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おにゅう峠
  おにゅうとうげ  (峠と旅 No.249)
  滋賀県の旧朽木村と福井県を繋ぐ唯一の車道の峠道
  (掲載 2016. 2. 5  最終峠走行 2015.11.13)
   
   
   
おにゅう峠 (撮影 2015.11.13)
手前は滋賀県高島市朽木小入谷(くつきおにゅうだに)
奥は福井県小浜市上根来(かみねごり)
道は林道小入谷線(高島市側)・上根来線(小浜市側)
峠の標高は846m (上根来にある「山のてっぺん上根来」の看板より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

比較的最近に通じた林道の峠で、まだ出来立てホヤホヤの雰囲気が残る峠である
峠を境に滋賀県側のアスファルト舗装の状態は良く、
林道も全般的に滋賀県側が良好だ

   
   
<ツーリングマップル(余談)>
 久しぶりに一冊のツーリングマップル(関西 2015年8版1刷発行 昭文社)を購入した。 紀伊半島付近を旅しようと思い、できれば詳細な県別マップルが欲しかったのだが、一冊2,500円前後する本を県ごとに買っていては切りがない。 それに一度買い揃えても時が経てば内容が古くなってしまう。最近はネット上で最新の地図が閲覧できるし、カーナビなら日本全土の地図が一度で揃って経済的である。
 
 こうした電子地図が発達して便利な世になったが、それでも本としての道路地図はそれなりに利用価値がある。 見開き2ページに掲載された地図は極めて情報量が多く、広範囲から詳細部までを途切れなく閲覧できる。 これが電子地図だと拡大・縮小の操作を何度も繰り返すことになるだろう。旅の行程の全体的な把握から、細部の道の確認までを行うには、やはり本の道路地図が欠かせない。
   
<おにゅう峠>
 紀伊半島の旅が済んだ後のこと、妻は日本三景の一つ「天橋立」をまだ見たことがないという。 私はわたしでNHKのテレビドラマ「夢千代日記」の舞台となった鳥取県の湯村温泉に一度泊まってみたいとかねがね思っていた。 どちらも新規購入のツーリングマップル(関西)の掲載範囲である。そこで琵琶湖より西方で湯村温泉を西端とする日本海寄りの範囲で旅をしようと考えた。 夢千代像を見たり夢千代館を訪れたりする以外にも、勿論峠行きも楽しみたい。 さて、どこへ行こうかとツーリングマップルのページを繰ってつらつら眺めていると、「おにゅう峠」という見慣れない峠名が目に留まった。滋賀県の旧朽木村(くつきむら、現高島市)と福井県との境である。
 
 朽木村は滋賀県内でも最も西に位置し、福井県と京都府との境に接する奥まった地である。 車道としては京都府との境に地蔵峠が越えるが、峠の京都府側は通年通行止だった。 また福井県との境には元から一本の車道も通じていない。朽木村には県道781号(滋賀県道783号と表記される場合もある)・麻生古屋梅ノ木線がぐるりと巡り、「朽木村内循環道路」とも呼ばれていたが、その県道の北西からはどこの地にも抜けられなかった。 それがこの「おにゅう峠」の出現により、外界へと扉が開いた形になる。
 
 それにしても、さすがにツーリングマップルである。おにゅう峠はどうやら新しく開削された林道の峠で、こんな峠道を目立つように掲載する道路地図はツーリングマップルくらいだろう。峠の部分には「日本海と京都側の展望抜群 常神半島まで見える」とコメントまで付されていた。
   
<所在>
 峠の滋賀県側は高島市であるが、その市域は琵琶湖西岸の広い範囲に渡る。 市の西端に目をやると福井・滋賀・京都の境となる三国岳(776.1m)がそびえるが、そこから北東に伸びる福井・滋賀県境上4〜5kmにおにゅう峠は位置する。峠の高島市側は朽木小入谷(くつきおにゅうだに)、旧朽木村の大字小入谷である。
 
 一方、峠の福井県側は小浜市となる。大字で上根来(かみねごり)という、ちょっと読みなれない地だ。
   
<地形図(参考)>
 国土地理院地形図にリンクします。

(上の地図は、マウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   
<峠名>
 「おにゅう」などと平仮名の峠名は比較的珍しい。片仮名ならトリガタワやブナオ峠、ヒョー越、ホハレ峠、ヤレヤレ峠、ヤマビコ峠などを思い出す。 平仮名もこえど越(こいど越とも)とか しらびそ峠ぶどう峠などがあるが、 「こえど」は「越道」のことと思われるし、「しらびそ」は樹木の名だし、「ぶどう」は「武道」とも書き、近くに「ぶどう岳」があったりする。 その点、「おにゅう」とはこれだけ読んでも一体何のことだかさっぱり分からない。新しい峠だからまさか「おNEW」峠でもあるまいし・・・。
 
<遠敷の里>
 峠の福井県側は遠敷(おにゅう)郡で、かつて遠敷村という村も存在した。 ツーリングマップルにも「由緒ある寺や神社は国宝や文化財の宝庫」とこの「遠敷の里」が紹介されている。 「おにゅう峠」の「おにゅう」とは、この「遠敷」のことであろうとまずは思う。現代人に「遠敷」を「おにゅう」と読ませるのは難しいので、峠名としては平仮名表記としたのではないかと想像するのだ。
 
<大字小入谷>
 一方、考えてみると峠の滋賀県側にも「おにゅう」に関する名があった。小入谷(おにゅうだに)である。地域としては旧朽木村の大字と狭い範囲ではあるが、「小入」(おにゅう)という名が付く。
 
 もしかしたら、「おにゅう峠」の「おにゅう」とは、「遠敷」と「小入」のどちらをも指し示すのかとも想像させられる。それなら平仮名にするしかなかったであろう。あるいは、あえて平仮名にすることで、「遠敷」と「小入」のどちらとも取れることを狙った命名かもしれない。
   
<水域>
 おにゅう峠の特徴の一つは、日本列島を横断する中央分水界の峠であることだ。 峠の南側には琵琶湖に注ぐ安曇川(あどがわ、淀川水系)の支流・針畑川(はりはたがわ)が下る。 一方、北側には小浜湾に注ぐ北川の支流・遠敷川(おにゅうがわ)が流れ下る。 日本海沿岸に非常に近い所に位置する峠であるが、淀川水系と北川水系を分かつ中央分水嶺に通じている。 福井・滋賀の県境は必ずしも中央分水界と一致する訳ではないが、そこのところはしっかり確認してある。中央分水界となる山稜を越える、しかも林道の峠となると、これは面白そうな山岳道路走行を味わえそうである。
 
<小入谷峠(余談)>
 尚、小入谷峠と名付けられた峠が別にある。 旧朽木村内に通じる県道781号は、安曇川の支流・北川(遠敷川の本流の北川ではない)沿いから針畑川沿いへと通じるが、その県道上の北川と針畑川の分水界に小入谷峠は位置する。 今回のおにゅう峠とは名前も場所も近い関係にある。
   
<針畑峠>
 おにゅう峠は新しい林道に誕生した新しい峠ではあるが、その峠道の多くの部分は古くから通じる針畑峠の道筋にほぼ一致する。針畑峠の位置はおにゅう峠の東約600mの稜線上だ。地形図には針畑峠を越える徒歩道(点線表記)が今でも描かれている。
 
 針畑峠とか針畑越と呼ばれるこの峠・峠道は、若狭国(福井県)から見て近江国(滋賀県)朽木村の針畑の地に至ることからの命名と思われる。 大きく「朽木越」と呼ばれたりもする。一方、近江側からは若狭側峠直下の根来(ねごり)の地に越えることから、根来峠、根来越と呼ばれたようだ。他にも、根来道、根来坂、根来坂峠などの呼称が文献(角川日本地名大辞典)や観光案内のパンフレットなどに見られる。
 
<木地山峠(余談)>
 ただ、根来越といって木地山(きじやま)峠を指す場合もある。木地山峠は朽木村大字麻生(あそう)の木地山から県境を越えて上根来へと通じる峠道だ。針畑峠の北約3kmとちょっと離れている。
 
<鯖街道>
 針畑越は鯖街道(さばかいどう)の一つとされる。
 古くから、京の都と若狭湾に面した若狭国小浜とを結び、京都の葵祭や祇園祭で食される鯖鮨(さばずし)の材料となる塩鯖などを運んだ。 その為、都人からこの道は「鯖の道」とか「鯖街道」と呼ばれた。 交易は勿論鯖に限ったことではないが、近年になって特にこの鯖の輸送が注目され、知られるようになった。昭和に入るとこれらの道を「鯖街道」と総称し、現在はその呼称が定着している。
 
<若狭街道・朽木街道(余談)>
 幾つかある鯖街道の中で最もポピュラーなのは、現在の国道303号から367号へと続く道筋で、若狭街道(若狭路)とか朽木村内では朽木街道と呼ばれる。 国道303号は水坂(みさか)峠(水坂トンネル)で中央分水嶺(ここは県境にはなっていない)を越えているが、随分東へと大回りしている。 それに比べ、針畑越はほぼ真っ直ぐ南北に通じる峠道だ。幾筋かある鯖街道の中で針畑越は京への最短路であったようだ。おにゅう峠はやや険しい山岳道路だが、一方、こうした歴史的な背景も秘め、味わい深い峠道ともなっている。
 
<織田信長敗走の峠道(余談)>
 針畑越に関係する史跡や史実などを調べれば、いろいろあると思うが、私の知っていることといえば、織田信長が敦賀から京都へ敗走したのがこの峠道だったということだ。 司馬遼太郎の「街道を行く 1」の「湖西のみち」の中で登場する。越前朝倉攻めに敦賀に大軍を結集した信長だったが、浅井長政が敵にまわったと知るや、急きょ退却することとした。 しかし、近江には浅井の兵が待っていて、尋常な退路は通れない。そこで家臣松永久秀の進言で「朽木越え」が選ばれた。この「朽木越え」が針畑峠を越えることであったようだ。
 
