峠と旅
牛廻越
 
うしまわしごえ
 
紀伊半島の山中を横断する長い峠道
 
    
 
牛廻越 (撮影 2004. 5. 4)
手前が和歌山県龍神村(りゅうじんむら)小又川(こまたがわ)
(最近、龍神村は田辺市に編入?)
奧が奈良県十津川村(とつかわむら)迫西川(せいにしがわ)
標高は約820m(地形図より読む)
道は国道425号
この日の旅は一日中雨で、峠もびっしょり雨の中
 
    
 
 紀伊半島は、その海岸沿いは国道42号がほぼ半島の輪郭をなぞる様に走り、沿線に大きな都市もあって、旅をする上でも位置関係などが理解し易い。しかし、一度その内陸に入ると、途端に複雑である。これまで何度も旅をしてきているが、どの道がどの様に接続されているか、今もってさっぱり把握できていない。国道や主要地方道、一般県道が絡み合い、それにこまかな林道が交錯しては、もうお手上げである。しかも、国道と銘打っていても、その実態は林道の様な有様だ。国道を機軸に旅を組み立てようとしても、そうは問屋が卸さないのだった。ただでさえ、その場その場の場当たり的な旅をしているので、旅をしている最中も、一体自分が今、半島のどの辺りに居るのか見失ってしまう始末だ。それだから、紀伊半島は楽しい。
 
 牛廻越は奈良県と和歌山県の県境という、正に紀伊半島の山の中にある。ところがどういう訳か、つい最近までこの峠を越えたことがなかった。紀州のあっちこっちを迷走している内に、取りこぼしてしまった様だ。道は国道ということもあり、どうしても他の林道などに目が行ってしまったせいもある。
 
 2002年1月に龍神温泉を訪れことがあった。そこは牛廻越の和歌山県側の入口に近い。ちょっと立ち寄ってみると、峠道の入口には「全面通行止」の看板が出ていた。牛廻越は冬期閉鎖となる国道だった。奈良と和歌山の県境を越えて東西に約45Km。僅かな林道を除けば途中に分岐がない一本道。そんな長大な峠道の始まりとは思えない寂しい入口だ。この峠は是非とも越えなければならないと思った。その機会が2年後にやって来た。
 
    
 
<雨の日の旅>
 
 2004年5月4日。夜半から降り出した雨は今朝になっても止みそうもなかった。昨日は三重県紀和町(きわちょう)にある千枚田オートキャンプ場に宿泊した。雨の中をついてキャンプを撤収し、びしょ濡れのテントは丸めて車の中に押し込み、一路西へと走って来た。明日は和歌山よりフェリーで四国に渡る予定だ。和歌山市はほぼ真西に位置する。今日は紀伊半島の山中を横断することになる。こんな雨の日は、あまり欲張って寄り道などせず、早々に和歌山市内の宿に着いてしまった方がいい。ほとんど停まることもなく、淡々と車を走らせる。
 
 旅程は和歌山市に着く以外に、ほとんど決まったものはないが、唯一、牛廻越を越えることだけは予定していた。生憎の天気で、こんな日の峠越えは残念だが、またいつ機会が巡って来るか分からない。とにかく、牛廻越を一目見ておこうと思う。
 

国道425号・奈良県十津川村
峠方向に見る
この先で左に県道735号・龍神十津川線が分岐
更にその先の左に昴の郷がある
<奈良県十津川村側からのアプローチ>
 
 奈良県十津川村を南北に走る国道168号から分かれ、一路牛廻越の国道425号に入る。道は直ぐに狭くなった。間もなく左手に県道735号・龍神十津川線が分岐した。
 
 10年ほど前にその道を進んだことがあった。当時は牛廻越はまだ国道に昇格する前の主要地方道(田辺十津川線)だったと思うが、主要地方道よりも県道の方が寂しい道だろうと判断したからだ。そちらには引牛越(ひきうしごえ)という峠があった。その峠は県境の手前に位置していたが、道は最終的に和歌山県の龍神村に出た。牛廻越と引牛越の両峠道は、ほぼ平行して両県を繋いでいた。
 
