峠と旅
上日川峠
 
かみにっかわとうげ/かみひかわとうげ
 
ダムの建設で変貌した峠道
 
    
 
上日川峠 (撮影 2005. 5.29)
手前は山梨県塩山市・裂石方面
奧は同市・上日川ダム方面(大和村方面)
標高は約1,570m(地形図より読む)
道は県道201号・塩山停車場大菩薩嶺線と
県道218号・大菩薩初鹿野線(旧日川林道)
左に長兵衛山荘、右手前に駐車場がある
 
    
 
 この場所が峠だったとは、その時までそんな認識は全くなかった。ここは長兵衛山荘のある大菩薩峠(だいぼさつとうげ)への登山中継点という理解だった。過去に2回ほど山荘の脇より始まる登山道を大菩薩峠へと登った経験がある。ところが2002年の11月、1泊2日で山梨県の旅に出掛けた折に車でちょっと寄ってみると、道路脇に「上日川峠」と書かれた標柱が立っているではないか。「峠」という文字には敏感である。車を降りてこの上日川峠をいろいろ写真に収めたのだった。
 
 そしてまた、今年(2005年)の5月に上日川峠を訪れる機会があった。その時に撮った写真なども含め、ここで峠道を辿ってみようと思う。
 
    
 

裂石の分岐 (撮影 2005. 5.29)
手前が柳沢峠方向、前方が塩山市街方向
ここを左に入る
<裂石より>
 
 上日川峠への道は国道411号・青梅街道の裂石(さけいし)より始まる。東京方面からだと奥多摩を通って丹波山村も抜け、塩山市に入って柳沢峠も概ね下って来た頃に、左の写真の様な分岐が出てくる。最近、柳沢峠の道は大規模に付け替えられ、空中を舞うような高い橋の連続だが、この裂石の分岐付近からは、まだ昔ながらの狭い国道で、「大菩薩峠」と大きな看板がなければ、分かり難い狭い分岐のままである。
 
 分岐にはまた「雲峰寺(うんぼうじ/うんぽうじ)400m」という標識もある。この寺はここの地名である「裂石」のいわれと関係が深い。ここでは詳しいことは省くが、その裂石なる物がまだ現存するのだ。2002年に訪れた時、その石を是非見ようと雲峰寺に寄った。すると、境内にはどこにもそれらしき石が見当たらない。近くの茶店で聞いたら、国道の雲峰寺とは反対側にあるとのこと。国道沿いをよくよく調べると、塩山市の教育委員会による小さな案内看板が立ち、木立の中にその石は見つかった。なかなか大きく立派な物だった。罰当たりにもその石によじ登り、友人と2人でふざけあってしまった。
 
 国道から分かれ、今は県道201号に昇格した上日川峠への道に入ると、直ぐ左手に案内看板が昔から立っている。裂石は大菩薩峠や大菩薩嶺への登山口であり、その案内をする看板だ。今は下の写真のように新しくなり、そこで特に目を引くのは近年完成した上日川ダムである。よくよく見れば、この看板にも「上日川峠」と書かれているのだが、写真を撮りながら、それには全く気づかなかった。
 
裂石に立つ登山案内の看板 (撮影 2002.11.17)
 
<裂石から先>
 
 峠への道は、僅かな集落や左手の雲峰寺を過ぎ、芦倉川沿いに細々と続いていく。路線バスがないので、マイカーやタクシーを使わない登山者は、この道を歩いて登る。道幅が狭く休日などはリュックを背負った登山客が多いので、車の運転には注意が必要である。
 
 思えば1983年の夏、この道を歩いて上日川峠に登り、更に大菩薩峠を越えて丹波山村へと下ったことがある。まだ、バイクや車の免許を持っていない頃の話しだ。早朝に登山靴のまま家を出て、中央本線で塩山駅に降りると、裂石行きのちょうどいい便のバスがない。裂石より更に2Km程手前の二本木行きがあったので、それに乗った。二本木からは丹波山村のバス停まで歩き通したのだ。今考えるとゾッとする。よくそんな体力があったものだ。

