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興津峠
  おきつとうげ  (峠と旅 No.248)
  土佐湾にちょこっと突き出た興津崎に至る唯一の峠道
  (掲載 2015.12.31  最終峠走行 2015. 5.31)
   
   
   
興津峠 (撮影 2015. 5.31)
手前は高知県高岡郡四万十町与津地(よつじ)
奥は同町興津(おきつ)
道は主要地方道52号・興津窪川線の旧道
峠の標高は約340m (地形図の等高線より)
この深い切通しは、興津側の麓からも確認できる程大きなものだ
10数年前まで、この峠が内陸と沿岸沿いの興津とを結ぶ唯一の車道であった
この真下にトンネルが開通し、興津峠はやや寂れた雰囲気が漂う
   
   
<日本列島輪郭旅(余談)>
 30歳代になって初めてバイクや車で旅を始めると、離島を除けば、日本列島のどこにでも自由に行けるような気になった。 手始めに9日間の夏休みを使って北海道ツーリングを計画してみた。しかし、どこをどう走っていいか分からない。 お決まりの観光地など訪れる気はさらさらない。そこで、とにかく海岸沿いを走ることとした。北海道の輪郭をなぞるように走るのである。 東京湾からのフェリーで苫小牧に着くと、反時計回りに襟裳岬、釧路、根室岬、知床半島、網走、宗谷岬、稚内、雄冬海岸、小樽と走り、 小樽港から日本海フェリーで新潟、関越自動車道で東京へと帰って来た。翌年の夏休みは、小樽を起点にやはり反時計回りで、積丹半島、茂津多岬、 松前白神岬、恵山、長万部、室蘭地球岬、苫小牧と回り、北海道一周を果したのだった。 こんな調子で東北や関東、中部、北陸、紀伊半島、関西、中国、四国、九州などと、幾つかの地域に分けては輪郭ばかりを走っていた。
 
 しかし、あまり馬鹿正直に小さな半島や岬の先まで走って行くと、いくら時間があっても足りない。 複雑に入り組んだ海岸線の道は、果てしなく時間が掛かる。そこで、少し手心を加える。 例えば、海岸沿いに県道が通じていても、あまりにクネクネ曲がってばかりいる場合は、ちょっと内陸側でも真っ直ぐな国道があればそっちを走ってしまう。 また、海岸沿いの途中で行止りになったり、あるいは半島の先まで一本道でそこを往復しなければならない場合は、それはなかったものとして無視する。 その結果、興津崎はかつて訪れることのない地となった。
   
<小半島へと続く一本道(余談)>
 高知県の室戸岬から足摺岬へと大きく弓なりに湾曲する土佐湾に、ちょこっと飛び出ている小半島がある。地図帳では「興津崎」と出ている。 興津岬などとも呼ばれるようだ。ツーリングマップルなどの道路地図を見ると、その岬前後の海岸沿いに車道が全くないのだ。 代わりに内陸からたった一本、道が岬へと通じる。それが唯一の陸路となる。 国道56号が、高知市街から始まってほぼ土佐湾に沿って通じるが、その国道から片道17km以上の道程となる。 輪郭旅などではなかなか立ち寄ることができない立地だ。しかし、どんな所だろうと旅ごころがそそられる地でもある。 しかも、よくよく見ると途中で興津峠という峠を越えている。 輪郭旅などというせわしい旅をとっくに卒業した今、この旅の空白地帯を訪れてみようという気になった。
   
<所在>
 峠は高知県高岡郡四万十町、旧窪川町(くぼかわちょう)の大字与津地(よつじ)と大字興津の境となる。 単なる大字境なので、一般の道路地図や地形図では峠を通る境界線が何も描かれていない。峠のほぼ真下にはトンネルが通じている。 与津地は内陸側、興津が興津崎を含む沿岸側となる。興津崎は高知市の桂浜より海岸沿いを西へおおよそ50kmの距離に位置する。
   
<地形図(参考)>
 国土地理院地形図にリンクします。

(上の地図は、マウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   
   
   
国道56号より峠へ
   
<国道56号からの分岐>
 今回の峠道は、四国南西における大幹線路である国道56号から分岐する。最近は高知自動車道が西へ西へと延び、四万十町中央ICができている。 そのICに程近く、高知市街からも容易に行けるようになった。
 
 ICから国道56号に入ると高知市街方面へと少し戻るように進む。峠道は主要地方道52号・興津窪川線で、国道上の看板にしっかり分岐が示されている。 しかし、その交差点の周囲はあまりに殺風景だ。曲がった先の主要地方道も不自然な程に立派である。 古くから興津の住民にとって重要な生活路であった道である。こんなによそよそしい訳がない。

