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伯母峰峠
  おばみねとうげ  (峠と旅 No.254)
  紀伊半島の2大河川・紀の川と新宮川の分水嶺を越える峠道
  (掲載 2016.3.13  最終峠走行 2015.10.13)
   
   
   
大台口隧道 (撮影 2015.10.13)
手前は奈良県吉野郡上北山村(かみきたやまむら)西原(にしはら)
奥は同県同郡川上村(かわかみむら)伯母谷(おばたに)
道は県道(主要地方道)4号・大台ヶ原公園川上線(川上村側)と
上北山村道・和佐又伯母峰線(北山川村側)
トンネルの標高は約980m (地形図の等高線より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
ここは本来の峠とは言い難い
しかし、元からあった峠に一番近い峰を越える車道であることは確かだ
この峠が抱える事情は何やら複雑である
   
   
   
<伯母峰峠>
 このところ、名前もない(分からない)小さな峠が続いたので、ここはひとつ雄大な峠を取り上げたいと思う。 紀伊半島の表と裏を結ぶ峠とも言えそうな伯母峰峠である。紀伊水道に流れ込む紀の川は、紀伊山地の裏側(北部)を東西方向に流れ、その源流となる吉野川(よしのがわ)は紀伊山地に深く分け入った奈良県川上村に源を発する。 一方、熊野灘に注ぐ熊野川(新宮川)は主に紀伊山地の表側(南部)に広い水域を持つが、その大きな支流となる北山川は奈良県上北山村を水源とする。 伯母峰峠はこの両村を繋ぐ峠道だが、大きく見ると、紀の川水系と新宮川水系を分かつ分水界の最も奥まった地にある峠と言える。
   
<峠名>
 「伯母峠」と書いても間違いではないだろう。峠の下に通じる新伯母峯トンネルは、その扁額に「峯」の字を使っている為か、地形図や一般の道路地図では同じく「峯」の字が書かれている場合が多い。 そのくせ、峠の方は「峰」になっている。わざわざこうして書き分ける根拠は何であろう。 観光パンフレットなどによっては、そんな使い分けはせず、トンネルも峠もみな「峰」で通していたりする。ただ、ここでは慣例にならい、峠は「峰」、トンネルは「峯」としておく。長い物には巻かれろ、である。
 
<伯母ヶ峯>
 峠の東1km余りに伯母ヶ峯という山がある。根拠はないが、峠名はこれが由来かと思われる。それなら峠も「おばみね とうげ」と読んでもよさそうだが、そうした事例は見掛けない。
 
<伯母谷>
 峠の北側の川上村の大字は伯母谷(おばたに)となる。江戸期より伯母谷村が存在し、明治22年からは川上村の大字となる。 峠よりこの地に吉野川の支流・伯母谷川が流れ下る。この近辺では谷とか峯とかには「伯母」が付くようだ。それが古くからある地名であろう。 なぜ「叔母」ではないのかとも思うが、余計な詮索であった。
   
<所在>
 台高(だいこう)山脈の三津河落山(1654m、大台ケ原の東大台地区に属す)から大峰山脈の大普賢岳(1780.1m)に続く支脈上に位置する。 台高山脈は北の高見山(1248m)から南の大台ヶ原へと南北に連なる山脈で、概ね三重県と奈良県との県境を成す。 一方、大峰山脈は奈良県南部の山岳地帯で脊梁を成す山脈だ。その2大山脈を10数kmの支脈が繋ぎ、東より経ヶ峰(1529m)、伯母ヶ峯(1262m)、伯母峰峠と続く。なかなか壮大なロケーションである。
   
<地形図(参考)>
 国土地理院地形図にリンクします。

(上の地図は、マウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   
<複雑な峠道の事情>
 ただ、この峠に通じる道には複雑な事情がある。現在、伯母峰峠に代わって、国道169号・東熊野街道の新伯母峯トンネルが通じる。これが今の本線の峠道だ。トンネルに「新」と付くからは「旧」がある筈である。
 
 案の定、国道から分かれた県道40号を行くと、峠のほぼ真下に短いトンネルが通じる。これが「旧」の伯母峯トンネル(伯母峯隧道)かと思うと、そのトンネル上部に掲げられた扁額には「大台口隧道」と書かれている。「伯母峯隧道」ではなかった。これはどうしたことか。
 
 また、文献(角川日本地名大辞典)によると、「この峠には食人の鬼が毎年12月20日に出没するので、その晩だけはここを通るなという伝説が残っている」とのこと。今回はこれらの事柄に関し、少しでも解き明かされればいいのだが。
   
   
   
川上村より峠へ
   
<川上村>
 吉野川に架かる大滝ダムに寄ると、「水源地の村 『川上村」』紹介マップ」と題した看板を見掛けた。 吉野川は、台高山脈西面と当峠がある支脈北面とに囲まれた川上村北部を水源とし、村内を北流、その後西流し、和歌山県内を流れて紀伊水道に注ぐ。どこから紀の川と呼ぶのかと思ったら、やはり和歌山県に入ってからだそうだ。
 
 大滝ダムの堰堤周辺は園地として整備されていて、旅の途中で立ち寄るには格好な場所であった。 ダムから更に上流方向へ国道169号を進むと道の駅「杉の湯 川上」があり、隣接するホテル杉の湯に投宿した。川上村に泊まるのは初めてである。 こうした山間部ではなかなか宿が見付からないが、ホテル杉の湯は思ったより設備のいいホテルで、部屋の窓からは吉野川が広く見渡せた。

川上村の紹介マップ (撮影 2015.10.12)
大滝ダムにて
   
<ガソリンスタンド(余談)>
 翌日、伯母峰峠に向けて宿を発つ。これから先、台高山脈や大峰山脈といった山間部をあちこち走り回るので、ガソリンを満タンにしておきたい。 地図で見付けた川上村最終のガソリンスタンドに寄ることとする。最近は地図にあっても実際はないことが多いガソリンスタンドだが、期待通りに営業していた。 店主は私と同じ苗字で、そんなことや大台ヶ原のことなどを少し話す。大台ヶ原はこれからの紅葉の時期が素晴らしいと店主は力説する。 この国道169号は奈良や大阪方面から、登山で知られた大台ヶ原へと向かう主幹線路である。我々夫婦のことも登山客だと思ったらしい。 峠が趣味だなんてややこしい話はせず、大台ヶ原登山に関して適当に相槌を打つのであった。確かにこの国道を使って伯母峰峠(トンネル)を越え、新宮市方面へと所用に出掛ける者は少ないかもしれない。 多くは大台ヶ原目当てであろう。その好立地がこうした山間部でもガソリンスタンドの営業を依然として可能にしているのではないかと思ったりした。
   

大迫ダム (撮影 2015.10.13)
<大迫ダム>
 村内には大滝ダムの上流側にもう一つ大きなダム、大迫(おおさこ)ダムがある。このダム湖(大迫貯水池)の最上流部で本沢川と三之公川が合しているが、それ以降を吉野川と称するようだ。本沢川の方が本流となるようだ。
 
