峠と旅
尾平越 (尾平越隧道)
 
おびらごえ
 
第2話
 
舗装化されて登山者で賑わう峠
 
    
 
尾平越
尾平越 (撮影 2003. 4.29)
隧道のこちらは宮崎県高千穂町(たかちほちょう)仲の内
反対側は大分県緒方町(おがたまち)尾平
隧道の標高は977.7m(文献より)
道は県道(主要地方道)7号・緒方高千穂線
 
 九州を旅する時、いつも気になる峠がある。それが尾平越だ。他にも九州には、長く険しい林道の峠として椎矢峠があったり、元は国道だったがトンネル開通により旧道となり、さびれた国見峠があったり、拾い上げれば幾つかの興味深い峠を思い出す。そんな中でも、この尾平越は特に外すことのできない存在だ。九州の峠として5本の指に入れてもいいのではないかと思う。
 
 尾平峠の道は歴(れっき)とした県道、しかも主要地方道で、未舗装の険しい林道や朽ちかけた旧道などとは訳が違うが、とにかく道程の長さが半端ではないのだ。細々とした道が峠の大分県側にも宮崎県側にも延々と続いている。初めて峠に立った時のあの感触は忘れることができない。人里から隔絶した別世界のように感じたものだった。
 
 あれからもう10年が経つ。その間、もう一度あの尾平越を堪能したいと願っていても、なかなか実現できなかった。5年前に訪れる機会を得たが、通行止で断念せざるを得なかった。
 
 それがやっと去年(2003年)の九州旅行で再訪することができたのだった。
 
    
 
 2003年のゴールデンウィーク。久しぶりにひどい船酔いに悩まされながらも、どうにか無事に九州上陸を果たしたと思ったら、今度はひどい喉の炎症が起こり、発熱や倦怠感で散々の旅となった。それでも、待ち望んだ尾平越を前にすると、体調の悪さも忘れてしまい、こまめに車を止めては、写真を撮ったりするのだった。
 

米山の集落 (峠方向を向く)
右に県道410号が分岐
その先で道が急に狭くなる
<米山の集落>
 
 峠道となる県道7号は、大分県緒方町側では国道502号から分岐して始まっている。1度目(1994年)に峠越えした時は、律儀にもその県道の最初から走り始め、ついでに原尻の滝も見物したのだった。今回は西の方から県道410号・牧口徳田竹田線を走って、県道7号の横っ腹に出た。そこは、米山(こめやま)という集落だ。ここには覚えがあった。4年前(1999年)に訪れた時は、東の方からやって来て、やはりここに出ている。1度走った国道など、なるべく走らないようにしていると、こうなるのであった。
 
 米山はちょっと特徴がある。2車線路が峠に向かって唐突に狭い1車線路に変わる。片側の車線がそっくりなくなっているかのようである。周辺には人家が建ち並び、僅かながら商店もある。この先の沿道ではほとんど人影を見ないのだが、ここではたまたまの偶然なのか、地元の人が歩いているところを目撃した。時折車が通り過ぎるだけでなく、やはり人通りがあってこそ集落らしいと思える。
 
 県道410号への分岐には、次の道路標識がある。
 
 ↑宮崎県高千穂町
 →竹田市入田
 
 また、県道410号から県道7号に向いた方向には、次のようにある。
 
 ↑石仏・荒平の池
 →高千穂・尾平
 ←原尻の滝
 
 懐かしい原尻の滝の文字見られる。今では道の駅ができているようだ。ただ、道路標識に距離が書かれていないのが残念である。横から飛び出て来た米山が、県道7号のどの辺りに位置するのか、直ぐには分からないからだ。 

米山の県道410号との交差点
 

人通りがある (撮影 1999. 5. 3)
道路右端の看板に「大規模林道」とあった
 地図を見て調べると、尾平越まで、更には高千穂町の市街まで、まだまだ気の遠くなる距離が残っている。
 
 米山から急に狭くなる県道を写した写真をよくよく眺めていると、峠方向に向かって「大規模林道」と書かれた小さな看板あるのを見付けた。これは想像だが、米山から先の道は、米山を起点とした林道だった時期が、遠い昔にあったのかもしれない。その名残が、この急に狭くなる道ではないか。
 