国道56号を高知市街方向に見る (撮影 2015. 5.31)
右に主要地方道52号が分岐する
   

以前の主要地方道52号の分岐 (撮影 2015. 5.31)
(国道56号上を高知市街方向に見る)
この交差点を右に狭い道が分岐する
この国道の少し先の左手が仁井田駅
<旧分岐>
 それもその筈で、古いツーリングマップ(ル)を見ると、元の主要地方道は600m程高知市寄りから分岐していた。土讃線の仁井田(にいだ)駅に近い。 分岐周辺はちょっとした仁井田の市街地が形成されている。この主要地方道の前身は県道興津仁井田停車場線と呼ばれていた。 それからすると仁井田駅が起点であったようだ。
 
 更に、現在の国道は仁井田市街をバイパスして通されたものらしく、もっと昔は現在の分岐より少し東側にある十字路が、 興津峠を越え興津崎へと至る峠道の起点ではなかったかと思う。仁井田の町並みに通じる道は狭く、往時が偲ばれる。
   
 輪郭旅で国道56号を初めて走ったのは、多分1990年5月2日のことだったと思う。 前日は高知市内に泊まり、当日は土佐湾沿いに足摺岬などを経由して宿毛市に投宿している。仁井田も通過した筈だが、何の記憶もない。 当時の旅はカメラを持たない主義だったので、旅の手掛かりとなる写真は一枚も残っていない。
   
<主要地方道を行く>
 主要地方道52号に入ると直ぐ、「興津 17km」と看板が立つ。 現在、峠にはトンネルが通じているので、「17km」とはトンネルを使った場合の距離と思われる、が定かでない。 トンネルと峠では2km程、道程が違う。 そんな細かいことより、この峠道は往復が必須である。再び国道56号に戻って来るには、その倍の道程を走らなければならない。

主要地方道52号 (撮影 2015. 5.31)
「興津 17Km」
   

仁井田川を渡る (撮影 2015. 5.31)
<仁井田川>
 道は四万十川(しまんとがわ)の支流・仁井田川を渡る。四万十川は渡川(わたりがわ)水系となるらしい。 渡川とは四万十川の以前の名称でもあるようだ。その水域は広大で、把握しがたい程広い。とにかく興津峠の内陸側は全部が渡川水系である。
   
<高知自動車道>
 国道分岐から真っ直ぐ延びて来た道は、次に高知自動車道をくぐる。その手前の左から道が合する。それが旧主要地方道52号となる。 仁井田市街方面から仁井田川左岸沿いに下って来ていた。ここから峠方向は、概ね以前からある道筋となる。

高知自動車道をくぐる (撮影 2015. 5.31)
左手から旧道を合する
   

狭い箇所 (撮影 2015. 5.31)
<東又川右岸>
 道は仁井田川の支流・東又川の右岸沿いになる。ただ、川から離れているので、そんなこととは全く気付かない。 東又川の谷は広く平坦で、その中を快適な2車線路が突っ走る、と思っていると急に狭い箇所が2か所連続した。 まだ道路の改修途中なのか、あるいは用地買収がうまく行っていないのか。
   
<与津地川右岸>
 道は東又川を左岸に渡り、その先はその支流の与津地川(よつじがわ)右岸沿いとなる。間もなく県道325号と交差する。 この県道は国道56号より海岸寄りに通じるので、輪郭旅としてはこちらを走るべきだったが、そんな細かなことは考えなかった。
 
 主要地方道52号の標識には「四万十町 本堂」とあった。峠の北側は大字与津地だが、その一つ手前が大字本堂となる。 道路看板には「興津 14km」と出て来た。
   
県道標識は「四万十町 本堂」 (撮影 2015. 5.31)
県道325号を少し過ぎた所
先の道路看板には「興津 14km」とある
   
<与津地川左岸>
 途中、与津地川を左岸へ渡る。その頃にはもう大字与津地に入っていることになる。相変わらずの平坦地が続く。 「興津 12km」と看板がある。気になるのは、前方の山並みが霞んでいることだ。峠が霧の中では面白くない。
   
道の様子 (撮影 2015. 5.31)
与津地川左岸沿い
「興津 12km」
   
<シケイン>
 また一箇所、道の改修途上の場所を通過する。丁度与津地川を右岸に渡り返す箇所だ。橋でも架け替えているのか、狭い道が屈曲する。 車のレースの「シケイン」と言われるような状況だ。その周囲には人家が比較的多く点在する。大字与津地内の与津地集落付近である。
   
シケイン (撮影 2015. 5.31)
橋を架け替えているのか
   
<道の様子>
 その後も人家はまばらに点在する。道沿いよりは少し離れて家屋がポツリポツリと立っている。 集落として寄り集まることはほとんどなく、一軒一軒が離れている。後は水田と畑などの耕作地が与津地川の平坦な谷を埋めている。 その中を快適な道が真一文字に進む。
   
<工事看板>
 工事期間が平成27年3月16日〜平成27年9月30日とある工事看板が立っていた。 通行規制もあるようだが、別の看板には「解除中 交通制限無し」ともあって一安心。 この道は、地元民の重要な生活路であり、安易には通行止にはできない。

