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大ヶ峠
  おおがたお  (峠と旅 No.274)
  忘れ去られたかのように寂れた旧国道の峠道
  (掲載 2017. 4. 6  最終峠走行 2016. 4.18)
   
   
   
大ヶ峠 (撮影 2016. 4.18)
手前は山口県美祢市於福町上宗済
奥は同県長門市渋木大ヶ迫
道は国道316号の旧道(県道美祢長門線?)
峠の標高は289m (文献と地形図より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
 
近世以降、日本海側の長門市街と瀬戸内海側の厚狭(あさ)を繋ぐ幹線路がここに通じた
一時、国道ともなったが、トンネル開通後は旧道の身である
この寂れ具合は何とも哀れで、強く印象に残ったして
 
 
 
   

<峠名>
 中国・四国地方では「峠」を「たお」、「だお」、「たう」などと発音する場合がある。 また、「峠」の代わりに「垰」(たお、たわ、とう)、「田尾」(たお)、乢(たわ)などの字を使うこともある。 どれも地形的には同じ峠(とうげ)を指しているが、このように呼び方が違ってくると、何となく印象も違ってくるような気がする。 信州やその周辺の地域はそれこそ峠の宝庫で、峻険な山岳地帯に通じる峠も遠く険しいものばかりだ。一方、中国地方は比較的緩やかな山並みが多く、「たお」といわれると「とうげ」に比べて幾分穏やかなような気がしてくる。
 
 今回の山口県にある大ヶ峠も「おおがたお」と「たお」と呼ぶようだ。 「大」と名乗る由来などは分からないが、大峠(おおとうげ)という名の峠名は多く、漠然と「大きな峠」というような意味ではないだろうか。ただ、峠の標高は僅か300mにも満たない。自宅の立地よりも低い。

   

<所在>
 標高は低いが、峠は日本海と瀬戸内海を分かつ大分水界に位置する。その意味では「大きな峠」かもしれない。
 
 峠の北側は長門市(ながとし)で、峠は深川川(ふかわがわ)の支流・大地川(おおじがわ)の上流部に位置する。深川川は長門市を北流し、深川湾で日本海に注いでいる(深川川水系)。
 
 一方、峠の南側は美祢市(みねし)で、峠は厚狭川(あさがわ)のほぼ源流部に位置する。厚狭川は美祢市、山陽小野田市と南流し、周防灘(すおうなだ)に注ぐ(厚狭川水系)。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<「たお」の峠(余談)>
 山口県は中国地方でも最も西に位置し、本州を貫いてきた大分水界もここで西の終りとなる。この大分水界上やその至近には大ヶ峠以外にも多くの峠が通じる。 長門市・美祢市以西では笹目峠(たお)、小野峠(だお)、中山峠(だお)、大平峠(たお)、大水峠(たお)、荒ヶ峠(たお)、大ヶ峠(たお)、山中峠(たお)、 大寧寺峠(だお)、大笹峠(だお)、砂利ヶ峠(たお)といった峠が連なる。ほとんど全て「たお」または「だお」と発音し、「たお」の密集地帯となっている。一方、長門市や美祢市より東、萩市以東ではぐっと少なくなり、「とうげ」の方が多いようだ。「たお」は本州最西端が発祥地のような気がする。

   

<大ヶ峠旧道>
 大ヶ峠は大分水界の峠なので、広くは日本海沿いから瀬戸内海沿いまでの長い範囲が一本の峠道とも言える。 現に、峠を越える国道316号は、日本海側の長門市街と瀬戸内海側の山陽小野田市(旧山陽町)厚狭(あさ)を繋いでいる。しかし、今は峠の下に大ヶ峠隧道(トンネル)が通じてしまい、国道316号のどこにも峠道らしさなど感じられない。
 
 これまで中国地方の峠はあまり掲載してこなかった。広島県や島根県などは特に少ない。 山口県でも大刈垰小峰峠笹ノ折峠の僅かに3峠だけだ。 やはり中国地方ではあまり「越え応え」のある峠道が見当たらないからのようである。現在の大ヶ峠も同様で、過去に2回大ヶ峠隧道を抜けたが、峠として関心を持ったことはなかった。
 
 ところが、大ヶ峠隧道を通らない旧道がありそうなのである。そこで、今回(2016年)ちょっと寄ってみることとした。 旧道の距離は僅か7km弱だが、なかなか峠っぽい道だった。しかも、峠部分は特に寂れていて、暫く佇むと気味が悪くなりそうである。これはちょっとした峠だと思ったのだった。

   
   
   
大ヶ峠隧道へ 
   

<美祢市側から隧道へ>
 今回の目的は大ヶ峠の旧道を取り上げることだが、対比の為にもまずは隧道の方を見てみる。美祢市側から快適な2車線路を隧道に向かって北上する。関東近県の者などからするとガードレールが黄色なのが目に留まる。

