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巌道峠 (厳道峠)
 
がんどうとうげ No.195
 
思わず立ちすくむような急坂の峠道
 
(初掲載 2012. 4.21  最終峠走行 2012. 3.26)
 
  
 
巌道峠 (撮影 2012. 3.26)
手前は山梨県南都留郡道志村久保
奥は同県上野原市(旧南都留郡秋山村)安寺沢(あてらさわ)
道は林道安寺沢線(久保秋山安寺沢林道)
峠の道志村側には、本線とは別に林道野原線が通じる
峠の標高は約800m(文献より)
峠にはゲートが閉まるようになっていて、横から監視カメラが覗く(写真の左側)
 
 
 
 巌道は「がんどう」と読む。「げんどう」ではない。「」(いわお)の代わりに「」(げん)の字を使う場合もある。一般的な道路地図などでは「道峠」と書かれている方が多いようだ。しかし、国土地理院の地形図では「道峠」で記載されていて、峠に立つ開通記念碑でも「」の字を使っている。個人的な好みからしても「厳」より「巌」の字の方が良いので、ここでは基本的に「巌道峠」で記載させて頂く。
 
 文献などによると、古くは強盗(がんどう)坂などと呼ばれていたそうだ。その文字からしても盗賊が出没した峠道なのかもしれない。後の世に「強盗」ではさすがに体裁が悪いので、「巌道」の文字を当てたとのこと。名前の由来も、「がんどう」という発音自体も、なかなか厳(いか)つい感じを受けるが、巌道峠という名前は嫌いではない。
 
 巌道峠は山梨県の道志村(どうしむら)と旧秋山村(現上野原市)との境にある。山梨県と言っても、両村とも神奈川県に接する東の端に位置し、直ぐ隣は神奈川県相模原市だ。
 
 道志村には相模川水系の道志川が流れ、それに沿って国道413号・通称道志みち(どうしみち)が東西に通じ、西の山伏峠を越えて山中湖に至っている。
 
 秋山村には桂川(相模川水系)の支流・秋山川が東西に流れ、その川沿いに細長く集落が点在する。秋山村は、今は上野原町と合併して上野原市となっているが、秋山川が深い谷を刻む山間の地にある。つげ義春さんの旅に関した本(多分「貧困旅行記」)に、この秋山村が秘境的な場所として登場していたと思う。秋山川沿いには主要地方道35号・四日市場上野原線が、東の上野原市街の国道20号と西の都留市四日市の国道139号とを結んでいる。
 
 巌道峠はその主要地方道35号と道志みちを繋ぐ、脇の峠道となっている。
 
 個人的な話だが、東京都から山梨県への移住を計画している。移住の理由はいろいろあるが、簡単に言えば安全で静かな地に小さな一戸建てを持ち、これまでの生活スタイルをちょっと変えた暮らしをしたいと思うのだ。しかし、現住所からあまり離れられない諸事情があり、そこで山梨県内でも最も東に位置する上野原にターゲットを絞った。去年あたりから住宅物件を物色し、車で出掛けては現地見学をしたりしている。
 
 時には旧秋山村の方まで足を伸ばし、良い土地の売り物はないかといろいろ調べていたが、リニア新幹線の建設工事の関係らしく、県道35号は大型ダンプが行き交い、「静かな地」とはいかないようだ。
 
 諦めて帰ろうと思った時、いつもなら上野原ICより中央道に乗るところ、それでは味気ないと、地図を調べてみた。すると、秋山村の富岡から道志みちに抜ける道があるではないか。道志村との境には「厳道峠」と書かれている。これは是非にでも行きたい。もう夕方が迫り、疲れて乗り気でない妻を説得し、巌道峠へと向かった。
 
 しかし、ちょっとおかしいのである。道志みちはこれまで幾度となく走り、その枝道もいろいろと探訪し尽くした筈だ。自宅から1日で行って来られる距離にあり、特にバイクで走り回った記憶がある。でも、巌道峠などとは聞いたことがない。今のように詳しい県別マップルを使っていなかったので、地図には巌道峠の道が記されていなかったのかもしれない。
 
 そう言えば、凄い急坂で道志みちへと下る道があった。思わずバイクを停め、下を覗き込んでしまった。麓の国道まで無事に繋がっているかも分らない林道で、躊躇せざるを得ない。バイクの場合、一度坂を下り始めたら、途中で停まることは危険だ。とにかく比較的平らな所まで降り切ってしまわないと駄目である。バイクは移動していてこそバランスが保てる乗り物なのだ。
 
 一度は躊躇ったが、思い切ってギヤを入れ、アクセルを吹か、クラッチを繋ぐ。歩くほどの速度でそろりそろりと坂を下り始めた。そして最後に暗い道を抜け、ひょっこり国道413号に出た時には、ホッと安堵の胸を撫で下ろしたのだった。それに味をしめ、その後も一、二度その道を通った記憶がある。あまり人に知られていない抜け道を発見したような思いで、得意げであった。
 
 その後、道志みちを走る時に、どこかにあの急坂を登る道がある筈だと思ったりしたが、その細い林道分岐は容易には分らない。いつしか忘れていき、20年以上が過ぎた。道志みちもあまり走らなくなった。
 
 今回、移住先探しの帰りに偶然にも秋山村側から車で巌道峠を越えることになった。峠からその先、道志村に下ろうとすると、そこに凄い急坂が待っていた。あ〜これだ。昔の記憶が甦ってきた。おっかなびっくりバイクで下った道、それこそが巌道峠なのであった。何だかとても懐かしい気がしたのだった。
 
 
旧秋山村から峠を目指す
 

あきやま観光案内図 (撮影 2011. 4. 2)
秋山村内を探索していた時に見付けた看板の一部
地図代わりにどうぞ
(画像をクリックすると、拡大画像が表示されます)
図では秋山ネスパの位置が秋山川の左岸になっているが、実際は右岸である
 

秋山川を秋山大橋で渡る (撮影 2011. 4. 2)
 旧秋山村側から巌道峠に向かうには、まず主要地方道35号から秋山大橋で秋山川の右岸に渡らなければならない。上野原市街からまともに35号を遡って来れば、左手に大きく「秋山温泉へようこそ」と書かれた看板が掛かっている。しかし、現在は途中の天神トンネルの改修などが行われ、その先35号を来るよりは秋山トンネルを使うルートの方が素直である。秋山トンネルを抜けて35号に出た時は、そこを左折して、少し上野原市街方向へ戻ることとなる。
 