工事看板 (撮影 2015. 5.31)
   

西の川?を渡る (撮影 2015. 5.31)
左手にバス停「西の川」
右手に左岸沿いの道が分かれる
<西の川>
 道はいつの間にか与津地川の左岸に入って来ていた。西の方から流れ来た支流を渡る。その橋の手前にバス停「西の川」が立っていた。 支流の左岸沿いに道が分かれ、地形図にはその道沿い人家が見られる。「西の川」という集落なのかもしれない。 また、その支流の名前が「西の川」という可能性も高い。
 
 支流を渡るとその先は与津地川の本流が峠直下にまで至り、道はそれに沿う。周辺に人家はほとんど見られなくなった。
   
<旧道分岐>
 現在、奥津峠にはトンネルが通じ、興津峠は旧道となる。その旧道分岐が左手に出て来た。 しかし、何の案内看板も立っていないので、行き過ぎて分岐の写真を撮りそこなう始末。もう、一般には興津峠への通行は配慮されしていないのだろう。
 
 さて、峠とトンネルと、どちらに進もうかと思ったが、どちらにしろこの峠道は往復が必要だ。行きと帰りでコースを変えればよい。 丁度、峠のある峰はガスっていて視界不良である。帰りに運良く晴れることを期待し、トンネル方向に進む。
 
 分岐の先に県道標識が立ち、「興津海水浴場 10Km」、「四万十町 西ノ川」と書かれていた。 やはり大字与津地内の地名(集落名)として「西ノ川」があるようだった。
   

左に分岐 (撮影 2015. 5.31)
ここが旧道への入口
直進はトンネルへ

分岐の直後 (撮影 2015. 5.31)
県道標識は「四万十町 西ノ谷」
   
<トンネル直前>
 道は与津地川の左岸に沿い、ここまでほとんど寄り添ったことがなかった与津地川が左手から近付いて来る。 しかし、この辺りになると、もう川というより側溝のような様子だ。道はトンネル坑口の直前で川筋を横切っていた。
   
トンネル直前 (撮影 2015. 5.31)
   
<興津坂トンネル>
 坑口上部に掛かる扁額により、このトンネルが「興津坂トンネル」という名であることが初めて分かった。 古い道路地図しか持ち合わせがなかったので、まだこのトンネルが記載されていないのだ。
 
 単に「興津トンネル」とするのではなく、「興津坂トンネル」と「坂」を付けたのには何か意味があったのだろうか。 昔はこの峠道を「興津坂」(おきつざか)と呼んでいたのではないかと想像する。 現在の道の名称は主要地方道52号であるが、そこにできた新しいトンネルに古称を復活させたのではないかと思ったりする。
   
与津地側の興津坂トンネル坑口 (撮影 2015. 5.31)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
<標高>
 この与津地側の坑口まで、道はほとんど登った感じがしなかった。坑口標高は約285mであるが、国道56号からの分岐点で既に標高約230mある。 その差は僅かに55mだ。その間の道程は7.5km程となる。
 
 坑口の少し上辺りにガードレールや電柱が見える。旧道が通じているらしい。
   
   
   
トンネルの興津側
   
<トンネルを抜ける>
 トンネル延長は約400mで、照明が灯り、歩道もあって立派なトンネルだ。しかし、トンネル前後に待避所がなく、車を停めるのには厄介だ。
   
興津坂トンネルの興津側坑口 (撮影 2015. 5.31)
   
<銘板など>
 銘板によると、このトンネルの竣功は2001年11月とのこと。 手持ちの一番新しいツーリングマップルでも1997年9月の発行だから、載っていないのも当然である。 銘板に並んで、多分扁額の題字の作者と思われる方の人名が刻まれていた。
   
銘板など (撮影 2015. 5.31)
   

トンネルを背に興津方向を見る (撮影 2015. 5.31)
<興津側>
 トンネルを抜けた先は、海岸沿いまで全て大字興津の地である。取りあえず、快適な道が下って行く。 ここの標高は低いが、最終的に峠道はほぼ海抜0メートルまで行き着く。峠の興津側は標高全てを下ることとなる。
   
<旧道分岐>
 トンネル坑口から数100mも下ると、右手に狭い道が分岐している。「ダンプ出入口」という看板以外、やはり何の案内もない。 トンネル開通後に初めて訪れた者は、旧道の存在に気付かないことも多いだろう。
 
<通行規制区間>
 旧道の分岐近くに「異常気象時 通行規制区間 起点」の看板が立っていた。四万十町興津までの5.0Kmとある。 この付近一帯が「興津」なので、場所はよく分からない。集落に入る少し手前までであった。 こうした通行規制区間が設けられていることも、興津側の峠道の方が地形的に険しいことを示している。
   

通行規制区間の看板 (撮影 2015. 5.31)
この右手に旧道分岐

旧道の分岐 (撮影 2015. 5.31)
   