<昴の郷>
 
 先程から友人がトイレに行きたいと言う。近くに道の駅でもあればいいのだが、国道168号を10Km以上走った所にしか見当たらない。かといって、このまま牛廻越の道を進んでも、気の利いたトイレなど全く期待できそうにない。これは困ったなと思っていると、県道735号の分岐を過ぎた先に、「昴の郷」(すばるのさと)という温泉施設があった。ダメ元でその昴の郷の駐車場に降りて行くと、都合よく駐車場の一角にトイレが建っているではないか。傘を差して友人がトイレに走る。一人、車の中で待っていると外は大雨だ。それにも関わらず駐車場にはそれなりの台数が停まっていた。立ち寄り湯の客だろうかと、ボンヤリ眺めていた。
 
<西川沿いを進む>
 
 ホッとした友人を乗せて先に進む。道は十津川の支流・西川(にしがわ)の左岸に沿って走る。このまま峠の近くまで西川を渡ることはない。左手に西川の流れが時折見渡せる。集落がその川沿いに点在する。国道標識にその集落名が確認できる。

 例えば右の写真の国道標識には次のようにあった。

425
十津川村
重里
椎平

重里・椎平付近
 

対岸の人家
 集落は国道が通る左岸だけではなく、西川を渡った対岸にも僅かに見られた。川に架った橋は、その人家専用といったところだ。山腹の斜面にどっしり母屋を構え、ちょっとした城郭である。大きなビルの中の一室や、同じ様な一戸建ての家々が立ち並ぶ中に埋もれて住んでいる者にとっては、なかなか羨ましいロケーションだ。自分の所有する敷地以外も、その周辺が全部自分の物の様である。眼下に流れる西川も、自分の庭の一部と言った気分ではないだろうか。
 
<対向車>
 
 のんびり走っていても後続車が追いついて来ることはないが、この雨の日の寂しい道を、意外と対向車がやって来る。安全の為にヘッドライトを点灯している車もある。狭い道なので離合は一苦労だが、お互いに譲り合って手慣れたものだ。
 
 ふと見ると、すれ違う対向車に乗っている人は一様に黒服を着ているではないか。葬式でもあるのだろうか。しかも、次に来た車も礼服を着て連れ立った者たちが乗っていた。結局3、4台の対向車が、皆、黒ずくめの服を着ていた。雨の日がまた一段と寂しく思える。この喪服の一団に出くわさなければ、対向車もほとんどなかったことになるのだろう。

時折対向車が来る
道が狭いので、離合はお互いに譲り合い
 

雨に煙る西川
怖いほどの山深さを感じる
<蛇行する西川>
 
 道は尚も西川に沿って進む。川の蛇行は激しく、それに合わせて道も曲りくねっている。沿道から時折望める川筋は、周囲の木々に囲まれ、実際以上に深さを感じる。ましてやこんな雨の日は、自然の怖さをも見せ付けられるようだ。
 
 自宅の前にも一本の一級河川が流れているが、こちらは護岸工事が行き届き、川はほとんど直線的になっている。川に沿って散策路が設けられている所もあり、街路樹が規則正しく並び、犬の散歩などにはもってこいとなっている。それでも、一度台風などの大雨が降ると、直線的な流れは非常に早く、間違って川に落ちたら、つかみ所がないコンクリート護岸には、二度と這い上がれないだろうと思われる。その為か、川に沿って金網が張り巡らされ、なかなか川面には近づけられない。西川とはこうも違う都会の川ではあるが、やはり自然の怖さを潜ませているのだった。
 
 そうした西川沿いに点在する集落は、自然の地形を利用している。山が迫る谷の中にあっても、僅かな平地を見つけて人家が立ち並んでいる。
 
 右の写真の集落は、沿線では比較的大きなものだった。大きく曲がった様子は、川の流れを思わせる。ただ、西川とは直接接していないようで、西川の支流沿いか、あるいは昔の西川の蛇行の跡、すなわち三日月湖のような場所ではないかと素人ながらに考える。

