ホームページ★ 峠と旅
五輪峠
                 ごりんとうげ   (峠と旅 No.215)
  峠 にひっそり五輪塔が佇み、時雨が似合う峠道
  (初掲載 2013.10.23  最終峠走行 2012.11. 3)
   
  
   
五輪峠 (撮影 2012.11. 3)
手前は岩手県奥州市江刺区(旧江刺市)米里(よねさと)大谷地
奥は同県遠野市小友町(おともちょう)切伏
道は県道174号・小友米里線、古くは遠野街道、人首(ひとかべ)街道と呼ばれた
峠の標高は556m (文献や峠にある看板より)
正面左奥に下る歩道の先に五輪塔などが佇む
   
   
  「ゴリン トウゲ」。なかなかいい響きのある峠名だ。
 
 同じ名の峠は幾つかあるようだが、私が知るのは岩手県にある今回の五輪 峠だけである。それも漠然と岩手県のどこか、というだけで、はっきりした所在などは、つい最近まであまり意識することはなかった。
 
 この五輪峠を知ったのは、やはり宮沢賢治に関係してのことだったと思う。賢治の詩に五輪峠を詠んだものがあった。一時期、彼の作品を熱心に読んだことが ある。しかし、詩の方にはあまり鑑賞能力がないので、もっぱら童話ばかり読んでいた。それで、五輪峠の名は知ったものの、それ以上、峠自身には何の知識も 持たなかっ た
 

<余 談>
 五輪峠ではもう一つ、はっきりした記憶がある。随分昔のテレビ放送(NHK?)で、番組と番組の間の僅かな時間に、休憩タイムのように静かな曲と静止画 像のスライ ド映像が流れた。曲は歌のないインストルメンタルで、映像には五輪塔が映し出された。多分、その場所はこの五輪峠だったのだろう。もしかしたら、曲の題名 自体が「五輪峠」だっかもしれない。
 
 当時、VHSのビデオテープに録画して、何度も聞いた覚えがある。今でも頭の中にその曲が蘇って来る。何だかとても気に入った曲だった。リンリンと鳴る 涼やかな風鈴の音のような響きに、それでいて少し寂しげな調べである。五輪峠そのものはどのような峠か知らなかったが、「ゴリン トウゲ」という響きとそ の曲が合わさって、五輪峠に関する一つの印象として残ることとなった。
 

<更 に余 談>
 今年(2013年)、山梨に転居した折、妻に諭されてVHSテープの一部を廃棄してしまった。主に古いテレビ番組を撮り溜めたもので、2時間のVHS テープが10本まとめて買っても1万円をくだらないという頃からのテープが沢山あった。時代はデジタルで、HDDに録画する昨今である。もうVHSテープ など見ることはない。しかし、私には貴重品である。廃棄途中、さすがに思い留まり、200本ばかりはどうにか段ボール箱に納めて引っ 越しし、妻に邪魔物扱いされながらも部屋の片隅に積むに至ったのだった。
 
 その中に「五輪峠」が残っているかもしれない。しかし、ほとんどは3倍モードで録画したので、テープ1本で6時間にもなる。映画やドラマの間に紛れ込ん だ、僅か数分にも満たない「五輪峠」を見付け出すのは、容易なことではない。あの曲をまた是 非聴きたいと思うのだが、難しい話である。
  

<峠 の所在>
 五輪峠は、南北に連なる北上山地の南端の西側に位置し、全ては北上川水系に属す。峠の東側の遠野市小友町(おともちょう)から、西側の奥州市江刺区(旧 江刺市)米里(よねさと)の大 谷地(おおやち)へと越える、県道174号・小友米里線が、ほぼ五輪峠の峠道と言える。その県道は、小友町を南北に通る国道107号から分岐し、ほぼ西に 向かい、峠を 越 え、米里を南北に通る県道(主要地方道)27号に接続する。大雑把に10数Kmの道程である。北上山地の主稜を越える、例えば姥石峠(五輪峠の更に南に位 置し、奥州市と住田町の境)などの豪快さはなく、峠道としてはほんとに小さな存在だ。
 
<余談>
 新居の最寄(それでも片道7Km)の市立図書館には参考文献としている角川日本地名大辞典が蔵書としてなく、その図書がある最も近い図書館まで片道 25Kmの 距離となる。往復で50Kmの道程を車で走るのだ。それに比べれば五輪峠の10数Kmなんて何てことはない。それにしても、以前は歩いて5、6分の所にあ る 図書館で用が済んでいたものが、こんなところにも大きな環境の変化があった。図書館へ行くのが一大イベントとなる生活であった。
   