<展望台>
 旧道を分けた後、道は急カーブする。岬の方向に突き出たその突端に展望台が設けられていた。 東屋や柵がきれいに整えられているが、これらの木材は四万十町産を使用しているとのこと。 この場所は興津峠の元の道筋でもあるが、多分、トンネル開通に伴い新しく設けられたのだろう。
 
 この展望台は正式には「土佐興津坂展望台」と呼ばれ、ここでも「興津坂」の名称が用いられている。 そこからの眺望は「Kochi Photospot」の内に選ばれ、No.73とのこと。高知の写真スポットはなかなか数が多そうだ。

展望台 (撮影 2015. 5.31)
   

Kochi Photospoの看板 (撮影 2015. 5.31)

Kochi Photospo No.73 (撮影 2015. 5.31)
   
<撮っちょ木(余談)>
 観光地では時々記念写真用のカメラ台を見掛けるが、ここにはカメラをしっかり取り付けできる本格的なカメラ台が設けられていた。 「撮っちょ木」と名付けられている。丁度今、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を再読しているが、土佐の方言はなかなかユーモラスだ。 「撮っちょ木」に誘われ、我々も記念写真を一枚。以前の旅ではカメラを持つことさえしなかったが、変われば変わるものである。 ただ、こんな手間なことばかりしていては、輪郭旅など到底覚束なかっただろう。 若い時の旅はあっさりしたもので、それはそれでよかったのだと思う。
   

カメラ台「撮っちょ木」 (撮影 2015. 5.31)
 
「撮っちょ木」で記念写真 (撮影 2015. 5.31)
   
<眺望>
 展望台からはこれから降り立つ興津の地が一望できる。 興津崎の先端部は三崎山(218m)が隆起し、車では立ち入ることはできない小半島(三崎半島)を形成している。 三崎山の手前に僅かばかりの平坦地があり、そこに水田やビニールハウスなどの栽培施設が広がり、片隅に人家が密集する様子が望める。 三崎山に向かって右手が小室(おむろ)の浜で、左手が浦分(うらぶん)漁港となる。 浦分漁港は正面に望めるが、小室の浜は手前の山陰に入ってほとんど見えない。
 
 興津は土佐湾西岸の景勝地として土佐十景の一つに数えられるとのこと。 ここから見る興津全体の眺望がそうなのか、これから向かう小室の浜などの海岸美がそうなのか。 どちらにしろ、Kochi PhotospotのNo.73より、十景の一つと言われた方が価値がある。
   
展望台から望む景色 (撮影 2015. 5.31)
   

興津観光情報の看板 (撮影 2015. 5.31)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
<興津観光情報(余談)>
 展望台の駐車場の脇に興津観光情報の看板が立つ。観光施設としては小室の浜の海水浴場や青少年旅行村が案内されている。 レジャーとしてはやはり磯釣りやダイビングなど海がメインとなるようだ。
 
 看板の右上に、何気なく青い生垣を巡らした街路の様子が載っていた。興津は集落内の竹の生垣が美しいことで知られるとのこと。 旅情を誘われる風景だ。
   
   
   
展望台以降
   
<道の様子>
 トンネルから続く2車線路はいくらも続かない。展望台を過ぎると間もなくセンターラインは消える。山肌を縫う屈曲した狭い道が下る。 興津と内陸を結ぶ唯一の陸路としてはやや心もとない感じがする。重要な生活路とあってポツポツと対向車がやって来る。
 
<後川>
 峠の興津側は、小室の浜の東端で小室湾に注ぐ後川の一支流の谷の中に道が通じる。その谷間を大きく、小さく蛇行して下る。 与津地側が底の広く平らな谷に直線的に通じていたのに比べて対照的だ。峠道としての険しさを感じる。

展望台から先の道 (撮影 2015. 5.31)
   

道の様子 (撮影 2015. 5.31)
1.5車線幅の道が続く

道の様子 (撮影 2015. 5.31)
   
周辺の様子 (撮影 2015. 5.31)
道は谷間を大きく蛇行する
   
<工事個所>
 与津地側に工事看板が立っていたが、そのことと思われる工事個所を何度か過ぎる。険しい地形に道を維持することの大変さを物語る。 既に工事が終了したのか、ガードレールや白線の白色が真新しい箇所も多い。ただし、2車線幅にまで拡張する余裕はないようで、1.5車線のままだ。 一度、センターラインが出て来たかと思ったが、また直ぐ狭い道に戻った。
   

工事個所 (撮影 2015. 5.31)

工事個所 (撮影 2015. 5.31)
   
<2車線路に>
 本格的に2車線路になったのは、もう後川の本流沿いに近くなってからである。興津の市街地は目と鼻の先だ。
   
ここからは本格的に2車線路 (撮影 2015. 5.31)
   
