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馬坂峠  (馬坂トンネル)
  うまさかとうげ  (峠と旅 No.305)
  県境越えの大きな峠を結ぶ小さな峠道
  (掲載 2019.10.18  最終峠走行 1997. 4.27)
   
   
   
馬坂トンネル (撮影 1995. 5. 3)
トンネルのこちら側は岐阜県揖斐郡揖斐川町徳山
反対側は同県本巣市根尾大井(根尾能郷)
道は県道270号・藤橋根尾線
トンネル坑口の標高は約560m (地形図の等高線より読む)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
旧根尾村(現本巣市)側の国道157号は立派になり、
旧徳山村(現揖斐川町)には大きな徳山ダムが完成した
峠の馬坂トンネルは変わりないだろうか
 
 
 
   

<馬坂峠>
 地図を大きく眺めると、岐阜県関市方面から国道418号で北西に向かい、尾並坂峠で旧根尾村に入り、樽見で国道157号に乗り換え、門脇で県道270号に移り、 馬坂トンネルで旧藤橋村(旧徳山村)に出て、揖斐川(いびがわ)沿いをその源流まで遡ると、高倉峠で福井県に越える。 この道筋は、細かく見れば屈曲も多いが、ほぼ真一文字に通じ、岐阜県を横断して一挙に日本海側の福井に出るという豪快なルートだ。その途中で越えるのが馬坂峠(トンネル)である。
 
 また、国道157号をそのまま行けば温見峠、揖斐川沿いから支流沿いを登ると冠山峠があり、どちらも岐阜・福井の県境越えとなる。 また、揖斐川を少し下り、横山ダムから国道303号を進めば八草峠で滋賀県に出ることもできる。これらはどれも岐阜県の揖斐川上流域と他県とを繋ぐ名だたる峠である。
 
 馬坂峠はこうした県境越えの大きな峠道ではないが、それらと深い関わりがある。 例えば、福井県側から温見峠で一旦岐阜県に入り、その後馬坂峠を越え、更に高倉峠で再び福井県に戻って行ったこともある。馬坂峠を越えなくとも、県境越えの峠の行き帰りにその近くを通過することも多い。馬坂峠は本の小さな峠道だが、岐阜県を旅し始めてから直ぐにその名は記憶に刻まれた。
 
 ただ、最近の高倉峠は通行止が多く、越えられない状況が多発しているようだ。代わりに、冠山峠には大規模なトンネルが開削されつつある。八草峠には既にトンネルが通じ、国道303号は今も改良工事が進められている。関市方面から冠山峠・八草峠へと向かう場合、やはり馬坂峠は外せない峠越えとなるだろう。
 
 最近、八草峠や日坂峠を掲載し、揖斐川上流域の旧坂内村や旧久瀬村(くぜむら)が登場した。ついでに揖斐川最上流域の旧藤橋村にも出てもらうことにし、今回の馬坂峠を取り上げることとなった。徳山ダムが完成してからは馬坂峠を訪れていないので、最近の状況は不明である。

   

<所在>
 峠の東側は岐阜県本巣市(もとすし)根尾(ねお)大井(おおい)となるようだ。ただ、文献(角川日本地名大辞典)では峠の旧本巣郡根尾村側は大字八谷(やたに)ということになっている。 根尾村は2004年に周辺の町村と合併して本巣市となったが、現在の本巣市に根尾八谷はないようだ。元々八谷は大井の一部で、昭和15年に分かれ、根尾村の大字八谷となっている。本巣市ができた時、再び根尾大井の一部に戻ったのかもしれない。
 
 更に、地図によっては峠に接する本巣市側は根尾能郷(のうごう)の領域になっている。峠道を半分ほど下ると根尾大井に入るようだ。一方、地形図では全線根尾大井である。
 
 峠の西側は岐阜県揖斐郡(いびぐん)揖斐川町(いびがわちょう)徳山(とくやま)で、旧藤橋村(ふじはしむら)の大字徳山になる。更に昭和62年以前は徳山村の大字徳山だった。 手持ちのツーリングマップは丁度藤橋村に編入された直後で、もう徳山村の名は地図上になかったが、徳山ダム建設などに関連し、徳山村の名はよく耳にしていた。
 