 ところで、浅井長政といえば信長の妹・お市の方を妻にし、後にその娘の一人は秀吉の遺児・秀頼を生んだ淀殿となり、また一人は徳川二代将軍・秀忠の正室として三代将軍家光の生母となる江姫であった。 戦国の三大武将・信長、秀吉、家康全てに何らかの血縁関係があったのだからすごい人物である。ただ、長政本よりも、その周辺の女性たちの方が有名かもしれないが。
   
   
   
小浜市より峠へ
   

国道27号を敦賀方向に見る (撮影 2015.11.13)
<国道27号を東へ>
 鯖街道の若狭側の起点となる小浜市街より国道27号を一路東の敦賀方面へと向かう。 前日は小浜市街に投宿し、今朝は三丁町(さんちょうまち)などを見学した。 三丁町は佐久間良子主演「五番町夕霧楼」で出て来る遊郭を彷彿とさせる雰囲気を残す所と聞いて、勇んで出掛けたのだった。「夢千代日記」とか「五番町夕霧楼」とか、歳が分かってしまう。
 
 尚、近くに常高院を祀る常高寺があった。常高院とは名門・京極家に嫁いだお初のことである。淀殿の妹、浅井長政の次女であった。 やはり長政は大した血筋を残した人物である。
   
<県道35号へ>
 国道27号をそのまま進めば国道303号に接続し、鯖街道のメインルートとなって行く。そこを早々と南に折れるのが鯖街道最短路としての道筋だ。 現在では県道35号がその道となっている。正確には県道35号は主要地方道だが、ここでは簡略して県道と呼んでおく。
 
 国道上には県道35号の分岐を示す看板が出て来た。行先は上根来(かみねごり)とある。

県道35号を示す道路看板 (撮影 2015.11.13)
行先は上根来
   

「鵜の瀬」の看板 (撮影 2015.11.13)
<鵜の瀬>
 県道方向には「全国名水百選 奈良お水送り 鵜の瀬(うのせ) 4Km」と案内看板がある。小浜市街に居る時、観光案内のパンフレットなどをいろいろ入手しておいたので、この鵜の瀬についても予備知識があった。県道脇にあるので寄ってみたいと思う。
   
<「東小浜駅口」の交差点>
 県道が分岐する交差点名は「東小浜駅口」となる。この交差点を左折すれば、小浜線の東小浜駅まで400m程だ。 交差点周辺はまだ繁華な市街地の内で、国道も県道も立派に改修されていて、どこが昔の針畑峠への道だかさっぱり分からない。 もう古い道などはアスファルトによってかき消されてしまっているのだろう。

東小浜駅口の交差点 (撮影 2015.11.13)
右折が県道35号
   

「東小浜駅口」交差点の看板 (撮影 2015.11.13)
<大字遠敷>
 この交差点を含む周辺の地名は「遠敷」となる。 この場合、小浜市の大字としての狭い範囲を指す。広い範囲の「遠敷郡」としては小浜市、旧上中町(現若狭町)、名田庄村(現おおい町)がその郡範囲だったようだ。現在、平成の大合併を経て遠敷郡と呼ばれる郡はもうないようである。
 
 「遠敷の里」と呼んだ場合、どの程度の範囲を指すかは分からないが、少なくとも現在の大字遠敷よりは広いであろう。遠敷郡がなくなったとすると、「遠敷」と名が付くのは他には遠敷川くらいなものだ。遠敷川流域付近が遠敷の里だと思っておく。
   
<県道35号>
 県道35号は「久坂中ノ畑小浜線」という名になっている。「小浜」は小浜市街、「中ノ畑」(なかのはた)は峠直下の上根来の手前にある大字、そして「久坂」(ひささか)というのがなかなか分からなかった。
 
<久坂>
 調べてみると小浜市の西隣のおおい町・旧名田庄村に見付けた。 現在、中ノ畑から先は上根来を経ておにゅう峠を越える道が通じたが、県道は中ノ畑から西へ折れ、小浜市とおおい町との境を越えて久坂へと至るルートのようだ。 当然ながらその市町境に車道など通じていない。中ノ畑はもう遠敷川上流部の山間の集落である。 おにゅう峠を越える林道を除くと、そこから先、どこかへ抜ける車道はあろう筈がないのだ。県道久坂中ノ畑小浜線などといっても、何だか空しい気がする。 中ノ畑と久坂が繋がることは永遠にないのではないかと思えるのであった。

県道35号 (撮影 2015.11.13)
   

県道標識 (撮影 2015.11.13)
<小丹生(余談)>
 県道標識に書かれた地名に「遠敷」とある。それにしても難しい読み方だ。「おにふ」、「おにう」とも発音したようだ。古くは「小丹生」と書かれたが、8世紀初頭に「遠敷」の字が当てられたらしい。
   
<案内看板>
 県道35号に入ると直ぐに案内看板が立つ。若狭地方の文化の中心となる遠敷の地として、いろいろな寺社などが案内されている。まずは看板にもある若狭姫神社を目指す。妻の御朱印趣味の為である。

案内看板 (撮影 2015.11.13)
   
   
   
若狭姫神社
   

神社の前 (撮影 2015.11.13)
県道を峠方向に見る
<若狭姫神社>
 直ぐにも若狭姫神社が右手に出て来た。旅先では妻に同行してこうした神社へしばしば立ち寄るようになった。 参拝者用に無料の駐車場が完備されている所が多く、トイレもあったりして、ちょっとした休憩場所としてもなかなか利用価値が高いと思うようになった。 ただ、若狭姫神社では駐車場の案内が見付からない。県道脇に流れる用水路に沿って僅かな路肩があり、そこに何台かの車が停められていたので、一緒にパジェロ・ミニも停める。
 
 県道からは用水路を渡って鳥居へと続く参道が直接始まっていた。ただ、国道27号の前身となる丹後街道から分かれてここまで参道が続いていて、県道はその参道を途中で横切った格好だ。
   

県道から続く参道 (撮影 2015.11.13)

由緒記 (撮影 2015.11.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
<由緒記>
 県道脇に立つ寺の由緒記には、住所はかつて「若狭国遠敷郡遠敷村遠敷」であったことが記されている。これ程「遠敷」の連発であったのだが、昭和26年(1951年)の町村合併によりあっさりとした「小浜市遠敷」になったともある。
   

境内にある手水 (撮影 2015.11.13)
 
<手水>
 境内にある手水の案内看板には、この遠敷の地が丹後街道の要衝として賑わったことが記されている。 神社の前は市場地区と呼ばれ、中世には市が立って栄えたそうだ。「最短の鯖街道」との文字も見える。その鯖街道の峠が針畑峠である。 峠を源とする伏流水がこの手水として利用されているとのこと。神社の前に流れる用水路もその伏流水かもしれない。
 
<若狭姫神社(余談)>
 拝殿の前から本殿に掛けては荘厳な雰囲気であった。御神木ともなる杉の巨木が拝殿の向かって左奥にそびえる。 神官は一人でお忙しい様子で、今しもご祈祷の最中であった。それが終わった後、御朱印の対応をして頂いた。 御朱印には「若狭彦神社」と「姫」ではなかったのが不思議に思えた。

手水の案内 (撮影 2015.11.13)
   
若狭姫神社 (撮影 2015.11.13)
正面に拝殿
   
<遠敷川左岸>
 若狭姫神社を後に、県道の先を進む。間もなく人家が立ち並ぶ市街地を抜け、閑散とした雰囲気になる。 左右から山が迫り始め、遠敷川の谷に沿っていることが実感できるようになった。 道はその谷の西端に通じ、遠敷川左岸沿いである。沿道に視界を遮る建物がなくなると、前方に山並みが見えだす。車の往来は極めて少なく、落ち着いた峠の旅である。

若狭姫神社の先 (撮影 2015.11.13)
県道標識はまだ「遠敷」
   
遠敷川の谷を行く (撮影 2015.11.13)
前方に山並みがそびえる
   
 万徳寺への分岐が出て来たが、神社に比べて寺に立ち寄ろうという気はあまりしない。尚、丹後街道から分かれて遠敷川右岸沿いに万徳寺を経由して通じる道筋がある。そちらも針畑峠への道として利用されてきたのではないかと思う。
   

万徳寺の分岐手前 (撮影 2015.11.13)
左折が万徳寺へ

 (撮影 2015.11.13)
   
   
   
若狭彦神社
   

若狭彦神社の看板 (撮影 2015.11.13)
<若狭彦神社分岐>
 県道標識には「小浜市 神宮寺」と出て来たが、その前に「竜前」という大字があった筈だ。右手奥に若狭彦神社があることを示す看板も出て来た。県道から少し外れているのは、多分、神社が旧道沿いに立っている為だろう。若狭彦神社付近の県道は新しい道筋と思われる。
   
<若狭彦神社(余談)>
 妻はいいと言ったのだが、ついでとばかりに若狭彦神社にも立ち寄ることとした。最近は私の方も少し神社に興味を持ち始めている。
 
 参道前の僅かなスペースに車を停める。周囲は民家が立ち並ぶ静かな集落だ。神社の前に通じる細い道が元の針畑峠へと続く古くからの街道だったのだろう。由緒記にある住所は「遠敷村龍前」とあった。神社は竜前と神宮寺の境に近い位置にあるようだ。

若狭彦神社前 (撮影 2015.11.13)
   
 若狭彦神社には社務所などはなく、神主は常駐していないようだった。よって御朱印はもらえない。訪れる者もなく境内は閑散としていた。しかし、背後に深い森を控えた社殿は、質朴ながら若狭姫神社よりも更に荘厳な佇まいであった。妻ともどもこちらの方が気に入った。
   
若狭彦神社 (撮影 2015.11.13)
   

神社前に通じる旧道 (撮影 2015.11.13)
<若狭彦神社前の旧道>
 若狭彦神社に寄ったついでに、神社前に通じる旧道と思われる道を少し進む。その旧道が県道に合する付近に鵜の瀬に関係した「奈良お水送り 森の水PR館」があったようだが、あまり大々的な看板などはなく、立寄り難くて通り過ぎてしまった。
   
<若狭西街道と交差>
 若狭彦神社から県道に戻ると、間もなく大きな交差点で若狭西街道と交差する。この県道には珍しく信号機がある交差点だ。多分、ここが小浜市側最終の信号機だと思う。若狭西街道とは立派な名前だが、あまり車が走っているようには見えなかった。
 