<通行規制区間終点>
 2車線路になって間もなく、旧道分岐点から始まった異常気象時の通行規制区間の終点を示す看板が出て来た。 異常気象時はここから奥にある興津の地は孤立してしまうことになる。

通行規制区間終点の看板 (撮影 2015. 5.31)
   
   
   
集落内へ
   
<集落内へ>
 やっと建物が見えだす。まだ、集落の外れなので人家ではなく、保育所などの公共の建物が多いようだ。
   
集落へ (撮影 2015. 5.31)
   
<県道標識>
 峠の興津側では、ほとんど県道標識は立っていなかった。ここに来て初めて、「四万十町 興津」と書かれている県道標識を見る。
   
左手に県道標識 (撮影 2015. 5.31)
   

左手にヘリポート (撮影 2015. 5.31)
<ヘリポート>
 道路に面してヘリポートが設けられていた。僻地という程ではないが、荒天時や緊急を要する場合、こういう輸送手段の備えは重要であろう。
 
 やがて左手に興津の平坦地が広がりだす(下の写真)。JAの出荷場やその先に近代的な栽培施設の建屋が並ぶ。 ビニールハウスというような簡易的なものではなかった。海に依存した漁村としての土地かと想像していたが、農業も盛んな様子だ。
   
JAの出荷場などを望む (撮影 2015. 5.31)
   
<後川右岸沿い>
 いよいよ人家が立ち並ぶ集落内へと主要地方道52号は入って行く。すると、途端に道が狭い。 こうした岬付近の道の狭さは、これまで何度も経験してきているが、毎度緊張させられる。道案内もないので、勘を頼りに進む。
   
集落内へ (撮影 2015. 5.31)
この先は狭い
左手は後川を渡って集落内へ
直進が主要地方道で小室の浜へ
   
<集落内の道>
 民家の間に狭い道が通じる。塀に囲まれ、逃げ場のない狭さだ。生垣も時折見掛ける。 対向車に気を付けたりするのが精一杯で、竹の生垣であったかどうかは定かでない。
 
<郷と浦>
 興津の地は、大きく「郷」と「浦」に分かれるそうだ。内陸側と沿岸側という区分けだろうか。「郷分」、「浦分」と書かれる。 道はまずこの郷分に通じる。後川流域に小市街地を形成し、施設園芸が盛んとのこと。興津では平坦地の広い範囲をこの郷分が占めるようだ。 竹の生垣もここで見られるらしい。

郷分の集落内 (撮影 2015. 5.31)
右手は竹の生垣か
   
<分岐>
 分かり難い分岐に出る。直進は後川を渡り左岸に広がる郷分の集落内の真っ只中へと向かう。一方、右手の道には「興津キャンプ場」と案内がある。
 分かり難いのももっともで、後で調べると、県道興津仁井田停車場線から始まり今の主要地方道となった元の道筋は、直進方向に通じていた。 後に、右折して後川右岸沿いを行く道が改修され、現在の主要地方道となったようだ。
   

分かり難い分岐 (撮影 2015. 5.31)
直進が旧道、右折が今の主要地方道

分岐に立つキャンプ場の案内 (撮影 2015. 5.31)
   

県道標識が立つ (撮影 2015. 5.31)
右手に松の林
<後川右岸沿いの新道>
 キャンプ場の案内に従って右折し、右岸沿いに進む。 手持ちのツーリングマップルにこの道の記載はないので、やはり2000年頃にトンネル開通などと共に改修されたのではないだろうかと思った。 興津には不似合いな程ここだけ立派な2車線路が延びる。興津バイパスという名称もあるようだ。左手に後川を臨み、暫くすると右手に松林が続く。 その林の向こうには小室の浜が広がる筈だ。小室の浜は白砂青松(はくさせいしょう)で知られる。その青い松が沿道に続く。
   
<直線路の行止り>
 右岸沿いの道が行止り、左に曲がって赤い欄干の橋で後川を渡って行く。そこを右に、浜の方へ下る道がある。 そちらに向かって「興津海水浴場」と案内看板があった。

直線路の行止り (撮影 2015. 5.31)
左は赤い橋、右は海水浴場へ
   

海水浴場の駐車場 (撮影 2015. 5.31)
奥の坂を上ると主要地方道
<駐車場>
 初めての土地では駐車場の心配がある。恐る恐る海水浴場の方へと車を進めると、直ぐに駐車場が見つかり、ほっとした。付近には県立自然公園、青少年旅行村、キャンプ場、保育所などがあり、それらの共通の駐車場のようであった。
   
   
   
小室の浜
   
<小室の浜>
 駐車場から歩いて直ぐ、小室湾に臨む小室の浜が広がる。訪れたのは5月末で旅にはいい季節だが、海水浴にはまだまだ早い時期で浜辺には人影は全くない。我々夫婦の独り占めであった。
   
