迫って来る車も、一台もない。我一人の天下である。のんびり走る。
 主要な分岐としては最後になる主要地方道28号との交差点を過ぎる。看板の行先は、「安濃ダム」が残った。その付近から道は西へと進路を変える。布引山地が前方に横たわる。

   

主要地方道28号交差 (撮影 2015.10.12)

分岐の看板 (撮影 2015.10.12)
   

<安濃川右岸へ>
 久しぶりに安濃川の右岸へ多門橋という橋で渡る。その先、沿道に人家が見える。多門と呼ばれる集落のようだ。

 
安濃川を渡る (撮影 2015.10.12)
   

<多門橋以降>
 多門橋を渡った後は、道はやや安濃川沿いを離れ、のどかな田んぼの中を行く。比較的真っ直ぐに通した快適な道である。すると、ロードバイクを3台ほど見掛けた。 1台は上り方向、2台は下り方向で、それぞれ単独走行の様子だった。この快適で交通量の少ない道を使って、トレーニングしているのだろうか。 あるいは、伊賀越とはヒルクライムのメッカかと思ったりしたが、その後の峠直下の道は、全くそんな様子はなかった。


暫く川沿いを離れる (撮影 2015.10.12)
   
   
   
車線減少 
   

<とある交差点>
 やっとその時が来た。津市街から遥々15kmの快適な県道が続いて来たが、とある信号機のある交差点の先を見ると、道幅が半減している。 その向こうには布引山地の山が伊勢平野の端から立ち上がろうとしている。やっと楽しい峠の旅が始まりそうだ。今までは単なる序章に過ぎなかった。 ここから話を始めても良さそうなものだが、繁華な津市街からここまでの景色の移ろいもまた旅の楽しみである。

   
この先、道幅が半減する (撮影 2015.10.12)
   

交差点角に看板 (撮影 2015.10.12)

<通行止の看板>
 その交差点は名前は分からないが、手持ちの道路地図では直ぐ手前に「学校前」というバス停が立つことになっている。ちょっと古い道路地図では、交差点を左に少し進むと雲林院(うじい)と呼ばれる小学校があった。現在の地図には記載がない。
 
 車など全く来そうにないのんびりした交差点だが、赤信号なのでぼんやり信号待ちしていると、交差点角に不審な看板が立っているのに気付いた。 一つは「注意 この先(峠付近)大型車3t以上通行できません」とある。それはいい。険しい峠道はこちらとしても望むところである。

   

 問題なのはもう一つの立て看板だ。どうやら「津芸濃大山田線は大山田方面には通り抜けできません」と書かれているようだが、何だか貼紙が重ねてあって、よく読めない。その内信号が変わってしまった。仕方なく前に進む。

   

分岐に立つ看板 (撮影 2015.10.12)

分岐に立つ看板 (撮影 2015.10.12)
   

<狭い道>
 腑に落ちぬまま、狭い道に入り込むと、こんな時に限って対向車が来る。丁度路上に軽トラが駐車してあって、尚更離合が難しい。 細い道が分岐する角に車を停めて軽自動車一台をやり過ごすと、続いて前方の家陰から大きなバスが現れた。仕方ないからそのバスにも道を譲る。 暫し車を停めていた直ぐ脇から分かれていた細い道は、何と県道であった。669という大きな番号が示されていた。


対向にバスが来る (撮影 2015.10.12)
   

市場の集落 (撮影 2015.10.12)

<市場>
 道は芸濃町雲林院(うじい)の中を行く。ちょっとした集落内を過ぎる。市場という集落のようだ。沿道に人家が密集し、狭い道が軒先をかすめるようにして通じている。これ程人家が身近に感じられるのは、ここまでの県道にはあまりなかったことだ。

   

<林の中>
 市場集落の人家を過ぎると、道は一時期寂しい林の中を行く。多門橋以降、安濃川沿いから少し離れていたが、この林を抜けてまた川沿いに向かっているのだ。 ちょっとした峠越えのようでもある。峠方向から下って来たやや大型のオンロードバイク2台とすれ違う。この先にある安濃ダム周辺は意外と大きな観光地だろうかと想像した。


林の中 (撮影 2015.10.12)
   
   
   
安濃川左岸へ 
   

県道は右に曲がって安濃川を渡る (撮影 2015.10.12)

<再び安濃川沿い>
 林を抜けると道は直ぐにも安濃川沿いで、川を渡って右に道が分かれる。何の看板もないが、直進方向から来る道はこの分岐で一旦停止となっている。道の様子からしても、右に曲がって川を渡るのが本線のようだ。「錫杖湖水荘」という案内看板も右折方向を示している。
 
 古いツールングマップでは、この分岐をそのまま右岸沿いに直進する方が県道になっていた。左岸沿いの道が改修され、そちらにルート変更されたようだ。

   

<河内渓谷>
 多分、瀬野(せのう)橋という橋で安濃川左岸へ渡る。するとその先の十字路の角に、芸濃町の観光案内の看板などが立つ。駐車場の案内などもあり、近くにある長徳寺前駐車場を利用するようにと指示されている。また「河内渓谷」と看板も立つ。
 
 安濃川の上流部は河内(こうち)川とも呼ばれるようだ。瀬野橋が架かる付近がその渓谷となっているらしい。 観光案内の看板には紅葉のマークがあるので、秋の季節が見頃なのだろう。また、道路地図には「門前が淵」という見どころも記されている。 長徳寺の門前にある淵ということだろう。他にも長徳寺の龍王桜が紹介されている。


安濃川を渡る (撮影 2015.10.12)
   
観光案内の看板など (撮影 2015.10.12)
左端に「河内渓谷」の看板
   
観光案内の 看板 (撮影 2015.10.12)
地図は右が北
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<柚之木越林道>
 ここまでの県道にはこうした観光案内などはほとんど見られなかった。この付近だけ、ちょっとした観光地の雰囲気がある。ただ、関心があるのは案内図の上の方に書かれた「柚ノ木越林道」である。
 
 先程の看板からすると、どうやら伊賀越は越えられない可能性がある。その場合、延々と引き換え返して来るのも能がない。 どこか他へ抜けられる道がないかと考えたのだ。柚ノ木越林道は安濃川水域と北の加太川水域(鈴鹿川水系)を分かつ尾根を越える峠道である。 道路地図にもその林道の峠ではないが、近くに「柚之木峠」と書かれている。そこが越えられないかと思う。

   