以前、通行止で峠越えを断念した場所
偶然、今回も撮影していた
 米山を過ぎた少し先で、今度は東方向に県道410号が分岐して行く。これを逃すと、もう尾平越を迂回する目ぼしい経路がない。文字通りの一本道となる。
 
 1999年に訪れた時は、米山の直ぐ先で通行止の看板が立っていた。道路脇にポツンとあるだけで、下手をすれば見過ごすところだった。通行止の真偽の程は分からず、そのまま進んでみようかとも思ったが、通れない時には随分長い距離を戻って来なければならない。仕方なく峠越えは諦め、東の杉ヶ越へと迂回したのだった。
 
 1999年の通行止の看板。
 
     道路情報
   全面通行止(落石)
区間 緒方高千穂線 尾平鉱山
期間 当分の間
 

通行止の看板 (撮影 1999. 5. 3)
 

峠に向けて快適な2車線路
奧岳川の支流を渡る
 道は、集落内の狭い所があるかと思うと、快適な2車線路となったりもする。路面のアスファルトや白線が新しかったりして、部分部分で改修が行われている様子だ。
 
 道のアップ・ダウンは比較的多く、それでいて峠に登って行く感じがしない。地図をよく見ると、県道7号は原尻の滝がある緒方川から、その支流の徳田川にと沿うが、米山からは一旦川から離れ、次には別の奥岳川(奧嶽川)に沿って峠に向かうことになる。これまで原尻からずっと同じ川に沿っているのかと思っていたら、そうではなかった。それで、途中でちょっとした峠越えの様な道を行くのであった。また、奧岳川沿いになってからも、小さなアップ・ダウンを繰り返しながら、結局水平移動ばかりしているようで、なかなか高度が上っていかない。
 
 道はバス路線で、ぽつりぽつりとバス停が現れる。緒方町の町営バスである。バス停に書かれた名前で、その集落が分かり、現在地が地図から読み取れる。沿道にこれといって見るものがないので、こうした集落にでも関心を寄せる。
 
 中村という集落を過ぎる。集落内は決まって道が狭く、人家の軒先をかすめて県道が通る。こじんまりした家屋に、花の垣根がきれいに整えられている。のどかで素朴な雰囲気だ。バイクや車の騒音に夜ごと悩まされるようなこともなく、平和に落ち着いて暮らせそうで、羨ましい。
 
 困ったことに、同伴の友人が先ほどからトイレに行きたがっている。自分のことより他人のことの方が、かえって気になるものだ。男なら適当に済ませられるが、女性ではそうもいかない。道沿いにトイレを探すが、皆無である。

中村という集落を過ぎる
 
徐々に峠の峰が望めるようになる
 

尾平の集落 (緒方町の市街方向を向く)
<大分県側最後の集落>
 
 右手に「尾平鉱山」というバス停が現れた。バス停に並んで、ポツリと一軒の民家がある。ここが大分県側最後の集落、尾平であろう。人家は他に見当たらず、本当にこれが最後の一軒である。
 
 その庭先では鶏がけたたましく鳴いている。おばあさんが1人、庭に出て何か作業している。こういう所に若くてきれいな女性が居ることは絶対なく、年寄りばかりとなる。家が車道の直ぐ脇では通る車の騒音がうるさいかもしれないが、あるいは、時折でも通る車のエンジン音でも聞かなければ、人里離れて寂しいのかもしれない。
 
<峠への本格的な登り>
 
 尾平の人家を過ぎた直ぐ先で、道は鋭く左にカーブし、いよいよここより峠に向けての本格的な登りが開始される。木々の間から峠の峰が僅かにのぞいた。
 
 狭い坂を登り始めて直ぐ左に、祖母山麓尾平青少年旅行村がある。その前にも尾平鉱山という名前のバス停が立つ。1日5便の時刻が記されていた。町営バスはここまである。
 
 この青少年旅行村でトイレを借りようかとも思ったが、建物は林の中に囲まれていて、何となく入りにくい雰囲気である。そのまま、峠道へと突入することとなった。

尾平集落の先
ここより本格的な登りが始まる
 

木の間から僅かに峠の峰がのぞく
<大分側のクライマックス>
 
 青少年旅行村の先で、右手に尾平越への登山道が始まっている。「車の人 歩く人」と面白い看板が張ってある。旅行村に宿泊した青少年たちが、峠に登ったりするのだろうか。それにしても、歩くにはまだまだ遠い、尾平越だと思うのだが。
 