   
美祢市側から大ヶ峠隧道へ向かう (撮影 2016. 4.18)
宗済バス停の少し先
   

<於福町上宗済>
 宗済(むねずみ)というバス停を過ぎる。国道標識には[美祢市宗済」と出ていた。住所は山口県美祢市於福町上(おふくちょうかみ)の宗済となる。
 
 江戸期から於福(おふく)という村があったが、明治初期に分村して於福上村(おふくかみむら)と於福下村(おふくしもむら)とに分かれたそうだ。 しかし、明治22年に再び合併し美祢郡於福村となると、旧於福上村の村域は大字於福上となる。更に昭和29年に美祢市の一部となって、大字於福町(おふくちょう)於福上と変わる。 しかし、どうもこの「於福町於福上」というのが長いせいか、間もなく昭和31年には於福町上(おふくちょうかみ)と改められた。とても複雑な経緯だ。
 
 「於福」(おふく)というちょっと変わった地名については、「防長風土注進案」という史料に次のようにあるそうだ。 「山城山にこがねのつるありしを堀出せし時、山子共おふふくおふふくと呼しより於福と唱へ来りし」とのこと。「黄金」(こがね)が出るような福に富む地だったのだろうか。
 
<厚狭川上流域>
 於福町上は厚狭川(あさがわ)本流の最上流域にあり、宗済はその於福町上の中でも最も上流に位置する集落のようだ。厚狭川は流長約44km。 ここは瀬戸内海より遥々と遡り、日本海とを分かつ大分水界までもう2kmと迫っている地だ。しかし、厚狭川の谷は依然穏やかで、快適な国道316号とそれに並んでJR美祢線が通じる。これが信州辺りの大分水嶺となると、川は深い渓谷を成し、道は崖にへばり付くような険しさを見せる。

   

「またどうぞ美祢市へ」の横断幕 (撮影 2016. 4.18)

<またどうぞ>
 現在の国道脇にはあまり家屋は見られず、山際にポツリポツリと人家が点在する。谷の中央部は大事な水田である。しかし、今はその真っただ中を国道と鉄路が真一文字に走る。
 
 「またどうぞ 交流拠点都市 美祢市へ」と横断幕が掛かっていた。さりげなく「秋吉台」、「秋芳洞」と書いてある。 秋吉台(あきよしだい)は四国カルスト(愛媛県・高知県)や平尾台(福岡県)と並ぶ日本三大カルストの一つとされる。 また、秋芳洞(あきよしどう、しゅうほうどう)は龍泉洞(岩手県)や龍河洞(高知県)と共に日本三大鍾乳洞である。美祢市はなかなかの観光資源を持つこととなった。

   

<隧道直前>
 何やら大きな建物が立っているなと思ったら、ラブホテルだった。現代の「峠の宿」である。のどかな里山にちょっと異様でもある。


美祢市側の隧道直前 (撮影 2016. 4.18)
   

標高の看板 (撮影 2016. 4.18)

<隧道の標高>
 トンネルに入る直前、「標高213m」とわざわざ看板が立つ。大分水界を通るのだから、ここが国道316号の最高地点となるのもうなずける。 大ヶ峠隧道は長門市側よりこちらの美祢市側の方が標高が高い。長門市側坑口では標高190m弱となる。それにしても大分水嶺を抜けるトンネルが僅かに標高200m前後である。 日本列島もこの西の端まで来ると、低いものだなと思う。

   

<隧道の様子>
 文献(角川日本地名大辞典)では、「トンネル内の道路は2車線で、両側に歩道が設けられている」とわざわざ謳っている。 しかし、歩道という程に立派な物ではなく、人ひとりがやっと通れるような狭い通路だ。ガードレールの類はない。車やトラックが頻繁に往来する傍ら、歩いてこのトンネルを抜ける気はしない。
 
 美祢市側のトンネル坑口近くには、咄嗟に車を停められるような場所がない。ただただ通り過ぎるだけとなる。


美祢市側坑口 (撮影 2016. 4.18)
左右に歩道がある
   

美祢市側の扁額 (撮影 2016. 4.18)

<大ヶ峠隧道>
 扁額には大ヶ峠隧道と「隧道」の文字を使っている。地形図でも「大ヶ峠隧道」としている。しかし、一般の道路地図などでは「大ヶ峠トンネル」と書かれている場合が多い。 ただ、並行して通じる鉄路のトンネルも「大ヶ峠トンネル」と同じ名である。地形図では道路は「隧道」、鉄路の方は「トンネル」と書き分けられていることになる。

   
   
   
隧道の長門市側 
   

<隧道の長門市側へ>
 最近の道路地図を見ると、大ヶ峠隧道の長門市側には大ヶ峠PA(パークエリア)があるようだ。 トンネルを長門市側に抜けて直ぐ左手に側道があったので、トンネル見学にはなるべく近くと、そこへ入った。 すると、ふれあいハウスいう小さな店があり、おばさんが出て来て、店に用がないなら移動してくれと、追い払われてしまった。
 
 様子が分からないので周りをキョロキョロ見渡す。どうやら大ヶ峠PAは道の反対側にあるようだった。しっかり看板を出してくれているといいのに。そちらに車を移し、トンネル見学する。


長門市側坑口 (撮影 2016. 4.18)
   

長門市側の扁額 (撮影 2016. 4.18)