裂石からの道 (撮影 2002.11.17)
峠方向を見る
 

冬期閉鎖の看板 (撮影 2002.11.17)
 上日川峠を越える車道は、県道に昇格してから冬期閉鎖が明確になった。裂石の集落を抜けた先で、看板が出ている。裂石から上日川峠までをA区間、上日川峠から上日川ダムまでをB区間とし、2002年に訪れた時は、次のように出ていた。
 
 A区間通行止期間:平成13年12月15日から
             平成14年 3月31日まで
 
 B区間通行止期間:平成14年 1月21日から
             平成14年 3月31日まで
 
 昔はB区間の方が未舗装の険しい道だったが、上日川ダムができた今では、B区間の方が冬期閉鎖が短いというのが驚きである。
 
<峠への登り>
 
 道は芦沢川の渓流を離れると、林の中の急坂急カーブに差し掛かる。1992年の初冬に再び大菩薩峠に登ったことがあった。この時は既にジムニーを持っていたので、裂石よりジムニーで上日川峠に向かった。一度歩いて勝手知ったる道である。マイカーの何と便利なことか。歩いている登山客を横目にスイスイ進む。
 
 ジムニーは普通の道なら1速は使うことがなく、2速発進で十分である。それ程ギヤの設定が低くなっている。すると、急坂急カーブを上り始めると、3速に入れることができなくなった。ずっと2速で、しかもアクセルをかなり踏み込まないと停まりそうである。エンジンは高回転を続ける。騒がしい音に登山客が振り返る。こんな負担をエンジンに掛けなければ登っていかないのかと、驚くばかりだった。ジムニーを買ってまだ1年余りの経験だった。

林の中の道 (撮影 2005. 5.29)
 

裂石方面を見下ろす (撮影 2002.11.17)
 苦しい急坂を暫し我慢すると、勾配も落ち着き、木立が途切れて視界も広がりだす。途中で登山道が車道から分かれるので、その先は歩いている登山客はいない。上日川峠まで車道としての峠道となる。
 
 車窓よりこれまで登ってきた裂石方面が時折顔をのぞかせる。なかなか谷が深く険しい道である。また上を見上げれば、更なる九十九折りが待ち構えている。これはまさしく峠道以外の何物でもない。過去に何度かここを走っていながら、この峠道らしい風景に十分気が付かなかったとは情けない。
 
 景色はいいのだが、道幅は狭く途中で車を停めて眺めを堪能する場所は少ない。それに、登山日和の午前の早い時間帯などは、登山客の車が多く走っている。登山客は上日川峠の峠道を楽しむなんて積りはなく、早く長兵衛山荘まで行き着こうと脇目も振らずに車を飛ばす。逆に、中にはサンデードライバーもいて、慣れない九十九折りに車速は上がらない。すると、遅い車を先頭に4、5台の車列ができ上がり、蛇の様にうねって峠道を登って行く。時にはマイクロバスも走る。
 
 そんな中、サンデードライバーよりもノロノロ走ったり、狭い路肩に車を停めてゆっくり景色を眺めようなんて、迷惑でなかなかできる訳がない。写真を撮りたいと思った景色が見えても、泣く泣く素通りしてしまう。上日川峠の峠道を楽しむなら、訪れる時間を考えた方がいいようだ。

途中の様子 (撮影 2002.11.17)
 

途中の景色 (撮影 2005. 5.29)
 マイカー以外にもタクシーがまた多い。上日川峠で客を降ろしたタクシーが頻繁に下って来る。カーブではクラクションを鳴らし、対向車に注意を促している。こちらもカーブミラーで相手のタクシーが見えているので、端によって減速する。すると、それをいいことに、タクシーはほとんど減速もせず、こちらが空けたスペースを使って素早く走り抜け、一方こちらは置き去りである。登りが優先というマナーにも反している。
 
 こちらは遊びであちらは仕事、早く塩山駅に戻って次の客を取りたいのは分かるが、同じ車を運転するドライバー同士としては、ちょっとフェアーじゃないと感じる。
 
    
 