 登山道はほぼ真っ直ぐ峠に向かっているようだが、車道の方は峠とほとんど反対方向へと大回りを始める。道はほぼ一本調子のきつい登りである。この部分がなかなかダイナミックなのだ。いかにも山岳道路といった雰囲気である。道は所々狭く、険しさに拍車をかける。この先、一体どこへ連れて行かれるのだろうかと、行く先に目を凝らすことになる。
 
<広い道へ>
 
 高度を上げると林から出て眺めが広がる。道はまた大きく方向転換し、今度は南の峠に向かって、ほぼ真っ直ぐ進む。比較的勾配も緩やかになる。峠方向への眺望は得られないが、これまで登って来た奥岳川の谷が、進行方向右手に広がりだす。
 

奥岳川の谷間の方向を望む
 

意外と広い道となる
 いよいよ峠が近いが、それにしては意外と道幅がある。屈曲は多いが走りやすい道となった。これなら対向車があっても大丈夫である。下界の集落内などより、ずっといい道なのであった。
 
 今はこの峠道は県道(主要地方道)となっているが、昔は林道であった可能性があることは、米山で見かけた「大規模林道」の文字からも想像される。また尾平集落から県道を外れ、西の祖母山方向に伸びる林道があるようだが、その名前は「尾平林道・祖母支線」である。されば、本線となる「尾平林道」があったであろうし、それがこの峠道である可能性がある。古(いにしえ)の「尾平林道」を夢想するのであった。
 
    
 
<峠の大分県側>
 
 いい道はそのまま尾平越隧道の坑口へと続いていた。峠への登りの後半は、比較的あっさりしたものだった。道は最後に左に曲がってトンネル内に入って行く。トンネルの手前にはちょっとした広場がある。折りしも登山者のものらしい車が何台か並んでいて、ほぼ満杯状態であった。
 
 最初に来た時の隧道の写真と、現在のものとを比べて見ると、それ程変わりはない。隧道に向かって右側の句碑も以前からちゃんとあった。トンネル頭上に掲げられた「トンネル内幅員狭小につき通行中」という黄色い看板が目新しいくらいである。

隧道の大分県側
 

10年前の隧道 (撮影 1994. 5.25)
 しかし、漠然とした雰囲気が違う。人影は認められないが、停められた車が多く、何となく俗っぽい。初めて訪れた時は、勿論私以外に一台の車も停められてなく、途中ですれ違う車もなかった。峠に1人立つと、怖いほどに森閑とした気配を感じた。今はそれがない。
 
<大分県側の句碑>
 
 尾平越隧道の両県の坑口近くには、それぞれ違った句碑が立っている。それ程目立ってはいないし、読もうとしても字体を崩した文字で、こうした文字に慣れていないとなかなか読めない。大分県側にある句碑は、次のようにあるようだ。
 
鹿逐ふて
来たる
紅葉の
尾平越
 
 「逐ふ」は「追う」であろう。句の最後に作者の名前も書いてあるのだが、こちらは私には全く判読不能。

大分県側の句碑
 

峠の大分県側

大分県側に下る道
 
<大分県側の眺め>
 
 駐車場となっている広場の端に立ち、大分県側を眺めると、奧岳川上流の谷を挟んで、宮崎県との稜線上にある祖母山から北東に伸びる尾根が目の前に迫る。山深さはあるが、その尾根が邪魔をしてその先の眺めがない。ここまで遡ってきた奧岳川の谷間は、その手前をもっと右手に伸びているのだろうが、山影が視界の邪魔をする。でも、最初に来た時は霧がかかっていて、こうした眺めであることも知らぬままだった。

峠からの大分県側の眺め
 
峠の宮崎県側にあった看板より
 
    
 
<尾平越隧道>
 
 照明のない暗い尾平越隧道を抜けて宮崎県側に入る。坑口の上に掲げてある標識には、「尾平越隧道」とあるが、一般の道路地図や国土地理院の地形図の標記では、どれも「尾平越トンネル」となっているようだ。隧道の直ぐ側に立つ県道標識に記載された住所は、それぞれ「緒方町尾平」と「高千穂町仲の内」であった。
 