<安濃川左岸>
 長徳寺前を過ぎて先へ進む。県道のルート変更があっただけあり、安濃川左岸沿いはセンターラインがある2車線路となっていた。道はいいが、沿道に人家は見られない。安濃川は渓谷らしく急な蛇行を開始する。道もそれに沿って大きくカーブする。
 
<河内>
 左岸沿いの途中から道は芸濃町河内(こうち)の領域に入る。河内は旧芸濃町の西側半分以上を占め、安濃川上流域に広がる。「河内」の名の由来は水源となる各河川に囲まれている当地の地形に因むそうだ。河内という地名は他でもしばしば目にし、河川の上流域に多いようだ。
 
<ダム下への分岐>
 快適な道が右岸に戻ると左手より旧県道が合して来る。その先直ぐ右に分岐がある。安濃ダムの真下へと通じる道だ。多分、ダムができる前からの道筋は、安濃川右岸沿いにダム下方向へと続いていたのだろう。そちらには河内の最初の集落・梅ヶ畑がちらりと見える。

   
右に安濃ダム下への道が分岐 (撮影 2015.10.12)
その奥に人家の屋根が見える
   

<9つの集落>
 文献(角川日本地名大辞典)によると河内地区には9つの集落があるようで、次の集落名が記されていた。
 @梅ヶ畑
 A宝並
 B杖立
 C下ノ垣内(かいと)
 D落合
 E北畑
 F南ノ垣内
 G六呂屋
 H覚(がく)ヶ野
 この内のいくつかの集落はこれからの県道沿いに目にすることとなる。

   

<安濃ダムへ>
 梅ヶ畑集落への分岐を過ぎると、道は安濃ダム堰堤へと登り始める。直ぐに支流の宝並川を渡る。宝並集落はその川の少し上流部に位置するようで、県道からは集落の様子はうかがえない。
 
 宝並トンネルを抜けると右に分岐があり、そちらに進むとダム堰堤上に出る。ちょっと一休み。


宝並トンネル (撮影 2015.10.12)
   

<錫杖湖>
 安濃川本流を安濃ダムによって堰き止められてできたダム湖は錫杖湖(しゃくじょうこ)と呼ぶ。 ダム湖の北西、亀山市との境に錫杖ヶ岳(676m)があり、そこから採った名であろうか。錫杖とは僧侶などが持ち歩く杖のことで、錫杖を持った地蔵の石仏を見ることも多い。
 
<梅ヶ畑集落を望む>
 ダム堰堤から下流側を望むと、安濃川右岸沿いに一かたまりの集落が望める(下の写真)。それが梅ヶ畑集落だと思う。河内地区の中では中心的な集落であろうが、規模は小さい。

   

ダム下流を望む (撮影 2015.10.12)

梅ヶ畑集落を望む (撮影 2015.10.12)
   

錫杖湖を眺める (撮影 2015.10.12)

<杖立集落>
 梅ヶ畑、宝並と続いて次に来るのは杖立集落だが、今はその人家は見られない。文献によると錫杖湖に水没したそうだ。 ちょっとした立地の差から、梅ヶ畑は今に残り、杖立は湖面の下となってしまった。ところで、杖立の「杖」とは錫杖のことだろうか。 錫杖ヶ岳から河内地区に流れ下る川は、杖立集落よし少し上流部で安濃川に注いでいる。何か錫杖にまつわる由来があるのかもしれない。

   
   
   
安濃ダム湖畔 
   

<ダム湖右岸>
 ダム堰堤脇以降、県道はダム湖右岸に快適な道として続く。ダム開発に伴い、このように道が改良されるのはよく目にすることだ。大きな橋やトンネルが通じている。 ロードバイクや散策している人も見掛ける。途中、キャンプ場などの案内看板を目にする。この湖岸部分は、風光明媚な観光地然としている。


湖岸の快適な道路 (撮影 2015.10.12)
   

<湖水荘付近>
 ダム湖上流部には赤い橋が架かっている。その橋の袂近くにこれまで案内看板が立っていた錫杖湖水荘がある。食堂などを営むようだ。
 
 店に並んだ木陰に二宮尊徳の像がひっそり立つ。多分、その奥が小学校跡地であろう。この地点に人家は見られないが、古いツーリングマップではここを指して「杖立」と記されていた。杖立集落の一部として、ここに小学校があったのではないだろうか。文献にも杖立に河内小学校があると記されている。

   
湖水荘付近 (撮影 2015.10.12)
左手の建物が湖水荘
右手奥に赤い橋・杖立橋が架かる
   

成覚寺とか落合の郷とはどこか (撮影 2015.10.12)

<通行止>
 湖水荘の前を通過する時、何かいろいろ看板が立っているようだった。店に隣接する駐車場は遠慮して、橋の袂に一般車が使える観光用の駐車場があったので、そこに車を置き、歩いてしげしげと眺める。
 
 どこかは正確には分からないが、途中の「成覚寺」とか「落合の郷」までは行けるとある。しかし、その看板の先に無情にも通行止の看板も立っている(下の写真)。詳しい通行止の内容な全く記されていないが、やはり伊賀越は越えられない模様だ。

   
「この先 通行止」の看板が立つ (撮影 2015.10.12)
電信柱の向こうに二宮尊徳の像
   

<ふれあい公園>
 古いツーリングマップにはまだ赤い橋はなかった。杖立橋と呼ぶようだ。 橋の袂は錫杖湖に少し突き出た半島のようになっていて、今ではそこが「ふれあい公園」として整備されている。テニスコートや長い滑り台などがある。錫杖湖に沈んだ杖立集落だったが、今はここが憩いの場所として再生されたようだった。

錫杖湖周辺の案内図 (撮影 2015.10.12)
駐車場の脇に立つ
地図は下が北
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
   
   
ダム湖以降 
   

<ダム湖より上流へ>
 のんびりとふれあい公園周辺を散策するのもよさそうだが、この先の峠越えをどうするかが目下の課題だ。伊賀越は越えられない可能性が極めて高い事態になったが、その場合でも柚之木峠という手が残っている。取りあえず、柚之木峠への分岐くらいまでは行ってみようと決める。
 
 ふれあい公園の先は、また安濃川右岸沿いに道が通じる。貯砂堰堤の工事を行っていた。道はまだ快適な2車線路が続く。
 
<下ノ垣内(かいと)>
 600m余り進むと、対岸に渡る橋が架かっていた。赤い杖立橋に続く下ノ垣内橋である。対岸にある下ノ垣内集落へと渡る古くから架かる橋だろう。 尚、垣内は「かいと」と読むらしい。
 暫く進むと林が途切れて下ノ垣内集落が望めた(下の写真)。集落の上流側にはもう一本、出店橋と呼ぶ橋が架かる。こうした小さな橋の名はふれあい公園の案内看板から知ったものだ。