 若狭西街道を過ぎると、おにゅう峠を越えて高島市朽木小入谷で県道781号に接続するまで、ほぼ完全な一本道である。距離で23.5km。その間、車では今のところどこへも抜けられない。
   

若狭西街道と交差 (撮影 2015.11.13)

道路看板 (撮影 2015.11.13)
   
<神宮寺付近>
 看板は神宮寺が右手にあるとを示していた。また「鵜の瀬 1.8Km」ともあった。
 
 神宮寺を過ぎると、遠敷川が初めて沿道に見える(下の写真)。それだけ谷が狭まってきた証拠だ。県道標識には「忠野」と出て来た。遠敷川左岸に人家が一塊となった忠野の集落を過ぎると、道は屈曲する狭い谷間へと入って行く。暫く人家が途切れる。

右に神宮寺分岐 (撮影 2015.11.13)
   
神通寺の先 (撮影 2015.11.13)
遠敷川が近い
左手奥に忠野の集落
   
   
   
鵜の瀬
   

鵜の瀬の駐車場にて (撮影 2015.11.13)
下流方向に見る
鵜の瀬橋が架かる
<遠敷川左岸>
 道は遠敷川の左岸にぴったり沿って遡る。時々「鵜の瀬」の案内看板などが出て来る。駐車場の有無が心配だ。 路肩に細長い大きな駐車場があったが、鵜の瀬の資料館などがある箇所はもっと先の様子だった。
 
 やっと右岸の資料館に渡る「鵜の瀬橋」の先に、10数台分の駐車場を見付けた。お水送りの行事は大々的なもので、手前にあったあの大きな駐車場はその時の為のものなのだろう。
   
<下根来>
 道は少し前から下根来(しもねごり)に入って来ていた。ただ、遠敷川右岸は途中まで忠野で、鵜の瀬橋がある所からは両岸ともに下根来となるようだ。
 
 根来(ねごり)とはこれも難しい読み方だ。一説には朝鮮語の「ネ・コーリ」(「あなたの古里」の意)から来ているとのこと。
 
 下根来には下流側から白石(しらいし)、高野(たかの)、下根来の3集落があるそうだ。あるいは下根来集落を更に青橋、神の谷(神野谷)、長瀬の3集落に分けて記述する文献もある。鵜の瀬があるのは小字の白石となる。右岸にその白石集落が見える。

鵜の瀬の駐車場にて (撮影 2015.11.13)
上流方向に見る
   
鵜の瀬橋より遠敷川上流方向を眺める (撮影 2015.11.13)
   
<鵜の瀬>
 鵜の瀬橋を渡ると、名水百選『鵜の瀬』給水所や鵜の瀬公園資料館が立つ。給水所の利用には維持管理費の支払が必要のようだ。 暫くすると近所のおばあさん2人がやって来て、傍らのベンチに腰掛け、持ってきた茶菓子などを食べながらおしゃべりを始めた。 この公園は、観光客もちらほら見られたが、白石集落の方の憩いの場でもあるようだった。
 
 資料館の方は無料で、ビデオにてお水送りの神事の様子を見ることができた。 実際にその神事が行われるのは、資料館より100m程下流の場所らしく、県道からも鳥居が見えたのだが、何やら河川工事中だったので、立ち入りは控えたのだった。 地図上ではその史跡「鵜の瀬」は微妙だが忠野側に入っていそうに見える。パンフレットなどには下根来にあるとなっていたのだが。
   

給水所 (撮影 2015.11.13)
この後ろの奥のベンチにおばあさん2人がやって来た

資料館の脇の石碑など (撮影 2015.11.13)
左には根来の案内看板が立つ
右は「良辨和尚 生誕之地」の石碑
奥は白石神社
   
鵜の瀬公園資料館 (撮影 2015.11.13)
やや入り難かった
   

根来の案内図 (撮影 2015.11.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
<根来の観光案内>
 遠敷川の上流域は、下根来、中ノ畑、上根来と続く。これらを総称して「根来」とも呼ぶようだ。「根来周辺観光案内図」と題した看板が立っていた。 遠敷川の最上流部に「鯖街道」の文字があり、「遊歩道入口、林道入口」と書かれているのに目が行く。 また、資料館の中にはトイレがあるが、ここより遠敷川の上流には公衆トイレはないと注意書きがあった。妻と同伴の場合はこれも注意すべき点となる。
   
<京は遠ても十八里>
 「鵜の瀬」の史跡方向を望む所に「鯖街道根来道」と題した看板が立ち、最短路としてこの針畑越のルートがあったことが簡略的に述べられている(下の写真)。 「京は遠ても十八里」というのは、別の観光パンフレットなどでも見掛ける言葉で、この針畑越に限ったことではなさそうだ。 鯖街道全般に言えることで、「背負い」とか「がっつい」あるいは「背持人」などと呼ばれた荷を運ぶ人が、「京は遠ても十八里」と節を付けて歌いながら、夜通し街道を歩き通したそうな。 ただ、ルートによって距離が違う筈で、18里(71Kmまたは72Km)とはどのルートだったのだろうか。
 
 こうした針畑越を利用した若狭と京都を結ぶ交易は江戸期から明治期に掛けて盛んに行われたが、昭和初期以降は廃れていったようだ。峠は廃道化し、通行不能となっていったとのこと。
   

公園の一角に根来道の案内看板が立つ (撮影 2015.11.13)

案内看板の文面 (撮影 2015.11.13)
   
<鯖街道のルート>
 「鯖街道根来道」の案内看板には、鯖街道の道筋を記した地図も描かれている(右の写真)。根来道の峠の部分には「針畑峠」、「根来坂」とある。この峠に関しては他に針畑越(え)と言ったり、根来坂峠などとも言われ、様々な呼称がある。
 
 鯖街道の内、最も頻繁に利用されたとされるルートは、小浜を出発し、遠敷で針畑越の道を分け、熊川宿から水坂峠で中央分水界を越えて保坂に至り、安曇川沿いの朽木街道で朽木の市場(いちば)を過ぎる。 この辺りが中間点だったそうだ。更に安曇川沿いに遡り、花折峠を越えて高野川の谷を通り、京都の出町柳に至る。このルートは若狭街道と呼ばれる。 今は熊川と市場に道の駅があり、熊川では旧街道の様子を留める熊川宿が散策でき、市場は朽木観光の拠点となっている。
 
 一方、最も古い鯖街道ともされる針畑越は、針畑峠を越えた後、針畑川沿いに下り、大津市の梅ノ木で安曇川沿いの若狭街道に合する。あるいは、針畑川沿いの途中から久多にそれ、花脊峠を越えて鞍馬街道を行くコースも取られたようだ。必ずしも一通りではなかったらしい。

案内看板の地図 (撮影 2015.11.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
   
   
鵜の瀬以降
   

若狭遠敷線の横断幕 (撮影 2015.11.13)
<若狭遠敷線(余談)>
 鵜の瀬を後に遠敷川左岸沿いを先に進むと、 直ぐに「森林基幹道 「若狭遠敷線」 早期開通」と書かれた横断幕が掛かっていた。 調べてみると、若狭遠敷線とは下根来からおおい町名田庄木谷に通じる林道のようだ。 県道35号は市町境が未開通だが、その代わりに小浜市とおおい町とを繋ぐ道となるらしい。 これが開通すると県道35号は、おにゅう峠以外にも他へ抜けられる道を持つことになる。
   
<高野>
 沿道には白石に次ぐ高野の集落を見る。このように遠敷川の上流域では、時折小さな集落が現れては消えて行く。

高野集落付近 (撮影 2015.11.13)
   

遠敷川が身近になる (撮影 2015.11.13)
 道の傍らに流れる遠敷川は、徐々に身近な存在となって行く。車窓からも川面が直ぐそこに眺められるようになった。
 
   
遠敷川が近い (撮影 2015.11.13)
   
   
   
遠敷川右岸へ
   
<遠敷川右岸へ>
 県道35号は初めて遠敷川の右岸へと渡る。付近は青橋集落となるようだ。
 
 橋の先に道が分岐していた。入口に「林道石有谷線起点」と書かれた林道標柱が立っている。「石有谷」とは遠敷川の支流の名前であろう。石が多く有る谷なのかもしれない。他にもこうした支流沿いに道が分岐するが、大抵は行止りだ。

遠敷川を渡る (撮影 2015.11.13)
直進方向に林道石有谷線が分岐
   
<青橋集落付近>
 県道からは対岸となる左岸に大きな屋根の人家が見える。青橋集落と思われる。その先、道の左手にも比較的大きな人家が並ぶ。 傾斜の急な屋根は、やはり冬場の降雪を考慮したものだろうか。北の日本海に面し、南の背後には中央分水界の山脈を控えたこの地では、積雪は多いのだろう。
   
青橋集落付近 (撮影 2015.11.13)
   

右に若狭遠敷線分岐 (撮影 2015.11.13)
<神の谷>
 青橋に続き神の谷集落に入る。その集落内で右に遠敷川を渡って道が分岐する。入口には工事看板が立っていた。 地形図を見ると、おおい町との境付近までクネクエネと細長い道が延びている。 これが噂の若狭遠敷線かもしれない。工事看板が立つところからすると、開削工事が進んでいるようだ。この道が開通すれば、市町境を越える峠道でもあり、なかなか面白そうな林道となるように思う。
   
<長瀬>
 下根来の中では最終の集落・長瀬に差し掛かる。やはり大きな屋根が特徴的だ。峠を旧朽木村側に越えた生杉(おいすぎ)でも、同じ形の屋根をした家屋が並んでいたのを見たことがある。峠を挟んで共通した文化を持っていたようだ。
   
長瀬集落 (撮影 2015.11.13)
   
朽木生杉の集落 (撮影 1997. 4.28)
参考までに
   
<長瀬以降>
 長瀬は比較的大きな集落だったが、そこを過ぎるとぱったり人家は途切れる。もうこれより上流側に集落はないのかと思わせるくらいだ。
 
<再び左岸へ>
 道は部分的に改修された2車線路になる。 そして間もなく遠敷川を渡り、再び左岸に入る。橋上ではこの人家も見られない寂しい所をリュックを背負ってトボトボ歩いている人が居た。古い針畑越の道でも探訪しているのだろうか。
 