 
<峠道の変遷>
 
 尾平越隧道の上方には、東の本谷山(1,642.9m)と西の古祖母山(ふるそぼさん、1,633.1)との鞍部に、本来の尾平越の峠があるそうだ。標高は約1,170mで大分県緒方町尾平鉱山(字コシキ)と宮崎県高千穂町上岩戸(字常光寺坂)との境と資料にあった。
 
 旧道は高千穂町側に流れる岩戸川の源流部登尾・中野内から峠に達し、緒方町の尾平に下る急峻な山道で、古くは「三本松越」と称したそうだ。
 
 その峠の下に作られた現在の隧道は、昭和37年1月着工で昭和41年2月竣工だそうだ。全長578m、幅員6.6m、高さ4.5m(資料より)。

隧道の宮崎県側
 
 隧道の宮崎県側にも句碑が立つが、その台座に隧道や林道の開削にまつわる経緯が記してある。それによると、隧道を含む延長18kmの林道は、昭和33年9月の起工で、昭和42年8月21日に開通したとある。
 
 その林道の名前や18kmの区間がどこであるのか分からないが、1988年7月昭文社発行のツーリングマップ・九州には、高千穂町側の中野内(仲の内)地区から隧道までの約3kmが未舗装標記となっていて、名前を「中の内林道」(「仲の内」と書く方が正しいのか?)と記されていた。これが林道延長18kmの内の、最後の生き残りであることには間違いない。最初に尾平越を訪れた時には、その林道の終焉を垣間見ることができたのだった。
 
 尚、台座の文には尾平越ではなく、「尾平峠」と書かれていたのが目にとまった。私はこちら呼び名の方が好きである。
 

宮崎県側の句碑
<宮崎県側の句碑>
 
      芳満
高千穂の
神    
 深々と
初紅葉
 
 句碑の台座には、この峠道の開発経緯が記されている。句碑にある作者名は、開発の功労者である川野芳満氏を指すようだ。
 
<他の峠>
 
 尾平越がある付近の大分・宮崎県境には、東に杉ヶ越(杉ヶ越トンネル)が、大分県宇目町と宮崎県日之影町との間で車道として通じている。こちらも長くてなかなか骨のなる峠道だ。また、両者の中頃に「九折越(つづらごえ)」という峠もある。こちらには車道は越えていないらしい。九折越は緒方町の中村付近から登り、笠松山と傾山との鞍部を越え、日之影町の見立あたりに下っている。ちょうど大分県側の尾平越の峠道から、宮崎県側の杉ヶ越の峠道に、乗り換えるような形だ。
 
 余談だが、尾平越という峠が他にもある。同じ九州宮崎県の北郷(きたごう)村と門川町(かどがわちょう)との境にある。ただし、こちらは「おひらごえ」と読む。車道は通じていない。国土地理院の2万5千分の1地形図で調べられる。
 
    
 

宮崎県側の広場
左手に県道が下る

宮崎県側の広場
右手奥に土呂久林道が始まっている
 
<峠の宮崎県側>
 
 隧道を宮崎県側に抜けた先に、随分と大きな広場がある。山奥の辺ぴな峠にしては、とても広々としていて気分がいい。広場の山側に乗用車などが何台か整列していた。これらも全て登山者の物らしい。
 
 最初に来た時からこの広場はあったろうが、峠には1台の車もなく、ただただ寂しい限りだった。それが今回は賑やかなものだ。人影はなくとも訪れる人の多さが分かる。たった2回しか訪れていないので、これは単なる偶然かもしれないが、峠道が良くなるにつれて、車の通行量が増えているのだろう。特に宮崎県側の道路事情が良くなった影響が大きいのではないか。
 
 山歩きを目的とする人達にとって、険しい峠道など関心ない。車で走る道は良ければ良い程、掛かる時間は短ければ短い程、いいに決まっている。立場が違えば、同じ道でも捕らえ方が違ってくる。
 