   
安濃川右岸を行く (撮影 2015.10.12)
対岸に下ノ垣内集落を見る
前方に出店橋が架かる
   

道幅が狭くなった (撮影 2015.10.12)
前方に落合橋

<狭路に>
 道は川筋にならって南を向き始める。津市街から一路北に回り込んできた県道だったが、ダム湖上流側に位置する下ノ垣内集落付近からやっと南を目指す。
 
 出店橋を過ぎると、その先で道幅が急に狭くなる。安濃ダム建設に伴い改良された快走路もここまでだ。その先は、古くからある道の様相である。ガードレールも途切れた。

   

<落合橋を渡る>
 直ぐに小さな橋を渡る。安濃川左岸へと架かる落合橋だ。渡った先はほぼY字に道が分かれる。左の安濃川本流左岸沿いが本線である。 右は支流の我賀浦川(あるいは北畑川)右岸沿いの道だ。「落合」の名は、この2つの川が落ち合う地点であることを意味するのだろう。 この「落合」も日本の各地でよく目にする地名である。尚、寺院を除く河内の全世帯は落合姓だと文献にある。


落合橋を渡る (撮影 2015.10.12)
   
落合橋の先 (撮影 2015.10.12)
道は二股に分かれる
右手に県道方向を示す看板が立つ
   

<落合橋付近>
 落合橋は侘しい。赤い鉄パイプの欄干も危うげだ。津市街から幾度か安濃川を渡って来たが、この小さな落合橋を渡ると、いよいよ安濃川もその奥地に至ったと実感する。 道の様子も寂しく、橋の袂のY字路には一応県道方向を示す看板が立っているが、もう県道とは名ばかりである。

   

峠方向から落合橋分岐を見る (撮影 2015.10.12)

落合橋を下流方向に見る (撮影 2015.10.12)
   

<落合集落>
 安濃川本流と支流に挟まれた三角州に落合の集落が広がる。比較的平坦地が多い。ただ、人家より駐車場などになっている敷地が目立つ。 杖立の集落は残念ながら湖に沈んでしまったが、その他の集落も過疎化が進んでいるとのこと。この落合集落も以前はもっと人家があったのかもしれない。

   
落合集落付近 (撮影 2015.10.12)
柚之木峠方向を見る
   

<柚之木峠への道>
 支流の我賀浦川(あるいは北畑川)沿いに「落合の郷」があった。親水公園などがあるようだ。そこを訪れている客の車だろうか、隣接する駐車場はなかなか賑わっていた。
 
 支流沿いに進む道に成覚寺がある。近世以降、河内にも平家谷伝承が生まれ、平維盛(これもり)の墓と称するものがその寺にあるそうだ。 その先北畑の集落を過ぎ、更にその奥を柚之木峠が越えていることになる。今のところ通行止の看板は見当たらない。後でこの道を進むことになるかもしれない。


ここが落合の郷 (撮影 2015.10.12)
   
   
   
落合以降 
   

コンクリートブロックが並ぶ (撮影 2015.10.12)

<落合以降>
 落合橋を後にした県道の脇には、折しも沢山のコンクリートブロックが積まれていた。大規模な護岸工事でも予定されているのだろうか。
 
 そのブロックの奥の方に大きな屋根が望めた。成覚寺だろう。

   

<道の様子>
 支流を分けた先の安濃川の谷はいよいよ狭まり、川に沿って一筋の狭い道が通じる。車を運転する緊張感が一気に高まる。峠道を旅しているという実感が沸いて来た。落合以降が本格的な峠の旅であろう。それなら、ここから話を始めれば良さそうなものだが・・・。


落合集落の人家前を過ぎる (撮影 2015.10.12)
   
安濃川上流側から落合集落方向を見る (撮影 2015.10.12)
   

安濃川の川面を眺める (撮影 2015.10.12)

<落合以降の安濃川左岸>
 落合集落の外れに立つ人家の前を過ぎてから、暫く沿道には建物を見ない。しかし、この先、まだ3つの集落があることになっている。  
 安濃川の川面は直ぐそこに眺められる。川底には大小の石がゴロゴロしている。川は屈曲し、狭い谷の眺めは全く広がらない。
 

   

<小川内神社>
 林の中を抜け、少し道幅が広くなった路肩に車が一台停まっていた(下の写真)。近くに人家は見られなが、代わりに停められた車の脇から石段が林の中に登って行く。 地図には小川内神社と書かれていた。神主が詰めているのだろうか。
 その先に「降雨時通行注意」の看板が立つ。川底が近いので、大雨の時は濁流を目の前にすることになるのだろう。

   
右の車は駐車されているもの (撮影 2015.10.12)
正面に「降雨時通行注意」の看板
   
   
   
南ノ垣内以降 
   

<南ノ垣内>
 落合橋から1.4km程でまた安濃川を渡り返す。その橋の前後に建物が見られた。南ノ垣内(南之垣内)集落のようだ。橋の名も南垣内橋と呼ぶらしい。しかし、人家は数える程である。2、3軒だろうか。

   
この先で安濃川を渡る (撮影 2015.10.12)
   

<右岸へ>
 橋を渡った正面には、石垣を積んだ敷地が幾つか見られ、かつては他にも人家が立っていたのではないかと想像された。しかし、今は建屋らしい建屋はほとんどない。周囲の林が南ノ垣内集落を押し包むように迫って来ているかのようだった。


安濃川を渡る (撮影 2015.10.12)
   

右岸を行く (撮影 2015.10.12)
沿道に少し家屋が立つ

<南ノ垣内以降の右岸沿い>
 南ノ垣内集落内の橋を渡ると、川筋はやや西を向く。川幅はまた少し狭まったようだ。道は右岸沿いになり、まだ少し家屋が並ぶ。しかし、板戸は閉じられ、人の気配はない。対岸に大きな瓦屋根が見える。南ノ垣内集落にある澄源寺という寺のようだ。

   

<コンクリート舗装>
 ここに至って遂にコンクリート舗装も現れる。アスファルト舗装に比べると、やはり険しい感じを受ける。

   
コンクリート舗装の道 (撮影 2015.10.12)
   

<六呂屋>
 次の六呂屋集落は南ノ垣内からは直ぐである。数100mで対岸のやや高台に人家が並ぶのが見えてくる。丁度、安濃川がくの字に曲がる所で、新しそうな護岸が集落を守っていた。
 
