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大多和峠
 
おおだわとうげ/おおたわとうげ
 
何となく物悲しさを感じる峠道
 
大多和峠 (撮影 2003. 8.15)
奥が富山県大山町有峰、手前が岐阜県神岡町大多和
標高は1、295m(峠にある標識より)
道の名は有峰林道(西岸線)
峠には大多和連絡所があり、その前にはいつもロープが張られていて、
車やバイクは一時停止
この日は生憎ガスっていた
 
 この大多和峠は是が非でも取り上げてみたい峠だった。峠の富山県側は山奥深く、今はダム湖に沈んだ秘境・有峰の地。岐阜県側は長い未舗装林道が続き、人が住まなくなって久しい集落が点在する峠道。険しいと言うより、何となく物悲しさを感じる峠だ。7年前(1996年)に初めて訪れてから、ずっと気になる存在である。
 
 しかし、肝心な峠の写真を撮っていなかった。有峰湖側から登って来ると、峠には料金所(大多和連絡所)があり、その前で一時停止させられた。有峰から外に出る時は、料金の徴収はないことが分かったが、代わりにこの先はなるべく走らないでくれと忠告された。未舗装林道が危険であるからだ。しかし、こちらが乗っている車はジムニーである。この車で未舗装路を走らないでどうする。しかも、どちらかというとその未舗装路を走りたくて来たようなものである。進む旨を告げて通してもらった。その時、後続に並ぶ車もあり、峠に立ち寄ることなく、先の林道を急いでしまった。
 
 後から考えると、写真も撮らず、惜しいことをした。もう少し峠の様子を見てくればよかった。今では峠の記憶もおぼろげで、気になって仕方がない。そんな大多和峠をやっと今年(2003年)の夏に再訪できた。
 

有峰湖展望台より (撮影 1996. 8.13)
 有峰湖は富山県の南東の端、深い深い山の中に位置する。南は岐阜県と接し、東は長野県との県境を成す立山連峰・北アルプスがそそり立つ。関東方面からすると、アルプスの高い山の陰に隠れてしまっていて、なかなかアクセスの便が悪い地である。北周りに日本海沿いの天険親不知(おやしらず)を抜けるか、南回りに安房峠を越えるかである。
 
 今回は旅程の都合上、北周りで有峰湖に向かった。富山県大山町の亀谷温泉の方から有料の有峰林道・小見線で有峰ダムに出る。堰堤の近くに展望台があり、ダムと湖を見下ろす。この展望台を起点に大多和峠まで10.5Km。峠から岐阜県側の国道41号に出るまで15.5Km。合計26Kmの峠の旅を始めることにした。
 
 ダム堰堤上の車道は長い信号待ちによる交互通行となっている。対向車などほとんど来る様子もないが、青に変わるまで辛抱強く待つ。交互通行する割には道幅は比較的広く、これなら小型車同志なら十分すれ違えられるんではないかと思いながら通り過ぎる。
 
 直ぐに、右手に有峰林道・小口川線を分岐する。有峰林道とは有峰湖周辺の林道の総称らしく、個別に何々線という名前がつけられている。ちなみに、峠に向かうこの道は西岸線というらしい。有峰湖の左岸に沿って進むが、道からはあまり湖を望めない。
 
 途中、冷夕谷(つべただに)キャンプ場などを過ぎるが、木立の中の道は快適な舗装路で、他に見るべきものもあまりなく車はどんどん進む。すると桐山三叉路に突き当たる。

桐山三叉路
左は飛越トンネルへ、右は大多和峠へ
 

桐山三叉路
左方向へは「西谷2.0Km、東谷6.9Km」
右方向へは「大多和峠3.5Km」
 桐山三叉路は、左に飛越トンネルを抜けて岐阜県神岡町・上宝村へと出る道と、右に大多和峠を越える道とを分ける分岐点となっている。それまで殺風景な沿道にあって、この三叉路だけは花が供えられた地蔵が佇んでいたり、標識があったりで、ちょっと和む場所だ。
 
 かつてこの地にあった有峰の集落は、湖の下に沈んで今は跡形もない。せめて湖の周辺にその痕跡だけでも見られないかと思うのだが、もしかすると三叉路に置かれる地蔵などは、昔からの古い物だろうかなどと想像してみる。
 
 道としては、最近できた飛越トンネルの方が道幅も広く走りやすい車道であるが、飛越トンネルからこちら側に下って来ると、三叉路では一時停止の看板となる。今でも大多和峠の道の方が優先という訳だ。
 