<伯母谷川>
 大迫貯水池のダムに近い部分で湖に流れ込んでいるのが伯母谷川である。伯母峰峠はその源頭部に位置する。本沢川や三之公川沿いにも途中までは車道が通じるが、その先台高山脈を越えることはない。その意味で、伯母峰峠は吉野川最奥の車道の峠と言える。
   
<伯母谷川沿い>
 今回(2015年)、久しぶりに紀伊半島を旅したが、幹線路となる国道が随分様変わりしていた。大峰山脈を挟んで西の十津川(とつがわ)沿いに通じる国道168号なども見違えるようだった。 近年、この地に大きな災害があり、それを機に大規模な改修が行われた。一部には工事途中の箇所も残る。こちらの国道169号も大迫ダム以南は全くの別物になっていた。ただ、前回ここを通った時からもう15年も経っているのだが。
 
 伯母谷川の谷をその奥に望むと、何やら大きなコンクリートの構造物が山中に出現していた(右の写真)。伯母谷ループ橋と呼ぶそうだ。その前後には長いトンネルも穿たれ、快適な道になっている。旧道は谷の下の方に通じ、その様子はもううかがい知ることもできない。

伯母谷川の谷を望む (撮影 2015.10.13)
奥にループ橋が見える
   
伯母谷ループ橋 (撮影 2015.10.13)
国道169号は随分と変わったものだ
   
<山葵谷>
 ループ橋を過ぎると、道は伯母谷川の支流・山葵谷沿いへと転じる。「山葵」は「わさび」である。元の峠は伯母谷川の上流部に位置するが、その後に開削された新伯母峯トンネルは、山葵谷沿いに坑口を持つ。峠と新トンネルは水平距離で1.7km程も離れている。これも複雑な事情の一つである。
   
   
   
県道分岐
   

この先右に県道分岐 (撮影 2015.10.13)
<県道40号分岐>
 国道が良くなり、峠へと続く県道40号の分岐に至るまでのアクセスは極めて容易になった。道路看板が示す行先には「大台ヶ原」とある。
   
県道40号の入口 (撮影 2015.10.13)
ここが山葵谷口
   
<分岐の周辺>
 分岐周辺にはいろいろな看板が立つ。しかし、ほとんどが国道を南へと進む方向に関しての物だ。県道方向は「大台ヶ原」の一点張りである。
   

分岐脇に立つ看板など (撮影 2015.10.13)
花が活けられている
右端の擁壁にはどういう訳か食堂のメニュー表が掛かっていた

国道を川上村方向に見る (撮影 2015.10.13)
右手に店が並ぶ
   
<店(余談)>
 分岐とは反対側の国道沿いに店が立つ。食堂を営業しているようだが、近くに駐車スペースはなく、余り賑わっていそうにない。 店の前の路肩に寝ころんでいた犬が、我々を客とでも思ったのか、起き上がって頻りと吠えている。威嚇ではなく、遊んでほしいようだ。なかなか愛嬌がある。
 
 それ以外、閑散とした分岐である。

店の番犬が吠えていた (撮影 2015.10.13)
   
   
   
新伯母峯トンネル
   
新伯母峯トンネル川上村側坑口 (撮影 2015.10.13)
「上北山温泉 これより14km先」
   
<新伯母峯トンネル>
 県道分岐より、橋一つ渡った先に薄暗いトンネルが待つ。白いセンターイランもある白線が吸い込まれて行くが、トンネル内は2車線路としてはちょっと狭苦しい感じだ。 このトンネル前後に通じる国道が、伯母谷ループ橋などもできてこれ程立派になった今、トンネルだけが旧態然としていて取り残された感がある。 しかし、これが伯母峰峠の現在の峠道となる新伯母峯トンネルだ。
   
トンネルを背に県道分岐方向を見る (撮影 2015.10.13)
   

新山葵谷橋 (撮影 2015.10.13)
<新山葵谷橋>
 国道に架かる橋には「新山葵谷橋」と名がある。山葵谷川に架かるが、「新」とあるからには「旧」があろう。これはトンネルと同じ事情と思われる。
 
<旧に山葵谷橋>
 本来、元の国道は現在の県道方向へと通じていた。山葵谷川の左岸をそのままもう200m余り遡り、そこで山葵谷川を渡っていたのだ。 そこに架かる橋が旧の山葵谷橋と思われる。
 
 旧の伯母峯トンネルはその旧の橋を渡った先にあったと推測されるが、さてどこにあったのか。 現在の地形図や道路地図からは消え失せていて、その所在は簡単には分からない。
   
 新伯母峯トンネルの開通で、国道はカーブして山葵谷川を渡って来ている。道の繋がりとしては県道を行く方がやや素直である。昔が偲ばれる。
 
<トンネルの様子>
 伯母峰峠越えは国道169号の最大の難所と言えるだろうか。それが今の新伯母峯トンネルとなる。坑口は黄色いペンキで枠取りされ、どうにか輪郭を保っている。 それがないと、老朽化し薄汚れたコンクリートと暗いトンネル内の境目が分からないかもしれない。トンネル内の天井には一列に寂しく照明が並ぶ。

坑口の様子 (撮影 2015.10.13)
   

トンネル延長 (撮影 2015.10.13)
<トンネル延長>
 坑口左に看板が掛かる。やっとのこと
 「トンネル延長 196 」
 とまで読める。本当は1963mである。これからトンネルに入る車は、その長さを覚悟しなさいということか。
   
<銘板>
 左のトンネル内壁に銘板がある。トンネル延長が1963m、車線幅が5.5mという程度が辛うじて読めるだけで、竣工年などは判別できない。
 
 文献の助けを借りると、竣工は昭和40年(1965年)とのこと。時により昭和41年ともあるが、なかなか古い。トンネル延長1963mは奈良県で最長とのことだが、今現在どうだか分からない。
 

銘板 (撮影 2015.10.13)
かすれてほとんど読めない
   

扁額 (撮影 2015.10.13)
ピンボケ
<扁額>
 トンネル坑口上部にはお決まりの扁額が掛かる。「新伯母峯トンネル」と「峯」の字が使われている。「隧道」ではなく「トンネル」となっているのが、やや時代として新しい点だ。その下には奈良県知事の名が刻まれる。
   
<白い銘板>
 古い銘板とは反対側に白地に青文字で書かれた銘板があり、「新伯母峯トンネル」とある。ルビも振られていて、「しんおばみね」となっている。 やはり「しんおばみね」ではなかった。
 
この白い銘板は比較的新しい。奈良県に限ったことかは分からないが、この辺のトンネルにはみなこの銘板が新設されている。 トンネル名の正式な読み方も分かり、なかなか重宝する。竣工時からある本来の銘板が老朽する中、せめて名前だけでもはっきり分かるように設けられたのだろう。