 秋山大橋を渡った先は富岡の地で、橋の袂に「富岡開田記念碑」などが立っている。それにしてもこの周辺には秋山温泉の宣伝が多い。「あきやまネスパ」と呼ばれる温泉施設がこの先にあるのだ。以前はこんな賑やかな看板には見覚えがなく、比較的最近になって造られた温泉と思う。
 
Akiyama
NESPA
新湯治場
秋山温泉
 

秋山温泉
500m先
営業時間
午前10時〜午後9時
 
 秋山温泉の看板は橋を渡って左折方向を示すが、巌道峠もその方向である。良く見ると秋山温泉の看板に混じって巌道峠の案内もあった(下に拡大写真)。

橋を渡った正面の看板 (撮影 2012. 3.26)
ここを左折
 

登山案内 (撮影 2012. 3.26)
厳道峠・阿夫利山コース
 
入道丸では丹沢の山々が一望でき、
月夜野峠から厳道峠の間では御牧
戸山や長尾山の景色がすばらしい。
厳道峠から金波美を経て阿夫利山
へコネラ林に包ま静かな山頂です。
 
 阿夫利山(あふりやま)、金波美(かなはみ)峠は秋山村内にある。月夜沢峠、御牧戸山(おまきど)、長尾山は巌道峠と同じく秋山村と道志村との境に位置する。登山季節は4月初旬から10月下旬とのこと。
 
 看板の通り、秋山大橋の先を左折して数100m行くと、左に下りる道があり、その終点に秋山温泉がある。秋山川にその支流の安寺沢川(あてらさわがわ)が合流する部分で、やや奥まった地だ。
 
 

左下に秋山温泉への道が分岐 (撮影 2012. 3.26)
峠へはここを直進

秋山温泉ネスパ (撮影 2011. 4. 2)
 
 やはり新しそうな施設で、なかなか規模も大きい。プールやレストランもあるようだ。停められた車の数からして、賑わっている様子だった。ただ、単なる温泉と見た場合に800円の入浴料はやや高い気がする。上野原市民だと割引が利くようで、将来上野原移住が完了した暁には、是非にでも来よう思う。
 
 
秋山温泉以降
 
 秋山温泉に下る分岐を横目に見て、巌道峠へは道を直進する。その道路上からも秋山温泉の施設が見下ろせる(右の写真)。道は安寺沢川沿いに南へ延びる。谷沿いの寂しい道となる。それでも時々、ポツンポツンと人家が出てくる。この先は安寺沢の集落であるが、どこから安寺沢なのかはよく分からない。
 
 ちょっと人家が途切れた頃、右の路肩に旧道の名残があり、その分岐点のガードレールに「安寺沢」と書かれた看板がくくり付けてあった。ここから先が安寺沢だと言うのだろうか。尚も暫く人家は見えず、道の方向がやや西よりになると、再び人家が現れた。ここはもう安寺沢なのだろう。

秋山温泉を見下ろす (撮影 2012. 3.26)
 

安寺沢川の左岸を行く (撮影 2012. 3.26)
暫く人家が途切れる

また人家が出てきた (撮影 2012. 3.26)
この辺りはもう安寺沢だと思う
 
 
安寺沢集落内を行く
 

安寺沢郷倉 (撮影 2012. 3.26)
 路肩に古くて味のある木が立っていて、前に看板があるので、これは名のある名木かと思ったら、その木の後ろにある小屋が文化財のようであった(左の写真)。案内看板には「郷倉」とある。何でも江戸期に遡る古い物らしい。前掲の「あきやま観光案内図」にも掲載されている。
 
 

安寺沢川が近くなる (撮影 2012. 3.26)
 
 
 左手の下の方に流れていた安寺沢川が、道の直ぐ脇を流れるようになる。進むに連れ、手に取る近さだ。小さな小川の流れは、何となく楽しい気分にさせてくれる。これが子供なら川遊びに夢中になるところだが、大人になった今でも、何となく心が躍る。
 
安寺沢の川沿いを行く (撮影 2012. 3.26)
対岸にも道が通じる
川の流れがとても近い
 

安寺沢川を右岸に渡る (撮影 2012. 3.26)
小さな安寺沢橋が架かる
 右手の斜面奥に熊野神社を見た先、道は始めて安寺沢川の右岸に渡る(左の写真)。川に架かるは小さな安寺沢橋で、苔むしたコンクリートの欄干が古さを感じさせる。昭和37年11月竣功とある。残念ながら私の方が先輩であった。
 
 ここの土地には安寺沢川があり、安寺沢集落があり、安寺沢橋があるが、この「安寺沢」はこれまで「あらさわ」とばかり読んでいた。そのきっかけはもうまるっきり覚えていないが、手持ちの古い道路地図にはそのようにルビを振っておいてあった。ところが今回、文献などを調べてみても、ほとんど「あてらさわ」か、または「あてらざわ」であった。地元の人は実際、どのように発音しているのだろうか。
 
 春の日差しに穏やかな安寺沢川の谷間は、僅かに人家が点在し、斜面を切開いて耕した畑が広がる。のどかな雰囲気でいっぱいだ。
 
 移転地探しでいろいろと土地を見てきたが、なかなかこのような場所に売り物件は出てこない。折角山梨まで移るのだから、静かで自然に溢れていて、日当たり良好で、借景があってと、夢のような田舎暮らしを思い描くのだが、そんなうまい話は簡単には見付からないのだった。それに、いざ家を建てるとなると、電気や通信、上下水道などのインフラが心配で、あまり辺ぴな土地だと生活が不便そうである。結局、住宅地の中のありふれた分譲地のような所ばかりが移転先の候補となった。こうしてのどかな安寺沢の集落を眺めていると、そんな所に家を建てるのが、味気なく思えてしょうがないのだった。

斜面に切開かれた畑 (撮影 2012. 3.26)
周囲にはのどかな雰囲気が広がる
 
 
安寺沢集落の中心以降
 
 安寺沢集落の領域に入ってからもかなり進んだと思ったが、また一段と人家が密集した箇所に差し掛かった。それまで沿道にポツポツと見られた人家が、そこでは道の両側に並んでいる。ここが安寺沢の中心地だろうか。しかし、商店などがある訳ではなく、消防団の倉庫がある程度である。
 

人家の一群に近付いた (撮影 2012. 3.26)
集落の中心地だろうか

人家の間を進む (撮影 2012. 3.26)
 