 三叉路に立つ標識によると大多和峠まで後3.5Kmを残すのみ。
 
 湖岸を離れ県境の山への登りが始まる。道幅も心持ち狭くなってくる。但し、きついヘアピンカーブもなく、車はスイスイ上がっていく。生憎ガスが立ち込め、視界が得られない。そうでなくともあまり展望かきくような峠道でもない。時折振り返って、何とか湖が見えないかとも思ったが、遂に一度も顔を見せなかった。
 
 道は左に有峰湖に注ぐ峠谷の沢を見下ろしながら大多和峠に駆け上がる。

大多和峠への登り
 
 峠には、あまり峠に着いたという感じを受けないまま到着してしまう。左手の斜面がちょっと開けたと思ったら、目の前に渡されたロープが出てくる。その手前で車を駐車しようとすると、右手の連絡所から一人のおじさんが顔を出して手招きをする。近付くと通るのかと聞くので、ええと答える。続いて、飛越トンネルの道は知っているかと言うので、それにもええと返事を返す。多分、こちらの道より飛越トンネルの道を選んだ方がいいとの意味だったのだろう。ロープが緩んで、それをまたぎ越す。この先は整備されていない荒れた道、気をつけてねと付け加えられた。
 
 これまでいろいろな峠を越えたが、こうして人が常駐する峠も珍しい。仕事とはいえ、日がな一日一人で小屋にこもり、時折通る物好きを相手にするのも、全くご苦労なことだ。
 
大多和峠
左は岐阜県に入る。右は有峰湖に下る。
 
 大多和連絡所の前を通り過ぎながら、ちょっと変な気がした。7年前に来た時と、どうも峠の様子が違う気がするのだ。以前の大多和連絡所は、言っては悪いがもっとみすぼらしい掘っ立て小屋のようなものだった気がする。その小屋の窓から顔を出す係りのおじさんと言葉を交わした筈だ。記憶が確かではないが、小屋の位置も有峰湖から上がって来ると、左側にあったような気がするのだが。やっぱり峠の写真は撮っておくものだ。
 

天の夕顔文学碑と有峰県立自然公園の看板
 今回は峠を素通りすることなく、連絡所を過ぎた左手にある東屋の横のスペースに車を着けると、じっくり峠を散策することにした。
 
 峠は意外と広々としている。車道に沿う連絡所に並んで立派なトイレが建ち、その正面となる東側の斜面はなだらかに開放的に広がる。残念ながらガスのため遠望は全くなかったが、本来ならその斜面の向こうに薬師岳が望める筈である。
 
 ちょっとした散策路風になっている峠周辺の片隅に、古そうな有峰県立自然公園の看板に並んで、「天(てん)の夕顔」と書かれた文学碑(歌碑)がある。
 
 碑には次の様に記されている。
 
夜布(よふ)かきや
まのい保里(ほり)に
ゆ免(め)さめて曽
羅(そら)わたる月
をきゆるま   
でみし      
       中河与一
 
 多分、これを分かりやすく書き直せば、「夜深き山の庵に夢さめて、空渡る月を消ゆるまで見し」なのだと思う。文学は苦手なので、確かなことは言えないが。
 
 「天の夕顔」とは、この大多和峠を舞台にした中河与一の小説のようである。どんな物語だろうかと、ちょっと気に掛かり、後日図書館で文庫本を借りて読んでみた。

天の夕顔の文学碑
 
 すると、昭和13年に発表された純愛小説で、私なんかが読んでも、全くピンとこないのだ。最初の内はいつ大多和峠が出てくるかと、我慢して読んでいたが、いつまでも進展しない男女の間のやり取りが延々と続き、じれったくなってきた。途中からページをパラパラめくり、有峰のくだりが書かれている箇所を第5章に見つけた。
 
 どうやら、主人公の男性が傷心のあまり、「一等山深いところ」と聞き、「この世から最も遠いところに隠れたい」と思って来たのが有峰だった。その地に一人で暮らそうというのだ。そういう話しなら私も俄然関心が出てくる。ちょっと意味合いは違うが(大分違うかもしれないが)、私も常日頃、田舎暮らしがしてみたいと考えているからだ。
 
 実際に小説の主人公が住み込んだことになっているのは、有峰から一山越えた飛騨側の北之村(きたのむら)であった。それは現在の神岡町にあり、飛越トンネルを越えた先である。小説には何とも書いてないが、多分唐尾峠を越えたものと思われる。文学碑がここ大多和峠の他に北之村にもあるのは、そういう訳だったのだ。
 
 しかし、肝心な大多和峠が出て来ない。有峰には飛騨の古川経由で入ったので大多和峠を越えている可能性があるが、峠の名前が記されていない。本の先を探すと、「大多和峠」の文字は第6章にあった。一度山を降りた主人公は、薬師ヶ岳に登るため再び有峰に入ったのがこの大多和峠だった。でも、ただそれだけで、峠に関して特別なことは書かれていない。
 