 現在の峠は本巣市と揖斐川町の市町境になるが、元は根尾村と藤橋村、更に古くは徳山村との村境にあった。また、本巣郡と揖斐郡との郡境ともなるようだ。
 
<藤橋村(余談)>
 当初の藤橋村は久瀬村(くぜむら)の大字西横山・東横山・東杉原・鶴見が大正11年に分かれて生まれた小さな村だった。その後、揖斐川最上流域に広がる徳山村と一緒になる。 藤橋村の中心地は横山ダムより下流側にあったが、地図上で揖斐川を遡ってもなかなか藤橋村の境が出て来ない。 一体どこにあるのかと思ったら、揖斐川の源流域となる福井との県境まで全部藤橋村だった。正に広大である。一説によると、当時の日本の市町村の中で最も人口密度が低かったそうだ。揖斐川沿いの道を除けば、県内からその広い藤橋村にアクセスする唯一のルートが馬坂峠であった。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<水系>
 峠道は全て木曽川水系・揖斐川流域にある。
 
 峠の東側には八谷(やたに)谷が流れ下り、根尾大井で根尾西谷川(にしだにがわ)に注ぐ。根尾西谷川は根尾樽見で根尾東谷川を合わせて根尾川(ねおがわ)となり、行く行くは揖斐川に注ぐ。
 
 峠の西側は越(こい)谷が流れ下り、大字徳山で白谷(しろたに、白谷川とも)に注ぎ、間もなく揖斐川本流に注ぐ。ただ、徳山ダムができた現在、越谷はそのまま徳山湖に注ぐような状態になっているようだ。
 
 広く見ると、峠は揖斐川本流とその支流・根尾川との分水界上に位置する。

   

<立地>
 根尾西谷川の源頭部には温見峠が越える。福井との県境を成す越美山地の最高峰・能郷白山(のうごうはくさん)の北麓を源流とする。また、白谷も能郷白山の南麓から流れ下る。馬坂峠はそうした越美山地の直ぐ足元に通じる。
 
 また、この近辺には断層が多い。根尾西谷川の能郷から樽見を経て根尾川に沿う根尾谷断層は有名である。 揖斐川源流の赤谷(あかんたに)と道谷(みちんたに)の合流点付近から揖斐川に沿い、大字徳山から馬坂峠へ登り、根尾の八谷谷に下って根尾谷断層に至る一直線の谷も一つの断層線となる。 馬坂峠はその断層線に沿って開かれた峠道だ。直線的な谷に通じているので距離は短いが、地形は険しい。関市方面から高倉峠へとほぼ一直線に見えたのも、一部にこうした断層線が通じているためのようだ。

   

<峠名>
 「馬坂」という峠名の由来については、文献などには記載がない。同名の峠は幾つかあり、ポピュラーな名である。単純に考えて、馬がよく越えた峠とでもいう意味だろうか。

   
   
   
本巣市側 
   

<県道分岐>
 旧根尾村に通じる国道157号は、以前は温見峠や馬坂峠へ向かう折によく通った。2014年に久しぶりに訪れてみると、馬坂峠へと続く県道270号の分岐付近は一変していた。真っ直ぐに快適な国道が通じ、根尾越卒(おっそ)から2車線路の県道270号が分かれて行く。

   
国道157号からの県道270号の分岐点 (撮影 2014. 7.28)
温見峠方向に見る
   

 以前の国道はもっと根尾西谷川寄りの集落内を曲がりくねりながら通じていたと思う。また、この国道改修と合わせ、国道から少しそれた山側に道の駅「うすずみ桜の里・ねお」が開発された。 広い敷地内にはうすずみ温泉の日帰り温泉施設や宿泊施設なども併設されていて、そこまでのアクセス路も立派である。この一帯だけ別世界のような変貌振りだ。
 