安寺沢川の左岸に渡り返す (撮影 2012. 3.26)
 中心地らしき人家の一群を過ぎ、道は安寺沢川の左岸に渡り返す。川とは反対の右手の山際、擁壁の上に「安寺沢農村公園」なる小さな施設がある。ベンチなどが設けられているようだが、車道からその様子は詳しくは分らない。他には石の供養塔らしき物が立っている。人家は数軒。
 
 古い登山・ハイキング用の地図(陣馬・高尾 日地出版 1982年版)をちらちら眺めていると、安寺沢の集落内に「文」の文字があるのを見付けた。学校があることを示している。それが丁度、安寺沢農村公園がある辺りだ。もしかしたら、かつてそこに小学校の分校でもあったのではないか。集落の中心地に入る手前にスクールバスの回転所を見掛けたが、今はそこから主要地方道35号の方まで通学しているのだろうか。
 
 落合橋という小さな橋でまた右岸に渡る(右の写真)。「落合」という名の通り、その橋の直ぐ上流側で安寺沢川の支流が流れ込んでいる。金波美川(かなはみ、金波見川とも)と呼ぶのだと思う。
 
 人家は相変らずポツンポツンと点在する。右手の安寺沢川に橋が架かり、対岸にも人家が立っている。その付近から金波美川の上流部に達し、阿夫利山と巌道峠の間を金波美峠で越え、神野方面(主要地方道35号の沿線)に通じる山道があるらしい。
 
 安寺沢川の谷は益々狭まり、道の勾配もやや増してくる。既に安寺沢集落の中心部も過ぎ、いよいよ寂しくなる。
 

落合橋でまた右岸に渡る (撮影 2012. 3.26)
 

落合橋以降 (撮影 2012. 3.26)
対岸にも人家が立つ
この付近より金波美峠への山道があるらしい

落合橋以降 (撮影 2012. 3.26)
谷は狭まり、道の勾配も幾分急になった
右手に安寺沢川の細い流れを見る
 
沿道の様子 (撮影 2011. 4. 2)
左手に人家
 
 
金波美峠への車道分岐
 
 間もなく右手の安寺沢川を渡る車道の分岐があり、そこに立つ看板には、分岐方向に「阿夫利山・金波美峠」とある。古い道路地図ではこの車道が記されていないが、新しく開削された金波美林道が金波美トンネルを抜け、最終的に主要地方道35号へと車で行けるようだ。前掲の「あきやま観光案内図」によると、古い金波美峠は金波美トンネルよりやや北の阿夫利山に近い所を越えているらしい。
 

右手に金波美峠への分岐 (撮影 2012. 3.26)
金波美トンネルが開通し、車で通り抜けできるようになった

分岐に立つ看板 (撮影 2011. 4. 2)
    厳道峠  富岡バス停・秋山温泉
阿夫利山・金波美峠
 
 金波美トンネルへの分岐を過ぎると、また小さな橋で左岸に戻る。橋の直ぐ先で、1軒の人家が立つ(右の写真)。高い擁壁の上にあり、なかなか眺めが良さそうだ。都会の密集する団地の住宅と違い、孤立無縁でどこか堂々とした感じがある。本当はこういうのが希望なのだが。
 
 その人家を過ぎると、道はぐんと寂しくなり、人家はぱったり途切れる。谷は益々狭まり、畑などを耕作する平地もほとんどないくらいだ。さすがにもうこの先、人家はないだろうと思っていると、右手に現れた(右下の写真)。安寺沢の集落内に入ってから、もう随分来ている。安寺沢川に沿って2Km程か。奥まった地である。

小さな橋で左岸に (撮影 2012. 3.26)
高台に人家が立つ
 

暫く寂しい道となる (撮影 2012. 3.26)

最後の集落 (撮影 2012. 3.26)
 
 
安寺沢林道の起点
 
 秋山村側最終の人家を過ぎると、その直ぐ先で林道看板が出てきた。左手に立つ青色の看板は、表題に「林道 安寺沢線 秋山村」と書かれているのが辛うじて分る程度で、後はほとんど文字はかすれている。
 

安寺沢林道の起点 (撮影 2012. 3.26)
左には沢へ下る道

左手に立つ青い林道看板 (撮影 2012. 3.26)
ほとんど読めない
 
 右手に立つ白い看板は、昭和六十三年四月一日の日付もはっきりしている。
 
 古いツーリングマップ(関東 2輪車 1989年1月発行 昭文社)には、巌道峠の文字はないものの、この林道の記載があり、名前は「久保秋山安寺沢林道」とあった。「久保」は道志村側の峠道の起点であり、峠を挟んだ全線を指していることが明確である。現在は単純に「安寺沢林道」であるが、やはり秋山村安寺沢から道志村久保までの区間を指しているものと思う。
 
右手に立つ白い林道看板 (撮影 2011. 4. 2)
 
 
安寺沢林道を行く
 
 林道起点を過ぎ、道は尚も川沿いを進む。いよいよ安寺沢川を詰めると、そこより右方向にヘアピンでUターンし、右手の斜面を登り始める。その曲がり角に記念碑が建っている。林道の開通記念碑かと思ったら、この付近の植林に関した記念碑らしい。
 

安寺沢川を詰める (撮影 2012. 3.26)

記念碑を回って本格的な登りとなる (撮影 2012. 3.26)
 

記念碑で折り返し、本格的な登り (撮影 2012. 3.26)
 その石碑を折り返し地点のようにして、道は180度方向転換し、本格的な登りを開始する(左の写真)。でも数100mも進むとまたヘアピンで反転、元の安寺沢川の源頭部、巌道峠方向に向き直り、更に登って行く。
 
 記念碑から峠までの大きく蛇行するこの道は、明らかに車道として後に開削された峠道だ。古くからの道は、記念碑付近から尚も安寺沢川上流の沢沿いを進み、峠へと至っていたようである。1982年(昭和57年)発行の登山関係の本(東京付近の山 ブルーガイド編集)に、巌道峠を秋山村へ下ると、沢を渡って立派な林道に出たとある。記念碑辺りに出たのではないだろうか。この頃にはまだ峠まで林道が通じていなかったことが窺える。
 
 車道の峠道を進むとだんだん空が開け、安寺沢川の谷を挟んで道志村との境を成す峰を目の高さに望む。林が途切れる所では谷を広く見渡せるようになる。沢沿いの昔の峠道では、この眺めはなかったことだろう。
 

対岸に道志村との境の峰を望む (撮影 2012. 3.26)

空が開ける (撮影 2012. 3.26)
 