小室の浜の景色1/3 (撮影 2015. 5.31)
三崎山の麓に小室集落が見える
   
<小室集落>
 浜の左手に集落が望める。三崎山を中心とする小半島・三崎半島の西の付根付近に位置する小室の集落だ。浦分の一部となる。その集落の手前で後川は小室湾に注いでいる。
   
小室の浜の景色2/3 (撮影 2015. 5.31)
数100mの遠浅とのこと
   
小室の浜の景色3/3 (撮影 2015. 5.31)
この海岸線の先に島戸はある
   

避難場所案内図 (撮影 2015. 5.31)
地図は下が北
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
 小室の浜は興津の外部から訪れる者には、最大の観光地となる。主要地方道52号は人々をここに導く為に改修されたようなものでもある。最近は津波に関して対策が行き届いていて、観光客に対する注意看板などがしっかりしている。避難タワーなども設けられているそうだ。
 
 小室の浜沿いには、三崎半島西岸の小室集落を除くと人家はない。ほとんどが防風林で囲われている。ただ、浜の西半分には施設園芸の建屋が並ぶようだ。
 
 浜の更に西へは、海岸沿いに道が一本延びる。その終点に「島戸」という集落名が地図に見られる。そこから先へは車道は通じていない様子だ。
   

 
<与津村>
 この興津の地は昭和23年まで与津村(よつむら)と呼ばれていたそうだ。小室、島戸、杓子、荒平の4つの津があったことからの名称だとのこと。杓子と荒平が地図に見られない。「与津」とは峠の北側の「与津地」という地名とも何か関係するのだろうか。
 
 昭和23年に与津村は興津村に改称され、後に窪川町の大字となって行く。
 
 

防風保安林の看板 (撮影 2015. 5.31)
「奥津郷」とは郷分の一集落であろうか
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
   
   
浦分へ(余談)
   
<浦分へ>
 単なる海水浴場を訪れただけでは、我々の旅は収まらない。一般の観光客が行かないような所も見て回らないと、「興津」を知ったという気がしないのだ。
 
 小室の浜の駐車場を出て、赤い橋を渡る。その先がT字路で、左から来た道が古い主要地方道である。T字を右に、後川の左岸沿いを少し下流方向に進む。
   
後川左岸を下流方向に進む (撮影 2015. 5.31)
   
<主要地方道の終点>
 直ぐにT字路の様な分岐に出る。何の看板もないが、多分ここが主要地方道52号の終点である。
 川沿いに右へ曲がって行く道の終点に小室集落がある訳だが、集落内の狭い道が予想される。それに、どちらにしろ集落から先には道が続いていない。三崎半島は車では立ち入ることができない領域だ。そこでT字路を左折する。
   
主要地方道の終点 (撮影 2015. 5.31)
   

集落内の狭い道 (撮影 2015. 5.31)
<三崎半島の付根を横断>
 その道は三崎半島の付根を横断するように続く。多分、興津浦と呼ばれる浦分の集落内を行く。道は限りなく狭い。運転する妻は、かなりテンションが上がりだした。私もひしひしと「興津」を感じ始めていた。
   
<トセン>
 狭い十字路に出る。直進方向は、もう車が通れる道なのかどうかも分からない狭さだ。路面の矢印が右に向いている。 また「トセン」とも書かれているようだ。この先、三崎半島の東岸にある浦分漁港に出ようと思っている。そこが渡船の発着場になっているのだろう。 陸路が困難な地では、古くは海上交通が発達していた。その名残ではないかと思う。

狭い十字路 (撮影 2015. 5.31)
「トセン」の文字
   

「トセン」は左折 (撮影 2015. 5.31)
<迷路>
 建て込む人家の軒先をかすめるように道は進む。ほとんど迷路だ。対向車もやって来る。妻の緊張は最高潮に達した。もう「トセン」の矢印だけが頼りとなる。
 
<浦分漁港>
 やっと浦分漁港沿いに出た。細長い入り江になっている。右岸を少し河口の方へ進むが、もう妻の気力が続かない。この先は漁港で行止りで、やはり三崎半島の先へは車では行けないだろう。妻が頻りとUターン場所を心配するので、仕方なく適当な所で引き返すこととした。
   
浦分漁港近辺 (撮影 2015. 5.31)
この少し先で引き返し
   
<興津を退散>
 また、暫く浦分内の狭い道を走り、赤い橋の付近で元来た道に合流。すると丁度バスがやって来て、我々を先導する。
 
 郷分内の旧主要地方道の道筋を峠に向けて走る。竹の生垣を巡らした人家もちらちら見掛ける。こちらはさすがに興津内を走る元の幹線路である。住民の姿を多く見る。ご近所同士で立ち話をしていたりする。その間を縫って、窮屈そうにバスは進む。