<トイレ>
 
 ところで先程から友人の生理現象の問題を抱えている我々である。すると広場の片隅に簡易トイレがあるではないか。多分、登山者の便宜を図って設けられたのだろう。しかし、見るからに怪しげなトイレなのだ。入り口の扉に大きく「トイレ」と書かれているので、使っていけない訳ではなさそうだが、ちょっと二の足を踏みたくなる外観だ。
 
 偵察がてら恐る恐る扉を開けてみる。小屋全体が崖に張り出しており、床に渡した板の間に穴が開けてある。そこから崖下がのぞく。最も原始的な方式のトイレである。念のため、板を強く踏んで強度を確認する。大丈夫そうだ。使えないことはない。ただ、扉の内側に鍵はなかった。代わりに普段、風で扉が開くのを防ぐ為か、扉の外側には簡単な縄が掛けられるようになっていた。
 
 この先、高千穂町に下っても、直ぐにトイレが見つかる期待は薄い。ここは一つ、いちかばちか、このトイレを使ってみるしかないようだ。幸い周囲には誰も居ない。

野趣満点のトイレ
 
 そして決行となった。私が周囲で見張り役をする。何しろ鍵が掛かっていないのである。しかし、ただ立っているだけでは暇なので、句碑の写真を撮ったり、その付近を歩き回ったりしながら、時々大声で「大丈夫だよー、誰も来ないよー」と声を掛けた。
 
 無事に用は済み、それではそろそろ出発しようかという段になって、ふと気が付くと、並んだ車の陰に座って、中年のご夫婦が昼食をとっているではないか。一部始終を見られてしまった。顔から火が出る思いである。こんな寂しい峠に人が居る筈ないと、初めから思い込んでいたのが悪かった。
 

土呂久林道入り口
<土呂久林道>
 
 動揺を抑えながらも車に乗り込み、広場の西の隅にある土呂久林道(とろくりんどう)の入り口を車ごと見に行った。土呂久林道は峠より県道とは別ルートで西側を下り、途中幾つかの分岐があるが、麓の天岩戸神社付近にまで出られることになっている。
 
 残念ながら林道は通行止だった。入り口に工事の看板が立っていた。
 
     工事中
 土呂久林道災害復旧工事
 場所 高千穂町
 期間 H15.3.13〜H15.7.10
 
 8km先 全面通行止
 
 尚、峠にあった看板には、周辺の林道名が記されていた。それによると、宮崎県側に立つ句碑の裏側を、東方に向かって始まっている狭い道も、土呂久林道の続きのようだ。
 
<高千穂町側に下る>
 
 県道に戻って高千穂町側に下る。峠直下は暫く勾配がきつい。10年程前に最初に尾平越を訪れた時、この付近でまだ舗装工事をしていた。仲の内林道から県道となる過渡期であったようだ。完全舗装となった今でも、鋭く切れ落ちた谷筋を縫って下る道の険しさは残る。
 
 ひとしきり下れば地形も安定し、道は落ち着きを取り戻す。左手の谷底に、峠より流れ下る岩戸川の川筋を認め、その両側に谷間の傾斜地が徐々に広がりだす。その中を道は進む。
 
 間もなく田畑や人家が現れる。中野内と呼ばれる集落が始まったのだと思う。昔ながらの人の暮らしを感じさせる素朴な光景だ。道は相変わらず狭いまま続く。
 
 谷間に築かれた段々畑が目に入ってきた。雄大な風景と言ってもいい。単なる自然の山裾ではなく、人の手が入っていることが、そう感じさせる。

中野内付近の集落
 
大きく広がる岩戸川の谷間
段々畑が築かれている
 

峠方向を望む
 時折峠方向を振り返るが、トンネルがある付近の県境の峰は、既に山陰の奥に隠れて見えなくなっていた。山の斜面の上方に、一筋の道が見えるだけであった。
 
 そういえば、今回峠から眺めた宮崎県側の風景を写真に撮るのを忘れていた。トイレ騒ぎなどがあって、うっかりしていたのだった。確か、峠からは集落などは見られなかったと思う。ただただ深い谷が山々の間に挟まっているだけだったようだ。
 
 尾平越の宮崎県側は、峠の下で谷筋の方向が変わり、それで峠と峠の下とは見通しがきかないようだ。これだけ開けた谷間なのに、峠はもう二度と姿を現さない。この先、岩戸川を下った所には天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)がある。そこに残る神話の様に、尾平越も隠れてしまった。
 
