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小倉峠
  おぐらとうげ  (峠と旅 No.311)
  小佐渡山地中央を横断する峠道
  (掲載 2020. 5. 4  最終峠走行 2019.10.31)
  
   
   
小倉峠 (撮影 2019.10.31)
手前は新潟県佐渡市多田方面
奥は同市小倉方面
道は新潟県道181号・多田皆川金井線
峠の標高は約390m (地形図の等高線より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
写真は峠の最高所となる狭い切通し部分から小倉方向を見ている
林道が交差する十字路があり、何もない切通しより見栄えがする
 
 

   

<佐渡の峠>
 このところ、佐渡島の大佐渡山地(おおさどさんち)を越える峠をズルズルと4峠も掲載してしまった。こうなったらついでに、小佐渡山地(こさどさんち)にも触手を伸ばそうという訳である。 今回の小倉峠はその山地の中でもほぼ中央に位置し、小佐渡山地を代表する峠とも言えそうだ。
 
<小佐渡山地>
 1,000m級の山が連なる大佐渡山地に比べると、小佐渡丘陵などとも呼ばれる小佐渡山地の方は、せいぜい500〜600m級の山並みである。北の国中(国仲とも)平野側には穏やかな裾野を長く引いている。 南佐渡海峡側には海岸線ギリギリまで山が迫るが、谷を削って流れ下るような険しい渓谷は見られない。 例えば大佐渡山地のドンデン線の峠で出て来た入川(にゅうがわ)渓谷などは、ここが島だろうかと思われるような山岳地帯の様相を呈す。そうした地形の険しさは小佐渡山地にはない。
 
 また、日本海の荒々しい風雨を高い大佐渡山地が楯の様に防いでいるのか、気候的にも穏やかな気がする。大佐渡山地では5月の連休時でも残雪が見られ、山地中央部の峠道は軒並み通行不能だ。 大佐渡石名天然杉(石名越参照)なども厳しい気候があるからこその自然の造形だろう。
 
 そうした小佐渡山地を横断する峠も当然ながら穏やかだ。という訳で、小倉峠は険しさを求めるような峠道ではない。途中、佐渡の観光スポットともなる長谷寺(ちょうこくじ)があり、そこに立ち寄りながらのんびりした峠の旅となる。

   

<所在>
 小倉峠に関係する住所は複雑怪奇だ。峠自身は純粋に小佐渡山地の主脈を越えているのだが、その稜線がそもそも行政区の境になっていない。尚、佐渡は全島が佐渡市なので、以下では佐渡市を省略し、その下の地名のみ記す。
 
 峠の北(国中平野)側では概ね長谷(はせ)、小倉(おぐら)、猿八(さるはち)という順番に峠道は登って行き、峠直前では松ヶ崎(まつがさき)とも少し接する。
 
 峠の直ぐ南(佐渡海峡)側はまだ猿八が続く。すなわち猿八地区は稜線を跨いでいる。更に下ると浜河内(はまがわち、はまかわち)に入り、一時丸山(まるやま)を経由して再び浜河内に戻り、最後に多田(おおだ、おおた)に至る。
 
 以上の地区は佐渡市になる前は全て旧畑野町(はたのまち)の大字であった。よって峠道はすっぽり旧畑野町に入っていた。
 
 峠道は概ね小倉と多田を繋いでいるので、峠の「小倉方面」とか「多田方面」などと呼ぶこととする。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<水系>
 人為的な住所と違って自然は素直だ。峠の北側では小倉川(おぐらがわ)が流れ下り、国中平野を貫流する佐渡最大の河川・国府川(こくぶがわ、こくふがわ、こうのかわ)に注ぎ、国府川は南西流して真野湾に注いでいる。峠の南側では河内川が源を発し、流れ下ってそのまま佐渡海峡に注いでいる。峠は国府川水系小倉川と河内川水系河内川の分水界になる。

   

<前浜>
 佐渡島は佐渡海峡を挟んで本州と対面するが、その本州側に面した南東側海岸を総称して前浜(まえばま)と呼ぶ。 文献(角川日本地名大辞典)によると、北の佐渡市水津(旧両津市)から南の佐渡市杉野浦(旧赤泊村)辺りまで、およそ36Kmの海岸を指すそうだ。その間に25の集落が点在する。 その前浜の集落と国中平野との交通は、海岸道路を大きく迂回するか、小倉峠の様に小佐渡山地を越えるかである。なかなか交通不便な地でもある。
 
<多田と小倉峠>
 小倉峠を前浜側に下り切ると、多田港を中心とする多田の集落がある。江戸期には廻船の寄港地として繁栄し、近年は漁港として整備された。 その多田集落は前浜のほぼ中央に位置し、佐渡の中心地である国中平野とを往来する場合、小倉峠は重要な道となる。 大佐渡山地に通じるドンデン線の峠や石名越・黒姫越などは、道は悪いは冬期は通行不能だわで、ほとんど日々の生活路の役には立たない。 外海府海岸沿いの集落はもっぱら海岸道路(県道45号・佐渡一周線)を利用することとなる。その点、小倉峠は日常利用される峠道となるようだ。

   

<峠名>
 小倉峠の「小倉」は「おぐら」と読むものと思う。小倉峠を国中平野側に下ると、最初に出て来るのが小倉(おぐら)集落になる。前浜側の多田などから見て、その小倉へと越える峠なので小倉峠と名付けられたのだろう。

   
   
   

国中平野側より峠へ

   

県道65号を両津湾方向へ (撮影 2019.10.31)
畑野市街を過ぎる
前方で県道181号が交差する

<県道65号から県道181号へ>
 新潟県道65号(主要地方道)・両津真野赤泊線で国中平野を真野湾沿いから両津湾方面へと進む。目指すは小倉峠を越える県道181号への分岐である。
 
 佐渡は大佐渡山地と小佐渡山地が国中平野を挟むという独特な地形をしている。 岩礁が並ぶ険しい佐渡海府海岸沿い、深い渓谷が刻む大佐渡山地、大佐渡・小佐渡の山々を遠くに望む広々とした国中平野。佐渡は場所によって色々なシーンを見せてくれる。

   

<畑野市街>
 県道65号は佐渡市畑野(はたの)に入る。旧畑野町の中心地だ。商店なども並ぶ街中を過ぎた頃、小倉峠を越える県道181号が交差する。交差点名は「畑野駅前」とある。 「駅前」と言っても佐渡に鉄道は通っていない。詳しくは知らないが、古い街道の宿駅の一つだったのだろう。
 
<県道181号>
 道路標識の案内では行先は「多田 Oda」とある。文献(角川日本地名大辞典)にも示されているが、「おおだ」と読むようだ。知らないとなかなかこうは読めない。「ただ」と読んでしまうだろう。尚、「おおた」とも呼ぶそうである。


県道181号の道路標識 (撮影 2019.10.31)
   

県道181号を行く (撮影 2019.10.31)
県道標識が出て来た

<多田皆川金井線>
 新潟県道181号も当面は何の変哲もない2車線路だ。多田皆川金井線と呼び、前浜の海岸沿いに立地する多田集落を起点に、小佐渡山地を小倉峠で越え、旧畑野町から旧金井町(かないまち)に入り、皆川(みながわ)を経由して旧金井町の中心地・千種(ちぐさ)に至る。 この県道の旧畑野町内が、概ね小倉峠の峠道区間となる。
 
 県道65号から離れると直ぐにも沿道の人家はまばらになり、市街地の雰囲気は消える。

   

<道路情報看板>
 暫く行くと道路情報看板がポツンと立っている。峠道にはよくあることだ。しかし、何も記されていない。険しい峠越えではないので、この看板に何か注意事項が記されることは滅多にないのだろう。
 