<ケ(余談)>
 扁額の文字は美祢市側とはやや異なる。特に「ケ」がほぼ大文字のようだ。美祢市側は明らかに小文字の「ヶ」だった。
 
 最近は小文字の方がよく使われるように思う。一方、以前からある角川日本地名大辞典では大抵が大文字の「ケ」を用いている。 その為、オンライン辞書のJLogosで小文字の「大ヶ峠」と検索すると、ヒットしないので困る。尚、文献によっては「大ガ峠」と「ガ」を使っているのもあった。
 
 この「ヶ」については、他にも「カ」、「ヵ」、「箇」などいろいろあり、どれを使っていいか迷う。特にはっきりした慣例などがない場合は、小文字の「ヶ」を使うことにしている。

   

<銘板>
 銘板には「1980年7月竣功」とある。文献でも大ヶ峠トンネルは昭和54年(1979年)に貫通し、同55年(1980年)に開通・完成などと記している。 尚、並行するJR美祢線の大ヶ峠トンネルは、大正9年(1920年)着工、同13年(1924年)開通と、道路よりずっと早い時期から大ヶ峠を越えていた。
 
 扁額にも銘板にも「大ヶ峠隧道」と「隧道」の字を使っているが、比較的最近に完成したトンネルとしては珍しい気がする。 昭和40年頃完成のトンネルでも、既に「トンネル」と扁額にあったりする。「トンネル」から「隧道」への移行時期は曖昧なようだ。調べてみると、面白いかもしれない。


銘板 (撮影 2016. 4.18)
   

<大ヶ峠PA>
 大ヶ峠隧道の開通で、それまでの国道316号は劇的に快適になった。また、今は大ヶ峠PAの開設で車での休憩も容易である。「童謡詩人金子みすゞのふるさと 長門市へようこそ」と大きな看板が立っていた。

   
隧道を背に大ヶ峠PA方向を見る (撮影 2016. 4.18)
右手がPA
   

<大ヶ迫隧道>
 現在の国道の大ヶ峠は大ヶ峠隧道だけでは成り立たず、それに続いて大ヶ迫隧道を抜ける。隧道間には大ヶ迫大橋が大地川の頭上を渡っている。 大ヶ峠の長門市側は地形が険しく、車道は容易には川沿いへと下れなかったようだ。

   

前方に大ヶ迫隧道 (撮影 2016. 4.18)

橋上より大地川の谷を望む (撮影 2016. 4.18)
JR美祢線が通る
   

<PA下の民家>
 大ヶ峠隧道と大ヶ迫隧道はほとんどペアで使われ、単独ではあまり利用価値がないように思える。しかし、大ヶ峠PAの片隅から狭い道が一本下っているのを見掛けた。 地図で確認してみると、大地川沿いの美祢線脇に数軒ある民家へと下っている。その民家は鉄路に阻まれ、車での移動が難しい立地だ。PAへの経路が唯一の車道の様に見える。 大ヶ峠隧道と大ヶ迫隧道の単独利用の価値があるのは、そこの住民だけではないだろうか。尚、大ヶ迫隧道は大ヶ峠隧道より数年早く開通しているようだ。 大ヶ迫隧道は一時期だけでもその住民の為に供用されていたかもしれない。

   
   
   
旧道へ 
   

<旧道入口>
 大ヶ迫隧道を抜けて300m下ると、右に鋭角に分岐がある。少し先のはす向かいにもまた道が分かれる。それらが大ヶ峠を越えていた頃の元の国道316号であろう。 大ヶ峠隧道が通じてから既に40年近い。こうした分岐には何の案内看板もなく、かつての旧道が交差しているなどとは容易には気付かない。 また、ツーリングマップル程度の荒い縮尺の道路地図では、旧道の細い道筋は長い大ヶ峠隧道や大ヶ迫隧道の脇に埋もれ、地図上でもその影は薄い。


右に旧道分岐 (撮影 2016. 4.18)
   

旧道方向を見る (撮影 2016. 4.18)
右上が現在の国道316号

<旧道へ>
 峠方向の旧道に入ると、道は直ぐ二手に分かれる。右に直進する方が峠に至る本線だ。ただ、左に下る道の方が本線らしく見えてしまう。
 
 直進すると、何でもない路肩にポツリとバス停が立つ。「下大ケ迫」とあった。「出」と「戻」という時刻表が書かれていた。
 
<大ヶ迫>
 ここの住所は長門市渋木(しぶき)である。大ヶ迫とは渋木にある1集落名のようだ。「おおがさこ」と読むものと思うが、確証がない。下大ケ迫バス停は、大ヶ迫集落の下手にあるので、その名があるようだ。

   

旧道側より分岐方向を見る (撮影 2016. 4.18)
道路脇にバス停が立つ

下大ヶ迫バス停 (撮影 2016. 4.18)
   

<渋木>
 江戸期から渋木村があった。 深川川(ふかわがわ)本流の上流部と支流・大地川水域に広がり、また、一部は大分水界を越えて瀬戸内海側の大垰川(おうとうがわ、木屋川水系)上流部も含む(枝村の旧大垰村)。 明治22年から深川村の大字渋木となり、その後昭和3年には深川町、同29年には長門市の大字となって行く。渋木の南端は、東から荒ヶ峠(あらがたお)、花尾山(はなおざん)、大ヶ峠へと続く大分水界に接する。
 