 一見、穏やかそうな集落に見えるが、この山深い地にあって、安濃川の狭い谷に位置する閉ざされた空間ともいえる。集落の営みは厳しい面もあることだろう。豪雨などの時は生命の危険さえも感じることがあるかもしれない。


対岸に六呂屋集落を望む (撮影 2015.10.12)
護岸が新しい
   

峠方向から六呂屋集落を見る (撮影 2015.10.12)
集落に渡る橋が架かる

<集落への橋>
 対岸の集落へはどう行くのかと思っていると、その先に一本の橋が架かっていた。これが六呂屋集落の生活路であり、生命線でもあろう。

   
   
   
最終の覚ヶ野集落へ 
   

<左岸へ>
 道はまた安濃川を渡る。布引山地の稜線から東へと流れ下って来た支流の杣谷川が合流する付近だ。一方、安濃川本流はほぼ真南よりこの地点へと流れて来ている。
 
 橋を渡ると道が2方に分かれる。左の本線は本流の左岸沿いに行く。一方、右の道は未舗装路で、杣谷川沿いに布引山地の奥深くまで遡るようだ。車道としては稜線を越えていないが、山道が伊賀市へと続くらしい。


また安濃川を渡る (撮影 2015.10.12)
   

<人家>
 橋の手前に人家が見られた。六呂屋集落の一部だろうか。あるいはこの先の覚ヶ野(がくがの)に属すのだろうか。人の気配はあまりしないが、手入れは行われている。橋を渡った分岐の角にも建屋が見られ、今でも人の手が加えられている様子だ。

   

道が二手に分れる (撮影 2015.10.12)
左が本線

橋の袂に一軒の人家 (撮影 2015.10.12)
下流方向に見る
   

<覚ヶ野へ>
 道は川にならって南を向く。左岸に入ってからは沿道に建屋が散見された。多分、覚(がく)ヶ野という集落は一箇所にかたまっているのではなく、沿道の長い範囲に人家が点在して形成されているのだろう。

   
荒々しい川の様子 (撮影 2015.10.12)
   

沿道の様子 (撮影 2015.10.12)

 安濃ダム湖畔のふれあい広場辺りからは、既に3km以上も安濃川を遡って来ている。交通の便としても不自由なことだろう。それでも古くは伊賀越の道であ る。伊賀上野が生誕の地となる松尾芭蕉も、故郷を目の前にしてこの峠道を急いだかもしれない。ダム湖畔沿いに通じる2車線路などとは違って、多くの旅人が 歩んだ歴史が刻まれる道と言える。

   

沿道の様子 (撮影 2015.10.12)

沿道の様子 (撮影 2015.10.12)
下流方向に見る
   
   
   
通行止箇所へ 
   

<広い敷地の人家>
 小刻みに蛇行する安濃川の岸辺に、比較的広い敷地を有する一軒の人家の前を過ぎる。ここが今の覚ヶ野集落の端である。

   
左手に大きな屋敷 (撮影 2015.10.12)
   

<通行止箇所>
 その先、道はまた安濃川を渡ろうとするが、その橋の前で通行止であった。崖崩れなどの通行止の理由に関する説明はなく、通行止期間の掲示もない。ただただ、通れない。伊賀越は恒久的な通行止なのだろうかと懸念された。峠まで残すところ約3.3kmの地点であった。

   
通行止箇所 (撮影 2015.10.12)
   

 これで伊賀越が越えられないことは確定された。こんな場合、行き当たりばったりの旅は都合がいい。 今夜の宿もまだ決めていないので、旅の目的地はいくらでも変更ができる。それでも、迂回路がないこうした峠道が通れないとなると、大きな方向転換を余儀なくされる。 これからの旅程を組み直すのが大変だ。取りあえず、柚之木峠を目指すとする。そちらの峠は無事に越えられるといいのだが。

   
   
   
伊賀市側から峠へ 
   

<国道163号へ>
 旅程変更をいろいろ考えたが、伊賀越はどうにも気になった。峠を一目この目で見てみたい。 また、新長野トンネルが開通した後の長野峠(旧トンネル)もどうなったか気に掛かる。そこで無事に通れた柚之木峠から更に蝙蝠峠で布引山地を伊賀側に越え、国道163号で長野峠方向を目指す。
 
<上阿波>
 蝙蝠峠から伊賀側に下る道は県道668号・関大山田線で、国道163号への接続点は旧阿山郡大山田村(現伊賀市)の大字上阿波(かみあわ)となる。 国道に入って東の峠方向に向かう。背後には上野盆地を中心とする伊賀上野の市街地がある。どういう訳か2000年、2001年、2002年と3年続いて市内に泊まっている。 芭蕉や伊賀忍者などのゆかりの地で、観光地としての見所は多い。今回の旅では寄らなかった。
 上阿波には平松、子延(ねのび)、上阿波の3集落があるそうで、国道沿いには平松辺りの集落が広がる。 

   
国道163号を長野峠方向に見る (撮影 2015.10.12)
平松付近の集落内を行く
   

<伊賀街道>
 現在の国道163号の津市街と伊賀上野市街を結ぶ道は、江戸期の伊賀街道と呼ばれる。 藤堂高虎の本城が津に、支城(城代)が伊賀上野にあり、その藩領内を長野峠を越えて藤堂藩の者が盛んに行き来した。
 この街道には伊勢側に長野・片田、伊賀側に平田・平松の4宿があったそうだ。沿道の家並みも、何となく宿場町の雰囲気がする。
 
<服部川>
 峠より西の伊賀街道は服部川に沿って伊賀上野市街に至る。「服部」と言えば忍者の服部半蔵を連想する。 服部川はその後木津川に合し、淀川を経て大阪湾に注ぐ。よって淀川水系である。1級河川。安濃川がそれで一つの水系を成すが、2級河川である。 布引山地より東の伊勢側に下る川は急流だが、河川長が短いまま伊勢湾に注ぐ。一方、西側の淀川水系の川は、流長が長く、比較的ゆったりしている。 伊賀越や長野峠は伊勢湾と大阪湾の分水界で、紀伊半島の付根付近を東西に分けている存在だ。

   

<高良城林道分岐(余談)>
 集落の人家がまばらになった頃、服部川支流の高良城(こうろぎ、こおろぎ)川沿いに高良城林道が分岐する。 布引山地の稜線上に駆け登り、主峰笠取山付近を通るスカイラインの道へと続く。看板の行先に青山高原などとある。やや険しい鈴鹿山脈などと違い、布引山地では稜線に沿った車道が開削されている。