 橋を渡ると右手から古そうな道が合流していた。それが旧道で、現在の2車線区間は遠敷川を渡る橋と共に新しく開削された道のようだった。

遠敷川を再び左岸へ渡る (撮影 2015.11.13)
徒歩の旅人が一人
   
<地蔵堂>
 旧道を合した角に椅子が並んだ小屋があり、一瞬バス停かとも思ったが、谷口地蔵尊が祀られる地蔵堂であった。この先にもこうした地蔵堂が時折見られる。ここに来るまでにもあったのかもしれないが、見落としていたようだ。
 
 古くからの針畑越の道沿いでは、このような立派な地蔵堂を構えて地蔵尊を祀る慣習があったのだろう。それが今に続いているものと思われる。峠を旧朽木村に越えた先でも同じような地蔵堂があるのだ。また、新しい峠であるおにゅう峠にも、新しい地蔵堂が佇んでいる。
   
右手に谷口地蔵尊 (撮影 2015.11.13)
   
<谷口>
 地蔵尊の名は「谷口」であるが、地図などでは「谷口」という地名は見られない。この箇所から上流側では遠敷川本流の谷が特に狭まっているので、こうした地形から「谷口」の名があるのかもしれない。
   
   
   
中ノ畑
   
<中ノ畑地区へ>
 谷口地蔵尊の先に支流の川を渡る橋が架かり、その橋から道は狭くなる。地図上では橋の手前から中ノ畑となってる。中ノ畑は下根来と上根来の中間にあって、それゆえの名前とも推測される。面積的にはやや狭い地区である。
 
 尚、古くにあった上根来村は、中ノ畑、上根来、団(だん)の3集落から成っていたそうだ。中ノ畑は、広い意味での上根来の一部であった訳である。
 
<団集落>
 ところで、団という地名が今の地図では見当たらない。上根来村は遠敷川最上流域に位置する村であったが、その中でも最も上流部に位置していたのが団集落ではなかったか。無住となって地図上から消えたものか。
   

橋の手前を右に分岐 (撮影 2015.11.13)
<林道分岐>
 下根来と中ノ畑との境となる橋の手前から南西方向に道が分岐する。林道標柱には「伯父ヶ谷線」とあったようだ。 地図上では、その伯父ヶ谷林道は神の谷集落から始まる林道と上部で接続している。入口にはやはり工事看板が並んでいた。こちらが「若狭遠敷線」の入口かもしれない。
   
<狭い谷>
 中ノ畑地区に入ると、遠敷川の谷は一段と狭い。両岸の山は壁の様にそそり立ち、狭い谷底に川と道が細々と通じる。 やはり「谷口」という名は、この長く続く狭い谷の口が開いた箇所だからの命名ではなかったか。
 
 下根来の長瀬集落以降2km程の区間、沿道に人家などの建屋は皆無である。山は増々深く、やはりもうこの先に集落などないのではと思わせる。
 
 暫く行くと砂防ダムが架かっていた。その上流部は川床に砂利が堆積し、谷底はやや広がった。それも一時のことで、また狭い川筋の道が延々と続く。ここが古来より若狭と近江を結ぶ間道であったのだ。旅行く者はさぞかし心細かったであろう。

砂防ダム (撮影 2015.11.13)
   
砂防ダムの上流部 (撮影 2015.11.13)
   

道の様子 (撮影 2015.11.13)
寂しい道が続く

道の様子 (撮影 2015.11.13)
   
道の様子 (撮影 2015.11.13)
   
   
   
中ノ畑集落
   

建屋が見えだす (撮影 2015.11.13)
<建屋が現れる>
 やっと沿道に建屋が見えるようになる。納屋や蔵の様な建物ばかりで、もう使われている様子もない。
 
<中の畑地蔵堂>
 道路の直ぐ脇に地蔵堂が立っていた。「中の畑」とある。周辺には空地が散見された。多分、この付近いも人家が立っていたことだろう。かつては住民の方がしばしばお参りした中ノ畑地蔵尊であったかもしれない。
   

右手に地蔵堂 (撮影 2015.11.13)

「中の畑」とある (撮影 2015.11.13)
   
<県道分岐>
 中ノ畑地蔵堂の先で道は支流の細い川を渡る。その支流沿いに道が分岐する。分岐の角には石造りの小さなお堂がちょこんとあるだけで、周辺には何の案内看板もない。県道標識は青橋集落付近で見たのが最後だったようだ。
 
 地図上ではその分岐する寂しい道こそが県道35号の続きとして描かれている。 中ノ畑地区はおおい町の名田庄木谷と接していて、県道はその市町境を越えるべく南西方向へと少し登るが、1kmも行かずに止まっている。 峠前後は依然未開通のままだ。この分岐の様子を見る限り、将来も県道が峠を越える気配はなさそうだ。

右に分岐 (撮影 2015.11.13)
   

遠敷川を渡る (撮影 2015.11.13)
<遠敷川右岸へ>
 県道ではなくなった針畑峠の道は、直ぐにも遠敷川を渡って右岸沿いになる。この付近から上流部の遠敷川は屈曲が多くなる。
 
   
<中ノ畑集落>
 右岸を少し登ると、対岸に集落が望める。遠敷川に細い橋が一本架かっていて、その集落内へと通じている。付近は中ノ畑集落である。中ノ畑集落は中ノ畑地区の中でも上流部に位置し、もう川沿いに平坦地は少なく、谷の斜面に人家が点在していた。
 
 ただ、もう人が定住している様子には見られない。崩れてしまった家屋も多い。 文献では、昭和28年(1953年)まで20数戸の人家があったようだが、その年に大きな台風被害があり、 また主要産物である木炭の需要低迷から過疎化が進んだとのこと。現在は既に離村してしまったかもしれない。それでもまだ人の暮らしの跡が色濃く残り、やや残念な気持ちにさせられる。

右岸の道 (撮影 2015.11.13)
   

中ノ畑集落 (撮影 2015.11.13)

中ノ畑集落 (撮影 2015.11.13)
   
 中ノ畑集落を過ぎると、その集落を守るように大きな砂防ダムが築かれている。道はそのダムの上部へと駆け登って行く。
   
   
   
上根来
   

道は山腹を登りだす (撮影 2015.11.13)
<川沿いを離れる>
 道は、中ノ畑集落の上流側にある砂防ダムの脇を過ぎると、遠敷川の川沿いを離れて右岸の山腹をよじ登り始める。勾配がきつくなり、カーブも多くなる。何の目印もないが、中ノ畑から上根来(かみねごり)へと道は入って行く。

   
<上根来>
 上根来は針畑越の福井県側最終の地である。滋賀県との県境まで全てが上根来地区となる。擁壁の手前に緑色で小さく「上根来」と書かれた看板が出て来た。
 
<上根来・山の家>
 擁壁の上の方を見ると、樹木の間から何やら大きな建物が覗いた。直ぐにそちらの方に登る坂道が出て来る。建物は一見して小学校だろうと思われた。 校庭への入り口には何の看板も立っていないが、地図などでは「上根来山の家」と出ている。文献(日本歴史地名大系)にもこの山の家は旧小学校であると書かれていた。 文献の発行は1981年だが、その当時には既に廃校となっていたようだ。

左手に「上根来」の看板 (撮影 2015.11.13)
   

左上の方に建物 (撮影 2015.11.13)

上根来山の家へ登る道 (撮影 2015.11.13)
そこは旧小学校
   
<上根来集落>
 小学校跡地からまた数100m登ると、沿道の木立の間にポツリポツリと人家が立っているのがうかがえた(下の写真)。上根来集落である。 比較的長い範囲に渡って人家が点在しているようだ。もう人が住まなくなった家屋が多い中、近隣には自動車が数台停められていて、まだ人が訪れている様子でもある。

道の様子 (撮影 2015.11.13)
   

人家 (撮影 2015.11.13)

人家 (撮影 2015.11.13)
車も見られる
   

人家 (撮影 2015.11.13)
 上根来集落は山腹の傾斜がやや緩くなった地形に築かれていて、その中を一筋の道が屈曲しながら登って行く。右に左にと人家が立っている。
 
<地蔵>
 屈曲する道の途中、路傍の空地に沢山の石が置かれていると思ったら、何体もの石像であった(下の写真)。これまでこの針畑越には地蔵堂が立っていたが、これらの石像も地蔵菩薩であろうか。それにしてもこれだけのお地蔵さんは、一体どこから集められたのであろう。
   

路肩に沢山の石像 (撮影 2015.11.13)

地蔵菩薩だろうか (撮影 2015.11.13)
   
<集落の中心地へ>
 暫く道を進めると、上根来が予想以上に大きな集落であることに驚かされる。手前の中ノ畑集落は規模が小さく、既に無住の様子だったが、上根来集落では人家の多くが手入れをされて今尚健在である。 道路脇にはゴミ置場も設置され、生活の営みが感じられる。人影は見られなかったが、まだ定住しておられる方も居るのではないかと思わされた。

人家 (撮影 2015.11.13)
   
集落の様子 (撮影 2015.11.13)
   
集落の様子 (撮影 2015.11.13)
   
<木地山峠登山口>
 集落の中心地で道がヘアピンカーブした先、左手に登山口がある。「中央登口」とか「百里ヶ岳登山口(木地山峠コース)」と書かれた小さな案内看板が立つ。 上根来から国境を越えて近江に至る峠道としては、針畑峠とこの木地山峠があった。針畑峠は京都方面に向かうには都合が良い。 一方、木地山峠からは旧朽木村の麻生川沿いに下り、朽木の市場(いちば)へと至る。 市場は周辺地域で採れた産物の集散地であり、木地山峠を越えた物資の交易なども盛んに行われたのではないだろうか。 また、文献によると、上根来と朽木村木地山との間には縁組もあったそうで、峠を越えて若衆がヨバイをしたともあったと伝わる。
 
 尚、百里ヶ岳(ひゃくりがたけ)は、ほぼ木地山峠から針畑峠へと至る県境の稜線上にそびえる。登山の対象となる山らしい。
   

木地山峠への分岐付近 (撮影 2015.11.13)
左手の芝生のスロープの脇から登る
道路脇にゴミ置場もあり、まだ暮らしの営みが感じられる

木地山峠への登り口 (撮影 2015.11.13)
   