 
県営の安寺沢林道へ
 
 また少し山がちになったと思うと、幾つかの看板が出てきた。一番手前に通行規制の看板が立ち、時間降雨量10mm、連続降雨量50mm、及び冬期間は通行止とある。
 
 その次の黄色い看板は、また林道安寺沢線の看板で、ここから先は山梨県が管理する林道だと記されている。右側の青い林道看板には、「山梨県林務事務所」とあった。
 

通行規制と林道看板 (撮影 2012. 3.26)

林道看板 (撮影 2012. 3.26)
 
 その看板群を過ぎると、安寺沢川の一つの支流の源頭部を回り込み、道は南へと90度方向を転じる。その付近は暗く狭い谷間で、3月下旬に訪れた時は路肩の処々にまだ雪が見られた。乗って来たパジェロミニにはまだスタッドレスタイヤを付けており、これは季節外れにスタッドレスが活躍する場もあるかと期待したら、結局路面上の積雪は皆無だった。
 
 文献には巌道峠を「道志村久保と秋山村安寺沢・神野を結ぶ」道と記されている。金波美峠を越えた先が神野であるが、安寺沢集落付近から越える前述の峠道を指しているのではないと思う。厳道峠から直接この支流の源頭部を通り、神野に抜ける山道があったようで、そのことではないか。現在の金波美トンネルが通じる付近より、更に南の経路とある。上野原市街方面まで行くのなら安寺沢経由が順当だが、旧秋山村の村役場方面に出るなら、その道の方が近い。
 

支流の源頭部を回り込む (撮影 2012. 3.26)
この奥から神野へ通じる道があったのではないか

路肩に雪 (撮影 2012. 3.26)
 
 
景色が広がる
 
 いよいよ安寺沢川本流の谷の源頭部へと進み、林道は丁度谷間の正面を横切る形になる。すると、左手に北東方向に長く伸びた谷間が大きく広がった(下の写真)。なかなかの景観だ。20年以上も前にこの巌道峠を越えた筈だが、こんな素晴らしい景色だったとは、全く記憶にない。あるのは、ただただ恐ろしく急な坂道だったという印象だけである。
 
安寺沢川の谷を望む (撮影 2012. 3.26)
 
上の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2011. 4. 2)
前年に撮影
 
 巌道峠は、県境などの大きな峰を越える壮大な峠などとは違い、山梨県内の旧秋山村と道志村との単なる村境に位置していた(現在は市村境)。地図上から見ても、それ程心惹かれる峠道には思えない。それが、これだけ壮観な景色が眺められるとなると、改めて見直してしまう。
 
 足元の方に目をやると、山肌を縫ってここまで登って来た道筋が見下ろせた。その坂道の末に待っていたこの景色が、秋山村側最大のセールスポイントである。
 
登って来た峠道を見下ろす (撮影 2012. 3.26)
 
 峠まで残り500m程で景色が広がり、その後、またやや林の中に入る。峠に向かって谷がやや折れ曲がっているのだ。
 

林の中、峠を目指す (撮影 2012. 3.26)

峠は近い (撮影 2012. 3.26)
前方に見える鉄塔の左下が峠
 
 峠の直前でまた少し谷が見渡せる。峠に向かって送電線が延びて来ている。
 
峠の直前で送電線方向に少し遠望がある (撮影 2012. 3.26)
 
 
峠に到着
 
巌道峠の上野原市側 (撮影 2012. 3.26)
この先が峠の切り通し
その手前左にちょっとした広場
停められた車の陰に開通記念碑などが立つ
この付近から眺める巌道峠が最も峠らしく見える
 
 上野原市(旧秋山村)側から巌道峠に登って来ると、峠の手前、左側にちょっとした広場があり、その先は狭い切り通しとなっている。その様子は如何にもここが峠だといった雰囲気があり、なかなか味わいがある。
 
 20年以上前にもここを通過した筈だが、そもそもそこが峠だったという記憶がない。まだ、今ほど峠にこだわりを持っていなかった頃ではあるが、こんな峠らしい峠を覚えていないのが不思議なくらいだ。まあ、道志村に抜けられる道かどうかも知らずにやって来て、うまく抜けられそうだと分ったことの方が嬉しかったのだろう。同行の妻も、この巌道峠を峠らしい峠だと言っている。あちこちの峠に引っ張り回され、最近は峠についても分かるようになったらしい。
 
巌道峠の切り通し (撮影 2012. 3.26)
手前が上野原市、奥が道志村
この先で右側のコンクリート擁壁が途切れる辺りにゲート箇所がある
そこが厳密な意味での峠か?
 
 切り通しは両側を高いコンクリート壁で挟まれ、そこを過ぎた所にゲート箇所がある。側らからは監視カメラが覗いている。ゲート箇所から先は少し左に道が屈曲し、道志村への下り坂になる。
 
 そのゲート箇所こそが現在の正確な意味での巌道峠なのだろうが、その様子は眺めてみてもあまり面白くない。監視カメラがこちらを窺っているせいかもしれない。やはり、上野原市側の広場手前から切り通しを眺めた方が、ずっと峠らしく見える。
 
 前掲の本「東京付近の山」には、巌道峠のことを「北の秋山村安寺沢から、南の道志村久保へと乗越す、いかにも峠らしい道だ」と記している。当然ながら、まだ車道が通じる前の巌道峠のことで、現在の峠からはその往時の様子をうかがい知ることはできない。しかし、この同じ道志山塊を越える峠として、その片鱗なりとも残されているのではないかと思う。

峠のゲート箇所 (撮影 2012. 3.26)
 

峠より上野原市方向を見る (撮影 2012. 3.26)
この写真では分り難いが、左端の擁壁に境界石らしき物がある

峠の上野原市側 (撮影 2011. 4. 2)
右手に広場
 

境界石? (撮影 2012. 3.26)
ゲート箇所より数m上野原市側にある
 峠の上野原市側は道の両側を擁壁に挟まれているが、ふと見ると、その擁壁の途中を繰り抜いて境界石のような赤い石柱が立てられてあった。ゲート箇所より少し手前である。何か文字のような物が刻まれているように見えるが、判然としない。
 
 もしかするとそこが上野原市と道志村の境、すなわち厳密な意味での峠なのかもしれない。車道開削により峰の鞍部が深く真っ直ぐに切り下げられたので、境界は分り難くなっているのだ。まあ、あまり細かいことは気にせず、現在の巌道峠は、上野原市側から少し身を引いて眺めるのが一番良い。
 
 
開通記念碑など
 
 上野原市側の方が峠らく見えるのは、切り通し手前にある広場に開通記念碑などが立っているのも一つの理由だ。石碑は大きく2種あり、右の大きい方は「巌道峠開通記念碑」で、左のやや小さい方は「巌道峠拾遺之碑」(しゅういのひ)である。
 