右側面に白い銘板 (撮影 2015.10.13)
   

坑口上部に道が通じる (撮影 2015.10.13)
<坑口上部に道>
 坑口の上を望むと、ガードレールが横切っているのが分かる。そちらが国道169号の旧道だ。新伯母峯トンネルが開通する直前の峠道となる。現在その道は県道40号となっている。これからそちらへと向かう手はずだ。
   
   
   
県道40号を進む
   
<県道40号>
 名は大台ヶ原公園川上線という。早くから主要地方道に指定されている。一般的には大台ヶ原ドライウェイ(ドライブウェー)と呼ぶ方が通りがいいだろう。 国道から分かれるこの山葵谷口から始まり、大台ケ原への巨大登山基地となる大台ヶ原山上駐車場へと続く、延長約20kmの山岳道路だ。
 
<大台ヶ原ドライウェイ>
 元は、昭和36年(1961年)7月に開通した大台ヶ原有料道路であった。昭和56年(1981年)には一般県道に移管され、全線無料となっている。 道の改修も進み、比較的走り良い道だ。この道の開通や周辺設備の充実もあって、自然豊かな大台ヶ原への登山形態は劇的に変化した。日帰り登山も容易になり、最盛期には1日3,000人もの登山客が訪れるとのこと。
   
<大台ヶ原有料道路>
 県道の起点は新伯母峯トンネル近くの山葵谷口となるが、新伯母峯トンネルの開通は昭和40年で、大台ヶ原有料道路より4年程遅れる。 よって、本来の大台ヶ原有料道路の起点は旧道の峠である伯母峰隧道(旧の伯母峯トンネル)ということになるようだ。 文献でも延長16.25kmと出ていたが、これは峠付近から大台ヶ原駐車場までの距離にほぼ相当する。
 
<大台ヶ原ドライウェイの起点>
 正式には大台ヶ原ドライウェイと呼べるのも、峠以降の道かもしれないが、その点は文献などでも曖昧になっている。一般には国道からの分岐点から既に大台ヶ原ドライウェイだと思っていることが多いのではないだろうか。
 
 現在、反対側の上北山村の旧峠道は道が険しく、上北山村方面(新宮、熊野など)からアクセスする登山客も、一旦新伯母峯トンネルを川上村へとくぐり、山葵谷口から県道40号を走りだす。 しかし、新伯母峯トンネル開通前の数年間は、上北山村の旧峠道も大台ヶ原への登山道路の一部として活躍していたことになる。
   
<山葵谷口より>
 県道40号は山葵谷口から山葵谷の左岸沿いを遡り始める。幸い電光看板には何も表示されていない。 代わりに、「熊野方面には行けません」、「大阪方面には行けません」としつこく立て看板が立つ。あるいは「この道の終点は大台ヶ原駐車場です」ともある。
 
 これは上北山村側の旧峠道が通れないということを示す。でも、通常は大型車でなければ通れないことはない。 しかし、時には通行止の場合もあるだろうから、やや不安は残る。本当に熊野に行きたいだけなら、わざわざ旧峠道などを走らず、新伯母峯トンネルを抜ければいいだけのことだが。
 
<山葵谷左岸沿い>
 大迫ダム以降、国道は新しいトンネルばかりで、その沿道には人家などほとんど見られなかった。これから更に旧道になる訳だが、もうこの先に人家は皆無である。 本来こうした旧道は極めて交通量が少ないのが通例だが、ここは天下の大台ヶ原ドライウェイである。速度が速い乗用車は来るし、時には大型バスも通る。要注意だ。

県道40号入口 (撮影 2015.10.13)
路肩に「行けません」の立て看板が並ぶ
   

山葵谷橋と思われる (撮影 2015.10.13)
<山葵谷橋>
 山葵谷口以降、山葵谷の谷間は徐々に狭まり、高い擁壁も連なって視界が全く広がらない。その暗い川筋を200m程行くと、Uターンするように道は山葵谷を渡る。 そこに小さな橋が架かる。名前は確認してなかったが、多分これが「山葵谷橋」であろう。新伯母峯トンネル開通時に架けられた新山葵谷橋に対する「旧」の山葵谷橋となる。
 
<山葵谷橋以降>
 道は山葵谷の右岸に入ると180度方向転換し、東へと向かう。山葵谷から伯母谷川の谷へと山腹を横断しながら登りだす。常に道の左手に谷を臨む。
   
<県道看板>
 県道沿いには県道番号とその下に「195」などと書かれた小さな看板が時折立っている。数値は100m単位の距離を示し、起点は大台ヶ原駐車場と思われる。山葵谷口の最初には「196」とあったので、県道の延長は19.6kmあるようだ。
 
<道の様子>
 時折狭い箇所があり、乗用車同士の離合も厄介だ。それでいて意外と車が多い。登山客を送って来たのか、タクシーなども降りて来た。 こういう峠道はゆっくり走りたいのだが、すると直ぐに後続車が追い付いて来る。適当な路肩に避けては追い越させるのだが、いちいち面倒である。途中からはさっさと走りざるを得なかった。

左手に県道看板 (撮影 2015.10.13)
ここでは「192」とある
   

道の様子 (撮影 2015.10.13)
やや開けて来た
<高度を上げる>
 山葵谷口から峰の頂上にある大台口隧道までは約4kmの道程で、それほど長くはない。進むに連れて高度を上げ、視界が広くなる。ただ、木立が多く、遠望がある場所は限られる。全般に峠の川上村側ではあまり景色は期待できない。
 
 道は概ね1.5車線幅が維持され、さすがに大台ヶ原ドライウェイとあってかガードレールが完備れている。普通に走る限りには、何の危険もない。 後はただただ、バスがやって来ないことを祈るばかりだ。今回は幸運なことに路上ではバスに遭遇しなかったが、大台ヶ原駐車場では何台かの大型観光バスを見掛けた。
   
開けた所で景色を眺める (撮影 2015.10.13)
山葵谷の上流方向を望む
   
   
   
古道、旧道
   
<古道>
 古くからの伯母峰峠は伯母谷川の上流部に位置する。するとその峠道は伯母谷川沿いに遡るのが普通だが、現在の地形図などではそのような道は記されていない。もう峠の古道に関しては、知るすべもないのかもしれない。
 
 ただ、車道の頂上である大台口隧道の手前700m程に、徒歩道で伯母峰峠に登る道が地形図にある。これが古道の一部かもしれない。 ドラレコ(ドライブ・レコーダー)画像を調べてみると、多分右の写真の箇所となる。電信柱の少し先から右手の山腹へと登り道らしい物が見える。 入口には看板などは見当たらない。古道の跡なのか、単なる登山道や作業道か、不明である。

峠への古道か? (撮影 2015.10.13)
   