 開けた谷間はいつまでも続く。目の前に広がるその雄大さはなかなかのものなのだが、道は何度も小さな尾根を巻き返し、いつまで経っても果てる気配がない。峠道の長さを痛感するばかりだ。
 
 初めてこの道を下った時に、こんなに長いと思った記憶はない。霧が出て視界が悪かったせいか、周囲には目もくれず、ただただジムニーを走らせてしまった。その日の宿の目処も立たず、気持ちのゆとりがなかったようだ。旅をする時の気持ちで、訪れた所の印象は随分と違ってくるものだ。

谷筋を峠方向に見る
 

道元越林道の分岐
<林道分岐>
 
 分岐らしい分岐がほとんどない県道上に、道路標識付きの分岐が現れた。黒葛原という集落付近である。
 
↑15km 高千穂
↑ 7km 天岩戸神社
上野 林道道元越線 22km→
 
 県道直進は高千穂や天岩戸神社で、右折が上野(かみの)とある。この道は「道元越林道」というようで、西方の土呂久川を経て土呂久林道にも接続し、その先「道元越」という峠を越え、国道325号の上野まで通じているようだ。また、逆Y字で左に下る道は、道路標識に記述はないが、一旦岩戸川に下り、対岸を下る県道207号に接続しているようだ。
 
 
 林道土呂久線や道元越線、それに岩戸川対岸の道など、訪れてみたい所は尽きることがない。もっともっと旅をしたいと思う。
 
 峠方向を望めば、県境の峰ははるかに遠い。峠を越えた大分県側の尾平は、もう幻であったかの様である。

峠方向の県境の峰を遠望する
 

天岩戸神社
<天岩戸神社>
 
 県道を下った天岩戸神社は道の直ぐ脇にある。それまでの峠道とは打って変わって、神社の周囲は観光地の賑わいだ。神社の駐車場はただなのがいい。トイレもあって、私は念のためにここで済ますことにした。
 
 天岩戸神社を最初に訪れたのは、一人で九州のバイクツーリングをした時だった。もう随分昔である。鳥居をくぐって中に入ると、ちょうど他の観光客が何名か集まり、一人の宮司による案内が始まるところだった。その人達の後をライダーブーツとドカジャンといったいでたちで付いて行った。ライダーブーツは歩きづらいので、かかとのジッパーを外し、ドタバタ見苦しい格好であった。
 
 天岩戸神社で最大の見所は勿論、天岩戸である。岩戸川を挟んだ対岸にあるのだが、宮司が指差す方をいくら眺めても、どこがそれなのか分からなかった。天岩戸は写真禁止だというのに、中に混じっていたアベックが宮司の隙をみて写真を撮っていた。今頃はきっと天罰が下っていることだろう。懐かしい思い出である。
 
 今回は九州が初めてという友人と一緒なので、再び天岩戸を眺めたが、やっぱり何だかよく分からなかった。
 
 県道7号を走り終えた先は高千穂である。高千穂鉄道の終点駅・高千穂の周辺に、比較的大きな町が広がる。また、近くに高千穂峡谷の観光名所がある。冴えない体調を押して慣れないボートなどを漕いだが、くるくる回ってしまい、またしても人前で恥をかくことになった。
 
 峠越えの最中だけ回復する体調は、その後も不良を続け、8日間の九州滞在中、友人には迷惑の掛けっぱなしとなった。それでも最後にはどうにか復調し、帰りのフェリーには酔うことなく、楽しい船旅を満喫することができた。
 
 今回、再び尾平越を訪れることができ、九州の旅でいつも気になる点が一つ解消した。でも、峠以外に行ってみたいところはまだまだ沢山ある。また九州の旅ができるのはいつの日だろうか。
 
<参考資料>
 昭文社 九州沖縄 ツーリングマップ 1988年7月発行
 昭文社 ツーリングマップル 7 九州 1997年3月発行
 昭文社 県別マップル道路地図 大分県
 国土地理院発行 2万5千分の1地形図
 角川 地名大辞典 大分県
 角川 地名大辞典 宮崎県
 
<制作 2004.10.10 蓑上誠一>
 
尾平越第1話
 
    
 
峠と旅