<峠>
 
 景色が広がる九十九折れを登り切り、林の中をちょっと進むと、ふと左手に建物が現れ、開けた所に出る。そこが峠だ。ここは大菩薩峠登山の一大中継地であり、登山客はここに車を置いて歩き出す。建物は長兵衛山荘で最近では「ロッヂ長兵衛」と呼ぶらしい。建物の正面に道を挟んで駐車場があり、休日ともなるとマイカーで溢れ返っている。
 
 ロッヂ長兵衛 (撮影 2005. 5.29)
建物の正面にある駐車場より見る

初冬のロッヂ長兵衛 (撮影 2002.11.17)
 
<長兵衛山荘>
 
 今から20年以上も前に歩いてこの峠まで来た筈だった。古いアルバムを調べて見ると、何やら古めかしい小屋が写っていた。良く見ると長兵衛山荘である。如何にも「山荘」という名がふさわしい。駐車場もまだ舗装されていなかった。
 
昔の長兵衛山荘 (撮影 1983. 8.20)
 
 「長兵衛」という名は、現代人からするとほのぼのとした名に思えるが、次の様なちょっと怖い由来があるそうだ。
 
 安政の時代に上日川峠に長兵衛なる山窩(さんか)が住んでいた。山窩とは、山奥や川原などにテントや小屋がけをし、竹細工や狩猟などで生活を送る人々を指す。長兵衛の場合は旅人相手にわらじを売ったり湯茶をもてなしたり、時には仮泊の面倒をみて生計を立てていた。しかし、金を持っていそうな旅人が来ると、その者を殺してまで金品を奪うのであった。
 ある日、いつもの様に旅人を殺すと、長兵衛は死体を埋めるのが面倒で、谷に転げ落としておいた。予てより、大菩薩山中で行方不明者が出ていたことに目明しが目を光らせていて、その死体が元で長兵衛は御用となった。

ロッヂ長兵衛 (撮影 2002.11.17)
 

大菩薩峠への登山道 (撮影 2005. 5.29)
ロッヂ脇から始まっている
 長兵衛が処刑された後も、長兵衛の建てた小屋は、上日川峠の代名詞として「長兵衛小屋」と呼ばれた。その後の山の愛好家達の手による長兵衛小屋も、更に後に建てられた長兵衛山荘も、山窩長兵衛が由来なのだった。
 
 今はロッヂ長兵衛と名を変えた元の長兵衛小屋は、洒落た建物に生まれ変わり、最近とみに増えた登山客で大いに賑わっている。そして誰もがここが上日川峠という名の峠であるというより、長兵衛山荘(ロッヂ)がある大菩薩峠への中継地だという認識を持つ。上日川峠の名は山窩長兵衛のお蔭で、影が薄い存在になったのであった。
 
<峠の読み方>
 
 ところで、「上日川峠」の「上日川」は、「かみにっかわ」なのか「かみひかわ」なのか、ちょっと迷う。峠の東を流れ下る日川は「にっかわ」と言い慣わされている。「かみにっかわとうげ」とルビを付された資料も見掛ける。よって多分、「かみにっかわ」が一般的だったのかと思う。
 
 しかし、最近できた上日川ダムは「かみひかわだむ」と読ませる。同じ名前を持つ峠とダムで、読み方が違うのも変である。それに、今の人には「にっかわ」より「ひかわ」の方が馴染み易い様に思う。その内、「かみひかわ」が全盛の時代になるような気がする。
 
<峠からの眺め>
 
 ロッヂ長兵衛の前は駐車場があったりして開けているが、眺めのいい場所ではない。駐車場の端よりちょっと遠望が利きそうだが、それも木々により遮られている。わざわざ立ち寄って眺める程のものではない。以前はもっと視界が広がったような気がするが、それだけ木々が生長したのだろうか。

駐車場からの眺め (撮影 2005. 5.29)
 