<旧道>
 さて、古くからの伯母峰峠の古道と、新伯母峯トンネルが開通する間に、伯母峯隧道を抜ける旧道が存在した筈である。 文献によると、「伯母峯トンネルができたのは昭和15年で、峠下50mの地点である」とのこと。元の峠の鞍部に車道が通じた様子はなく、この昭和15年(1940年) が、伯母峰峠を初めて車道(トンネル)が越えた年になるのであろう。日本が第2次大戦へとまっしぐらに進んで行く最中であった。
   

道の痕跡(左) (撮影 2015.10.13)
<伯母峯隧道の位置>
 現在峠を越える大台口隧道から大台ヶ原駐車場までは16km弱だ。文献では大台ヶ原有料道路は延長16.25kmとある。 よって、大台口隧道の約250m程手前に大台ヶ原有料道路の起点、すなわち伯母峯隧道があったのではないだろうか。また、峠の標高は文献などでは991mとあるが、現在の地形図ではほぼ1,000mだ。峠下50mとなると、標高で950m付近である。
 
<旧道の痕跡>
 丁度その近辺、現在の車道より少し高い所に道の痕跡が確認できた。かなりしっかりした跡だ。ただ、トンネルの坑口などは全く見られない。
   
道の痕跡(中) (撮影 2015.10.13)
   
<川上村側坑口>
 実はこの後、伯母峯隧道の上北山村側の坑口は、丁度この付近の峰の反対側に確認ができた。 思うに、川上村側の伯母峯隧道近くの道は、その後の改修で当初より少し下に通じ、旧道となった道は荒廃、その脇に開いていた坑口もいつしか土砂に埋もれてしまったのではないだろうか。一方、上北山村側では車道の直ぐ脇に坑口があり、そのまま現在に残った。
 
 ただ、現在道路脇に確認できる道の痕跡は、旧峠道とは限らない。伯母峯隧道からは更に大台ヶ原方面へと道が通じていた可能性があり、その部分かもしれない。どちらにしろ、昭和15年から同40年頃までに掛けて、伯母峯隧道が現役だった頃の旧道ではあろう。

道の痕跡(左) (撮影 2015.10.13)
   

伯母峯隧道以降 (撮影 2015.10.13)
<伯母峯隧道以降>
 大台口隧道まで残り200m強。ところでこの道の元は何であったろうか。もう伯母峯隧道を抜ける旧峠道ではない。大台ヶ原有料道路であった可能性が高いが、大台ヶ原有料道路の起点は伯母峯隧道の上北山村側坑口であった可能性も残る(後述)。
 
 どちらにしろ、大台口隧道開通に伴い整備された道であることは確かだろう。「大台口」の名が示すように、大台ヶ原への登山道路を目的として開削されたものと思う。
   
<道の様子>
 道は伯母谷川の源流部を目指す。高度を上げ、空が広くなった。しかし、残念ながら周辺には木々が生い茂り、景色の方は広がらない。

大台口隧道へ (撮影 2015.10.13)
   
   
   
大台口隧道
   
<峠直前>
 大台口隧道の坑口は最後までなかなか姿を現さない。道が広くなり、峰の頂上も近いなと思ったカーブの先が坑口である。
   
大台口隧道直前 (撮影 2015.10.13)
カーブを曲がった先が坑口
   
<大台口隧道>
 初めて大台口隧道を訪れたのは1996年11月3日のことであった。残念ながら隧道を撮った写真はない。当初、大台ヶ原への単なる通過点と思っていた。 ところが大台ヶ原からの帰り道、隧道の上北山村側から直接国道169号へと下る村道があった。大台口隧道は伯母峰峠の直ぐ近くを越えていることもあり、如何にも旧峠らしい存在だ。しかし、トンネルの名前は「大台口」で何だけ変である。どうにも腑に落ちない隧道という感じが残った。
   
大台口隧道の川上村側坑口前 (撮影 2015.10.13)
峰の頂上は直ぐ近くに見える
   
<旧峠の代替峠>
 伯母峯隧道が通れたら、それが正しく新伯母峯トンネルに対する旧道である。それでも、大台口隧道を越える道筋は、その大部分が旧道と一致する。 今の大台口隧道は伯母峯隧道に代わる旧峠と言っても良いのではないだろうか。
 
 ただ、伯母峯隧道からは直ぐに新伯母峯トンネルへとバトンタッチされたものと思う。大台口隧道そのものは本来の峠道として使われた時期は全くなかったのではないだろうか。実質はあくまで大台ヶ原への便宜上のトンネルである。
   

隧道手前の様子 (撮影 2015.10.13)

隧道手前の様子 (撮影 2015.10.13)
景色は広がらない
   
<標高など>
 大台口隧道坑口は、現在の地形図では980m付近(ツーリングマップルでは970m)の標高にある。 その上の峰は1,010m余りで、車道から見上げても、直ぐそこに峰の頂上が見て取れる。元の峠は約1,000の鞍部(文献では991m)に位置し、隧道より水平距離で西に70mくらいだ。峠と大台口隧道は非常に近い関係にある。地形図などでは峠の部分に「伯母峰峠」と書かれているが、まるでこの隧道のことを言っているようでもある。
   
大台口隧道の川上村側坑口 (撮影 2015.10.13)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

扁額 (撮影 2015.10.13)
<扁額>
 扁額には左から右へ「大台口隧道」とある。右から左でないあたりは比較的新しいが、「トンネル」ではなく「隧道」という点は古い。ちなみに昭和40年(1965年)竣工の新伯母峯トンネルは「トンネル」で、1965年より前であることは確かだ。
 
 扁額の下の方には「奈良県知事 奥田良三」とある。調べてみると、奥田良三氏の奈良県知事としての任期は1951年〜1980年であった。大台口隧道の開通は少なくとも1951年(昭和26年)以降である。
   
<白い銘板>
 大台口隧道では入って左手にある。「大台口)(おおだいぐち)トンネル 延長 85.0m 川上村側」とある。
 
 困ったことに、金属製の銘板が見当たらない。古いトンネルには元からそのような銘板がないことがあるが、これではトンネルの竣工日が分からない。新しい白い銘板では、竣工日も書いておいて欲しかった。
 
 扁額の左から右に「隧道」というトンネルでは、国道153号の伊勢神隧道(伊勢神峠)がそうで、昭和35年(1960年)の開通である。県知事の任期などとも考え合わせると、この前後と思われ、大台ヶ原有料道路開通の昭和36年(1961年)にも近い。

白い銘板 (撮影 2015.10.13)
   
坑口を背にして見る (撮影 2015.10.13)
坑口前は広い場所が確保されている
大型バスの通行なども考慮してのことか
   

坑口手前で分岐する林道 (撮影 2015.10.13)
<林道>
 坑口手前を更に東へと林道が分岐している。しかし、バーで通行止だ。路肩に木材などが積まれ、林業用の作業道かとも思われた。伯母谷川の上流部を回り込み、1km程で行き止まっている。
 