<峠 名の由来>
 文献には「大内沢屋敷上野が、葛西大崎一揆で戦没し、その子の日 向が父の菩提のために通路を開削し、寛永年間頂上に五輪石を建てたことから(江刺郡志)」(角川日本地名大辞典)とある。簡単に言えば、峠 に五輪石(塔)があるからだ。
 
<峠の魅力>
 峠は国指定の「イーハトーブの風景地」の一つ「五輪峠」に指定されていて、国土地理院の地形図にもそのことが 示されている。峠道自体は、車で走ってそう楽し める道ではないが、古くは戦の舞台となり、近年では賢治ゆかりの地ともなった。峠に佇む五輪塔をじっくり眺めるのもいい。個人的には、あのテレビ番組の曲 から受けるイメージと実物とを見比べる為にも、一度は訪れたい峠であった。
   

 

小友町側から峠を目指す
  

小友町の巌龍神社 (撮影 2012.11. 4)
背後に不動岩
<巌龍神社に寄り道>
 五輪峠を旅の目的の一つと決めたが、それだけで旅をすることはできない。何かその周辺で、立ち寄る所がないかと地図を探すが、北上山地中腹の山がちな地 形に、国道や県道が幾筋か走っているばかりで、何も目ぼしい物が見付からない。それでも小友町の国道107号の沿線、近くで五輪峠への県道174号が分か れる付近に、巌龍(がんりゅう)神社というのを見付けた。そこにある「不動岩」が「岩手三景」であるとツーリングマップルにある。
 
 旅で立ち寄る所は、いつもこのように適当に決まる。前もって決定していることは少ない。五輪峠も「行ければ」という程度のことで、場合によっては訪れて いなかったかもしれない。
   

  国道107号を南の荷沢峠の方から下って来て、巌龍神社が間近になった頃、時計を見るともう夕方の4時である。今日は北上駅近くにホテルを予約してある が、不慣れな土地なので、なるべく明るい内に宿に着きたい。この期に及んでさすがに五輪峠を外すことはできないので、巌龍神社はパスすることと急遽決定し てた。しかし、後になって何とも気になり、結局翌日のルート上に巌龍神社を入れて、無理やり訪れてしまった。
 
 神社の裏手にそびえる不動岩はちょっとした見物だが、神社やその周辺全体の静かな雰囲気がとても良かった。暫くその辺を散策して時間を過ごした。何の予 備知識もない巌龍神社ではあったが、旅の面白みは、こんなところにあるのだと改めて感じたのだった。
   


左に県道分岐 (撮影 2012.11. 3)
国道107号上を北方向に見る
<県道174号の入口>
 巌龍神社近くを過ぎると、県道174号が左に分岐することを示す道路看板が出て来た。行先は「江刺」とある。かつては「江刺市」を、現在は奥州市の「江 刺区」を 指すことになる。
 
 ここまで走って来た国道は、丁度夕方のラッシュ時間なのか車が混んでいて、5、6台の車列の一番最後にくっ付いて走っていた。目の前は背の高いトラック で、前方視界が狭かった。 生憎天気が悪く、夕刻も迫ってきたのか、どの車にも赤いテールライトが光っていた。
 
 車列は、県道分岐を横目に、尚も国道を真っ直ぐ進む。トラックの背を見送って、こちらは県道に入り込む。
  

 

県道174号を行く
  

<県道174号を進む>
 県道174号は、さっきの国道とさして変わりなく、センターラインもある広い道が暫く続く。ただ、他に走る車はなく、のんびりとした単独走行で、視界も 広い。
 
 道は猿ヶ石川の支流・小友川の右岸沿いを行く。これから五輪峠に登ろうとしているのだが、小友川を遡っている訳ではない。下流方向に進んでいるのだ。五 輪峠はこの地を東西に繋ぐ道の峠として切り開かれているが、地形は必ずしも単純ではなかった。

県道174号を行く (撮影 2012.11. 3)
   

  国道107号をそのまま走っていたら、低いながらも糠森峠という峠を越えないと、猿ヶ石川沿いには出られない。一方、この小友川沿いを進めば、峠越えなし に猿ヶ石川沿いに出る。しかし、その小友川沿いは地形が険しかったのか、県道174号も途中から小友川から離れて五輪峠へと登って行ってしまう。この付 近、河川が東西方向以外に南北方向にも入り込み、地形が複雑だ。五輪峠を西に下った米里側も、なかなか分り難い状況になっている。
   