<沿道の様子>
 ちょっとした林を抜けると、周辺には田んぼが広がり、見通しが良くなる。前方にはこれから越える小佐渡山地が、穏やかに連なっている。


道路情報看板が立つ (撮影 2019.10.31)
   
県道181号を峠に向けて進む (撮影 2019.10.31)
前方に小佐渡山地が連なる
   

 後を振り返ると、遠くに大佐渡山地が霞んで横たわる。ここが大佐渡・小佐渡の両山地に挟まれた国中平野であることを実感させられる。

   
県道181号を畑野市街方向に見る (撮影 2019.10.31)
霞んではっきり見えないが、前方には大佐渡山地が横たわる
   
   
   

山間部へ

   

山間部の道 (撮影 2019.10.31)
自転車が下って来た

<長谷川沿い>
 県道181号を1.3Km程走ると、もう山間部へと入って行く。視界は一気になくなり、狭い谷間を進む。後で知ったことだが、ここは小倉川の谷ではなく、長谷川という別の川沿いであった。長谷川は国府川の支流・大野川の更に支流となる。
 
 少ないながらも沿道にはまだ人家が見られた。大佐渡山地では沿岸部を離れると直ぐに集落は途切れるが、こちらの穏やかな小佐渡山地では、山中にも集落が点在する。
 
<自転車>
 峠方向からスポーツサイクルが快走して来た。峠道では時々見掛ける光景だ。車の交通量もポチポチある。

   

<佐渡市長谷へ>
 県道65号分岐から幾つかの地区を過ぎ、谷を登って行く途中から長谷(はせ)に入る。地名はこの先にある長谷寺の寺名によるとのこと。寺の方が歴史が古く、地名がそれに追従したようだ。
 
 文献(角川地名大辞典)では長谷は「小倉川中流域」と出ていたが、長谷川の間違いだと思う。 江戸期からの雑太郡(さわたぐん)長谷村。明治22年に小倉・猿八(さるはち)・長谷の3か村が合併して小倉村が成立、長谷村は新小倉村の大字長谷となる。明治34年には畑野村の大字、昭和35年からは畑野町の大字と続き、現在は佐渡全島が佐渡市になって佐渡市長谷である。
 
 途中、初老の男性が自転車を押して坂道を登って行く。容易なことではない。後でその男性を長谷寺にて見掛けた。お寺参りが日課にでもなっているのかもしれない。


長谷付近 (撮影 2019.10.31)
初老の男性が自転車を押して登る
   

左手に長谷寺の駐車場口 (撮影 2019.10.31)

<長谷寺>
 最初の目的地である長谷寺(ちょうこくじ)までは、車ならあっという間だ。県道脇に広い「長谷第2駐車場」が設けられている。車でも立ち寄り易い観光地である。
 
 文献(角川地名大辞典)では長谷寺について「小佐渡山地長谷川上流小倉峠近くにある」と記している。この場合の長谷川は正しいが、小倉峠はずっと先であり、水域も小倉川になる筈だ。

   
長谷寺への入口 (撮影 2019.10.31)
   
   
   

長谷寺へ寄道(余談)

   

寺への参道となる仁王門 (撮影 2019.10.31)
県指定文化財の「長谷の仁王像」が祀られる

<長谷寺へ>
 長谷寺は佐渡の観光案内では必ずと言っていい程に登場する観光スポットだ。小倉峠越えでは峠道そのものはそれ程面白い訳ではないので、ちょっと寄道して行こうと思う(以後は余談)。
 
 元々神社仏閣は私の趣味ではなかったが、妻の影響で旅先では時々こうした寺などにも立ち寄るようになった。寺と神社の区別が分かるようになったのも、そのお陰である。宮とか院とか言われても、どうにか判別できるのであった。
 
 県道沿いの第2駐車場に車を置き、第1駐車場へとポツポツ歩いて行った。直ぐに左手に山門(仁王門)が出て来たが、そのまま先へと進んだ。

   

<ウサギ観音の広場>
 坂の途中の第1駐車場も過ぎ、更に登ると広場に出た。一角に大きな白いウサギの像が立つ。後で分かったがウサギ観音像と呼ぶそうだ。

   
寺の裏手の広場 (撮影 2019.10.31)
大きなウサギ観音像が立つ
ベンチなどが並び、のんびりした様子だ
   

<ウサギ>
 広場を横切り建物に近付くと、何と本物のウサギが何羽も放し飼いにされていた。ウサギは臆病な動物なので近付くと逃げて行ってしまったが、動物好きの私には楽しい光景である。

   
ウサギが放し飼いに (撮影 2019.10.31)
本堂はこの先
   

本堂 (撮影 2019.10.31)
内門の方から見る

<本堂へ>
 どうやら私達は寺の裏口から入って来てしまったようだ。納屋や土蔵、庫裡などが密集する中に通じる狭い通路を通って本堂へと向かう。 国登録有形文化財となる中之蔵(江戸後期)が建っているかと思えば、掃除道具や洗濯物まで干してある。何とも生活感が溢れている。途中、住職の居住区と思われる建物の入口前を過ぎる。まるで、普通の人家の勝手口に迷い込んだかのようだ。
 
<本堂>
 さすがに本堂は立派である。南に面した明るい庭がある。山の斜面に位置するのでそれ程広くはない。

   

本堂から見た前庭(左) (撮影 2019.10.31)

本堂から見た前庭(右) (撮影 2019.10.31)
右奥が内門
   

<内門>
 本来の参道は、仁王門から観音堂へと続く長い階段を登り、途中右にある内門をくぐる。すると直ぐに本堂の前の庭に出る。こちらの道筋は立派なものだ。内門には「真言宗豊山派長谷寺本坊」と書かれている。内門自体も国登録有形文化財(江戸後期)となるようだ。


こちらが参道から本堂に入る内門 (撮影 2019.10.31)
   

<寺の様子>
 境内の各所に案内看板が立ち、それらを読めば概ね長谷寺のことが分かる。本堂付近以外にも境内は広く、見所は多そうだ。しかし、山の斜面に分散して点在するので、見て回るのは大変そうである。


寺の案内看板 (撮影 2019.10.31)
   

長谷寺50選 (撮影 2019.10.31)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

境内見取図 (撮影 2019.10.31)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

「長谷寺の歴史」の看板 (撮影 2019.10.31)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<長谷寺>
 一般の観光ガイドなどでは大和(奈良県)の長谷寺を模したとある。本家の長谷寺(はせでら)に遠慮して、佐渡の長谷寺では「ちょうこくじ」と呼ぶのかと思ったりした。 ただ、「はせでら」と呼んでもいいようなことがガイドブックに載ってはいたが。同じ佐渡にある東光山清水寺は京都の「清水の舞台」を模したそうで、この清水寺も「せいすいじ」と音読みするそうだ。
 
 「長谷寺の歴史」と題した看板によると、一説として地形が大和の長谷に似ていることから里を長谷、寺号を自性院長谷寺と称したとある。「模した」というニュアンスとは少し異なるようだ。

   

<本堂内>
 お賽銭をあげてお参りしてから、本堂の中も見学させてもらった。「長谷の大絵馬」などが展示されていた。長谷寺は国の重要文化財となる十一面観音3体で知られる。さすがに実物は簡単には見られないが、等身大の写真が掛けられていた。
 
<世阿弥>
 長谷寺を訪れた有名人としては、世阿弥(ぜあみ)こと観世元清(かんぜもときよ)が知られる。永享6年、佐渡に配流された。多田港に着船し、峠を越えて小倉川沿いの公道を歩いたそうだ。「そのまゝ山路を降り下れば長谷と申て観音の霊地わたらせ給」(金島書)と記す。すると、世阿弥も今回の小倉峠を越えたのかと思ったが、そうではなかった(後述)。
 