比較的大きな集落もある
 

川面に近い所にも小屋が建つ
 家の前の直線的な川も、私が子供の頃にはまだそうした蛇行の痕跡が残っていた。そこは子供の間では「オバケ沼」で通っていた。僅かな流れしかなく、水が淀んだ不気味な沼地になっていた。時折ドボンという大きな水音が上がり、心配する親の目を盗んで遊びに来た子供たちを驚かせた。沼の主が棲んでいると噂さになった。私はその沼で大きなカエルを見かけたことがあった。それが沼の主の正体だったと今でも思っている。間もなく、危険だからと子供が近付くのは禁止され、いつの間にやら埋め立てられ、子供の頃の思い出も薄れていった。
 
 西川沿いに住む人たちにとって、目の前に流れる西川は、昔も今もこの先も、ずっと変わらぬ存在なのであろうか。少なくとも都会の川よりずっと身近な存在であることには違いない。
 
 概ね沿線の集落も通り過ぎ、人家などもほとんど見られなくなると、道は一段と狭まり、やや勾配も増す。峠までの長い道程のほぼ8割程度を進んで来たことになる。山並の頂上を目指す、いよいよ峠道らしい様相だ。道は川にぴったり寄り添うようになるが、木々が多く、川面はなかなか見られなくなる。左手にはただただ深そうな谷を感じるばかりだ。

大方の集落を過ぎ、狭い上り坂が始まる
 

吊り橋
<吊り橋>
 
 ふと、道の左手に吊り橋が現れた。側らにバス停が立ち、「湯之野橋」とある。吊り橋は一見怖そうだが、今でも使われている現役の立派な物だ。勿論観光用などではなく、実生活用である。
 
 地図で見ると、その橋で西川を渡り、峠方向に少し登った先に湯之野(湯ノ野)という集落があることになっている。このまま車道を行くより、徒歩ならこちらの方が近道なのだろう。 
 
<西川を詰める>
 
 吊り橋がある付近から車道は一路、北を目指す。西川の本流は峠より北の方角から流れ下っている。峠から流れるのは西川の支流の一本のようだ。吊り橋から始まる道は、ほぼその支流沿いを直接西に位置する峠方向を目指している。
 
 西川沿いを北に向かう車道から、左手の山肌に道筋が望め、しかもそこに軽トラックが一台停まっているのが確認できた。どうやらこの先に集落がありそうだ。それにしても見上げる程のなかなか険しい立地にある。
 
 道は西川本流を北に少し詰めると、川を渡って一転、南へと引き返す。谷筋からは離脱し、山腹を斜めに登って行く。

左上の方に道が見える
それが迫西川の集落
 

迫西川の集落に入る
左手の看板に
ここは迫西川(せいにしがわ)とある
<迫西川の集落>
 
 登り始めて間もなく、下から見上げた集落に入って行った。急な斜面にへばり着く様に何軒かの人家が密集する。本当に人が暮す集落であった。
 
 集落の入口には看板があり、「迫西川」と書かれていた。読み仮名は「せいにしがわ」であった。なかなか難しい読み方である。すかさず地図に書き込んだ。
 
 迫西川の集落は車道脇や車道より一段低くなった所などに僅かばかりの人家が密集している。車ならアッという間に通り過ぎてしまう小さな集落である。ここからはそれまで走って来た西川の深い谷を見下ろすことができた。高度感たっぷりの場所だ。
 
 迫西川という名前の起こりは分からないが、「西川が山に迫った所」という様な意味ではないかと想像した。集落から眺める西川の谷は深く大きく蛇行していた。
 
 ここは奈良県側最奥の集落となるようである。後日、近隣の図書館で「峠の村へ−山里の履歴書」(飯田辰彦著、NTT出版)という本を見つけて読んだ。理由は「峠」という文字が表題にあったからである。すると、この牛廻越の迫西川のことも載っていた。著者が実際に集落を訪れ、住民の人たちから聞いた話しなどが書かれていた。その本は全般的には衰退していく山村を報告しているが、そうした集落の中にあって、この迫西川は比較的衰退を免れているような内容だった。