 一方、根尾長嶺から先は以前と変わらぬ細い国道が通じる。特に根尾能郷〜根尾黒津間の渓谷沿いの険しさは改修される様子はなく、温見峠最大のウィークポイントであり続ける気配だ。


分岐の看板 (撮影 2014. 7.28)
   

県道通行止の看板 (撮影 2014. 7.28)

<県道通行止>
 ところで、馬坂峠の県道270号・藤橋根尾線の方にも、この時「全面通行止」の看板が立っていた。最初は徳山ダム関係の工事によるものかと思ったが、「路肩決壊の為」と看板にあった。 期間は「当分の間」で、場所は「根尾大井赤谷橋以遠」となっている。県道を4、5Km進んだ地点に、八谷谷左岸の支流・赤谷が流れ込んでいるが、多分それを渡る橋が赤谷橋であろう。馬坂峠の代替路などは皆無である。看板では必要に「根尾から徳山へは通抜けれません」と断っていた。
 
 この県道通行止の間、県内から旧徳山村方面へのアクセスは、揖斐川沿いに通じる国道417号のみとなる。かつてはその揖斐川沿いの道も険しく、馬坂峠は徳山村にとって重要な生活路だったようだ。その馬坂峠も容易な道ではなかった。

   

国道157号を樽見方向に見る (撮影 2014. 7.28)

道路看板 (撮影 2014. 7.28)
   

<西美濃夢回廊>
 現在、根尾村は本巣市、徳山村は揖斐川町になっている。道の駅「うすずみ桜の里・ねお」に「西美濃夢回廊」と題した看板が立っていたが、丁度その両市町の全容が描かれていたので、参考までここに掲載した。
 
 「西美濃夢回廊」とは本巣市・揖斐川町に跨って設定された周回道路のことのようである。馬坂峠はその回廊の一部になっていて、最北で両市町を繋いでいる。 しかし、今回のように県道270号が全面通行止では、その回廊もあっけなく途切れてしまう。


西美濃夢回廊の看板 (撮影 2014. 7.28)
本巣市と揖斐川町の参考まで
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

県道側から分岐を見る (撮影 2014. 7.28)
手前が馬坂峠方面

<旧国道>
 現在の県道270号を馬坂峠方向に進むと、最初は2車線路だが、間もなく狭い道になる。それが元の国道区間である。根尾門脇の素朴な集落内に通じる。沿道には商店なども見え、現在の国道とは違って住民の生活感が伺える。

   
商店なども並ぶ旧国道157号 (撮影 2014. 7.28)
今は県道270号の一部になっているようだ
(手前が馬坂峠方面)
   

<旧県道分岐>
 かつての県道は門脇集落の中から細々と分岐していた。旧国道が尾砂谷(おさごたに)に架かる小さな橋を渡る手前である。 現在の県道もここで左折するのだが、「270」と書かれた小さな県道看板が一つ立つだけなので、うっかりすると通り過ぎそうだ。
 
<根尾今立線>
 現在の県道270号は「藤橋根尾線」と呼ばれ、最近は根尾越卒で国道157号から分岐し、旧藤橋村の大字徳山に至るが、 その前身はこの門脇から分岐し、馬坂トンネルを抜け、旧徳山村の大字徳山も過ぎ、更に揖斐川を遡った大字塚にまで至る「根尾今立線」と呼ばれる県道だったようだ。 「今立」という地名は旧徳山村になく、県境を越えた福井県側に今立郡がある。県道根尾今立線とは冠(山)峠を越える予定の道だったらしい。 かつてこの県道には岐阜バスの定期便が通い、旧根尾村の樽見・門脇を経由して岐阜市街方面と旧徳山村とを結んでいた。 揖斐川沿いのルートよりも、馬坂トンネル越えの方が旧徳山村にとってより重要な生活路だったことをうかがわせる。


旧県道分岐 (撮影 2014. 7.28)
直進が温見峠方面
かつてはここを左折して県道270号が始まっていた
   
県道分岐の様子 (撮影 2014. 7.28)
   