<涅槃図(余談)>
 本堂の見学では先客が居た。一組の夫婦だ。夫は西洋系の外国人である。あちこち歩き回って日本人の妻より熱心に見学している。その内、片言の日本語で私に話し掛けて来た。 やや興奮気味の様子だ。手に持っているデジカメの写真を見てくれと言っているようだ。覗いてみると何か掛け軸らしき物が写っている。そして本尊右手奥の講和室の様な所を案内する。 部屋の中にはパイプ椅子が並んでいるようだが暗くて良く分からない。どうもフラッシュをたいて写真を撮ってみろと言っているらしい。言われた通りにすると、成程鮮やかな色の掛け軸が写った。詳しいことは分からないが涅槃図のようだ。


長谷寺の歴史と人物 (撮影 2019.10.31)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
涅槃図の軸物 (撮影 2019.10.31)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
  

 確かに長谷寺には名のある人物による軸物があるようだが、貴重な物は寺宝室・宝蔵などに所蔵されていて、簡単には見られない筈だ。しかし、感激している外国人に合わせ、私もやや驚いた風を装う。 実際のところ、私を含めた3人の日本人はほとんど関心がない。日本文化の良さは、かえって外国人の方が理解しているようだ。
 
<御朱印(余談)>
 まだまだ長居しそうな外国人をよそに、私達は本堂の見学をそそくさと終わらせた。次は御朱印をもらおうと思う。 妻は子供の頃、鉄道の駅にあるスタンプを集めていて、大人になるとさすがにそれはできず、代わりに御朱印を集めるようになった。書道をたしなむので、御朱印に書かれる文字を鑑賞するのも楽しいようだ。
 
 ところが、本堂周辺には御朱印の受付窓口などは見当たらない。やっとウサギ観音のある広場へ戻る途中に「御朱印」の文字を見付けた。勝手口の様な所からご住職を呼ばなければならないようだ。 こういう段になると妻は尻込みする。そこまでして御朱印は要らないという態度だ。どうも少し対人恐怖症の気味がある。これまでも何度か御朱印をもらいそこなったことがある。この佐渡まで来てまた逃すのは癪だと思い、呼び鈴を押すこととした。

   

生まれたばかりの子ウサギ (撮影 2019.10.31)

<子ウサギ>
 私達の心配をよそに、出て来てくれたご住職はとても気さくな方だった。御朱印の件は直ぐに了承してくれた。そして妻に向かって唐突に、動物アレルギーはないかと聞いて来た。 妻は子供の頃に犬に咬まれたトラウマがあり、動物は大の苦手だ。一方、私は動物は大好きだと言うと、ご住職は着ていた作務衣の懐から無造作に何か取り出し、私に渡した。 次の瞬間、私の手の中には小さな生き物が息づいていた。生れてまだ数日の子ウサギとのこと。御朱印は庫裡の方に場所を移し、そちらで書いてもらった。その間、子ウサギは私の両手の中でおとなしく眠っていた。

   

<ウサギの箱>
 御朱印を受け取り、代わりに子ウサギはまた元のご住職の作務衣の中へと戻された。すると今度は大きなウサギが見たくはないかと聞いて来た。 私の頭にはウサギ観音が思い浮かんだが、一体何のことだか分からない。ご住職に案内されるまま、本堂の前へと移る。本堂に登る階段横に木箱が置かれていて、幾つもの引き出しがある。 中には寺に関する案内などが入っているようだ。その一つの引出しを引き出すと、中に数匹の子ウサギが納まっていた。1〜2週間程前に生まれたとのこと。まだまだ小さいウサギだが、先程の子ウサギに比べて「大きいウサギ」という意味だったようだ。


本堂前の箱 (撮影 2019.10.31)
引出しの一つにウサギが入っていた
   

長谷寺の御朱印 (2019.10.31に頂いた)

<ウサギ寺>
 例の夫が外国人のご夫婦も加わり、箱の中のウサギを眺めながらご住職の話を聞く。古刹長谷寺の自慢めいた話は一切なく、ウサギの育て方などの話題で終始した。 以前はリス園に入ることさえ恐怖していた妻だが、最近はハムスター程度の小動物ならかわいらしいと思えるようになっている。日本の伝統文化に関心の薄い日本人3人も、楽しい一時を過ごしたのであった。
 
 「長谷寺50選」と題した看板などで、長谷寺に関する宝物や草木などの名物が紹介されている。しかし、その中にウサギは入っていない。ウサギ観音を建立したのも最近のことだろう。 私にとっての佐渡の長谷寺は「ウサギ寺」として強く印象されたのだった。(佐渡の観光パンフレットを調べてみると、ウサギ観音は高さ6m、2018年建立とのこと)
 
 
 妻の御朱印帳を借り、長谷寺で頂いた御朱印の写真を載せてみた(左の写真)。右上にはウサギ観音の写真が貼ってあった。御朱印には次のようにある。
 
 令和元年十月三十一日
 長谷観音
 佐渡國 長谷寺

   
   

長谷寺以降

   

長谷寺第2駐車場前 (撮影 2019.10.31)
県道がヘアピンカーブを描く

<長谷寺以降>
 長谷寺第2駐車場の前を過ぎると、県道は長谷川の川筋を離れ、鋭いヘアピンカーブを描いて左岸の斜面を登って行く。

   

<小倉との境>
 数100mも行くと、ちょっとした峠の様な箇所に至る。長谷川と小倉川との分水界の尾根で、長谷と小倉との境になっている。文献の長谷寺の項に、長谷寺は「長谷川上流小倉峠近くにある」と出ていた。もしかするとこの峠も小倉峠と呼ぶのかと思ったが、考え過ぎだろうか。
 
<小倉へ>
 その小さな峠を越えれば、そこから先は小倉の地である。ゆったりしたS字カーブの2車線路が小倉川本流沿いへと下って行く。沿道にはポツポツ人家が見られる。「白山前」というバス停を過ぎる。寂照院という寺の前を通る。境内に立つ大きな達磨が目に付いた。


長谷と小倉の境となる小さな峠 (撮影 2019.10.31)
   
   
   

小倉内

   

右に小倉川ダムへの道が分かれる (撮影 2019.10.31)

<小倉川ダム分岐>
 下り坂の途中、右手鋭角に道が分かれる。小倉川に架かる小倉川ダムへと至る。このもっと上流には小倉ダムがあるが、それとは別物だ。大変紛らわしい。
 
 私達の旅ではダムもよく訪れる立寄りスポットとの一つとなっている。時にはダムサイトにちょっとした園地が整えられていたりして、眺めを楽しみながら休憩できる場所になったいることも多い。

   

<小倉川ダムへ>
 県道を離れ、ダムへと向かう。途中、長谷との境となる峠方向へと登る細い道が分かれる。 現在の県道は蛇行して登る幅広い2車線道路だが、こちらの細い道の方が元からあった旧道ではないだろうかと思ったりする。世阿弥もここを登って長谷寺へと向かったのではないかと想像したが、何の確信もない。


小倉ダムへの道 (撮影 2019.10.31)
右上に道が分かれる(旧道?)
   