上野原市側に立つ開通記念碑など (撮影 2012. 3.26)

石碑 (撮影 2012. 3.26)
左が巌道峠拾遺之碑、右が巌道峠開通記念碑
間に白く小さな石像
 
 開通記念碑は昭和63年(1988年)6月の建立で、安寺沢林道の林道看板にあった日付とほぼ同じだ。この年に巌道峠に車道が開通したと考えてよさそうだ。昭和57年出版の「東京付近の山」には、峠を「南へ向かえば林道がすぐ近くまでのびており」と記してあり、道志村久保側で林道工事が進んでいる最中であることをうかがわせる。
 
 碑文は道の延長を、道志村側で2,180m、秋山村側で3,022mとしている。ほぼ峠から国道413号までの距離と、峠から上野原市側にある林道看板までの距離に相当する。参考まで、碑文を下記に書き写す。
 
 巌道峠開通記念碑
 
 道志、秋山二村は古代この周辺が、相模郷に比定された時代から、隣村として世に知ら
れ、この峠についても、甲斐国志に、「強盗坂、秋山ヨリ道志村久保ニ越エル坂道ナリ
 アテラ沢ヨリ久保マデ一里余」と記され、両村の経済、文化の交流と通婚も行われて重
要な道路であった。近年経済の高度成長にともない車社会が到来し、険阻な山岳に妨げら
れて交通が途絶、往来するためには遠く、都留市、又は藤野町を迂回する外なく、車道の
開通は両村民多年の悲願であった。両村当局地元民は鋭意努力を重ね、遂に両村を結ぶ
巌道峠の開削工事を完成した。この路線は道志村においては、村道久保 秋山線の改良事業
として昭和四十六年度起工し、十七年の歳月をかけて、巾員三乃至四米、延長二、一八〇
米、工費八千三百万円を投じて完成し、秋山村では、林道開設事業として昭和四十四年に
着工、延長三、〇二二米、巾員三米、工費三億一千三百万円を投入して完成し、ともに車
輌運行が可能となった。この道路の開通によって両村の行政連絡、村民の往来、林業の振
興等、政治、経済、文化の進展に計り知れない広域的利用効果が期待される。
 開通にあたり今後の友好と繁栄を祈念し その象徴として、秋山川の赤石を台座とし、
道志川の青石を柱として記念碑を建立し、後世に伝える。

 昭和六十三年六月二十八日

 
 拾遺之碑は平成2年(1990年)6月の日付で、碑文に「開通して二年」とあることからも、やはり開通は1988年となる。建立は開通記念碑より新しいが、碑文の傷みは酷く、読みづらい。一応、下記に碑文を書き写すが、不明確な部分が残った。
 
 巌道峠拾遺之碑
 
 巌道峠に車道が開通して二年、しばらく漸く交通が頻繁になった。遠く都留市、藤野町を迂回し
ていた秋山・道志両村の車輌交通は直接の往来が可能となり、両村の政治、経済、文化の
?交流に?期以上の効果をもたらした。春の新緑、秋の紅葉を訪ねてこの峠を?越える人?
く、村の観光にも大きく寄与している。
 この車道の開通を念願して多年努力して来た本村地域の住民、地権者、道路?員、為政
者として之を企画推進した、秋山村原田清守・森屋竹寅両村長、歴代議会議員の功績を称
えるものである。
 (中略)
 時恰も二十一世紀の運輸の時代を拓くリニアモーターカーの新実験線の建設も境川村始
点に秋山村終点で決定をされ、更に村の画期的発展が期待されるところである。 今日ま
での村の伸展に寄与されてこられた先達に満腔の謝意を表し本拾遺之碑を建立する。
 平成二年六月吉日
             秋山村
 
 注:「?」の部分は判読不能。
 
 
登山道など
 
 峠からは、記念碑の前を通って東の稜線方向に、「入道丸・綱子峠」と看板が示す山道が続いている。一方、西の稜線方向には、車道から階段を幾段か登って山道が始まっている。その方向には「赤鞍ヶ岳」と小さな看板がある。
 
 巌道峠に車道が通じたのは比較的最近のことで、またなかなか険しい林道ということもあってか、新しい道路地図にもこの巌道峠の道が掲載されていないことがある。しかし、登山・ハイキング関係のガイドブックや地図には、以前から間違いなくこの巌道峠が登場する。道志村と旧秋山村の境を成す道志山塊の山稜は、すばらしい展望台となるのだそうだ。その登山コース途中に巌道峠が位置する。峠の少し上野原市側に下った車道からも、なかなかの景色が望め、そのすばらしさの一端をのぞかせている。
 
 山歩きで巌道峠を経由して帰る場合、道志村の久保に下る方が早いのだが、バスの便が悪いので、秋山村側に下ることが勧められていたりする。昔は沢沿いを一気に下る山道があったのだろうが、今はそれらしき道筋が見当たらない。現在は安寺沢林道を歩いて下ることになるのだろうが、あの大きく蛇行する道では、うんざりすることだろう。安寺沢林道が開通し、最近ではその近くに金波美林道も通じて、車の通行は便利になったが、その陰で昔からの峠道や登山道が消えて行くのでは、ちょっと寂しい気がする。

峠より東方へ向かう道 (撮影 2012. 3.26)
看板には下記のようにある
東の稜線方向へ:入道丸・綱子峠
北の上野原市方向へ:阿夫利山コース、秋山温泉
 
 碑文にも記されていたが、文献によると「『国志』には当峠を通る坂を『強盗坂』とし、『秋山村ヨリ道志村ノ久保ニ越ユル坂道ナリ』、『豊岡ヨリ南アテラ沢マデ三十町、アテラ沢ヨリ久保マデ一里余』」とあるそうだ。この場合の「国志」は、ここが山梨県であるから「甲斐国志」である。国志は江戸時代に編さんされた地誌であるから、巌道峠は少なくとも数100年前から使われていた峠となる。元々は「強盗(がんだう)坂」と呼ばれていたことも分る。
 
 貴重な歴史資料である国志など、個人ではなかなか拝見できない代物だと思っていたら、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで、明治に発行された物だが、甲斐国志が容易に閲覧できた。そこで「甲斐国志 巻之三十六 山川部第十六中」に〔強盗坂〕(がんだう)の項を見付けた。その付近には「強盗峠」の文字も何箇所かで散見される。
 