車道より下にも人家がある
 

迫西川の集落を振り返る
 旅をしていても、険しい山ばかりでは面白くない。こうした集落があると、なぜかほっとする。それが峠道に関わった集落なら尚更関心が向く。一般には迫西川という名前を知る者は少ないだろうが、こうしてその読み方さえも覚えると、何となく愛着が湧いて来る。峠に一番近い集落だから、その住人は峠と一番深く関わり、峠を一番良く知る者たちであろう。ただ、先程の書籍では峠のことはあまり記述がなかった。村人と峠、あるいは峠の反対側の和歌山県との繋がりなど、あまり定かでない。
 
 集落を暫く過ぎて振り返ると、山肌の一角に迫西川の人家が望めた。遠めに見ると、やはり険しい立地環境である。これが真冬ともなれば、更に自然の厳しさは増すことだろう。
 
<湯之野の集落>
 
 迫西川を過ぎた先に、更に小さな集落がまた現れる。バス停には「湯之野」とあった。下の湯之野橋からの山道がここまで達しているものと思われる。
 
 この付近に位置する集落全体を迫西川と呼ぶのではないかと思う。その迫西川という地区は更に、先程の迫西川とこの湯之野の二つの集落に分かれると解釈すればいいのではないか。前述の書籍でいう迫西川とは、湯之野を含めた全体を指しているのではないだろうか。

湯之野の集落
 

奈良県側より峠の鞍部を望む
 湯之野を過ぎると、正真正銘、もう人家はない。谷は左下に深く切れ込み、山はいよいよ険しい。道の進む方向に峠があるだろう稜線の鞍部が僅かにのぞいた。峠は僅かな嶺の低部を縫って越えているようだ。
 
 振り返ると、西川の谷間が幾重にも重なった山の彼方へと伸びていた。雨に煙り深遠な感じを受ける。遥々やって来たなと思わざるを得ない。こうした景色は峠道ならではである。
 
奈良県側を望む
 

峠の手前の看板
<看板>
 
 峠手前に幾つかの看板が並ぶ。不法投棄禁止やらキャンプ禁止に並んで、赤地に大きく白く「この区間 転落事故多発 気をつけて 通行して下さい」とある。同じ物が和歌山県側にも見られた。峠道はいつものんびり走っているので、カーブを曲がりそこなって転落するといった危険を感じたことはない。この牛廻越もそうであった。路肩決壊や落石は注意しているが、スピードさえ控えめなら、峠道はそれ程怖い物ではない。
 
 大きな看板に混ざって、小さく「トイレ 800m」とある。友人は昴の郷で用を足したが、その後、この寂しい国道沿いにも時折公衆トイレが設置してあった。しかし、その峠に一番近いトイレはかなり荒れていた。女性ではちょっと使うのがためらわれる程であった。
 
    
 
<峠に到着>
 
 牛廻越の峠は、ちょっとはっきりしない。道の最高所ではないからだ。前述の看板がある所から道は少し下っている。その先に県境を示す看板が立つ。またそこより左手(南)に林道一本分岐する。その部分を峠と考えることにする。
 
 こうした峠の形態は時折見かけるが、峠自身としての味わいはあまり感じられない。峠直下の谷が急勾配の地形では、谷を大きく迂回するように道が開削される。そのような場合に峠より高所を道が通ることがままある。この牛廻越もその一つであった。

奈良県側より峠を見る
少し下り坂
左に林道が分岐する所が峠
 

峠の手前(奈良県側)
 左の写真は峠の数10m手前から峠を写している。ガードレール横に立つ案内看板には下記の様にある。
 
←ここから十津川村
←十津川温泉32km
龍神温泉16km→
 
 看板にある十津川温泉も龍神温泉もこの峠道沿いではないが、それぞれ十津川村、龍神村の峠道入口近くにある温泉だ。牛廻越は両温泉を繋ぐ峠道でもあった。その距離48kmである。わざわざそれらの温泉をはしごする者も居ないと思うが。
 
 正面奧の道路標識には、「田辺45km 龍神19km」とある。
 
 右の写真は峠より奈良県十津川村側を見ている。一番高く掲げられた道路標識には、「425 五条104km 新宮88km」とある。手前の小さな国道標識(立札の様な物)には、国道番号の他に「十津川村 迫西川」とある。やはり湯之野とはないので、迫西川は広い地域を指す場合もあるのだと思う。
 
