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「峠と旅」では、峠名に「垰」の字を使う峠は、この大刈垰が始めてである。「垰」は「たお」とか「たわ」と読む。
「垰」の字は使わないが、鵜峠は「うのたお」と読み、「鵜の田尾」などとも書く。また、トリガタワは「鳥ヶ乢」とも書き、「乢」(たわ)と言う、これまた変わった漢字を使う。鵜峠は香川県と徳島県の県境に、トリガタワは兵庫県にある。「とうげ」の代わりに「たお」とか「たわ」と呼ぶのは、関西から西の中国・四国地方に多いようだ。 |
わたしが常用しているツーリングマップルには、誤植だろうか、普通に「大刈峠」と書かれていて、これまでずっと大刈峠(おおかりとうげ)だと思っていた。ところが今回調べてみると、国土地理院の1:25,000地形図や、その他の道路地図には、ほとんど「大刈垰」と記載されているのが分った。それでここでも大刈垰と題することとした次第である。
尚、調べた文献には、峠近くに通る鉄道や国道にある大刈トンネルを、「おおがりトンネル」としてあったが、ネット上の検索などでは、「おおかり」と読ませる場合がほとんどなので、ここでは大刈垰の読み方を「おおかりたお」としておくこととした。わたしも最初から「おおがり」より「おおかり」の方が呼び易いような気がしていた。 |
大刈垰は、山口県の中にあって、県の北東の奥の方にある旧須佐町(すさちょう)、現在の萩市大字須佐と、西隣の阿武町(あぶちょう)との間にある。ただ、峠の正確な位置は、市町境より200m程須佐側に位置する。峠道の標高のピークがそこにあるのだ。
旧須佐町も阿武町も共に日本海に面し、大刈垰は金井崎と言う岬の近くを越えている。この近辺では、山地が日本海まで迫り、また海岸は海食崖となっている為、沿岸の道路や鉄路の開通が困難を極めた地域である。現在、旧須佐町と阿武町の間には、大刈垰よりずっと内陸側を、国道191号・北浦街道が大刈トンネル(1,471m)で抜けているが、このトンネルによるルートが開通する前は、この大刈垰の道が国道であったそうな。 |
通常、峠は長く連なる峰の鞍部に位置する場合が多いが、この大刈垰はやや事情が異なる。海に張り出した尾根の先端は断崖となり、海岸沿いに道が築けないので、仕方なく尾根の途中に道を通した。そこは僅かな鞍部ではあるが、そこより1Kmも海側に行けば、もっと低い箇所がある。大刈垰は一応峠道なのだが、鋭く切り立つ峰を越える峠道とは、自ずと趣が異なる。
こうした例は時折見られ、海ではなく川に関しても葛葉峠(くずば)などはその一例になるのではないだろうか。葛葉峠は姫川の近くに形成された峠道である。 |
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1999年の暮れ12月28日、島根県の日本海に面した浜田市から、ほぼ海岸沿いに西の山口県方向に向かってジムニーを走らせていた。歳を取ってきた両親や小さな子供を抱えて海外で暮らす弟夫婦のことなど全く省みることなく、相変らず勝って気ままな一人旅である。年末年始の会社の休暇に、1日の有給休暇を追加し、合計10日間の旅の最中であった。
行き先はその日その日に場当たり的に定め、宿もその日の午後になって、宿泊帳から適当に選んで予約の電話を入れて泊まる。もう、板に付いた旅のスタイルである。両親には家に戻る日付だけ伝え、行き先も告げず、旅の途中では何の連絡もしない。会社からも家からも、世間からも逃れて一人だけの世界にどっぷり浸かっていた。今から考えると、随分身勝手な話である。 |
そんなわたしに冬の日本海は、ぴったりである。孤独が倍増される。しかし、寂しいなどと言う気持ちは一切ない。日々、旅の作業に専念するばかりだ。地図を調べて行き先を決める。道路看板などを注意深く見る。ガスの残量は大丈夫か。食事はどうしようか。予約した宿にはどう行けばよいのか。一人黙々とそうした作業に没頭する。孤独を感じて感傷的になるような暇はない。 |
![]() ホルンフェルス大断層 (撮影 1999.12.28) 40mの岩壁に横縞模様が見られる |
仏峠(国道191号の旧道)で山口県に入り、田万川町から須佐町へと走り繋ぐ。使っていた道路地図はツーリングマップル一つで、この12万分の1の縮尺では、なかなか詳しいことは分らない。観光地に関する情報もなきに等しい。どこに寄って良いものか迷っている中、「ホルンフェルス大断層」という文字が目を引いた。「40mの岩壁に見事な横縞模様が続く 自然の芸術」と、ツーリングマップルにしては珍しく観光ガイドの文が添えられている。ならばと、そこへ行ってみることとした。