県道沿線の様子 (撮影 2012.11. 3)
<県道の沿線>
 立派な県道だが、沿線に人家は少ない。広がる田畑の中を進んで行く。道の改修で集落を外れたのかとも思ったが、近くに大きな集落は見当たらなかった。 そこここに、数軒くらいの家々の集まりが見られる程度だ。
 
 この県道はこの先暫くバス路線になっているようで、早池峰バスの看板などが側に見られた。
   

<国道への分岐>
 正面に小高い三角形の山を見て、その前で道が二手に分かれる。県道は道なりに左へと曲がる。そこを右に分岐する道は、小友川沿いを離れ、糠森 峠手前で国道107号に接続するらしい。
 
 その分岐からは小友川の谷が少し狭くなっていて、沿道の田畑の広がりは、暫し姿を消す。

右に分岐 (撮影 2012.11. 3)
   

 

小友川沿いを離れる
  


右に蒻沢への分岐 (撮影 2012.11. 3)
<蒻沢への分岐>
 また県道が鋭く左にカーブする。そこを右に道が一本分岐する。分岐の角には商店らしき家屋が立ち、自販機などが並ぶ。分岐に立つ道路看板には、分岐方向 を指して「蒻沢」(こごみざわ)、県道の続きは「五輪峠」とある。
 
 ここまでの県道は小友川右岸に沿って、ほとんど意思されないが、僅かながらも坂を下って来た。この分岐からは小友川の岸辺を離れ、いよいよ峠に向かって の登り を開始することになる。一方、蒻沢を示す道は、尚も小友川沿いを下り、行く行くは本流の猿ヶ石川沿いに出るようだ。
  
<外山沢沿いに>
 北西方向から南西方向へと直角に進路変えた県道174号は、直ぐに小友川を渡り、その支流の外山(そでやま)沢の右岸を遡る。この付近は「鮎貝」と地図 にある。しかし、正式な住所として、小友町では「地割」というのを使うようだ。「地割」の前に番号を付けて区別する。例えばこの付近の県道沿線は「5地 割」である。やや味気ない。
 
 日は西の山陰に入り掛け、鮎貝集落の街灯が灯り始めた。これから峠の旅をするには、時を逸した感が否めない。左手に神社やそれに隣接して公園のような施 設を見て過ぎると、人家はパッタリ絶え、夕暮れの寂しい道となった。

小友川を渡る (撮影 2012.11. 3)
   

左に外山への分岐 (撮影 2012.11. 3)
<外山分岐>
 道は外山沢の右岸から左岸へと渡る。その橋の手前を左に、「外山」への細い道の分岐がある。直進方向には「江刺」と看板にある。
 
 分岐する外山への道は、そのまま外山沢の右岸沿いにずっと遡り、その沿線に「切伏」と「外山」の集落があるらしい。路線バスもそちらへ向かってしまい、 ここより県道方向 には進まない。県道の方は道は立派だが、その外山沢右岸沿いに遡る道の方に集落が多く、五輪峠の旧道もそちらにあったのではないかと思わせる。
   
   
ゲート箇所以降
  

<ゲート箇所>
 外山沢左岸を遡り始めた県道は、直ぐにもゲート箇所に辿り着く。その手前に小友町側最終と思われる家屋が右手に建つ。大きな建屋なので、会社か何かの倉 庫や工場かもしれない。
 
 五輪峠は冬期閉鎖になるらしい。冬の積雪期間は、この赤いゲートが閉ざされるのだろう。
 
 ゲート箇所以降は路面からセンターラインは消え、1.5車線幅の県道となる(下の写真)。沿道に迫ってきた木々の紅葉が楽しめるようになった。左手に は、外山沢を挟んで右岸に通じる外山集落への車道が望める。ただ、この付近ではまだ人家は見られなかった。

ゲート箇所 (撮影 2012.11. 3)
センターラインもここまで
   


道が狭くなった (撮影 2012.11. 3)

対岸に道を認める (撮影 2012.11. 3)
   

道の様子 (撮影 2012.11. 3)
<余談>
 この日の旅は、朝方少し晴れ間があったが、その後ほとんど曇りで、時折小雨も降る生憎の天気だった。旅の最中の天候は自然現象なのでどうにもならな い。少しくらいの雨なら、これもまた風流と、雨の日の情緒を楽しむくらいの積りでいたいと思う。
 
 しかし、実害がある。写真がうまく撮れないのだ。妻にハンドルを握らせ、自分はカメラを構えるのだが、車を走らせながら撮る写真は、映像が流れてしまう のだ。明るさが足りないので、露光時間が長くなる為である。眺めのいい景色や沿道に立つ県道標識などを写すのだが、後で見ても何が何だか分からない物が多 い。しかも、この日は陽も傾きかけていた。撮った写真の半分以上は使い物にならなかった。
   

道の様子 (撮影 2012.11. 3)
この付近から外山沢右岸へ渡る道があるのでは?