「根来古道」の看板 (撮影 2015.11.13)
木地山峠への登山口の反対側
<根来古道>
 上根来集落内ではこれといった案内看板は見受けられない。木地山峠へと登る登山口の看板も、意識していないと見落としてしまいそうな小さな物だ。
 
 それでもその周辺をキョロキョロしていると、僅かに「水源の森百選 根来古道 上根来」と書かれた木の看板を見付けた。 「根来古道」とはこの根来の地を経由していた針畑越の道を指すのであろう。 若狭と近江、更に京都との交易が盛んな頃は、峠越えを前にした若狭側最終の集落として、この上根来集落も栄えた時期があったのだろう。荷を運ぶ者達を相手にした茶店や旅籠といった商売や、荷運びの請け負いで生計を立てる住民もいたかもしれない。
   
 今となっては百里ヶ岳周辺へのハイカーや登山者、あるいは古道を訪ね歩く者が僅かに訪れる程度であろう。 「根来古道」の看板の下には、「私有地に付き、駐車はご遠慮ください」と注意書きがあった。おにゅう峠の林道が開通して、この地を通る者が増えたかもしれないが、集落にとってはただ迷惑だけの存在であろうか。
 
 登山口から50m程で道は集落の南へと抜け、人家はパッタリ途切れる。

集落の外れ (撮影 2015.11.13)
この少し先、左手に「山のてっぺん上根来」の看板が立つ
   

「山のてっぺん上根来」の看板 (撮影 2015.11.13)
看板の地図は左が北
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
<山のてっぺん上根来>
 福井県側最終の人家を過ぎて150m程行くと、道路の左手脇に「山のてっぺん上根来」と題した比較的新しい看板が立つ。 周辺の登山・ハイキング案内となっている。その看板とは道の反対側にちょっとした広い路肩があり、登山者などはそこに車を停めることとなっているようだ。
 
 看板の副題には「鯖街道(鞍馬街道) 根来〜針畑越え」とある。やはり針畑越の鯖街道は、久多から花脊峠を越えて鞍馬街道を行くのがメインだったのだろう。
 
<峠の情報>
 この看板はおにゅう峠開通に伴って立てられたようで、おにゅう峠に関する情報が掲載されている。峠の標高は846mで地蔵があるらしい。 峠は白山眺望場となり、峠から撮った景色の写真も載っている。現在のおにゅう峠を越える林道のルートと、古い針畑越のルートが描かれていて、参考になる。
   
   
   
林道起点
   
<畜産団地跡>
 上根来集落の中心地より遠敷川右岸の高みに続く寂しい道を800m程行くと、ちょっとした平坦地へと出る。そこに老朽化した大きな建屋が何棟か並んでる。先の「山のてっぺん上根来」の看板によると、ここも上根来集落の一部となっていたが、人家は全く見られない。
 
 ここは上根来に建設された畜産団地の跡地となる。昭和51年(1976年)に上根来肉用牛生産組合が設立され、一時期は450頭もの肉牛を飼育していたそうだ。 衰退していく山間部集落の再生を目的としたものだったのだろう。その後どのような経緯だったか知らないが、今は古ぼけた牛舎ばかりが残り、やや異様な光景を呈している。
   
前方に畜産団地跡 (撮影 2015.11.13)
   

地蔵堂など (撮影 2015.11.13)
<さかじり>
 牛舎とは道の反対側に比較的新しそうな地蔵堂が建てられている。中に納められている地蔵は古い物かもしれない。目の前の針畑越の道を通る旅人を永く見守って来たお地蔵様であろうか。
 
 地蔵尊の傍らには海軍兵の慰霊碑が立つ。この地で生まれた方であろうか、一人の名前が刻まれていた。この慰霊碑は畜産団地などの様子をどんな思いで見て来たのであろうか。
 
 「山のてっぺん上根来」の看板には、この畜産団地の跡地を指して「さか止里(さかじり)」と書き記していた。「さか」の字は「山」偏に「反」である(フォント無し)。地名であろうか。
   
<林道看板>
 慰霊碑を過ぎた先に林道看板が立つ。「林道 上根来線」とある。
   
林道看板 (撮影 2015.11.13)
   
<林道標柱>
 林道看板の少し先の右手、電柱の足元に古そうな林道標柱も立つ。「林道上根来線起点」とある。その標柱の脇より路面の舗装がやや良くなっていた。 ここより林道が始まるようだ。以前はおにゅう峠まで届いていなかった上根来林道であったが、現在は峠までの全線をその名で呼ぶものと思う。
 
 ある観光パンフレット(2015年版)でこの林道に関し、「峠方向 通行止め(9月末解除予定)」とあった。 訪れたのは11月で、通行止が解除されているかやや不安であっが、何の工事看板もなく無事に通れる状況だった。 おにゅう峠の開通は最近の平成15年(2003年)だが、いつでも通れる林道という訳ではなさそうだ。勿論、冬期は通行止だろう。

林道標柱 (撮影 2015.11.13)
   
   
   
上根来林道を行く
   

遠敷川を渡る (撮影 2015.11.13)
<上根来林道>
 林道起点より道は畜産団地跡の周辺の山際を進む。直ぐに遠敷川を渡って左岸へと出る。橋を渡った先に「上根来水源の森」のモニュメントが立つ。平成7年8月4日の建立だ。小浜市の貴重な水源となっているとある。若狭姫神社の脇に通じる水路を思い出す。
   

「上根来水源の森」のモニュメント (撮影 2015.11.13)

「上根来水源の森」の説明文 (撮影 2015.11.13)
   
<古道入口>
 林道は遠敷川左岸に入って、本流とその西側で北流する支流との間の尾根上へと登りだす。すると直ぐにヘアピンカーブに差し掛かる。 そのカーブの途中から尾根方向に山道が始まる。周辺にはいろいろと看板が立ち並ぶ。それが針畑峠へと続く古道入口となる。 古道は直ぐに暗い木立の中に吸い込まれるようにして入って行く。
 
<古道の道筋>
 ここまでの車道の道筋は、僅かなズレはあっても、大筋は古くからあった針畑峠を越える道筋と一致していたと思われる。 しかし、これより峠方向では、古道は遠敷川本流と西の支流との間に連なる尾根上をやや蛇行しながらも県境の稜線方向へと登って行く。 川沿いから全く離れる訳である。尾根の続く先は稜線上にある871mのピークで、針畑峠はそのピークの東200m程にある標高約830mの鞍部を越えて行く。

古道が分岐するヘアピンカーブ (撮影 2015.11.13)
この手前が古道入口
   

古道入口付近に並ぶ看板 (撮影 2015.11.13)
古道入口はこの右側
<鯖街道 −根来坂−>
 林道方向には「不動の滝」と矢印看板が立つが、それ以外はほとんどが古道に関したものである。やはり「鯖街道」の文字が目立つ。 行先は遥かに「京都」、手前方向は「若狭小浜」とある。看板は多いが、あまり情報はない。登山案内の看板には「百里ヶ岳登山口(根来坂コース)」とあった。 根来坂とは針畑峠を越える峠道全般を指すものかと思ってきたが、上根来集落も過ぎ、ここより尾根上を稜線の峠にまで至る坂道を特に「根来坂」と呼ぶのかもしれない。
   

古道入口 (撮影 2015.11.13)

鯖を模した看板 (撮影 2015.11.13)
「鯖街道 入口」とある
   
古道に関する看板 (撮影 2015.11.13)
右の看板の日付は平成19年(2007年)8月4日
   
<林道の道筋>
 古道入口を過ぎ、少し遠敷川沿いに戻ると、「上根来水源の森」のモニュメントがあった上部辺りを通過する。 そこにも水源かん養保安林の看板が立つ(右の写真)。大雑把な地図だが、現在の林道のコースが描かれている。 古道とは異なり、林道は遠敷川沿いにその源頭部近くまで遡り、そこから反転して尾根上へと登る。 登り切った所で古道と合し、暫くは古道と共に尾根上を進むが、稜線上の871mのピークを前に、林道は大きく西へと迂回する。古道の峠は830m、おにゅう峠は846mでわざわざ高い所に峠を通した。それ程針畑峠前後の地形は車道を通すには険しかったということだろう。

水源かん養保安林の看板 (撮影 2015.11.13)
   
   
   
遠敷川源流部へ
   

林道はやや険しい様相 (撮影 2015.11.13)
<林道の様子>
 水源かん養保安林の看板を過ぎると、林道は遠敷川左岸にぴったり沿う。ただ、その谷は細く狭く、谷側の路肩は鋭く切れ落ちて、川の様子などはうかがえない。 ガードレールも不備だ。それでいて道幅は狭く、路面のアスファルトも途切れがちである。復旧工事跡の様な箇所も過ぎる。これまでの道とは明らかに異なる、荒々しい林道の様相となった。気持ちが引き締まる思いである。
   
<不動の滝>
 道の途中、路肩にポツンと看板が立つ。不動の滝の案内看板だった。木地山峠方面から流れ下る支流に架かる滝らしいが、林道からははっきりとは望めなかった。 看板は平成20年に立てられた物で、おにゅう峠開通の平成15年頃以降、鯖街道の古道やこの滝などの案内看板が整備されていったようだ。
   
不動の滝の看板 (撮影 2015.11.13)
   
<つづら折り箇所>
 左手の谷底が徐々に競り上がって来て、ついには遠敷川の川面が見えるまでになる。すると遠敷川を渡った先でつづら折りに差し掛かる。遠敷川右岸に入った筈だが道はクネクネ曲がって方向感覚を失う。ヘアピンカーブが4回程連続していた。

沿道の様子 (撮影 2015.11.13)
遠敷川の川面を見る
   

これからつづら折りに差し掛かる (撮影 2015.11.13)

つづら折りの様子を望む (撮影 2015.11.13)
   

道の様子 (撮影 2015.11.13)

道の様子 (撮影 2015.11.13)
   

道の様子 (撮影 2015.11.13)
谷は右に左に

道の様子 (撮影 2015.11.13)
   