<深川川水系の峠>
 大ヶ迫集落は大地川の上流部に位置するが、最奥の集落ではない。大地川の源流は大垰川との分水界にある山中峠(やまなかたお)で、その峠近くに山中という集落が見られる。 深川川水系で見れば、大ヶ迫より山中の集落の方が奥に位置し、同時に大ヶ峠より山中峠の方が奥にある峠と言える。更に、深川川本流の上流部には荒ヶ峠があり、そちらが深川川水系最奥の峠と言える。
 
<大地川右岸沿い(余談)>
 実は道を誤った。旧道に入って直ぐの分岐を、迷いながらも左に行ってしまった。道は直ぐに大地川を渡り、右岸側を遡り始めた。

   
大地川右岸を行く (撮影 2016. 4.18)
   

<逆戻り(余談)>
 道は概ね峠方向に向いている。人家も沿道に点在する。川沿いには田畑が広がり、のんびりした里山の雰囲気だ。 このまま川沿いに遡ってくれるかと思っていると、間もなく右岸の道は尽き、左岸へと戻って行った。見ると、左岸の少し高みに峠方向へと道が通じている。 そちらが峠道の本線だとやっと気付いた。しかも、その道には鋭角に接続し、カーブを曲がれ切れない。結局、下大ケ迫バス停まで引き返し、そこでUターンすることとなった。 畑仕事をしている人や散歩をしている女性が、ピンク色の見知らぬ車が集落の中を行ったり来たりする様子を見掛けることとなった。住民には不審がられたことだろう。


この先、道は左岸へと戻る (撮影 2016. 4.18)
   
   
   
大地川左岸沿い 
   

左岸沿いの道 (撮影 2016. 4.18)

<大地川左岸>
 峠への本線はずっと大地川左岸を遡る。川岸に広がる平坦地より一段高く、崖沿いに通じる。道は狭く、沿道に人家は皆無だ。 大ヶ迫集落内の人家を繋ぐ道とは、ほとんど独立に峠への道が一本通じる。大ヶ峠を越える車道を開削する時、集落の人家や田畑を避けて道を通したのかと思えた。 元々の峠道は、やはり人家の間を抜けていたのではないだろうか。

   
大ヶ迫の集落を望む (撮影 2016. 4.18)
峠道は集落内の人家を繋ぐ道とは別に通じる
   

<大ヶ迫大橋以降>
 大ヶ迫集落も概ね過ぎると、国道316号の大ヶ迫大橋の直ぐ下をくぐる。ここでも新旧の峠道が交差している訳だが、お互いに行き来はできない。ただ、川や鉄路の反対側より、大ヶ峠PAへと登る道がある筈だ。
 
 大ヶ迫大橋付近から上流側にはもう人家はなさそうだ。左岸沿いに棚田が下って来ている。その向こうにJR美祢線が通じる。谷は狭まり、鉄路は南の山腹へと消えて行く。列車の車窓から見る景色も趣きがあることだろう。


大ヶ迫大橋をくぐる (撮影 2016. 4.18)
   

大地川沿いの様子 (撮影 2016. 4.18)

大地川沿いの様子 (撮影 2016. 4.18)
棚田が見られた
   

<大地川上流部へ>
 道路の方はもう暫く大地川沿いに上流部へ迂回する。

   
大地川の上流部へ (撮影 2016. 4.18)
   

 耕地は途切れ人家からも遠く、やや荒涼とした谷間となる。

   
寂しい谷間を遡る (撮影 2016. 4.18)
   

<市道山中線分岐>
 旧道に入ってから1.6km、大ヶ迫大橋を過ぎてからは0.8kmで大地川を渡る。そこより右岸沿いを上流方向に道が分かれる。 大地川源流部にある山中峠を越える峠道だ。この時は全面通行止の看板が立ち、工事関係者以外立ち入り禁止となっていた。 傍らの工事看板には「市道中山線 道路災害復旧工事」とあり、工事期間は「平成28年6月30日まで」となっていた。この看板のお陰で、道路名が「市道中山線」であることが分かった。
 
 ここに来る前に山中峠を越えていたので、市道山中線が通行止なのは知っていた。現在、山中峠を越えているのは県道268号線となっている。市道山中線はその旧道と思われる。 ただ、山中集落の人家は市道山中線沿いにあり、この道はゲートなどで完全に通行止にはできないようだ。


右に市道山中線が分岐 (撮影 2016. 4.18)
   

工事看板とバス停 (撮影 2016. 4.18)

市道山中線方向を見る (撮影 2016. 4.18)
全面通行止の看板が立つ
   

<分岐の様子>
 通行止の工事看板以外では、道路脇に「豊田方面」と書かれた古い看板が倒れていた。ただ、豊田町を目指すなら、国道316号から直接分かれる県道268号を行く方が本筋だろう。道もいい。わざわざこの地点を経由する者は居ない。

   
市道山中線道路災害復旧工事の看板 (撮影 2016. 4.18)
   