県道分岐を県道側から見る (撮影 2014. 7.28)
手前が馬坂峠方面
この右手にガソリンスタンドがあった

<徳山根尾線>
 尚、文献では「徳山根尾線」という県道名も見られた。これは多分、揖斐川沿いに塚の奥、更に県境を越えて国道417号が設定され、県道区間が大字徳山までとなった為ではないだろうか。 また、現在の「藤橋根尾線」は旧徳山村が旧藤橋村になった時からではないかと想像する
 
 
 県道に入ると直ぐにモービルのガソリンスタンドがあったようだが、今は営業されていない様子だ。幹線路の国道沿いから外れてしまったのも原因だろうか。

   

<大井>
 県道は大門橋で根尾西谷川を渡る。欄干にモニュメントが立ち、面白そうな橋だ。 渡った右岸側が根尾大井になる。「大門」とはちょっと大仰な名前だと思ったが、大井の「大」と門脇の「門」を合わせただけだと気付いた。
 
 かつては、門脇から分かれ、大門橋を渡り、この大井、次の八谷を経て旧徳山村まで定期バスが通った。それ程この地と徳山村との繋がりは深かった。 村人たち同士の行き来も多かったことと思う。旧徳山村が無住となった現在、根尾大井は終点の地とも言える。もう背後に通じる馬坂峠を越える機会は少なくなったことだろう。 大井集落の様子もどことなく寂しげである。


大門橋 (撮影 2014. 7.28)
奥が門脇、手前が大井
   
根尾西谷川右岸沿い (撮影 2014. 7.28)
左岸側の門脇集落を望む
   

<根尾西谷川右岸沿い>
 暫く対岸に門脇集落の人家が見えている。川岸には水田が広がり、奥には越美山地の山々が連なり、清々しい気分だ。その内、対岸は林に変わり、大井の人家も途絶え、寂しい道になる。

   

右岸沿いの県道の様子 (撮影 2014. 7.28)
手前が馬坂峠方面、奥が大井集落方面

根尾西谷川の様子 (撮影 2014. 7.28)
   

県道と国道を繋ぐ橋 (撮影 2014. 7.28)

<国道からのショートカット>
 県道はそのまま八谷谷沿いになるが、その直前、根尾西谷川左岸側に通じる国道157号からショートカットで県道に接続する橋が架かっている。温見峠と馬坂峠を続けて越える場合に便利であった。古いツーリングマップ(1988年5月発行 昭文社)にはまだこの橋の記載がなく、比較的最近に架けられた橋だろう。

   
県道側から橋を見る (撮影 1995. 5. 3)
温見峠を下って来て、これから馬坂峠に向かう途中
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

 これより八谷谷沿いに峠まで約9Km、残念ながらこの間に写真は一枚も撮っていなかった。記憶に残ることも何もない。気持ちは遥か先の高倉峠に向いていて、手前の馬坂峠の道は単なる通過点に過ぎなかった。完全舗装の県道であり、ほとんど関心がなかったようだ。

   
   
   
峠の根尾側 
   

<馬坂トンネル>
 峠道の途中の話がなく、早くも峠の話題で恐縮である。現在の馬坂峠には昭和8年(1933年)に開通した馬坂トンネルが通じている。長さ200m。 完成から随分長い年月が経っているが、それ程大規模な改修は行われていないものと思う。よって、今でも車一台が通れるだけの狭いトンネルで、照明設備などもない。

   
馬坂トンネルの根尾側 (撮影 1997. 4.27)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<トンネルの様子>
 特徴的なのは、本来のトンネル坑口から更に鉄骨組みのスノーシェッドが延びていることだ。これなら山の斜面からの落雪・落石に強い。 開通当時からこのような構造になっていたかどうか不明だが、ちょっとトンネルらしい威厳には欠ける。
 