 右端に見える「水源かん養保安林」の看板の拡大を下に掲載する。所在場所に「吉野郡大津川村大字迫西川字湯野々川」とある。「大津川村」が気になるところで、古い村名かとも思ったが、単なる「十津川村」の書き間違いかもしれない。
 
 また、牛廻越直下を十津川村側に流れ下る川の名前が地形図などにも載っていなかったが、もしかしたら湯野々川というのかもしれないと推測される。こうした看板を見ていると、小さいながら面白い発見があって楽しい。

峠より奈良県側を見る
 
水源かん養保安林の看板より(地図の北は左方向)
迫西川や湯野の集落が記されている
 

県境標識がある峠(和歌山県側を見る)
 さすがに国道の県境だけあってか、峠には県境を示す標識がある。左の写真の正面に、「和歌山県 龍神村」とある。「龍神村」は時折「竜神村」と書かれているのを見かける。
 
 上の方にはここにも「龍神温泉16km」とある。十津川温泉には寄ったことがないが、龍神温泉には公共の宿ではあるが一泊したことがある。日高川の渓谷沿いに旅館が立ち並ぶ温泉地であった。真冬の温泉街は路肩に雪が積もり、川に面した部屋から眺める渓谷も寒々しかった。「龍神温泉」と聞いて、「ああ、あそこか」とイメージすることができる。ただそんなことが、これまで旅を重ねてきた証(あかし)の様な気もする。
 
 奈良県を示す看板は、左端の道路標識の柱の途中に掲げられている。写真では看板の横の部分しか写っていない。
 
<牛廻という名>
 
 ところで、牛廻越の「牛廻」は「うしまわし」と読む。何となく「うしまわり」と読んでしまいそうだが、そうではない。この峠の南方に牛廻山という山があるが、こちらがやはり「うしまわしやま」と読む。
 
 「牛」と言えば、牛廻山を挟んだ南側に、やはり「牛」の字を使った峠、「引牛越」がある。偶然の一致か牛が関係している。元々どちらの峠にも、牛車が通う峠道があったとする資料がある。後に林道が開削され、かつての牛車道は廃道になったとも書かれていた。その林道が現在の国道や県道の前身なのだろう。
 
<蟻の越えとは>
 
 参考にした資料に、小又川(龍神村側の川)の上流・東河(東ノ河谷?)を十津川村に越える主要地方道に「蟻の越え」という峠があると記されていた。それは正に今の国道425号のことである。「蟻の越え」(または「蟻ノ越」などと書く)は、実際に牛廻越と同じ峠として扱っているホームページがあった。
 
 「蟻の越え」とは一体何か、牛廻越との関係は、またそれらのいわれは。詳しいことは全く分からない。ただ、牛廻山があって、その近くの峠が牛廻越ではあまり面白くない。もし牛廻越と蟻の越えが同一の峠だったのなら、「蟻の越え」という名は捨てがたいところだと思う。
 
 私事だが、つい先月よりADSLを始めた。それまでの8年以上、遅くてエラーばかりのダイアルアップでしのいできたが、もう世の中の趨勢には逆らえそうもなかった。そのADSLを活用し、早速「蟻の越え」を検索すると、一つだけヒットした。「紀州 民話の旅」という。それには蟻の越えを舞台にした「枕がえしの怪」という話しが掲載されていた。それによると、峠に樹齢数百年のモミの大木があり、それに悪霊が宿って村人を惑わすようになった。そこで村の若者が小屋に泊り込みでその木を切ろうとすると、夜中に小人がやって来て、寝ていた枕をひっくり返した。それにより飯炊きの一人を残して、7人の若者が亡くなってしまったという。何やら意味ありげな民話である。但し、現在の牛廻越との関係はやっぱりはっきりしない。
 
<林道分岐>
 
 峠からは南に林道が一本分岐する。牛廻山への登山道ともなっているようだ。林道を暫く走った途中から、牛廻山への山道が始まっている。その山頂からはあまり展望がないらしい。地図を見る限り、車ではどこにも抜けられない林道のようだ。
 