<「大ヶ迫」バス停>
 また不思議なのは、分岐の角に「大ヶ迫」と書かれたバス停がポツンと立っていることだ。「下大ヶ迫」に次ぐバス停となる。 しかし、ここから先、大ヶ峠方面にも山中峠方面にもバスは進まず、ここが最終のバス停となるようだ。付近に人家など全くない。 大ヶ迫の集落はもうとうに通り過ぎてしまっているし、市道山中線沿いの山中集落の人家まではまだ500mは離れているだろう。山中集落の住民がここまで歩いて下って来るのかもしれない。それにしてもバス停としては寂しい光景だ。

   
   
   
市道山中線分岐以降 
   

通行規制区間の看板 (撮影 2016. 4.18)

<大地川右岸>
 市道山中線分岐を過ぎると、道は一転して大地川右岸を戻る方向に進みだす。「大雨の時の 通行規制区間は ここからです」という看板が傾いて立つ。ゲート箇所の様な場所もあり、ここより一段階道が険しくなることを予想させる。
 
 ここから先、大ヶ峠を越えて美祢市側の宗済(むねずみ)集落に下るまで人家はない。大ヶ峠隧道を越える国道が通じたことで、最も使われなくなった道であり、最も旧道らしい区間でもあると言える。

   
ゲート箇所のような場所 (撮影 2016. 4.18)
大地川右岸を下流方向に進む
   

<廃棄物処分場>
 道は大地川沿いから徐々に離れ、峠から下る支流方向へと進む。徐々に狭い谷へと分け入って行く。視界が狭い上に、沿道に柵が張り巡らされていた。 何かと思っていると、「産業廃棄物の最終処分場」と看板が出ていた。 中を覗くと建物などはなく、廃材が転がっているばかりだ。廃棄物の処分は埋め立てが主で、昭和59年から始まっているようだ。この道が旧道となって(昭和55年)間もなくのことである。 峠道としての役割がなくなってからは、廃棄物処分で使われている。やや哀れである。


柵が張り巡らされている (撮影 2016. 4.18)
   

処分場の様子 (撮影 2016. 4.18)
処理場の建物などはない

処分場の看板 (撮影 2016. 4.18)
   

寂れた道 (撮影 2016. 4.18)

<廃棄物処分場以降>
 それでも道として使われるのはいいことだ。廃棄物処分場を過ぎると、明らかに道の様子がみすぼらしくなった。路面に落ち葉が堆積している。使われない道は補修も滞る。

   

<支流の源頭部>
 道は山肌に沿って細かい屈曲を繰り返す。視界はなく、方向感覚も失ってくる。道は大地川支流の源頭部を過ぎる。そこで一旦南の端に至り、その後はやや北へ戻るように進む。


支流の源頭部を過ぎる (撮影 2016. 4.18)
   

<砂防ダム>
 その後も細かい支流を巻いて進む。厳つい砂防ダムになっている箇所もあった。脇に「土砂流出防備保安林」の看板が立つ。その地図を見ると、現在地は鉄路の大ヶ峠トンネルの真上辺りにあるようだった。山中峠を越える県道268号は「県道豊田・三隅線」と呼ぶようだ。

   

厳つい砂防ダム (撮影 2016. 4.18)
その前に「土砂流出防備保安林」の看板が立つ

保安林の看板 (撮影 2016. 4.18)
地図は下が北
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

道の様子 (撮影 2016. 4.18)

<道の様子>
 道の山側は土砂流出防備保安林になっていることもあり、時には高い擁壁がそびえる。大ヶ峠の道はこの長門市側の方が険しく、その一端を窺わせる。
 
 
<麓の眺め>
 やや北方に戻るように進んで来た道が北端に至る。すると、木々の隙間から麓の景色が望めた。

   
長門市側の麓の景色 (撮影 2016. 4.18)
   

<大ヶ迫集落の様子>
 望遠で覗けば、峠直下に大ヶ迫集落の人家が点在する様子が手に取るように分かる。奥へと延びる国道沿いの大地集落まで見通せる。全般的に景色に乏しい大ヶ峠の道に於いて、この眺めは貴重な存在だ。

   
大ヶ迫集落の様子 (撮影 2016. 4.18)
   

<大ヶ迫隧道>
 木々が多くて見難いが、丁度真下には国道316号が通じている。大ヶ迫隧道の坑口も確認できる。

   

国道316号を望む (撮影 2016. 4.18)

大ヶ迫隧道の坑口が見える (撮影 2016. 4.18)
その手前の下に、旧道が通じる
   

<峠手前の分岐>
 垣間見せた麓の景色を最後に、道は峠のある暗い山ひだの中へと分け入って行く。アスファルトのひび割れも目立ち、その路面には脇水が流れ下り、落石も転がっている。荒れた感じは否めない。峠の100m程手前、左手に分岐がある。

   

左に分岐 (撮影 2016. 4.18)

分岐する道 (撮影 2016. 4.18)
荒れている
   

 その分岐の角はちょっと広くなっていて頭上も開けるが、そこを過ぎると峠に続く狭い切通しが始まる。

   
   
   
 