道の様子 (撮影 2012.11. 3)
   

  この後、道は外山沢からその支流の沢内沢沿いへと移って行く。沢内沢の上流部に五輪峠が位置するのだ。五輪峠の旧道があったとしたら、峠から沢内沢伝いに 下って来て、直ぐにも外山沢沿いの切伏集落へと降りていった筈だ。現在の県道からも、切伏へと続く道がまだ残っていたかもしれない。沢山写真は撮ったが、 どれも流 れて手掛かりになるものはなかった。
   

   
沢内沢沿い
   

  道はいつの間にやら沢内沢の左岸沿いになる。川筋からやや離れているので、そのことははっきりとは分らないが、沿道の雰囲気が変わってくる。明らかに谷が 狭まってきた。両側から木々が迫り、路面の枯葉も多くなった。
   


この付近は沢内沢沿いか (撮影 2012.11. 3)

道の様子 (撮影 2012.11. 3)
   

<五輪牧野>
 峠まで残り数100mという所で、沿道の雰囲気が変わる。右手にゲートがあり、その向こうに緑の草原が広がる。五輪牧野と呼ばれる五輪峠の北に広がる高 原である。その地は花巻市になる。旧和賀郡東和町(とうわちょう)の田瀬(たせ)だ。
 
 五輪峠は遠野市と奥州市を結ぶ峠であるが、その直ぐ北側に花巻市をも隣接する。文献にも五輪峠をそれら「3自治体の境界となる」とある。山のピークを「峠」と言い慣わ すすことがあるが、五輪峠は通常のように尾根上の鞍部に位置する。3つの市が、こうした峠の鞍部の一点で接しているケースは、珍しいのではないだろうか。

五輪牧野 (撮影 2012.11. 3)
   


峠の直前 (撮影 2012.11. 3)
<余談>
 それにしても、五輪峠の周辺はみんな「市」になってしまった。花巻市に編入された東和町では、過去に田瀬ダムなどを何度か訪れている。湖畔近くの「いこ いの 森」でキャンプしたこともあった。以前勤めていた会社の先輩が、この町の出身と聞いていた。そのOさんはとてもいい方だった。旅のことも会社のことも、も う遠 い昔のような気がしてきた。
 
<峠間近>
 道は遠野市と花巻市の境界近くを、峠に向かって最後の登りに取り付く。空は開け、開放感が出てきた。道も幾分走り易い。地形が穏やかで勾配が緩く、道幅 も心持ち広い気がする。ただ、この遠野市側には遂に遠望は開けなかった。
   

   
   
五輪峠 (撮影 2012.11. 3)
手前が遠野市、奥が奥州市
右手方面が花巻市になる
  

<峠 の印象>
 現在の五輪峠は、そこまでの1.5車線よりはやや幅の広いアスファルト舗装が、緩やかな坂道でほぼ直線的に峠部分を越えている。切通しも短く浅く、開け た感じだ。 更に峠の奥州市側は、峠の向こうに展望が開け、それも峠の様子を明るいものにしている。訪れた時は生憎陽射し不足で色が映えなかったが、峠を囲む紅葉も楽 しい。こじんまりとした、感じの良い峠である。
   

峠より遠野市側を見る (撮影 2012.11. 3)
道路標識の柱に「五輪峠」と小さな看板がある

遠野市側に立つ県道標識 (撮影 2012.11. 3)
遠野市五輪峠、国道107号まで8Kmとある
   
<看板など>
 峠の沿道には、市境を示す看板や県道標識が完備されている。遠野市側の県道標識には、ここが「遠野市五輪峠」であることと、国道107号まで8Kmであ ることが示されていた。
 
 いろいろ看板などが立つ中で一番目を引くのは、峠の南側に隣接して鉄骨の塔が立っていることだ。電波塔だろうか、開けた空に突き立っている。足元にはそ の関連施設の建屋がある。五輪峠は、上を見上げるとやや異様だが、水平に目を向けているだけなら、物静かな峠である。
 