   

青山高原分岐 (撮影 2015.10.12)
峠方向に見る

分岐の看板 (撮影 2015.10.12)
   

 分岐に立つ看板には「津 25Km」、「上野 21Km」とある。合計46Km。かつての伊賀街道は全長45.3kmとのことで、新長野トンネルが開通してもそれ程距離には変わりないようだ。

   

分岐の看板 (撮影 2015.10.12)
伊賀上野市街方向に見る

青山高原分岐 (撮影 2015.10.12)
高良城橋を渡った左
   

<主要地方道津上野線(余談)>
 今の国道163号の津市〜旧上野市間の前身は、三重県主要地方道7号・津上野線であった。古いツーリングマップ(1989年7月発)にはその道が描かれている。 国道に編入されたのは1993年だそうだ。初めて長野トンネルを越えたのはまだ主要地方道の時代だったと思うが、もう記憶がはっきりしない。
 その主要地方道は、津市街では今の伊賀越の県道42号のルートを取っていた。三重会館前交差点を起点に、津ICまで直進、そこから西へと分岐していた。 以前の旅の道筋を覚えて置く為にも、古いツーリングマップは捨てられない。
 国道163号は服部川の開けた谷を峠に向けて穏やかに登って行く。険しさなどは皆無である。徐々に人家が途切れて行く。


そろそろ人家が途切れる (撮影 2015.10.12)
   
   
   
旧道分岐 
   

新長野トンネル手前 (撮影 2015.10.12)
左に旧道分岐

<旧道分岐>
 伊賀越を通る県道42号は長野トンネルに登る国道163号の途中から分岐していた。ところが、長野峠には新長野トンネルが完成してしまっている。よって、県道42号に入るには、まず国道163号の旧道に入るような形となる。
 
 新トンネル坑口の100m手前でその旧道が左に分岐する。分岐角に上野市街方向に見る看板が立つが、「ようこそ 伊賀の国」とあるだけだ。蝙蝠峠でも同じ看板を見掛けた。肝心な県道42号を示す看板は、分岐とは反対側にポツリと立っている。ほとんど目立たない存在だ。

   

小さな県道看板が立つ (撮影 2015.10.12)

分岐の様子 (撮影 2015.10.12)
旧道側から見る
看板には「ようこそ 伊賀の国」とある
   

<旧国道へ>
 国道163号の旧道、今は県道42号の一部になっているのかもしれないが、元から2車線路だったので、道は広い。しかし、この時は入って直ぐにゲートで通行止だった。道の半分がバリケードで塞がれている。

   

半分のゲート (撮影 2015.10.12)

ゲートを奥から見る (撮影 2015.10.12)
伊賀越方面より下って来た所
   

停まっているミキサー車の脇を通る (撮影 2015.10.12)

<バリケードの先へ>
 バリケードの前でどうしたものかと迷っていると、コンクリートミキサー車がゲートを避けて先へ進んで行った。ならばと我々も進む。 しかし、その工事車両は直ぐ先で停止していた。不審に思いながらも我々は更に先へと進む。しかし、それがうかつだった。後でちょっと厄介な目に遭った。

   
   
   
猿蓑塚 
   

<猿蓑塚>
 旧道に入って200m行くと、広い路肩の奥が石積みになり、その上に石碑があった。 その時はあまり関心がなく、ただ写真を撮って置いただけだが、ここは芭蕉の句碑が立つ所で、「猿蓑塚」として知られた史跡だったようだ。  
 文献にも「不動橋から下ること300mの県道沿いのヒノキ林の中に」その石碑があると書かれていた。不動橋はこの先に出て来る。写真を見ると正面の四角い石碑に確かに「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」と刻まれていた。


猿蓑塚 (撮影 2015.10.12)
   

猿蓑塚の石碑 (撮影 2015.10.12)
左の三角形の石が元の石碑だった
正面の四角い石碑は後世の物

<旧道沿いの石碑>
 ところが文献で言うその石碑とは三角の自然石とのこと。しかも、「旧道沿い」にあると文献は記す。文献の発行時にはまだ新長野トンネルはなく、この「旧道」がどういうことか分からなかった。
 
 長野峠は日本百名峠(井出孫六編)の一つである。その本の長野峠の項にも「猿蓑塚」について記述があり、掲載された1枚の写真は「猿蓑塚」を写したものだった。 しかし、現在の様子とは全く異なる。車道の直ぐ脇に看板と小さな石柱が立つばかりで、石碑などは見当たらない。 本文には「草の荒れた細道を少し上がると」大きな三角形の自然石の石碑があったそうだ。周囲は「ヒノキ」ではなく「杉の木立」とのこと。

   

<伊賀街道の旧道>
 どうやら「旧道」とは車道が通じる前の山道のことだったらしい。 現在の状況は、車道の路肩を数m奥に通っていた旧道の位置まで切り開き、石垣を積んで旧道沿いに建っていた三角形の自然石が見えるようにしたようだ。 その石碑に刻まれた碑文がかすれたかどうかして、代わりに四角い新しい石碑を建てたのだろう。正面に鎮座する新しい石碑にばかり目が行って、実はその左隣にある武骨な三角の岩の方が重要だったのだ。
 
<コミュニティ広場>
 現在の猿蓑塚の場所は大山田村によって造られたコミュニティ広場とのこと。一角に「伊賀街道」と書かれた道標なども立つ。 この広場によって旧道の位置が露わになった。正に三角形の自然石の脇に芭蕉も歩いた伊賀街道の旧道が通じていた訳である。 その石碑の前後の杉木立の中をよく調べれば、旧道の痕跡がもっと見られたかもしれない。


伊賀街道の道標 (撮影 2015.10.12)
   

道の様子 (撮影 2015.10.12)
県道42号へと続く旧国道区間

<猿蓑塚以降>
 かつての長野トンネルはその坑口が既に塞がれ、旧峠はもう通行できる状態ではない。 本来、猿蓑塚の前を通る旧国道は寂れても仕方ないところだが、伊賀越の県道42号へと続く区間であることから、一応道路の体裁は保たれている。しかし、どことなく詫びしい雰囲気が感じられるのは否めない。
 