左が小倉川ダム (撮影 2019.10.31)
畑野市街方面から車がやって来る

<小倉川ダム>
 県道から500m足らずで小倉川ダム脇に着く。ロックフィル式のダムだ。残念ながら気の利いた園地などはないようだ。車の停め場所にも事欠く程にダムサイトは狭い。 その上、丁度ダムの補修工事を行っているらしく、堰堤には工事車両が停められていた。そそくさと引き返すこととした。

   
小倉川ダム (撮影 2019.10.31)
堰堤は補修工事中だった
   

<小倉川ダム竣功>
 小倉川ダムより下流の小倉川は、畑野市街を抜けた先の旧畑野町金丸(かなまる)で本流の国府川に合流する。その付近は広々とした水田地帯だ。時に灌漑用水が不足することもあり、そこで昭和42年に小倉川上流のこの地に小倉川ダムが造られた。ダムとしては比較的古い。

   
小倉川ダム湖 (撮影 2019.10.31)
   

<小倉川沿いのルート>
 ダム横に居た僅かな間にも、小倉川沿いに通じる道を通って畑野市街方面との車の往来があった。道巾は狭いがそれなりに利用価値があるルートのようだ。 少し下れば小倉川沿いに通じる県道81号(主要地方道)・佐渡縦貫線にも接続する。
 
 何故、小倉峠の道はこのまま小倉川沿いに下らず、わざわざ長谷川沿いへと転じて行ったのかと不思議に思う。 小倉川沿いの方が地形的に上り下りがなく余程素直であり、行き着く先も現在の畑野駅前交差点と大して距離は離れていない。 現在の県道181号のみならず、世阿弥も歩いたいにしえの公道のルートも、どうして長谷へと迂回していたのか不思議だ。
 
 これは推測だが、やはり古刹長谷寺の存在が大きかったのではないだろうか。単に多田港と国府が置かれた国中平野とを結ぶだけでなく、長谷寺は重要な通過ポイントだったのだろう。 古くは仏教により国を治めようとした。その拠点となる寺院は重要な存在だったのだろう。

   
   
   

小倉川沿い

   

小倉大橋を渡る (撮影 2019.10.31)

<小倉川右岸>
 小倉川ダムから戻り、県道を先へと進む。間もなく道は下りから登りに転じる。峠から流れ下る小倉川の右岸沿に道は通じる。
 
<小倉大橋>
 登り始めると直ぐ、右手にチェーン着脱場があり、その先で小倉川を小倉大橋で渡る。橋の手前を右岸沿いに道が分かれて行く。そちらに中佐為という集落があり、小倉峠の旧道になるのであろう。

   

<小倉川左岸>
 一方、県道は中佐為集落をバイパスし、小倉川左岸沿いに通じる。「御梅堂」(おうめどう)という看板が集落方向を指していた。小倉学校前というバス停の近くだ。
 
<笠取峠>
 バス停の並びに中部北陸自然歩道の看板が立っていた。「世阿弥のあるいた笠取峠のみち」と副題がついている。 この笠取峠とは今回の小倉峠に代わって世阿弥が越えた峠かと思ったが、笠取峠の位置は小佐渡山地の主脈上ではないようだ。


小倉川左岸沿い (撮影 2019.10.31)
左手に「御梅堂」の看板
   

中部北陸自然歩道の看板 (撮影 2019.10.31)
「世阿弥のあるいた笠取峠のみち」と副題がつく

<世阿弥のルート>
 看板に世阿弥が辿った大まかなルートが載っている。 そこを逆方向に辿ると、小倉小学校前バス停から県道を南に外れ、稜線付近にある女神山(めがみやま)の南側で小佐渡山地主脈を越え、小倉峠を越えて来た県道181号上の丸山平泉寺前バス停を通過、その後笠取峠を越えて海岸沿いを通る県道45号上の黒根バス停に至っている。 地形図では笠取峠は大体この位置ではないかと思う。小佐渡山地主脈を越える峠ではなかった。
 
 とにかく、世阿弥のルートは現在の県道181号とはほとんど異なる道筋である。それが当時の多田港と国中平野とを結ぶ公道だった筈だ。現在の小倉峠は前浜方面と国中平野を繋ぐ重要な幹線路になっているが、古くはそれ程重要な峠ではなかったのかもしれない。

   

<道の様子>
 県道沿いにまた人家が戻って来た。快適な2車線路が続く。車の往来はなかなか多い。この先、小倉集落の人家はそれ程多くはないので、大抵の車は多田などの前浜方面から峠を越えてやって来るのだと思う。


車の通行はなかなか多い (撮影 2019.10.31)
   

「ここが小倉です」の看板が立つ (撮影 2019.10.31)
左に小倉ダム堰堤への道が分かれる

<ここが小倉です>
 道は相変わらず小倉川左岸を遡る。しかし、1Km程も進むとさすがに沿道の人家が減ってきた。道ばかりが立派である。
 
 「ここが小倉 OGURA です」という看板を見掛ける。とっくに小倉に入って来ているので、今更どういう訳かと疑問に思った。 しかし、考えてみるとこの看板の裏側にも同じことが書かれている。小倉峠から下って来ると、この付近から人家が出て来る。それで「ここが小倉です」と説明しているのだろう。
 
 看板の裏手から左に道が分かれている。「↑いこいの村佐渡、←町営坪山牧場」と案内看板にある。後で分かったことだが、小倉ダムの堰堤に出るには、その「町営坪山牧場」とある道を行かなければならなかったようだ。尚、「いこいの村佐渡」とは多田市街にある宿泊施設らしい。

   

<小倉ダム>
 小倉川の支流・払川を渡った少し先、前方に小倉川の谷間を塞ぐ大きな建造物が現れる。ロックフィル式の小倉ダムだ。やや異様な景観に感じる。

   
前方に小倉ダム (撮影 2019.10.31)
   

<小倉トンネル>
 道は小倉ダムの堰堤脇を避け、払川方向へと大きく迂回して登る。その後、小倉トンネルをくぐって再び小倉川左岸沿いへと戻って来る。
 
 小倉ダムや小倉トンネルがまだない頃の道路地図を見ると、県道はほぼそのまま小倉川左岸沿いに登って行ったようだ。県道番号も現在の181号ではなく、峠の小倉側が237号、多田側が67号となっていた。
 
 地図によっては小倉トンネルは通じていても、小倉ダムが描かれていないものがあった。しかし、明らかにダム建設の一環でトンネルも開削されている。 トンネル銘板では1998年3月竣功となっている。一方、小倉ダムは2006年竣功だそうだが、着工は古く1986年のようだ。


小倉トンネル (撮影 2019.10.31)
峠下に通じたトンネルではなく、
ダムサイトを迂回する為のトンネル
   
   
   

小倉ダム上部

   

小倉ダムを求めて左折する (撮影 2019.10.31)

<小倉ダム方面へ>
 小倉川ダムに立寄ったので、小倉ダムにも寄ろうと思う。ダム湖の名前は朱鷺湖(ときこ)と言うそうだ。
 
 小倉トンネルを抜けて最初の分岐を左に入る。ところが容易には湖畔に出られそうない。気が付くとダム堰堤は遥か下流である。堰堤に出るには一旦小倉川右岸に渡り、朱鷺湖右岸沿いに下らなければならない。あっさり諦めた。

   

<小倉ダム上部へ>
 県道に戻るのも面倒なので、小倉川上流方向に進む適当な道を登る。
 
 小倉ダムができる前の峠道がどこかに残っているのかもしれない。しかし、この付近には農業用の作業道が何筋か通っていて、それらと区別がつかない。今回通った道もそうした作業道の一つだったようだ。


分岐を入って小倉ダム上部へ (撮影 2019.10.31)
   
この道を登る (撮影 2019.10.31)
手前が朱鷺湖方面
側らには棚田が広がる
   

<棚田>
 ダム湖の上流部は広大な棚田地帯になっている。その様子を眺めながらのんびりした作業道を登る。

   
棚田 (撮影 2019.10.31)
   

棚田の上部を横切って峠道が登る (撮影 2019.10.31)

<棚田の上部>
 なだらかに下る棚田の上方を望むと、棚田上部を横切るようにして峠道が登って行く。
 
 現在の小倉峠には女神山(めがみやま)トンネルと呼ぶトンネルが開通している。棚田上部に通じる道は既に旧道であり、県道にはなっていない。

   