   
大ヶ峠 (撮影 2016. 4.18)
奥は美祢市、手前は長門市
   

<峠の様子>
 峠前後は緩くカーブしながら長い切通しが続いている。法面は土や石が露出したままで、コンクリート擁壁などは皆無に近い。 斜面から崩れて来た土砂がアスファルト路面を浸食し、道幅は狭く感じる。頭上には左右から木々が覆いかぶさるように繁茂している。それが100m以上も続いているのだ。 今にも土砂に埋もれてしまいそうな峠である。1980年以前はここに国道316号が通じていた筈だが、この道がかつて国道であったというのが信じられないくらいだ。

   
大ヶ峠 (撮影 2016. 4.18)
奥が長門市、手前が美祢市
右手に僅かに石積みの擁壁が見られるが、半分崩れている
   

<市境の看板>
 ここが峠である証拠に、「美祢市」と「長門市」と書かれた看板が対になって立つ。それ以外、ほとんど何もない峠だ。

   
峠の長門市側 (撮影 2016. 4.18)
   

 倒木・枯れ枝なども多い。ある程度は路肩に除けられているが、こういう道はパンクに注意が要る。

   
峠の美祢市側 (撮影 2016. 4.18)
   

<地蔵>
 市境看板より少し美祢市側に入った右手(西側)に、土砂に埋もれそうにして地蔵が佇む。台座となる石には大きく「三界萬霊」(さんがいばんれい)とある。 仏教用語らしい。建立は文化9年(1812年)、申(さる、9番目の意)之6月とあるようだ。近世日本・江戸期も終りに近い。 ここに車道が通じた時期は分からないが、徒歩で越えていた時代、既にこの地蔵が峠に佇んでいたことだろう。車道が通じる前の大ヶ峠はどのような峠であったかは、今では想像もできない。 誰もやって来そうにない峠になったが、それでも地蔵にはいくつかの飲み物が供えられていた。地元の人でも時には訪れるのだろうか。

   

美祢市側に地蔵 (撮影 2016. 4.18)

地蔵 (撮影 2016. 4.18)
   

<峠の感想>
 それにしても、車道の峠としてはあまりに原始的な姿だ。旧道の身となり、通る車などほとんどない静かなこの峠に佇んでいると、何やら恐ろしくもある。今にも両側の崖が崩れ来て、飲み込まれてしまうのではないかというような恐怖がある。
 
 大ヶ峠はトンネルを抜ける国道の旧道として僅かに残る峠道だ。これといって注目される点はない。この峠を訪れたのも、ちょっとした気まぐれ、旅のついででしかなく、何の期待もなかった。 しかし、この峠に漂う雰囲気はただものではない。どこか魔界に立ち入ったような気がする。それが今回の掲載となった唯一の理由である。

   
峠より美祢市側に下る道 (撮影 2016. 4.18)
   

<標高>
 大ヶ峠の標高は、文献(角川日本地名大辞典)では289mと出ている。また、地形図にも同じ289という数値が見えるので、これは正しいようだ。現在の国道316号が通る大ヶ峠隧道では、道の最高所が213mであった。元々低い標高が更に低くなっている。
 
 尚、大地川最上流部にある山中峠は330〜340mで、やはり大ヶ峠より高い。また、深川川本流のほぼ最上流部(支流の荒ヶ峠川の源頭部)に位置する荒ヶ峠では369mとなり、更に高いのは当然だろう。

   
美祢市側より峠方向を見る (撮影 2016. 4.18)
   

<荒ヶ峠(余談)>
 文献には、「荒ケ峠が日本海側と瀬戸内海側を結ぶ峠越え交通路であったが、 近世になってから大ケ峠越えが最短コースとして主道となった」と大ヶ峠の項に記されている。荒ヶ峠は長門市と旧秋芳町(しゅうほうちょう、現美祢市)との境にある。 峠の太平洋側は大ヶ峠と同じ深川川水系だが、大地川よりも更に上流側にある支流・荒ヶ峠川の源頭部に位置する。 その点で、大ヶ峠より荒ヶ峠の方が深川川水系を代表する峠であり、峠道の開通も先になったのではないだろうか。
 
 荒ヶ峠の瀬戸内海側は厚東川(ことうがわ)水系で、峠は厚東川本流の上流部に位置する。 厚東川は厚狭川の東7km程の位置で瀬戸内海に注ぐが、日本海側の長門を起点に荒ヶ峠を経て厚東川沿いに南下する経路は東に大きく膨らんでしまう。 一方、大ヶ峠経由で厚狭川沿いを南下すればほぼ直線路となり、確かに日本海側と瀬戸内海側を結ぶ最短コースとなるようだ。 大ヶ峠は荒ヶ峠の後継として近世・江戸期から使われ、それが現在の国道316号やJR美祢線の経路に引き継がれている。

   

<林道荒ヶ峠線(余談)>
 現在の荒ヶ峠には林道荒ヶ峠線が通じているようだ。随分古い話になるが、過去2回、長門市側から峠を目指そうとしたことがある。 荒ヶ峠林道は県道268号から分岐するが、最初はその入り口がなかなか見付けづらかった。分岐で迷っていると、地元の人が通り掛かり、道を教えてくれた。 峠を越える林道はなかなか酷い道で、車の通行は難しそうな話しである。別の道を行くように勧めるのだが、そもそも険しい道を走るのが目的である。 しかし、そんなことを説明するとややこしくなるので、曖昧な返事をし、その方が立ち去ってから林道へとジムニーを進めたのだった。