 全く便利な世の中になったものだ。しかし、国志など見始めたら、これはもう幾ら時間があっても足りない。江戸時代の距離の単位「町」は約109mだから、30町は約3.3Kmで、豊岡から安寺沢までその距離があることになる、などと調べ始めると、果てしがない。でも、秋山村、豊岡、アテラ(安寺)沢、道志村、久保といった現在も使われる地名がそのまま出てくるのには、親近感が湧く。これからも時々「国志」を覗いてみようかと誘惑される。
 
 巌道峠がそれなりに古い歴史を持つ道であるとはいえ、甲州街道や道志道などの大きな幹線となる街道とは異なる。やはり秋山・道志、隣り合う二村の間を結ぶ小規模な生活路的な色彩が濃いと思う。
 
 近年、峠に車道が通じて往来が容易になったが、それでもまだちょっと険しい林道である。あまり交通量は多くなさそうだ。他方で道志村を通る国道413号は益々改修が進み、秋山村側も上野原市街との交通路が充実して来ている。両村を結ぶ道があのか細い巌道峠では、やや心細い気がする。最近、秋山村は上野原町と合併して上野原市になってしまった。一方、噂では道志村は横浜市と合併したかったらしい。何だか両村の距離が、少し遠くなったような気がする。
 
 今の巌道峠は、道志山塊のハイキングなどに便利な峠である。車を記念碑前の広場に停め、眺望の良い主稜線へと容易にアクセスできる。
 
 
峠の道志村側
 

道志村側から峠を見る (撮影 2012. 3.26)
 峠を越えて道志村側に進むと、西側の一部がコンクリートの擁壁に代わって林になるが、狭い切り通しは暫く続く。その先、視界がパッと広がり、道が二手に分かれる。その分岐から峠方向を見ると、道が屈曲していてゲート箇所までは見通せず、あまり峠らしい味わいもない(下の写真)。
 
 代わりに道の分岐点付近からは遠望がある。下に流れる道志川の対岸に連なる山々を見渡す。斜面の一部には大きな集落が形成されていた。大室指(おおむろざす)の集落かと思う。道志川の上流方向に目をやれば、何と遠くに富士を望む。
 
 丁度、この巌道峠を掲載しようかと思っていた時、ホームページをご覧頂いた方から1通の電子メールを頂いた。偶然にも巌道峠に関してだった。「元共産党の委員長だった不破哲三さんは、毎年家族や友人と正月に此処に行くと著書に書いて居りました」と紹介して下さった。多分、ここからの富士を眺めたのだろう。道志川の谷は細長く、その先にある富士が望めるとは、ちょっと気付かない。峠と富士が丁度良い位置関係にあるのだろう。
 

峠を道志村側に抜けた所 (撮影 2012. 3.26)
道が左右に分かれる

分岐より峠方向を見る (撮影 2012. 3.26)
あまり峠としての味わいはない
 

道志川対岸に集落を望む (撮影 2012. 3.26)
大室指の集落?

遠く富士を望む (撮影 2012. 3.26)
残念ながら頂上付近に雲が掛かる
 
 
二つの道
 
 さて、20年以上の歳月を過ぎ、久しぶりに去年(2011年)訪れた時、二手に分かれる道に困惑した。昔は一本道であったのだ。左の道の方が走り易いので、ついそちらを下ってしまったが、実はそちらは新しく開削された林道であった。今年になってもう一度峠を訪れ、それが野原林道であることを確認した。分岐点に林道標柱があり、「野原林道終点 巾員三.0米 延長三、五九九米」とある。その林道標柱は一見、右に下る道を指しているように見える位置に立っているが、左の道を下った麓に野原林道の林道標柱が立っているのだ。
 
 右の道は古くからの峠道で、道志村の久保で国道413号に出る。道の名前ははっきりしないが、安寺沢林道の続きである。少し古い道路地図には、こちらの道筋が記されている。
 
 一方、野原林道とみられる道は、アスファルト路面で白線の色もまだ鮮やかだ。道志村の野原集落の近くで国道413号に通じる。

野原林道終点の木柱 (撮影 2012. 3.26)
 

左の道 (撮影 2012. 3.26)
こちらは野原林道

右の道 (撮影 2012. 3.26)
こちらが本来の峠道
ガードレールの端に野原林道の標柱が立つが
野原林道は左の道
 
 分岐点直後の本線の峠道はみすぼらしいコンクリート舗装であるが、それより何より凄い急坂である。20年以上前にバイクでやって来た時、この坂の前で足がすくんだものと思う。道が最後まで通じているか分らず、もし途中で道が行き止まったら、急坂でバイクを反転させるのは至難の業だ。暫し迷った末、意を決してバイクで下った覚えがある。
 
 巌道峠に新しく車道を開削した時、この峠直下の急坂が、一番の難所だったのではないだろうか。元々歩いて越えていた峠道に、ほぼ同じルートで車道を通そうとした訳である。その結果がこの急坂となったのではないかと思う。
 
 その後に開削された野原林道は、本線の急坂を回避する為に計画されたのではないだろうか。それぞれの道が国道413号に出る地点は1Kmと離れていない。また、野原林道途中には人家も見当たらない。わがわざ2本の道を設ける必要が、他に見当たらないのであった。

急坂の様子 (撮影 2012. 3.26)
左が峠へ、右に下るは野原林道
 

急坂の様子 (撮影 2012. 3.26)

急坂の様子 (撮影 2012. 3.26)
 
 
峠道本線で久保に下る
 
 去年、誤って野原林道を下ってしまったので、今年は本線の峠道を走る為にとわざわざ巌道峠にやって来た。峠道と林道の運転は妻が行うルールになっているので、この安寺沢林道も妻がずっとハンドルを握る。彼女は日本全国、いろいろな林道を走りこなしてきているので、分岐直後の急坂も何とも思わず車を進める。
 
 まあ、車ならゆっくり、時には立ち止まって安全を確認しながら徐々に進めばよいが、バイクだとそうはいかない。2輪のバイクは動いていてこそ安定が保てる乗り物だから、下手に止まる訳にはいかないのだ。仮に止まったとしても、バックできる訳ではない。立ちゴケの危険もある。また、コンクリート路面に砂利でも浮いていればズルリと滑る。松姫峠で転倒し、痛い目に遭った苦い経験を思い出す。
 

ヘアピンカーブの様子 (撮影 2012. 3.26)

対岸の山を望む (撮影 2012. 3.26)
大室山か?
 