<峠道に接続>
 棚田を半分ほど登ると、右手より登って来た同じ程度の細い道に合流する。それが元の峠道らしい。その道を少し戻ると、女神山トンネルへと進む現在の県道に接続する。


右手から登って来た元の峠道に合流 (撮影 2019.10.31)
   
合流地点をダム湖方面に見る (撮影 2019.10.31)
左が元の峠道、右が今回登って来た作業道
   

登りが始まる (撮影 2019.10.31)

<本格的な登り>
 道は棚田上部の斜面を蛇行しながら登りだす。峠に向けた本格的な登りの始まりだ。道は一路東の小倉川上流部へと進む。
 
 
<眺め>
 少し登ると眼下に下る棚田やその向こうに佇む朱鷺湖を見渡すようになる。なかなか壮観な眺めだ。小倉峠はそれ程標高が高い訳ではないので、全般的に眺めには恵まれない。その中にあって、この場所は最高の展望スポットと言える。

   
峠道の途中より棚田や朱鷺湖を望む (撮影 2019.10.31)
小倉峠一番の眺め
   

<棚田上部>
 谷が狭まり斜面の勾配がきつくなっても、棚田はまだまだ山の奥へと続いていた。一枚一枚の田は狭く、段差は大きい。農作業の苦労が偲ばれる。

   

棚田上部に通じる道 (撮影 2019.10.31)
麓方向に見る

沿道にはまだ小さな棚田が見られる (撮影 2019.10.31)
   

<沿道の様子>
 道は一度急カーブすると、女神山トンネル方向へと戻って行く。もう沿道の棚田も残り少なく、道が寂れて来た。
 
 女神山トンネルの上部辺りでまた急カーブする。そこを麓方向へと道が分かれるが、もうあまり使われている様子はない。峠道の旧道かとも思ったが、棚田に降りる作業道だったのかもしれない。


道が寂れて来た (撮影 2019.10.31)
   

右に分岐 (撮影 2019.10.31)

分岐を麓方向に見る (撮影 2019.10.31)
この真下辺りが女神山トンネルになる
   
   
   

棚田以降

  

<猿八>
 道は再び小倉川上流方向へと進んで行く。このまま峠まで小倉の地かと思っていたが、分岐のあるカーブ以降は佐渡市猿八(さるはち)となるようだ。江戸期からの雑太郡(さわたぐん)猿八村。明治22年に小倉村・長谷村と共に合併し新しい小倉村ができ、大字猿八となる。
 
 沿道の小さな棚田はもう耕作が行われていない所もある。これも過疎化・高齢化の影響だろうか。徐々に荒地となって行くようだ。

   

荒れた道が始まる (撮影 2019.10.31)

<荒れた道>
 棚田が尽きると道は一挙に荒れだした。女神山トンネル開通後の旧道となった今では、これから先はもう利用する車はほとんどないのだろう。荒れるがままという感じだ。
 
 ただ、路面自体は悪くはない。草木の散乱は目立つが、アスファルト路面は意外としっかりしている。古さもさほど感じない。通行止などの看板も立っていないので、道としてはまだまだ現役のようだ。

   
荒れた道の様子 (撮影 2019.10.31)
麓方向に見る
   

<小倉川本流沿い>
 このまま峠まで酷い道が続くのかと、ややウンザリしたが、少し進むと普通の道に戻った。山腹の急な斜面から小倉川の谷沿いへと入り、少し落ち着きを取り戻したようだ。
 
 道は一旦小倉川左岸沿いに出るが、徐々にその左岸の支流沿いへと移って行く。小倉峠は正確には小倉川本流の上部ではなく、その支流のまた支流の源頭部にある。 女神山トンネルのルートは真っ直ぐ峠下に向かうが、旧道は小倉川本流へと一旦東へ迂回する経路を取る。


道の様子 (撮影 2019.10.31)
   

<松ヶ崎>
 峠道にまつわる住所地は複雑だ。小倉川本流沿いを少し離れた辺りから、道の東側は佐渡市松ヶ崎(まつがさき)となるようだ。まだ峠前で、小佐渡山地の主脈を越えていないが、松ヶ崎は前浜の海岸沿いに地区の中心地がある。
 
<谷沿い>
 本流沿いに近い谷間では、道はやや険しい様相を示す。すると工事看板が出て来た。「片側交互交通」とある。元から車がすれ違えるだけの道幅はない。 そこに持って来て、路肩がガードレールごと鋭く切れ落ちていた。なかなか恐ろしい光景だ。ただ、周囲を見渡すと、小倉川本流の谷の広がりを感じることができる箇所でもある。

   

工事看板 (撮影 2019.10.31)

工事箇所 (撮影 2019.10.31)
ガードレールも落ちている
   

<穏やかな谷>
 深い谷沿いの険しい区間も数100m進むと、周辺の地形はグッと穏やかになる。最終的に峠へと続く浅い谷間に入った。勾配も緩やかで、落ち着いた雰囲気だ。
 
<分岐>
 途中分岐がある。地形図を見ると本流沿いへと続く道だが、車道としてはどこへも抜けられないようだ。尚、文献によると小倉川の源流は小倉の字杉原とのこと。杉原という地がそちらにあるのかもしれない。

   

左に分岐 (撮影 2019.10.31)

分岐を麓方向に見る (撮影 2019.10.31)
   

<道の様子>
 道は安定して走り易いが、反面ほとんど視界が広がらない。峠が近いのか空は比較的開けて暗い感じはないが、沿道の木々は遠望を遮っている。川筋に通るが、はっきりとした川の流れが見える訳でもない。

   

道の様子 (撮影 2019.10.31)
道の左は松ヶ崎、右は猿八

道の様子 (撮影 2019.10.31)
   

<峠直前>
 小倉峠は鋭くそびえる山脈を越えるような峠ではない。穏やかな道が続いた先、一段と空が開けた場所が見えて来た。そこが峠であった。

   
前方の空が開けた所が峠 (撮影 2019.10.31)
   
   
   

   

<峠の十字路>
 小倉峠は十字路になっている。道幅もその交差点だけ広い。正確には小佐渡山地の稜線のちょっと小倉寄りに林道が交差している。稜線沿いを東へ進むのは小佐渡林道(林道小佐渡線)で、西へは経塚山方面へと経塚山線(市道?)が分かれる。

   
峠の十字路を小倉方向に見る (撮影 2019.10.31)
左は経塚山方面への経塚山線、右は小佐渡林道
手前が浜河内・多田方面
  

<住所>
 地形図(地理院地図)では峠の国中平野方面(概ね北)側は小倉、前浜方面(概ね南)側は浜河内(はまがわち、はまかわち)と出て来る。それならとても分かり易いのだが、正確には違うようだ。
 
 峠道は南北方向に通じるが、行政区は概ね東西に分かれる。峠の東が佐渡市松ヶ崎で西が佐渡市猿八とになるようだ。松ヶ崎も猿八も小佐渡山地の稜線に跨って広がる。ただ、峠道沿いに猿八や松ヶ崎の集落はなく、この両地区はほとんど関係しない。

   

<小倉方面の道>
 小倉方面より登って来た道を振り返って見ると、「大型車両多し 運転注意!!」の看板が目立っている。その少し手前の沿道には、「対向車(ダンプ)注意」とか「ダンプが来る 走行注意!!」などという看板も立っていた。峠の下には既に女神山トンネルが開通している。もうこの峠を通る車はほとんどないと思ったが、どういうことだろうか。
 
 峠から分岐する小佐渡林道方面に工事看板が立っていた。どうやらその関係の工事車両が小倉側より旧道を登って来るらしい。しかし、一旦女神山トンネルを多田側に抜け、それから峠に戻って来た方が道も良く、走る旧道区間も短いように思える。