 こうした林業用の道は、大台口隧道などとは関係なく、その前から通じていた可能性もある。今は大台ヶ原ドライウェイが幅を利かせているが、どちらが古いかは分からない。道の変遷は複雑だ。
   
   
   
大台口隧道の上北山村側へ
   
<上北山村側へ>
 トンネルはその実際の延長85mより短く感じる。照明など全くないが、真っ直ぐで出口が直ぐ先に見えているのだ。
 
 上北山村側に抜けると、やはり峠らしく、様子が変わる。東の伯母ヶ峯から西の大普賢岳へと連なる稜線の南側に出て来たのである。明るい雰囲気がする。沿道には木々が多く、麓への視界は広がらないが、坑口周辺も広々とした感じがある。

隧道を上北山村側へ抜けたところ (撮影 2015.10.13)
左が大台ヶ原へ、右が村道を国道169号へ
   

大台ヶ原方面への道 (撮影 2015.10.13)
センターラインがある立派な道だ
<大台ヶ原への道>
 それに、ここより大台ヶ原駐車場へと続く大台ヶ原ドライウェイは、如何にも快適そうな広い2車線路だ。県道40号はここより別の道の様相である。
   
大台口隧道の上北山村側坑口 (撮影 2015.10.13)
   
<扁額など>
 上北山村側坑口にも川上村側とほとんど同じ扁額が掛かる。新設の白い銘板も坑口近くのトンネル内壁左側にある。ただ、こちらには「大台ヶ原側」とある。これら以外、やはりこの隧道の開通年を知る手掛かりは見付からなかった。
 
<開通年>
 文献にもなく、ネット検索すると根拠までは確かめられなかったが、昭和34年(1959年)という年が示されているのを見掛けた。 ほぼ推定通りだ。その数年後(昭和36年)に大台ヶ原有料道路が開業している。伯母峯隧道はその有料道路を予定しての開通だろう。また、有料道路の起点は川上村側であったこともはっきりした。

上北山村側の扁額 (撮影 2015.10.13)
   

村道和佐又伯母峰線の入口 (撮影 2015.10.13)
<村道和佐又伯母峰線>
 東へと続く立派な大台ヶ原ドライウェイとは反対側の西へと、狭い道が下って行く。看板などには「村道」としかないが、古いツーリングマップ(1989年7月発行 昭文社)にはしっかり「村道和佐又伯母線」と出ている。文献にも「村道和佐又伯母峰線」とある。これが現在の上北山村側の旧峠道となる。
   
<姨峠(余談)>
 当峠に関しては、天誅組浪士が越えたという史実が幾つかあるようだ。その一つを示す「南雲風雲録」では「姨峠」と書かれていたとのこと。「姨」(おば)の字が用いられていた。
 
 ただ、耳で聞いた「おば」という言葉を文字にする時、たまたま「姨」の字を当てたのではないかと思ったりする。 紙に書かれた文字がまだ溢れていない時代、多くの情報はもっぱら口伝えであったろう。どのような字を使うかまではなかなか分からない。 姨峠の場合はどうだか断定はできないが、当時は当て字が多かったことだけは確かだ。
   
<東熊野街道(余談)>
 当峠は東熊野街道の最大の難所であったそうだ。紀ノ川水系と新宮川水系の分水界をその最も奥まった地で越える峠である。一方、西熊野街道は天辻峠を越えていたようだ。天辻峠も同じ分水界上に位置するが、やや下流側である。
   
   
   
大台ヶ原(寄り道)
   
<大台ヶ原へ>
 峠の旅とは関係ないが、大台ヶ原へちょっと寄り道とする。大台口隧道から少し進むと、直ぐに大台山麓休憩施設の建物やトイレ、展望所がある場所を過ぎる。ただ、展望所の周りは木々に囲まれ、ほとんど眺めが見られない。その先でゲート箇所を過ぎる。
 
 大台口隧道以降の大台ヶ原ドライウェイは、大台ヶ原より続く支脈沿いに進む。いわゆるスカイラインである。これでは開放的なのは当たり前だ。道の途中からは西方面への雄大な眺めが広がる。

ゲート箇所 (撮影 2015.10.13)
   
大台ヶ原ドライウェイ途中より (撮影 2015.10.13)
   

大台ヶ原ドライウェイ開通記念 (撮影 2015.10.13)
<大台ヶ原ドライウェイ開通記念碑>
 終点の大台ヶ原駐車場は予想以上に広い。それでも満杯になることがあるようだ。
 
 駐車場への入口近くに、「大台ヶ原ドライウェイ開通記念」と刻まれた記念碑が立つ。日付は「昭和36年7月7日」とあり、文献の記述とも一致する。下に大台口隧道の扁額と同じ県知事名が書かれていた。
   

大台ヶ原駐車場 1/3 (撮影 2015.10.13)

大台ヶ原駐車場 2/3 (撮影 2015.10.13)
   
<駐車場>
 1996年に訪れた時と今とでは、大台ヶ原駐車場の様子は違うようだ。その後、拡張されたのだろうか。やたらと広く感じた。
 
<混雑>
 今回訪れるについて、大きな懸念が一つあった。初めて訪れた時、駐車場が大混雑し、車道まで車が溢れていたのだ。それで苦労した覚えがあり、今回はどんな状況だろうかと不安だったが、事なきを得た。

大台ヶ原駐車場 3/3 (撮影 2015.10.13)
   
以前の大台ヶ原駐車場 (撮影 1996.11. 3)
   

混雑する大台ヶ原ドライウェイ (撮影 1996.11. 3)
前方からバスがやって来た
<以前の経験>
 初めて来た時は、大台ヶ原駐車場に近付くに従い、路肩に車が並びだした。しかも、両側にだ。道路の真ん中にやっと車一台が通れる隙間しか残っていない。 もう身動きができず、そのまま前進するしかない。その時、前方から大きなバスがやって来た。 これには慌てる。どうにか路肩に車一台分のスペースを見付け、やっとジムニーを縦列駐車させる。
 
 その後、大台ヶ原駐車場近辺を散策する。しかし、元々登山目的ではない。単に大台ヶ原ドライウェイがどんな道なのか、その終点とはどんな所かと思って来たまでのことである。 ドライウェイ途中からは既に壮大な眺めを堪能したし、駐車場周辺は混雑するばかりであまり景色は広がらないので、さっさと引き返すこととした。
   
<日出ヶ岳>
 大台ヶ原とは幾つかの山の総称で、その最高峰は日出ヶ岳(1,696m)となる。日本百名山だ。今回も登山目的ではなかったが、調べてみると駐車場から比較的近い。急きょ、日出ヶ岳まで往復することとした。
 
 途中、三重・奈良県境にある正木峠(まさきとうげ)も見て来ようと思ったのだが、正木峠は稜線の鞍部ではなく、ちょっとした山であることが判明した。峠と名が付いても鞍部を越える道ではないと面白くない。寄らずに日出ヶ岳を目指した。
 