<道の分岐>
 
 峠からは道が幾つか分岐して、やや複雑である。峠から県道の続き方向(上日川ダムに下る方向)を見ると、まず左手の、ロッヂの直ぐ右脇を大菩薩峠への登山道が始まっている。この道は一般車両は通行止だが、小さな車なら通れるだけの道幅がある。何しろ、大菩薩峠の頂上にジムニーが停まっているのを見たことがあるのだ。
 
 また、右手に車道が分岐している。車道は直ぐに通行止で、そこにも駐車場があるらしい。また、その車道の途中より、石丸峠への登山道が始まっている。
 

上日川ダム方向から峠を見る (撮影 2005. 5.29)

峠より上日川ダム方向を見る (撮影 2005. 5.29)
右の道は駐車場と石丸峠への登山道
 

峠を示す標柱 (撮影 2002.11.17)
石丸峠への登山道入口に立つ
<昔の峠道>
 
 以前来た時、その石丸峠への登山道入口で、「上日川峠」と書かれた木製の標柱を見掛けたのだった。昔の峠道は、今の県道の道筋ではなく、この石丸峠へと下る登山道に一致していたようだ。だから峠の標柱が立つ位置としてはここが正しいのだろう。その道は途中に大菩薩館なる建物があり、車も通れたと聞くから驚きである。現在の登山道入口から眺める様子からは想像もできない。
 
 後に日川林道が峠から東方の高み、日川の源頭上部を遠回りするように開削され、現在の県道へと受け継がれている。今の車道を走ると、上日川峠が峠に思えないのはその為だった。峠を過ぎても暫く道は登っているのだから。
 
    
 
<上日川ダム方面に進む>
 
 峠から県道の続きを進む。多分、峠をほぼ境に県道番号が201から218に変わるのだろうが、県道を示すはっきりした道路標識は見当たらない。以前は峠を過ぎると間もなく林道らしい未舗装になったが、今は全線舗装である。右手にこれも新しくなったトイレがあり、それに続いて路肩は駐車場となっている。休日ともなるとそこも登山客の車で溢れ、車を停める場所を探すのに苦労する。
 

車が並ぶ (撮影 2005. 5.29)
(峠方向に見る)

まだまだ並ぶ (撮影 2005. 5.29)
 
 でも、その駐車場を過ぎてしまえば、静かな道となる。全線が舗装されても大菩薩峠登山のアクセス路としては、国道20号の大和村側から来るより、裂石から登る方がやはりポピュラーなのだろう。裂石側に比べて車の往来はずっと減る。タクシーもここまではやって来ない。
 
 国道20号から峠を越えて411号へと抜けられるこの道は、ちょっとした周遊道路として以前より魅力があった。特に嵯峨塩鉱泉(さがしおこうせん)付近から始まって峠に至るまで続いていた未舗装の日川林道が印象的だった。日川にぴったり寄り添って狭い砂利道が細々と続き、寂しい程だった。

峠を過ぎると明るい木立の中の道となる
(撮影 2005. 5.29)
 

上日川ダムの碑 (撮影 2002.11.17)
 ところが、10年程前に大和村側からジムニーを走らせて来ると、道は相変わらずの砂利道なのだが、川沿いから離れて山肌を登りだす頃、左手に広がる谷間の様子が何だか変である。道に沿って金網が設けられ、その向こうで大規模な工事が進んでいるようだった。
 
 次に訪れた時(2002年11月)は、舗装路の先に水を満々とたたえた湖が出現していた。あっという間の出来事だった様な気がする。
 
 この付近一帯は葛野川発電所関係の建設で近年大きく変貌していた。日川の東に連なる小金沢連嶺の向こう側でも葛野川ダムが造られ、大峠や松姫峠の峠道が変わったのを既に目にしていた。2つのダムは水路でつながり、日川水系を堰き止めて造られた上部ダムは上日川ダムと名付けられ、その湖は大菩薩湖と命名されたのだった。
 
<分岐>
 
 上日川峠の日川側は、県道よりいろいろな道が分岐している。まず左に土室日川林道が分岐する。入ったことはないが、案内図からすると行止りの林道の様である。次に日川水系の源頭部を跨ぎ、左岸沿いを下り始める頃、上日川峠から始まっていた石丸峠への登山道が車道を横切る。大菩薩峠に連なる稜線上に位置する石丸峠へは、ここより東へと山道を登って行く。
 