 さて、あるべき筈の五輪塔が車道脇には見当たらない。側に立つ朽ち掛けた木柱に「五輪峠 五五六米」と書かれていたが、その下の方を覗くと何や ら石 塔が建っていた(左下の写真)。峠の遠野市側(東側)より北へ下る歩道がある。入口には「宮沢賢治詩碑  五輪峠  案内」と題した看板が立っている(右下の写真)。そこを入るようだ。

電波塔? (撮影 2012.11. 3)
   

道の側に「五輪峠」と書かれた古い木柱 (撮影 2012.11. 3)
下の方に五輪塔が建つ

詩碑の案内看板 (撮影 2012.11. 3)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   
   
五輪塔と詩碑
   

歩道側より峠を見る (撮影 2012.11. 3)
<歩道へ>
 何故その場所が選ばれたのか分らないが、車道から下る歩道を少し行った所に賢治の詩碑や石塔などが並んでいた。車道を通過する車からでは気が付かれるこ とはないが、往来する車の喧騒から離れ、落ち着いた場所にある。
   

歩道を下る (撮影 2012.11. 3)

左手に詩碑や石塔が建つ (撮影 2012.11. 3)
   

歩道より峠方向を望む (撮影 2012.11. 3)

左が詩碑、右が五輪塔 (撮影 2012.11. 3)
   
<五輪塔>
 歩道の片側に並んだ一番奥に五輪塔が建つ。なかなか大きな物で、見栄えがする。数えれば確かに五段の石組みである。あのテレビ放送ではこの五輪塔が映し 出されていたのだろうか。
 
 文献では寛永年間(1624年〜1645年)に建てられたとあったが、現在の五輪塔はそれとは異なるようだ。宮沢賢治(1896年〜1933年)がこの 峠を訪れているが、彼が見た五輪塔はもっと小さな物だったとのこと。元あった五輪塔はどこへ、そして現在の五輪塔はどの様に建立されたかは分らない。
 
 五輪塔は供養塔や供養墓として建てられる物だそうだ。仏教でいう「地水火風空」の五大を表すとのことで、石造の下から順に地輪、水輪、火輪、風輪、空輪 となる。去年なくなった母の葬儀や法要では卒塔婆(そとば)が墓に供えられたが、五輪塔を薄い板で簡略した物が卒塔婆との解釈もあるようだ。

五輪建立の石碑と五輪塔 (撮影 2012.11. 3)
   

五輪建立の石碑 (撮影 2012.11. 3)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
<五輪建立の石碑>
 五輪峠の左に並んで小さな石碑がある。題字に「五輪建立」とある。戒名(法名)らしき文字も刻まれていて、文化十二年(1815年)の日付がある。横に 並ぶ大きな五輪塔と関係する物かとも思ったが、どうやら別の供養塔らしい。形は五重ではないが、この石碑も五輪塔と呼ばれるのだろうか。
 
 峠名の由来ともなった日向が建てた五輪塔は、正確には文献では「五輪」と出ている。「」とは言っていない。小さな物だったということもあり、多 分、 この石碑のような素朴な物だったのではないだろうか。
 
 現在峠に立つ五輪塔は立派な物だが、宮沢賢治はこれを見ていないこともあり、賢治以降、昭和8年以降に建立された比較的新しいものか。
   
<五輪牧野記念碑>
 墓誌に見られるような石碑と、その横に案内看板が並んで立つ。「五輪牧野記念碑」とある。これが宮沢賢治詩碑「五輪塔」らしい。昭和55年(1980 年)8月の建立とのこと。
 
 詩碑には賢治の詩が刻まれている。五輪峠の風情を詠ったものだ。詩中に「地・水・火・風」はあるが、最後の「空」がないのが気に掛かる。しかし、詩の後 半は五輪峠の空を詠っている。峠から眺める空の広がりを感じさせる。それは今も変わらない。賢治が五輪峠を越えた時は「みぞれ」が降っていたのだろうか。今回の旅はまだみぞれの時期 には早いが、それでも黒い雲が覆う時雨(しぐれ)の峠である。
 
 賢治が見た「苔蒸す塔」とは、寛永年間に建てられ た元の五輪塔(石)だろう。現在、五輪塔や詩碑が立つのは遠野市側だが、元々の五輪塔は奥州市側にあったそうだ。「苔蒸す塔のかなたにて」とあるが、そこに見えていた景色は奥州 市側のものであろう。