 峠では風も強まり、雨が叩きつけるように降る。その中を車を降り、カメラを濡らさないように走り回る。素早く被写体にレンズを向けると、さっとシャッターを切る。峠ではのんびりしたいところだが、この天候ではそれもままならない。峠の名前が記されたものはないかと探したが無駄だった。写真を写すだけ写し、友人が待つ車に戻った。峠に特段の思い入れがない友人は、一歩も外に出ない。私が車に戻ると、さっさと車をスタートさせた。私は心残りがズルズルと跡を引きずった。
 
    
 

峠から和歌山県側に下る道
<和歌山県側に下る>
 
 峠の和歌山県側にも、「転落死亡事故多発」の目立つ看板があった。道は狭く、勾配は奈良県側以上と思われた。
 
 峠道は小又川の上流の東ノ河谷の谷間を一気に下るようであった。木々の間から険しい道筋が望める。但し、あまり眺望がないのは残念だ。
 
 十津川村では峠近くにも迫西川という集落があったが、龍神村側ではなかなか集落は現れない。細々と狭い道が林の中に続くばかりである。時折、国道標識が出て来るが、道の実態は国道とは程遠いように思われる。
 
 一度だけ、峠をよく望める場所があった。山肌を切り崩し、道が通っているのがはっきり見て取れた。

木の間から道筋を見る
 

国道標識
龍神村 小又川(こまたがわ)

峠方向を望む
 
<小又川に沿う>
 
 谷間をあらかた下り終ると、道は小又川の右岸に沿うようになる。このまま峠道の終点まで川は常に左手にある。雨の為か、川の水は土色に濁り、浩浩(こうこう)と流れている。私は水が嫌いなので、あまりいい気はしない。しっかり自分の足が地に着かない水は、怖い存在なのである。道はガードレールもなく、林道の様に狭い。友人の車の運転が確かであることを祈る。
 

小又川沿いを行く

国道にしては寂しい道
ガードレールもない
 

沿道の人家
<人家が現れる>
 
 小又川に沿う様になって、やっと人家が現れた。高台に立派な家を構えている所もある。こうした集落に比べると、やはりあの迫西川は独特な感じがする。川筋よりずっと高い山腹斜面にあり、階段状の立地もその傾斜は激しかった。それ程厳しい環境に、どの様にして集落が成り立ったのか、不思議な気さえする。ただただ、山で暮らす人の忍耐強さを思うばかりだ。
 
<天誅倉>
 
 雨の中を漠然と車を走らせていたのでは、さすがに詰まらない。好きな峠道を走っていても、峠でちょっと車を降りた程度だ。一日中雨と諦めた旅ではあるが、何かメリハリが欲しいところである。地図を見ると小又川・津越(つごえ)という所に「天誅倉」(てんちゅうぐら)と呼ばれる史蹟があった。時代背景など全く知らないが、寄ってみてもいい。でも、車を止める所もなければ、そのまま行過ぎてもかまわないと思った程度である。
 
 地図では天誅倉の所在は、小又川の対岸、左岸にあった。左手を注意して見ていると、「県指定史蹟 天誅倉 専用駐車場」と大きく看板が出ているではないか。これでは寄らない訳にはいかない。

車道より天誅倉を望む
 

天誅倉より車道を見下ろす
車道脇の緑色が駐車場
 4、5台置ける駐車場には、先客が1台あった。こちらと同じ軽自動車で、私のキャミの兄弟、ダイハツのテリオスキッドであった。世間一般の車の種類などほとんど知らないが、この程度の知識だけはあった。軽自動車かそれに類した小型の車ばかりしか関心がない。
 
 さて、肝心の天誅倉はと、川の方を見渡すが、それらしい物は何もない。駐車場の案内はあっても、肝心な天誅倉への道筋が示されていないのだ。これはどうしたことかと、ふと道の反対側を見上げると、藁葺き屋根の小さな土蔵のような建物が目に入った。そこへ続く石の階段の入口に、やっと天誅倉と書かれた看板を見つけた。
 
 小雨をついてその天誅倉に行ってみると、テリオスキッドの持ち主と思しき比較的若い男女のペアが居た。狭い部屋の中では、お互い気を遣う。男性が小声で年表を説明している様だが、座って聞いている女性はただ黙っている。あまり気乗りがしない様子だ。 
 