林道土室日川線の看板より (撮影 2005. 5.29)
 
 次に湖の上流部で今度は右に砥山林道(とやまりんどう)が分岐する。この道は湖の上部で右岸をかすめた後、日川尾根の頂上近くの高みを進み、湖の下流で再び県道に降りて来る未舗装の林道だ。
 
 地図を見ると、上日川峠より延びてくるこの日川尾根上には、他に中日川峠、下日川峠というがあることになっている。砥山林道を走りながらそれらの峠の所在がつかめないかと思ったが、ダメだった。林道途中では更に幾つかの分岐があり(下日川峠林道など)、それらの先にあるのかもしれない。
 
 砥山林道分岐を過ぎて更に下ると、左に日川林道や一の平林道が分岐していることになっている。今の県道の元が全て日川林道かと思ったが、どうも事情は複雑そうで良く分からない。嵯峨塩裂石林道という呼び名もあることだし。

大菩薩湖 (撮影 2005. 5.29)
正面に上日川ダム (砥山林道途中より)
 
 県道からダムサイトへ降りる道もある。ダムサイトは駐車場にトイレや記念碑がある。私が訪れた時にはまだ完成したばかりで、ダムのパンフレットが置いてあり、記念に持ち帰った。
 
 ダムより下流は日川の右岸に沿う道で、この付近は昔の面影を残している。日川の河原は狭く、車で川に降りられる所は少ない。ちょっと車を停めるにも、なかなか広い場所がなく苦労する。
 
 途中で右から砥山林道が急坂で降りて来る。代わりにその次には嵯峨塩深沢林道が分岐している。この道は比較的新しく開削されたようで、勝沼町へと抜けていた。
 
    
 

大和村の木賊集落付近
 日川小屋や嵯峨塩鉱泉を左に見て過ぎると塩山市から大和村へと入る。最初に現れる木賊(とくさ)の集落は比較的大きく、ここまで来ればもう険しい峠道も終わったという感じである。逆に大和村側から峠に向かう時は、この先に待ち構えている未舗装林道に身構えたものだった。
 
 木賊では日川に形成された竜門峡を眺めたり、柄にもなく県道脇に建つ栖雲寺(せいうんじ)を訪れたりしたことがある。栖雲寺には畳敷きの無料休憩所があり、境内の裏山にはごつごつした岩が点在する景観が広がり、なかなかいい所であった。
 
 県道は初鹿野(はじかの)に入ると、左手に景徳院(けいとくいん)を見て過ぎ、間もなく国道20号・甲州街道に出て終わる。
 
 上日川ダムの完成と共に完全舗装となった上日川峠の峠道だが、代わりにダム湖周辺に見所や散策場所が増えた。また山梨県では林道整備が進んでいるようで、嵯峨塩深沢線など行止りではない林道もでき、いろいろなルートのバリエーションが楽しめそうだ。林道分岐点には詳しい林道案内図が載った看板が立ち、どの道も心を引かれる。木賊の集落からも北方に焼山(沢)真木林道が走っていて、一度入ったがどこまで続いているのか分からず、途中で引き返してきた覚えがある。この付近はまだまだ探索し尽せないエリアだ。
 
 東京方面から国道20号・甲州街道を走って新笹子トンネルを抜け出て来ると、その直ぐ先に県道218号の分岐がある。国道をそのまま勝沼の市街へと走るより、ついついこの上日川峠へ続く道に曲がりたくなってしまうのだった。
 
    
 
<参考資料>
 昭文社 関東 ツーリングマップ 1989年1月発行
 昭文社 ツーリングマップル 3 関東 1997年3月発行
 昭文社 県別マップル道路地図 山梨県 2002年5月発行
 国土地理院発行 2万5千分の1地形
 角川 地名大辞典 山梨県
 昭文社 山と高原地図23 大菩薩連嶺 昭和58年3月発行
 
<制作:2005. 7.18 蓑上誠一>
  
    
 
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