賢治詩碑 (撮影 2012.11. 3)
   

五輪牧野記念碑の看板 (撮影 2012.11. 3)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)

五輪牧野記念碑 (撮影 2012.11. 3)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   

遠野市側に下る道 (撮影 2012.11. 3)
<遠野市側の旧道>
 五輪塔を過ぎた後も、歩道は下へと続いていた。五輪峠は遠野市と奥州市との境だが、花巻市との接点でもある。歩道はほぼ遠野市と花巻市との境界近くを行 くようだ。これが五輪峠の旧道ではないだろうか。現在の車道は市境の南をやや迂回して開削されているが、旧道はその部分を短絡していたものと思う。
 
 ここが峠道の旧道なら、賢治は正にここを歩いて峠を越えたのだ。賢治は花釜線(現釜石線)の鱒沢(ますさわ)駅方面から、鮎貝、切伏と辿って五輪峠に到 達しているそうだ。現在の県道は切伏へ直接は下っていないが、その途中では旧道と重なる部分もあるだろう。
 
 残された旧道沿いに五輪塔や詩碑が佇んでいると思うと、味わいもまたひとしおである。
   
   
峠の奥州市側
  

<峠の奥州市側>
 峠を西の奥州市側に入ると、その先で車道は右にカーブして行く。道が横にそれた正面には奥州市側に展望が広がる。その格好の展望所となる位置に、車を停 められる敷地 が設けてある。
 
 この峠からの景色はここに車道が通じた今も変わりがないことだろう(下の写真)。峠直下には北上川の支流・人首(ひとかべ)川源流の川が流れ下る谷が口 を開けている。谷の先には北上山地の西麓に広がる山々がまだその裾野を伸ばしている。そしてその向こうには北上盆地が時雨の空模様に霞んで覗く。この峠 が水沢や北上、賢治の故郷・花巻などからは遠く隔たった地に思えてくる。今夜の宿が北上にあることを思うと、気がはやる思いだ。

峠より奥州市側を見る (撮影 2012.11. 3)
正面に展望が広がる
道路脇には格好の展望所ともなる空き地がある
 
五輪峠から奥州市側に広がる景色 (撮影 2012.11. 3)
五輪峠の峠道一番の眺め
    

峠から奥州市側に下る道 (撮影 2012.11. 3)
<看板など>
 峠の先では、再び幅が狭くなった県道が、奥州市江刺区内を下って行く。市境を示す看板が道路上に掲げられている。片側には「奥州市」、その裏には「遠野 市」 とある。この看板がある所が本当の市境となるのだろうか。峠のピークとは少しずれているが。
 
 県道標識には「江刺区五輪峠」とある。人首(ひとかべ)へ8.5Kmともある。これは、下を走る県道27号までの距離ではなく、県道27号を更に南に 行った人首町までのものと思う。峠から県道27号までは5Km程で、遠野市側の8Kmと合わせると、約13Kmの峠道となる。
   

市境の看板と県道標識 (撮影 2012.11. 3)

県境標識 (撮影 2012.11. 3)
  
  
奥州市側にある竣功記念碑など
  


奥州市側より峠を見る (撮影 2012.11. 3)
「遠野市」とある市境看板

奥州市側より見る峠 (撮影 2012.11. 3)
写真の中央付近に竣功記念碑が建つ(見え難いが)
右端に「賢治と五輪峠」の看板
   
<竣功記念碑>
 峠の少し奥州側の車道脇に、「五輪峠」と書かれた石碑がある。昭和32年、この五輪峠に車道が開通しているが、その時の開通記念碑だろう。碑に刻まれた 字体が難読なのだが、多分、次のようにあるものと思う。
 
 五輪峠
 竣功記念
 遠野江刺線
 昭和32年11月3日 遠野市江刺町道路組合
 
 旧江刺町は昭和33年に江刺市になっているので、車道開通当時はまだ町であったことがうかがえる。

竣功記念碑 (撮影 2012.11. 3)
   

「賢治と五輪峠」の看板 (撮影 2012.11. 3)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
<「賢治と五輪峠」の看板>
 竣功記念碑の近く、奥州市側の展望広場の一角に「賢治と五輪峠」 と題した看板が立つ。「賢治街道を歩く会」によるものとのこと。五輪峠の歴史などの参考になる。
 