 尚、小説の結末は女性が亡くなってしまうようだ。それだけ確認して本を閉じた。
 

標高1,295mとある
 ダム湖に沈む前の有峰の地は、「この世から最も遠いところ」とまで言われる程の僻村だったようである。 地図で有峰湖の文字を最初に見たとき、「ありみね」と訓読みするのか「ゆうほう」とでも音読みかと迷った。直ぐに「ありみね」が正しいと分かったが、古くは「ウレ」とか「ウレイ」とか呼んだようなのだ。それは山奥の辺ぴな村を指す方言だった。「有嶺」の字を当てたところ、「憂い」に通じ縁起が悪いとなって、後に「ありみね」と訓読させるようになったとのこと。
 
 有峰と飛騨を結ぶこの大多和峠の道は「大多和道」と呼ばれ、越中側に下るうれ往来(現在の小口川線のコースに近い古道)と並んで、古くから有峰と外界を繋ぐ本道であった。うれ往来が標高差があり険しい道であったのに対し、この大多和道はなだらかで歩き易かった。その為、有峰の者が越中側に出るにも、一旦大多和道で飛騨に下り、越中東街道(現在の国道41号)で富山に向かったという。
 
 こうした有峰に関する歴史については、ダム近くに立つ有峰記念館や有峰ビジターセンターの展示が非常に参考になる。有峰記念館はややダム建設側の立場に立ったものだが、ビデオ鑑賞もできて内容は詳しい。どちらも入館無料で、ただのパンフレットも頂ける。
 
 有峰ダムが完成したのは昭和34年で、それ以後は和田川沿いの有峰林道・小見線が使われるようになった。1988年5月発行の昭文社「ツーリングマップ 中部」では、まだ小口川線や飛越トンネルの掲載がない。これらは更に後になって開通したもののようだ。 
 
 峠に目立たぬように立つ標識には、「大多和峠」と記され、続いて「標高1,295m」とある。文献などでは大抵1,307mとなっている。現在の標高は現地にあるこの標識の値の方が正しいのだろう。車道の開通などで削られ、12mほど低くなったものか。
 
 同じく標識には、「有峰ダム展望台10.5Km」、「国道41号線15.5Km」とある。
 
 トイレの並び、車道より一段高いところに、小さな祠があり中に小さな地蔵が納まっていた。この地蔵はいつからこの峠を見守っているのだろうか。

峠からの展望は生憎全くなし
本来なら薬師岳が・・・
(どうも意味のない写真でした)
 

峠の隅にひっそり佇む小さな地蔵
 

岐阜県(飛騨)側から見る峠
これより有峰林道、ではなく有料林道
 大多和峠は岐阜県側から登って来ると、狭い小さな切り通しを抜けて、連絡所がある広い富山県側へと入って行く。この方が峠に着いたという味わいがある。今回のコースは旅程の関係上、前回と同様に有峰から飛騨に抜けることとなったが、峠道全体からすると、飛騨側から峠を越えて、秘境・有峰の地に降り立つ方が面白いのかもしれない。
 
 ただ、有峰湖ができてしまった現在は、湖の周辺にはキャンプ場やら公園やらができて、夏場ともなると訪れる観光客は少なくない。もう日本のどこにも秘境はないのは仕方ない。
 
 岐阜県側から峠を見上げると、「これより有峰林道」の看板。しかし、よく見れば「有料林道」であった。ちょっと興ざめである。
 
 有峰湖周辺の道路は全て有料だ。出る時に料金の徴収はなく、入る時に一度払えばいい。でも、小型車1,800円はちょっと高い。また、夜8時から翌朝6時までは全線通行止である。
 
 峠の散策を済ませ、岐阜県神岡町に下ることとする。峠に居た10分程の間には、他に峠を訪れる物好きは誰一人来なかった。その後、国道41号に出る間も、後続車や対向車の一台さえもなかった。大多和峠は寂しい料金所である。有料道路でこれほど暇な料金所も、他には滅多にないことだろう。
 
 さて、いよいよ岐阜県側の未舗装林道に入る。峠道としてはこれからが楽しいのだ。神岡町に一歩踏み込むと、以前と変わらぬ未舗装路面が待っていた。
 
 すると直ぐに、次に示すような看板が立っている。通行する者をかなり突き放した表現である。

峠から岐阜県神岡町へ入る
 

林道の注意看板
一 旦 停 止
この林道は非常に危険です
通行に際して一切の責任は
負いません。         
 管 理 者
 
これより約9Kmの区間は 
私設林道です。この林道は
非常に危険ですので関係者
以外の諸車の通行は御遠慮
下さい。            
          管理者
 