   
荒ヶ峠への林道 (撮影 1992.10.15)
「林道荒ヶ峠線 長門市」と看板にあった
   

 直ぐに「林道荒ヶ峠線 長門市」と書かれた看板が立つ。錆びて文字もほとんどかすれ、その先を見ると狭い未舗装路が始まっていた。 いつもなら、行ける所まで行くのだが、この時ばかりは怖(おじ)気付いてしまった。また、どうせ引き返しだろうという気持ちもあり、結局大ヶ峠隧道へと向かうのだった。
 
 その後、1999年にも同じ林道入口に立つ機会があった。今度こそ荒ヶ峠へ向かう積りだったのだが、林道を少し進むと路面は雪となった。 何となく恐怖心が湧いて来て、またもや断念となった。どうも「荒ヶ峠」という名が悪いようだ。つい怖い道を想像してしまう。未だにこの峠は越えたことがない。

   
県道268号からの分岐 (撮影 1999.12.28)
雪道に恐れをなして引き返して来たところ
   

この右に分岐あり (撮影 2016. 4.18)

<美祢市側の林道分岐>
 市境看板より美祢市側に100m程下ると、やっと暗い切通しが途切れ、そこで右手に林道が分岐する。水源かん養保安林などの看板が立つ。分岐する林道の名前が分からないかと看板を見たが、判明しない。
 
<県道美祢長門線>
 林道名は分からなかったが、水源かん養保安林の看板に、現在の大ヶ峠を越えるこの道を「県道美祢長門線」としていた。それは国道316号に格上げされる前の県道名のようであるが、看板は平成8年度(1996年度)の設置である。既に大ヶ峠隧道も開通している時期だ。

   

分岐する林道 (撮影 2016. 4.18)
名は不明

分岐に立つ看板 (撮影 2016. 4.18)
   

 すると、大ヶ峠隧道開通後の大ヶ峠を越える旧道区間を、再び県道美祢長門線と呼んだようにも取れる。しかし、どの道路地図にもここを県道表記にしている物はない。多分、便宜的に昔の名称を記したのではないだろうかと思う。

   

公社造林の看板 (撮影 2016. 4.18)
特に注目すべき事項はない

水源かん養保安林の看板 (撮影 2016. 4.18)
「県道美祢長門線」と出ていた
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

林道入口の反対側に立つ看板 (撮影 2016. 4.18)
こちらも特に注目すべき事項は見られない

 峠の長門市側や市境付近にはほとんど看板がなく、この美祢市側にいろいろと立つのは、切通し区間では看板を立てるスペースがなく、また、土砂に埋もれそうだからだろう。ただ、参考になる看板はあまりなかった。
 
<美祢市観光開発協会の看板>
 林道分岐から更に数10m美祢市側に進むと、美祢市観光開発協会による古い看板が立つ。美祢市方向に見ると、
  みどりと観光の街
  美祢市へようこそ
  いらっしゃいました

 とあり、その裏側の長門市方向には
  みどりと観光の街
  美祢市へ又どうぞ
  お越しください

 とあった。まだ秋芳町などを合併する前の美祢市である。秋吉台などはまだ含まれない。

   
美祢市観光開発協会の看板 (撮影 2016. 4.18)
   

 昭和55年の大ヶ峠隧道開通と同時に、この看板の役目は終わった。その後ずっとこの場に立ち続け、今では錆びだらけの姿である。 「ようこそいらっしゃいました」とか「又どうぞお越しください」という文句は、最近ではもうあまり聞かれない。 昭和の香りがして、懐かしさを覚える。古い峠が残ると同時に、こうした風物も一緒に残ってくれるといいと思う。

   

「美祢市へようこそ」の看板道 (撮影 2016. 4.18)

「美祢市へ又どうぞ」の看板 (撮影 2016. 4.18)
   

 観光協会の看板はいいが、それ以外、ほとんど何もない峠だ。かつて長門市街と瀬戸内海側を最短で結んだ国道が通じていた訳である。 茶店の一軒もあってよさそうなものだが、そんな痕跡は見られない。建物を建てたり、駐車場を設けるスペースがないことも要因だろうか。 ゴミ箱代わりになっている大きな土管や、腰を掛けるのに丁度良さそうな岩が幾つか転がっているばかりだった。

   
   
   
美祢市側に下る 
   

<厚狭川支流沿い>
 美祢市側の道は直ぐにも川沿いになる。ただ、厚狭川本流ではなく、支流の一つの左岸沿いだ。道は急な下りなどではなく、ほとんど水平移動で穏やかだ。
 
<作業道黒ヶ谷線(余談)>
 直ぐに左に道が分岐する。看板に「新伐採促進総合対策事業 作業道黒ヶ谷線」とあった。厚狭川本流の上流部に「黒ヶ谷」という名が見られる。その付近に幾つかの作業道が通じるようだ。