 久保に通じる旧峠道は、急坂と小刻みなカーブで一気に下る。分岐直後の坂が一番急で、それ以後は普通の急坂である。道は所々荒れている。上野原市側は良く整備された林道だったが、こちら側は地形が急峻なこともあり、法面の土砂が崩れて路上に流れ込んでいる箇所が時折見られた。野原林道が開通し、こちらの旧道はなおざりにされているのかとも危惧したが、実は野原林道も同じような状態なのであった。
 

荒れた道 (撮影 2012. 3.26)

荒れた道 (撮影 2012. 3.26)
ガードレースが少ない
 
道の様子 (撮影 2012. 3.26)
峠方向に見る
 
道の様子 (撮影 2012. 3.26)
崩れ易い法面が続く
 

道の様子 (撮影 2012. 3.26)
 道は急峻な谷を真っ逆さまに下って行く感じだ。峠からの下り始めにこそ暫くガードレールがあったが、途中からは全く施設されていない。谷側の路肩に僅かに盛上った縁石が続くが、車止めの役には立ちそうもない。路面は終始、荒れたコンクリート舗装である。林道開削当時のものがそんままなのだろう。積もった落ち葉や法面から崩れてきた土砂で、バイクだと如何にも滑りやすそうである。3月下旬はまだ冬枯れで、葉の落ちた梢の間からは山々が覗き、全般的に明るい感じはする。
 
 
ゲート箇所
 
 道志川の支流の谷沿いを真南に下りだした頃、ゲート箇所が現れた(右の写真)。冬期はここで通行止にするのだろう。ゲート箇所を過ぎて尚も九十九折りが続き、その後屋根が見えてきた。人家かとも思ったが、母屋は大きな門と白壁に囲まれたなかなか立派な屋敷である(左下の写真)。普通の人家には見えず、林に囲まれた閑居の趣だ。お寺だったかもしれない。
 
 また暫く沿道に家屋は見られなくなり、林に囲まれたやや暗い道が続く。少し樹林が途切れた所に出ると、側らに注意看板が立っていた(右下の写真)。一つは道志村による道路に関するもので、同じような看板が峠のゲート箇所にも立っていた。曰く、ここより峠まで道幅が狭い、全線が急な上り坂、急カーブが多い、落石・崩土が多い、などなど。正しく嘘偽りがない。もう一つの看板は山火事注意で、「ここは横浜市の水源です!」とある。これが道志村が横浜市と合併しようとした根拠だとか何とか。

ゲート箇所を過ぎる (撮影 2012. 3.26)
 

大きな屋敷が現れる (撮影 2012. 3.26)

道路の注意看板など (撮影 2012. 3.26)
右の看板には「ここは横浜市の水源です!」とある
 
 注意看板を過ぎると、灯篭が並ぶ立派な参道を持つ寺が現れた。参道入口の石塔に圓福寺とある。「曹洞宗 上田山」とも刻まれている。道志村指定文化財の圓福寺阿弥陀三尊が祀られているらしい。本堂を石垣の上の高台に構える。道志山塊の峰を背後に、荘厳な佇まいだ。
 
圓福寺の参道入口 (撮影 2012. 3.26)
左脇の道が峠へ続く
 

圓福寺下の広場 (撮影 2012. 3.26)
 寺の表参道の入口前を過ぎると、その直ぐ下にちょっとした広場が道に面してあった。参詣の車を停める駐車場のようである。休憩に立寄った。ポットに入れてきたお湯で、インスタントコーヒーなどすする。家の宗旨も同じ曹洞宗なので、お参りしようかと思ったが、どうも境内の様子が分らないので、ボンヤリ周辺を散策するにとどめた。すると、東側にそそり立つ斜面で物音がする。目を凝らして見ると、急斜面の林の中にシカが数頭佇んでいた。こちらの様子をじっと窺っているらしい。暫くして一声高く鳴くと、山の中に消えて行った。
 
 圓福寺を過ぎると、人家らしき建物がポツポツ見られるようになる。その庭先を急なコンクリート路面の道がせわしく屈曲しながら下って行く。もう、国道413号は近い。
 
 
国道413号に出る
 
 国道に出る直前、右に古い橋が架かり道志川の支流を渡っている。何と呼ぶ川か分らないが、これが巌道峠の南から流れ下り道志川に注いでいる。またその古い橋は、多分昔の道志みちではなかったかと想像する。
 
 現在の国道はひたすら真っ直ぐな道になっているが、昔は細い道が道志川の流れに沿って細かく蛇行していたことだろう。道志川の小さな支流を渡るにも、その川の谷間に少し入り込んで、小さな橋で渡っていたと思う。巌道峠を久保に下って来ると、まず道志みちの旧道に接続しているのではないだろうか。

国道に出る少し手前 (撮影 2012. 3.26)
右に支流を渡る古い橋
弧を描くこの道が昔の道志みちでは?
 

国道に出た所 (撮影 2012. 3.26)
 古い橋は渡らず、そのままやや暗い川沿いを行くと、少し坂を上がってパッと明るい国道413号に出る。今しもオンロードバイクが颯爽と走り去って行った。この道志みちはバイクの往来が目立つ。私も何度となく走った経験がある。
 
 始めてバイクで巌道峠を下り、ひょっこり国道に出た時は、安堵したと同時にちょっとした達成感があった。また一つ面白い道を見付けたという思いがあったのだ。快適な国道を往来する車やバイクを横目に、こちらは険しい道を通って山の中から抜け出て来た身。他の人とはちょっと違うぞと、そんな気負いもあった。
 
 それにしても明るく開けた国道は、それまでの山の中の峠道とは別世界である。国道を漫然と走ってるだけでは、ここで険しい峠道が分岐していることなど全く気付きもしない。
 
 国道に出ると、そこにはセンターラインもある二車線路の久保橋が架かっている。竣功は昭和59年(1984年)3月とあった。そんなに昔のことではない。それまでは、あの奥にある古い橋が使われていたのだろうか。
 
 巌道峠の峠道が出た所は久保の集落で、富士急のバス停・久保があり、国道沿いにも家屋が並び、少し賑やかな場所となっている。道志川の方にキャンプ場や何かの体験館があるらしく、その案内看板が立つ。
 

国道を西(山中湖方面)に見る (撮影 2012. 3.26)
久保橋が架かる
沿道には久保の集落
右手に入る道が峠方向
 

峠道の入口にある看板 (撮影 2012. 3.26)
 国道からの峠道入口には、一応「巌道峠入口(至秋山村)」と看板が出ていた。他には圓福寺の墓地分譲の看板などが立つ。以前はこのように峠道を示す看板など見なかったように思う。とにかく、寂しい分岐だという記憶があるばかりだ。
 