峠より小倉方面に下る道 (撮影 2019.10.31)
   

峠より小倉方面を見る (撮影 2019.10.31)

「大型車両多し」の看板など (撮影 2019.10.31)
   

<多田方面の道>
 十字路の少し多田方面側が切通しになっている。そこが道の最高所で、正に小佐渡山地の稜線を越える峠部分になる。

   
十字路より多田方面を見る (撮影 2019.10.31)
前方の切通しが峠
   

<看板>
 切通しの手前に案内看板が立つ。多田方面には「紅葉山(もみじやま)」とある。紅葉山公園は県道途中の丸山地内にある。

   

切通し手前の看板 (撮影 2019.10.31)

ただ方面に見る案内看板 (撮影 2019.10.31)
   

<女神山>
 経塚山線方向には「女神山」(めがみやま)とある。経塚山線の途中から山頂まで車道が通じ、頂上に無線中継所が立っているそうだ。
 
 女神山(593m)はほぼ小佐渡山地の中央にあり、概ね主脈上に位置する。東の男神山(おかみやま、約500m)との2峰からなる。 小倉峠からは少し離れているが、峠の下に通じたトンネルの名前になっている。「小倉トンネル」という名は既に別にあるので、使えなかったという事情もあるのかもしれない。また、女神山は佐渡ではそれなりに知られた山のようで、文献(角川日本地名大辞典)に次のようにある。
 
 山名の由来は、「佐渡風土記」に、松ヶ崎に流れついた土佐の三助と沢崎に流れついた能登のおきくが巡り会って夫婦になり、佐渡ではじめて稲作りをしたとあり、農業の開祖として男神山に土佐の三助、女神山に能登のおきくを祀ったという。
 
 佐渡への稲作伝来の真相は別として、佐渡は米が豊富で、島内だけで需給が間に合ったということを本で読んだことがある。
 
 尚、多田の地名についても文献では、「この両神(土佐の三助・加賀のお菊)が最初に当地で出会い、佐渡で初めての米作りを行ったという故事にちなみ、「逢(おお)た」から起こったとする言伝えがある」と記す。この意味では「おおだ」より「おおた」があっている。

   

<切通しの様子>
 道は小佐渡山地主脈の緩やかな鞍部に通じ、峠は浅い切通し状になっている。何の行政区境にもなっていない為か、稜線上に看板類は皆無でさっぱりしている。 女神山トンネル開通前まで多田・松ヶ崎などの前浜沿岸の集落と佐渡の中心地となる国中平野を繋いで活躍した幹線路としては、やや寂しい趣きだ。以前は峠を越えて県道181号線沿いに路線バスが通じ、小倉峠には「峠」というバス停もあったようだが、その痕跡も今では見られない。

   
小倉側から見る峠の切通し (撮影 2019.10.31)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<小倉峠の名>
 それにここが小倉峠という名であることを示す看板も峠周囲に見当たらない。長谷寺辺りからこの峠に至るまでの沿道にも、「小倉峠」の名はなかったようだ。この後、多田に下るまでも見掛けなった。
 
 文献(角川日本地名大辞典)でも小倉峠が登場するのは唯一長谷寺の項だけである。 しかも、長谷寺が「小佐渡山地長谷川上流小倉峠近くにある」とあり、話が合わない。
 
 そもそも地形図にも載って来ない。一般の道路地図に於いてもまちまちで、ツーリングマップルでさえ出ているのもあれば出ていないのもある。 ただ、手持ちの古い観光ガイドブック(ブルーガイドブックス 17 佐渡・越後路 昭和62年発行 実業之日本)の長谷寺の項に、「畑野から小倉峠を越えて多田港に出る街道」とあり、これが最も小倉峠らしい記述だった。


切通しより多田方面を見る (撮影 2019.10.31)
   
多田方面より切通しを見る (撮影 2019.10.31)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<松ヶ崎街道>
 ところで「街道」に関しては文献の小佐渡山地の項に、「赤泊街道・松ヶ崎街道・清水寺越・四十八か所越など前浜(南佐渡海岸線部の総称)と国中平野を結ぶ道」が通じると記してあった。ただ、詳細はない。
 
 多分、赤泊街道とは前浜の赤泊港を起点とする県道65号・両津真野赤泊線が近い存在だろう。清水寺越は地形図にあり、前浜側の東鵜島・岩首と清水寺を結ぶ道だろう。四十八か所越も地形図にあり、赤玉を起点とする県道319号・赤玉両津港線に相当するのだろう。
 
 問題は松ヶ崎街道で、これが最も小倉峠に近そうだ。松ヶ崎は古くは松埼駅(まつさきのえき)が置かれた地であり、松ヶ崎街道の起点に相応しい。 中世は蝦夷松前との中継港として栄えたが、天保年間から廻船の寄港地が多田港に移って寂れた。この松ヶ崎と国中平野を結んだのが松ヶ崎街道であろう。ただ、世阿弥が越えたのが小倉峠ではなかったように、松ヶ崎街道が小倉峠を通っていたとは限らない。

   

園地内に立つ松ヶ崎港跡の看板 (撮影 2019.10.31)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<松ヶ崎(余談)>
 尚、松ヶ崎の鴻ノ瀬鼻(こうのせはな)灯台付近は広い園地になっていて、松ヶ崎御番所跡などが再現されている。また、県道からそれた旧道沿いには松ヶ崎集落の街並みが静かに佇む。周辺にはかつての松ヶ崎港や松埼駅などの説明看板が立っていて参考になる。
 
 松ヶ崎港跡の看板では、「世阿弥も、この港に着いてここから山越えをして国仲に出た」とあったが、世阿弥が佐渡に上陸したのは多田港ではなかったか。まあ、峠にはあまり関係ないことだが。

   

畑野地区観光マップ (撮影 2019.10.31)
紅葉山公園が県道181号線沿に見られる
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

松ヶ崎集落内の松前神社前 (撮影 2019.10.31)
松埼駅跡の看板が立つ
(画像をクリックすると別ウィンドウに看板画像が表示されます)
   

<小倉峠の立地>
 小佐渡山地はそれ程高くはない丘陵地帯で、山地内には縦横に道が通じる。その中にあって小倉峠は概ね小倉川の源流部にあり、更にここを源頭として南に発する河内川は多田港に注いでいる。 峠はほぼ多田港と長谷寺方面を繋ぐ直線上に位置し、極めて素直な立地に思える。それもあって松ヶ崎街道の後の世の県道多田皆川金井線は小倉峠を越え、更に女神山トンネルもこの峠の下に通じたと思える。
 
 一方、松ヶ崎街道や世阿弥の越えた峠は別にありそうで、小倉峠は有名ではない。理由の一つには、川沿いではなく尾根沿いを好んで道を通したこともあるのではないか。また、途中、神社に寄るということもあるだろう。


切通しより小倉方面を見る (撮影 2019.10.31)
峠は河内川の源頭部にある
   

切通しの小倉側 (撮影 2019.10.31)

小倉方向に見る看板 (撮影 2019.10.31)
直進には長谷寺
左は女神山、右は小佐渡林道
   

<小佐渡林道>
 古い道路地図では、経塚山線は描かれているが小佐渡林道がないのがあった。比較的新しい林道かもしれない。四十八ヶ(か、ヵ)所越を起点とし、この小倉峠を終点とする広域基幹道・林道小佐渡線である。途中、杉池県民休養地があり、15年前の旅で水芭蕉を見たことがある。

   
峠の十字路より小佐渡林道を見る (撮影 2019.10.31)
   

<林道看板など>
 この時は「この先約2km 路面凹凸あり 路面に注して通行願います」と出ていた。「ダンプ走行中 注意」ともあり、小倉方面から登って来る工事車両はこの小佐渡林道へと向かうものと思う。