<お気楽百名山(余談)>
 二十歳代の頃は毎週のように低山ばかりを登っていた。それ程、山歩きが好きだったが、日本百名山のような本格的な登山はほとんど経験したことがない。 近頃は尚更体力的に無理だ。そこで、日本百名山の内、なるべく簡単に登れる山はないかと考えた。 最近は登山道路やロープウェイ、リフトなどが発達し、昔より簡単に登れる状況にある日本百名山が存在する。それを「お気楽百名山」と呼んでいる。 2014年には伊吹山に登ったが、意気込んで臨んだ割には拍子抜けする程容易だった。かなり年配の登山客が列を成して歩いていた。今回の日出ヶ岳はその伊吹山より更に容易だったように思う。季節や気候にも影響されるが、お気楽百名山の内、No.1ではないだろうか。
   
日出ヶ岳山頂より西方を眺める (撮影 2015.10.13)
このどこかに大普賢岳も見えていることになる
   
   
   
村道和佐又伯母峰線を下る
   
<和佐又>
 村道和佐又伯母峰線の名前にある「和佐又」(わさまた)とは、上北山村側にある地名のようである。 北山川の上流部の支流に和佐又谷があり、近くに和佐又山や和佐又スキー場なども見られる。広くは大字西原(にしはら)の地区内に属すが、以前は和佐又という集落さえもあったかと思う。ただ、現在は人家などは見られないようだ。 村道和佐又伯母峰線は大台口隧道から北山川の本流沿いを下り、和佐又谷との合流点付近へと降り立つ。
 
<看板>
 村道に関する看板には、「この先幅員狭小のため 幅2.5m 長さ10.3m ホイールベース4.8mを越える車両は通り抜けできません」などとある。 自分が乗っている車の諸元でもなかなか覚えていられないが、いつもの軽自動車のパジェロ・ミニである。これが通れない訳はない。

村道和佐又伯母峰線入口 (撮影 2015.10.13)
右手に
「ならクル 北山川ルート 北部一周コース 道の駅」の看板
   
入口脇に立つ看板 (撮影 2015.10.13)
古そうな木の看板には「上北山温泉」、「小処温泉」、「・・・のみち」などと案内が書かれる
   
<道路状況>
 ただ、この村道は時折通行止にもなるようだ。幸運なことに、初めて来た時も今回も、無事に通れる運びとなった。 古いツーリングマップでは一本線で描かれる未舗装路であった。その後のツーリングマップル(1997年3月発行)では峠の方から1km程だけが舗装路に変わっていた。しかし、1996年に訪れた時、険しい未舗装路が残っていた記憶はない。その頃にはもう全線舗装路になっていたのではないだろうか。
   

工事個所 (撮影 2015.10.13)
<工事個所>
 村道に入って直ぐ、工事車両が何台か並んでいた。急な斜面に梯子が掛けられ、その上の方で工事を行っている様子だ。
 
 この付近の地形は、見るからに険しい。法面の土肌もあらわだ。金属ネットで覆われている箇所もある。改修途上という感じがした。
   
 上を望むと何やら構造物が見られた。後で分かったことだが、送電線の工事でも行っていたのではないかと思う。

稜線の上の方を望む (撮影 2015.10.13)
   

稜線方向を望む (撮影 2015.10.13)
 工事個所を少し過ぎた所より振り返ると、工事用の梯子を登った上に電信柱が見える。その辺りが道のようになっている。これらは工事によって作られた物かもしれないが、伯母峰峠を下って来た峠道かもしれない。少なくともその辺りに古道は通じていた筈だ。
   
<古道の山道?>
 工事個所を更に少し進むと、右手より急斜面を山道が一本下って来ていた。地形図では、峠から車道へと徒歩道が下って来ている。それだろうか。

右手より山道が下って来ている (撮影 2015.10.13)
   

山道の脇に標柱が立つ (撮影 2015.10.13)
<標柱>
 その山道の入口に古そうな木製の標柱が一本立つ。「和佐又方面(1時間30分)」とある。 また、「おつかれさまでした。またのお越しをお待ちしています」ともあるようだ。これは登山案内の道標であろう。 やはりその山道は峠より下って来た道と思われる。すなわち伯母峰峠の古道の痕跡ということになるのではないだろうか。標柱には他にも何か書かれていたが、もう判読できなかった。
 
 
<峠遠望>
 大台山麓休憩施設のある展望台から、峠部分が僅かに見える(下の写真)。右手の林に隠れて、峠そのものは望めないが、そこから左下へと下る峠道付近は視界にある。稜線の上へと送電線らしい物が延び、現在その工事が行われているものと思う。
   
大台山麓休憩施設の展望台から望む (撮影 2015.10.13)
右手の上の方が伯母峰峠だと思う
正面の中段ぐらいに峠道の古道が通じていたのだろう
下に通じる村道は林で見えていない
   
<伯母峯隧道の上北山村側坑口>
 古いツーリングマップをしげしげ見ると、大台口隧道より数100m下った辺り、小さくトンネルの坑口が描かれている。 これが古い伯母峯隧道の上北山村側坑口と気付いたのは後々のことだ。北山川の谷の右岸沿いに下る村道は、左手に谷が広がる。 そちらばかり気にしていたら、直ぐ右手にあった筈のトンネル坑口を完全に見逃してしまっていた。 ドラレコ画像を確認すると、やっと坑口らしい物が写っている箇所を見付けた(右の写真)。丁度左カーブの奥に位置し、手前からは隠れて見え難かったようだ。
 
 全く惜しいことをした。しっかり見ておきたかったものだ。それがこの伯母峰峠に初めて車道が通じた時の峠の遺構であるのだ。昭和15年(1940年)、今から75年前の戦前のことである。扁額は右から左へ「隧道」であろうか。

右手に伯母峯隧道の坑口 (撮影 2015.10.13)
   
<大台ヶ原有料道路のコース>
 大台ヶ原ドライウェイの終点である大台ヶ原駐車場は上北山村にあり、道の大多数も上北山村に属す。しかし、当初の大台ヶ原有料道路の起点は何故か伯母峯隧道の川上村側坑口付近となった。
 
 これは、元からある伯母峯隧道を越える峠道の川上村側の方が、大台ヶ原有料道路起点までのアクセス路として、より容易な道だったからではないだろうか。 山葵谷沿いから山腹を登り始めて川上村坑口に至るまで、3km余りと距離は短い。 一方、上北山村側坑口から北山川の谷に沿って和佐又谷合流点付近(後の国道169号沿い)まで下るのに、倍近い道程が必要である。峠の上北山村は地形的にも険しい。それが現在の村道和佐又伯母峰線の険しさに残っている。
 
 更に、大台ヶ原有料道路としては大型バスによる登山客の大量輸送も考慮したであろう。その点、伯母峯隧道には不都合があったのではなかろうか。 大型バスを通すにはトンネル規模が小さかったのではないか。 あるいは、トンネル前後では、峰に並行に通じていた道が峰の直角方向に90度曲がってトンネルを抜けなければならない。大型車を通すだけのコース取りが困難であったのではないか。
 