 江戸期まで、五輪峠は盛岡藩領鱒沢と仙台藩領米里の藩境であった。麓には各藩の関所も設けられていた。看板にもあるが、この峠を舞台にいろいろ な戦が繰り広げられいる。五輪塔という供養塔があることからも、やや暗いイメージのする峠である。テレビで聞いたあの曲もどこか悲しげであった。五輪峠に は みぞれや時雨が似合う。
   
<奥州市側の旧道>
 奥州市側の展望広場の車道とは反対側に、木製の急な階段で下る山道が始まっている。階段の入り口には、積雪時の目印にする物か、赤色と白色が交互になっ たポールが2本並んで立っている。それ以外、付近に何の案内看板もない。しかし、これが多分奥州市側旧道の入口だろう。階段を降りた先は、南西方向へと山 道が続いている。北西へと下る県道とは方向が異なっている。

奥州市側の旧道入口 (撮影 2012.11. 3)
  


遠野市側の旧道入口より峠を見る (撮影 2012.11. 3)
<交差する新旧の道>
 左の写真は五輪塔などがある遠野市側の旧道入口から峠を見たものだった(再掲)。アスファルト道の向こうに黄色いパジェロミニが停まるが、その左手奥か ら奥州市側の旧道が始まっている。旧道の峠は、この写真で見る方向に通じていたのではないだろうか。新旧の峠道は峠で交差している。
 
 峠に新道が通じたのは昭和32年とのことだが、単に旧道を拡幅するという工事ではなく、旧道とは異なった方向に新しい道が通じたらしい。峠の変貌はさぞ かし大きかったことだろう。
  

  現 在、アスファルト舗装されている車道部分がほとんどなく、遠野市と奥州市それぞれの旧道入口を繋ぐ細い山道が通じるだけの様子を想像してみた。それが、古 い五輪峠の姿なのではないだろうか。
 
 賢治の詩の中に「ほそぼそめぐる風の道」とある が、現在の車道の五輪峠からはそのような様子はうかがえない。しかし、元の五輪峠はそれこそ細々とした山道が一本通じるだけの峠だったのだろう。「ほそぼ そめぐる風の道」との表現は、正に賢治が歩いて越えた当時の五輪峠そのものを詠ったのであろう。
   

   
奥州市側に下る
   
<米里の地>
 五輪峠の西側は、現奥州市、旧江刺市になる。地区名では米里(よねさと)となる。明治22年から昭和30年までは米里村であった。人首川の上・中流域の 山地に位置する。昭和30年から江刺町の地区名、昭和33年から江刺市である。江刺町は僅かな期間であったが、その間に五輪峠に新道が通じている。
 
<人首>
 「人首」の名は河川名などに残るが、米里村の前身は江戸期の人首村(人こうべ村)である。坂上田村麻呂が「人首丸」と呼ぶ人物を討ったことにちなむと か。明治期、「人首」の名を忌み嫌って改称した。この地の古名「米の郷」に復して「米里」となったそうだ。

峠を奥州市側に下る道 (撮影 2012.11. 3)
  


開けた箇所を過ぎる (撮影 2012.11. 3)
 現在、県道標識などに出て来 る地名の「人首」とは、奥州市江刺区米里人首町(ひとかべまち)であろう。人首川本流沿いに通る県道8号沿線の地だ。県道27号が県道8号に接続する近 くである。
 
<県道174号の様子>
 奥州市側の道は、全般的に開けている。峠からの眺めも良かったが、五輪峠の奥州市側は開放感がある道だ。また、沿道の木々の紅葉もいい。しかし、雨混じ りの曇り空の上に、夕暮れが迫ってきている。撮った写真はどれも使い物にならなかった。
   

<県道の行き先>
 道は峠より概ね西へと進み、米里の大谷地(おおやち)で県道27号に接続することになる。
 
 一方、五輪峠を越えた賢治は、「上大内沢を経て、人首町方面へ歩 いて行った」ものと「賢治と五輪峠」の看板にある。それが当時の五輪峠の道筋なのだろう。県道の行先にも「人首8.5Km」などと看板にあ り、現在も五輪峠の西側の起点は、人首町であるように思える。
 
 今の峠道は、県道174号から一旦県道27号を経由し、県道8号に接続、紆余曲折の上、人首町に至ることになる。それに、上大内沢(かみおおうちさわ) は経由しない。

沿道の紅葉 (撮影 2012.11. 3)
  