遠敷川右岸からまた左岸へ (撮影 2015.11.13)
<源流部へ>
 気が付くと、遠敷川は道の右手にあり、600m程直線的に遡る。遠敷川の谷も随分と狭まってきた。源流部も近い。ここに来て対向車が一台下って来て離合する。
 
 地形図には描かれていないが、道は遠敷川の源流部に差し掛かる50m程手前で、再び遠敷川を渡って左岸に入っている。
   
<源流部直前>
 道の前方は県境の稜線より北面に下る山がそそり立ち、どうしたってこのまま谷沿いを真っ直ぐ道が続いているようには思われない。果して道はこの先どのように続くのかと危ぶまれてくる。

この先が遠敷川の源流部 (撮影 2015.11.13)
   

源流部 (撮影 2015.11.13)
<源流部>
 道はまるで行き止まるようにして鋭いヘアピンカーブに差し掛かる。カーブ手前がちょっとした広場になっているが、この地点が林道で至ることができる遠敷川最源流部となる。左手奥に続く谷を覗くと、針畑峠より急坂を流れ下って来た遠敷川の細い流れが見えた。
 
<以前の林道>
 古いツーリングマップ(関西 2輪車 1989年7月発行 昭文社)を見ると、以前の上根来林道もこの地点までは早くから通じていたことがうかがえる。ただ、ここから先は谷沿いに車道を開削することができず、おにゅう峠の開通を待つこととなったようだ。
   

源頭部より下流方向を望む (撮影 2015.11.13)
ここまでは以前の林道も通じていたようだ

遠敷川の谷を上流方向に望む (撮影 2015.11.13)
これが遠敷川の源流となる
   
   
   
尾根へ
   

尾根へと登る道 (撮影 2015.11.13)
<尾根へ>
 道は初めて遠敷川沿いを離れ、県境の稜線から北へと延びる支尾根へと登りだす。ここからは近年新しく開削された車道である。 上根来林道としては第2ステージといったところだ。尾根上に至るまでの約1km、道は峠方向とは真反対の北へと進む。こうした冗長性は古道にはない点である。
 
<道の様子>
 最近になって開削された道とあってか、道幅は意外と広く、安定した感じがある。ただ、路面の舗装化はほとんど行われていない。 それでも細かな砂利などが敷き詰められ、アスファルト舗装目前という様子であった。狭い谷筋を脱して開けた尾根へと登るに従い、視界が広がりだす。 これまでになかった開放感が感じられ始める。
   
<古道に合する>
 北へと張り出した尾根の突出部を回り込む辺り、路傍にポツリと道標が立っていた。「鯖街道」とあり、峠方向に「京都」、麓方向に「若狭小浜」と案内されている。

古道の道標 (撮影 2015.11.13)
   

古道の麓方向を望む (撮影 2015.11.13)
 道標の脇からは谷へと鯖街道の古道が下っている。古道は麓方向より登って来てここでひょっこり車道に顔を出したという感じだ。ここから峠方向は暫くは新設の林道により古道の痕跡はかき消されてしまっている。
 
 
<尾根上>
 古道に合した辺りから、林道は尾根を西側にやや下った所に通じる。右手(西方面)に支流の谷を臨みつつ、峠のある南の稜線方向へと尾根筋を伝いだす。沿道からは、支流から遠敷川本流へと続く大きな谷の眺めが広がる。
 
 その谷の左岸の奥に林道らしい道筋が望めた。多分、森林基幹道・若狭遠敷線ではないだろうか。
   
遠敷川の谷の景色が広がる (撮影 2015.11.13)
奥の山肌に道筋が認められるが、森林基幹道・若狭遠敷線だろうか
   
<尾根筋の道>
 尾根筋になり、道またちょっと狭い感じがした。路面も未舗装か、あるいは簡易的なコンクリート舗装である。ただ、尾根筋の道は直線的であり、勾配も緩い。地形は比較的穏やかだ。
   
道の様子 (撮影 2015.11.13)
   
 この付近は鯖街道の古道も通じていた箇所と思われる。峠の位置する稜線まで直線距離で残すところ1km程だ。 川筋から尾根上へと登る根来坂の急坂部分も無事に登り切り、一安心といったところであったろう。眺めを堪能しながら、峠へと続く尾根筋をこつこつ歩いて行ったことと思う。

道の様子 (撮影 2015.11.13)
   

道の様子 (撮影 2015.11.13)

道の様子 (撮影 2015.11.13)
   

左手に古道分岐 (撮影 2015.11.13)
<古道分岐>
 車道が尾根筋を600m程も行くと、折角合した古道がまた分かれて行く。路肩に小さな看板が一塊になって並んでいて、その間を細々とした山道が尾根の頂上部分へと登って行く。
 
 地形図などを見ると、その古道は尾根の頂上部(稜線上)を伝って主脈上の871mのピークに接近し、やや西にそれて主脈を越える。一方、車道は相変わらず尾根筋のやや西に下った辺りを進む。
 
 それにしても、古道を示す看板や道標はてんでんバラバラである。それぞれ出所が違うのであろうか。
   
古道を示す看板など (撮影 2015.11.13)
中央の道標には「根来坂峠」とある
   
<眺め>
 古道分岐を過ぎると、道はますます開放的になる。それなりの山岳道路ではあり、険しさもない訳ではないが、それより車を走らせながらも何だかウキウキするような楽しい気分にさせられる道だ。ちょっと広い路肩に車を停め、ゆっくり景色を堪能する。
   

峠方向を見る (撮影 2015.11.13)

麓方向を見る (撮影 2015.11.13)
   
沿道の眺め (撮影 2015.11.13)
   
<つづら折り>
 途中、一箇所だけ大きなつづら折りがある。このカーブを曲がりながら高度を上げる。古道の歩道は尾根の頂上部分の坂を登れたが、車道はこうした仕掛けが必要だった訳だ。このつづら折れは豪快でその前後の眺望も抜群だ。
   
つづら折りの途中 (撮影 2015.11.13)
視界が広い
   
<登山口>
 つづら折りの終り付近の角に登山道が始まっていた。古道と関係するかと思ったが、小さな標柱には「百里ヶ岳登山口」と書いてあるだけだった。 脇には「水源かん養保安林の標柱が立つばかり。ただ、この箇所は尾根上に通じる古道と車道とが最も近付く所で、その距離僅かに20〜30mである。 ちょっと山林に分け入れば、古道の雰囲気が味わえたかもしれない。
 
 つづら折りを登る最中、軽のワンボックスカーとすれ違う。どう見ても一般車ではなさそうだ。何かの業者であろうか。それにしてもこんな山奥で仕事とは大変である。

百里ヶ岳登山口 (撮影 2015.11.13)
   
<曲がるガードレール>
 つづら折りを過ぎると、道は支尾根沿いから主脈沿いへと転進して行く。主脈の北面へと下る山腹はやや急斜面となり、そこを横切って進む道もやや険しい様相だ。
 
 その険しさを象徴するかのように、道に沿って繋がるガードレールが、見事にグニャグニャに曲がっている。まるで人口的に曲げたのかと思われるくらいだ。 主脈の頂上は近く、あまり落石によるものとは考え難い。多分、積雪によるものではないだろうか。こうまでも長い距離に渡ってガードレールが薙ぎ倒されるように曲がっているのを見たことがない。
   

道の様子 (撮影 2015.11.13)

道の様子 (撮影 2015.11.13)
   

峠直前 (撮影 2015.11.13)
<峠直前>
 曲がったガードレールは頂上の峠まで続いた。ほとんど谷側に落ち込んでいる箇所もあり、ガードレールとしての役割は全く期待できない。
 
 峠の手前100mくらいからは峠がはっきり確認できる。稜線上の浅い鞍部を鋭角に越える林道の峠の典型だ。空が広々していて気持ちが良さそうである。
   
峠が見える (撮影 2015.11.13)
切通しの上に女性が一人立つ
   
   
   
   
切通しの上から峠を滋賀県方向に見る (撮影 2015.11.13)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
<峠>
 道は稜線上の切通しをヘアピンカーブで曲がって越える。幅の広い切通しは開放的だ。峠からは稜線上を西へと登山道が始まっている。 それを使うと切通しの上へと容易に登ることができる。切通しの上からは峠の様子が一望でき、福井・滋賀両県ともに眺めが広がる。 切通しの上は県境であるばかりでなく、日本列島を横断する中央分水界でもあった。
   

峠の福井県側 (撮影 2015.11.13)

峠の切通し (撮影 2015.11.13)
左が福井県、右が滋賀県
正に中央分水界の上に立っている
   
<謎の女性(余談)>
 峠には白い乗用車の先客があったが、その持ち主と思われる女性が先程までこの切り通しの上に居た。 ピンク色の上着という比較的軽装な出で立ちで、しきりに写真を撮っては辺りを歩き回っている。 私の行動パターンと酷似しているので、女性には珍しく峠愛好家であろうかと思ったりした。近くに同伴者が居たかどうか分からないが、その内登山道を西へと進んで行ってしまった。やはり山ガールの方であったか。女性の峠愛好家など居る訳はなかった。
   
峠の滋賀県側 (撮影 2015.11.13)
「滋賀県」のバンが停まる
   
<「滋賀県」の車(余談)>
 次には滋賀県側から「滋賀県」とだけ書かれた白いバンが登って来て峠の切通しに駐車した。 作業着姿の男性が一人降りて来て、見るとはなしに見ていると、カメラを持って峠をうろつき回り、峠に立つ開通記念碑などを写真に収めている。おにゅう峠は一時、怪しげな男性二人がカメラ片手に徘徊する事態となった。
 
 「滋賀県」の男性は、車に戻って暫くすると、また元来た滋賀県側に走り去って行った。一体何をしにこんな山奥まで来たのであろうか。県の職員が林道の監視にでもやって来て、峠まで来た証拠にと、峠の記念碑を写真に撮って帰って行ったのであろうか。

峠の福井県側 (撮影 2015.11.13)
地蔵堂などが立つ
   
<峠の福井県側>
 峠の福井県側は少し広くなっていて、車の駐車には困らない。崖を臨む位置に丸い石が一つ置かれ、その上部に地図が描かれていたが、広い範囲の地図であまり参考にはならない。
 