   

左に分岐 (撮影 2016. 4.18)
作業道黒ヶ谷線が分かれる

作業道黒ヶ谷線方向を見る (撮影 2016. 4.18)
   

また分岐 (撮影 2016. 4.18)
ここはチェーンで通行止

<幾つかの分岐>
 美祢市側では分岐が多い。厚狭川の上流部には源流となる細かな支流が多く、それらに沿う道が分かれて行く。特に気になるのは、1支流沿いに下って大ヶ峠隧道の坑口近くに降り立つ道が、地形図や「水源かん養保安林」の看板の地図に描かれている。しかし、その分岐は遂に見当たらなかった。
 
<厚狭川本流部>
 支流と本流の差があまりなく、区別する意味のない厚狭川上流部であるが、多分本流と思う川を過ぎる(下の写真)。 道路脇に「水源かん養保安林」の看板が立ち、その地図の「現在地」がほぼ厚狭川源流と言える。更に遡ると、大ヶ峠の東1km程の大分水嶺上の鞍部に辿り着く。 地形図ではそこを峠として越える徒歩道が描かれている。

   

厚狭川本流の源頭部を過ぎる (撮影 2016. 4.18)
ここはほぼ厚狭川本流の源流部

水源かん養保安林の看板 (撮影 2016. 4.18)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<厚狭川左岸沿い>
 厚狭川の本流沿いとなったこともあってか、道が一段と安定して来た。谷間が広がりだし、明るさが出て来た。

   
厚狭川本流の左岸沿いを行く (撮影 2016. 4.18)
徐々に開けて行く
   

<新道を望む>
 厚狭川左岸沿いに500mも進むと、下に新道である大ヶ峠隧道を抜けて来た国道316が見下ろせるようになる。人家も見える。丁度、例のホテルの真後ろ辺りに出たようだ。
 
 快適な国道316は手の届きそうな距離に並行して走る。しかし、そちらに下る道はなかなか出て来ない。


新道を望む (撮影 2016. 4.18)
人家が見える
   
国道316号を望む (撮影 2016. 4.18)
その奥にIR美濃線が通じる
   

道の様子 (撮影 2016. 4.18)

<沿道の様子>
 道は厚狭川の谷間、左岸のやや上部に通じる。傾斜地で沿道に人家などありそうにない。道もやや荒れた感じだ。 多分、厚狭川本流の上流部を巻いて下る現在のこの道筋は、車道開削時に新たに生じたものではないだろうか。 元の峠道は峠から下る支流沿い(見付からなかった道)に、もっと最短で厚狭川沿いにへと至っていたのではないだろうか。

   
厚狭川の谷間は広くなった (撮影 2016. 4.18)
   

<人家>
 それでもやっと沿道に人家が現れる。宗済(むねずみ)集落の中心部となるようで、付近に人家が密集する。古い大ヶ峠の峠道も、この集落内には通じていたことと思う。


人家が出て来た (撮影 2016. 4.18)
   
集落内を行く (撮影 2016. 4.18)
   

厚狭川沿いに進む (撮影 2016. 4.18)

<厚狭川沿い>
 人家の間を抜けると、間もなく道は厚狭川の左岸にぴったり沿って進むようになる。谷間の広さに比べると、小さな川の流れだ。現在の国道は右岸側に堂々と通じる。
 
 道が川の流れに忠実に沿っている様子は、如何にも古い道であると思わせる。江戸期から日本海側と瀬戸内海側との最短路として使われていた大ヶ峠の道が、正しくここに通じていたのだろう。

   

<国道に接続>
 国道が厚狭川を渡った橋の袂に旧道が接続する。これ以降の旧道は新道によってほとんど掻き消されていることだろう。古い道は川に沿って蛇行し、広い平坦地は水田に譲っていた。現在の国道は水田の中も真っ直ぐに突っ切って通されている。
 
 旧道の長門市側は3.8km、美祢市側は3km、合計6.8kmに対し、その区間の新道・国道316号は3.8kmである。距離の差以上に旧道は時間が掛かるが、ちょっと楽しい峠の旅だった。


国道に接続 (撮影 2016. 4.18)
   
   
   

 大ヶ峠は、中国地方も西の外れでちょこっと越える旧道の峠道だ。名前は「大」でもこうした小さな峠は世の中に無数とある。 わざわざ「峠と旅」で取り上げたところで、誰も関心など持たないことだろう。ただ、旅先で偶然に越えてみたところ、峠の不気味さが印象に残ることとなった。 こうして記録を残しておくのも、たまにはいいかと思う、大ヶ峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1992.10.15 長門市→美祢市/大ヶ峠隧道 ジムニーにて
・1999.12.28 長門市→美祢市/大ヶ峠隧道 ジムニーにて
・2016. 4.18  長門市→美祢市/大ヶ峠 その後、美祢市→長門市/大ヶ峠隧道 ハスラーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 35 山口県 1988年12月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・中国四国 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 6 中国四国 1997年9月発行 昭文社
・マックスマップル 中国・四国道路地図 2011年2版13刷発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
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<1997〜2017 Copyright 蓑上誠一>
   
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