<トンネル名>
 よって、本来坑口上部に掛けられる扁額もこれでは見当たらない。 一般の道路地図や地形図には「馬坂トンネル」と出ていることが多いが、もし開通当時に扁額が作られていたとしたら、「馬坂隧道」と右から左に書かれていたものと思う。 昭和20年代以前は「トンネル」とは書かない。もし「馬坂隧道」という扁額が存在したら、現在の道路地図などでも「馬坂隧道」と表記していたかもしれない。 尚、何かの資料では「馬坂隧道」と記すものがあり、また文献では「馬坂峠トンネル」、「馬坂峠をトンネルで越える」などとも表現していて、必ずしも「馬坂トンネル」一色という訳でもないようだ。

   

<坑口付近の様子>
 トンネル入口の直前左手に石造りの祠があり、地蔵菩薩が祀られる。「卍南観世音菩薩」と旗が立っていた時もある。 昭和8年まではトンネル上方にあった元の馬坂峠が、当時の根尾村と徳山村との往来に利用されていた。その峠にあった古い地蔵をこの場所に移設したとも考えられるが、トンネルの反対の徳山側にも地蔵がある。トンネル開通後にそれぞれの村で祀った地蔵である可能性が高いように思う。

   
根尾側坑口付近の様子 (撮影 1997. 4.27)
左手に祠とその前に「卍南観世音菩薩」の旗が立つ
   

<坑口手前の様子>
 トンネル前後にあまり広い敷地はない。トンネル手前を南へと寂れた林道が分岐して行き、その入口付近の路肩がやや広い。そこに車2、3台が停められるかどうかである。麓方向に見て落石注意の道路標識が立ち、以前は「いのちおとすな 速度おとせ」と警察署の看板が立っていた。ただ、当時でさえボロボロだったので、もうとっくに撤去されているだろう。付近の地形は比較的開けて明るいが、木々に遮られて遠望はない。多分、車道開通当時の昔は八谷谷沿いに遠方まで見通せたのではないかと思う。

   

峠の旧根尾村側 (撮影 1995. 5. 3)
馬坂トンネルの前から麓方向を見る
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「いのちおとすな」の看板 (撮影 1995. 5. 3)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1997. 4.27)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<旧峠>
 既に地形図にも馬坂峠に至る旧道の道筋は描かれず、現地にも尾根へと登る山道の様な物は確認できない。昭和8年以降、馬坂峠の存在は掻き消えてしまったようだ。ただ、トンネルのほぼ真上には分水界上の明確な鞍部があり、そこに旧峠があったことは間違いないだろう。
 
<標高など>
 文献(角川日本地名大辞典)ではトンネルの標高を580m、元の馬坂峠を650mとしている。現在の地形図を見ると、それぞれ約560m、約620m(鞍部の標高)と読める。 看板か何かで615mという値を見付けてツーリングマップに書き込んで置いたのだが、これは旧峠のことのようだ。

   

<峠の利用>
 トンネル開通後は勿論のこと、トンネル開通以前から馬坂峠は根尾村と徳山村とを結ぶ生活路として利用されてきたことだろう。 特に山に囲まれた徳山村側にとって、生活必需品などの搬入路として重要だったのではないか。大垣市街方面から根尾川沿いに遡った旧根尾村の中心地樽見(たるみ)は比較的開けた地であり、後に樽見鉄道も通じている。樽見経由で馬坂峠を越え、徳山村まで物資の流通が行われたのではないかと想像する。
 
 更に古くは、越前鯖江(さばえ)の浄土真宗・誠照寺本山の使僧が利用したと文献(角川日本地名大辞典)では言う。 蠅帽子峠(温見峠の前身的な峠)や冠山峠(旧冠峠)で少し触れたが、 これらの険しい峠を越えて遥々美濃の地へと僧侶たちが訪れている。根尾村や徳山村などでは浄土真宗誠照寺系の檀家が多く、「夏のお廻りさん」と呼ばれた使僧を毎年のように迎え入れた。 蠅帽子峠を越えて根尾村に入った使僧は、更に馬坂峠を越えて徳山村へと向かうこともあった。誠照寺への帰りは冠峠を越えたかもしれない。 その逆の、冠峠→馬坂峠→蠅帽子峠というルートもあったろうか。考えてみると、私も福井県と岐阜県との往復に馬坂峠を経由していた。県境越えの峠と馬坂峠は関係が深い。