旧主要地方道を戻る (撮影 2015. 5.31)
バスが先導する
   

峠道もバスが先行 (撮影 2015. 5.31)
<峠道へ>
 市街地を抜け峠道に差し掛かっても、依然としてバスが先を行く。こちらは急ぐ旅ではないので、のんびり後をついて行く。しかし、バスの方は気にするのだろう。途中の路肩で退避し、我々の車を先に行かせてくれた。
   
   
   
峠へ
   

興津峠への旧道へ (撮影 2015. 5.31)
<旧道へ>
 やっと、当初の目的地である峠へと向かう。興津峠を越える旧道区間は約3kmで、その間のトンネルを抜ける新道は約1kmである。その差2kmとなる。興津側から旧道へと入る。
   
<旧道の様子>
 入口付近こそ狭いが、その後は消え掛けているもののセンターラインも見える、意外と幅が広い道となった。トンネルが開通する以前からも、可能な限りの道の拡幅は行われてきたようだ。
 
<路傍の小箱(余談)>
 今年(2015年)、四国の旅の最中に気付いたのだが、こうした山の中の峠道の路傍、擁壁の上などに小さな箱が置かれている。ポツンと一つ置かれている場合もあるが、幾つかが並んでいる時もある。この興津峠の興津側で何個も見掛けた。正体不明の物体である。

旧道の様子 (撮影 2015. 5.31)
なかなか道幅がある
   

小さな箱が並ぶ (撮影 2015. 5.31)

箱にはブロックの重し (撮影 2015. 5.31)
   

県道標識 (撮影 2015. 5.31)
興津方向に見える
<県道標識>
 旧道には古い県道標識が残っている。興津方向に見て「窪川町 興津峠」、「興津海水浴場7Km」とある。町がまだ窪川のままだ。 標識に「興津峠」とあるのがうれしい。かつて、興津峠を越えて小室の浜の海水浴場に向かった行楽客達は、この標識を見つつこの興津坂を下って行ったのであろう。
   
<狭い区間>
 さすがに道はいつまでも広い訳ではなく、狭い区間がある。路線バスなどの運行はなかなか大変であったろう。ただ、トンネルが開通した今も、この程度の狭さは旧道以外でもまだまだ多く残している。
 
 ひとしきり狭い区間を走ると、また薄っすらとセンターラインが出て来た。旧道は終始狭い道と想像していたが、少なくとも興津側は意外と快適な道であった。それでも、通る車が絶えて既に10数年を経る。アスファルト路面のひび割れからは雑草が生え、寂れた雰囲気は否めない。

狭い区間 (撮影 2015. 5.31)
   
道の様子 (撮影 2015. 5.31)
また広い道に
県道標識は「窪川町 興津峠」
   
   
   
   

峠直前 (撮影 2015. 5.31)
<峠の様子>
 興津峠は大造りな峠である。幅の広い2車線路がそのまま峠の切通しを抜けている。特に切通しの西面が非常に高いコンクリート擁壁になっている。 興津の小室の浜付近に居た時だと記憶するが、峠の峰を望むと、この切り立つ擁壁が目視できたと思う。ただ、直ぐ霧に隠れてしまい、写真に収めることはできなかった。
   
峠の興津側 (撮影 2015. 5.31)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
<六川山から伸びる山々>
 峠の北西約3kmに六川山(507.7m)という山がある。後川の源流部ともなる。六川山からほぼ土佐湾沿いに南西へと標高400m前後の山々が6、7km伸び、その南面は1km程で崖となって土佐湾に没している。 この山々が興津の地と内陸との陸上交通を阻む存在だ。険しい岸壁では海岸沿いに道を開削することが困難である。 そこで山々が連なる尾根を越え、興津坂の道が通された。この尾根の中では最も低い標高340mの鞍部に興津峠は位置する。
 
 今でも海岸沿いに興津崎へと至る車道は見られないが、六川山の南麓を後川沿いに細々と通じる歩道はあるようだ。

興津峠 (撮影 2015. 5.31)
興津側から見る
   

峠の興津側 (撮影 2015. 5.31)

興津側に下る道 (撮影 2015. 5.31)
渡船の看板などが残る
   
<看板など>
 あまり大きな峠なので、やや殺風景な感はある。それでも切通しの興津側には、興津の観光案内の看板や、中に古そうな石像を祭った小さな祠が立つ。
 
 観光案内図は小室の浜の海水浴場を中心に賑やかなイラストで描かれていて、この細い峠道を越え、多くの観光客が訪れたのだろうと思わせる。後川右岸沿いの興津バイパス(現在の主要地方道)は既に描かれていて、トンネル開通前には行楽客の利便性に供されていたようだ。

興津観光案合図 (撮影 2015. 5.31)
   

石像を祭る祠 (撮影 2015. 5.31)
 祠は比較的新しいものだが、中の石像は古そうである。現在の様に深く大きな切通しが開削される前からこの興津峠に祀られ、内陸の仁井田などと興津との間の人や物の交通を見守って来たのではないだろうか。
 