   
林道看板など (撮影 2019.10.31)
   

小佐渡林道の工事看板 (撮影 2019.10.31)

<工事看板>
 道の反対側には工事予告の看板も立っていた。丁度舗装補修工事を行っている最中だったようだ。この後、四十八ヶ所越へと向かったのだが、そちらの林道入口は完全に通行止となっていた。
 
<別の峠道?>
 尚、小佐渡林道途中より尾根沿いに多田方面へと下る単車線が地形図に描かれる。この道筋は松ヶ崎寄りなので、松ヶ崎街道の候補ではないかと思える。
 
 
<峠の利用価値>
 女神山トンネル開通で旧道となった小倉峠だが、経塚山線や小佐渡林道が峠に接続している。それらの林道へのアクセス路として、まだまだ道としての利用価値は残るようだ。
 
 私達が訪れた時も、経塚山線入口に一台の乗用車が停められていた。近くの山にでも入っているのだろうか。 また、女神山方面から真っ黄色の軽ワゴン車が出て来て、多田方面へとサッサと下って行った。僅かながらも車の交通が伺える小倉峠であった。

   
   
   

峠より多田方面へ

   

峠より多田方面に下る道 (撮影 2019.10.31)

<多田方面へ下る>
 切通しを抜け、小佐渡山地の前浜側へと降りて行く。女神山トンネル開通前の県道181号の続きである。まだ暫く猿八の地が続く。
 
 道は小倉側に比べると随分良い。利用頻度が高いのか、路面の落葉などが少なく整備が行き届いている感じだ。道幅もやや広いように思える。

   

<道の様子>
 道は河内川の上流部を横切るように進み、まだ川沿いには下ろうとしない。小佐渡山地の稜線にもやや平行する形で、道の周囲は比較的開けている。ただ、遠望などはない。

   

道の様子 (撮影 2019.10.31)

道の様子 (撮影 2019.10.31)
遠望がないのが残念
   

<分岐>
 峠から小刻みにクネクネ曲がる道を700m程下ると、大きな分岐に出る。直進が旧県道181号の続きで、左に分かれるのがトンネル開通後の新道へと接続する為に新たに開かれた道と思える。この分岐近くにかつては河内入口というバス停があったようだ。
 
 新道への接続路ができる以前にも、この付近で県道から分かれて河内川沿いへと下る道が古くからあったらしい。 地形図や道路地図によってはその道が徒歩道などで描かれている。県道の方はこの先、河内川沿いにはなかなか下らず、右岸の支流上部を大きく迂回して行く。 それに対し、河内川沿いに多田を目指す道も昔から通じていたのだろう。河内入口というバス停が立っていたのも、その道の分岐があったからではないだろうか。

   
大きな分岐 (撮影 2019.10.31)
直進が県道の続き、手前が峠
左の道は新道への接続路で「止まれ」の標識がある
   

<県道沿いの看板>
 分岐から峠方向の県道番号は消されていたが、麓方向にはまだ残っていた。そちらを進んでもトンネルを抜けて来た県道に接続するが、分岐する道を下った方が、容易に新道に接続する。
 
 旧県道の麓方向には「紅葉山」と案内がある。峠方向には「畑野、長谷寺」、「小倉・畑野(「野」は旧字体)方面」などと看板にある。


県道沿いの看板 (撮影 2019.10.31)
   
県道沿いに立つ看板 (撮影 2019.10.31)
   

<丸山>
 分岐する道との角にもいろいろ看板が立つ。旧県道の麓方向に「丸山 maruyama」とある。この先、県道181号は佐渡市猿八から佐渡市浜河内(まがわち)に入り、更に佐渡市丸山(まるやま)を経由、再び浜河内に戻り、最終的に多田に至る。とても複雑だ。

   
分岐の角に立つ看板 (撮影 2019.10.31)
   

道路情報看板など (撮影 2019.10.31)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<分岐方向>
 一方、新道に接続する道の方には「多田 ota 4.5km」とか、「海洋深層水分水施設、赤泊港」、あるいは「いこいの村佐渡」(多田にある宿泊施設)と案内がある。気になるのは「ota」で、多田は「おおだ」とも「おおた」とも呼ぶ。
 
 道路情報看板には「土砂崩壊のため」とまではあるが、だからどうとは書かれていない。いつ土砂崩壊があってもいいように絶えず備えているといった感じだ。ただ、どの道の情報かよく分からない位置に立っている。

   

<新道へ>
 元の小倉峠の道はこのまま旧県道を下るのだが、ここは新道の女神山トンネルを見て来ようと思う。どうせ新道を下ればまた同じ県道に戻って来るのだ。
 
 新道への接続路は旧県道より程度がいいようだ。分岐から約500mでもう新道に接続する。その少し手前の脇に道の痕跡が見られた。女神山トンネル開通以前から、このルートの道が通じていた可能性がある。

   
新道への接続の直前 (撮影 2019.10.31)
左手の脇に道の痕跡が見られる
   

<十字路>
 道は女神山トンネルを多田方面へと抜けて来た新道と交差する。すると、周辺に工事関係者が立ち、新道側には入れなかった。十字路内に立止ることもできず、仕方なく通り過ぎた。トンネル坑口の様子などを写真に撮ることもできず、残念な思いをした。


新道に接続 (撮影 2019.10.31)
十字路になっている
   

<女神山トンネル>
 調べてみると、女神山トンネルは2012年の完成だそうだ。小倉方面から快適な2車線路がトンネルを抜け、更に多田方面へと700m程進むが、その先は元の県道になるらしい。今回の新道側の工事通行止も、未改修の県道区間での工事があったからのようだ。
 
 女神山トンネルの小倉方面側坑口は、丁度小倉と猿八の境付近になる。一方、多田方面側坑口は猿八と浜河内の境付近だ。ほぼトンネル内だけ猿八を通っていることになる。

   
新道との十字路を峠方向に見る (撮影 2019.10.31)
工事の為、新道には入れなかった
   

十字路方面を見る (撮影 2019.10.31)
右手に旧道らしい跡

<河内川沿い>
 女神山トンネルの多田(浜河内)側坑口前は、丁度河内川が横切る形になる。新道と交差した道はほぼその川沿いに更に下って行く。旧県道から河内川沿いに下った古い道のルートに近い。 また、新道との十字路前後のトンネル側に旧道らしい痕跡が見られたが、河内川沿いに多田に至る車道は比較的早くから通じていたかもしれない。

   
   
   

十字路以降

   

道の様子 (撮影 2019.10.31)

<河内川沿い>
 新道が通れないので、そのまま河内川沿いに下る。道の名前も分からない。県道181号が河内川右岸を大きく迂回しているのに対し、こちらは本流沿いを直滑降に下って行く。距離は格段に短いが、車道としては勾配が急そうだ。十字路以降、道は浜河内ではなく、少しの間松ヶ崎に入る。
 
 それにしても小倉峠に関わる道には十字路や分岐が多く、いろいろな道筋が絡まり、複雑でなかなか理解できない。住所も厄介だ。
 
 道は2車線路とはいかないが、まあまあの幅があり、思ったより走り易い。

   

<道の様子>
 河内川沿いに通じるので、その意味では最も峠道らしい。ただ、河内川の谷は狭く急で、沿道に人家や耕地はほとんどないようだ。その為、このルートの車道開削が遅れたのではないだろうか。
 
<対向車>
 現在は対向車がまあまあ来る。ダンプは県道の工事関係だろうが、一般の乗用車も何台か見掛けた。県道が通行止なので仕方ないのかもしれないが、多田と小倉を繋ぐにはこの道が最短である。 女神山トンネル開通後も、多田側では県道ではなくこの道が使われるのではないか。


ダンプがやって来た (撮影 2019.10.31)
   