 「非常に危険」という看板とは裏腹に、林道はよく整備されていて、4WD車でなくとも無理なく走れる状態だ。ガードレールなどはないので、それこそ無謀な走りをすれば命の保証はないが、深い轍や大きな落石を避けて通るような道ではない。
 
 今日はこの有峰に来る前に、魚津市の林道坪野虎谷線というのを走ってきた。草を掻き分けて走る大変な道だった。それからすれば有峰峠の道など天国である。未舗装路を走っているという感じは全くしないのだった。
 
 峠から始まる岐阜県側のこの林道に関しては、名前が良く分からない。看板にあったように私設林道なのだろうが、名前くらいあっても良さそうなものだが・・・。

良く整備された林道
 
道の左手に谷が広がりだす
この先に小さな滝がある
 
 峠直下は暫く木立の中。ガスっていることもあり、静かな山道だ。途中、斜面に土や岩石が露出し、崩れた跡を示している場所が一箇所ある。その改修に使われたものだろうか、側に小型のブルドーザーが1台置かれていた。この峠道で唯一険しさを感じさせる。その崩落跡の先に、一筋の沢が滝となって流れ落ちていた。
 
 その後は左手に谷を望んで開けてくる。跡津川(またはその支流?)の谷である。道はほぼ直線的に南西へと向かっていく。九十九折りや急勾配もなく、淡々とした下りが続く。道がつけられた谷はそれほど広くなく、谷を越えての遠望はないが、明るく開放的な雰囲気だ。こうした峠道は大好きである。
 
大多和集落
 

集落の中も未舗装路
 未舗装区間を半分も来た頃、いつの間にか谷はなくなり、道は平坦地へと入る。そこに一つの集落を見る。大多和集落だ。砂利道はそのまま集落内を過ぎて行く。
 
 集落の名となった「大多和」の由来は、北にそびえる横岳の中腹にあり、「大きくたわんだ」地にこの集落があることからきているそうだ。村の名前が峠の名前ともなっている。
 
 大多和集落は住人が居なくなって久しいようだが、目に入る家屋やその周辺は、人の手が入っていることをうかがわせる。荒れ果てた廃村などでは決してない。夏の時期などにはかつての住人が戻って来ているとのこと。きちんと切り揃えた薪がうずたかく積まれていた。昔、自宅の風呂を薪で炊いていたことを思い出した。集落内に車を探したが、一台も見掛けなかった。人の気配もなかった。
 
 大多和集落を過ぎても、未舗装はまだ終わらない。谷はまた深くなり、道はどこまでも続くかのように思われる。こうした夏には気分良く、それこそ気軽に通れる道だが、これが冬ともなるとその険しさは想像を絶する。そんな道の奧にある大多和の地に、かつては人が住んでいたのだ。雪に閉ざされた山の暮らしとは、一体どんなものだったのだろうか。ただただ、この道の長さが、大多和集落や更に峠を越えた先にあった有峰の集落を、如何に遠い存在としていたかを考えさせられる。そんなことが、この大多和峠の道を、何となく物悲しく思わせるのである。
 

大多和集落を過ぎると、また谷沿いの道になる

 どこまでも続きそうな道 (撮影 1996. 8.13)
 
 世の中の道がどんどん改修されていく中、この林道は7年前と比べてもほとんど変わらないようだった。少なくとも未舗装区間は1mたりとも減ってはいない。大多和集落からまた暫く走ると、ひょっこりアスファルト路面が現れる。この場所には見覚えがあった。脇には峠と同じような注意看板が立っている。どこへ通じているとも、どのくらいの距離があるとも、何とも書かれていない。ただ、通行を戒めるだけの看板である。
 

未舗装林道の起点 (撮影 1996. 8.13)

左と同じ場所 (撮影 2003. 8.15)
全然変わっていない
 
 舗装路になっても、周囲の様相はあまり変わらない。左に谷を見るばかりで、景色に大きな変化がない。相変わらず淡々としている。それでも、峠から国道41号へ出るまでの、半分の距離は来たろうか。幾分、山深さも薄らいだ気がしてくる。
 
 昔、有峰に住む人たちが、越中に出るにもこの道を使ったという。大多和道の方が楽だからと。こうして雪のない舗装路を車で進むなら本当にた易いが、歩いての峠越えは苦労だったことだろう。小説「天の夕顔」の主人公も案内人に連れられながら、草を掻き分け掻き分け、峠を越えている。