須佐の市街地から国道191号を外れ、日本海に張り出した高山(こうやま)の西の麓に当たる海岸を目指す。車で行ける所まで行くと、そこから先は歩道を歩かなければならないらしい。こんな年末に、寒々しい海岸を観光に来ている者など全く居ない。こちらも歩くのが面倒で、遠くからその大断層を眺め、そそくさと引き返すこととした。わたしの観光地巡りなんて、全く適当なものだ。 |
帰り道のついでに、高山の磁石石(じしゃくいし)を見ることにした。その磁石石が一体なんであるかは、ツーリングマップルには何も記されていない。行ってみれば分るだろう。
車道は高山の頂上付近まで延びていた。しかし、山頂一帯は雪が積もり、結局その磁石石がどこにあるか見付け出すことはできなかった。ただ、高山の南西に広がる須佐湾が一望に見渡せた。天然記念物などを見学するより、こうした景色を堪能する方が楽しい。 |
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須佐市街に戻っても、そのまま国道191号を行く気にはならず、海岸沿いの県道343号・宇田須佐線へと入って行った。
後から知ったことだが、この県道343号は元の国道191号であった。今の国道は、険しい海岸沿いを外れたずっと内陸を、須佐トンネル、大刈トンネル、小刈トンネル、惣郷(そうごう)トンネルといったトンネル群と、いくつもの橋梁で阿武町(あぶちょう)宇田(うた)にまで至っている。その区間を旧国道である県道343号は、海岸に最も近い所を行く唯一の車道として通じているのだった。 県道は暫く須佐湾に面した海岸沿いを行くが、山陰本線もほぼ同じコースで付いて来る。鉄路にとってもここは開発が困難な地であることに変わりなかった。須佐市街にある須佐駅から西隣の宇田郷駅までの区間は、山陰本線の中でも最も遅れて開通した区間だそうだ。鉄路の大刈トンネル(2,215m、2,214mとも)や惣郷川(白須川?)橋梁(189m)の難工事を経て昭和8年に開通した。大刈トンネルは県下で2番目に長いトンネルだそうだ。 一方、国道の大刈トンネルの完成は、鉄路に大きく遅れ、昭和52年とのこと。それまでは大刈垰を越える道が須佐町と阿武町を繋ぐ幹線路の役割を担っていた訳だ。 |
![]() 県道343号を行く (撮影 1999.12.28) 右手に田畑が広がる その奥の山際に川が流れる |
道は海岸沿いを離れ、須佐湾に注ぐ小さな川の右岸を登るようになる。半島と言って良い様な地形を行く場合、こうした川の谷間を進むのは珍しい。この先、大刈垰の峠が待っている筈だが、道は峠道らしくないだろうと諦めていた。それが意外と峠道の雰囲気がある道へと変わり、車を走らせていても、なかなか楽しい。今は旧道の身とあってか、交通量は皆無に等しく、落ち着いて車を進められる。
山陰本線は早々と大刈トンネルに入り、後は曲がりくねった車道の一人旅だ。沿道には田畑も望まれ、静かな山里の景観が広がる。日本海沿岸から2Kmと離れていないのに、深い山々に包まれたような気分である。あの高山から望んだ須佐湾の景色も良かったが、自分自身の身を置くとしたら、やっぱりこうした山間部である。こちらの方が安心感があり気持ちが落ち着く。 |
谷は狭まり、周辺に耕作地も見られなくなる。そんな中を旧国道は細々と通じている。県道標識がポツンと立っていた(右の写真)。他に目を引く物がほとんどないので、こんなありふれた物でも、わざわざ車を停めて写真に収める。
道の谷側に設けられたガードレールの色が黄色だ。黄色と言うより山吹色と言った方が近いか。山吹色は子供の頃から好きな色である。明るい黄色より深みがあり、写生などでは好んで使った。こうした色のガードレールは、この中国地方だけでなく、四国でも見られたと思う。普段見慣れた白いガードレールと違うので、最初は目に付いたが、慣れれば山の景色とマッチしていて、なかなか良いかもしれない。 この後、小さな集落を過ぎる。金井と呼ばれる集落だと思う。一方、峠やトンネルの名前には「大刈」と命名されているが、阿武町側の惣郷(そうごう)にその大刈と言う集落名が地図に見られる。但し、この県道343号沿いではない。現在の国道191号より、その大刈集落まで道が延びている。市町境に迫った地だ。 これは想像だが、現在の大刈垰の車道が開削される以前、須佐町から阿武町惣郷大刈に通じる道があったのかもしれない。そして町境越えの峠に大刈の名が使われた可能性が考えられないだろうか。その後、この近辺に開削された峠やトンネルに、大刈の名が引き継がれた。大刈垰に関して正確な名前の由来は分らないが、こんな風に考えてみた。 |
![]() 県道標識 (撮影 1999.12.28) 県道 343 山 口 宇田須佐線 須佐町金井 この時はまだ萩市にはなっていない |