 そこで、前もって大台口隧道(昭和34年)を掘って川上村と上北山村を結び、川上村側を起点とする大台ヶ原有料道路(昭和36年)を開通させたのではないか。 後の新伯母峯トンネル開通(昭和40年、もしくは41年)も念頭に置いてのことだったであろう。上北山村側からも新トンネル経由で行ける。
   
<伯母峯隧道の終焉>
 大台ヶ原有料道路の開削時、合わせて元の峠道部分も改修されたものと思う。その折、伯母峯隧道坑口と新しい路面との間に段差が生じてしまったようだ。これが、川上村側坑口が閉ざされる遠因であろう。
 
 ただ、大台ヶ原有料道路の起点が坑口付近であったということは、単に伯母峰峠を越えるだけの車は、相変わらず伯母峯隧道を通行できたものと思う。少なくとも新伯母峯トンネルが開通するまでは、やはり伯母峯隧道は現役だったのではないか。
 
<旧道の代替路>
 伯母峯隧道を閉じるには、いくら旧道といってもその峠道の代替路が必要であろう。大型バスも通す大台口隧道を活用する上でも、上北山村側で伯母峯隧道と大台口隧道の坑口同士を繋がなければならない。
 
 実は、古いツーリングマップ(1989年7月発行)では、その間の道はまだ描かれていないのだ。 また、後のツーリングマップル(1997年3月発行)では、逆に村道和佐又伯母峰線の内、その付近のみが舗装路となっている。この300m程の区間は、送電線の工事を行っていた付近だが、山腹の傾斜は急で道を 通すには特に険しい地形だ。多分、この区間が伯母峰峠では最も後になって車道開削された部分ではないか。開削と同時に舗装化したので、上北山村側に通じる村道の中で最も最初の舗装区間ともなったのではないか。
 
 上北山村側代替路の完成を待って伯母峯隧道は閉じられ、昭和15年からの伯母峰峠の峠道としての役目を終えていったのであろう。今、その痕跡が上北山村側の坑口として残る。やや哀れな状況である。
   
<峠にまつわる複雑な事情>
 以上の推測で、一通りの結論が出たかと思ったが、そうは問屋が卸さなかった。文献(角川日本地名大辞典)の「伯母谷(近代)」の項に、「明治33年伯母峰の峠道は県道となり、同40年上北山村まで開通。昭和3年乗合バスが走る。昭和41年新伯母峰トンネルが完成。」とあるのだ。
 
 昭和15年の伯母峯隧道の開通で、初めて伯母峰峠を車が越えたと思ったが、昭和3年に乗合バスが走るとはどういうことか。トンネルではない峰の上をバスが越えたというのか。これでは振り出しである。文献の記述が間違いであることを思うばかりだ。
   
   
   
伯母峯隧道坑口以降
   

「ならクル」の看板 (撮影 2015.10.13)
<伯母峯隧道坑口以降>
 ここから下は昭和15年に伯母峯隧道が開通した時からの峠道だ。幾分かの拡幅や舗装化は行われたが、ほぼ昔からの峠道の面影を残しているものと思う。 今は村道の身だが、以前は県道から更に国道169号としても利用された道である。75年以上もの月日の流れを味わいたい。
 
 また、古くから伯母峰峠を越えていた古道ともその道筋をほほ同じくするものと思う。周囲の山々の景色はこの峠道を歩いて越えた旅人も眺めたことであろう。 熊野三山へ詣でる多くの者が下り、また天誅組の浪士がこの坂を上って行った。
 
 沿道の所々に「ならクル」の看板が立つ。今は自転車コースとして利用されていた。
   
<道の様子>
 この村道和佐又伯母峰線の道路地図での扱いは酷い。最近のツーリングマップル(2015年8版1刷発行)でも伯母峯隧道坑口より下がまだ未舗装扱いになっている。 Google マップなどに至っては、そもそも道が存在しない。辛うじて道が表示されるマップでも、ルート検索しようとすると無視される。 村道の始点から終点までの距離を測ろうとすると、新伯母峯トンネルから大台ヶ原ドライウェイを迂回してしまう。勿論経由地の設定もできない。 それ程酷い評価を受けているのだ。これでは誰も通らない。

道の様子 (撮影 2015.10.13)
全く険しくない
   

この先やや狭い (撮影 2015.10.13)

 実際は、上北山村側の大台ヶ原ドライウェイと比べても大差ないように思う。さすがに急カーブが連続し、バスなどの通行は難しい。しかし、至って普通の車道である。
 
 他の峠道と比較しても、まだいい方の部類だ。前々回に掲載した「熊谷味取線の峠」の兵庫県道550号に比べたら、天国のようである。
 
 道幅もほとんど問題ない。僅かに狭い区間はあるものの、険しさなどは全く感じない。
   
 こうした状況は、多分、鋭意改修が進んでいるからであろう。新しそうなアスファルト路面やまだ鮮やかな白色を見せる白線が目に付く。 この現状が今の道路地図には反映されていない。しかし、そのお陰もあって、対向車など一台もやって来ない。 のんびり走っいても、追い付いて来る車もバイクない。村道を独り占めである。
 
 ただ、やや退屈である。何でもない道を延々と下ることになる。伯母ヶ峯方面から下る北山川源流の谷は深く、ほとんど景色は広がらない。沿道に見るべき物もない。75年の歴史も、噛み締めようがない。

道の様子 (撮影 2015.10.13)
   
<峠方向を望む>
 やっと、峠方向に景色が望めた(下の写真)。伯母ヶ峯から南に連なる支脈の稜線に沿って、大台ヶ原ドライウェイの道筋が見える。壮大なものだ。左の方にある僅かな鞍部は伯母峰峠であろうか。遠望なので、やや確信が持てない。
   
峠方向を望む (撮影 2015.10.13)
稜線近くを大台ヶ原ドライウェイが通る
   
<地蔵>
 沿道にやっと歴史を感じた。村道をもう8割くらい下って来た所で、路傍に木製のお堂があり、中に錫杖(しゃくじょう)を持つ地蔵が佇んでいた。詳しくは見なかったが、江戸時代からの物ではないだろうか。この小さな地蔵がこの道の歴史の深さを物語っていた。
   

路傍にお堂 (撮影 2015.10.13)

地蔵菩薩 (撮影 2015.10.13)
   

北山川沿いの道 (撮影 2015.10.13)
<北山川沿い>
 地蔵付近では道はほぼ北山川に沿って下る。ただ、川筋からはやや離れているので、川の流れなどは全く望めない。
 