 峠より興津側に下る道の側らには、もう誰の目にも止まることがない看板が残る。渡船や食堂の看板である。磯釣り客などもこの峠を越え、興津崎へといそいそと出掛けて行ったのであろう。
   
<眺望>
 「土佐十景」とは、どうやらこの興津峠から眺めた興津崎の眺望を指すようだ。渡船などの看板の脇から、トンネルに続いて通じる新道や土佐興津坂展望台、その向こうに郷分の耕作地や施設野菜の建屋、海岸沿いに密集する浦分の人家、突端には三崎山を中心とする三崎半島が見渡せる。 やや霞んではいたものの、濃いガスに包まれることはなく、運が良かった。
   
興津峠からの眺め (撮影 2015. 5.31)
   
 峠からは小室の浜の一部も望めた(下の写真)。新しい土佐興津坂展望台からは山に隠れて見えなかった部分だ。やはり峠からの眺望の方が優る。 「Kochi PhotospoNo.73」より「土佐十景」である。便利なトンネルが通じた今でも、この景色を堪能する為に峠越えをする価値はあるように思える。

土佐興津坂展望台を見下ろす (撮影 2015. 5.31)
   
三崎山(三崎半島)とその付根部分 (撮影 2015. 5.31)
左手に浦分漁港、右手に小室の集落や小室の浜の一部も見える
   
   
   
峠の与津地側
   
与津地側から見る峠 (撮影 2015. 5.31)
   
<峠の与津地側>
 与津地側は峠の北面になるのでやや暗い感じだ。与津地側から見る峠は、切通しの壁が暗く高くそそり立ち、切通しの向こうの空ばかりが明るい。
   

峠より与津地側を見る (撮影 2015. 5.31)

与津地側に下り始める道 (撮影 2015. 5.31)
   
<峠を与津地側に下る>
 峠から与津地側に下りだすと直ぐにセンターラインが消え、その後は狭い道が続く。峠の与津地側の旧道は僅かに1.2km程だが、その間全く道幅は広がらない。 待避所となるやや広い路肩が僅かにあるだけだ。道の狭さはこの峠道で一番だろう。旧道の寂しさも相まって、険しさの点でも興津峠随一となるのではないだろうか。
   

道の様子 (撮影 2015. 5.31)

道の様子 (撮影 2015. 5.31)
   
<道の様子>
 特に記すべきことがない。ただただ寂し道が下るばかりだ。視界も広がらず、沿道に目に付く物もない。
   

道の様子 (撮影 2015. 5.31)
この写真の少し手前に分岐があったようだ

道の様子 (撮影 2015. 5.31)
   
<滝山>
 地形図などには途中で分岐が一箇所書かれている。西方へ100m程行く道があることになっている。 しかし、全く気付かなかった。ドラレコ画像を調べても、今でははっきりした道としては残っていない様子だ。地形図ではその道の周辺に人家が描かれている。 また、「滝山」という集落名も見られる。その滝山集落は与津地川の最上流部に位置していたようだ。新道のトンネル坑口付近から、その200m〜300m上流部に掛けて、かつては人が住んでいたらしい。
 
<新道を望む>
 分岐らしい箇所を過ぎると、道の左手に与津地川の谷が広がり始める。 与津地川最上流部に位置する水田が見渡され、その端をトンネルへと続く新道が通る。新道の沿道は擁壁で造成されていて、まるで宅地のようである。そこに人家が立てば、滝山集落の復活ということになるのだろう。
   
旧道途中から新道を望む (撮影 2015. 5.31)
   
<与津地川を渡る>
 与津地川右岸沿いになると道は急に穏やかになる。谷が広く平坦な証拠だ。旧道終点間近に与津地川を左岸へと渡る。

この先で与津地川を渡る (撮影 2015. 5.31)
   

新道に合する (撮影 2015. 5.31)
<新道に合する>
 与津地側の旧道は終始狭いまま新道の2車線路に合する。新道に比べるとまるで草を分けるような道で、何の看板も立っていない限り、今では見向きもされないだろう。 しかし、長年興津の地の掛け替えのない陸路として使われてきた道である。興津に住む人にとっては思い入れのある道でもあろう。
   
   
   
 土佐湾にちょこっと突き出た興津崎を訪れるという、非常にコンパクトな旅であった。道は一本道で選択の余地はない。浜に着いても釣りをする訳でなく、海水浴を楽しむのでもない。ただただ見知らぬ地を訪れただけのことだ。そんなシンプルな旅だからこそ、旅の神髄を味わえたと思える、興津峠であった。
   
   
   
<走行日>
・2015. 5.31 与津地 → 興津 興津坂トンネル経由 パジェロ・ミニにて
・2015. 5.31 興津 → 与津地 興津峠経由 パジェロ・ミニにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 39 高知県 昭和61年 3月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、 こちらを参照 ⇒  資料
 
<1997〜2015 Copyright 蓑上誠一>
   
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