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道の標高のピークが大刈垰と呼ばれているようで、そこは萩市と阿武町の境とはなっていない。市町境より少し萩市側にある。大きく連なる一筋の峰が境を形成している場合と異なり、ここは半島的な地形で、やや複雑な起伏がある。峠と市町境が一致しないことは仕方ないことか。
峠もあまり峠らしく見えない。それでも僅かながらも鞍部となっている所を越えているので、両側は石垣を積まれて切り通しの様にはなっている。片側が谷で、その先に海が見えると言った様な峠でないのは救いだ。 大刈垰に峠を示す物はほとんどなかったと思う。ただただ石垣に挟まれた狭い道が、それまで上って来たかと思うと、そこから下りだすばかりである。 峠から2、3分も車で下ると、阿武町側の海岸が望めるポイントがある(下の写真)。何も望めない閉塞した峠の代わりに、そこから遠望が楽しめる。日本海にポツンと浮かぶ小島が見えるが、それは姫島か? |
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![]() 狭く曲がりくねった道が続く (撮影 1999.12.28) |
大刈垰の阿武町側は、沿道に人家や田畑もなく、ほとんどが林の中を行く道だ。木々が覆いかぶさり、アスファルト路面に降り落ちた枯葉も侘しげである。もともと1.5車線くらいしかない道幅が、積もった落ち葉で尚更狭く感じる。
これが単なるローカルな道ではなく、元々は国道であったと言うから驚きだ。それも昭和52年頃まで現役だった訳だから、ほんの少し前まで、ここを多くの車が行き来していたことになる。 |
旅の目的として越える峠は、長くても険しくても、それはそれなりに楽しめるものだが、日々の生活道路としてはやはり快適な方がいいことだろう。急ぎの用がある時に、この屈曲した狭い道は、辟易したに違いない。
今は国道としての現役を退き、寂し過ぎる県道の身の上だが、わたしの様な旅人には、お似合いの峠道が続く。それにしても酔狂な話である。自宅を遠く離れた旅先で、わざわざこんな道を選んで走るのだから。家族のことも、自分自身の将来のことも、何も考えず、ただただ一人、寂しい旅の空に身を置いていた。 それが今では、父や母のことを考えない日は一日もない。両親とも、人の介護なしでは生きていけない身体になっていた。これまでほとんど連絡をしたことがない海外に暮らす弟にも、時折電子メールで親の近況を伝え、今後のことをいろいろ相談する。妻を持った身として、われわれ夫婦自身のこの先のことも考えなければならない。とにかくいろいろなことが、わたしに迫ってくる感じである。両親が元気な内に、もっと親孝行しておけば良かったと思う反面、あの一人旅の孤独な時間は、とても貴重だったようにも思われるのだった。 |
![]() 竹林の中を行く (撮影 1999.12.28) 周囲の視界が全くない |
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林から抜け出ると、海岸に近く、鉄路とも寄り添う道となる。道の直ぐ脇を、単線の山陰本線が走っている箇所がある(下の写真)。間近にあらわとなった線路を眺め、周囲の海岸線の風景と相まって、面白い景観であった。
鉄路はこの先、白須川の河口に架かる橋を渡る。大刈トンネルと並んで難工事とされた橋梁だろうか。一方、車道は白須川の少し上流に迂回し、そこで小さく川を渡り、左岸沿いを下って鉄路の橋梁の下をくぐり、海岸沿いに出る。 |
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県道は阿武町内を惣郷から宇田へと走り繋ぎ、山陰本線の宇田郷駅近くで国道191号に接続している。県道名が宇田須佐線であるから、そこが県道終点だと思う。
僅か10Km前後の県道だが、少しは峠道の気分を味わえたし、日本海や山陰本線が通じる景観も楽しめた。国道を避けただけのちょっとした寄り道の積りが、ホルンフェルス断層や磁石石より、ずっと正解だったと思う大刈垰であった。 |
<走行日>
・1999.12.28 旧須佐町→阿武町(ジムニー) <参考資料> ・中国四国 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社 ・ツーリングマップル 6 中国四国 1997年9月発行 昭文社 ・県別マップル道路地図 35 山口県 2004年1月2版5刷発行 昭文社 ・国土地理院発行 2万5千分1地形図 宇田、須佐 ・角川日本地名大辞典 35 山口県 1988年12月 8日発行 角川書店 <Copyright
蓑上誠一>
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