   
   
   
峠の徳山側 
   

<峠の徳山側>
 トンネルから延びるスノーシェッドの部分は徳山側の方がやや長そうだ。やはり普通のトンネル坑口と異なり、妙な感じである。

   
馬坂トンネルの徳山側 (撮影 1995. 5. 3)
   

<地蔵>
 徳山側にもトンネルに向かって左側に祠があり、地蔵が祀られる。比較的新しそうで、やはりトンネル開通後に建立されたのではないだろうか。

   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1997. 4.27)
2年後に訪れている
   

徳山側の様子 (撮影 1997. 4.27)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<トンネル坑口付近>
 トンネルに向かって右側に車一台程度のスペースがある(写真ではワゴン車が停まる)。林道の始まりの様に見えるが、その先に道が続いている訳ではない。 トンネルから少し下った山側に僅かな路肩があり、そこにもどうにか車2台ほどが停められる(写真ではジムニーが停まる)。どちらにしろ、あまり広々とした峠ではない。

   

<景色>
 ただ、眺めは広がる。トンネル出口から数10m行った辺りから、越谷の谷が下って右手から延びて来た本流の白谷と合流する付近までが見通せる。揖斐川本流はもう少し左手になるだろうか。
 
 初めて馬坂峠を訪れたのは1992年10月のことだった。関市方面からまっしぐらに高倉峠を目指していた。途中の馬坂峠などでは全く写真を撮らなかったかと思っていたが、今回下の写真が見付かった。他の写真と比べると、確かに馬坂峠から見た景色であった。


ジムニーが停まる辺りから景色が眺められる (撮影 1995. 5. 3)
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峠からの景色 (撮影 1992.10. 9)
初めて馬坂峠を訪れた時
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左の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1997. 4.27)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<道筋>
 景色を撮った写真を拡大してみると、越谷右岸側に通じる道筋が確認できる。多分、白谷沿いに降りる直前ぐらいまでが見えているものと思う。徳山ダムが水を溜めた現在は、その道の一部はもう水没しているのだろう。

   

峠道の遠望 (撮影 1992.10. 9)

左の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1995. 5. 3)
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1997. 4.27)
   
   
   
白谷沿い 
   

<白谷橋>
 道は大きく屈曲しながら白谷沿いに出る。そこから白谷左岸沿いに林道・白谷線が分かれて行た。本線は越谷を左岸に渡り、直ぐに白谷を白谷橋で右岸へと渡って行く。白谷右岸側にも道が分かれていたようだ。

   
白谷右岸沿いから上流方向を望む (撮影 1997. 4.27)
右奥が越谷沿いに峠へ
前方の山腹に屈曲する道筋が見える
直ぐ右手は白谷橋
現在、この付近一帯は完全に水没している
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

白谷上流方向を望む (撮影 1997. 4.27)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<五平能舞橋>
 以前の白谷橋は、越谷の合流点より更に下流側に架かっていた。現在の地図を見ると、そこより1Km近く上流側に五平能舞橋という新しい橋ができているようだ。以前の白谷橋付近は完全に水没し、林道白谷線ももう見えない。

   
   
   
徳山へ 
   

県道270号分岐付近 (撮影 1996. 8.15)
国道417号を下流方向に見る
(冠山峠を下って来たところ)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<峠道の終点>
 以前の峠道は白谷沿いから揖斐川沿いに移り、その左岸を遡り始める。既に対岸には国道417号が通じているのだが、なかなか合流できない。 3Km程も走ってやっと国道に接続し、そこで馬坂峠の道は終わっていた。 県道分岐の直ぐ下流側の揖斐川に徳山橋が架かり、そこより上流側左岸が大字徳山、下流側右岸が大字開田(かいでん)となる。
 