 天誅倉とは、倒幕の兵を上げた天誅組なる武士8名が、十津川郷から小又川に敗走した折り、もうこれまでと自刃を考えた。しかし、後世に天誅組の精神を示すべく、紀州藩に自首した。その時、2日間幽閉された農家の米倉だそうだ。
 
 倉は2階建てだが、狭いものだ。現在の倉の中はちょっとした資料館(無料)のようで、板敷きの小奇麗な部屋にされ、ビデオや倉の模型が史実を語っていた。印象的なのは、柱に血で書かれたという辞世の句の複製であった。「皇国のためにぞつくすまごころは 知るひとぞ知る神や知るらん」。
 
 日本の武士という存在は、他の国には見られない独特なものだと思う。自分の命とも引き換えにするという、その精神の有り様は、勿論その全てがいいとは言わないが、現代人にも何か学ぶところがある様に思う。少なくとも彼らの志は、こうして私の様な一凡人にも少しは知れるところとなった。
 
 人生の三分の二近くを過ぎ、自分の寿命も残り少ないと思わずにはいられない歳になると、人の限りある命に代わって、何か恒久的なものが欲しい。誰しもそう思うのではないだろうか。
 
 天誅組が十津川郷から越えたのは、残念ながら牛廻越ではなく、牛廻山の南側の肩の部分らしい。峠と言えば、この「峠と旅」でも取り上げた天辻峠が、やはり天誅組と関わりが深いそうだ。
 
 実際の天誅倉は昭和28年の水害で崩壊し、その後、再建されたのであった。元の天誅倉は地図に示されていた様に、小又川の左岸にあったのではないだろうか。再建の折り、現在の高台に移されたのではないかと想像する。
 
 ところで、天誅倉に幽閉された8名の天誅組の内、処刑されたのは13歳の少年を除いた7名であった。「蟻の越え」の「枕がえしの怪」では、やはり飯炊きの若者1名を除いた7名が小屋の中で小人によって殺されている。何か関係するものがあるように思えてならない。
 
 天誅倉の静かな先客二人に代わって、我々はビデオを見始めたが、これがなかなか長い。途中で断念し、二人を残して天誅倉を後にした。
 
 
<峠道の終点へ>
 
 道は所々センターラインもある道幅となって終点へと向けて進む。また一つ狭い区間を抜けたと思うと、目の前に大きな橋が架っていた。その先にはトンネルも見える。この橋とトンネルは比較的最近にできた物らしく、手持ちの地図には記されていなかった。元の道は、橋の手前を更に川沿いに進み、龍神温泉内を通る国道371号の旧道に合する。橋とトンネルを通る道は、それをショートカットして直接国道371号の本線に出る。

小又川を渡る
トンネルを抜けた先で国道371号に出合う
 

橋の手前より峠道を見る (撮影 2002. 1. 4)
 冬場に龍神温泉を訪れた時、道すがら国道371号からトンネルと橋を通って牛廻越の峠道入口にちょっと立ち寄ってみた。橋を渡った先で道は急に狭くなり、そこに通行止の看板が出ていた。
 
全面通行止
国道425号
奈良県境まで12kmの間
自 平成13年12月25日
至 平成14年 3月31日
積雪、凍結及び落石による交通の危険防止のため
 
 冬期通行止は和歌山県側の峠道の大半であった。多分、奈良県側は峠近くに集落もあり、冬期もかなりの部分が通れるのではないだろうか。
 
    
 
 牛廻越を終えた後、雨の中を迷走して和歌山市を目指した。予約しておいた民営国民宿舎に到着した時は、二人共へとへとであった。それにしてもその雨の日に、一体どんな所に寄ったか、ほとんど記憶にない。唯一、牛廻越を初めて越えた日だということが、辛うじてその旅の一日の証であった。
 
    
 
<参考資料>
 
 昭文社 関西 ツーリングマップ 1989年7月発行
 昭文社 ツーリングマップル 5 関西 1997年3月発行
 国土地理院発行 2万5千分の1地形(インターネット試験版)
 角川 地名大辞典 奈良県、和歌山県
 その他、インターネットより
 
<走行:2004. 5. 4 制作:2005.10.10 著作:蓑上誠一>
 

峠と旅