 バイクで越えられたのに味をしめ、その後1、2度巌道峠を訪れているが、どれも秋山村側から越えている。道志みち側からだと、この分岐が見付け難そうに思えたからだ。
 
 その内、遠くへ旅することが多くなり、近場の巌道峠の道も記憶から消えて行った。珍しく道志みちを走った折など、この道のどこかにあの山の中を越える道があった筈だと、ふと懐かしい思いが込み上げるが、それがどこだか分らず、また記憶が遠ざかって行った。
 
 国道に架かる久保橋の西の袂からも、川沿いに道が分岐する(下の写真)。こちらの入口には何の案内看板もない。これが古い道志みちだろうかと想像するばかりだ。
 
 写真を撮っていると、川の奥の方にある人家より一人の中年の女性が歩いて出て来た。こちらに気付き「こんにちは」と声を掛けてきた。こちらも挨拶を返す。久保の集落に長年住んでいる家の方だろうか。巌道峠の道の直ぐ脇に住居を構えていることになる。秋山村とは通婚の歴史もあったと、開通記念碑の碑文にはある。そんな昔のことをご存知かもしれないが、声を掛けそびれてしまった。その女性は国道を横切り、道志川方向に下って行った。
 

国道を東(津久井湖方面)に見る (撮影 2012. 3.26)
久保橋の手前と奥で峠への道が分岐

峠に続くもう一つの入口 (撮影 2012. 3.26)
 
 
峠より野原林道を下る
 
 去年来た時は野原林道を下った。道の延長は3,599mと林道標柱に記されており、久保に下る旧道の約2Kmより長い。その分、勾配が緩く道の開削できているのだと思う。野原林道はアスファルト路面は新しいが、峠から下りだすと間もなく路上には落石ばかりである。やはり険しい地形には変わりないようだ。山側の斜面にはコンクリートによる法面工事が頻繁に施されている。道の屈曲もなかなかに厳(きび)しい。
 
 沿道は終始開けており、暗い林の中に入るようなことはなく、道志川の谷間を右や左に見て、飽きることはない。しかし、どこか殺風景で味気ない気もする。
 
 考えてみると、野原林道は道沿いに人家などが皆無なのだ。一方、久保に下る道は、やはり昔からの峠道ということもあって、途中に寺などがあり、ある程度下れば久保集落の人家も出てくる。道は狭く屈曲も多く凄い急坂ではあるが、どことなく人が通った道という歴史の古さを感じさせてくれる。

野原林道 (撮影 2011. 4. 2)
やや荒れている
 

道の様子 (撮影 2011. 4. 2)
大きく屈曲する道を見下ろす

道の様子 (撮影 2011. 4. 2)
路面に落石が多い
 
 野原林道は、車道を通すべく新規に開削された道という感じで、そのまま何もなく国道413号に出る。林道の名は近くの集落名・野原を取ってあるが、林道が出た所の周辺には人家などなく、全く寂しいものだ。国道に出る少し手前、右の路肩に林道看板が立ち、「林道野原線」と書かれている。日付は昭和63年4月1日。安寺沢林道の看板と同じ日付だ。
 
 巌道峠を最初に越えた筈の安寺沢林道は、昭和63年の開通だと考えられるが、道志村側の野原林道も同じ年に峠まで通じていたとは思えない。20年以上前に巌道峠を訪れた折、やはり道志村側の道は一つだったという気がするのだが。
 

林道野原線の看板 (撮影 2011. 4. 2)
国道への出口近くに立つ
(画像をクリックすると、看板の拡大画像が表示されます)

国道413号に出る (撮影 2011. 4. 2)
周囲に人家はなく、寂しい所
 
 出口の左手には、林道標識となるプレートが、擁壁に取り付けられていて、こちらは昭和58年度(1983年)とある。林道開削を開始した年度と思う。
 
 出口の右手には、ここにも監視カメラがこちらを窺っていて、嫌な感じだ。不法投棄が頻発したのだろうか。
 

林道プレート (撮影 2011. 4. 2)
出口左の擁壁にある
昭和58年度とある

林道の出口 (撮影 2011. 4. 2)
ここにも監視カメラ
 
 林道は道志川の支流沿いに下って来ているので、接続した国道にはここにも立派な橋が架かる。良く見ると、その支流沿いに別の古そうな道があった。これも道志みちの旧道だと思う。
 
 国道側から野原林道を眺めると、不法投棄禁止の看板や林道標柱などが僅かに立つだけで、この道が巌道峠へ通じることを示すものがない。久保から登る昔の峠道の方が険しいので、その代替の意味でもこの野原林道が峠まで接続したのかと思ったが、そういう積りもなさそうだ。久保の方にはしっかり峠への案内看板があるので、野原林道を知らない者は皆、あの急坂を登る羽目になるのである。
 

峠方向を見る (撮影 2011. 4. 2)
左端に林道標柱が立つ
(リアウィンドウ越に写したので、電熱線が横切る)

国道から野原林道を見る (撮影 2012. 3.26)
左の道は道志みちの旧道か?
 
 巌道峠の帰り、暫く振りに走った道志みちは、やはりバイクの往来が目立つ道であった。それに、国道412号との接続点である青山の交差点に辿り着く間も、多くの改修箇所が見受けられ、立派な道に生まれ変わろうとしていた。バイクで走り始めた頃の道志みちは、山伏峠を越えるまでの一部に未舗装箇所が残っていたと記憶する。全線が快適な二車線路になりつつある帰路の道志みちは、かえって遠い道程に思えたのだった。
 
  
 
 巌道峠を最初にバイクで越えた時は、秋山村側に広がる安寺沢川の谷間の景色や、峠から富士山が眺められることも気付かなかった。それが今回(去年と今年)、久しぶりに走ってみると、峠を越える安寺沢林道はなかなかの道である。眺めあり、険しさあり、味わいあり。ただただ見直してしまった。上野原市移住を成した暁には、また越えてみようと思う巌道峠であった。
 
  
 
<走行日>
・1990年前後に2、3回
・2011. 4. 2 上野原市→道志村 (パジェロミニにて)
・2012. 3.26 上野原市→道志村 (パジェロミニにて)
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 19 山梨県 平成8年 6月20日5版発行
                     (初版 昭和59年10月8日) 角川書店
・東京付近の山 ブルーガイド編集 昭和57年4月30日改訂第四版発行
・登山・ハイキングシリーズ 陣馬 高尾 日地出版 1982年版
・その他、一般の道路地図など
(本ウェブサイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒ 資料
 
<Copyright 蓑上誠一>
  
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