舗装路となって更に続く道
 

佐古の集落を過ぎる
 次に現れるのは佐古(さこ)の集落だ。大多和と同じように僅かな平坦地に人家が寄り集まっている。やはり家屋や畑は手入れがなされているが、人影は見受けられなかった。
 
 この跡津川に沿う峠道には、上の方から大多和、佐古、跡津川の集落が、3、4Kmの距離をおいてポツリポツリと点在する。道はその集落を細々と繋ぐように続く。
 
 「有峰物語」と題する本を偶然に図書館で見つけた。それには昔の有峰のことや、有峰の村人が峠を越えて飛騨側の大多和や佐古などの集落と交流があったことが記されている。有峰のことだけではなく、大多和や佐古についても参考になる本である。
 
 佐古を過ぎ谷が広くなると、それまで谷底に隠れていた跡津川の川面が見えだしてくる。谷がなだらかになった分、道の険しさも薄らいできた。
 
 対岸に跡津発電所の導水パイプが目を引くと、間もなく跡津川の集落だ。集落内の道はどこも狭い。跡津川もご同様。峠から終始狭い道だ。

左手に跡津川の川面を見下ろす
 

跡津発電所が見えてくる

跡津川集落の中を行く
 

国道からの分岐点、土(ど)
 最後に跡津川を左岸に渡って、その先をちょっと登ると、目の前に大きな道路が横たわる。国道41号だ。その角に、店を開けることがあるのだろうかと危ぶまれそうな小さな商店があり、店の前には土(ど)という変わった名前のバス停がぽつんと立つ。県境を越えて来た峠道の終りにしては、随分と殺風景な景色だ。これもまた「物悲しい峠道」の一面である。
 
 一方、国道41号は富山市方向に流れる車の列が途切れない。今は8月15日、夏休みの真っ盛り。行楽の車が多いのだろう。観光バスらしきのも混じっている。それにしても、大多和道とは雲泥の差。
 
 国道上を探してみたが、大多和峠への道の分岐を示す看板は見当たらない。行き止まりの道ならともかく、県境を越えて富山県までも通じる峠道が、ここでは全く無視された存在だ。知る者だけが知るという感じである。まあ、途中は私設林道でもあり、積極的に通そうとする訳もないであろうが、何となく寂しい。国道を過ぎる多くの車のドライバーで、この道に気づく者など誰一人いないことだろう。

国道41号
行楽の車がひっきりなしに通る
 

電光掲示板
 道路標識がない代わりに、国道から道に分け入ると、そのちょっと先に大きな電光掲示板が掲げてある。この峠道の中で、唯一設備らしい設備だ。オレンジ色に「大多和峠まで悪路 通行注意」と目立っている。これでこの道が大多和峠への道であることが分かる仕組みだ。
 
 しかし、いつでもこの電光掲示板が点灯している訳でもなさそうだ。7年前のほぼ同じ時期に来た時には、何の表示もなかった。行き先表示がない道は不安である。そんな場合は国道沿いの「土」というバス停が、この峠道の目印となるだろう。
 
 有峰湖周辺は冬期の長い間、雪に閉ざされ車の通行はできない。毎年、11月初旬前後から翌年の6月最初くらいまで通行止だ。その時は、この掲示板に冬期閉鎖の案内が出るのだろうか。
 
 国道に出たところは、跡津川が流れ込む高原(たかはら)川が、ほぼ直角に流れを変える荒々しい地形である。国道を渡るとその正面に、高原川の大きな流れがこちらに向けて迫ってきていた。
 
 大多和峠の旅もこれで終り。写真も撮ったし、峠も良く観察してきた。やはり、7年前とは峠の様子は随分変わってしまったように思う。それと、峠からの景色が見れなかったのは残念だ。何年後かに、また訪れよう。
 
 時間は午後の4時半。これから今夜のキャンプ場所を探し求めなければならない。車の列に自分も並ぶのは気が引けたが、国道に乗って一路富山方面に走り出した。宮川村あたりでキャンプしようと思う。

高原川 (撮影 1996. 8.13)
 
 <参考資料>
 角川  日本地名大辞典 熊本県 平成3年9月1日発行
 昭文社 ツーリングマップ  中部 1988年5月発行
 昭文社 ツーリングマップル 中部 1997年3月発行
 昭文社 県別マップル 岐阜 2001年1月発行
 国土地理院発行 2万5千分の1地形図
 小説「天の夕顔」 中河与一 新潮文庫
 「有峰物語」 飯田辰彦 NTT出版
 
<制作 2003. 11. 3 <Copyright 蓑上誠一>
 

峠と旅