 地図には、
 遠敷地区ふるさとづくり推進会
 日本遺産認定 第1号 2015.10
 
 とあった。栄えある第1号だが、認定は2015年とつい最近のことである(平成15年の間違いか?)。「日本遺産」とはあまり聞かないが、どのようなものであろうか。
 
 峠は白山眺望の場所となっているようだが、この白山とは岐阜県と石川県の境にあるあの白山であろう。あまりに遠くて丸石の地図の範囲にもない。それに眺める方向はかなり東寄りで、峠の福井県側に乗り出さないと、見えて来ない方角である。
   

丸い石 (撮影 2015.11.13)

石の上部の地図 (撮影 2015.11.13)
   
<峠からの眺め>
 白山は別としても、峠の福井県側には眺めが広がる。遠敷川が流れる谷が、蛇行しながらも北へと続いている。重なる山並みの向こうに、常神半島先端で日本海に浮か御神島まで望めることになっているが、さすがに普通のデジカメなどには写らないようだ。
   
峠からの福井県側の眺め (撮影 2015.11.13)
   
   
   
峠の地蔵堂など
   

地蔵堂 (撮影 2015.11.13)
緑の看板は「高島トレイル」の案内
<地蔵堂>
 おにゅう峠で一番目に付くのは地蔵堂である。2畳程の空間の奥にお地蔵さまが祀られている。「おにゅう峠地蔵尊」とある。 こうした造りの地蔵堂は、やはり避難小屋を兼ねていたのではないかと思われる。荒天時の休息には便利な存在ではなかったか。 ただ、このおにゅう峠の地蔵堂は車道沿いにあり、逃げ込むなら密閉性の良い車の方が安全ではある。
 
 地蔵堂の脇からは西の稜線方向へと山道が登り始める。傍らに「高島トレイル」と看板が立つ。この「高島トレイル」については黒河峠でも見掛けた。随分と広い範囲のルートの様である。
   

地蔵堂 (撮影 2015.11.13)

「おにゅう峠地蔵尊」 (撮影 2015.11.13)
   
<開通記念碑>
 切通しの正に県境部分に峠の記念碑が鎮座する。それにしても平仮名の「おにゅう峠」では、やはりあまり威厳が感じられない。日付は平成15年(2003年)10月とある。滋賀県側が高島市ではなくまだ朽木村となっている。
   

開通記念碑 (撮影 2015.11.13)
左端にも「高島トレイル」の標柱

開通記念碑 (撮影 2015.11.13)
やや貫禄に掛ける
   
<記念碑の裏>
 林道の着工が昭和62年(1987年)と意外に古いが、これは初期の上根来林道などのことを指すのであろうか。
 
 竣工は平成15年(2003年)とあり、やはりその年に福井・滋賀の両県を結ぶこのおにゅう峠が開通したものと思う。
 
 林道総延長は約13kmで、峠はほぼその中間点となる。滋賀県側は林道小入谷線と呼ばれるようだ。
   
開通記念碑の裏側 (撮影 2015.11.13)
   
<峠の滋賀県側>
 峠の滋賀県側は今では高島市となる。カーブミラー以外ほとんど何もなく、福井県側より少し立派な舗装路が下って行くばかりだ。沿道に立つ木々が視界の邪魔をしていて、景色も広がらない。滋賀県側を望むには、切通しの上に立つと丁度良い。
   

滋賀県側より峠を見る (撮影 2015.11.13)

峠より滋賀県側に下る道 (撮影 2015.11.13)
   
   
   
峠より滋賀県側に下る
   
<小入谷>
 考えてみると、峠に県境を示す看板はない。唯一、林道開通記念碑に「滋賀県・福井県」などと書かれている程度だ。 峠の滋賀県側は高島市朽木小入谷(くつきおにゅうだに)、旧高島郡朽木村の大字小入谷(おにゅうだに)となる。小入谷は俗に「おんだん」とも発音されるそうだ。 また「にゅう」とは赤土の産地・丹生を指すとか、「入り込んだ谷」の意だとか言われる。あるいは福井県側にある同音の地名「遠敷」(おにゅう)とも関連するのではないかとされる。
 
 小入谷は古く中世の針畑荘(はりはたのしょう)内にあった八か村の一つとのこと。 針畑荘とは現行の大字でいうと、小入谷、生杉(おいすぎ)、能家(のうげ)、中牧(なかまき)、古屋(ふるや)、桑原が占める地域に当たるそうだ。 あるいは「輿地志略」に見える針畑九箇村の一つとか、針畑庄14名の一つとかだそうだ。明治22年(1889年)に21か村が合併して朽木村ができ、その大字となっている。
 
 おにゅう峠の福井県側は、下れば日本海に面した大都市小浜であり、小浜の繁華街にも程近い。 一方、滋賀県側は、福井県・京都府との境となる辺境性の高い旧朽木村であり、その中でも針畑川、北川の源流域となる村の北西端の山間部である。おにゅう峠を滋賀県側の小入谷に下っても、鯖街道の終点・京都出町柳はまだまだ遠い存在だ。
   
<稜線間際>
 峠より道は県境の峰の南面をほぼ稜線に並行して真東へと進む。ほとんど下ることもなく300m程行くと、稜線間際を通過する。 路上より数m登れば、そこはもう中央分水界の上である。その登り口に登山案内が朽ち掛けて立つ。これも積雪の影響だろう。 案内板には稜線を左(西)方向へ「おにゅう峠」、右(東)方向へ「根来坂峠、百里ヶ岳」とある。根来坂峠とはすなわち針畑峠と考えてよい筈だ。おにゅう峠からは稜線上を東へ進む登山道はなかったが、代わりにここからその山道が始まる。
   

稜線間際を通る (撮影 2015.11.13)

稜線上を行く登山道が始まる (撮影 2015.11.13)
登山案内は朽ち掛けていた
   
<針畑川源流の谷>
 道の左手には県境の峰を見上げ、右手には針畑川源流の谷を見下ろして進む。その谷にはおにゅう峠から針畑峠に至る稜線を源とする川が流れ下る。 針畑川上流部であることは間違いないが、それが針畑川本流かというと、確信がない。尾根を一つ東に越えた谷に流れ下る川を「針畑谷」(本流の意と思う)とする資料もある。 ただ、地形図を眺める限り、やはりおにゅう峠や針畑峠が針畑川本流の最源流部に見える。ここでは本流と考えておく。
 
 道は針畑川本流の谷の最上部を横切って進む。山深い針畑の地を眼下に望む。道は871mのピークや針畑峠の近くを過ぎる訳だが、車で走っている限りにはそれとは気付かない。 いつしか県境となる稜線沿いから離れ、東の谷との境となる南へ派生した支尾根沿いに下りだしている。
   
針畑川最源流部の谷の上部を横切る (撮影 2015.11.13)
   
<支尾根上に出る>
 地形図にある支尾根上762mのピークを西側に巻いた先で、道はその尾根の真上に出る(右の写真)。道の両側に谷が下り、非常に開けた地点だ。 すると左手の細い尾根筋から下って来た山道が車道に合している。そこに小さな看板が立ち、「鯖街道」と記してあった(下の写真)。
 
 針畑峠を滋賀県側に越えた古道は、同じ支尾根沿いに通る車道より更に上部に通じ、762mのピークを東に巻いて下って来ていた。稜線から下る針畑川の谷は傾斜が険しく、林道も古道も峠から直接谷筋へと下ることができず、一旦尾根筋を経由する。

支尾根の上に出る (撮影 2015.11.13)
左から古道が合する
   

尾根沿いに下って来た古道 (撮影 2015.11.13)
「鯖街道」の看板が立つ
一  度合した古道は100m足らずでまた車道と別れ、尾根先端の真下へと続く急坂を下って行く。ガードレール脇からは転げ落ちるような山道が始まっていた。

尾根の真下に下る古道 (撮影 2015.11.13)
   
<尾根先端を横切る>
 古道や車道が通じる尾根は、標高約650mから700mの間で傾斜が激しい。古道はそのまま下るが、車道は大きく西に迂回しながら徐々に標高を下げて行く。 車道が尾根の先端部を横切る付近は、南方へ大きく張り出し視界が広がる。峠からの眺めに優るとも劣らない景色が望める。
   
尾根の先端部付近からの景色 (撮影 2015.11.13)
下の尾根上にまた車道が通じる
   
<西への迂回途中>
 道は急傾斜の山腹を大きく蛇行し、なかなか険しい様相だ。滋賀県側では最も山岳道路らしい雰囲気を味わえる区間となる。下を望むと、これから下る道筋が見える。その奥の麓には、針畑川沿いに人家が点在する小入谷集落が望めた。
   
西への迂回途中から下に通じる道筋を望む (撮影 2015.11.13)
麓の方に小入谷集落が見える
   
 道は500m程西へ迂回し、鋭いヘアピンカーブを曲がると、また尾根筋へと引き返して来る。
   
道の様子 (撮影 2015.11.13)
この先豪快なヘアピンカーブに差し掛かる
   

尾根上に出る (撮影 2015.11.13)
左手から古道を合する
<再び尾根上に>
 道は標高650mを切って傾斜が緩やかになった尾根上に戻って来る。するとまた左手より尾根筋を下って来た古道が合している。車道の方が古道に寄り添ったり離れたりしている訳だが。
   

古道を峠方向に見る (撮影 2015.11.13)

百里ヶ岳の案内 (撮影 2015.11.13)
   
<焼尾地蔵堂>
 古道が合した地点の道の反対側に地蔵堂が立つ。峠の地蔵堂を除けば、随分と山奥に佇む地蔵堂だ。中には掃除道具なども用意され、これだけ大きな地蔵堂が今でもきれいに維持されているのに感心させられる。冬の積雪にもよく耐えるものだ。
 
 表札には「焼尾地蔵尊」と書かれていた。この地蔵堂が立つ尾根付近に「焼尾」という地名でもあったのだろうか。 また、この地蔵堂は峠から約1.5kmの道程で、麓の小入谷集落へと続く古道のほぼ中間点に位置する。 針畑峠近くにも茶屋や地蔵堂があったようで、こうして所々に旅人の便宜を図るべく、地蔵堂を建てたのではないだろうか。
   