<養鱒場>
 道は服部川右岸沿いに遡って行く。文献(日本百名峠)では猿蓑塚近くに「猿蓑塚養鱒場があり、マス釣りが楽しめる」とあるが、沿道にはそのような施設は見られない。 ただ、川とは反対の林の中に入る狭い道があり、その奥に何か建屋のような物がありそうだった。ただ、マス釣りの案内看板などはない。猿蓑塚といいマス釣り場といい、「日本百名峠」の初版が出された昭和57年(1982年)当時に比べても、峠道の変遷はいろいろある。

   
   
   
伊賀越への分岐 
   

<県道42号分岐>
 旧国道に入ってから600m、左にその分岐はある。文献ではここと猿蓑塚の間は300mとあったが、実際の車道沿いには400mである。 もしかすると、林の中を抜けていた伊賀街道の旧道の道程では300m程だったのかもしれない。 今の車道は蛇行する服部川に沿い湾曲に通じるが、そこを旧街道の山道は直線的に通じていたのだろうかなどと、余計な詮索をしてしまう。
 
<分岐の様子>
 元の国道163号の方はそのまま2車線路が長野トンネルへ向けて進む。一方、以前はこの分岐を起点としていた県道42号は、1.5車線幅もないような寂しい道である。


この先左に県道42号が分岐 (撮影 2015.10.12)
右手は服部川
伊賀街道の旧道はこの左手の林に通じていたのかもしれない
   
左に県道42号の分岐 (撮影 2015.10.12)
左が伊賀越、右が旧国道を長野峠へ
   

<分岐の看板など>
 県道方向には42番を示す県道標識が立つ。ついでに「津方面への通り抜け不可」と大きく赤書きされている。工事看板には
 「お願い ご迷惑おかけしております
 工事中 ご協力お願いいたします」
とか
 「ご迷惑をおかけします
 山の予防をしています
 平成28年1月6日まで」
などとある。訪れたのは平成27年(2015年)10月のことで、その翌年(今年)の1月中旬頃からは、伊賀越は再び通れたのかもしれない。 全くタイミングの悪い時に訪れてしまったようだ。伊賀越が恒久的な通行止などではなかったのはよいが、私が再び訪れる機会はもうないだろう。

   
県道看板など (撮影 2015.10.12)
右手に進む旧国道は不動橋を渡って行く
   

<不動橋>
 県道を分けた旧国道163号は、直ぐに短い橋を渡る。2車線幅の車道としては最小限の道幅しかなく、古そうなコンクリートの低い欄干が設けられている。 これが不動橋だ。長野トンネルは昭和14年の完成だが、それと同時期に架けられたのではないかと思う。 長野トンネルは高さ5.1m、幅5.5mと当時としては比較的大きなトンネルで、当初から2車線幅を有する広い道路ではなかったかと思う。 不動橋も辛うじてそれに見合った大きさの物が建設されたのだろう。
 
 文献では不動橋は長野峠の西方約1kmとあるが、確かに長野トンネル伊賀側坑口から車道沿いに丁度1kmの地点に架かる。ただ、峠やトンネルからはほぼ真北に位置する。
 
 不動橋は服部川本流を渡る。この橋以降、長野峠の道は南へ方向転換し、服部川支流(名前不明)沿いに遡る。一方、伊賀越は服部川本流のより上流部へと北東方向に登って行く。不動橋はこの2つの峠道の大きな分岐点となる。
 
<箕谷(余談)>
 尚、県道42号の終点の名は「大字上阿波字箕谷」とのこと。長野峠方向から流れ下る支流は「箕谷」というのではないだろうか。

   

<伊賀越え>
 古くから広い意味で伊賀の国へと越える峠道を「伊賀越え」と呼んだようだ。長野峠や加太越(え)がその峠道となるらしい。 それらの峠の間に位置する今回の伊賀越も「伊賀越え」の峠道の一つ見てよいものと思う。広い意味での「伊賀越え」と区別する為、峠の方は「伊賀越峠」などと記す場合もあるようだ。

   

<長野峠との比較>
 伊賀越も長野峠もその背後に伊賀上野の地を控える同じ「伊賀越え」の道ではあるが、不動橋から先の方向が全く違う。
 
 長野峠を越える伊賀街道は、江戸期に移封された藤堂高虎の本城がある伊勢の津であり、現在の三重県の県庁所在地にもなっている。また、伊勢神宮方面にも近く、伊賀側からは伊勢街道とも呼ばれた。
 
 一方、伊賀越も安濃川沿いに津市街へ至るが、長野峠に比べ遠回りである。 しかし、旧芸濃町の椋本(むくもと)付近から安濃川沿いを離れ、北へと向かえば亀山(亀山市)や関(旧関町、現亀山市)に近い。 亀山・関と言えば、江戸期の大幹線路・東海道の46番目と47番目の宿場町である。よって、伊賀越は東海道と伊賀上野を結ぶ峠道とも言える。文献にも「江戸期、伊賀国や大和国から東海道に至る重要街道であった」と記されている。
 
 ただ、ちょっと考えてみると、加太越の方が関と伊賀上野を最短で結んでいる。峠の標高も加太越(309m)の方が伊賀越(507m)より低い。 長野峠を越える伊賀街道が出水の為通行不能になった時、津城の殿様は加太越回りで往還されたという記録があるようだ。何故か伊賀越を利用していない。
 
 明治期以降の近代においては、早々と明治19年には初期の長野トンネルが開削されているので、車道としても長野峠の方が優っていたのではないだろうか。昭和14年の長野トンネル、平成20年の新長野トンネルと続き、長野峠の地位は不動だ。

   

<松尾芭蕉と伊賀越え>
 文献では「奥の細道」の旅を終えた俳人芭蕉は何回となく「伊賀越え」をしているとある。 伊賀越の峠に関した項に記されているので、当然、この「伊賀越え」とは峠を指している。 ところが「日本百名峠」では、伊勢参りの後、久居(ひさい、旧久居市、現津市)から長野峠を越えたとある。多分そちらが正しいのだろう。 伊勢神宮方向からだと伊賀越より長野峠の道の方が手前に位置する。「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」の句も、芭蕉が長野峠から下って来た時に詠んだもののようであった。この点でも伊賀越は立場がない。
 
 文献では、「伊賀越え」を広い意味での伊賀へ続く峠道というところを、「伊賀越え」という名の峠と混同したのではないだろうか。 ただ、伊賀上野を故郷とする松尾芭蕉である。その周辺に通じるいろいろな伊賀越えの道を歩いたことだろう。 このページの表題に「芭蕉も越えた」と書いてしまったが、東海道方面との行き来には芭蕉も伊賀越も越えたことがあったかもしれない。

   
   