<徳山藤橋線(余談)>
 馬坂トンネルを越える県道藤橋根尾線の前身であるかつての県道根尾今立線は、大字徳山から更に揖斐川最上流の塚まで通じていた。 一方、揖斐川下流沿い方向には、徳山橋を渡り下開田を経て、旧藤橋村東横山まで県道徳山藤橋線が延びていた。それが後に国道417号のルートとなる。 しかし、藤橋村鶴見(つるみ)〜徳山間に定期バスはなかったそうだ。それからしても、定期バスが通った馬坂峠の道の方が、徳山村にとって重要であったことが分かる。 また、揖斐川沿いの道が険しかったことの証左ともなろうか。

   
かつての県道分岐付近 (撮影 1996. 8.15)
すぐ前に架かる橋は徳山橋だと思うが、ちょっと小さ過ぎる?
徳山橋より上流側左岸の国道沿いが大字徳山、下流側右岸のそれが大字開田
   

<徳山村>
 揖斐川本流(東谷とも)とその支流・西谷(にしたに)との合流点付近を中心に集落が点在した徳山村は、古くは徳ノ山とも称した。 江戸初期に徳山村・山手村・櫨原(はぜわら、はしはら)村・塚村・池田村・漆原(しつはら、しつわら、志津原とも)村・戸入(とにゅう)村・門入(かどにゅう)村の8か村に分村する。徳山・山手・櫨原・塚は揖斐川本流沿い、池田・漆原は西谷と揖斐川右岸沿い、戸入・門入は西谷上流沿いに位置する。
 
 明治4年に池田(後に上開田)・漆原(後に下開田)が合併して開田(かいでん)村となり、更に明治22年に大野郡徳山村・山手村・櫨原村・塚村と池田郡開田村・戸入村・門入村の合計7か村が合併して、新しい池田郡(明治30年に揖斐郡)徳山村となった。 旧村名を継承した7大字は、昭和62年からの藤橋村の大字を経て、現在は「揖斐町」を冠して残る。

   

<本郷>
 揖斐川沿いに通じる国道417から馬坂峠への県道270号が分岐する付近が旧徳山村の大字徳山で、上開田と並んで村の中心的な集落だった。 文献では馬坂峠を「藤橋村本郷と本巣郡根尾村八谷(やたに)の境にある峠」としていたが、その「本郷」(ほんごう)とは大字徳山の通称らしい。 その名からしても、中心地というニュアンスが感じられる。 あるいは、ここより少し上流側に大字徳山の中の一集落と思われる「上原」があるが、その集落と区別する名かもしれない。 とにかく、単に「徳山」と呼ぶと徳山村全体との区別もつかないこともあるので、古くからこの地を「本郷」とか「徳山本郷」などと呼び慣わしたものと思う。

   

 私が藤橋村(当時)を訪れるようになったのは1991年からだが、その時は既に旧徳山村全体が離村し、人はもう住んでいなかったものと思う。 唯一、西谷上流部の門入は水没から免れたそうだが、揖斐川沿いからの交通が遮断されてしまった。 旧坂内村側からホハレ峠を越えて門入に至るルートが改修されるような話を最近耳にする。  
 私が訪れた旧徳山村はもう無人だったかもしれないが、それでも国道沿いには人家などがまだ残り、集落の様子を留めていた。その様子を目撃できたのは貴重な経験であったと思う。
 
 
<ダム工事>
 1996年8月に福井県側から冠山峠を越えて徳山集落に入ると、大きな看板が立っていた。揖斐川に架かる徳山橋から先の国道が通行止とのこと。 代わって、徳山橋手前から分岐する県道270号方向に迂回路が出来ていた。徳山ダム建設もいよいよ本格的になったと感じた。


迂回路の看板 (撮影 1996. 8.15)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
看板の一部 (撮影 1996. 8.15)
多分、工事専用道路を通って国道に戻ったと思う
   