対向車 (撮影 2019.10.31)

また対向車 (撮影 2019.10.31)
   

 今回は通行止で多田側の県道は走ることができなかった。その沿道には紅葉の名所である紅葉山公園や世阿弥が立ち寄った丸山平泉寺があるようだ。集落も点在するようで、一度走ってみたかった。
 
 河内川沿いを下っている途中、右手の川を渡って接続して来る細い道があった。県道上の河内入口バス停付近から下って来た道だ。そちらが河内川沿いに通じる峠道としては旧道となるのだろう。

   
河内川沿いに下る (撮影 2019.10.31)
谷はやや開けて来た
   

<多田から浜河内へ>
 途中、松ヶ崎から初めて多田に入るが、次に浜河内になってしまう。浜河内は古くは河内(かわち)村であった。概ね河内川流域に広がる。
 
<人家>
 新道との十字路から3Km程でやっと沿道に人家が見られた。その先、丁字路に出る。


人家が出て来た (撮影 2019.10.31)
   
沿道に人家 (撮影 2019.10.31)
   

この先に丁字路 (撮影 2019.10.31)

<分岐の様子>
 道は、河内川本流から支流の白府川沿いにと続く道に接続する。こちらの道の方がそこから分岐する形だ。
 
 白府川沿いに遡ると県道181号に接続すようだが、分岐に立つ看板では、畑野・小倉方面はこちらの河内川沿いの道を指している。道路情報看板も立つ。

   
分岐を峠方向に見る (撮影 2019.10.31)
左が白府川沿いの道、右が河内川沿いに女神山トンネルへと至る道
   
   
   

県道へ

   

河内川沿いの狭い道 (撮影 2019.10.31)
右手前方が県道(新河内橋)

<県道に接続>
 白府川を合わせた河内川の左岸沿いを数100m行くと、女神山トンネルを抜けて来た県道に接続する。

   

<県道からの分岐>
 青い道路看板には県道方向に「畑野・紅葉山」あるが、河内川沿いの道にも「畑野・小倉」とある。特に今回は県道が工事なので、仮設の看板に「畑野方面」と大きな矢印が向く。


県道に接続 (撮影 2019.10.31)
   
県道からの分岐を峠方向に見る (撮影 2019.10.31)
左が県道を女神山トンネルへ、右が河内川沿いに女神山トンネルへ
   

分岐に立つ看板 (撮影 2019.10.31)

<県道沿い>
 私達とは入れ違いに大きなダンプカーが県道から河内川沿いの道へと巨体を乗り入れて行った。寸でのところである。
 
 
 県道上には工事看板が並んでいた。「迂回路案内看板」に工事個所が出ていた。白府川の上流部付近である。

   
県道上より分岐を峠方向に見る (撮影 2019.10.31)
   

<浜河内>
 県道沿いには浜河内の中心地が広がる。「ここが浜河内です」の看板を見掛けた。「HAMAKAWACHI」」とある。文献や一部の資料に「はまがわち」とあったのだが、現地では「はまかわち」の方が有力のようだ。正式名と現地の通称が違うことはままあることだ。
 
 「浜」がついているが、県道を暫く行くと多田に入ってしまう。浜河内も前浜海岸沿いに広がるが、県道45号の多田トンネルが通じる辺りで、その海岸沿いに集落はなさそうだ。
 
 元々は江戸期からの河内村で、明治22年に松ヶ崎村の大字河内となり、昭和30年に畑野村と松ヶ崎村が合併してからは畑野村の大字、昭和35年からは畑野町の大字となって行く。 ところが、新しい畑野村内に河内という大字が2つあったので、昭和59年に旧松ヶ崎村の河内を浜河内、旧畑野村の河内を飯持(いいもち)と改称したそうだ。佐渡市飯持は小倉川ダムの直ぐ下流沿いに位置する。

   

県道沿いの浜河内の集落 (撮影 2019.10.31)
右手に「ここが浜河内です」の看板が立つ

浜河内の看板 (撮影 2019.10.31)
   

多田市街 (撮影 2019.10.31)

<多田へ>
 県道沿いに商店などが見られるようになると、そこは多田の市街である。
 
 江戸期からの多田村。明治22年に丸山・河内・松ヶ崎と共に計4か村が合併して佐渡郡松ヶ崎村が成立し、その後は大字多田となる。小倉峠の多田方面側はこの松ヶ崎村に全て納まっていた。その後の多田は河内(浜河内)と同じ運命である。

   

<多田橋>
 道は多田橋で河内川を右岸へと渡る。


多田橋を渡る (撮影 2019.10.31)
   

県道45号に接続 (撮影 2019.10.31)
正面が多田港

<県道45号>
 その先、県道45号(主要地方道)・佐渡一周線に接続し、小倉峠の峠道は終わる。
 
<松ヶ崎(余談)>
 県道45号の看板には、左は両津港・赤玉、右は小木港・赤泊港とある。赤玉方向に2Km程行けば、佐渡海峡に向かって鴻ノ瀬鼻灯台が立つ松ヶ崎である。 今はやや寂れた小さな集落だが、かつては本州に最も近い湊(みなと)があり、佐渡の玄関口として栄えた地である。松埼駅を起点とした古い公道(北陸道)とは、小倉峠も近い関係にありそうだ。海外からの観光客が大型バスでどっと押し寄せる相川金山などより、松ヶ崎の方が落ち着いた佐渡観光ができる。

   

県道45号上より小木港方向を見る (撮影 2019.10.31)
右の道は旧道だろう

県道45号上の看板 (撮影 2019.10.31)
県道181号には「畑野市街、長谷寺」とある
   
   
   

 この時期、新型コロナウィルス騒ぎで世の中が騒然としている。連休中もなるべく自宅に籠らなければならない。私達夫婦も最大の楽しみとする旅行に出掛けられずにいる。 しかし、私は退屈するということはない。こうして過去の旅行のデジカメ写真やドラレコ動画を眺め、パソコンを前にした机上で疑似的な旅が楽しめている。
 
 小倉峠関係の道は県道181号をメインとし、そのバリエーションのルートがいろいろあるようだ。 現地を走っている時は、次々に分岐が現れたり、本線の県道が通行止だったりで、何が何だかさっぱり分からなかった。 今回、そうした点を整理しようと試みたのだが、結局収集がつかずに何の結論も得られない、小倉峠であった。

   

<北陸道(追記)>
 小倉峠は古代・平安期の道としての北陸道その物ではないが、近い関係かと思っていた。気になったのでちょっと調べてみた。 その駅家は松埼(まつさき)から三川(みかわ)、雑太(さわた)と続く。ただ、三川駅は旧赤泊村腰細村付近に比定されるそうで、経塚山で小佐渡山地を越えたとも文献に出ていた。こうなると小倉峠などとは全く異なるルートになる。
 
 しかし、何分北陸道は古い話で、はっきり分かっている訳ではないようだ。文献の三川駅の項に、「松ヶ崎(松崎駅)から多田・河内を経て、ほぼ直角に小佐渡山地を横切るルートを想定し、その途中に三川駅を比定する説もある」とある。これは世阿弥のルートでもあり、これなら小倉峠も遠からぬ親戚と言える。

   
   
   

<走行日>
・2019.10.31 小倉→多田 ハスラーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 15 新潟県 1989年10月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・大きな字の地図 新潟県 2001年4月発行 人文社社
・ツーリングマップル 3 関東 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東甲信越 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・WideMap 関東甲信越 (1991年頃の発行) エスコート
・ブルーガイドブックス 17 佐渡・越後路 昭和62年発行 実業之日本
・街道をゆく 10 羽州街道・佐渡のみち(司馬遼太郎 朝日新聞社 1983年1月20日発行)
・佐渡の観光パンフレット各種
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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