   
県道42号を峠へ 
   

県道方向を見る (撮影 2015.10.12)
工事用車両出入口とある

<工事用車両出入口>
 不動橋袂より県道42号に入る。入口に「工事用車両出入口」と大きく看板があるのがちょっと気に掛かる。道は直ぐに暗い林の中に入った。両側に杉の木が林立し、尚更狭い道に感じる。
 
<対向車(余談)>
 100mも進まない所で、林の中から突然道幅一杯のミキサー車が目の前に出現した。逃げ場など全くない。 直ぐにバックすると、路面から少し下って僅かな茂みがある。枯れ枝などが堆積しているが、咄嗟にそこに車を突っ込む。小型の軽自動車がギリギリ避けられるだけのスペースだ。

   

<余談の続き>
 すれ違いざま、工事車両の運転手は、この先抜けられないよと声を掛けて行った。それは重々承知である。伊賀越を一目見たいのである。峠は必ずしも越えるだけのものではい。峠が目的地の場合もあるのである。まあ、そんな事情を理解してくれる人は、世の中には少ないが。
 
 さて、茂みからバックで抜け出そうとすると、案の定、出られない。草や枯れ枝でふかふかの地面だ。 タイヤは空しく空転するばかりで車はピクリとも動かない。しかし、それもこれも織り込み済みである。直ぐにレバー操作で4輪駆動に入れる。 すると難なく脱出できた。4輪駆動は偉大である。これまで何度もその偉大さを実感して来ている私なのであった。


ミキサー車が下って来た (撮影 2015.10.12)
   

<4輪駆動(余談)>
 その時の車は三菱のパジェロ・ミニであった。しかし、既にこの車種は販売されていない。 こんな芸当ができるのは、もうスズキのジムニー以外にないのではないかと思う。舗装化が進んだ今の日本の道で、積雪時を除けば、4輪駆動が必要な場面などほとんどない。 しかし、峠の旅をしていると今回のようにほんの一瞬、活躍する時がある。しかも、4輪駆動が使えるかどうかは致命的だ。 茂みから抜け出せなければ、それこそレッカー車を呼んだりして、大変な騒ぎになる。
 また、大型の4WD車では、そもそも退避場所となるスペースが見付からず、延々とバックすることになっただろう。 林道などで大型の対向車に出くわすと、いつも私の方が狭い路肩に退避している。やはり小さな軽自動車がいい。
 そこで、去年からはスズキのハスラーに乗っている。フルタイム4WDとのことだったが、どうも以前乗っていたキャミなどとは機構が全く異なるらしい。今度ハスラーで対向車に出会った時、茂みに突っ込んでいいかどうか、何だかとても不安である。

   

狭い道が続く (撮影 2015.10.12)
服部川左岸沿い

<道の様子>
 その後も狭い舗装路が続く。旧国道163号上でミキサー車が退避していたのもうなづける。大型車の離合など全く不可能な道なのだ。 工事車両どうして連絡を取り合い、離合のタイミングを図っていたのだった。これで暫くは工事車両は来ないと思うが、気がきではない。

   
   
   
県道42号 
   

<道の様子>
 道は一度服部川左岸沿いに入るが、暫くしてまた右岸へ渡り返す。後は峠直前までほぼ右岸沿いだ。
 
 服部川には時折支流の流れが注ぎ込む。そうした沢沿いに道が分かれる。ほとんどが作業道のような荒れた道で、ゲートが設けられていることが多い。


左右に道が分岐 (撮影 2015.10.12)
   

道の様子 (撮影 2015.10.12)

<道程>
 旧国道163号の分岐から峠まで約2kmと、伊賀市側の道程はそれ程長くない。この区間だけが狭小の道だ。一方、津市側は落合橋以降、峠までの約6km間、ずっと狭い道のようだ。
 
 ただ、伊賀市側はいつまた工事車両が現れるかと、急かされて仕方がない。どこかに工事個所があるだろうと思ったが、県道42号の本線沿いにはそれらしい場所が見られなかった。多分、どこかの支流沿いの作業道に入った先で工事が行われているのだろう。

   

道の様子 (撮影 2015.10.12)

道の様子 (撮影 2015.10.12)
   

<川沿いから外れる>
 峠の手前数100mくらいで道は服部川左岸に渡り、それからは川沿いを離れて行く。川の源流は北の方にあり、峠は東の方向だ。相変わらず視界の広がらない狭い道が続くが、それでもやはり少し雰囲気が違って来る。僅かだが空が広い気がする。
 
<地形>
 布引山地も鈴鹿山脈と同じように、稜線より東の伊勢平野側は始め急な斜面が一気に下り、その先広い平野部へと続くという特徴を有す。 一方、西側は穏やかな丘陵地が長々と下る。 鈴鹿山脈では武平峠を挙げたが、上のような典型的な地形を示す。 伊賀越は残念ながら東の津市側を経験していないが、少なくとも西の伊賀市側の道は穏やかだ。つづら折りなどの急坂・急カーブはほとんど見られない。峠の直ぐ近くまで服部川本流に沿い、急な山腹をよじ登るというような場面がほとんどない。


道の様子 (撮影 2015.10.12)
川沿いから外れた後
   

右に分岐 (撮影 2015.10.12)
ゲートで通行止

<分岐(余談)>
 峠の約50m手前で比較的大きな分岐が右にある。それまで幾つかあった作業道のように荒れた道ではなく、ちょっと見は舗装もされている。 ただ、車道だけでなく、周辺の敷地もしっかりフェンスで囲われている。立入禁止の看板が掛かるだけで、この先、何があるのかは分からない。 地図上では伊賀越から南に続く稜線近くへと道が延びている。電波塔が立つようだが、その管理用道路だろうか。あるいは何か大きな施設があるのかもしれなかった。

   
   
   
 
   

<峠に着く>
 津市側が通行止で走れなかったので、伊賀市側から伊賀越に辿り着いた時は、ちょっとした感動があった。やはり峠道の頂上となる峠は、特別な場所に思える。

   
伊賀市側より峠を見る (撮影 2015.10.12)
   

<峠の様子>
 峠は暗い林の中である。感動した割には何もない。浅い切通しで、路面こそ古そうな舗装路だが、道の両側の斜面は土や木の根が露出したままだ。 車道としては最小限の土木工事で済ませたといった感じである。 あとは電信柱と「倒木注意」の看板と、ここが市境であることを示す「津市」、「伊賀市」2つの看板が背を向けて立つばかりだ。
 