地蔵堂 (撮影 2015.11.13)

「焼尾地蔵尊」 (撮影 2015.11.13)
右側には魚の形をした「鯖街道」の看板
お堂から全て素朴な木製で、何となく味わいが感じられる
   
<尾根上を行く>
 南へと真っ直ぐ延びた尾根は500m近くも続く。尾根上は幅は細いが勾配は緩く、天候さえ良ければ道としてはとても穏やかな雰囲気だ。今はアスファルト舗装の林道が幅を利かしているが、かつてはここに針畑越の鯖街道が通じていた訳である。
   
尾根の上に通じる穏やかな道 (撮影 2015.11.13)
   
<596のピーク>
 地形図に596mとあるピークの先で、尾根の勾配がまた急になる。古道はガードレールの脇からその尾根上の急坂を下って別れて行く。林道は再び西へと大きくそれ、針畑川上流部へと下って行く。もう麓に辿り着くまで古道と出会うことはない。

また古道が分かれる (撮影 2015.11.13)
   
   
   
針畑川上流部へ下る
   

道の様子 (撮影 2015.11.13)
なかなかいい道
<道の様子>
 道はやっと尾根筋を離れ、針畑川の川筋へ向かって下りだす。峠以降、林道としては道幅は十分で、路面のアスファルト舗装も良好な道がずっと続いている。 上根来林道に比べても、小入谷林道の状態はグッと良い。道を管轄する県の違いもあるのだろうか。尾根上から川沿いまで約1.3kmの道程だが、何の不安もなく下って行く。
   
<川沿いに>
 道は遂に川沿いに降り立つ。針畑峠から流れ下る川で、針畑川本流と考えている川である。それを渡る橋の手前を上流方向に林道が分岐する。地図を見ると、峠直下のかなり山奥まで続いているようだ。
   

川沿いに出た (撮影 2015.11.13)
橋の手前を右に道が分岐

川を渡る (撮影 2015.11.13)
   
<右岸沿い>
 橋を渡り、道は右岸に沿う。蛇行する川は道に付いたり離れたりしながら流れ下る。ここに来て川面が見間近に眺められた。川筋になってから道は穏やかになり、沿道の様子も落ち着いた雰囲気である。林道終点まで約1kmの道程は、のんびりと走りたい気分にさせられる。
   
右岸沿いの道 (撮影 2015.11.13)
川面を間近に見る
   
   
   
林道終点
   
<林道終点>
 川岸に平坦地が広がりだす。道の左に寄り添う川は既に東の谷を合して、間違いなく針畑川と呼ばれる川となっている。支流の小さな流れを跨ぎ越す所で道幅が少し狭くなり、傍らに看板がいろいろ並んでいる。そこが林道小入谷線の終点、高島市側の林道起点である。
 
 そのゲート箇所の様な所を過ぎると、川岸に広々とした空き地が広がる。休憩するにはもってこいの場所となっている。

林道終点へ (撮影 2015.11.13)
   

林道終点の先にある広場 (撮影 2015.11.13)
ここで昼食休憩

林道方向を見る (撮影 2015.11.13)
側らに林道看板が並ぶ
   

看板類 (撮影 2015.11.13)
<看板など>
 新しそうな黄色い林道看板の後には、もう一つ古そうな白い林道看板が立つ。こちらには「林道 小入谷線(起点)」と、「起点」の文字がある。
 
 古いツーリングマップ(関西 2輪車 1989年7月発行 昭文社)では、この林道は全く記されていない。現在林道看板が立つ箇所で車道は止まっていた。小入谷林道は上根来林道より後に開削が始まったものか。
 
 林道看板に並んで「山地災害危険地区」と題した看板が立つ。林道小入谷線の先は川沿いに遡る道(図では右上)と、現在峠を越える道(図では右中央)に分かれる。 ただ、図ではまだ峠に至る前に止まっている。別に東の谷の川沿いに遡る道(図では右下)が描かれている。その道から分かれ、尾根上を登って小入谷林道のヘアピンカーブへと繋がるのが古道だが、それは記されていない。
   
山地災害危険地区の看板 (撮影 2015.11.13)
地図は右が北
この図では小入谷林道はまだ峠に達していない
   
<古道入口>
 小入谷林道が最後に渡る細い支流沿いに「根来坂峠・百里ヶ岳」と書かれた登山道の案内看板が立つ。 たた、看板は針畑川本流の方を向いているが、ちょっと変である。その道は林道と並行して支流を渡り、その先で針畑川を渡渉する(下の写真)。 針畑川には橋は架かっておらず、代わりに川底にコンクリートが打たれている。登山道であるが、東の谷の川沿いに遡る林道でもあるようだ。針畑川を渡った左岸に車の轍が確認できる。しかし、車で入り込むにはちょっと勇気が要る道だ。

登山道の案内看板 (撮影 2015.11.13)
   
古道へ続く登山道 (撮影 2015.11.13)
これは林道でもあるようだ
左手の舗装路は小入谷林道
   
   
   
小入谷集落以降
   

対岸に佇む小入谷集落最奥の人家 (撮影 2015.11.13)
<小入谷集落>
 小入谷林道起点にある広場で一服した後、道を先に進む。直ぐに、対岸(左岸)に小入谷集落の最奥に立つ人家が見える。
 
 現在の小入谷林道に続く車道はそのまま針畑川右岸に通じるが、針畑峠へと続く古道は針畑集落以降は左岸にある尾根を登って行く。もしかすると、元の道は最終の人家の前を通っていたかもしれない。
   
小入谷集落内を行く (撮影 2015.11.13)
   
 間もなく車道沿いにも人家が見られる。しかし、対岸の方により多くの人家が立っているようだった。
 
福井県側の上根来集落などは、山中にあってはなかなか規模の大きな集落を呈していたが、廃屋も多く散見されて衰退の様子は否定すべくもなかった。 こちらの小入谷集落も、文献によると戦後急速に過疎化が進んだそうで、廃村寸前とのこと。 見れば、集落全体的に手入れはされているものの、雨戸が閉じられた家屋がほとんどである。 古代から続き、一時期は鯖街道で賑わった針畑峠の道であったが、今は上根来や小入谷の集落の衰退を目にして、やや寂しい趣である。
   
対岸の小入谷集落 (撮影 2015.11.13)
   
<峠の役割>
 針畑峠は、広くは鯖街道として小浜と京都を結ぶ峠であったが、朽木村と小浜市街を結ぶ峠としても多く利用されたそうだ。 朽木市場より国界へ四里、小浜へ五里とされる。朽木村で産する炭、杉皮、へぎ板が針畑峠を越えて小浜へと運ばれ、一方小浜からは塩、干し魚、日用品が朽木村にもたらされた。
 
 また峠直下の針畑地区の住人にとって、村の中心地である市場へ出るより、小浜方面へ越えた方が便利な場合もあったようだ。盆や正月、祭、婚礼、葬式、そうした行事の入り用はみなこの峠を往来したとのこと。小浜の方がより開けた都会であったのだろう。
   
<橋の袂付近>
 集落内を暫く進むと、左岸に立つ人家へと渡る橋が架かり、その橋の袂周辺は少し広くなっている。小入谷林道の途中からはこの辺りが眺められていた。傍らに「小入谷」と集落名が書かれた看板がポツンと立つ。
 
 左岸へ渡る道は、その先徒歩道となって県道781号の小入谷峠まで続いているようだ。針畑峠を下り、更に朽木の市場方面へ向かう時は、この道を登って行ったのではないだろうか。
   
集落内に架かる橋の袂 (撮影 2015.11.13)
左に分かれる道は橋を渡って左岸の集落へ
右手に「小入谷」の看板が立つ
   
<県道に接続>
 小入谷林道起点から旧朽木村内を巡る循環道路・県道781号までを繋ぐ道は1km程続く。最後に林の間を抜けると、細い道に接続する。 県道沿いにはこの分岐を示す看板は立っているが、小入谷集落側から来ると何の案内看板もなく、この細い道が果して県道781号かと危ぶむ程だ。
 
 県道を左に折れれば小入谷峠を越えて北川沿いに市場方面へと至る。直進方向は針畑川沿いに大津市の梅ノ木方面に続き、こちらが鯖街道の道筋となる。安曇川沿いの国道367号まで約17kmもある長い道程だ。京都までの鯖街道は更にもう一峠越えなければならなかった。

県道への接続地点 (撮影 2015.11.13)
左が小入谷峠を越えて市場方面へ
直進は針畑川沿いに大津市梅ノ木方面へ
   
 この先、今回は小入谷峠を越えてしまったので、ここより下流側の針畑川沿いの道について掲載する写真がない。この道を走ったのは1997年4月.28日のことで、当時はほとんど写真を撮っていなかった。
 
 小入谷峠を越えるにしろ、針畑川沿いに下るにしろ、この朽木最奥の地から抜け出すには、十分な時間の余裕が必要だ。
   
   
   
 おにゅう峠という林道の峠が通じ、なかなか楽しい峠の旅ができた。この新しい峠の誕生をきっかけに、古い針畑峠についても知ることとなった。 今まで未開通の県境の峰に、概ね舗装済みの車道が通じて、車やバイクで訪れる者も見掛けるようになった。 長らく利用されず、一部に廃道となっていた峠道が、こうして新しい形で現代に生まれ変わった訳だ。
 
 ただ、かつては婚礼衣装なども運ばれ、峠を挟んで上根来と小入谷との間で婚姻関係さえ結ばれたかもしれない峠道であるが、今はその沿道に寂しい集落の姿を目にするばかりだ。 道は生まれ変わっても、本当の意味でこの峠道が復活したかどうかはちょっと疑問に思う、おにゅう峠であった。
   
   
   
<走行日>
・2015.11.13 福井県 → 滋賀県 パジェロ・ミニにて
 
<参考資料>
・日本歴史地名大系 18 福井県の地名 平凡社 1981年9月10日 初版第1刷
・角川日本地名大辞典 18 福井県 1989年12月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 25 滋賀県 昭和54年 4月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・ツーリングマップル 関西 2015年8版1刷発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、 こちらを参照 ⇒  資料
 
<1997〜2016 Copyright 蓑上誠一>
   
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