<旧 道の道筋>
 峠では新旧の道が交差していたが、峠の西側(奥州市側)では、全く道筋を異にするようだ。
 
 上大内沢は大谷地の約1.5Km南に位置する。峠より南西方向に流れ下る人首川の支流沿いに見える地名だ。旧道は、峠に架かるあの階段を下り、その直下 の人首川支流の源頭部へ降り立ち、そのままその支流沿いに北新田、上大谷地の集落を過ぎ、本流の人首川へと出ていたのだろう。峠と人首町をほぼ一直線に結 ぶ経路である。
 
 地図を眺めると、県道27号から分かれて人首川支流沿いに峠の近くまで車道が通じている。これがほぼ旧道の道筋だろう。ただ、その川沿いの道が途切れて から先、峠 までは空白地帯である。地形図などでも点線すら描かれていない。峠の階段の先は歩ける状態なのだろうか。
   

   
沿道が開ける
   

伐採箇所に差し掛かる (撮影 2012.11. 3)
<新道の道筋>
 奥州市側の県道は、賢治とは全く関係ない峠道だと思うと、やや味気ない。しかし、そのお陰で旧道がそっくりそのまま残される可能性もある。
 
 新道開削の折は、旧道の道筋が一気に川筋へと下っていたので、車道を通すには適さないと判断されたのではないだろうか。現在の県道174号は、南の人首 川水域と北の猿ヶ石川水域を分かつ尾根近くを下る。川筋とは無縁なので、開けた感じがする筈である。
   

<右 手に視界が広がる>
 右手に伐採箇所を見ると、その先で道の右側に視界が広がった。ちょっとした高原のような雰囲気もある。見えている景色は、猿ヶ石川水域のものとなる。
 


右手に視界が広がりだす (撮影 2012.11. 3)

高原のような雰囲気があった (撮影 2012.11. 3)
   
<人家が出て来る>
 広々とした所からまた暫し林の中の道となる。左手に人家が僅かに見られた。林間に畑などものぞく。大谷地の集落に入ったものと思う。県道27号に出るの も時間の問題だ。

暫し林の中 (撮影 2012.11. 3)
   
   
県道27号へ
   

正面に県道27号が通る (撮影 2012.11. 3)
<県道27号に接続>
 峠道の終点はちょっと寂しい。県道174号沿いにも、突き当たった県道27号沿いにも、ほとんど家屋が見られない。やはり後の世に本線となった峠道であ る。昔からの人家が軒を連ねるような集落内は通っていなかった。分岐の角にはポツンとバス停があった。「米里大谷地」とある。それに並んで公民館らしき家 屋 が建つばかりだ(下の写真)。
 
 県道27号はこの付近を南北に通る幹線路である。主要地方道の格で江刺東和線と呼ぶ。道路標識には、左(南)へ「水沢・江刺」、右(北)へ「北上」とあ る。人首町へは左に進む。今宵の宿の北上は右だ。
   
 
 この県道の接続点は、僅かながら人首川の水域に戻って来ていた。県道27号を右に進むと、ちょっとしたピークを越え、間もなく猿ヶ石川の支流沿いに下る ようになる。その川は猿ヶ石川本流を堰き止めた田瀬ダムの田瀬湖に注いでいる。思えば、五輪峠の遠野市側も猿ヶ石川の水域に属していた。言ってみれば、こ の場所も一つの峠であるが、辛うじて人首川の水域側に寄っていることになる。

県道27号沿いにあるバス停 (撮影 2012.11. 3)
その奥の家屋は公民館か
   
  
   
  五輪峠は小さな峠道で、旅の都合によっては訪れることもなかっただろう。峠道自体は、図書館まで往復する道の1/4程度に過ぎないが、北上山地西麓の奥深 い所に位置する。五輪峠を越えた後、北上駅近くのホテルに辿り着くまでの方がよっぽど暇が掛かった。なかなか旅程が組み難い峠なのである。
 
 それでも、後になって越えて良かったと思える峠でもあった。五輪塔が佇む、どこか物悲しい峠は性に合った。例の曲の旋律もそうだ。こうなったら禁断の段 ボール箱を開き、片っ端からビデオテープを調べてみたい衝動に駆られる、五輪峠であった。
   
  
   
<走行日>
・2012.11. 3 遠野市→奥州市 パジェロミニにて

<参考資料>
・角川日本地名大辞典  3 岩手県 昭和60年 3月 8日発行 角川書店
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒ 資料
 
<1997〜2013 Copyright 蓑上誠一>
   
峠と旅         峠リスト