 峠の伊賀市側は、道が下ると直ぐに林が途切れ、明るい場所に出て道がカーブして行く。一方、津市側は暫く暗い道が直線的に下る。僅かだがコンクリート擁壁が設けられていた。やや地形が険しいか。峠前後に広い路肩など全くなく、車を一時的に停めるのも不便である。


峠より伊賀市側を見る (撮影 2015.10.12)
   
峠 (撮影 2015.10.12)
奥が津市、手前が伊賀市
   

峠より伊賀市側を見る (撮影 2015.10.12)

<昔の峠>
 車道としては極めて質素であるが、その分、車道が通じる前の昔の峠の様子を色濃く残しているのではないだろうか。 ここは正しく布引山地を越える鞍部にあり、この稜線上の南北数kmに於いて、この鞍部より低い箇所はない。 この地点を古くからの峠道が越えていたことは間違いないと思う。車道開通時に僅かに切通しを掘り下げた程度ではないだろうか。

   

<標高>
 文献には500mとあったが、地形図では峠を伊賀市側に下った最初のカーブ辺りに500mと記されている。峠はもっと高い。
 県別マップル道路地図(24 三重県 1998年 7月 発行 昭文社)では、巻末の拡大図に507mの数値が書かれていた。この辺りが信用できそうだ。
 尚、切通しを切り崩す前の古い峠は、多分現在の車道の路面より3m以上は高かったろう。標高510m程度でなかったかと想像する。
 
 布引山地は鈴鹿山脈などと比べてもそれ程は高い山地ではない。そこに通じる峠の標高も皆ドングリの背比べで、標高500m前後からせいぜい600m止まりとなる。その意味で、伊賀越は布引山地を越える平均的な峠の一つと言える。


峠より津市側を見る (撮影 2015.10.12)
暫く暗い切通しが続く
僅かに擁壁が造られている
   
   
   
少し津市側に下る 
   

<道の様子>
 峠から津市側はうっそうと木々が茂り、やや薄気味悪いくらいだ。この先一体何があるのだろうかと不安にさせられる。それに、どこかで車をUターンさせなければならないが、なかなかいい場所がない。

   
道の様子 (撮影 2015.10.12)
津市側より峠方向に見る
   

峠より津市側に100m程下って来た (撮影 2015.10.12)
やっと車が停められる程度の路肩があった(峠方向に見る)

<開けた場所>
 峠から100m弱下ると、暗い林を抜け、開けた所に出た。しかも周辺に人工物が多い。フェンスで囲われているが、広い敷地が隣接していて、その奥に家屋なども見られる。今は草で覆われているが、畑でも耕作されていたらしい緩斜面も広がる。

   
開けた場所に出た (撮影 2015.10.12)
   

<峠集落>
 古いツーリングマップにはこの位置に「峠」という集落名が記されていた。地形図にもまだその名が残る。文献には旧芸濃町の河内には9つの集落があるとあったが、「峠」は10番目の集落になるのだろうか。
 
 敷地の管理はしっかりされている様子だが、多分、定住している方はもう居ないのではないだろうか。 河内側の下にある覚ヶ野集落からは3km以上離れている。道は険しく、しかもこの時は通行止だ。 伊賀越を越えて国道163号(旧道)に出る方が2km余りと近く、その先、市街地まで快適な道が続く。この峠集落は伊賀市側との交通の便の方が良さそうである。また、峠を越えてこの集落まで電信柱が続いていて、電気の供給も伊賀市側から行われているのではないかと思った。


奥に家屋が見える (撮影 2015.10.12)
   

 尚、猿蓑塚付近の旧国道区間は、伊賀越が通行止で旧長野トンネルが閉鎖された今では、通る車もないと思ったが、帰りに2台ほど乗用車とすれ違った。工事関係者かもしれないが、峠集落の方かもしれなかった。

   

フェンスの奥に広い敷地 (撮影 2015.10.12)

何かの耕作地か (撮影 2015.10.12)
   

 この峠の集落は安濃川の最上流部に位置し、その付近だけ緩傾斜地が広がる特異な地形となっている。そこより下流側には屈曲の多い峠道が下る。 麓の人里から遠く離れたこの地には、かつては峠の茶店なども営まれていたのではないだろうか。 伊賀越を越える旅人にとって、ホッと一息入れられる場所だったのではないかと思えた。

   

<引き返し>
 旅程の大幅変更で、あまり時間がない。もう少し津市側に下ってみたいのはやまやまだが、そろそろ引き返さなければならない。人の立ち入りを阻むフェンスで、車の転回は厄介だった。帰りには旧長野トンネルに寄ってみようと思う。

   
   
   

 布引山地には幾筋か峠道が越えるが、現代の利便性に適合させる為、立派な車道が通じて往時の峠の姿は失われたり、 また、トンネル開通でその上にある旧峠は一般者の目からは遠い存在になったりした。その点、伊賀越はほぼ昔の道筋そのままに車道が通じる。 道はやや険しいが、伊勢側の河内の地を安濃川沿いに延々と遡ると、昔からの素朴な集落が点在し、峠の様相も往時を偲ぶのに十分だ。
 
 こうなった要因は、加太越と長野峠という並行する2つの幹線路に挟まれ、伊賀越の道は発展に取り残されたと言えるだろうか。しかも、今回は通行止に遭い、通り抜けることさえ叶わなかった。
 
 伊賀側の杉木立の中に佇む猿蓑塚は、新長野トンネル開通で国道163号としては旧道沿いの身になり、もう人の目に触れることはほとんどなくなっただろう。 しかし、伊賀越を越える者は、芭蕉が遠く元禄2年(1689年)の晩秋に越えた峠道を路傍に目にすることとなる。 現代の峠の旅を車で行く者にとって、今後も細々とながら車道が維持されて行って欲しいと願う、伊賀越であった。

   
   
   

<走行日>
・2015.10.12 津市側から通行止箇所まで (その後柚之木峠へ) パジェロ・ミニにて
・2015.10.12 伊賀市側から峠まで パジェロ・ミニにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 24 三重県 昭和58年 6月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・県別マップル道路地図 24 三重県 1998年 7月 発行 昭文社
・日本百名峠 井出孫六編 平成11年8月1日発行 メディアハウス
・その他、一般の道路地図など
 
<参考動画(Youtube)>
伊賀越/津市側
 落合橋から覚ヶ野(通行止箇所)までの往復のドラレコ動画(2倍速)です。
伊賀越/伊賀市側
 国道163号分岐から峠までの往復のドラレコ動画(2倍速)です。
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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