<和佐又谷へ迂回>
 地形図を見ると一目瞭然だが、道は北山川沿いから一旦支流の和佐又谷に回り込む。その部分で北山川沿いが険しい為だろうか。
   
<猪笹王霊神>
 北山川と和佐又谷とで挟まれる三角地帯に、小さなピークがある。その脇を通る時、鳥居が立っていた。石柱に「猪笹王霊神 此ノ上」とある。その小さな丘の上に猪笹王霊神(いざさおうれいじん)を祀る神社が立つようだ。「
此ノ上」とあるからは、他にも霊廟はあるのだろう。
 
 説明文では、猪笹王の怨霊が鬼となって里人や旅人に祟りや災いをもたらしたとあるが、毎年12月20日に峠に出没する食人の鬼と、この猪笹王の怨霊は関係するのだろうか。別物かもしれないが、話としては近い存在だ。この神社は猪笹王の霊魂を鎮める為のものだそうだ。

猪笹王霊廟 (撮影 2015.10.13)
   

猪笹王霊神の看板 (撮影 2015.10.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)


猪笹王霊廟への道 (撮影 2015.10.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
   尚、最初に猪笹王を鉄砲で撃ったのは、天ヶ瀬(あまがせ)の里人射場兵庫(いばひょうご)と具体的である。 天ヶ瀬は北山村西原にある集落で行者還峠(トンネル)への起点となる。しかし、今は住む人は絶えて居ないようだ。
   
   
   
和佐又谷迂回
   
<和佐又谷>
 道は200m程和佐又谷を上流側に進む。新伯母峯トンネルを上北山村側に抜けた現在の国道169号は、この和佐又谷の川沿いに下っている。暫くすると、その国道が上の方に見えて来る。その先で道は和佐又谷の左岸から右岸へとUターンするように渡る。
   
この先で和佐又谷を渡る (撮影 2015.10.13)
上の方に国道169号が見える
   
<和佐又橋>
 その橋の名は和佐又橋とある。いつ頃から架けられた橋であろうか、なかなか古そうだ。多分、伯母峯隧道が通じた昭和15年前後であろう。
 
<和佐又川>
 尚、地形図ではここで渡る川を「和佐又谷」と記している。物によっては「和佐又谷川」とする資料もある。和佐又橋に刻まれた文字では単に「和佐又川」(わさまたがわ)であった。この方が分かり易い。
   

和佐又谷を渡る (撮影 2015.10.13)
もしかしたら、この橋を渡った先が
直ぐに国道だった時期があるかもしれない

和佐又橋とある (撮影 2015.10.13)
   

右手に国道の旧道が見える (撮影 2015.10.13)
<国道の旧道>
 道は和佐又谷の右岸沿いに下る。間もなく、右手の上に国道169号が見えて来る。しかし、これは既に旧道の身だった。今は新伯母峯トンネルに続いて和佐又トンネルが通じている。現在の村道は、そのトンネル区間の旧国道部分に接続するのだ。
   
<旧国道に接続>
 少し坂を上って旧国道に合する。旧国道を峠方向に見ると通行止であった。まだまだ立派な道だが、惜しいことだ。村道方向には、例の「幅員狭小」の看板が立つ。

この先で国道の旧道に合する (撮影 2015.10.13)
   
旧国道を望む (撮影 2015.10.13)
通行止
   

峠方向に見る (撮影 2015.10.13)
左が旧国道、右が村道
 考えてみれば、村道和佐又伯母峰線自身も旧国道であった。ここでは3世代の国道が隣接して通る。
 
 余談だが、和佐又橋を渡ってからの村道と旧国道の並走区間は350m程とやや長い。 古いツーリングマップでは、村道が和佐又橋を渡った直後、国道に接続している。現在の和佐又谷右岸沿いの道は、かつては新伯母峯トンネルを越えて来た国道ではなかったか・・・。いい加減に詮索はやめておこう。
   
<旧国道沿い>
 和佐又トンネル区間の旧国道は立派である。その内、ここは村道和佐又伯母峰線の一部に編入されるのだろうか。

旧国道沿い (撮影 2015.10.13)
   
   
   
国道に接続
   

この先で国道に接続 (撮影 2015.10.13)
<国道に接続>
 旧国道は間もなく新しい国道に接続する。アンカーを打ち込んだ大規模な擁壁沿いに新国道は通じる。後を振り返ると、和佐又トンネルの坑口が見える(下の写真)。
 
<右折禁止>
 国道への接続部分は、何と右折禁止だ。村道を下って来た車は、国道を新伯母峯トンネル方向には曲がれない。 新伯母峯トンネルの上北山村側坑口でも見学して来ようと思ったが、取りやめとする。そのトンネルを最後に抜けたのは、もう15年近く前の2001年のことである。写真などは撮っておかなかった。トンネル前後はどんどん立派になるが、あのトンネルだけが残されていくようだ。
   
和佐又トンネルを望む (撮影 2015.10.13)
   
<国道沿い>
 和佐又トンネル以降は、直ぐに元の国道の道筋である。しかし、改修は続けられているのだろう。立派な道だ。
 
<日浦(余談)>
 この辺りに通じていた元の東熊野街道は、北山川の河岸段丘の上の方にあった。 現在の地形図に見ると、日浦(ひうら)などといった集落を通る徒歩道が描かれている。国道はそこよりずっと下に通じる。国道沿いからは、そうした古くからの日浦などの集落の様子はうかがい知ることもできない。古くは熊野詣での旅人で賑わったこともあったろう。
 
 現在の国道沿いには全く集落は見当たらない。しかし、日浦集落なども既に無住の地ではないかと思う。幹線路から大きく外れ、車道もままならない集落は、現代では生き延びられない。

やっと国道沿い (撮影 2015.10.13)
   
<峠道の終点>
 北山川本流沿いに下る伯母峰峠の峠道は、その終点は北山川がその本流である熊野川(新宮川)に流れ込む地点に求めなければならない。 場所は新宮市の宮井大橋付近である。ここより60〜70kmもあろうか。そんな長い峠の旅はしていられない。 この先、天ケ瀬で北山川沿いからそれ、行者還トンネルへと向かう予定だ。
   
   
   
 今回の峠は、最初に越えた時からあまり峠道らしく思えなかった。 頂上にある大台口隧道が、そもそも峠道用に通じたトンネルではなかったことが、どことなく影響しているのだろうか。 大台ヶ原へと向かう多くの登山客も、峠を越えるという認識は全くないであろう。それに峠道の変遷があまりに複雑である。まだ大きな勘違いを残しているのではないかと不安に思う、伯母峰峠であった。
   
   
   
<走行日>
・1996.11. 3 川上村 → 上北山村 ジムニーにて
・2001. 5. 5 上北山村 → 川上村(新伯母峯トンネル通過) ジムニーにて
・2015.10.13 川上村 → 上北山村 パジェロ・ミニにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 29 奈良県 1990年 3月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・川上村、上北山村、大台ヶ原関係の各種観光パンフレット
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、 こちらを参照 ⇒  資料
 
<1997〜2016 Copyright 蓑上誠一>
   
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