<迂回路>
 県道270号は最後に迂回路として役立った。そこは徳山ダムで完全に水没する区間で、その揖斐川沿い周辺でもダム建設関係の工事が進んでいた。新しく橋も架けられていたようだ。工事用と思われる。
 
 更に進むとトンネルが現れた。多分、揖斐川の下をくぐり、対岸に通じる仮の国道へと至る為である。こうした仮設トンネルなども掘削する程、ダム工事は大規模な物なのだと思わされた。


迂回路の県道270号 (撮影 1996. 8.15)
揖斐川に橋が架かっていた
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迂回路となるトンネル (撮影 1996. 8.15)

トンネルの先で仮設の国道に接続 
(撮影 1996. 8.15)
側らを揖斐川が流れる
   
   
   
ダム完成後 
   

<現在の県道分岐>
 時は過ぎ、2014年7月に再び福井県側から冠山峠を下って来た。既に徳山ダムは完成している。徳山湖左岸沿いに立派な国道417号が通じる。幾つものトンネルや橋を走り繋いでいる。クツ尾ギソ見橋を渡った所で県道分岐の看板が出て来た。

   

徳山湖沿いの国道417号を下る (撮影 2014. 7.30)
クツ尾ギソ見橋を渡った所で看板がでてきた

県道270号分岐の看板 (撮影 2014. 7.30)
大型車通行不能とある
   

<県道分岐>
 現在の県道270号の分岐は、クツ尾山之神橋という橋の途中にある。県道方向に対し「うすずみ温泉 14Km」などと案内看板が立つ。

   
この先左に県道分岐 (撮影 2014. 7.30)
前方には洞山鬼岩隧道が見える
   

<県道通行止>
 この時は、県道入口に全面通行止の看板が立っていた。「災害のため、当分の間」とだけある。この通行止は2日前に根尾側で確認済みだった。 五平能舞橋・岳洞山桜隧道などか通じ、徳山側のダム建設に関係する県道換線工事は完了しているようだが、相変わらず馬坂峠の道は険しいのである。

   

県道入口 (撮影 2014. 7.30)

通行止看板 (撮影 2014. 7.30)
   
県道方向を見る (撮影 2014. 7.30)
この先に岳洞山桜隧道が通じる
   

 かつては馬坂トンネルを抜ける県道の方が旧徳山村の生活路となっていた。その後、揖斐川沿いに国道417号が通じ、ダム完成後は更に立派に生まれ変わった。 しかし、生活路となる為の住民はもう居ない。もっぱら観光客が利用する道となろうか。

   
   
   

 以前は、馬坂峠程度の峠道を掲載することはないと思っていた。とにかくこの付近には県境越えの温見・冠山・高倉・八草といったそうそうたる峠が通じている。 それらに比べると馬坂峠は小さな村同士を繋ぐ僅か10数Kmの峠道にすぎない。どうしても見劣りがする。しかし、時が経つとこうした小さな峠にも愛着が湧いてくるようだ。 特に峠の徳山側はダム工事で大きく変貌し、偶然その経過を目にすることとなった。白谷橋付近はもう水の底だ。懐かしくもあり寂しくもある、馬坂峠であった。

   
   
   

<走行日>
(1991.10.10 根尾村側県道270号分岐を通過 その後温見峠へ ジムニーにて
・1992.10. 9 根尾村→藤橋村 その後高倉峠へ ジムニーにて
・1995. 5. 3 根尾村→藤橋村 温見峠から その後高倉峠へ ジムニーにて
(1996. 8.15 藤橋村側県道270号分岐を通過 冠山峠より ジムニーにて
・1997. 4.27 根尾村→藤橋村 その後八草峠へ ジムニーにて
(2014. 7.28 旧根尾村側県道270号分岐を通過 その後能郷〜黒津を往復 パジェロ・ミニにて
(2014. 7.30 旧藤橋村側県道270号分岐を通過 冠山峠より パジェロ・ミニにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 21 岐阜県 昭和55年 9月20日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 21 岐阜県 2001年 1月 発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
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<1997〜2019 Copyright 蓑上誠一>
   
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